『光をくれた人』



監督は『ブルーバレンタイン』『プレイス・ビヨンド・ザ・パインズ』のデレク・シアンフランス。
主演のマイケル・ファスベンダーとアリシア・ヴィキャンデルはこの映画をきっかけにお付き合いをスタートさせたらしい。

以下、ネタバレです。







子供のできない夫婦のもとに赤ん坊が流れ着き、夫婦が育てるが実の母が現れて…というストーリーなのは予告編を観て知っていた。
だから当然もう夫婦なのだろうと思っていたら、二人が出会うところから映画がスタートしたので驚いた。
また、マイケル・ファスベンダー演じるトムは退役軍人で、人との付き合いを避けるために孤島の灯台守を志願し…という少し複雑な背景があった。

前半はまさにこれはお付き合いを開始する…という雰囲気だった。孤島は文字どおり二人きりの世界だし、風景も美しい。風も強そうだったが、それもまた良かった。デスプラの叙情的な音楽ともよく合っていた。

ただ、島に流れ着いた赤ん坊をイザベル(アリシア・ヴィキャンデル)が育てたいと言い始め、イザベルにまったく共感できなかったのでイライラしてしまった。
二度流産をして、この先子供ができるかどうかもわからない。赤ちゃんが流れ着いたことを報告すれば、孤島では養子として育てることはできず養護施設に送られてしまう。そんな言い分がわからないこともない。
養護施設というと、4月に公開された『LION』でも、子供達が酷い目に遭っていた。あれは極端なのだとしても、良い暮らしはできない。確かに可哀想ではあるけれど、報告すれば親が見つかるかもしれない。イザベル以外にも親が見つかるかも。養子としてひきとり、イザベルだけ町に帰るなどの選択肢はなかったのだろうか。

でも、トムは夢も希望も失っていた中でイザベルに愛されたから、彼も彼女をとても大切にしているんですね。それで、彼女の希望を叶えてしまい、報告しない。
ここでトムを必死に説得するイザベルは、グザヴィエ・ドランがよくやるようなぐるぐる目になっていた。何か(ここで言うと赤ちゃんを育てること)を盲信して、聞く耳を持たない。少し狂ったようにも見える。アリシア・ヴィキャンデルの演技がうまいだけに余計にイライラする。
トムも今の彼女には何を言っても説得できないだろうと悟ったのだと思う。

けれど、わりとすぐに本当の母親が現れる。トムの匿名の手紙がきっかけで娘が生きていることを知ることになるが、そのトムをイザベルが責めるのもすごく自分勝手だと思ってしまった。
赤ん坊と一緒に流れ着いた父親と思われる男性の遺体を埋めたのもトム一人だし、二人の本当の赤ちゃんが埋められた上の十字架を引っこ抜いたのもトム一人である。イザベルはただ赤ちゃんを抱っこしてあやしていただけだ。
それなのに、裏切っただの許せないなどと騒ぎ立てて、もともと自分の子供じゃないくせに…と思いながら観ていた。

合間に本当の母親ハナのエピソードもはさまれる。夫はドイツ人で、戦争後のオーストラリアでは肩身の狭い思いをしていたようだった。
ハナの実家はお金持ちのようだったし、ドイツ人と結婚することを許されていなかったけれど、二人で駆け落ちをする。そんな中でできた子供である。
トムとイザベルのエピソードの中ではすでに遺体の状態だった男性がしっかりと動いていた。片方からの視点では遺体というか脇役以下のような存在でも、もう片方では重要な役割を担っている。誰かにとっては取るに足らない人物でも、誰かにとっては大切な人だというのがわかる。

私はもうこの辺りではイザベルのことが見ていたくないくらいになっていたので、ハナのエピソード中心にしてくれていいのに…とも思った。

結局娘はハナの元へ帰るが、赤ちゃんの時の記憶はなく、ハナのことを本当の母だとは思っていない。娘はイザベルの元に帰りたがっているし、イザベルも娘と離れて悲しい。ハナは本当は自分が産んだのに母親と認識してもらえなくて悲しい。トムは一人罪をかぶって投獄されている。
もしかしてこれは、誰も幸せにならないパターンなのではないかと思ってしまった。

また、ハナ側ではなく、イザベル側を中心に描いているということは、結局、イザベルの元に娘が帰っていって、この先も二人で幸せに暮らしていきましたとさというめでたしめでたしになってしまったら嫌だなと思っていた。

ハナを演じたのがレイチェル・ワイズなんですが、彼女が髪が真っ黒なせいもあるのか、夫と子供を亡くしたから暗い顔をしているという演技のせいか、結構魔女っぽいというか、悪役っぽく見えるんですね。対するアリシア・ヴィキャンデルは天真爛漫でたぬき顔。イザベルの主張が通ってしまうのかな…と思わざるをえなかった。

しかし結局、イザベルはトムにどれだけ愛されていたかを知り、罪を告白する。ハナは夫が言っていたことを思い出し、ハナを赦す。
なんとなく、ハナのドイツ人の夫が主人公のような感じがしたし、そのような作りで観たかった。そして、キリスト教の話なのかなとも思った。

おそらく20年後くらいだったと思うが、トムとイザベルは人里離れた場所で暮らしていて、そこに大きくなった娘が孫を見せに来る。

きっと、小さい頃はイザベルと引き離されることの意味がわかっていなかったとしても、大きくなるにつれて、自分がさらわれたことを認識し、イザベルのことを恨んだこともあったと思う。しかし、会いに来たというのは、これはこれでハナと同じように二人に対する赦しなのだと思う。

中盤から最後の方までイザベルの行動に共感できなくて、少し怒りながら観てしまったが、最後は嘘のように優しく穏やかな気持ちになれる不思議な映画だった。




イギリスやドイツ、アメリカでは2016年公開。日本ではビデオスルー。
監督はデクスター・フレッチャー。
この監督さん、DVDの特典映像で顔を見て、なんか見たことがあると思ったら『ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ』のソープ役の方だった。他、『レイヤー・ケーキ』や『キック・アス』など、マシュー・ヴォーン監督作常連の俳優さんで、本作は製作にマシュー・ヴォーンの名前がある。

製作とはいってもマシュー・ヴォーンは本作にだいぶ関わっているようで、主演のタロン・エガートンを推薦したのも彼らしい。『キングスマン』関連ですね。

原題は『エディ・ザ・イーグル』。実在したイギリスのスキージャンプの選手のニックネームだが、日本での知名度の低さから変えられたのだろう。
また、本作はこの選手について描かれているが、やはりこれも知名度が低くてビデオスルーになったと思われる。

ヒュー・ジャックマンとタロン・エガートンの二人の力で公開できなかったかなとも思うけれど、ポスターなどに二人の姿は映っていても、二人三脚という感じではないからかもしれない。いわゆるブロマンスな雰囲気はない。あるのかと思っていた。


エディ(タロン・エガートン)は素人なので、元スキージャンプ選手のピアリー(ヒュー・ジャックマン)から基礎を学んだのは良かったと思うが、あくまでも基礎である。
エディがぎりぎりオリンピックに出場できる記録を出した時に、ピアリーは「今出てもオリンピックで恥をかくだけだから、みっちり練習をして四年後にメダルを目指そう」と提案する。

普通なら、エディがコーチであるピアリーの意見に同意して、すったもんだありながらも二人で頑張って、見事メダルをとってエンディングとなるところだ。
けれど、これはフィクションではないからそうはならない。

彼は子供の頃からオリンピックに出ることに憧れていた。憧れて、様々な努力を続けてきた。
それで、やっと出られることになったのだ。四年後に出られる保証はない。基準となる記録が変わるかもしれないし、怪我をするかもしれない。最悪、死んでしまうかもしれない。

周りの選手は子供の頃からスキージャンプをやっていたのも知っていただろうし、おそらく彼は、きっとメダルまでは遠いのはわかっていたのだろう。
だから、押し切って、意見が割れたまま出場する。
ピアリーはオリンピックには行かず、テレビで見ている。エディはメダルこそ取れないが活躍…と、実話だからこうなるのだ。

完全にエディの独壇場である。
オリンピックに出る!という気持ちだけで突っ走るエディ。素人だから周囲のサポートはもちろんある。だが、他の人は等しく脇役という感じで、ピアリーはその中の一人という感じなのだ。
ただ、かつてのコーチから破門されそこから認めてもらうということで、一応ピアリーの成長物語の意味も含まれているから他の脇役よりは出番が多い。

また、最初のほうで、アル中同然のピアリーが酔っ払ってジャンプをして見せるシーンがめちゃくちゃ恰好良かった。服装もジーンズである。くわえタバコで頂上に立ち、滑り始める姿をカメラはすぐ横で追う。挑むような表情だけれど、とても楽しそうだ。タバコをポイっとこちら側に捨てると、雪に落ちてジュッという音がする。映画内で一番忘れられないシーンである。

タロン・エガートンはエディご本人に近づけて、大きな瓶底メガネで、口を少ししゃくれさせていて、とてもいつもの彼には見えない。
役柄もいつものわんこ系ではなかった。スポーツなんてやりたくないけれどコーチ(ヒュー)に見初められて、仕方なしにやっているうちにジャンプに目覚め、やがてオリンピックに…という内容なのかとなんとなく思っていたけれど違う。

エディは一途にオリンピック一筋。夢を叶えるために猪突猛進。スキーの柄のジャンパーまで着ていて、ちょっと病的でもある。
しかも、これならいけるかも?という単純な理由で大人になってからスキージャンプを始める。
何度失敗しても、上に上がっていって繰り返す。怖くはないのだろうか。

映画内でPOVっぽい映像も出るが、頂上に立っただけで足がすくみそうだ。映画でもスタントすらやりたがらないらしく、選手の方を使ったらしい。
大抵子供の頃から始めるスポーツというのも、物心つく前に慣れさせるのが目的らしい。物心がつくと、恐怖心で飛べなくなるのだとか。

エディの場合は恐怖心よりもオリンピックに対する気持ちが強かったのだろう。しかも、ピアリーの手助けや送り出してくれた両親(というか母親か)の後押しもあって、一年でオリンピックに出てしまう。さらに、メダルまでは遠いとはいえ、自己ベストを叩き出す。

エディはイギリス初のスキージャンプオリンピック代表選手であると同時に、カメラの前ではしゃいだ様子が話題になったらしい。
記録よりも記憶に残る選手である。そして、エディが出たのは、1988年のカルガリー冬季五輪だが、なんと『クール・ランニング』で有名なジャマイカのボブスレーチームも同じ大会に出ていたらしい。映画内でも話題に上がる。

映画内には80年代ポップスが多く使われている。時代に合わせたのだと思うけれど、あまり仰々しくなく、ある意味軽薄な音楽が映画の雰囲気ともよく合っている。特に、ここぞというタイミングで、ヴァン・ヘイレンの『Jump』の印象的なイントロが流れた時にはぴったり来すぎて笑ってしまった。

映画内のエディもへこたれない前向きさと、逆に考えると呑気な性格のチャーミングな人物だったが、ご本人も負けず劣らずで脚色なしのようだった。
DVDの特典映像で撮影現場を見に来た話をしていたけれど、紅茶を進めると「ありがとう。ビスケットもいただいていいかな?」と言っていたらしい。ちゃっかり者である。

記録以外の部分で人気になったようだし、オリンピックはこの一回限りでスポーツはやめたのだろうと思っていたら、スピードスキーで世界歴代9位の記録を持っているらしく侮れない。映画が終わる場所が到着点ではなかった。好きだけでどこまでも突っ走る姿が痛快である。





『メッセージ』



ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督。アカデミー賞作品賞などノミネート。
主演はエイミー・アダムス。
以下、ネタバレです。








なんだかわからない飛来物が地球にやってきて大騒ぎになる。言語学者ルイーズの元に軍の関係者が訪れて、中にいる“宇宙人”の声を聞かせて解読しろと言う。これがかなり序盤なので、もう中に何者かが存在して、コミュニケーションはとれないまでも接触をしているのに驚いた。

そして、ルイーズは軍のヘリで前線へ連れて行かれる。つるっとしていて、静謐なフォルム。攻撃的ではない。しかし、とても大きいし、静かなだけに不気味ではある。まるで観客もヘリに乗っているかのような映像に口をあんぐりと開けてしまった。旋回するヘリの窓から映されるその異様で巨大な物体と、眼下にかまえられた軍の前線基地からただ事じゃなさが伝わって来る。

基地の中で、“宇宙人”と接触をはかるためにワクチンを接種される。カメラはルイーズと物理学者のイアンのすぐ後ろにつくので、私たちも基地の中に入ったような感覚になって緊迫感が伝わって来る。

そして、“宇宙船”の中へ潜入。近くに寄ると、少しだけ浮いていることがわかる。中に入ると無重力のようになっていたり、不思議なことばかりである。ここも序盤から宇宙船の内部に潜入することになって驚いた。
毒ガス検知のためのカナリアなのか、鳥カゴもあって、そのなかで小鳥がピッピッと鳴き声を上げ続けているのも一層不穏な雰囲気。

そして、半透明な仕切りの向こうにタコ型の宇宙人がぼんやりと現れる。このタイプの宇宙人かと思う。だけど、想像していたよりも大きい。大きくて得体の知れないものがぬっと浮かぶ様も迫力があった。もうこのあたりまで、ずっと口を開けたまま夢中になって観てしまった。

白を基調にした雰囲気といい、宇宙船の馬鹿でかさや不穏な雰囲気は、同じドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の『複製された男』を思い出した。監督のSFはこの雰囲気になるのかもしれないと考えると、10月公開の『ブレードランナー 2049』も楽しみである。

また、基地の中と宇宙船の中という閉鎖された空間での描写が中心で、外の人間たちの騒動(暴動やカルト教団の集団自殺など…)は、ニュースやインターネット動画でのみ知らされるという作りも面白かった。視点が統一されているので緊迫感が続く。

ただ、この先、少しずつ会話をかわしながら、彼らが来た目的を聞こうとするんですが、その目的は予告編ですでに見てしまっていたので、「武器を与えに来たんだよ…」と思いながら観てしまった。武器が何なのか、それを使って何をするかなど、物語の核心部分ではなかったけれど、予告編に入れるのは勘弁してほしかった。

そして、原作を読んでいないせいもあるのかもしれないが、途中から話がよくわからなくなってしまった。
最初の過去の回想と思われた部分が実は未来で…というのはわかる。時系列については逆にわかりやすいくらいだった。

わからなかったのは、ヘプタポッドが何の目的で来たかである。何千年後だか、遠い未来にヘプタポッドたちを人間が救うから、ここで人間を滅ぼすわけにはいかないから、ルイーズに未来がわかる力を与え、この場を救わせたが、ヘプタポッドが来る前も世界情勢は悪かったのだろうか。彼らが来たせいで分断しそうになっていたわけではないのか。
それとも、この先、世界情勢がまずくなったときに、宇宙人襲来の危機を乗り切ったのだから…という思い出の共有で団結するための演出だろうか。

未来のことがわかるのはルイーズだけだったが、ヘプタポッドに危機が訪れるときには、とてもルイーズが生きているとは思えない。
ルイーズが授かった力というのは、超能力的なものではなく、ヘプタポッドの文字を理解することで得た知識のようなものなのかもしれない。
ルイーズは講演会を開いていたし、本を出していたから、それを読んで理解をすれば、誰でも未来を見通せるのだろうか。

でもそうすると、夫であるイアンに、未来がわかると言ったら離婚をすることになった理由がわからない。ルイーズが未来がわかるということを、イアンは信じていないのだろうか。娘が病気で死ぬなんて縁起でもないことを言うなという感情論だろうか。
宇宙人と邂逅をするなどという体験をしたのはイアンも同じである。それでも、信じられないことなどあるのだろうか。どんな不思議なことでも、そんなこともあるかもしれないという気持ちになりそうだけれど。

原作は短編らしいので、もしかしたら余計にわからなくなってしまうかもしれないけれど、このままではもやもやしたものが残ってしまうので読んでみたい。





2000年公開。日本では2001年公開。
M・ナイト・シャマラン監督最新作『スプリット』のネタバレも含みますのでご注意ください。







『スプリット』の最後に本作主人公が出てきて、しかも、2019年1月18日(現地)には『アンブレイカブル』と『スプリット』の世界が合わさった両方の続編『GLASS』が公開されるとのこと。
この情報は『スプリット』公開前から監督自らがTwitterにて発信していたが、私は『アンブレイカブル』はタイトルしか知らなかった。観ておけばよかったのですが、忘れたので遡って鑑賞。

17年前の作品であるにも関わらず、まったく昔の作品という印象は受けなかった。むしろ、当時はどうだったのだろうと思ってしまうくらい、現代の作品の雰囲気だった。
簡単に言ってしまうと、今流行りのアメコミヒーローもののようだった。

もしかして、マーベルとかDCでコミックスが出てるものの実写化なのかなと思ってしまったほどだ。しかし、もちろんそんなことはなく、シャマランのオリジナル脚本作である。

ヒーローものだけれど、主人公が力に悩み、でも使命に気づき、人助けをするというストーリーは、最近の王道でもあるし、ほとんど『ダークナイト』のようだった。ちなみに、特典映像では原作の『ダークナイト』の話もされていた。『ダークナイト』公開が2008年なので、だいぶ先取りだ。あれが、明るいだけではなくヒーローが悩んで人間的な面も見せる、リアリティのあるヒーローものの先駆けなのかと思っていたが、その8年も前にこの作品があったのだ。

これ、コスチュームを自分で作ったりし始めたら本当にアメコミだなと思ったけれど、助けるときの防水ポンチョがそれのようだった。
新聞に助けてくれたヒーローのイラストが出ていて、妻が洗い物をしている時に、主人公のデイヴィッドは無言でその記事を自分の息子に見せる。息子は「これがお父さん?」と口には出さず信じられなさそうにデイヴィッドを見て、デイヴィッドは内緒だと言うように人差し指を口にあてる。
なんかこの構図知ってる! 自分が自警団的な世直しをしていることは親しい人にも明かせないのだ。

そして、デイヴィッドを見つけ出して、ヒーローとしての使命を与えたのが、もう一人の主人公とも言える(のではないかと思っていた)イライジャ。些細なことで骨折してしまう骨形成保全症という病を患っているため、ミスター・グラスというあだ名をつけられている。

映画内でも階段から落ちておそらく全身を骨折して以降は車椅子である。アメコミが好きで、ヒーローに人一倍憧れを抱いているが、自分は車椅子なので悪者をやっつけることができない。でも、デイヴィッドを見つけたことで、彼が代わりに動くのだ(と思っていた)。
イライジャはブルース・ウェインに対するアルフレッド兼ルーシャス・フォックスのような役割で、きっとポンチョではなくヒーローらしいスーツを作ったり、サポートにまわったりするのだろうと思っていた。

しかし、ラストで、列車の事故などはデイヴィッドのような人間を発見するためにイライジャが仕組んだことだと発覚する。
ああ、そうだよ、ミスター・グラスというあだ名まで付いていた。オズワルド・コブルポットがペンギンであるように、セリーナ・カイルがキャットウーマンであるように、ハービー・デントがトゥーフェイスであるように、エドワード・ニグマがリドラーであるように、ヴィランにはあだ名がついている。

ただ、イライジャの気持ちもわからないでもないのだ。小さい頃からアメコミを読み、本当だったら自分がヒーローになりたかったろう。しかし、病気のせいでそれは無理な話だった。そこでまったく逆の存在、強靭な肉体の持ち主を探したのだろう。それくらい追い詰められていたし、ヒーローへの憧れが強く、子供の心を持ったまま大人になってしまった。
デイヴィッドの息子だってヒーローの存在を信じていて、デイヴィッドを騙して重いバーベルを持ち上げさせたり、怪我をしないことの証明をしたいあまり、デイヴィッドに銃を向けたりしていた。デイヴィッドが認めなかったら、息子だってどんどん過激な方法をとったかもしれない。

結局、デイヴィッドがイライジャを通報し、彼が精神病院に入れられて話が終わる。いわゆる、ヒーロー誕生までを描いた映画だったけれど、相棒(ここではイライジャ)がいなくなってしまうヒーローものは初めて観た。その辺はいわゆるマーベルやDCなどの王道とは違う。

『アンブレイカブル』はヒーローの誕生までのプロローグで、“ビギニング”のような存在だった。しかし、一人、放り出されてしまったデイヴィッドはどうするのだろう。でも、一度目覚めてしまったら、正義感は強そうだし、能力を封印することはしないだろう。何より、息子も悲しむ。
本格的にデイヴィッドが活躍する続編が観たい。『アンブレイカブル2』は無いの?と思ったら、それが2019年公開のものだった。しかもタイトルが『GLASS』。ということは、ミスター・グラスも病院から出てくる? しかし、そうすると、デイヴィッドは、ミスター・グラスもビーストも相手にしなくてはならなくなる。

『スプリット』で、デニスが駅のホームに花を手向けるシーンがあった。何か、ビーストを誕生させる儀式の一部なのかと思っていたけれど、これは『アンブレイカブル』の最初の列車事故に関わってくるのではないかとも言われているらしい。列車の事故を起こしたのは、ミスター・グラスである。そうすると、ビーストを誕生させたのもミスター・グラスということになるかもしれない。ならないかもしれない。

また、『アンブレイカブル』で、デイヴィッドはスタジアムでの仕事中、親子にぶつかり「ぶたないで、ママ!」という子供の声を聞く(吹き替えでは多数の声に混じってしまって聞こえないが日本語字幕だと出る)(シャマランが演じるドラッグの売人と思われる男が出てくる少し前のシーン)。デイヴィッドはまだヒーローとしての自覚を持っていないので振り返るだけで救ってはいない。もしかしたら自覚云々ではなく、本当によく聞こえなかったのかもしれない。この子供がケヴィンだという話もあるようだ。
本当にそうならば、そもそも、あの時に、デイヴィッドが子供(ケヴィン)を救っていたら、他の人格もビーストも生まれていなかったということになる。

二つの作品の世界が繋がっているということをふまえると、『スプリット』でビーストが出てきたときの、うわあ、そうゆうのが本当に出てきちゃうんだ…という気持ちも無くなる。
『スプリット』単体で観ていると、こんなつもりじゃなかったと思うけれど、ヒーローもの(『アンブレイカブル』)の一端ならば、ヴィランとしてこのような怪物が突然変異的に出てきてもあまり唐突さがない。

2019年公開というと、『アンブレイカブル』からほぼ20年である。劇中の時間は同じように流れているのだろうか。デイヴィッドはあの後、一人で悪者を倒し続けていたのだろうか。それとも隠居生活をしていたのだろうか。
どちらにしても、能力が何かしらの影響で消えていない限り、殺人など事件の現場の映像は頭に入ってきてしまうし、相当つらかったと思う。

単体でもいいから続編を観たいと思ったので、しかも『スプリット』とのクロスオーバーというのは本当に楽しみだ。
クロスオーバーが発表されたときの盛り上がりがやっとわかった。







アカデミー賞で、ケイシー・アフレックが主演男優賞、ケネス・ロナーガンが脚本賞を受賞。
当初はマット・デイモンが監督・主演を務める予定だったらしいが、スケジュールの都合で降板したとのこと。彼はプロデューサーとして名前が残っています。

以下、ネタバレです。









マンチェスターってイギリスのマンチェスターなのかと思っていたけれど、海がないし…と思っていたら、マサチューセッツ州のマンチェスター・バイ・ザ・シーという場所らしい。海沿いです。昔は漁業で栄えたらしいけれど、今はボストンの富裕層の別荘地として有名らしい。
そんな場所なので、小さく、静かな田舎町です。

主人公のリーはトイレの詰まりやシャワーを直し、雪かきをするなど、アパートの便利屋として働いていた。愛想はなく、住民とも親しげには話さないし、人付き合いが苦手そう。ただ無愛想なだけならともかく、バーで自分からいちゃもんをつけては殴りに行ったりしていて、やっかいな人物に思えた。

ただ、彼がこうなってしまったのには理由がありそうだった。過去の映像が合間合間に出てきて、彼の過去が次第に明らかになっていく。

故郷を離れたことにも理由がありそうだったけれど、それが明かされる前に、リーの兄であるジョーが急死してしまい、故郷に帰ることになる。

なんとなく、故郷を離れた人間が再び戻るという内容だというのは知っていたので、『ヤング≒アダルト』のような感じかなと思っていたけれど、違った。

故郷に戻ったリーは町の人から何かしら良くない噂話をされていることから、やはり、この町にいるときに何かしらやらかして、違う町に逃げるように引っ越したのだろうと思う。
その合間にも過去の映像は流れる。
リーは妻と三人の子供と暮らしている。妻のランディは育児ノイローゼ気味のようだけれど、リーはかまわずに兄のジョーとその息子のパトリックと遊びに出かけてしまう。

現在のリーを見ると、独り身のようだったし、妻子がいるのが意外だった。離婚して、妻が子供三人を引き取ったのだろうか。

また、過去の映像のパトリックは子供で、叔父にもなついていたけれど、現在のパトリックはもう高校生になっていた。遊んだことを忘れてはいないのだろうが、もうおじさん!おじさん!といった感じではない。リーとしても、高校生男子になってしまったパトリックを前に、どう付き合っていいかわからないようだった。

しかし、亡くなった兄の遺言で、リーがパトリックの後見人に選ばれていた。何の相談も受けていなかったようなので混乱していたが、そこでリーの過去も明らかになる。
不注意で家を燃やしてしまい、妻は助けられたが、子供三人は逃げ遅れてしまったのだ。

故意ではなかったから逮捕もされない。罰せられることもない。逆に、リーにはそれがつらかったようで、その場で銃を奪って自殺しようとしていたし、引っ越した先も独房のような部屋だった。自分で自分を罰するような日々を送っていたのだろう。

その独房のような部屋に家具を置けと言ったのは兄のジョーだ。ジョーはあらゆる場面でリーをサポートしていたし、よくできた人物のようだった。周囲の信頼もあつそうだった。離婚をしたのも、妻が原因だ。
誰よりもリーのことを思っていたのだから、遺言だって、リーには相談していなくても、困らせようと思ってのことではないだろう。これが一番いい方法だと思ったから、リーにパトリックを託そうと思ったのだ。

ただ、リーは町には居づらい、パトリックは高校生活があるし町を離れたくない。二人が共同生活を送って、最初よりはわかりあえても、根本的な部分では折り合いがつけられない。
その辺は、ジョーは自分が思っていたよりもはやく亡くなってしまったのかなとも思う。余命宣告をされていたとはいえ、急死だったようだし。
せめて、リーの心の傷が癒えるか、パトリックが高校卒業するくらいまでは生きられると思ったのではないだろうか。でも、成人したら後見人もなにもないから違うか。

困らせるつもりは絶対になかったと思う。そうすると、ジョーは、リーが一人きりでいるのが気がかりだったのかもしれない。パトリックと一緒にいてくれたら、パトリックも助かるし、リーだって立ち直るのではないかと思ったのかもしれない。

事故から一体どれだけの時間が経っているのかはわからないが、リーが引っ越した時にパトリックは小学校低学年くらいに見えたので10年くらいは経っていそうだった。

リーはランディも同じように今でも苦しんでいるのではないかと思っていたと思う。けれど、ランディは前に進んでいた。再婚をして、子供も生まれるとのことだった。現金というか、健全である。ランディはリーに謝っていたし、ランチでもと誘っていた。しかし、リーは立ち止まったままなのだ。「乗り越えられない」と告白していた。それは悲痛な告白であり、ジョーがいなくなってしまった今、ランディにしか言えないことだろう。
ただ、部屋におそらく子供の写真(写真立てに何の写真が写っているかは映されないのでわからない)を飾っているのをパトリックは見ていたので、リーの気持ちをわかっているはずだ。

リーは故郷から離れ、自分の過去を知らない人々の中で、誰とも関わりを持たないで生活をすることに慣れていたのだろう。故郷では嫌でも事故のことを思い出してしまう。周囲の人々に噂をされていることも知っているだろう。また、新しい人生を歩き始めた前妻にも偶然会ってしまう。だからやはり、ここでは暮らせない。

一方パトリックはというと、高校生活は充実していそうだった。アイスホッケーでは乱暴なプレイをするが、モテるし、彼女は二人いるし、バンドをやっているし、友達の間でもリーダー格のようだった。

冷凍庫の鶏肉を見て、冷凍保存された父親の遺体を思い出してパニック発作を起こすが、それ以外はいたって元気に見えた。

彼女の部屋で、親の邪魔が入り、なかなかセックスできなかったりとコミカルな部分もあった。リーを呼んで、彼女の母親と会話をさせてその隙に…と思っても、結局会話が続かない。あとで、パトリックに「大人なのに世間話ができないの!?」と怒られていたのも笑ってしまった。

リーの心の傷は癒えてはいないけれど、事故自体は過去のことなので、現在ではそこまでドラマティックなことは起きない。静かである。
兄の死も悲しいことではあるけれど、心臓に爆弾を抱えていることはわかっていたことだ。
過去の映像は織り交ぜられるけれど、そこまで重苦しくはならない。

パトリックのバンドの練習風景の映像なんているの?とも思ったけれど、この映画は全体的に、余分と思われる部分もつぶさに記録してあり、そこで脇役にいたるまでの緻密な人物描写がおこなわれているのがわかる。
バンドのドラムの子はいつも速いとか遅いとか、ベースに合わせろとか、文句を言われてかわいそうだった。この先もしかしたら、それが原因でケンカをしたりするかもしれない。この映画内では描かれません。でも想像ができておもしろい。バンドが決してうまいとも言えないのも味がある。

パトリックもなんとか町に残る方法を模索していて、メールでだけは連絡をとっていた母親の元へ行くが、彼女は敬虔なクリスチャンになっていた。たぶん、新しいパートナーの男性の影響である。別れる前はアル中気味だったと思うが、すっかりおとなしく、服装も清楚なものになっていた。あれだけ荒れていた女性が、キリスト教の力で立ち直るのも何となく理解できる。彼女のことなど映画内ではほとんど描かれないが、現在の生活と過去の生活をちらっと見て、歩んできた道が見える。
そして、パトリックはやんちゃな面もある男子高校生だから、敬虔なクリスチャンの家庭とは合わない。居心地が悪そうにしているのを、新しいパートナーの男性もそれは察したようだった。

もちろん、映画の主役はリーだし、彼とパトリックについての描写が多いが、それ以外の人物も、脇役だけれど脇役とは言えないくらい、しっかりと生きている人間として、豊かに丁寧に描写されている。

ジョーの友達のジョージという男性が出てくる。富裕層のボートのメンテナンスか、貸しボートの会社を営んでいるようで、ジョーもそこで働いていたのかもしれない。パトリックもバイトをしている。
リーはそこで働かせてもらうよう頼みに行くんですが、帰ったあとで、ジョージの妻は「私は反対です」と怪訝な顔をしていた。おそらく、よからぬ噂を聞いてのことだと思う。
けれど、バーでケンカしたリーをジョージが家に連れて帰った時に、多分本当のことがわかったのだと思う。彼は心に傷を抱えながら、必死に生きている。働かせるのに反対と言った時の冷たい態度ではなく、しっかりと介抱してあげていた。本来は優しい女性なのだ。結局、パトリックを養子として迎えることも了承してくれた。
ジョージの妻なんて、トータルでも5分も映画に出てこない。それでもちゃんと血の通った人間として描かれているのが素晴らしい。

リーはつらいからこの町にはいられない、パトリックは町から離れたくない。リーがボストンへ帰り、パトリックはジョージたちの養子として町に残るというのは最良の方法だと思う。
ただ最後、リーが「お前の部屋を用意しておくから」と言ったのは、ニクいというか、ずるいと思う。
「遊びに来るかもしれないし、ボストンの大学へ来るかもしれないし」という言葉に「大学に行かないでこの町で就職するよ」と言い返していたけれど、リーの言葉はしっかりとパトリックの中に巣食ったと思う。
今は高校の仲間とわいわいやっているのが楽しいと思う。でも、卒業する段階になったらどうだろう。高校時代の友達とは割り切ってお別れしそうだし、頭も良さそうだから大学へ進学しようと思うかもしれない。それに、あの叔父が一人なのはかわいそうという同情心のようなものも芽生えさせるかもしれない。

絶対に来いという強制はしないし、おいでなんて言葉もかけない。来たきゃくればいい、来なくてもいいというドライな関係だ。それは、リーとしたら、自分がこれ以上傷つかないための予防線なのかもしれない。
でも、ここまで誰かと関わりを持つのを避けてきた男が、パトリックとなら一緒に住んでもいいと思ったのは大きな変化だと思う。
また、この話をしているときに、跳ねるボールでキャッチボールのようなことをしながら歩いているのもいい。穏やかな風景だ。
この先どうなるかなんてわからないけれど、こんな平和な時間があったことは、リーもパトリックも忘れないのだろうと思う。

全体的に淡々としているし、137分もあるので、家でDVDで観るのは大変かもしれない。映画館でじっくりと観たほうが良さそう。町の寒々しい景色も美しいです。




本作の4DXは監督のジェームズ・ガン監修ということで観てきました。
ちなみに、TOHOシネマズ新宿や六本木などTOHO系のMX4Dは同じ動く椅子でも会社が違うため、動き方や効果は違うと思うし、何より監督監修は4DXと書いてあったので間違わないように気を付けたい。

以下、ストーリーについてもネタバレがあります。











宇宙船の動きですが、浮遊するところは上向きに、墜落するところは下向きにちゃんとなっていた。墜落して地上につくと、煙も上がる。

それより、序盤、ソブリンから逃げるシーン、ピーターとロケットは「小さい頃から運転を教わった」「操縦用の改造をされた」とギャーギャー言い合いながら、俺こそが世界一のパイロッット!みたいなことを言っていますが、乗ってる側からすると、二人とも運転が荒い。荒すぎて酔う。
4DXは久しぶりだったんですが、ここまで動くのは初めてだった気がする。『ワイルド・スピード』の車も『パシフィック・リム』のイェーガーも、こんな乱暴な動きではなかった。

4DXはポップコーンやドリンクは非推奨とされているけれど、ポップコーンを持ち込んだ人がいたらしく、映画後の床に散らばっていた。

ヨンドゥやロケットたちがラヴェジャーズの船を抜け出すシーン、ヨンドゥが口笛で弓を操りながらばったばったと倒していきますが、その時に、背中の後ろがトンと叩かれて、あ!私にも当たった!と思った。
背中のトンはこれまで、登場人物が背中から倒れこむシーンで使われることが多かったが、倒れ込んだ時は背中全体であり、一部のトンは違和感があった。
今回の弓はまさに後ろから矢が刺さったようになって、うまい使われ方だった。

上から撃たれてる感じは空気の粒が上から当てられた。
集中砲火の時も後ろからのトンがあったかもしれない。

ピーターがエゴに力の使い方を教わるシーンでは、手の中に光を生み出したときに、会場全体がぱっと明るくなる閃光が使われていた。

オープニング、タコのような宇宙人?モンスター?を切り裂いて体液がブシャッと出た時には水がかかった。水はここだけだったかもしれない。水が少ないのは珍しい。

代わりに念願のシャボン玉と降雪が見られたのが嬉しかった。

シャボン玉はエゴの惑星へ行った時。映画内でも泡のようなものが浮いていて、指でちょっと触ると分裂して、綺麗で平和で素敵な世界のイメージだった。シャボン玉がよく合っていた。

降雪はヨンドゥ登場シーン。娼宿のようなところにいるときに、外に雪が降っている。

また、ラスト、ヨンドゥが火葬されて、灰がキラキラと宇宙に漂うシーンでも使われていた。

シャボン玉も降雪も、自分の上には降り注がないで、スクリーンのあたり、前方での効果だった。

あと、細かいけれど、ソブリンの女王が雪の中を歩いてくるシーンで、ころころするカーペットが途中で詰まりますが、その時にも椅子がちょっと動いて笑ってしまった。

ガーディアンズが円になっていて、その周りをカメラがぐるりと動くとき、椅子はまるでそのカメラになったかのような動きをしていた。
映像と相まって、実際に周りを動いているように感じた。これが醍醐味だと思うが、映像の中に入り込んだようだった。

どの部分が特にこだわりのある部分なのかとかはわからなかったけれど、動きがかなり細かい部分まで調整されているように思えた。
けれど、本当に、だいぶ動くので酔います。

他、二回目を観た感想。

ヨンドゥのメリー・ポピンズ発言ですが、それを聞いても、ピーターはからかうような表情をしてないんですよね。
むしろ、憑き物が落ちたような表情で「かっこいいよ」と言っている。「あんたは俺のメリー・ポピンズだったんだな」と思ってそう。

笑わせにきているようで、その裏にはちゃんと意味がある。

ベビー・グルートが、ヨンドゥのフィンを間違えるシーンもかなり何度も、しつこいくらいに繰り返される。それは笑いを取る手法であり、グルートの可愛さを堪能するシーンかなと思っていたが、後半のボタンのシーンの伏線なのだ。
あれだけ間違えていた子が間違えずに正しいボタンを押せるのだろうか?というハラハラドキドキ感。でも、しっかり押せて、ちゃんと成長してる具合も見られる。

でも、クリック数オーバーで顔が変形するのはただの純粋なギャグだと思う。

二回目でも、また、二回目だから泣けたところ。

ヨンドゥの葬儀にかつての仲間が来たときのクラグリン。ヨンドゥのことなのに、まるで自分のことのように本当に嬉しそうだし、あの爆発するような喜び方がたまらない。
ショーン・ガンは、ヨンドゥに意見を言うシーンも、謝るシーンも泣ける。

舞い上がっているピーターに、ガモーラが「私たちは家族じゃないの?」と苛立ちをぶつけるシーン。ガモーラらしくないんですよね、ここでイライラするのは。弱さが見えるというか。彼女らしくない一面が見られるのがいい。

ガモーラに関してはネビュラと初めて正面から向き合って、話し合って、わかりあえたシーンも良かった。疑似家族関連の話も、本当の家族の話も両方共いい。

ヨンドゥがロケットを諭すシーンも良かった。
臆病で、自分を隠すためにつっかかると本質を言い当てていた。ロケットやヨンドゥの年齢はわからないけれど、きっとヨンドゥのほうが生きてる年数が多いのだろう。

また、ロケットはごめんなさいと素直に謝っていた。ヨンドゥの言葉でロケットも成長している。

ピーターを助けに行こうとしたガモーラを、ロケットが後ろから撃って「仲間をなくすのは一人でいい」というシーンですが、これ、ピーターのことじゃなくてヨンドゥのことですよね。
あの時点で、ロケットとグルートは、ヨンドゥを仲間として認めてた。それに、ピーターはおそらくヨンドゥがなんとしても、自分を犠牲にしてでも戻すだろうということもわかっていたのだと思う。

ピーターが探していたものは近くにあったと気づくシーン。仲間との楽しい日々の回想。
ピーターと二人で馬鹿笑いするドラックス、ヨンドゥに撃ち方を教えてもらっている子供時代…。

あとやっぱり、オープニングが泣けてしまう。泣くようなシーンじゃないし、曲も泣ける曲じゃないのに。でも、ああ、この映画好きだなーという気持ちが溢れてきて、涙が出る。
もうオープニングから、3Dメガネが曇ってしまうのだ。

そして、おまけシーンの反抗期グルートですが、彼に向かってピーターが「ヨンドゥも苦労したんだろうな!」と怒っていたけれど、ピーターもヨンドゥに同じような態度を取っていたんだろうな…と思うと可愛いやら、面白いやら、でもヨンドゥはもういなくなってしまって少し寂しいやら、いろんな気持ちが混じる。ここも、面白いだけのシーンじゃないのがいい。




『スプリット』



M・ナイト・シャマラン監督。
シャマラン監督作品はそれほど何作品も観ているわけではないのですが、私は前作の『ヴィジット』(2015年)を期待したけれど『ヴィレッジ』(2004年)だったなという感じ。
主演にジェームズ・マカヴォイが抜擢されているのがとても意外だった。けれど、合っていたと思う。

以下、ネタバレです。『ヴィレッジ』、『ヴィジット』など、シャマラン監督過去作のネタバレも含みます。







多重人格の男に女子高生三人がさらわれてしまい、どう逃げ出すのか?という内容であることは知っていた。なので、開始数分でジェームズ・マカヴォイ演じる男が出てきて女の子たちをさらい、監禁していてよかった。おもしろくなるのはそこからだろうし、前置き部分が長いとはやくさらわれろという気持ちになってしまうので。

前作『ヴィジット』は社会問題的なものも含まれていたし、主人公姉弟も成長していた。だから本作も、男が小さい頃に虐待されて、自分を守るために別人格を作り出したことがきっかけで多重人格者になったということだったので、最後には癒しに近い力で救われるのかと思っていた。

カウンセラーの先生も親身になって相談にのっていた。
母に虐待されていたようだけれど、彼女は母がわりのようでもあったし、病気について、周囲の理解をえるべく、学会で発表しようともしていた。
あそこを突破口にしていくらでもいい話にできたと思うのだ。
でも、この映画では、男の中の一番凶悪な人格が誕生して、彼女を殺してしまう。

ビーストというのは、話に出てきても、それが本当に出てきてしまうのはどうなのだろうと思った。
なんとなく不気味だけれど、それは架空の存在である。それが本当に出てきてしまうと話が破綻してしまうというか、一気にファンタジーのようになってしまう。
それは、『ヴィレッジ』を観たときににも感じたことで、話に出てくる怪物が暗喩ではなく、本当に出てきてしまっていた。
今回のビーストも、『ヴィレッジ』の怪物も、こんなのが本当に出てきてしまったらどうにもならないというか、話自体も行き詰まってしまうというか、もう元の場所へは戻せなくなってしまう。

多重人格者というのは、(映画の中で言っていたことなので調べてはいないけれど)人格によって、盲目の人物に視力が戻ったり、重量挙げができたり、糖尿病でインスリンを射つ必要があったりと、普通ではありえないような、まだまだ謎な部分があるようだ。
それは超能力の元になるものではないか?と言われていて、マカヴォイなので少しX-MENを思い出しもした。
ただ、それでも見た目は変わらないと言っていた。

ビーストは、サイのような皮の厚さと言われていたが、実際に刃物?が刺さっていなかった。天井を伝って歩くとか、金属を曲げるとかは、重量挙げの例と同じであり得ることなのだろうか。しかし、筋肉は盛り上がっていた。

ただ、シャマランをあまり観ていないからわからないけれど、怪物にしてもビーストにしても、映画だとわかりやすいように映像にして見せているだけで、劇中には実際には出てきていないのかもしれない。作風がいまいちわかっていないです。

それで、最後にブルース・ウィリスが出てきても、ブルース・ウィリスだなとしか思わなかったが、わざわざダンという名前が出たってことは誰かなのかもしれない。調べてみたら、これが、『アンブレイカブル』の主人公なんですね。
そういえば、『アンブレイカブル』と『スプリット』が一緒になった映画を作るよとシャマラン自身がツイートしていたのは読んだ。けれど、『アンブレイカブル』は観ていない。

ただ、この話は知っていたけれど、ネタバレらしいネタバレというか、どんでん返しがあるらしいけれどわからなかったので、もしかしたら『アンブレイカブル』のことがネタバレだったのかもしれない。
ネタバレ内容を知ってたのが悲しいし、知らなかったとしても、『アンブレイカブル』を観ていなかったので、特に驚きもなかった。
これから観ます。

『アンブレイカブル』のあらすじの最初の方だけ読んだ感じだと、もしかしたら、化け物には化け物をぶつける(『貞子vs伽椰子』のコピー)みたいなことが起こるのかなとも思うけれど、どうなのだろう。

さらわれた女子高生のうちの一人、ケイシーは、幼少期に叔父からの虐待を受けていたので、もしかしたら男とわかりあえるのかと思っていた。
また、この女の子も同じように多重人格だったり、別人格でもって男を倒すのかと思っていた。
また、実はこの女の子も、男の一つの人格だったりして?とも思ったけれど違った。

結局、ケイシーは男から見逃されたけれど、同じ虐待を受けていても、別にわかりあえたわけではない。なんとなく、酷い目に遭ってて良かったな!とでも言うようで少し納得がいかなかった。

また、高校生になった今も叔父と住んでいることがラストでわかり、おそらくそのまま虐待を受け続けていたのも想像できる。
警察に保護され、釈放されるときに、もしかしたら通報したのかもしれないけれど、そこまでは描かれない。

ケイシーは幼い頃に父と叔父に狩りを教わっていた。
閉じ込められていたのは動物園の地下である。
男の目覚めた巨悪な人格はビースト(獣)である。
この辺は、なにかうまいこと繋がらないのだろうか。この事実がぽつぽつぽつと出てくることが繋がりなのだろうか。
それか、もしかしてこれも『アンブレイカブル』関連なのかもしれない。

ちょっと話としては納得ができなかったり、もう少しどうにか…とは思ったけれど、男を演じたジェームズ・マカヴォイの演技のうまさは堪能できた。多重人格なので、いろんなマカヴォイが見られる。

23(+1)人格のうち、映画に出てくるのは6(+7)人格だった。ただ、20何人も出てきたらおぼえられないと思っていたので、これくらいで良かった。残りの人格は続編で出てくるのだろうか。

表情、声、喋り方で、性別も年齢もまったく違う人物を演じ分けていた。

バリーは男の様々な人格の中のリーダー。社交的と言われていたけれど、確かに親しみやすそうだった。ファッション関係のデザイナーをやっているようだった。

デニスは潔癖症で眉間にしわを寄せており、気難しそう。三人を誘拐したのも彼で暴力的。他の人格とは馴れ合わない。

パトリシアは一見、上品でエレガントで優しそうだけれど、ヒステリック。たぶん、影ではとても怖いことを考えている。

ヘドウィグは9歳の子供。脇が甘い部分もあるが、簡単には言いくるめられない。キスに憧れるとかおませさんな部分もあるし、子供特有の邪悪さも持っている。
カニエ・ウェストに合わせて痙攣ダンスをするシーンは特に圧倒された。

デニスがバリーを演じているシーンもあって、さらに複雑。本当はデニスでしょ?と言い当てられて、すっとデニスに戻る瞬間が素晴らしかった。

なんで坊主なのかなと思ったけれど、坊主が一番どの人格でもしっくりする。髪型があると、邪魔になってしまうかもしれない。
また、得体の知れない怖さがある。

ただ、少し過剰な舞台演技になってしまってるとは思った。それは、子供から女性まで、幅広いから極端なくらいの演技のほうが見分けがつきやすいからか…とも思ったけれど、男のもともとの人格、ケヴィンはいつものマカヴォイでなるほどと思った。
ケヴィンが作り出した人格は、わざと極端な演技をしていたのだ。それはまるで、ケヴィンが他の人格を演じるように。
だから、ケヴィンが演じたデニスが演じたバリー…を演じるマカヴォイということになってくる。幾重にも重なった演技の素晴らしさに唸る。




2014年公開『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』の続編。監督は前作と同じジェームズ・ガン。他のMCU作品、『アイアンマン』も『キャプテン・アメリカ』などは続編で監督が変わっていたが、本シリーズは同じである。
他の監督では出せない特別で独特なカラーが確立されたと思う。それどころか、より濃くなっていた。もともと、一作目からかなりアクの強い作品ではあったが、さらに濃い。

以下、ネタバレです。









前作ではタイトルがバン!と出る瞬間が最高でしたが、本作も本当に最高で、みんなが最高だったと言っていたことがわかっているのだろうし、一際のこだわりとセンスの良さを感じた。
前作でもBGMというよりは登場人物が曲をかけて踊るのだけれど、本作も同様である。ただ、前作ではピーター・クイルが一人きりで踊っていたが、本作では彼は前作で見つけた仲間たちと一緒にいる。ただ、踊るのも曲をかけるのも彼ではない。
踊るのと曲をかけるのは、予告編などの段階から可愛い可愛いと好評だったベビー・グルートである。
彼がコードをつなぐと、Electric Light Orchestraの『Mr,Blue Sky』が流れ出す。軽やかなこの曲に合わせて、ベビー・グルートが本当に楽しそうにちょこちょこ踊っている。その後ろで、他のメンバーは緊迫したバトルを繰り広げている。でもカメラはバトルではなく、踊るグルートを追っていく。
もうここだけで最高だし、これこそが『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』だと思う。そうそうこれだと思い出した。
ノリのいい音楽、ダンス、個々の濃いキャラクターの生かし方、シリアスになりすぎない、でもやるときゃやる。作品のトーンがオープニングに凝縮されていた。

同じように本編中でも、グルートに押しちゃいけないボタンを教えるシーンで、外ではガンガンに激しい戦闘が行われていそうだったけれどそれを映さずに、ロケットが懇々と諭すシーンだけが映されている。先頭の途中でちょっとだけスターロードが顔を出したりする。何かが起こっている裏で何かが起こっている。当たり前のことである。でも普通は、戦闘している側をメインで映すだろうに、こっちをメインにするとはおもしろい視点の変え方である。
また、ここでの
ロケット「ネビュラにも聞いた?」
スターロード「(少し考えてから)聞いたよ」
ロ「本当に聞いた?」
ス「さっきヨンドゥに聞いたときに隣に立ってたから聞こえただろ」
ロ「ちゃんと聞いてくれ!」
というやりとりがお互いの性格が出ていておもしろかった。

本作では、このような何気無い会話やおふざけや笑いの要素がより多くなっていたと思う。たぶん、前作では初抜擢だったし、セーブしていたのではないだろうか。今回のほうが、より監督のやりたいように思いっきりできたのだと思う。この作品が作れて嬉しい!という単純な感情が伝わってくる。
序盤なんて、全然関係無い会話をしていてガモーラに「それ、今しなきゃいけない話?」と怒られていた。映画を観ている側も会話を一緒になって楽しんでいたけれど、スクリーンの中の登場人物が一番正論を言う。

檻に閉じ込められたロケットとヨンドゥのためにグルートが活躍する場面は繰り返しがやりすぎ感があったけれど、そのしつこさが好きです。ワープして惑星に飛ぶときの顔の変化も、もはやB級映画である。

惑星ソヴリンは、全身が金色で豪華絢爛、格調高くて、戦闘もゲームのような遠隔操作で…という世界観も監督が作り上げたのだろうか。今回、最初の原因ではあるけれど、サブの存在であるこの星は、この設定だけで、技術力は相当高そうとか、プライドも高そうとかいろいろと想像できる。
ラヴェジャーズの旗艦から切り離されたヨンドゥの船も、ファンネルのようにビームが出る丸型のものが機体に付いていて動く。一斉攻撃をするときにはその丸型が集まっていくのがおもしろい。

別の星もそうだし、機体もそうなのだけれど、さほど重要でない部分の作り込みが凝っていて、今回はほぼ地球外での話だけれど、本当にこの世界があるように思えた。
観ていてワクワクするこの雰囲気はなんなのだろうと思ったが、『スター・ウォーズ』を観ている時の気持ちと同じなことに気がついてしまった。だいぶおふざけが多いし、主人公たちは真っ当ではないけれど。

今回は、ピーター・クイルの父親に関しての話がメインになっている。はっきり言って、王道である。どんでん返しや奇をてらった部分はない。でもちょこちょことわきにそれながらやっているから、メインとなる話がこれくらいしっかりしているのはいいと思う。メインとなる話まで変わっていたら、本当にB級になってしまう。

ずっとさがしていた父。幼い頃に出来なかったキャッチボールを、大人になった今する。偉大な人で、自分もその偉大な力を受け継いでいて…ということを知ったことは、幼い頃に母を亡くし、その後、ヨンドゥにさらわれて、ラヴェジャーズとともに盗みなども繰り返してきたピーターからしたら、初めてまともになれるかもしれないと思えた瞬間だったかもしれない。ほとんど洗脳のように、父の言葉はピーターの心に甘く巣食ったと思う。父の惑星もキラキラしていて、夢のような世界だった。

一方で、ロケット、グルート、ネビュラの一派はラヴェジャーズの旗艦へ。そちらは暗く、汚い。前作でピーターを逃したことで、ヨンドゥは裏切り者扱いをされてクーデターが起こる。ロケットとヨンドゥは一緒の檻に閉じ込められるが、性格がよく似ていた。粗暴な喋り方で素直になれなくて、人付き合いが苦手。でも本当は優しい。それで、お互いが、なんかこいつ似てるなという気持ちになるから、絆が芽生える。

そうして奇妙な友情が芽生えた後の脱出劇が恰好良かった。ヨンドゥの口笛で操る弓を使ってのアクションが爽快。ヨンドゥは口笛を吹きながら歩いているだけなのに、敵がばったばったと倒れていく。弓は赤い軌道が残るのだが、まるで縫い物をするように、綺麗に敵をつなげていく。わざとというか、旗艦の中の電気がパッと消えて軌道だけが光って見える演出も恰好良かった。

ただ、一方ではピーターが惑わされそうになっていて、一方ではヨンドゥの実はいい人っぷりが見えてくると、ピーターと一緒にいる実の父が怪しく見えてくる。
ストーリーの展開は王道なので、その通り、文字通りの化けの皮が剥がれてくる。そして、育ての親であるヨンドゥがピーターを助ける。そうなのだろうなと思う展開でも、これがとてもアツいし、ピーターが今の仲間との絆を確認する展開は泣けてしまった。

結局、ヨンドゥはピーターを救い、自分は犠牲になる。ここまで笑える要素を細かく配置してきたから、もしかしてうっそでしたー!とばかりに生き返ったりするのではないかとも思ってしまったが、生き返らない。
これは、もしかしたらスクリーンの向こうにいる彼らも同じ気持ちだったのではないかと思う。ヨンドゥなら生き返りそう。生き返るのではないか。死んだのは嘘だと言ってくれ。きっとそう考えていただろう。でも、もちろん動かない。

そこへ、ヨンドゥを追放したかつての仲間が弔いに駆けつけ、ラヴェジャーズ式の弔いとして、花火を上げる。
POVではないけれど、ピーターたちが乗っている船に私も乗って、その窓から花火を観ているような映像になる。スクリーンいっぱいに、多数の宇宙船からの花火が映し出される。IMAXで観たので、大画面で色も綺麗で、見応えがあった。
またヨンドゥの飛んでくる弓など、3Dを意識した映像もあったため、IMAX3Dで良かったと思った。
また、4DXの動きは監督監修らしいのでそちらも気になる。観てみたい。

本作は最終的には宇宙を救うけれど、発端はピーター個人の話である。実の父と育ての父、そして、現在、周囲にいる大切な“家族”。ガモーラとネビュラの豪快で愛憎入り混じった姉妹喧嘩もあった。
そういった狭いけれど、身近なものを守っていたら、結果的に宇宙も救われたという感じだ。

だから、一応MCUの中には組み込まれているけれど、続きものではない。インフィニティーストーンやサノスなどは出てくるけれど、アイアンマンなどは出てくる気配はない。この先、彼らがアベンジャーズにどう関わってくるかは気になるところだけれど、あくまでも、アベンジャーズにちょっと出るだけで、ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーには出てこないだろう。原作ではアイアンマンが加入していたこともあるそうだけれど、映画では本当に本シリーズだけトーンが違うし、濃い。トニー・スタークとは合わなそう。

最近のMCU作品は前作とか前々作とか、もっと前まで遡らないと話がわからないことが多い。それはそれで、壮大だし楽しいけれど、本作は単体でも楽しめる貴重なMCU作品だと思う。

もっと言えば、ベビー・グルート可愛いという気持ちだけで、前作を観ずにいきなり本作を観ても楽しめるかもしれない。ギャグも楽しいし、ストーリーは誰でも楽しめる家族ものだ。
でも、いきなり本作を観て楽しい!と思ったら、絶対に前作も楽しめると思うので観てほしい。

ラストではグルートがすでにベビーではなくなっていた。ティーンである。携帯ゲームをしていて、後ろからピーターが話しかけても、面倒くさそうに応対するだけ。まるで、反抗期の息子と父親のようなやりとりが可愛くもおかしい。とてもキュートなベビー・グルートは一作だけという潔さもいいです。

次作も同じくジェームズ・ガンが監督をすることが決まっているらしい。ここまで来たら、最後まで同じ人じゃないと作り上げられないだろう。三作目はさらに濃くなりそうな予感。

また、個人的な好みですが、ピーター・クイルを演じたクリス・プラットが前作よりも、というより他の映画よりもだいぶ恰好良かった。役にはまっていたせいもあるかもしれない。








メキシコとアメリカの国境付近の攻防の話。というと、現在はトランプ大統領がメキシコとの国境に壁を作るという発言をしていたし、今観るべき映画!というような言われ方をしているのもわかる。

主演のガエル・ガルシア・ベルナルはアカデミー賞にプレゼンターで登場した際に、「壁の建設に反対です!」というポリティカルなスピーチを行った。それは、もしかしたらこの映画に出ていたこともあるかもしれないけれど、ただ、この映画の内容としては、政治的なメッセージはそれほどなく、スリラーの度合いが強い。

監督はアルフォンソ・キュアロンの息子であるホナス・キュアロン。この作品の脚本を父が読んで、『ゼロ・グラビティ』の着想を得たという話もあるけれど、ワンシチュエーションからの脱出という点でそう言われればそうかな…という程度。

本作ではアルフォンソ・キュアロンとその弟のカルロス・キュアロンが製作に名を連ねている。

以下、ネタバレです。












メキシコからの移民を乗せたトラックが、国境を越える途中でエンジントラブルを起こし止まってしまい、そこから砂漠を徒歩で越えることになる。
なんとなく、国境にたどり着くまでの話なのかなと思っていたけれど、最序盤でたどり着き、国境も有刺鉄線がはられているが、あっさりと越えていた。本番はそこからである。

移民たちは歩くのが遅い集団とはやい集団とに分かれてしまう。ガエル演じる主人公のモイセスは遅い集団だったが、先を行く集団が何者かに銃で撃たれるのを目撃する。

この先、この襲撃者にずっと追われるんですが、この男の素性や動機が一切明らかにされない。
確実な腕前のスナイパーなので、元軍人なのかもしれない。
動機は単なるレイシストなのか、かなり偏った愛国者なのか。かなり執拗に追ってくるのでもう少し明瞭になったほうがいい気もするけれど、その執拗な理由が不明だから怖いというところもあるかもしれない。

またこの男は相棒として、ジャーマンシェパードを連れている。岩をもろともせずに探しに行くし、見つけたら噛み付いて殺すし、呼んだら戻ってくるなどかなり優秀でお利口。怖いです。実際に警察犬としての訓練を受けた犬らしい。

この犬がいるかぎり逃れられないので、モイセスは犬を殺す。男は犬を殺されたことで、一層恨みを強くする。このような動機が最初からあれば良かったのにと思った。

また、映画はこの男と移民たちの追いかけっこに終始してしまう。
移民たちが国境を越えて無事に逃げのびるために、もう少しいろいろな脅威があったらおもしろかったのにと思う(政治的な話とか実際問題ではなく、映画のエイターテイメント性という意味で)。
男は自警団のような感じだけれど、本物の警察は最初に出てくるだけで仕事をしない。砂漠なので、地表に蛇がうねうねする場面もあるけれど、移民たちではなく、追いかけてくる男たちの脅威になっていた。最初にラジオで「今日は50度になります」みたいな天気予報が流れているが、気温もあまり問題にはされていなかった。水が足りなくなる描写も出てきたけれど、危機ではなかった。
一難去ってまた一難のほうがメリハリがつくと思う。

上映時間も短いし、危機が一つの方がシンプルで緊迫感も続くこともあるかもしれないけれど、悪く言えば飽きてしまう。

一人になってしまったモイセスと犬を失った男との、大きな岩での一対一での攻防はおもしろかった。大きな岩は少し離れた場所から撮られていて、二人の動きが同時に見える。意外と近くにいるのに気付かなかったりとひやひやした。
演じているガエルは小柄なので、岩のくぼみにぴったりとはまったり、岩をひょいひょいと飛び回ったり、その体型を生かした動きをしていた。

一方、追いかけてくる男は大柄である。モイセスが後ろに立ったときに、突き落とすのかと思ったけれど、体ごとタックルしていてなるほどと思った。突き落とすだけの力はない。
また、モイセスが岩の上に立ったときも、そこで大きな岩でも落とせばいいのにと思ったけれど、きっと倒せるだけの大きな石を持ち上げる力は無さそう。

こんな怖い人はさすがにいないだろうし、リアリティというよりはエンターテイメントでホラーだなと思ったけれど、実際に国境付近に自警団がいるらしい。移民の流入を侵略とみなし、退役軍人が武装しているのだとか。
この映画でも、通報しても警察はぽやぽやしていたし、この映画の男も、警察は信用ならないとばかりに自ら排除していたのかもしれない。もしかしたら、これは現実に起こっていることなのだろうか…。






『ハイ・ライズ』のベン・ウィートリー監督。
キャストはブリー・ラーソン、キリアン・マーフィ、アーミー・ハマー、サム・ライリー、シャールト・コプリー、ジャック・レイナーと豪華。
90分、ほぼ撃ち合いのみ。

以下、ネタバレです。







出演者が多いので、最初の姿…例えば、服装とか、髭の有無とか(ただし、だいたい髭)を覚えておいたほうがいい。
あと、大きく分けて二つのグループの対立なので、どちらに誰がいるかも覚えておくとスムーズかもしれない。

開始ほどなくして撃ち合いが始まると、全員移動は匍匐前進、這いつくばって転げまわる。顔もあまり映されない。
ほこりと血まみれで、御髪も乱れ、区別がつきにくくなる。

みんな体のどこかを撃たれ、これ以上は撃たれたくないという気持ちは同じなので、身を隠し、だいたい怪我をしているのでひょこひょこした歩き方になっている。動きも同じなのだ。

序盤はよくある、金を渡して銃を受け取る取引のシーン。場所はどこかの廃倉庫のような場所だ。ただ、撃ち合いの映画という情報は入れていたので、いつ来るかいつ来るかとひやひやしてしまう。

そして、撃ち合いが来てからはノンストップ。ほぼリアルタイムで事態が進行していく。ブリー・ラーソン演じるジャスティンは紅一点ですが、別に女性だからって甘やかされないし、自分からもガンガン撃っていく。

アーミー・ハマー演じるオードは体がでかくてひときわ目立つ。正体不明感というか偽者感がぷんぷんであやしい。銃の扱いにも一番慣れていそうなので、知る人ぞ知るような大物なのかもしれない。もしかしたら、一番髭が長かったからかもしれない。
これは全員に対してだけれど、特に素性は明らかにされない。そんなことをするシーンに時間を割くくらいなら撃ち合うシーンを増やしたいとでも言いたそうな感じである。
もちろん裏設定はちゃんとありそうで、それを予想するしかないが、オードは何か貫禄のようなものを感じた。そして、悪いことも人一倍してそう。

キリアン・マーフィー演じるクリスは一番まともかなとも思いつつ、最初の過剰な試し撃ちの具合から見る限り、まともじゃないかも。
ジャスティンのことが気になっているみたいだったのでロマンス展開があるかとも思ったが、特にそこまで進展はしなかった。
なまりのある英語だったけれど、アイルランドなまりなのだろうか。劇中でもアイルランド人役だったが、実際にアイルランド人である。

最初、クリスとシャールト・コプリー演じるヴァーノンがギスギスしていたので、この二人が打ち合いを始めるのかと思った。一触即発ではあったけれど、なんとか持ちこたえていた。
ヴァーノンは高いスーツを気にするかっこつけで、ちょっと弾がかすっただけで大騒ぎしていた。
撃たれたところにダンボールを巻きつけて、「ばい菌が入らないように」などと言うのはちょっと可愛くも見えて、オードとは逆に小者感が漂っていた。役職(?)は多分上。

ちなみには劇中でヴァーノンは「なまりからしてオーストラリア人か」と言われていたが、南アフリカ系のイギリス人だった。
実際のシャールト・コプリーはアングロアフリカンという、イギリスやアイルランドからの開拓民を先祖に持っている。
キリアンと同じく、劇中の登場人物が実在の俳優さんと同じ人種になっているのかもしれない。

サム・ライリー演じるスティーヴォはいわゆるチンピラで、しょうもないトラブルメイカー。すべての原因は彼でした。彼がジャック・レイナー(『シング・ストリート』のお兄ちゃん)演じるハリーと問題を起こしたことで撃ち合いが始まる。
口だけでいきがっていて、友達は大切にするヤンキー体質。
また、途中でドラッグをやり、しぶとく生き残っていた。痛みを感じていなかったのかもしれない。まるでゾンビのように何度も立ち上がり、まるでゾンビのように、頭を車で轢かれて死ぬ。

映画のほとんどは撃ち合いだけだけれど、ちゃんと人間ドラマだったのがおもしろい。
極限状態だから、本当の性格、本当の自分が出てくる。死にたくないから駆け引きをする。過去や人物の説明なんて、最初にはなかったけど見てるとどんなキャラクターかがわかってくる。

ちなみにこれは、映画の中の登場人物たちも同じで、二つのグループは顔見知りもいるけれどほぼ初対面なのに、撃ち合うことで一気に濃密な関係になっていく。わかり合っていく。ただ、相手がどんな人物かわかったからといって仲良くなる訳ではない。ただ、わかるというだけだ。

撃ち合ううちにわかりあうなんてことがあるのか。撃たれたら死ぬだろうし、そんな時間がないのではないかと思うと思う。
しかし、上映前に監督からの『FBIの資料を読むと、人は一発の銃弾であっさり死ぬことがないのがわかった。そんな悪あがきを描いた映画です。』というようなメッセージが出る。

なるほど。劇中の人物たちは、足を撃たれたり、肩を撃たれたりして、歩けなくなっても致命傷は負っていない。
普通だと、拳銃を出す人物と撃たれる人物がいて、一瞬で関係は終わる。拳銃出されたら、それっきり。コミュニケーションなどはとれない。
でも本作では、撃ち合いが始まってからのさぐり合いが本番だ。
みんな這いつくばって、汗をかいて、もう死ぬみたいなことを言いながら、逃げ惑って、銃を撃つ。もう誰が悪いとかではなくなって、ただ撃ちまくる。

耳をつんざく銃声は映画館ならではのものだと思う。家で観るなら是非大音量で。
がらんとした廃倉庫内だから、余計に響く。他の音はない。

唯一流れるのは、ジョン・デンバーの曲である。緊迫した空間に急に和やかなナンバーが流れるので合わない。ただ、まるでBGMのようだけれど、そうではなく、カーステレオから流れているものなのだ。カセットテープなので、次の曲に移るあたりも芸が細かい。

最後、ジャスティンは何を見たのか。その顔に浮かぶのは恐怖だった。一人だけ無事ということもなさそう。

最初は、豪華俳優さん目当てだったが、思った以上に楽しかったし、アイディアに溢れていた。変わった映画ですがおもしろかった。