『ある少年の告白』



原題『Boy Erased』。タイトル通り、オープニングでタイトルを構成している文字が消えていっていた。
監督は『ザ・ギフト』も良かったジョエル・エガートン。もう俳優だけに留めておくのは勿体ないくらい今回も良かった。ちょっとトリッキーなカメラワークも所々に見られました。本作でも俳優としても出演している。
今回が初主演というのが少し意外だったルーカス・ヘッジズ。父母役にラッセル・クロウとニコール・キッドマン。グザヴィエ・ドラン、ジョー・アルウィンも出ています。
『ビューティフル・ボーイ』でも驚いたが、本作も同じく実話だった。実在の父がラッセル・クロウと似ていてびっくりした。

以下、ネタバレです。











予告編を見る限り、同性愛者を矯正する施設に入れられた青年と両親の親子の話ということで、少し『ビューティフル・ボーイ』にも似ているのかとも思っていた。けれど、本作は予告編にない要素としてキリスト教の信仰の話も関わってきていた。
つまり、『ビューティフル・ボーイ』が離婚はしていても、息子を大切に想う両親の話だったのに対して、本作は信仰と性的嗜好と息子への愛が合わさって、より複雑になっている。
しかし、私は無宗教だし、信仰に関しては感覚的にはわからないので100パーセント理解できたわけではないと思う。

実話で本作の主人公であるジャレッドはニューヨークタイムズ紙に矯正施設の内部暴露を寄稿したとのことだけれど、アメリカには未だに矯正施設があり、70万人がそこに入れられているという。
映画を見る限り、キリスト教関連の施設のようだったが、そこにいるサイクスはキリスト教徒なのかもわからないし、カウンセラーの資格も持っていないようだった。
人のセクシャリティが矯正できるものではないのは、普通に考えればわかることだが、私の普通と、映画内(というか、実話なので実在でもある)の人々の普通が違うようだ。一応、聖書を使ってだけど叩いていたし、「悪魔よ、去れ」などと言っていたけれど、要は暴力によって抑圧されていた。
収容されている若者たちも実態がわかっているから、その施設から出るために自分に嘘をつく。異性愛者になったと見せかける。
しかし、ジャレッドは自分に嘘がつけない。母親の理解を得て迎えにきてもらい、施設を抜けて暴露本を出すことになるのだ。
でも、そううまくはいかない若者は、結局、嘘をついて施設を出たところで、隠れて生きて悩むことになる。施設の中で偽ることも逃げ出すことも両親の理解を得ることもできなかった若者は、自殺をすることになってしまう。自殺率も高いのだそうだ。当たり前だ。隔離された場所で自分を否定されるのだから。

ジャレッドが同性愛者であることが両親に知られた時に、母親は何も言わずに、面倒は起こさないでという顔をしてジャレッドを見つめていた。母親もまた、キリスト教の家父長制の中で抑圧されていたのだ。
日中は施設に入っている息子を抱きしめるシーンがあるが、後ろ向きの母の表情が見えずに、鏡に映し出されているのがおもしろかった。母の迷いがうかがえるカメラワークだった。
息子が施設から助けを求める電話をかけてきて迎えに来た時、施設の人間を「恥を知りなさい!」と罵倒するが、その後、「私もね…」とぽつりと言って、自分が間違えていたと即座に認めるシーンに泣いた。ニコール・キッドマンがうまい。
彼女は信仰を捨てたわけではないと言っていた。十字架のネックレスも着けたままだった。でも、教会に行く回数は減ったと言っていたし、父親の考え方ともズレが生じていたようだった。

途中で、神はどこかにいて崇拝するものではなく、自分の心の中にいるという話が出てきていた。もしかしたら、母はこの考え方になったのかもしれない。それに、女性として抑圧されているのは、同性愛者として抑圧されている息子と同じだと思ったのかもしれない。弱い立場であることは変わらない。
キリスト教の中でも宗派はあるのだと思うけれど、それを変えることなく、考え方だけを変えることができるのかは不明。
神への愛よりも息子への愛をとったという単純な話でもないのではないかと思うけれど、そこもわからない。

父親が牧師であり、地域で説教をする立場でもあるようなので、「複雑」だと言われていた。ジャレッドは「僕は変えることができないんだから、父さんが変わらなきゃいけない。そうしないと親子関係が破綻する」というようなことを言っていたけれど、変えることができることなのかもわからない。でも、もしかしたら父親の中には信仰だけではなく、世間体や上下関係も気にしているのかもしれないとも思った。その辺りは変えられるのではないかと思う。

両親役のニコール・キッドマンとラッセル・クロウはとてもうまいんですが、施設にいる抑圧する立場のサイクス役のジョエル・エガートンもうまかった。監督でもあるけれど、この嫌な奴役を自らやるのだなと思った。この人も実在人物らしいのだが、現在は夫と暮らしているのだという。ホモフォビアがホモセクシュアルであるというのはよく聞く話ではあるがここでも出てきた。それならなんで…とも思うけれど、本人もよくわかってないんだろう。

施設にいるジョンは握手の代わりに敬礼をしていて、ジャレッドが理由を聞くと、接触を避けるためだと言っていた。彼は、自分を偽るのがとてもうまくジャレッドとは逆方向に強い人間だった。自分の置かれた状況を把握して、楽に生きるために自分で自分を抑圧しているかのようだった。でも、その人生の虚しさに気づいているのだろうか。今は偽ることに慣れて、気づいていないのではないかと思ってしまう。そのうち、何のために生きているのかわからなくなって、他の若者と同様に自殺してしまいそう。ジャレッドの行動を見て、彼自身の中に何か変化があればいいと思った。
演じているのはグザヴィエ・ドラン。この人物も実在するのかは不明だが、彼自身同性愛者だし怒りを持って演じていたのだと思う。そのせいでとても濃いキャラになっていた。彼のスピンオフのようなものも見てみたい。

また、そこが主題ではないから少ないのだけれど、ジャレッドのラブ描写がとても素敵だった。
途中までのヘンリーは視線の絡み方と自然に肩を組んでくるあたりとか、二段ベッドの上で寝ているけれど眠れていない様子が下まで伝わってくるなどドキドキした。でもレイプは駄目です。きっと、もっと丁寧に育めばお付き合いできたのではないか。
演じているのはジョー・アルウィン。『女王陛下のお気に入り』、『ふたりの女王 メアリーとエリザベス』と最近よく出てくるがどうにも女性の影に隠れていたり情けなかったりと脇役な雰囲気が否めない。もっと誰も文句が言えないような超絶イケメン役が見たい。

また、キリスト教徒でありながら、新時代のというか、神について新しい独自の解釈(この辺も詳しいことはよくわからない。キリスト教徒でもないのかもしれない)をしている芸術家のゼイヴィアとのエピソードも好きでした。やはり何も言わずに視線が絡む。ベッドの上で向かい合って手を繋いで寝るという、もう夢の中のような出来事に見えた。暴力的に踏みにじられたあとだし、より優しさが際立つ。
こちらは演じているのはセオドア・ペレリン。『たかが世界の終わり』に出ていたらしい。少し、リズ・アーメッドにも似ている。

ジョンとの間にもほのかに愛が生まれそうだった。ジョンはやはり自分を抑圧していたけれど。ジョエル・エガートン監督には今度はラブストーリーも撮ってもらいたい。

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