原題Sicario: Day of the Soldado。Soldadoはスペイン語のソルジャー。
前作も今作も国境付近の話ではあるので『ボーダーライン』でもいいんですが、今作は特に原題の『シカリオ』にしてほしかった。
監督は前作のドゥニ・ヴィルヌーヴに代わり、ステファノ・ソリマ。監督が代わっても、脚本がテイラー・シェリダンのままだったので、それほど心配をしていませんでした。
また、前作直後にはエミリー・ブラントも続投の予定だったようなのですが、結局、ベニチオ・デル・トロとジョシュ・ブローリンのみ続投。全く違う案件を扱っていることもあり、エミリー・ブラント演じるケイトは名前も出てこない。けれど、それでいいと思う。

前作の感想『ボーダーライン』

以下、ネタバレです。









前作を観た時には、もしかしたらケイトが殺し屋アレハンドロ(ベニチオ・デル・トロ)の心の支えになるのではないかなとも思っていたのですが、そんなウェットな再会は一切なかった。しかし、前作に比べると十分にウェットだったのではないかと思う。
前作はケイト視点だったので、アレハンドロの得体の知れなさが際立った。家族を皆殺しにされたことしかわからない。それもちらっと話してくれるだけだ。ただ、寡黙な男がちらっと身の上を話すのは、少し心を開いてくれたようでそれはそれでたまらなかった。

本作はアレハンドロ視点の部分が多い。また、前作はメキシコ麻薬戦争メインであったが、今回麻薬カルテルが扱うのは麻薬ではなく人間である。現在は密入国ビジネスの方が金になるのだそうだ。時代に合っている。

CIAのマット(ジョシュ・ブローリン)は相変わらずサンダル履きで飄々としている。ただ、序盤の海賊に対する拷問からして、かなり非道な手を使うのも厭わないというのが明らかにされる。直接肉体を痛みつけるわけではなく、家族が住む家を上空から映し出すカメラを見せて、おそらく無人機にて空爆する様子を見せる。これも今風である。『アイ・イン・ザ・スカイ』を思い出した。

マットとアレハンドロは麻薬カルテルを撹乱するためにハッタリにハッタリを重ねて、もう何が本当かわからなくなる。麻薬カルテルのボスの娘を誘拐して目隠しをし、DEAの服に着替えて、「助けに来たぞ」と言う。しかもこれが国の指示というのがすごい。

マットとアレハンドロはボスの娘イサベルを移送する。この途中で、攻撃されるんですが、このシーンがかなり迫力があった。カメラは車の中にいるので、イサベル(一応一般人)と同じ視点だ。しかも、長回しなので、容赦ない銃撃戦のど真ん中に置かれる。臨場感があり、怖かった。
ここではメキシコ警察もろとも皆殺しにしますが、本作は人が死ぬ数が多い。最初の自爆テロのシーンでも、犯人に向かって、母子がやめてほしいと懇願するが、母子もろとも吹き飛ぶ。普通情けを見せるシーンになりそうなものだけれど、ここも容赦なかった。

銃撃戦のごたごたでイサベルが逃げ出してしまう。マットたちはを先に帰らせて、アレハンドロだけが残り、イサベルを探すことになる。
ここでなんですが、イサベルが走って来た車に助けを求めるんですが、ここから出て来るのがあからさまに悪い奴なんですね。見た目から悪い。で、イサベルも逃げようとするんですが、連れ去られそうになったところで、アレハンドロが悪い奴を撃ち殺して救うという……。しかも、殺し屋とはいえ、見た目だけとっても、明らかにアレハンドロの方が良い。
銃撃戦に巻き込まれたあたりからイサベルに共感しながら観ていたので、ここで救ってくれたアレハンドロのことが王子様に思えた。

ここから二人で行動することになるのですが、ここからの展開はヴァイオレンス描写はあってもハッタリがなくなって、人間と向き合うヒューマンドラマになっているのがおもしろかった。
親子ではない女児と中年男性、決してベタベタしない関係、行かなくてはならない場所があるのに絶望的な逃避行…といった点から、『ローガン』の二人の関係性に似ていると思った。
そのためか、西部劇テイストを感じたのですが、本作のステファノ・ソリーマ監督の父親が『狼の挽歌』などで知られるマカロニウエスタンの監督、セルジオ・ソリーマだと聞いて、大いに納得してしまった。

アレハンドロの心境の変化というか、どんどん優しい部分が現れて来るのがたまらなかった。前作ではちらっと見えただけだったが、本作では内面が現れて来る。
寡黙なのは変わらないけれど、ぽつんとある一軒家の聾唖者の男性に、手話で語りかけるシーンがとても良かった。普通に喋るよりも手話の方が雄弁だった。娘が聾者だったので手話が使えるのだと言っていたが、手話で会話している時には、娘に話しかけていたことも思い出していたにちがいない。
そして、一緒に行動する中で、イサベルのことも娘のように思えた部分もあると思うのだ。
しかし、その少し後に、イサベルの父がアレハンドロの家族を皆殺しにしたことが明らかになる。それでも、アレハンドロはイサベルのことを守ろうとしているのだと思うと余計に痺れる関係性である。
ちなみに、聾唖者の男性の家で休ませてもらった時に、『ローガン』のように、追っ手が現れて関係のない人物が殺される展開があったらどうしようかと思った。この映画のヴァイオレンス具合も酷いのでやりかねないと思ったけれど、それは無くて良かった。『ローガン』のあれは本当に酷くて、今でも思い出してしまう。

この映画は、もう一つの物語が並行するように描かれていた。国境沿いのアメリカ側、テキサス州に住むミゲルは、最初は学校の普通の子供とも会話をしていたけれど、従兄の誘いで徐々に麻薬カルテルの世界へ入っていく。14歳なのでまだ子供なんですが、大金を貰いながら仕事をするシーンが合間合間に入る。アレハンドロたちとどうつながって来るのかと思ったら、ミゲルはアレハンドロの顔をおぼえていて、密入国をする人々に紛れていたところを告げ口するのだ。そこで、アレハンドロとイサベルはばらばらになってしまう。また、アレハンドロを撃って殺すのもミゲルだった。

ここまでもどうなるかわからない展開が続いていたけれど、それでもアレハンドロとイサベルはなんとかうまくすり抜けてアメリカに戻れると思っていた。まさかアレハンドロが殺されてしまうとは……と思っていたら、肉片のようなものを落としながらもアレハンドロは生きていた。しかも瀕死状態なのに車を運転していた。一度、道路をはずれたところで車が止まった時には動かしたはいいけれど、死んでしまったか…と思ったけれど、車は再び動き出した。不死身である。

イサベルはというと、マットに救助されていた。マットもここまで非道だったし、イサベルのこともメキシコ警察を殺しているところを見られたし本当ならば口を塞がなくてはいけなかったけれど、救ったのだ。これは、アレハンドロが命がけで守ったことを思ってだと思う。
中盤以降は直接的なやりとりもなかった二人だけれど、ちゃんと考えているというのがわかって良かった。

ミゲルは14歳ながら人を殺したことで度胸が認められ、カルテルに正式に入ることになる。もう序盤のおどおどしていた様子はない。アレハンドロたちの話の裏で、もう一つ、少年の成長(?)物語も描かれていた。

この映画は更にここからが痺れた。舞台は一年後に飛ぶ。
ミゲルは一年でかなり成長(?)したようで、タトゥーが入り、見た目や服装もマフィアのようになっていた。調子に乗っているようだった。そんなミゲルが、控え室のような場所にいたところ、現実を見せつけるようにアレハンドロが現れる。死んだと思っていた、殺したと思っていたアレハンドロが。
ミゲルはアレハンドロを殺したことで今の地位や今の自分になれたわけで、彼が生きているとなるとアイデンティティが揺らいでしまう。それに、ああ、殺されると恐怖もするだろう。
そこで、アレハンドロは「シカリオ(暗殺者)になりたいか?」と問うのだ。これは、タイトルを『シカリオ』にすべきだったと思った。『ボーダーライン』ではセリフが効いてこない。まあそもそも、この映画を観に行くくらいなら、原題を知っているかもしれませんが。
そして、控え室の扉が閉まり、扉の外にいる私たちは中でどんな会話が交わされるのかわからない。そもそも、単なるスカウトなのか、それとも殺す前のセリフなのかもわからない。けれど、アレハンドロの最強具合がわかって、めちゃくちゃぐっとくるラストでした。

『シカリオ』は一応三部作らしい。次作があるのか、またイサベルとミゲルは出てくるのか、出てこずに一作目と本作のようにまったく違うものになるのか。いずれにしても、アレハンドロの王子様っぷりは変わらないと思うので、絶対に制作してほしい。



イアン・マキューアン『未成年』が原作。日本ではまだ公開が決まっていないけれど、イアン・マキューアンなのと、主演がエマ・トンプソンなのと、A24なので公開もしくはソフト化はされるのではないかと思う。
監督は1967年から様々な劇場のディレクターをしているリチャード・エアー。

裁判官のフィオナ(エマ・トンプソン)は仕事は順調だったが夫との仲がうまくいっていない。そんな中で白血病で輸血しないと死んでしまうが宗教上の理由により輸血ができない少年、アダムと知り合う。
このアダム役が『ダンケルク』のフィン・ホワイトヘッドだったので観ました。

以下、ネタバレです。








日本でもエホバの証人の信者が輸血を拒否する事件がありましたが、本作ではアダムの両親が敬虔な信者であり、アダムの意思を確かめるために、フィオナはアダムが入院している病院へ向かう。

明日までに輸血をしないと死んでしまうということで、アダムは色が真っ白で体に管がたくさん繋がっている。両親だけでなく彼自身も敬虔な信者なので、ここまで自分の意思で輸血を拒んでいた。
白血病になるまでのアダムのことはわかりませんが、両親の教育のせいか、自分の性格なのか、純粋で悪く言えば世間知らず。世間知らずというか、世界を知らない。浮世離れしている。肌の色だけでなく、心の中も真っ白のようで、17歳という年齢よりも子供っぽく見える。人工中絶はもちろん、マスターベーションすら禁止ということで、性的な経験も一切ないのだろうし、興味があるのかどうかもあやしい。17歳の思春期の男の子とは思えない。
ティモシー・シャラメが演じるような完璧美少年ではなく、危うい部分のある美少年だった。少女漫画作画ではあるけれど、ぶわっと興奮気味に一気に話して鼻の穴を膨らませたり、怒ったり泣いたり馬鹿にしたり笑ったりと、表情がくるくる変わる。特に帰り際の寂しがる表情。あんな子を置いて病室を出られますか…。
また、顔のアップも多く、ヘーゼル色の瞳が綺麗でまつ毛も長い。

子供っぽいけれど、感受性は豊かで、病室で詩を書いたり、ギターを弾いたりする。原作ではヴァイオリンでしたけれど、ギターに変更されたのは、弾ける、もしくは弾く演技のできるほうに変えたのだろうか。おじいさんのギターだというのがまたよかった。
弾いた曲に合わせてフィオナが歌うんですが、ここでアダムはフィオナを認める。一緒に歌った経験が彼の中で光り輝くのがわかる。恋に落ちた瞬間にも見える。

結局、生命維持を優先して輸血をすることになるのですが、この時の、チューブを流れて来る他人の血を見る怯えた表情も素晴らしかった。どうしても受け入れられないといった表情。入ってきたからも、絶望の表情をしていた。映画にはなかったけれど、「他人の唾を飲むよりひどい」のだそうだ。

退院後のアダムは見違えるように元気になって、年相応に見えた。生きるって素晴らしいという生命力に溢れているように見えた。もともとの宗教を捨てたように見えたが、今まで縋るものがあったからなのか、新たにフィオナを神格視してしまう。もしかしたら、両親がまだ敬虔な信者のようだったから、他人の血の入ったアダムともめたのかもしれない。親子仲はあまり良くなさそうだったから、フィオナを親代わりとして見てしまったのかもしれない。
原作ではフィオナから返事がこなくてもひたすら手紙を出していたけれど、映画ではボイスメールを入れていた。また、原作だと、住所の書いていない宛名だけの手紙が置いてあり、裁判所まで来ていたというのが示唆されるけれど、映画では実際について来ているシーンがあった。そこで自作の詩を渡していた。
原作にある7通目の手紙の「ケーキは食べてしまえばなくなるけれど、このケーキは食べても手の中にあった。彼らの息子はケーキだったのです!」みたいなくだりが好きだったので、映画にはなくて残念。アダムはもともと詩を書く子だから、手紙も少し詩っぽいんですよね。それが、ボイスメールであったり、直接会って話すということだとちょっと意味合いが違ってしまうとも思う。でも、アダム(フィン)の出番が増えているのは単純に嬉しかった。

ニューカッスルまでついてきちゃったシーンは原作にもあったけれど、遠くまでついてきてしまったこと、雨に濡れて髪がびしょびしょなことなど、映像で見るとより普通じゃない感が出ていてよかった。
ここで、一緒に住みたいという願いを断り、アダムは傷ついてしまう。
また、問題のキスシーンですが、原作だと、フィオナから頰にキスをしようとして、タイミングがずれてアダムがフィオナの首に手をまわすんですが、まわさなかった。フィオナからはせずに、アダムからでした。手は体には一切触れずに、顔だけ近づけてのキスでした。
原作だとこの後、フィオナがこのキスのことを結構しつこくずっと考えているんですが、映画だとまったく考えていなかった。原作はフィオナ視点でフィオナの心の中がつぶさに描写されてるんですが、映画だと特に心の声のようなものはないから、もしかしたら、考えてはいたのかもしれない。でも、察することもできなかった。
また、原作だと、このニューカッスル事件の後に、フィオナの元にアダムから詩が届く。アダム・ヘンリーのバラードというタイトルで、フィオナに裏切られた悲しみが書かれていて、最後の行が塗りつぶされている。これもあるとないとでは違ってきてしまうと思うのでカットしてほしくなかった。ただ、この映画のポルトガルでのタイトルが、『A Balada de Adam Henry』だったので、もしかしたらどこかに要素があったのだろうか…。
映画だとニューカッスル後の展開がとても駆け足になる。

駆け足になるけれど、原作にはない、アダムが自室で両親と喧嘩をするシーン、アダムが一人で裁判所に来て物憂げな表情をするシーン(ここがアダム・ヘンリーのバラードなのかも)やアダムが病室でいままさに死にそうになっているシーン、アダムの葬式シーンが挿入されていた。これも、アダムの出番が増えるのは嬉しいのですが、病室では土気色でもう本当に死にそうな状態で、近くに両親がいないのは何か理由があることなのかどうかわからなかった。理由がないなら不自然。
また、原作だとフィオナが福祉を頼ればよかったと後悔するシーンがあり、それもカットしないほうがよかったと思う。
アダムは再度病気になった際に輸血を拒み、死んだ。それは、フィオナに裏切られたことで元の宗教に戻ったのか、そのていを取りながら、絶望のあまり自殺をするために拒んだのかわからない。原作でも明らかにされないし、映画でもわからない。
けれど、それに対してフィオナがキスをしたからいけなかったのではないかとか、自分の家に住ませることはできないけれど何かできることがあったのではないかと考えるシーンは欲しかった。

アダムが出て来てから一気に話が加速するのは私がフィン・ホワイトヘッドが好きだからかもしれないけれど、前半30分くらいのミッドライフクライシスや法廷劇はちょっと地味かなとは思う。それでも、なんとか日本でも公開してほしいがどうなるか。






IMAXレーザーというと109シネマズ大阪エキスポシティのものが有名ですが、このたび109シネマズ川崎と名古屋にも導入された。そのプレオープンで『ダンケルク』の上映があったので行ってきました。
ただし、大阪のレーザーはGTテクノロジー(旧次世代レーザー)という名称で、スクリーンの大きさがここだけ。川崎と名古屋はスクリーンサイズについては同じである。
なので、普通のIMAXと見比べてみないとなんとも言えない。特に音については感覚でしかないのでわかりにくいけれど、最初の兵隊たちが後ろから撃たれるシーンの銃声から迫力があった。桟橋に爆弾が落とされるシーンも内臓に響きました。ただ、普通のIMAXも内臓に響いた気はする。
一番気になったのは、民間船が遠くから来るのを双眼鏡で見るシーン、ボルトンが「Home.」と言う前に不穏な音が流れていますが、あの音の低音部分はびりびりと響きました。

色については、特に太陽光が当たっている部分について、鮮やかに見えました。肌の質感も繊細に見えた。ただ、このあたりも普通のIMAXと比べてみないとすべてわかりません。家でのBlu-rayとは比べてみました。
トミーが最初に浜に出るシーンで初めて日光が当たる。イギリス兵を埋めているギブソンの顔色がよく見えた。もしかしたら、顔の赤みを強く拾って血色がよく見えたのかもしれない。Blu-rayでは特に顔色がいいとは感じなかった。

上映前に『IMAXレーザーのここがすごい』というような映像が流れますが、その時に使われているのが夕焼けの映像だったので、暖色が特にビビッドに出るのかなと思った。

コリンズは飛行機に乗っていることもあって、日に当たることが多い。海水に沈むシーンは特に明るく日光が当たっていて、髪の毛のオレンジ色が目立った。ただ、これはBlu-rayでもだいぶオレンジ色が強く出ていた。そのほかにも、瞳の青さが気になった。

青色だと、トミーたちが魚雷に攻撃される駆逐艦に縄ばしごで乗り込むちょっと前のシーン、小舟に乗ったトミーの後ろの海が異常に青かった。これもBlu-rayだと特に気にならないシーンだったので驚いた。

また、魚雷に攻撃されたあとで小舟に乗って浜に帰って来るシーン、夜明け前の色はBlu-rayでも綺麗なんですが、IMAXレーザーでははっとするほどの色になっていた。青と灰色が混ざったような色で、地獄のような天国のような、この世ではない場所のようになっていた。

普通のスクリーンやBlu-rayだと暗くなってしまう部分についてもよく見えたけれど、これももしかしたらIMAXなら見えるのかもしれない。
船室内にいるピーターの、特に目元は真っ暗で見づらいんですが、暗くてもちゃんと表情がわかった。もしかしたら、スクリーンの大きさのせいもあるのかもしれない。
ドーソンさんの着てる紺のセーターも日が当たると結構毛羽立っているのが見えた(ジョージに「彼はShell-Shockだ」と説明するシーン)が、これもスクリーンの大きさだと思う。

前目で観るのが好きなんですが(目が悪いので後方だと毛羽立ちがわからなかったかもしれない)、段差がそれほどついていないので、前すぎるとスクリーンの下部が前の座席にかぶってしまっていた。私が背が低いせいもあります。
前が通路になっているF列は少し前過ぎた印象。J列とK列がエグゼクティブシートなので、その前のI列もしくは後ろのL列が見やすいのかもしれない。
また、前方3列はロッキングシートという座席で、寄りかかると背もたれが少し後ろに動く。シート自体は快適だけれど、やはり前方なのでスクリーン下部が少し見えない。





白いシーツを被ったゴーストのポスターが印象的。死んだ夫がゴーストとなって妻を見守る…というあらすじからラブストーリーだと思っていたけれど、それよりはタイトル通り、ゴーストの話だった。
監督は、デヴィッド・ロウリー。
スクリーンがスタンダードサイズで四隅が丸いという特殊なものなので、テレビだと小さくなってしまうかもしれない。プロジェクターをイメージしてるとのこと。
また、サウンドと、逆に音のない静寂部分も素晴らしいので、映画館向け。
長回しシーンも多くあるので、映画館の方が集中できると思う。

以下、ネタバレです。












まず、ゴーストのデザインがとてもいい。
白いシーツに黒い目が点々と付いてるだけだけれど、目があるから顔がどっちを向いているかわかりやすい。振り返ってる!とか、見てる!とか。喋らないし(字幕でゴースト同士のやりとりはあり)、表情はないのに気持ちがわかる。
あと、一応幽霊だけれど、怖くない。

音楽もいいんですが、それが止んだ時の、夜の虫の声と朝になって鳴く鳥の声、鼓動、風の音、テーブルで書き物をする生活音などが丁寧に切り取られている。できるだけ静かな環境で、耳をすませながら観たい。

ケイシー・アフレック演じるCとルーニー・マーラ演じるMが夫婦で、ポスターなどにもこの二人の名前が書いてあるから二人を中心に進んでいくのかと思ったらそうでもなかった。Cは序盤で交通事故で亡くなり、Mが残される。Cはシーツを被された状態でむっくり起き上がり、歩き出すが、誰にも姿が見えていない様子。声も出せないし、触れても気づかれない。

リンダという女性がMのいない間に家に入ってくる。説明台詞というか、台詞がほとんどないので、この人が誰だかわからないんですが、鍵を持っているということは姉か妹かなと思いながら観ていた。ただ、元気を出してというような手紙を置いていくけれど、壁の塗り直しのことなど業務連絡も書いてあって、本当の要件はこっちだろうと思うし、何かホールの食べ物(チョコレートパイらしい)を、一人になった人のところに持ってくるって相当無神経である。特に説明や喋ることはなくても、こんなちょっとしたことで性格がわかる。後からわかったんですが、姉妹ではなく不動産屋でした。すごく納得した。家族はこんなに冷たくない。

家に帰ってきたMはパイを床に座って、切り分けもせずにやけ食いのようにガツガツ食べる。ゴーストとなったCはそばに佇んでそれをじっと見つめている。
私たちはスクリーンのこちら側からさらにその様子を何もできずに観ているわけで、私たちもゴーストと同じだと思った。スクリーンの中の生あるものに声をかけることも触れることも干渉することもできない。
ガツガツいく様子をカメラは動かずにじっととらえる。おそらく4分くらいの長回しです。しかし、Mは途中で急に立ち上がり、トイレに吐きにいく。一切台詞はなくても、これだけで悲しみが伝わってくる。客席の私たち、そして向こうのゴーストには何もできない。

Mはこのまま家に残るのかなとも思ったけれど、引越しは決まっていたようだし、出て行ってしまった。おもしろいのは、CはMに着いていくのかなと思っていたのに、どうやら家に憑いているらしかった。序盤で夫婦がポルターガイストに悩まされていたので、他の霊もいるしここが住みやすい家なのかなと思った。

引越し前の片付いた部屋というのはとてもさみしくなるものだけれど、もしかしたらこのCのように、知らぬ間に何か親しい存在と一緒に暮らしていたのかなとも思ってしまった。

家にはラティーノの母一人子二人の母子家庭の一家が入居してくる。スペイン語の字幕はついていないけれど、表情などで大体どんな内容かはわかる。けれど、細かいセリフなどはきっとそれほど重要ではないのだろうなと思った。
この家族も見守るのかと思ったら、大暴れしてポルターガイストを起こし追い出していた。

その次は誰が所有していたのかはわからないけれど、若者がパーティーをしていた。うち、一人がなんとなく知ったようなことを長く話していたけれど、いまいち納得のできない内容だったし、聞いてた仲間たちもハテナって顔をしていて私も同じ顔になってしまった。

このまま、この家に住む人々のいろんな面を見続ける話なのかな…、それはどうだろう…と思いながら見ていたら、どれくらい時間が経ったのかはわからないが、家が廃墟になっていた。
ゴーストだから年は取らないし、時の流れも感じているのかいないのかよくわからなかった。でも、家はぼろぼろになっても、自分は変わらずそこにいる、この時の流れのズレは孤独感を生じさせるものだと思う。それに、この時の流れがズレてしまうのは私の大好きなパターンです…。

序盤、Mが、「子どもの頃、引越しが多かった。紙に詩などを書いて小さく折りたたんで部屋へ隠しておく。また戻ってきた時にそれを見るとその時に戻れる」というようなことを話すシーンがあった。
Mが出ていったこの家にもメッセージが隠してあり、Cはそれがどこにあるのか知っていた。
しかし、メモを取り出そうとしたタイミングで家が取り壊されてしまう。

私は、壊された時でもぼろぼろになった時でも、何かのタイミングでMが家に戻ってくると思った。あのメモの内容を確認しに。そして、ゴーストの存在をなんとなく知って…みたいなことが起こるのかと思ったけれど、そんないやらしい泣かせのシーンは一切無かった。
Mはもう帰ってこない。

こんな酷なことがあるのか。家が無くなっても、ゴーストはそこに居続ける。
家の跡地にはビルが建ち、ビジネスマンが闊歩するその中を歩くゴーストという、シュールながらも物悲しいシーンもある。ゴーストは全てに絶望したのか、ビルから飛び降りる。
前の家で若者たちがパーティーを始めたあたりから話の流れに納得できない感じになっていたし、ここで終わったら嫌だな…と思っていた。

けれど、終わらずに、ゴーストのCは原っぱにいる。
男が原っぱにペグのようなものを打っている。
ゴーストがいるということは、ここは家があった場所なのかなとも思うけれど…と思いながら見ていたら、馬車がやってきて、時代がわかる。

ここに家の建つ前に時代が戻った。これで、ああ、ゴーストだから時をこえてしまった…と思った。本当に私の好きなタイプの話だった。何十年どころではない。何世紀も、過去も未来もこえて、CはMのことを待っている。
ペグのようなものを打っていた男は、家族に「ここに家を建てるぞ」と話していたが、次のシーンで先住民の声がして、あれ?と思ったら、次のシーンでは、家族全員が弓矢で殺されている。
ここも説明は全くないし、直接の描写はないけれど、開拓者が先住民族に襲われたのだ。
さらに次のシーンでは死体がミイラに、次のシーンでは白骨化している。時があっという間に流れていく。
とてつもない時を超えていく。ゴーストの真っ白だったシーツも汚れていて、それを見るだけで、孤独に過ごした時の長さがわかるようで、涙が出てくる。

そして、次のシーンでは、あの、無神経なリンダが、CとMの夫婦に家を紹介していた。ここで、ああ、家族かと思ったら不動産屋だったか…道理で…と思った。
でも、やっと、ゴーストは再びMに会えた。

けれど、会えたからといって、引っ越さないように仕向けるとか、Cの事故を未然に防ぐとかってことはできない。未来を変えることはできないから、ゴーストが増えちゃう。Mを見ているCのゴースト、を見ているCのゴースト(シーツが汚れているほう)といった具合に。
でも、Cが引っ越したくないと言っていた理由はわからないけれど、もしかしたら何か介入してたのかもしれない。
ゴーストはせいぜいポルターガイストを起こすくらいしかできない。それは映画の序盤で起こっていた怪奇現象ですね。ループしていた。

ゴーストが増えた時点で、シーツの汚れているほうのゴーストは、Mが隠した小さく折りたたんだ紙を見る。そして、内容を読んだところで、ぱっと消滅する。汚れたシーツだけがふわっと残される。
紙に書いてある内容については明らかにされない。けれど、少し前に、正面の家にいたゴーストが、誰かを待っていたけれど来ないことがはっきりしたという時にぱっと消える。おそらく、未練がなくなったところで消える(成仏?)というルール説明です。
なので、Cについても、メモの内容は明らかにされなくても、何かしら、納得すること、未練が消えることが書かれていたのだと思う。

紙に書かれていた内容が明らかにされるのはちょっとウェットすぎると思うし、ここまで見てきたこの作品には似合わない。極力説明台詞はない。死んだ夫が妻を見守るなんていくらでもおいおい泣かせることができそうだけど、そんなベタなことはやらない。このあっけなさがとても良かった。それでもボロボロに泣きました。

こんな終わり方だったら嫌だな…が全部回避されて、ものすごく納得したラストだった。だから、私はこの映画がとても好きになりました。

あと、またA24です。ますますすごいなといった感じ。




BBCにて2016年放送の全5話のミニシリーズドラマ。
アナイリン・バーナードが出ているということで観ました。
13歳で誘拐された少女アイビーが、13年ぶりに誘拐犯の元を逃げ出して帰ってくるところからスタートする。
アイビーとアイビーの家族や周囲の人物の離れていた期間の時間の埋め方に焦点が当てられていた。単に犯人探しをする話ではなく、誘拐事件という一つの出来事を通して、周囲の人物の心情の変化がつぶさに描かれていて、群像劇的な側面もあった。

アイビーが帰ってきた時点では、家族はばらばらである。父は不倫をしていて別居中、母も父以外の男性と会っているときにアイビーがさらわれたということで罪の意識を抱えている。妹もあれが本当に姉だとは思えない。
それでも、娘が13年ぶりに帰ってきたのだから、元どおりの状態で迎えてあげたいと努力をする。父は不倫相手と別れる、母は過保護すぎるくらい過保護になる、妹は婚約者そっちのけで姉を大切にする。しかし、良かれと思ってやったこれらのことが、アイビーの孤独感を高めることになってしまう。妹も婚約者と不仲になってしまうなど、いろいろな齟齬が生じる。

かつて、といっても誘拐される前の話なので13歳の頃に好きだったティム(これがアナイリン・バーナード)と友人エルとのエピソードも切なかった。ティムはアイビーに寄り添おうとするし、理解者であろうとする。けれど、すでに結婚している。それなのに、アイビーの前では指輪をはずすし、結婚していることを言わないんですね。優しいけれど、ずるい。
しかも、1話では戸惑うように作り笑いをしていたのに、2話では戸惑いも消えてすっかり恋をしている表情になっていた。口調も優しいし、13年間のヒットソングを入れたiPodを渡すあたりが憎らしい。片耳ずつイヤホンで聴くシーンも出てきた。
草原を二人で走るシーンは美しかったけれど、アイビーだけが13歳で時が止まっているけれど、ティムは進んでるんだよな…と思い、切なくなった。二人の時がずれるパターンです。
ティムは結局アイビーに結婚していることを言えないままで、しかも妻であるヤズには「結婚したことを言った」と言っていて、もうこれは優しさではなく気弱でずるいだけだなと思った。当然バレます。それで、アイビーの孤独感はまた強くなる。
けれど、4話になると、「僕はアイビーのことを愛しているかもしれない」などと言い出して、本当にずるいなと思っていたら、友人のエルが思いを代弁してくれた。なんでも、ティムの初恋の人がアイビーらしいが、「あなたはノスタルジーと罪悪感を感じているだけ」と。本当にそうだと思う。アイビーといると、自分も13歳の頃の気持ちになっていたのだろう。純粋で、何も難しいことを考えなくてよかった頃。好きだという気持ちだけあれば十分だった頃。2話の最後、二人で踊るシーンなどは本当にピュアだった。そして、好きだったにもかかわらず、彼女が帰ってくるのを待たずに結婚してしまったことの申し訳なさも当然あるだろう。しかし、それは錯覚だと思うし、何よりヤズはどうするつもりだったのだろう。別れることなんてできなさそうだ。
結局、ティムはアイビーに夢を見すぎていると思うし、妻と別に面倒ごとのない中で好きというのは不倫のような都合のいい関係にも思える。
エルは面倒だから結婚しないと言っていた。性別問わず、関係を持っていて、自由奔放に生きているようだった。けれど、もしかしたらアイビーと一番近くにいるのは彼女かもしれないと思った。エルに関するエピソードは消化不良気味でした。
ティムはアイビーに、「ヤズと会った時に僕は最悪の状態で…」と言い訳をしていた。どう最悪だったのか知りたかったけど、その辺のエピソードは無い。また、ベンチに座って話している時に、手をアイビーの方に出して、自分からは握らずに握らせるのも本当にずるいと思った。
きっと、彼のような優しいけれど気弱な男性は、ヤズのような女性に引っ張ってもらったらいいと思う。アイビーとでは合わなさそう。

アイビーは皆には相手がいるのに自分はひとりきりなことで孤独を実感していく。ただでさえ、13年という長い期間、周囲の人と離れて過ごしていたのだ。そのために、話を聞いてくれた男性刑事にも依存しそうになっていた。
この事件は男性と女性の刑事が二人で担当していて、二人は恋人ではないけれどまあまあ良い関係のように思えた。けれど、捜査方法をめぐって対立していく。
この二人の刑事が捜査大詰めという段階で、犯人を追跡中に事故にあって、一人はICU、一人も大怪我で追うことはできなくなってしまう。終盤で二人が捜査の最前線から離脱する意外な展開に驚いたんですが、そこでも、どうやらこれは犯人探しが主題ではないのだなと察することができた。

犯人の名前は1話ですでに明らかになるし、顔も判明する。
最終話でアイビーはもう一度犯人に監禁されるんですが、そこで、彼女がどんな目に遭っていたかの一端がしめされて、もう本当に気持ちが悪かった。犯人逮捕が主題ではなく人間関係の話だというなら、犯人をここまで気持ち悪くする必要があったのか…。
小さな女の子をさらってきて、16歳になるのを待って、子供を作って、家族になりたいという。彼のこれも孤独なのかもしれないけれど、見ていられなかった。
自分好みのワンピースを着せたり、髪を洗わせたりと、もう描写をするのも嫌なくらい気持ちが悪かった。

アイビーを必死に探すうちに家族は団結、アイビーも逃げ出して大団円といったところではあるんですが、もう1話くらい欲しかった。短いシリーズにありがちなんですが、後日譚が欲しい。
個人的には、エルとアイビーがもっと仲良くなるところが見たかった。


クイーンとフレディ・マーキュリーの自伝的な映画。監督はブライアン・シンガー。
クイーンの曲が素晴らしいので、それだけでも失敗はないだろうと思っていたけれど、メンバーを演じる俳優が似ているのと、クイーンに対する敬意のようなものが存分に感じられた。

以下、ネタバレです。







ネタバレとはいっても、クイーンでライブエイドに出ることは知っていたし、ジム・ハットンがパートナーであることも知っていたし、エイズで亡くなることも知っていた。だから、クライマックスはわかっていたのだ。私は普段はネタバレを絶対に入れないようにして映画を観ますが、逆に、ネタバレを入れて、展開がわかった上で安心して映画を見る方もいるようで、今回はその気持ちがわかりました。でも、基本的にストーリーで驚きたいのでネタバレは入れません。

ただ、結成までの話や、フレディ・マーキュリーの生い立ちなどは知らなかった。根本的なところというか、フレディ・マーキュリーがザンジバル出身なことも知らなかった。本人は隠したがっていたとのことだったので、曲は好きというくらいの好き具合では入ってこない情報だったのだろうか。
どの程度実話なのかはわかりませんが、「パキ(スタン)野郎」と罵られながら空港で働いていたことも知らなかったし、その時に出会った女性と一度は恋愛関係になったものの、別れ、それでも友情は続いたということも知らなかった。

もちろん音楽映画なのですが、セクシャリティが揺らぎ、それは公表できずに、男性や多数の人間と関係を持ち、エイズになってしまうという、80年代を舞台にした同性愛映画の側面もあると思った。現代なら、あの時代ほど同性愛に厳しくないだろうし、公表をしていたかもしれない。また、エイズも不治の病ではなくなっている。
今年はNTLですが『エンジェルス・イン・アメリカ』や『BPM』など、80年代同性愛映画をよく観ているんですが、この映画もその一端だと思った。しかし、これはフィクションではなく、フレディ・マーキュリーの人生だというのもすごい。

バンド自体というか、この映画本編として、ファンとして観に行っていたバンドからボーカルが抜けて雇ってもらう→売れる→ボーカルのワンマンになっていき、バンドが不仲になる→一人になったボーカルが荒れた生活をする→ボーカルが反省をしてバンドに戻る→ライブで大成功というのは、よくあるといえばよくある展開だと思うし、他のバンドとさほど変わらない。『ジャージー・ボーイズ』も再結成はしないけれど似たような展開である。

それでも、曲のワンフレーズをぽろんと弾いただけでどの曲がわかるのもバンドとしてすごいし、タイトルにもなっている有名曲、『ボヘミアン・ラプソディ』のレコーディング風景は曲が良い上に、バントとしても楽しそうで、観ていて笑いながら泣いてしまった。

フレディ・マーキュリー役のラミ・マレックが好きなので、抜擢された時には全然似てないけど大丈夫なのかなと心配になった。でもそれを吹き飛ばすような演技だった。特に、ライブシーンのパフォーマンスが本人しか見えなかった。
また、それとは別に、ブライアン・メイ役のグウィリム・リーはブライアン・メイに瓜二つだった。特にこちらもライブシーンが本当にブライアン・メイにしか見えなかった。
また、ジム・ハットン役の方も似ていた。

エイズなのがわかるタイミングは実際にはどうだったのかわからないけれど、この映画ではライブエイド前にわかっていた。曲を作った時とは『ボヘミアン・ラプソディ』を歌う心境は明らかに違っていたのでは無いかと思うけれどどうなのだろうか。歌詞に意味なんてないと言っていたから別に変わらないのかな。
また、ジム・ハットンとの出会いと再会はフィクションのようです。

メンバー役の俳優さんたちについて、本当によくぞここまでという感じだったのですが、脇役のアレン・リーチ、トム・ホランダー、エイダン・ギレンの三人もかなり良かった。三人とも出てくるのを知らなかったのですが、三者三様それぞれうまい。特に、トム・ホランダーは重みに少しの愛嬌もあってうまかった。

もちろんクイーンのいろいろな曲が使われていますが、個人的には『Under Pressure』の使われ方が特に好きでした。荒れた生活を送った後で、考え直し、家で一人反省している場面で流れる。きっと、フレディにもプレッシャーで押しつぶされそうな時があったのだ。

ライブエイドのシーンはライブエイドの音源が使われているが、これはサントラに入っているらしい。また、序盤のライブシーンの音源も入っているようなので、サントラが欲しくなる。最初の20世紀フォックスのブライアン・メイが弾いたファンファーレも入っています。




いわゆるロードショー公開はされない注目作を上映するのむコレ2018にて上映。
今年公開された映画らしい。

あまり内容を調べずに観たので、タイトルと、主演が『ゲーム・オブ・スローンズ』のラムジー役でお馴染み、ウェールズ出身のイワン・リオンだったため、RAFのイギリス部隊の話かと思っていた。
しかし、原題がまず『HURRICANE』。戦闘機の名前だった。そして、イワン・リオン演じるヤンは、最初、イギリス人のつもりで見ていたので、ドイツ軍に対して「スイス人で時計を売りに来た」と言っていて混乱した。それは中立国のふりをする嘘だったのですが、それで本当は何人なのかが途中までわからなかった。

結局ポーランド人だったんですが、映画自体もドイツ軍に故郷を追われたポーランド人がイギリス空軍でさながら傭兵のように活躍する姿を描くものだった。RAFはRAFでも、イギリス人ではなくポーランド人の話。ハリケーンも彼らが乗っていた機種だった。

バトル・オブ・ブリテンに外国人部隊が参加していたことは『空軍大戦略』(1969年)でも取り上げられていましたが、まさかそこが描かれた作品なのだとは思わなかった。
個人個人はもちろん実在しないけれど、このポーランド人の部隊、第303戦闘機中隊が最高の撃墜記録をあげたことは実話らしい。

以下、ネタバレです。









ポーランドの飛行機乗りたちは、イギリスに亡命して来て、最初は野蛮人などと呼ばれているし、英語の勉強をしなくてはいけないし、余所者ということで差別のようなものを受ける。しかし、腕は確かなので、一目置かれるようになり、プロパガンダ広告に使われたりと、パーティーに呼ばれるようになる。
全編を通して、イギリス人とイギリスという国の身勝手さが目立つ内容で、イギリス人中心の話だと思っていたのに真逆で驚いた。

特にラスト、ポーランド人のヤンと、RAFにいた女性とのメロドラマ的な展開があり、これは必要だったろうか…と思いながら観てたんですが、「結局君は俺についてくることなんてできない。ロロ(RAFのイギリス人)のことが忘れられないからだ」というセリフがあって、この女性もイギリスを表す符号でしかなかったと痛感した。

あれだけ活躍した303中隊のポーランド人たちは、戦争が終わったらイギリス国外に追放されたらしい。世論も、56パーセントが出ていってほしいとの考えだったようだ。追放された後に国に戻れば処刑されるか、強制労働をさせられたらしい。
現代の移民排斥や不寛容社会にも似ていて、もしかしたら、2018年の今、この映画を作った意味はこの辺なのかもしれないと思った。
ちなみに、303中隊を描いた『壮絶303戦斗機隊』(1960年)というポーランド映画もあるらしい。これも、ポーランド部隊の武勲について描かれているのか、その後の酷い仕打ちについても描かれているのか気になる。

全体的にイギリス人はひどいという映画だったが、製作国がイギリスとポーランドなことに驚いた。ポーランドが一方的にイギリスを糾弾する映画ではないのだ。ちゃんとイギリスも反省しているようです。

ポーランド人たちは、国に侵攻され、家族や仲間を殺されたのだから、ドイツ軍への恨みは人一倍なのだ。だから、士気が高く、撃墜数が多かったというのも納得である。もちろん腕もあるのだろうが、なんとしても倒したかったのだろう。
けれど同時に、国で酷い目に遭い、祖国もなくなってしまっているため、トラウマも抱えている。この映画では兵士たちの持つ心の傷についても、描かれていた。

また、兵士たちの死に方については、燃料不足でホワイトクリフにぶつかって機体が大破というのが一番辛かった。撃墜されたわけではないのだ。生き残って、帰って来て、祖国を目の前にしての無念の死。
また、ハリケーンに乗った兵士がトラウマのフラッシュバックでぼんやりしているときに、パラシュートで脱出した兵士に近づきすぎてしまい、プロペラがパラシュートを切り裂き、パラシュートの兵士が落下というのも辛かった。

主演はイワン(イヴァン)・リオンは『ゲーム・オブ・スローンズ』のラムジー役で有名ですが、あれは嫌な部分しかない役で、『インヒューマンズ』もまあ悪役だったので、なんとなく嫌な奴のイメージでしたが、今回は主役だしそんなところはなかった。
特別良い奴といった感じではないけれど、世捨て人っぽく、欲望も何も消えて、ただ目の前の敵を倒すのみといった役柄が良かったです。

『ヴェノム』



マーベルキャラクターですが、MCUとは別です。ソニー・ピクチャーズが手掛けるユニバース "Sony's Universe of Marvel Characters" の最初の作品とのこと。新しいユニバースが始まってたの知らなかった。
もともと2008年くらいから会社関連でごたごたがあって、ようやくの映画化という感じらしい。

監督は『ゾンビランド』、『ピザボーイ 史上最凶のご注文』のルーベン・フライシャー。

以下、ネタバレです。









本国公開時の評価が微妙だったのと、どうやら予告編のようなダーク路線ではなくファミリームービーだというのを聞いていたので、覚悟をして観ました。
何も知らないまま観たら、おそらく私も思っていたのと違うと言って文句をつけていたかもしれない。
アバンは確かにダークでした。宇宙から持ち帰った謎の生き物が人間に寄生して…ということで、ホラー的でもあった。

主人公、エディ・ブロック役にトム・ハーディ。エディは結婚間近の恋人と住んでるんですが、寝ているところを起こされてキスをねだるシーンが序盤からあって、このタイプの普通のトムハは久々だと思った。
冗談も言うし、すべて許してしまいたくなる笑顔も見せるキュート系。こんなトムハを最後に観たのは2012年の『Black & White』ではないかなと思うので久しぶりです。
私は特に、『ロックンローラ』のハンサム・ボブ、『インセプション』のイームスが好きで、あんな役をまたやってほしいと思っていたので嬉しかった。けれど、まさかそれが『ヴェノム』になるとは思わなかった。

エディは正義感の強い記者で、その正義感のせいで大きな団体を敵に回してしまい、自分の仕事を奪われ、恋人も奪われる。
失意の中で謎の生命体に寄生されるんですが、そいつが決して悪い奴ではないんですよね。
予告編を見る限りでは、エディは体を乗っ取られて、自らの意思に反して犯罪を犯し、思い悩むのかなと思っていた。

しかし、最初からヴェノムはエディを助ける。悪者から救う。逃走の手助けをする。お前の体は乗り物だとか悪いことを言ってたけど、協力的である。
隣の住民のギターの音がうるさく、エディは扉の前に立ってイライラするだけだったが、寄生されてからは一瞬だけヴェノムが怖い顔を出して脅す。優しい。

だいたい言うことを聞いて引っ込んでるし、ピンチの時には出てきて助けてくれる。元恋人には「謝ったほうがいいぜ」みたいなアドバイスもしてあげる。それに従ってエディが謝ると、少し仲が修復したりして。予告編だと敵同士なのかと思っていたので、まさか恋愛相談に乗ってあげるタイプだとは思わなかった。普通の親友である。

元恋人の体にも寄生していたが、こうなると、エディの体に戻る時にキスしていたのは元恋人なのかヴェノムなのかわからない。

ビルに忍び込めないときにも、エディはヴェノムに入れ替わって壁をつたっていく。最上階でエディに戻ってしまい、外壁を滑り落ちてピンチ!みたいなのもなんだかほっこりエピソードに感じられた。一人でヴェノムに変身するというより、エディとヴェノムが話し合って入れ替わっていくあたりが、新しいバディものにも感じられた。

ライフ財団のリーダー、ドレイク役にリズ・アーメッド。とても綺麗で驚いた。彼も自分の体に寄生させるんですが、見た目はヴェノムっぽいけれどライオットだった。シンビオートという寄生生物で、ヴェノムとかライオットはそれぞれの名前だった。
最終決戦は、形が自在に変わって混じり合うので見難いといえば見難かったけど、この時点でこの映画はバトルメインではなく、二人の可愛さを観る映画なのだな…と思っていたのでその辺は気にならず。

最後もエディとヴェノムは二人で元恋人について話していたり、「犬食いたいな…」「やめとけよ」みたいな会話があったりと友達のようだった。ヴェノムのほうが多少野生的だから、ペットと飼い主といった感じ。でも、基本的に仲が良いです。映画中、もうずっと仲良し。だから、一人称がWeになるところもとても良かった。

予告編で見た、ヴェノムの顔半分だけエディの生身の顔が出て「We are Venom.」と言うシーンも、エディが完全にヴェノムに飲み込まれてしまい、言わされているのかと思った。デビルマンのジンメンのようなイメージです。
でも、実は、普段お世話になってるコンビニのようなお店に来た強盗をやっつける時のセリフだったんですね。エディは店員を助けたい、ヴェノムは人間を食べたいということで意気投合してる。

最後に悪党を食うというのは、結局、ドレイクが社会的弱者は甚大実験に使ってもいいというのと似ていると思う。ただ、エディのやんちゃ度が高まったようにも見えてしまう。“最悪”のポスターは恰好良かったが、あのイメージとはほど遠く、ただの可愛い二人組だった。
ヴィランと聞いていたけど、悪役っぽい部分はなく、ヒーローまでは強くない。けど、二人がごちゃごちゃ言い合ってるところが可愛いし、ラスト付近ではエディがちゃんと、飼い慣らしていたので続編も観たい。

エンドロールにはウディ・ハレルソンが出てきて、『ゾンビランド』の監督だからかと思った。今回も髪型が違うタイプのウディ・ハレルソンです。カーネイジというヴェノムの敵らしい。続編が企画されているということらしい。

また、エンドロールの最後にスパイダーマンのCGアニメがあった。クオリティがそれほど高くないというか、『シュガー・ラッシュ』の映像特典に入っていたようなラフなCGにも思えた。スパイダーマンとの絡みがあるのでは?という噂があったけれど出せないけどこれでお茶を濁したのかなと思ったけど、年末にアメリカ公開予定の『スパイダーマン:スパイダーバース』の予告のようなものだったらしい。日本では2019年公開予定とのこと。