Netflixで配信されている『ブラック・ミラー』の番外編というか、ドラマとは別のもの。
Netflixオリジナル映画という書き方だったので、日本でいうTHE ムービー的なものだと思っていたけれど、選択肢からストーリーの行く末を決められるほとんどアドベンチャーゲームのようなものだった。

以下、ネタバレです。
が、おそらく全通りのエンドは見られていないし、バッドエンドっぽいのにしかならない。けれど、『ブラック・ミラー』自体がバッドエンドなことが多いドラマなので、もしかしたらハッピーエンドなんてないのかもしれない。
また、主人公のステファンを演じるのが、『ダンケルク』のトミーを演じたフィン・ホワイトヘッドで、彼目当てで見たんですが、彼が何度もつらい目に遭う…私の選択肢の末なので私のせいでつらい目に遭うので、何度も見るのが疲れてしまった。









選択肢で物語の行く末を決められるとは言っても、途中で二、三回出てくるくらいだと思っていたし、途中で軌道修正されて結局は同じ話になるのだろうと思っていた。
けれど、最初の朝食のシリアルの種類から決めさせられて、次に通勤のバスの中で聴く音楽まで選択をすることになる。実際に撮影されたのが5時間で、一回目に終わったときに1時間半だったのでまだまだ見ていないルートがありそう。

ただ、このシリアルの種類に意味があるとは思えないし、次の音楽もBGMが変わるだけなのではないかなと思う。けれど、最初に選んだシリアルのフロスティがどのシーンだか忘れてしまったけれど、途中のCMで出てきたのは少し不気味だった。もしかしたら、ここで間違えたせいでバッドエンドルートに入ってしまっているのではないか。
その次の、会社に誘われて了承するか断るかの部分はもしかしたら根本的な部分に関わってくるのかもしれないがわからない。断ってしまった。
大まかなあらすじとしては、昔の本を原作としたアドベンチャーゲーム『バンダースナッチ』をプログラマーのステファン(フィン)がゲーム会社に持ち込む。リリースしようということになるが、原作の作者は人に操られているという妄想を抱いて死んでしまったことがわかる。ステファンも同じ妄想に取り憑かれる…というもの。
しかし、このステファンが主人公のゲームを遊んでいるのは私たち視聴者なんですね。だから、ステファンは、誰かに操られていることを不安がる…私の行動を怪しみ出す。メタ的な構造になっている。

これ、フィン・ホワイトヘッドのことが好きかそうでもないかにもよると思うんですけれど、好きな俳優がテレビの中からこちらに干渉してくるんですよ。テレビを通じて彼と繋がれる。
普通ならとても嬉しいことだけれど、このドラマの場合、私の選択のせいで好きな俳優が演じる役の子がどんどん病んでいく。つらい。特に、『父親を殺す』という選択肢を選ばなくてはいけないのがもう…。
あと、その遺体を切り刻めという指示を出したら、「マジかよ」とひかれてしまった。こんな選択肢、選びたいわけじゃなかったのよ…。

それだけじゃなく、これはNetflixのドラマですよ、Netflixっていうのは娯楽ですよみたいに出演者に教えることもできる。画面の中で戸惑っていた。

だから、私の選択がダイレクトに彼に伝わっている感じはひしひしと味わえる。けれど、別に乙女ゲームではないし、私と画面の中の彼はどうにもならない。でもせめて、幸せにはしてあげたい。

それなのに、何を選んでも逮捕されてしまう。父親を殺すが選択肢に出てくるからですけれど。
ゲームの評価は5も取れた。2ちょっとだったときもあったけれど。でも最後が獄中になってしまう。
けれど、現代のNetflixの担当者が出てくることもあった。入れ子構造です。ただ、現代の人のPCも壊れてしまって、叩くか飲み物をかけるの二択が出てきて、どちらにしてもPCが直らなさそうだけど、飲み物をかけてしまった。

ステファンの悩みというのは、ゲームを作ることもあるんですが、母親が自分のせいか父親のせいで死んでしまったのではないかとずっと悩んでいる。家族の問題もあるのだ。
過去に戻るような描写があって、過去が変えられれば現代も変わるというのは力強く夢のあるメッセージだと思うんですが、過去に戻って、元凶となるウサギのぬいぐるみは取り戻したのに、結局母親と一緒に電車で死んでしまった。現代のステファンも死ぬ。あのとき、ウサギのぬいぐるみを取り戻した上で列車に乗らないの選択肢を選んでいたらどうなっていたのだろう。やはり母親だけが死ぬのだろうか。

この、あの時こうしていたらどうなった?というのは、ゲームだけの話ではなく、自分の人生にも覚えがあることだから、なんとなくそこまで想起させるものを作ったのは素晴らしい。

過去に戻って母親を生き返らせるなんてことはできなくても、できれば父親との仲を修復したい。殺すなんて選択肢は出てこないでほしい。また、ゲームも成功して5の評価をもらいたい。その上で、逮捕エンドはやめてほしい。全部が叶うハッピーエンドはあるのだろうか。

バンダースナッチというのは、ルイス・キャロル作品に出てくる謎のバケモノらしい。実はアリスのモチーフになっていることが何回か出てくる。コリン(ウィル・ポールター)が序盤で、ゲーム作りに悩むステファンに「思考の穴に落ちたな」ということを言う。また、鏡の中に入って行く描写もある。それに一番わかりやすいのは、白いウサギのぬいぐるみですよね。
コリンは要所要所で「もう一度やり直せ」とか意味ありげなことを言うので、もっとキーマンなのだと思う。私の話の中ではあまり彼を生かせていない。
最後の方で殺す、殺さないの選択肢の時も、「いいよ、お前に選択できるなら」と言っていた。ステファンは選択できず、他の何者か(私)が選択していると知っていそうだった。
彼の関連で、彼の家に行った時に薬を受け取らない(どうせ飲み物に入れられたのでどうなのだろう)、飛び降りるのをコリンにするという選択をしたけれど、この辺どうなのだろう。
なんかビデオ渡してきたのも意味ありげだし、きっともっと出番ありそう。私の選択肢では全然出してあげられなかった。

何度もやり直したいんですが、つらい指示を何度も彼に与えることに疲弊してしまって続けられなくなった。だって、私が『父親を殺せ』と言ったばかりに彼が父親を殺すんですよ。僕の意志じゃないって言いながら…。つらすぎる。

このドラマというか映画というかゲームというか、主演俳優が好きかどうかによっても楽しみ方やつらさがまったく違ってくると思う。
何度も繰り返し同じシーンも見るのはまったく苦にならないけれど、どのルートを辿っても人を殺してしまうのは可哀想すぎる。ここまで行く前に、何か選択肢を間違えているのではないかと思う。
でも、バッドエンドしかないのかもしれない。『ブラック・ミラー』じゃなければこんなこと有り得ないんですが。

それにしても、動画配信サービスで、こんなゲームみたいなことやるのすごい。Netflixに入っているだけで楽しめるなんて。好きな俳優じゃなかったら、もっと何度もプレイ(プレイという言い方)していたと思う。
現段階ではちょっと疲れてしまったので一旦休みます。





2010年アメリカで公開。日本では大規模な公開はなかったけれど、小さい映画館でちょこちょこと上映されていたらしく、今回オープンしたアップリンク吉祥寺の見逃した映画特集で観ました。
アップリンク吉祥寺、初だったのですが、椅子も座りやすいし、スクリーンが高い位置なので頭も被らなそう。スクリーン1の三列目で観ましたが、それよりも前だと首が疲れるかもしれない。パルコの地下なので当たり前ですが、天井は低いです。あと、上映後の出入りは扉が開く音なども気になるくらい。
スクリーン1は60席くらいと中では大きい方でした。三列くらいしかないスクリーンでもいつか観てみたい。
ロビーやトイレ、物販などの雰囲気はいいです。

『イット・フォローズ』、『アンダー・ザ・シルバーレイク』のデヴィッド・ロバート・ミッチェル監督作品。
キャストに有名どころがいないのと、青春ものということでなかなか配給がつかないらしい。
また、スリープオーバーというのはお泊まり会という意味なんですが、アメリカ独自の文化なのか、新学期前…アメリカなので8月末にいろいろな場所で開催されていた。
おかしなことにはならないように、男女は別になっている。本作は、女子チーム二軒と男子チーム一軒、他の場所でのパーティ、大学の体育館での雑魚寝と色々な場所で行われているお泊まり会を舞台にしたを群像劇。
夏の終わりの一晩のティーンたちの話で親は一切出てこない。大学の先生もずっと寝ていたので、意図的に出さなかったのだと思う。

男子チームはB級ホラーを見てピザを食べ、おっぱいのシーンを巻き戻したりして、本当に男子!という感じだった。ただ、その中の一人の子は昼間にスーパーマーケットで見かけた女の子に一目惚れしてしまい、夜の間、うろうろしながら探し続ける。様々な場所で探し続けてすれ違ったりもするんですが、キスするスポットになっている廃墟でようやく会える。ああ、ハッピーエンド…と思ったんですが、腕に男の人の電話番号が二件も書いてあって、夢から醒めたようになっていた。

年上の彼氏がいる子はいかにも遊んでる女の子の家のスリープオーバーに招待されるが、そこで彼女の日記を見て、彼氏とその子が関係をもっていたことを知ってしまう。仕返しのようにその子の彼氏と地下室でキスをして見つかり殴られていた。
地下室に行くときに、こっくりさん的なやつをやっていて、やっぱりティーンが集まるとこっくりさんなのは他の国でも変わらないんだ…と思った。

メインビジュアルでも使われている金髪ショートカットで口にピアスをつけた子と黒髪癖っ毛メガネの子の二人は少しさめていて、お泊まり会に参加するのは子供っぽいと思っている。自転車でふらふらと仲がいい男の子の家に行きパーティの情報を仕入れ、そこに参加することにする。金髪の子が元々好きだった仲がいい男の子は遊び人のようで、パーティでは違う女の子の肩を抱いていた。でもそこで、プールで出会った別の子と再会して、ちょっといい雰囲気になっていく。しかし、黒髪の子とはぐれてしまい、その子は遊び人の男の子とボートに乗っていて…と、まあせわしない。全員が誰と決めずにふらふらしている。ふらふらしたまま、お泊まり会会場に一旦戻ったりもする中で、やっぱりプールの子のことが好きなようだった。
二人で抜け出して夜のプールに行くのですが、ウォータースライダーで、「下りたところでキスしたい」と言われ、了承するんですが、滑っている途中で一旦止まって、振り返って「キスしたくないわけじゃないけど、今日はいや。もう胸がいっぱいで」と言う顔がとてもキュートだった。恥ずかしがるような、でも夏が終わってしまうのをさみしがるような表情。ここまでこの子は結構スカした感じというか、つまらなそうだったのに、ちゃんとティーンの表情になっていた。

シカゴの大学を退学して地元に帰りたい男の子は、高校に飾ってあった写真に写る自分と双子の女性の姿を見て、その双子に会いたくなる。一気に恋に落ちてしまったようで、彼女たちの大学に乗り込んで行くのもあっという間だった。そこで彼は二人とも好きと言うし、本当に二人と自分ということを想像していたようだけれど、当然双子ご本人たちは納得できない。男の子にとっては概念みたいなものだったらしい。
しかし、どうやら昔から双子の一人はその男の子のことが好きだったらしい。男の子は賭けに出たのか本当なのか、片方(A)に告白する。結局どちらとも付き合うことなく、男の子は双子のいた大学を後にするんですが、Aが追いかけてくる。Bの連絡先を持って。好きだったのはBのほうだったんですね。でも、男の子とAはもう共犯になってしまっている。だから、「Bには二人とも好きだって伝えておいて」と嘘をつかせる。と同時に、「君(A)も本当は俺のことが好きだろ?」みたいなことも言っちゃう。好きじゃないって言いながらも軽くキスしちゃうあたりも青春っぽかった。
その思い出を胸に、男の子はシカゴへ戻って行く。

この男の子だけでなく、みんなが同じ夜を越えて、それぞれの場所へ帰って行く。
ただ夜が明けたわけではなく、夏が終わったのだ。
メインビジュアルの二人は、最初はプールサイドで「この夏、何もしなかったねー」とつまらなそうに話していた。でも、最後には金髪の子のほうは「今日はもう胸がいっぱいだから、キスするのは今日じゃない方がいい」と言っていた。みんな一晩で一夏分の経験をした。
みんなまだ子供だからという面もあるかもしれないけれど、キスシーンはあっても誰もセックスしないのもまた良かった。子供でもお酒は飲みます。
夏が終わる。始まる日常。
もしかしたら、先延ばされたまま、もうキスはしないかもしれないと思ってしまった。魔法のような一夜の出来事、朝になってしまえば魔法はとけてしまうのだ。




『来る』



中島哲也監督作品。出演は松たか子、妻夫木聡、小松菜奈と監督お馴染みのメンバー以外にも岡田准一、黒木華など。
ホラーだとは思うけれど、いわゆるホラーという感じではない気がしました。でも、血はたくさん出るし、体は千切れる。
怖さよりは、嫌な気持ちになったり、絶望感を味わったりという面が多かった。

以下、ネタバレです。









予告編を見る限り、群像劇だと思っていた。不仲な夫婦と娘の元に何か怖い存在が現れて、でも力を合わせて乗り越えるのかなと思ってた。化け物は倒され夫婦仲も元に戻る。けれど、そんな話ではなかった。
中盤で妻夫木聡演じる秀樹があっさり殺される。
この秀樹が何から何まで苛々させる存在で、もう最初から人の話を聞かない。外面だけがいい。会社の女性社員とも関係を持ってそうだったし、結婚式に来てた派手めな女性たちともたぶん…。ブログに子育て写真を載せたり、実際は関わっていないのに良いことを書いて(これも結局外面…)イクメン会のスターになる。しかも満更でもない。イクメンたちのオフ会みたいなので、全員でIKUMEN CLUBと書いてあるトレーナーを着ていて、よくあんなむかつく小道具を思いつくなあと感心した。
子供ができて住んだ新居にはHOMEのO部分に写真をいれられるフォトフレームが置いてあって、なんだかその小道具もイライラした。
子育てを一切手伝わないのに育児書を読んで頭でっかちになってアドバイスだけしてくる、あれは悪気はないんですか? あのような性格なのだろうか。
とにかく私だけじゃないはずだけど、観客のヘイトを一身に集めまくる。

ただ、怪奇現象が起こり始めて、民俗学者でもある友人に相談して、オカルトライターの野崎を紹介してもらってからは、ほんの少しだけ印象は変わった。
野崎役に岡田准一。つるっとした美形のイメージだったけど、髭のせいもあるのか、年をとって顔に味が出てきた。
彼の友人の真琴は霊媒師兼キャバ嬢ということだったけれど、刺青が多く入っていて髪がピンク色で…ということで、キャバ嬢というよりはバンドマンに見えた。
「馬鹿なんで」が口癖なのは、周囲に散々そう言われたのだろう。でもいい子。

真琴の姉は凄腕の霊媒師で、予告で姿は見てるけど序盤だと電話だけ。それでも只者じゃなさは伝わってきた。
しかし、結局、秀樹は殺される。

それ以降は、秀樹の妻の香奈の話になる。
秀樹のことを、死んでほしかったと言っていて、観客としても、ここまでの秀樹の描写を見ていたらわかると思わざるを得なかった。
主要人物が死んでも悲しいと思わせないのは、うまく誘導されていたのだと思う。
後半で民俗学者の友人も、野崎に「あいつのことなんてどうでもいいと思ってたんでしょ?」と言うけれど、おそらく野崎も思っていたし、私たちも思っていたので、そのセリフを聞いてはっとしてしまった。
しかし、そう思っていたせいなのか、育児ノイローゼ気味だったせいなのか、香奈もわりとあっけなく殺される。
夫婦が二人とも死んでしまうとは思わなかったので驚いた。

そして、後半は真打ち登場というか、凄腕霊媒師の琴子の独壇場になる。
一本線ではない、少し変わった構成だなと思う。
夫へのヘイトがたまりにたまった段階でどかん、妻が病んでいく様子、そして祓いといった三部構成といった感じ。
未読ですが、原作もこうなっているらしく、一部の語り手が秀樹、二部が香奈、三部が野崎となっているらしい。ということは、かなり原作に忠実なのだろうか。

祓いのシーンは、神職大集合という感じでかなり盛り上がる。
沖縄のユタのばばあたちがタクシーでわいわいしてるシーンでは、ああ、こういうピンチに駆けつける空気の読めないばばあが最強って法則でもあるよな…と思いながら観ていたけれど、そのタクシーが襲撃されて、一瞬でばばあたち全員が滅せられてしまう。法則が逆手にとられていて、絶望感があおられた。
その後、三重から(?)新幹線で向かっていた重鎮っぽいじいさんたちが別れて乗ろう、一人でも辿り着かねばみたいに言ってるのも、相手の強大さがわかって怖かった。姿は出ません。じいさんたちが神主なのもあとでわかる。
実は私は、この一連のシーンが映画内で一番怖かった。

マンションの外に祓いの舞台が設置されている様子は、重大なことが起きようとしているのに少しわくわくしてしまった。女子高生たちがはしゃいでて、場違いだな…と思っていたのですが、巫女さんたちで、あとで舞を踊っていた。
神社にある清めの白い石が敷き詰められたり、太鼓が叩かれていたりと、全部盛りのようになっていた。これは外国でも受けそうな要素だと思った。

部屋で祓っている琴子とわたわたしてる野崎の対比は少し笑ってしまうほどだった。パンチを一発くらっていた。リセッシュのような除菌スプレーが除霊に役立つと言われていたのもへーと思ってしまった。

ただ、祓いのシーンだけではないのですが、どうしてもVFXの安っぽさが気になってしまった。体が千切れていてもあまり怖くなかったのも、偽物っぽかったからかもしれない。日本映画はお金がないので仕方ないけれど…。

また、結末が少しわかりにくかったけれど、知紗を返そうとしていたのは、取り憑かれていた琴子なのだろうか。虫を吐いていたし、野崎と真琴が必死に対抗したということなのかな。
最後はオムライスの夢を見ていたくらいだし、もう取り憑いていないと思う。

琴子の行く末は謎のままだったが、琴子と真琴の比嘉姉妹シリーズが原作にあるらしいので、ここで死んだわけではないと思う。比嘉姉妹シリーズ興味ある。

序盤で、妖怪なんていない、人は都合の悪いことを妖怪のせいにすると言っていたので、結局夫婦仲の修復に重きが置かれるのかな…と思っていたけれど、そんな結末にはならず、がっつり化け物退治だった。ただ、姿が出てくるわけではないです。ちゃんと妖怪はいたのでよかった。おもしろかったです。


『ホーム・アローン』『ハリー・ポッター』のクリス・コロンバスプロデュース。
クリスマスの夜の兄妹の冒険を描く。お兄ちゃん役に『雨の日は会えない、晴れの日は君を想う』でおませなヒョウ柄のジャケットがよく似合っていてキュートだったジュダ・ルイス。だいぶ大人になっていた。サンタクロース役はカート・ラッセル。
老若男女、観る人も観る時代も問わず、誰でもが楽しめるクリスマスムービーだった。これは定番になりうると思う。Netflixのみというのがもったいないくらいだった。

以下、ネタバレです。








ある家族のクリスマスのホームビデオが毎年分流れていく。息子は大きくなって、妹が産まれて…。でも、現代の家には飾り付けもされていないし、父もいない。母は急患なのか仕事へ出かけてしまう。中学生くらいまで大きくなったお兄ちゃんは悪い友達と付き合って車を盗んだりしている。妹だけがかろうじて純粋なままサンタを信じ続けている。
観ていくうちに父は死去していることがわかり、家族の少しギスギスした雰囲気はおそらくそれが原因ではないかと思う。
しかし、毎年録画しているホームビデオに、なんとサンタの腕が映っていることがわかる。すでにサンタを信じなくなっているお兄ちゃんも驚いて…というオープニング。

家族がばらばらになりそうではあるけど、一歩手前で踏みとどまっている。お兄ちゃんも完全に悪の道へ行ってしまったわけではない。
そこで、母がいない間に二人は外に出て、サンタと遭遇し、ソリを壊してしまう。

カート・ラッセルが演じるサンタが一風変わっていて、HO!HO!HO!もやってくれないし、でっぷりともしていない。太ったサンタのイラストは嫌みたいだった。不思議な瞬間移動みたいなのを使いながら素早く全家庭にプレゼントを配る。豪快で破天荒。ちょいワルおやじというと印象が悪いけれど、そんな感じの不良要素のあるおじいさんだった。恰好いいし、魅力的。
お兄ちゃんに車を無免許運転させて、カーブをうまく曲がってフィストパウンドしたりする。
いわゆるサンタらしくはないので、不審者として刑務所に入れられてしまうが、そこでも悲壮感はなく、囚人たちとバンドを組んで歌を歌ってしまう。
大人たちはもうサンタを信じてはいないけれど、サンタにとっては全員子供で、名前と昔サンタに欲しいと願ったものを覚えているのもぐっときた。

サンタがいない間、クリスマスを続行するために兄妹が奮闘するんですが、助けてくれるエルフがあまりにもCGっぽすぎて、少しノイズになるかなと思った。けれど、本当はモーションキャプチャーでやりたかったけど時間がなかったと言っていたので、それは製作者たちもわかっていることのようだった。
また、エルフ語は『ゲーム・オブ・スローンズ』の方に作ってもらって翻訳したとのこと。ちゃんとしている。

普通なら、一晩の出来事を通じて成長するのは兄妹両方だったりするものですが、この兄妹の場合、妹はわりと最初からしっかり者で、純粋な良い子だった。成長するのは兄だけというのがちょっと変わっていると思った。もちろんサンタの存在を信じるようになったし、ロクでもない大人になりそうだったところを修正された。
また、途中で父の死が家族以外の人を救ったことが原因だったとわかるのですが、それについて兄は他の家のことなんて!と嘆いていたけれど、最後にはちゃんとそれも受け入れられるようになった。
サンタからの粋なプレゼントには泣いた。兄は「父さんに会わせて欲しい」とサンタに手紙を書いていたけれど、それはさすがにできない。クリスマスの奇跡とか言ってそれをやられたら一気に興ざめしてしまう。
けれど、貰った古いオーナメントをツリーに飾ると、そこに父の姿が少しだけ映る。
なんというか、これくらいの再会がすごくちょうど良かった。

あと、別れ際にHO!HO!HO!をやっとやってくれたのも良かったし、HO!HO!HO!すら恰好良くなってしまっていた。

また、サンタクロースが恰好いいので(?)、ミセス・クロースという奥様も終盤に少しだけ出てくる。どうやら尻に敷かれているようだった。そして、ミセス・クロース役がカート・ラッセルの実際の奥様というのもニクい。

王道ではあると思うけれど、少し変わったサンタクロース像なのと、兄が成長するという面は新しいと思う。何より、やっぱりクリスマスにはクリスマスムービーだなあというのを再確認させられた。来年も観たい。





ブラッドリー・クーパーが監督・脚本・製作・主演、歌などもこなしていて一人何役かといった感じ。相手役にレディー・ガガ。
予告編を見ただけだと、一般の女性が一流ミュージシャンに見初められて駆け上がって行くサクセスストーリーなのかと思っていたけれど違った。
あと、知らなかったのですが、四度目のリメイクで、元々は『スタア誕生』(1937年)。邦題にもそう付いてるし、原題は丸々一緒です。なんで気づかなかったのか。

以下、ネタバレです。









予告を見た限りだと場末のパブのような店で働いていた女性が、ミュージシャンと恋に落ちて、一緒にステージに立ったりして、大スターになる…というお話を想像していた。
人がたくさんいるステージで、女性が思い切って歌い出すシーンは、『SING』にあったようなクライマックスを想像していた。歌えなかった女性がやっと自分の殻を破る。また、あの歌が感動的だったのでクライマックス向きだと思ったのだ。

しかし、かなり序盤で出てくる。
それに、実はここが主人公ジャックの人生のクライマックスでもあった。そう、主人公はアリーではなく、ジャックである。二人が主人公なわけではない。完全にジャックです。おそらく、日本だとブラッドリー・クーパーよりレディー・ガガのほうが有名だし、アリーとタイトルに付けたのだろう。
でも、ジャックがしたことはアリーを引っ張り上げただけで、序盤のステージで一緒に歌った後は、アリーは別のマネージャーの元でスターになっていく。スターにしたのはジャックではない。だから、これはシンデレラストーリーではあっても、主人公は関わっていない。主人公と関係のないところで、好きな女性がスターになっていく。
途中でジャックが『プリティー・ウーマン』を歌わせてもらえないというシーンがあって、示唆されているのだと思った。ブラッドリー・クーパーうまい。

アリーがスターになっていく一方でジャックはどんどん落ちぶれて行く。『ラ・ラ・ランド』もそうでしたが、芸術家カップルはその点でうまくいかないと思う。人気というのは水物である。その時期が重なるとは限らない。
また、アリーだけがスターになるのに嫉妬はあるだろうけれど、アリーはジャックの手を離れてから人気が出てくるから、ジャックの望んだ姿のアリーがスターになるわけではないのがまたつらい。
『ラ・ラ・ランド』は中盤までは二人の気持ちは寄り添っていた。しかし、本作は序盤に一緒にステージに立って以降は気持ちが離れて行くから『ラ・ラ・ランド』よりも厳しい内容である。デートムービーかと思って居たけれどまったく違った。

思えば、最初からジャックはアル中気味だった。ライブ会場に客をたくさん集められても満たされない毎日だったのだろう。そこでであったアリーと恋に落ちる。鼻をなぞるシーンと眉毛を取るシーンがかなり密着した撮られ方をしていて、おそらくそこで恋に落ちたのだろうとは思うけれど、その後の会話シーンやホテルの部屋でのシーンなどは少し冗長に感じる部分もあった。しかし、後半に向けてどんどんつらくなっていくので、その冗長さが懐かしくなってくる。あの、どうでも良さそうな会話がジャックには幸せだったのだろうし、きっとあのまま続いてほしかったのだろう。

しかし、うまくいかない。
アリーが望まぬ姿でスターになっていく一方、ジャックは酒とドラッグに溺れて行く。しかも途中で、父親や兄との確執が出てくる。父はアル中で、年の離れた兄は腹違いだ。
ジャックは一流ミュージシャンだし、素晴らしいものの象徴として描かれているのかと思った。それを目指して行くアリー(アリーが主人公)という構図で。
しかし、映画は完全にジャック視点である。内面についてもジャックにしか描かれないため、アリーの考えていることはよくわからないくらいだ。
ジャックのことが好きなのはわかる。でも、自分のその姿はジャックに望まれていないというのはわからなかったのだろうか。ジャックの音楽性などを考えたらわかりそうなものだけれど。
ジャックが自分の内面を話さなかったせいもあるのかもしれない。アリーはスターになってしまい、話すこともできなかったのかもしれない。けれど、映画を観ている観客のほうがアリーよりもジャックのことを知っているというのはかなり歪だと思った。アリーはジャックのことをまったくわかっていない。

特に、グラミー賞のステージの上で失禁などという大失態をおかしたあとで、アル中克服施設に入り、出てきた彼のことを、ヨーロッパツアーに帯同させて一曲目でデュエットしたいなどと…。マネージャーにも反対されていたけれど、私も大反対だった。アリーはもちろん意地悪で言っているわけではないし、ジャックのことを愛しているのはわかった。でも、ジャックがそれを望まないことはわからない。
好きだとか愛しているという気持ちだけでは、本当に相手の内面に寄り添うことはできないのだな…というのがわかって、とても厳しいシーンだった。

この提案をするシーンは映画の終盤なのですが、ちょっとグロテスクとすら思える意見で、この段階になっても恋人がジャックのことをわかってくれていないというのは吐きそうになるくらいきつかった。
だって、ジャックはアリーと出会った時にもどん底とは言えなくてもそこそこ下のほうで、そこから彼女と出会って救われるのかなと思ったはずなのだ。それなのに、心が通ったのは前半のほんの少しの間だけ、そこからは結婚をしたって好きだと言われたって、本当にはわかってもらえてなかった。このタイプの気持ちのすれ違い映画はなかなか観たことがなかった。

しかも、そのままジャックが自殺してしまい(しかも子供の頃に自殺未遂したときと同じ方法)、アリーは永遠にジャックのことはわからないままという…。あまりにも悲劇的すぎる。
もちろん、ジャックに寄り添って、アリーがジャックを救うのに徹していたら、アリーはスターにはなれなかっただろうから、A Star Is Bornではなくなるだろう。アリーは意図的でないにせよ、ジャックの気持ちがわからないことでスターになった。意図的でなくとも、ジャックを切り捨てたのだ。この意図的でないという部分がきつかった。

意図していなかったとはいえ、追悼コンサートなど無責任だなと思って、最後のアリーの歌も冷めた目で見ていた。歌詞に日本語訳が付いてましたが、「私はもう他の人は愛さない」といった内容だったけれど、途中で実はこの曲はジャックが作ったということで、ジャックが歌うシーンに切り替わる。 歌詞は、「俺はもう他の人は愛さない」と日本語訳ならではで一人称が変わる。アリーが歌う場合と、ジャックが歌う場合で重みが全く変わってぐっときました。

この二人の気持ちのどうにもならなさと、ジャックの哀愁などの描かれ方、淡々とした会話シーンなどが少しクリント・イーストウッドっぽいなと思いながら観てたんですが、元々はイーストウッドが監督をするはずだったらしくて納得。初監督作でこれができるブラッドリー・クーパーの今後も楽しみ。ただのイケメンかと思ったら演技派…と思っていたけれど、それだけではない。

またレディー・ガガも出てきてからそのまんまレディー・ガガだなと思って、彼女はもちろん大舞台も慣れたものだと思うから、そんなステージ急に上げられてどうしようという顔をされても…と序盤は思っていたけれど、話が進み、彼女がのし上がっていくたびにどんどん知っているレディー・ガガの姿に近づいていくのがすごかった。後から考えると序盤の姿は確かに何も知らない女の子だった。演技力とともに、化粧、髪型、衣装などで一回りも二回りも華やかになっていく様子は目をみはるものがあったし、彼女のことを止められないし、止めるのは勿体無いと思わせる説得力があった。
ジャックの内面が描かれているから映画を観ている側はジャックの味方になってしまうけれど、かといって、アリーのあの姿を見せられてしまうと戻ってこいとも言えなかった。これは、レディー・ガガだからできたことだと思う。ナイスキャスティングでした。


『暁に祈れ』



『A Prayer Before Dawn: My Nightmare in Thailand's Prisons』を原作とした実話。映画の原題も『A Prayer Before Dawn』  なので、良い邦題だと思う。
実際の刑務所で撮影していて、元囚人もキャストに多数起用されているらしい。
『ピーキー・ブラインダーズ』のシェルビー兄弟の一人、ジョン役でお馴染みジョー・コールが主人公ビリー役。
彼以外のキャストはすべてタイ人。

以下、ネタバレです。










全体的にセリフがあまりない映画ですが、オープニングも急に始まる。
刑務所の中からムエタイでのし上がるというストーリーをなんとなく聞いていたので、最初から格闘技をやっているということは未来から始まって過去に遡る形式かなと思ったら違った。主人公のビリーがボクサーだった。
映画は時系列順です。

あと、なんとなく、冤罪で凶悪刑務所に入れられてしまう…というストーリーのつもりだったけれど、ばっちり覚せい剤で捕まっていた。

最悪の刑務所の最悪の房に入れられてしまう。
タイが暑いからなのか、囚人たちは上半身裸なんですが、ほとんどの囚人が全身に入れ墨が入っている。元囚人もキャストとして出演しているということで、その人らの入れ墨は本物らしい。
その中に、入れ墨が入っていない白人が一人紛れているのは異様だった。
しかし、元ボクサー役ということで筋肉がちゃんとついているし、色気もあった。ジョー・コール目当てで観ても満足。つらいシーンは多いですが。

刑務所の酷さも描かれるとは思っていたけれど、そこからののし上がりが映画のメインになる部分だと思っていた。栄光へ向かって駆け上がる映画だと思っていたけれど、そんな感動ものではない。
刑務所の実態部分が映画の半分以上といった感じだった。いじめだったり、タバコが通貨だったり、賭け事でイカサマが行われていたり。特に、看守が薬物で言うことを聞かせているのが酷かった。何度か薬物を与えて手懐けてから、気に食わないやつを殴らせる。

中盤以降でやっと、ビリーはボクシングのトレーニング場へ行く。ここに入れてもらうのにもタバコが必要だった。
元ボクサーということで一目置かれていた。
ボクシング房は最初にいた房よりも優遇されていて、試合の時には外に出られて気分転換になるなど、良いことづくめのようだった。
そんな中でビリーに試合の誘いが舞い込む。勝てば、違ういい刑務所に移れるとの特典も付いていた。
途中、吐血したり、好きだった人に振られ荒れ気味になった時には、元に戻されたり、死にエンドだったらどうしようと思った。大丈夫でした。
ちなみにこの、好きだった人はレディボーイと呼ばれていて、察しはつくけれど変わったネーミングだと思ったけれど、タイでは性転換した方のことがこう呼ばれているらしい。レディボーイが刑務所に入ると、囚人の慰安として歌を歌ったり、売店で働くなどの仕事をすることになるとのこと。

英国人のボクサーが次第にムエタイに染まっていくのが良かった。
キックをしたりと、足を使ったファイティングスタイルを学んでいったり、背中に入れ墨を入れるのも良かった。
また、試合には、モンコンと呼ばれる神の守りであるヘッドリング(はちまきのようにも王冠のようにも見える)をつけていたり、試合前の定番であるワイクルーと呼ばれる踊りや神に祈りを捧げる行為もちゃんと行っていた。
一人だけぽっかり浮いているようだったが、ちゃんと馴染んでいたのがたまらない。

しかし、別に刑務所で友達ができたわけでもないし、コーチと仲良くなったわけでもない。試合を親や恋人が見に来るわけでもない。
セコンドが声かけて来ない、あくまでも自分のためだけのボクシングものというのは非常にストイック。ドラマチックにはならない。

勝った後に、吐血してぶっ倒れていたので、ああ、やっぱり死んでしまうんだ…と思っていたら、病院のシーンになった。生きていた。
迂闊な看護師のおかげであっさり病院を抜け出すので、もしかしてこのまま逃げてしまうのかと思ったけれど、ちゃんと戻っていた。
台詞もないし、スラム街を見ている表情からは、何を思っていたのかはわからなかった。けれど、逃げ出したところで、社会からは抜け出せないと思ったのかもしれない。

とにかく、説明がないし、セリフも少ない。
タイ語については、重要なセリフだけ字幕が付くけれど、他の部分は付かない。でも、ビリーもタイ語がわからないということなので、同じ異国感を味わえた。囚人たちは早口だし、怒っているようだし怖い。ビリーも怖かったのだろう。
ただ起こったことが淡々と描かれているドキュメンタリーのように見える部分もあった。
また、手持ちカメラが多いが、試合シーンは特に寄りだったし、激しく揺れる手持ちカメラなので、前の方の列だと酔いそうになった。臨場感はありました。

ただ、ここまで硬派というか、ピリッとした映画に仕上がっていたのですが、最後にビリーの元に面会しに来る父親役がなんと、ビリー・ムーア御本人というどっきり企画。
急に粋な演出というか、普通の映画っぽくなった。
実話もので御本人が出て来る映画というのは他にもあるけれど(『ボブという名の猫 幸せのハイタッチ』など)、そのタイプだと思わなかったのでびっくりしてしまった。不思議な気持ちになった。
でも、最初に『これは実話です』という文言を出さないことで、最後に御本人を出してきて、実話なのー?と驚かせるという演出なのだろうか。
でも、ベストセラーらしいから、別に実話というのもよく知られてる話なのかもしれないし…。



ホラーが苦手なんですが、最近は(とはいえ、今まで観てないからもしかしたら昔からかも…)出来のいいホラー映画が多く、特にジャンル映画好きでない人からも評価されていたので観ました。
あと、信頼している制作会社A24だったということもあります。
出演はトニ・コレット、アレックス・ウルフなど。
監督はアリ・アスター。今回が長編監督デビュー作らしい。

ちょっともう思い出すのも怖いので感想もあんまり書きたくないので短めに。

以下、ネタバレです。










祖母が亡くなる葬式から始まる。
亡くなった祖母の夫も息子も亡くなっていて、祖母含め、全員精神を患っていた。
一応、主人公的なポジションである母のアニーも、夢遊病である。そのため、途中、どれが本当でどれが夢想なのかわからないシーンもあった。主人公が信用できないタイプの物語はそれだけで不安定になる。本作は共感すべき人物がおらず、誰目線で観たらいいのかがわからない。
唯一まともだと思われた父も、後半では薬を飲んでいたし、昼間から酒を飲むなど疲弊していた。

謎の文様のペンダント、謎の文字、どこか不気味な妹チャーリー…と怖いけど、ちょっとわくわくもしてしまうような謎解き要素が出てくる。チャーリーは死んだ鳩の首をハサミでちょんぎりポケットに入れるとか、葬式で板チョコを齧っているとか、描く絵がちょっと怖いとかあやしい要素が満載なんですが、板チョコ描写は「ナッツが入ってなかった?」というセリフで、アレルギー持ちであることを示すための前ふりだった。

チャーリーが兄のピーターに着いて行ったパーティで、ピーターが女の子と遊ぶため、「そこでケーキでも貰って待ってな」と言うんですが、そのケーキ、少し前にナッツ刻んで入れてたんですよね。観てる人だけが、あーあと思う。思うけれど、ここから起こることが本当に酷い。
アレルギーが発症して、ピーターが急いで病院に連れていく。普通なら、間に合って、アニーに怒られて終わりですよ。でも、この映画では、息ができないチャーリーが車の窓から顔を出し、ピーターは動物を避けるためにハンドルを切って、チャーリーの頭が電柱に当たってもげるという…。
こうなったら嫌だなということが連続で起こった。

家に帰ると、遅く帰ってきたのを心配していたのか、「ああ、帰ってきたわね」みたいなアニーの声だけ聞こえる。カメラはピーターを追うんですが、ピーターは父母と顔を合わさずに、直接自分の部屋へ戻る。えっ!それは…と思っていると、翌朝、アニーの半狂乱の悲鳴が響く。そりゃそうだ、車の後部座席に娘の首なしの遺体があるのだから。
悲鳴は響き続け、そのまま葬式のシーンに移る。
この連続描写がうまいなと思ったんですが、他でも同じ景色を映していてぱっと朝に変わったりと時間の示し方の演出が良かった。
ちなみに、アニーの叫び声も怖かったですが、叫び顔も怖い。A24のサイトでピンバッチが売っている。
自分の代わりに夫が燃えてしまい、何かがぷっつりと切れたアニーの顔も怖かった。

変に茶色くて歪んだ景色だなと思ったら、チャーリーの葬式の会食の場に入れないピーターがステンドグラス越しに部屋の中を見ていた景色だった。
大きい音をさせるびっくり描写はほとんどないんですが、登場人物の視点(というか、登場人物のすぐ後ろをついていく視点)になってるカメラとか、閉められた扉をじっと映すカメラなどが不穏で怖く、撮り方も凝っている。チャーリーのシーンだけではなく、嫌な予感が連続で的中してしまう。人を不安な気持ちにさせるのだ。

個人的にですが、子供の頃に『オーメン』を観たせいで、首がちぎれる描写が特に怖いんですが、この映画ではこの先も何度もちぎれる。怖い。
特に上から吊るされた人がワイヤーで自分の首をちぎるのは本当に怖かった。
また、頭打ちつけも個人的に苦手ですが(追記:なんで苦手なのか考えてたんだけどたぶん『ツイン・ピークス』)、これも多かった。怖い。
考えうる限りの怖い描写が次々と出てくる。ここが一番怖かった!というシーンが何箇所もある。

チャーリーが喉を鳴らす癖も、死んだ後も何回か聞こえてきて怖かった。また、チャーリーが絵を描いている鉛筆の音が右上のほうからずっとカリカリカリカリ聞こえてくるのも怖かったので、映画館向け。
あと、関係ないのですが、TOHOシネマズ新宿はMX4Dのせいで他のスクリーンも揺れるんですが、その揺れすらも効果になってしまっていて怖かった。

また、映画自体がすっきりと終わるわけではないので、観た後も残り続ける。
ホラー映画でも後半が痛快爽快だったり、ストーリー展開がうまいと膝を打つようなタイプだと、終わった後でもすっとしますが、そうではないため、自分の中に残ってしまう。

部屋の奥にぼんやりしたものが映っていて、あ!幽霊がいる!という描写が多かったんですが、このままだと家で見てしまいそう。
同じ家族の幽霊でも『ア・ゴースト・ストーリー』とは全く違う。あのような家族を見守る優しいゴーストが珍しいのかもしれないけれど。
嫌な気持ちが残ってしまっていて、まだ怖い。

ストーリー的には、最初は家族の不和なのかなと思っていた。結局、チャーリーを亡くしても三人で頑張っていこうねという話なのかと思っていた。けれど、父までもが薬を飲み始めた時点でこれは違うぞ…と思った。
悪魔崇拝の話だった。公式サイトのネタバレ解説を読むと、なるほど、最初からほのめかされていたのね、と思う。でも、映画を観ずにネタバレだけ読んでもまったく怖くないであろうあたりが、おもしろい。Wikipediaにもストーリーが全て書いてあるが、読んでも特に怖くない。やはり、ストーリーというよりは映画自体が怖かったのだ。

王にされて崇められたピーター(というよりは悪魔が入っているのか)の表情には色気があり、アレックス・ウルフの演技もうまいと思った。
けれど、救いはこれくらいです。

人の名前のアルファベットが一文字ずつ引き継がれていく継承エンドロールが凝っていた。
けれど、それすらも怖い。ここまで怖い気持ちが残る映画もなかなかないのではないかと思う。怖かったし、いやーな気持ちが残っているけれど、観なきゃよかったとは思わない。けれど、おすすめできるかと言ったらなかなかしづらい。




ナショナル・シアター・ライブでの上映。シェイクスピア原作の有名な戯曲ですが、「ブルータス、お前もか」くらいしか知らなかった。シーザー役にデヴィッド・コールダー、ブルータス役にベン・ウィショー、マーク・アントニー役にデヴィッド・モリッシー。
キャシアスが女性(ミシェル・フェアリー。『ゲーム・オブ・スローンズ』のスターク家の母、キャトリン・スターク役)になっていたり、配役にはアジア系などの有色人種も多く、多様性に配慮されていた。
舞台演出にニコラス・ハイトナー。

以下、ネタバレです。










服装がスーツやTシャツなど現代のものだったり、戦闘のシーンで防弾チョッキを着ていたり、シーザーを討つシーンは拳銃だったりと、舞台が現代的ではあるけれど、流れは原作に忠実のようである。また、セリフの言い回しが古くさい部分があって、名言的なものが多い舞台だし、それも原作のままなのだと思う。

シーザーを討つシーンは、ブルータスの一派が次々に銃を撃つ。原作でも次々に刺していたシーン。死んだシーザーの血で、一派は手を赤く染める。そして、「千載ののちまでもわれわれのこの壮烈な場面はくり返し演じられるであろう、いまだ生まれぬ国々において、いまだ知られざる国語によって」という名言が出る。それを観ているのは、メタ的というか、不思議な気持ちになった。
このシーンで、シーザーを慕うマーク・アントニーが現れるんですが、ブルータス一派と握手をするシーンが印象的だった。敵役と握手をし、しかも、手は慕っていた人物の血で赤く染まる。しかし、ここでブルータスの着ていた白いシャツにマーク・アントニーの赤い手形がべったりと付く。これが不気味な呪いのようになっていて良かった。

また、この後のローマの群衆を前にしてのマーク・アントニーの演説も良かった。デヴィッド・モリッシー、うまかった。やはり、演説シーンがうまい俳優さんには簡単にほだされてしまう。
あと、最初のバンドのシーンで、背中に“マーク・アントニー”と書かれているジャージで出て来て、背中を指差して“俺がマーク・アントニーです!”みたいにやるのがおもしろかった。

この『ジュリアス・シーザー』、一番おもしろいのは普通の座席もあるのですが、アリーナ席には椅子がない。立ち見でステージの周りを囲んでいる。それで、全部のシーンではないけれど、ローマ人の群衆役として、舞台に参加しちゃう。

オープニングもいきなりバンド演奏から始まる。小さいステージがあってその周りに観客が立っているから、まるでライブハウスのよう。演奏されるのも、オアシスの『Rock 'n' Roll Star』や『Eye of the Tiger』など、所謂ノれる曲。それで、ジュリアス・シーザーTシャツを着ている人がいたり、プラカードを持ってる人がいたり、標語がステージセットに掲げられていて、何かと思ったら、シーザーの凱旋を祝うパーティの一環だった。

またマーク・アントニーの演説はシーザーの葬式なのですが、客席には写真が黒枠で囲まれた遺影を掲げている人もいた。「ブルータスの家を燃やせ!」など叫んでいるのは役者さんだったので、プラカードや遺影などはもしかしたら役者さんが持っていたのかもしれない。それでも、そこに集った全員の総意のように思えた。ローマ人の群衆が棺を囲むシーンも、全員悲しんでいるように見えて、ブルータス一派が窮地に立たされているのがよくわかった。
舞台効果としてよくできていたと思う。

また、棺を囲むシーンもそうなんですが、お客さんたちは結構自在に動かされていて、暗いシーンで全体的に一歩後ろに下げるとか、少し間違えたら将棋倒しになりそうだった。
上がってくるステージの形もいろいろなパターンがあり、その上に客がいても怪我をしてしまう。おそらくスタッフの連携が完璧に取れていたのだと思う。

アリーナで観るのも楽しそうだったが、背が低いので一番後ろだと見えなさそう。通常の座席で見た後でアリーナで観てみたかった。



シネマートの未公開映画を上映する映画祭、“のむコレ2018”にて。
今年の“東京国際レズビアン&ゲイ映画祭”でも上映されていましたが、その時は見逃していて、でも、かなり好評だったため気になっていました。
今回も、配給がついているわけではなく個人の方が買ってくれたため、のむコレで合計5回のみの上映とのこと。

以下、ネタバレです。









ヨークシャーの牧場が舞台。田舎でもあるし、生き物相手の家族経営のため、病気だが厳格な父と祖母と暮らすジョニーは行き場も逃げ場もない。おそらく毎晩、町へ出かけて行っては酒を飲むことだけが楽しみ。いや、楽しみではなくて、それしかやることがない。
毎朝二日酔いだし、ベロベロに酔ったところを客だか店の人だかに送ってもらい、車から放り出されて外で寝たりしていた。あんな飲み方をしていたら、近いうちに必ずアルコール中毒になってしまう。でも、おそらくそれならそれでいいとも思っていそうだった。生きる楽しみはなく、すべてをあきらめている。
休暇で帰ってきた都会の大学へ行った友達に会っても、八つ当たりのような態度をとっていた。でも、家族に囚われているとも考えていそうだし、あの態度も仕方ないのだろう。彼は都会に出ることはできない。

ちなみに、ジョニーの恋愛やセックスの対象は男性だし、ゲイなのですが、別にそこでの閉塞感は描かれていないと感じた。セックス相手も割とすぐに見つかるし、ゲイだからといって迫害されるわけでもない。後半で祖母が泣くシーンもあるけれど、だから反対されるということもない。これは今の時代特有のものなのかもしれない。

ジョニーの不甲斐なさに呆れ、羊の出産シーズンに人が雇われる。そこに来るのがルーマニアからの移民、ゲオルゲ。ジプシーと呼ばれることに心底憤っていたけれど、ルーマニアでジプシーということはロマなのかもしれない。ゲオルゲ側の事情についてはまったく描かれないけれど、もしかしたら家族を殺されたり、酷い差別を受けたのかもしれない。それこそ、ゲイであること以上に。

映画は終始ジョニー視点であり、ゲイムービーとは言っても、ラブストーリーというよりは、ジョニーの成長物語になっている。ラブストーリーだったら、二人それぞれの背景…逃げ場がなくすべてをあきらめるような生活をしていたジョニーとともに、ゲオルゲのことを描かれただろう。ゲオルゲの背景も知りたかったけれど、重きを置かれているのがそこではないため、ゲオルゲのことも描いていたらとっ散らかった印象になりそう。

ジョニーはゲオルゲを住まわすトレイラーハウスについても、酷いことを言っていたし、羊の出産を一緒に手伝っていても、産まれてきて動かない子羊について「あきらめろ」と言っていた。けれど、ゲオルゲは必死にさすり、羊は動き出す。まるで、生き返ったかのようで、これは死と再生でキリスト教のイメージでもあると思った。子羊なこともある。
でも、そこまででなくても、死んだように生きていたジョニーがまた人生をやり直すという暗示なのかもしれない。

ジョニーは最初は何もかもやる気がなさそうだったし、やめてくれと言われているのに「ジプシー」と呼んで怒らせたりもしていた。けれど、子羊を生き返らせたのを見たシーンや、本気で怒られたあたりから、一目置くようになっているようだった。たぶん、ここまでジョニーは人のことを馬鹿にして、ちゃんと向き合ってはいなかったと思う。それが、人に対して少しだけ尊敬するような気持ちが芽生えてくる。ジョニーは、子羊の件はともかくとして、家族でもない人間から真剣に怒られたことなどなかったのではないだろうか。そこまでは、他人は馬鹿にしてもいいと思っていたけれど、駄目なのだと気付かされたのだと思う。

走り出したゲオルゲを、ジョニーが「どこに行くんだよ!」と叫んで、走って追いかけるシーンが感動的だった。もうすべてをあきらめて、死んだように生きていたジョニーではなく、自分から人を追いかけるまでになった。完全に変わったことがわかった。
ジョニーを演じたジョシュ・オコナーの表情が素晴らしかった。最初はずっと拗ねた顔か、酔ってどうにもならないような表情ばかりだった。けれど、ゲオルゲと接するうちに、かすかに笑顔を浮かべるようになり、そのうち、完全に恋をする表情になっていた。
しかし、ここでハッピーエンドにはならず、ここからジョニーの家族の問題になる。父が倒れ、介護問題が浮上する。ここまで、ジョニーは自分の人生が駄目なのは田舎から抜け出せないからであり、それは家族のせいだと思っていた面があると思う。それでも、ゲオルゲと接して変わったジョニーは、家族に対しての接し方も変わる。もう人のせいにはしない。

ラストで、ごたごたがあって別の農場へ移ってしまったゲオルゲを迎えに行くジョニーも良かった。前半では丘の上へ走って追いかけるだけだったが、家を離れ、住所のみで北部の農場までバスで出かけていき、ちゃんと「戻って欲しい」と言う。最初からは想像ができないし、途中からジョニーの成長が嬉しかったし、どうしようもなさを含めて愛しくなっていた。だから、迎えに行っても、ごにょごにょとうまく話せないあたりは、がんばれ!と心の中で応援してしまった。

ゲオルゲと一緒に戻るときに、肩にもたれかかっていたのも心から良かった…と思った。そして、トレイラーを引き払って、家の中にゲオルゲを迎え入れて、扉が閉まるというラストがまたいい。
これもまた“扉が閉まるエンド”である。
余韻がたまらない。扉の向こうで物語は続くけれど、映画としてはここでおしまいというのがよくわかるし、ああ、いいものを見た!という気持ちで終われる。最高のエンディングです。

最初の部分からそうだったのですが、確かに男性同士のは恋愛をするけれど、所謂ゲイムービーとも違うと思う。
ゲイを理由に二人が別れて終わるわけではない。家族にも反対をされない。カミングアウトシーンがあるわけではない。ゲイを理由に悩むというシーンもそこまでない。ジョニーに関してはまったくないと言ってもいい。ゲオルゲのここまでがどうだったかはわからないが、描かれていないのでわからない。
型通りではないし、だとすると、ゲイにする必要はあったのかという部分もあるけれど、別にかまえることなく…というのが、時代の変化なのかもしれない。
ベストゲイムービーと言われていても、それよりは一人の青年の成長物語として、とてもいい映画でした。あの土地や家族と、あきらめではなく、ちゃんと折り合いをつけてこの先を生きていくという決断が見えた。
また、イギリスらしく天気はずっと悪く、広大な牧場は厳しそうながらも、美しかった。牛の世話や羊の出産シーンも多く、生命力にもあふれていた。
だから、最初はいびつといえばいびつなんですよね。生命力にあふれた場にいる青年が、人生をあきらめていて、ただただ死ぬのを待つような生活をしている。ただ、その対比がおもしろくもある。

成長物語というのは普遍的なものだし、別にゲイムービーとか気にせずに観られるから、普通に配給会社が買って、全国ロードショーとかDVD出したりしたらいいのに…と思ったけれど、男性同士の性行為シーンはあるし、今回の上映のために権利を買った個人の方のインタビューを読むと、「配給会社なら、ゲイ映画として同時期の『君の名前で僕を呼んで』を買う」とおっしゃっていて、確かにそうだとは思った。
いい映画だとは思っていても、有名俳優が出ていないとか、地味目と言われてしまえばそうだし、話題とはいってもごく一部なのかもしれない。
配給の厳しさがよくわかったし、他にも好きないろいろな映画が日本で公開するのは難しそうだということもよくわかってしまった。

ただ、観に行った回は楽しみにしていた方々ばかりだったようで、音も立てる人もおらず、最高の環境で観ることができた。上映終了後には拍手も起こっていました。