『私が、生きる肌』


ペドロ・アルモドバル監督作品。原作の『蜘蛛の微笑』は未読です。
予告からは想像できない世界でした。予告だと“奥さんを亡くした外科医が、誰かを奥さんの顔に整形手術して身代わりにしている”という話なのかと思った。これだけでもおもしろそうとは思っていましたが、それをだいぶ上回っておもしろかった。
以下、ネタバレです。









大筋はその予告の通りではあるんですが、目的が“奥さんの身代わりにするため”ではなく、復讐だった。もっとも、奥さんの顔にしている以上、身代わりという意味もあったのかもしれないが、それは結果的にそうなったように思える。
そして、“元は誰だったのか”というのが、娘を強姦しようとした少年という、意外すぎる答えだった。顔だけでなく、全身の整形もされていた。女性が着ていた全身タイツのようなボディースーツはなんのためなのかと思ったら、整形後に体の形が崩れないように安定させるためのものだった。

そのボディースーツの衣装デザインがゴルチエでした。全身肌色のものは、何も身に付けてないようにも見える。黒いものは人間の体の形が美しく見えた。黒いほうを着て、ヨガのポーズをとると、まるで芸術品のようだった。また、部屋から逃げるシーンでは走り方の歪さが際立った。

また、すべての元凶である、使用人(実は主人公の母親)の息子(実は主人公の兄弟)が屋敷を訪ねてくるシーンで着ているトラの衣装は、不穏な空気を作り出すのに一役買っている。カーニバルと言っていたが、ハロウィンのような全身の仮装です。屋敷の呼び鈴を押すときに衣装の爪の部分がアップになるのは、これから起こる不吉なことを暗示しているようである。

主人公の外科医が盆栽を趣味にしているようなのも気になった。松などを思い通りに形作るのと、人間の顔や体を作り直すのは似ているようにも思える。

外科医は、最初こそ、完璧な肌を作り出すための人体実験のように少年の体を使っていたようだったが、途中から、元少年、現在は見た目は妻そっくりな人物を愛し始めていたようだった。おそらく、トラに仮装した男に強姦されるのを見たあたりからのようだったので、独占欲が刺激されたのかもしれない。自分が完璧に作り上げたものが愛しくないわけはない。
しかし、見た目こそ完璧に妻の姿をしていても、中身は外科医に無理やり女に変えられた少年のままなので、当然悲劇が起こる。

話し方はどうだったのだろう。字幕では“私”とか“~だわ”など女言葉になっていた。スペイン語のヒヤリングなどできないのでわかりませんでしたが。

終わり方が少し中途半端に感じた。少年(見た目は女性)が屋敷を出て行くところで終わりでも良かったように思う。日も当たっていたし、輝かしい未来へと続くようだった。
その後、元働いていた洋服屋(?)へ行くシーンがあり、この先のこともちゃんと描いてくれるのかと思ったら、案外そこからは短く、ぶつ切りな終わり方だった。
男だった頃に、一緒に働いていた女性に「そのワンピース似合うわよ」とからかわれたワンピースを着て現われて、見た目は女性だけど自分はここにいた少年であるということを証明してみせる。その伏線の回収はなるほどと思ったし、その後で母親に名前を告げるシーンも良かった。しかし、その後すぐに切られてしまう。もう少し先まで観たかったです。

音楽はアルベルト・イグレシアス。予告でも使われていた、バイオリンが激しくドラマティックな曲がエンドロールで流れた。『裏切りのサーカス』では静謐でハードボイルドっぽい曲が多かったですが、どちらも好きです。

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