『荒野にて』



アンドリュー・ヘイ監督作品。
主演のチャーリー・プラマーがヴェネチア国際映画祭マルチェロ・マストロヤンニ賞(新人男優賞のようなものらしい)受賞。
2010年の同名小説が原作とのこと。
以下、ネタバレです。









少年と馬が触れ合っているキービジュアルとタイトルから牧場か競馬を題材としているのかと思ったら、少年はトレイラーハウスに女にだらしない父親と二人暮らしで、母親はいないようで…ということで、ホワイトトラッシュが題材だった。そして、ロードムービーでした。

主人公のチャーリーはティーンではありそうだった。しかし、どうやら学校には行かせてもらってないらしい。
そこで、家の近くの厩舎のオーナー、デルの元で働かせてもらう。
明らかにはされないが、借金なのか人間関係なのか(仕事の関係とは言われてたけど本当かなと思ってしまった)わからないが、チャーリーと父親は各所を転々としていて、友達もいないようだった。だから、馬と触れ合い、友達ができたような気持ちになったのかもしれない。馬と触れ合うのも楽しそうだし、お金も貰えるし、働くという行為自体に満足しているようだった。
しかし、ある夜、父親が手を出していた女の夫が家に乗り込んでくる。父親は瀕死の状態で病院へ。やはり父親のせいで、生活が軌道に乗りそうだったところを滅茶苦茶にされる。

父親が入院をして一安心。また競馬関連で働くのを再開し、騎手の女性ボニーとも友達のようになる。デルにしてもボニーにしても、どこかはぐれ者のようなところがあるようだったが、それ故に、孤独な魂同士が寄り添い合うというか、決して仲良しというわけではなくても、どこかでわかり合っているようないい関係を築いていた。
しかし、これも上向きそうなところで父親が死んでしまう。あんな父親でもチャーリーにとっては唯一の肉親だし、あんな父親と思っているのは観賞している私たちで、チャーリー自身は子供の頃から接しているからなのか、そこまで酷い奴だとは思っていなさそうだった。

これでチャーリーは天涯孤独になってしまう。しかも、心を通わせた(とチャーリーは思っている)馬のピートは高齢のため、レースに負けて売られてしまう危機。
ボニーにも競走馬はペットじゃないと言われていたけれど、それもよくわかる。商売道具である。愛してしまえば別れづらくなるだけだ。
でも、チャーリーにとってはやっとできた友達だから、そう簡単に手放し別れることはできないのだ。

チャーリーは父親が死んだことで、悲しくはあるけれど、やっと自由にもなったのだ。それで、馬主の車を盗み、ピートを連れ出す。
途中で車は壊れてしまい、何もない広大な大地を馬を引きながら歩く様子はポエティックにも見えた。
荒野の中にあるトレイラーハウスで、いいようにこき使われる女性に「君はなんで逃げないの?」とチャーリーは聞いていた。かつての自分の姿にも見えたのかもしれない。でも多分、チャーリーは若くて体力のある男性だからいいけれど、女性はそうもいかないと思う。女性では一人で荒野を歩くわけにもいかない。

途中、車に怯えたピートが逃げ出して車に轢かれてしまう。チャーリーはにとってピートは話し相手だった。もちろん馬なので返答はなく一方的にピートに話しかけていただけだけれど、吐き出すだけでも楽になれるだろうし、おそらく心の拠り所になっていたのだと思う。そのピートすらいなくなってしまった。
ここで警察が来て保護されそうになるし、タイトルが『荒野にて』なので、ここで映画が終わってしまうのかとも思った。けれど、チャーリーはここからも逃げ出す。

更に歩いたチャーリーは、ワイオミング州の町に着く。都市だから炊き出しもやっていて、金を持っていないチャーリーはそこでご飯をもらって食べたりもしていた。「言いたくないがホームレスだ」とホームレスに言われて反発していたが、確かにホームレスなのだ。街にいると、荒野を歩いてきたとか馬と一緒だったとか叔母さんを探しているとかはすべて紛れてしまう。家のない人々は他にもいて、チャーリーもその一部である。

ここまでも万引きやら食い逃げやら犯罪を重ねてきた。しかし、空き巣に入った際は水をもらって洗濯をさせてもらうだけで金品は奪っていなかった。服を盗めば手軽なのにわざわざ洗濯をするのである。悪いことはしない。よくあの父親の元でこんな良い子に育ったものだ。別に身体的な虐待をしていたわけではないからだろうか。
しかし、自分の働いたお金をとられるのには激怒し、バールのようなもので殴っていた。

この後、もしかしたら、ドラッグに手を染めたりと堕ちるところまで堕ちてしまうのではないかと思ったが、『ビューティフル・ボーイ』を最近観たこともあり、そうはならなくてほっとした。
とにかくチャーリーは叔母さんに会いたいという一心なのだ。もう彼には叔母さんしかいない。

叔母さんには無事に再会し、しかも叔母さんは良い人だった。ここでつっぱねられたらどうしようかと思った。でも、もしかしたらチャーリーの周囲にいる大人がロクでもなかっただけで、叔母さんは普通なのかもしれない。
この良い人と喧嘩をしたのだから、父親がいかにひどかったかがわかる。父親は父親である以上、チャーリーを所有する権利を持っていて、叔母さんもどうすることもできなかったのだろう。

「叔母さんと旦那さんさえよければ一週間くらいいさせてくれないか」と言うのも、健気というか、無理やり大人にさせられてしまったというか、10代半ばの天涯孤独の少年が吐くセリフではない。それに対して叔母さんは「いつまでもいてくれていいのよ」と返していた。おそらくこれが普通の大人の反応なのだ。
「学校にも行ける?」と聞いていたので、学校に行けないことは気にしていたようだ。そうすると、父親のことも多少恨んだりもしていたのだろうか。叔母さんとの写真を見て、叔母さんと一緒だったら…と思っていそうだったから、特に父親のことが好きでもなかったのかもしれない。それとも、単に血の繋がりによる愛着だろうか。

最後、チャーリーはピートのことを話して泣いてしまう。叔母さんと再会した時にも、抱きしめられた時にも涙を流していなかった。ここで泣くのか!と思うと、ピートを失ったのは本当にショックだったのだろうと思う。それでも、ショックだったと誰にも言うことはできなかった。聞いてくれる人がいなかったから。今はいる。おそらく、ずっと話したかったのだ。その想いを抱えながら一人で歩いていたのだと思うと苦しくなる。

ラストシーンはオープニングと同じくチャーリーがランニングしているシーンなのだが、最初とはまるで顔つきが違う。オープニングは単純に、やることがないのか体力づくりなのかわからないけど、少し無邪気さすら感じるランニングだった。ラストは、自分のいる状況がまだ信じられない、自分は幸せになってもいいのだろうかと少し迷うような顔をしていた。
この旅がチャーリーに与えたものはあまりにも大きかったのだなと感じた。

チャーリーを演じたのはチャーリー・プラマー。まだ数本しか映画に出ていないようだが、透明感のある瑞々しい演技で、ほぼずっと一人で出ずっぱりだったがもっと演技しているところが見たいと思った。


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