『少年は残酷な弓を射る』


ティルダ・スウィントンとエズラ・ミラーの映画だと思っていたけれど、ティルダの映画だった。エズラ・ミラーは青年期のケヴィンだけだけど、ティルダは様々な時代をすべて演じていた。
案外セリフが少なく、映像で見せる作品だった。ティルダの表情だけで、いろいろと読み取れるものがある。時代時代によっての落差が大きく、演じ分けが素晴らしい。ストーリーは予告から想像できる通りだったけど、時間をバラバラにする見せ方がおもしろかった。

目玉のアップが何度か出てくるのも気になった。目玉に反射しているコピー機の光や、黒目の中に映る的など、撮影の仕方に独特のフェティシズムを感じた。
あと、冒頭のトマトを投げあう祭りや、パンにたっぷり塗られたイチゴジャムなど、赤への拘りも多く見られた。どうしても血を連想させる。

音楽が微妙にシーンとズレているのが、気持ち悪いような逆に心地良いような感じで妙に耳に残る。爽やかなシーンではないはずなのに、わざと爽やかな曲だったり。車で三味線みたいな曲を聴いていたり(しかも、「その曲嫌いだから消して」と息子に言われてしまう)。
この奇妙な音楽を担当したのが、レディオヘッドのジョニー・グリーンウッド。『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』もちょっと気持ちが悪くて、やっぱり耳にひっかかる感じでしたが、ここでもやはり。

フランクリン役のジョン・C・ライリーは、なんとなく『おとなのけんか』と同じような役だと思った。いい夫そうでいて、あんまり深く考えていない。楽観主義者。
エズラ・ミラーは恰好良かった。口をひん曲げて笑う悪い顔は大袈裟だったけど好きです。やっぱり、少し松潤に似ている。現在は髪の毛が長いようなので切ってほしい。
ティルダ・スウィントンは中性的でエキセントリックで、みたいな印象ではもうなくなった。演技も文句のつけようがないし、この映画では全編通して女性だった。

以下、ネタバレです。




予告でのセリフ、「産まれた息子がなぜか懐かない」の“なぜか”の部分が映画内で明かされないし、「私が悪かったのでしょうか」というセリフを受けては悪くないと思うとしか言えない。
産まれたときから自分の子になぜか嫌われていて、いくら愛情を注いでも嫌がらせがエスカレートするばかりで、なんてことはリアリティがないと思って、少しもやもやしていた。

しかし、エズラ・ミラーのインタビューで、「ケヴィンは人の気持ちを察するアンテナが敏感」と言っていて、なるほどと思った。
赤ちゃんなら泣きやまないことはあるだろうし、それを嫌われていると過剰にとらえていただけなのかもしれない。他の部分も、フランクリンが言う通り、子どもらしい無邪気さゆえなのに悪意を感じたのかもしれない。多少育児ノイローゼ気味だったのではないか。
もともと、冒険家だったようなので、それを子どもができて諦めたという面もあったでしょう。そのせいで愛情を注ぎきれず、それをケヴィンが察して、反発したのかもしれない。
そして、最後に抱きしめるシーンでやっと息子を愛せたのではないか。夫と娘を殺され、殺した息子は刑務所へ。一人きりの期間に考えていたのは、ずっとケヴィンのことだったはずだ。

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