Dec 23
ブラッドリー・クーパーが監督・脚本・製作・主演、歌などもこなしていて一人何役かといった感じ。相手役にレディー・ガガ。
予告編を見ただけだと、一般の女性が一流ミュージシャンに見初められて駆け上がって行くサクセスストーリーなのかと思っていたけれど違った。
あと、知らなかったのですが、四度目のリメイクで、元々は『スタア誕生』(1937年)。邦題にもそう付いてるし、原題は丸々一緒です。なんで気づかなかったのか。
以下、ネタバレです。
予告を見た限りだと場末のパブのような店で働いていた女性が、ミュージシャンと恋に落ちて、一緒にステージに立ったりして、大スターになる…というお話を想像していた。
人がたくさんいるステージで、女性が思い切って歌い出すシーンは、『SING』にあったようなクライマックスを想像していた。歌えなかった女性がやっと自分の殻を破る。また、あの歌が感動的だったのでクライマックス向きだと思ったのだ。
しかし、かなり序盤で出てくる。
それに、実はここが主人公ジャックの人生のクライマックスでもあった。そう、主人公はアリーではなく、ジャックである。二人が主人公なわけではない。完全にジャックです。おそらく、日本だとブラッドリー・クーパーよりレディー・ガガのほうが有名だし、アリーとタイトルに付けたのだろう。
でも、ジャックがしたことはアリーを引っ張り上げただけで、序盤のステージで一緒に歌った後は、アリーは別のマネージャーの元でスターになっていく。スターにしたのはジャックではない。だから、これはシンデレラストーリーではあっても、主人公は関わっていない。主人公と関係のないところで、好きな女性がスターになっていく。
途中でジャックが『プリティー・ウーマン』を歌わせてもらえないというシーンがあって、示唆されているのだと思った。ブラッドリー・クーパーうまい。
アリーがスターになっていく一方でジャックはどんどん落ちぶれて行く。『ラ・ラ・ランド』もそうでしたが、芸術家カップルはその点でうまくいかないと思う。人気というのは水物である。その時期が重なるとは限らない。
また、アリーだけがスターになるのに嫉妬はあるだろうけれど、アリーはジャックの手を離れてから人気が出てくるから、ジャックの望んだ姿のアリーがスターになるわけではないのがまたつらい。
『ラ・ラ・ランド』は中盤までは二人の気持ちは寄り添っていた。しかし、本作は序盤に一緒にステージに立って以降は気持ちが離れて行くから『ラ・ラ・ランド』よりも厳しい内容である。デートムービーかと思って居たけれどまったく違った。
思えば、最初からジャックはアル中気味だった。ライブ会場に客をたくさん集められても満たされない毎日だったのだろう。そこでであったアリーと恋に落ちる。鼻をなぞるシーンと眉毛を取るシーンがかなり密着した撮られ方をしていて、おそらくそこで恋に落ちたのだろうとは思うけれど、その後の会話シーンやホテルの部屋でのシーンなどは少し冗長に感じる部分もあった。しかし、後半に向けてどんどんつらくなっていくので、その冗長さが懐かしくなってくる。あの、どうでも良さそうな会話がジャックには幸せだったのだろうし、きっとあのまま続いてほしかったのだろう。
しかし、うまくいかない。
アリーが望まぬ姿でスターになっていく一方、ジャックは酒とドラッグに溺れて行く。しかも途中で、父親や兄との確執が出てくる。父はアル中で、年の離れた兄は腹違いだ。
ジャックは一流ミュージシャンだし、素晴らしいものの象徴として描かれているのかと思った。それを目指して行くアリー(アリーが主人公)という構図で。
しかし、映画は完全にジャック視点である。内面についてもジャックにしか描かれないため、アリーの考えていることはよくわからないくらいだ。
ジャックのことが好きなのはわかる。でも、自分のその姿はジャックに望まれていないというのはわからなかったのだろうか。ジャックの音楽性などを考えたらわかりそうなものだけれど。
ジャックが自分の内面を話さなかったせいもあるのかもしれない。アリーはスターになってしまい、話すこともできなかったのかもしれない。けれど、映画を観ている観客のほうがアリーよりもジャックのことを知っているというのはかなり歪だと思った。アリーはジャックのことをまったくわかっていない。
特に、グラミー賞のステージの上で失禁などという大失態をおかしたあとで、アル中克服施設に入り、出てきた彼のことを、ヨーロッパツアーに帯同させて一曲目でデュエットしたいなどと…。マネージャーにも反対されていたけれど、私も大反対だった。アリーはもちろん意地悪で言っているわけではないし、ジャックのことを愛しているのはわかった。でも、ジャックがそれを望まないことはわからない。
好きだとか愛しているという気持ちだけでは、本当に相手の内面に寄り添うことはできないのだな…というのがわかって、とても厳しいシーンだった。
この提案をするシーンは映画の終盤なのですが、ちょっとグロテスクとすら思える意見で、この段階になっても恋人がジャックのことをわかってくれていないというのは吐きそうになるくらいきつかった。
だって、ジャックはアリーと出会った時にもどん底とは言えなくてもそこそこ下のほうで、そこから彼女と出会って救われるのかなと思ったはずなのだ。それなのに、心が通ったのは前半のほんの少しの間だけ、そこからは結婚をしたって好きだと言われたって、本当にはわかってもらえてなかった。このタイプの気持ちのすれ違い映画はなかなか観たことがなかった。
しかも、そのままジャックが自殺してしまい(しかも子供の頃に自殺未遂したときと同じ方法)、アリーは永遠にジャックのことはわからないままという…。あまりにも悲劇的すぎる。
もちろん、ジャックに寄り添って、アリーがジャックを救うのに徹していたら、アリーはスターにはなれなかっただろうから、A Star Is Bornではなくなるだろう。アリーは意図的でないにせよ、ジャックの気持ちがわからないことでスターになった。意図的でなくとも、ジャックを切り捨てたのだ。この意図的でないという部分がきつかった。
意図していなかったとはいえ、追悼コンサートなど無責任だなと思って、最後のアリーの歌も冷めた目で見ていた。歌詞に日本語訳が付いてましたが、「私はもう他の人は愛さない」といった内容だったけれど、途中で実はこの曲はジャックが作ったということで、ジャックが歌うシーンに切り替わる。 歌詞は、「俺はもう他の人は愛さない」と日本語訳ならではで一人称が変わる。アリーが歌う場合と、ジャックが歌う場合で重みが全く変わってぐっときました。
この二人の気持ちのどうにもならなさと、ジャックの哀愁などの描かれ方、淡々とした会話シーンなどが少しクリント・イーストウッドっぽいなと思いながら観てたんですが、元々はイーストウッドが監督をするはずだったらしくて納得。初監督作でこれができるブラッドリー・クーパーの今後も楽しみ。ただのイケメンかと思ったら演技派…と思っていたけれど、それだけではない。
またレディー・ガガも出てきてからそのまんまレディー・ガガだなと思って、彼女はもちろん大舞台も慣れたものだと思うから、そんなステージ急に上げられてどうしようという顔をされても…と序盤は思っていたけれど、話が進み、彼女がのし上がっていくたびにどんどん知っているレディー・ガガの姿に近づいていくのがすごかった。後から考えると序盤の姿は確かに何も知らない女の子だった。演技力とともに、化粧、髪型、衣装などで一回りも二回りも華やかになっていく様子は目をみはるものがあったし、彼女のことを止められないし、止めるのは勿体無いと思わせる説得力があった。
ジャックの内面が描かれているから映画を観ている側はジャックの味方になってしまうけれど、かといって、アリーのあの姿を見せられてしまうと戻ってこいとも言えなかった。これは、レディー・ガガだからできたことだと思う。ナイスキャスティングでした。
『アリー/ スター誕生』
Posted by asuka at 12:56 PM
ブラッドリー・クーパーが監督・脚本・製作・主演、歌などもこなしていて一人何役かといった感じ。相手役にレディー・ガガ。
予告編を見ただけだと、一般の女性が一流ミュージシャンに見初められて駆け上がって行くサクセスストーリーなのかと思っていたけれど違った。
あと、知らなかったのですが、四度目のリメイクで、元々は『スタア誕生』(1937年)。邦題にもそう付いてるし、原題は丸々一緒です。なんで気づかなかったのか。
以下、ネタバレです。
予告を見た限りだと場末のパブのような店で働いていた女性が、ミュージシャンと恋に落ちて、一緒にステージに立ったりして、大スターになる…というお話を想像していた。
人がたくさんいるステージで、女性が思い切って歌い出すシーンは、『SING』にあったようなクライマックスを想像していた。歌えなかった女性がやっと自分の殻を破る。また、あの歌が感動的だったのでクライマックス向きだと思ったのだ。
しかし、かなり序盤で出てくる。
それに、実はここが主人公ジャックの人生のクライマックスでもあった。そう、主人公はアリーではなく、ジャックである。二人が主人公なわけではない。完全にジャックです。おそらく、日本だとブラッドリー・クーパーよりレディー・ガガのほうが有名だし、アリーとタイトルに付けたのだろう。
でも、ジャックがしたことはアリーを引っ張り上げただけで、序盤のステージで一緒に歌った後は、アリーは別のマネージャーの元でスターになっていく。スターにしたのはジャックではない。だから、これはシンデレラストーリーではあっても、主人公は関わっていない。主人公と関係のないところで、好きな女性がスターになっていく。
途中でジャックが『プリティー・ウーマン』を歌わせてもらえないというシーンがあって、示唆されているのだと思った。ブラッドリー・クーパーうまい。
アリーがスターになっていく一方でジャックはどんどん落ちぶれて行く。『ラ・ラ・ランド』もそうでしたが、芸術家カップルはその点でうまくいかないと思う。人気というのは水物である。その時期が重なるとは限らない。
また、アリーだけがスターになるのに嫉妬はあるだろうけれど、アリーはジャックの手を離れてから人気が出てくるから、ジャックの望んだ姿のアリーがスターになるわけではないのがまたつらい。
『ラ・ラ・ランド』は中盤までは二人の気持ちは寄り添っていた。しかし、本作は序盤に一緒にステージに立って以降は気持ちが離れて行くから『ラ・ラ・ランド』よりも厳しい内容である。デートムービーかと思って居たけれどまったく違った。
思えば、最初からジャックはアル中気味だった。ライブ会場に客をたくさん集められても満たされない毎日だったのだろう。そこでであったアリーと恋に落ちる。鼻をなぞるシーンと眉毛を取るシーンがかなり密着した撮られ方をしていて、おそらくそこで恋に落ちたのだろうとは思うけれど、その後の会話シーンやホテルの部屋でのシーンなどは少し冗長に感じる部分もあった。しかし、後半に向けてどんどんつらくなっていくので、その冗長さが懐かしくなってくる。あの、どうでも良さそうな会話がジャックには幸せだったのだろうし、きっとあのまま続いてほしかったのだろう。
しかし、うまくいかない。
アリーが望まぬ姿でスターになっていく一方、ジャックは酒とドラッグに溺れて行く。しかも途中で、父親や兄との確執が出てくる。父はアル中で、年の離れた兄は腹違いだ。
ジャックは一流ミュージシャンだし、素晴らしいものの象徴として描かれているのかと思った。それを目指して行くアリー(アリーが主人公)という構図で。
しかし、映画は完全にジャック視点である。内面についてもジャックにしか描かれないため、アリーの考えていることはよくわからないくらいだ。
ジャックのことが好きなのはわかる。でも、自分のその姿はジャックに望まれていないというのはわからなかったのだろうか。ジャックの音楽性などを考えたらわかりそうなものだけれど。
ジャックが自分の内面を話さなかったせいもあるのかもしれない。アリーはスターになってしまい、話すこともできなかったのかもしれない。けれど、映画を観ている観客のほうがアリーよりもジャックのことを知っているというのはかなり歪だと思った。アリーはジャックのことをまったくわかっていない。
特に、グラミー賞のステージの上で失禁などという大失態をおかしたあとで、アル中克服施設に入り、出てきた彼のことを、ヨーロッパツアーに帯同させて一曲目でデュエットしたいなどと…。マネージャーにも反対されていたけれど、私も大反対だった。アリーはもちろん意地悪で言っているわけではないし、ジャックのことを愛しているのはわかった。でも、ジャックがそれを望まないことはわからない。
好きだとか愛しているという気持ちだけでは、本当に相手の内面に寄り添うことはできないのだな…というのがわかって、とても厳しいシーンだった。
この提案をするシーンは映画の終盤なのですが、ちょっとグロテスクとすら思える意見で、この段階になっても恋人がジャックのことをわかってくれていないというのは吐きそうになるくらいきつかった。
だって、ジャックはアリーと出会った時にもどん底とは言えなくてもそこそこ下のほうで、そこから彼女と出会って救われるのかなと思ったはずなのだ。それなのに、心が通ったのは前半のほんの少しの間だけ、そこからは結婚をしたって好きだと言われたって、本当にはわかってもらえてなかった。このタイプの気持ちのすれ違い映画はなかなか観たことがなかった。
しかも、そのままジャックが自殺してしまい(しかも子供の頃に自殺未遂したときと同じ方法)、アリーは永遠にジャックのことはわからないままという…。あまりにも悲劇的すぎる。
もちろん、ジャックに寄り添って、アリーがジャックを救うのに徹していたら、アリーはスターにはなれなかっただろうから、A Star Is Bornではなくなるだろう。アリーは意図的でないにせよ、ジャックの気持ちがわからないことでスターになった。意図的でなくとも、ジャックを切り捨てたのだ。この意図的でないという部分がきつかった。
意図していなかったとはいえ、追悼コンサートなど無責任だなと思って、最後のアリーの歌も冷めた目で見ていた。歌詞に日本語訳が付いてましたが、「私はもう他の人は愛さない」といった内容だったけれど、途中で実はこの曲はジャックが作ったということで、ジャックが歌うシーンに切り替わる。 歌詞は、「俺はもう他の人は愛さない」と日本語訳ならではで一人称が変わる。アリーが歌う場合と、ジャックが歌う場合で重みが全く変わってぐっときました。
この二人の気持ちのどうにもならなさと、ジャックの哀愁などの描かれ方、淡々とした会話シーンなどが少しクリント・イーストウッドっぽいなと思いながら観てたんですが、元々はイーストウッドが監督をするはずだったらしくて納得。初監督作でこれができるブラッドリー・クーパーの今後も楽しみ。ただのイケメンかと思ったら演技派…と思っていたけれど、それだけではない。
またレディー・ガガも出てきてからそのまんまレディー・ガガだなと思って、彼女はもちろん大舞台も慣れたものだと思うから、そんなステージ急に上げられてどうしようという顔をされても…と序盤は思っていたけれど、話が進み、彼女がのし上がっていくたびにどんどん知っているレディー・ガガの姿に近づいていくのがすごかった。後から考えると序盤の姿は確かに何も知らない女の子だった。演技力とともに、化粧、髪型、衣装などで一回りも二回りも華やかになっていく様子は目をみはるものがあったし、彼女のことを止められないし、止めるのは勿体無いと思わせる説得力があった。
ジャックの内面が描かれているから映画を観ている側はジャックの味方になってしまうけれど、かといって、アリーのあの姿を見せられてしまうと戻ってこいとも言えなかった。これは、レディー・ガガだからできたことだと思う。ナイスキャスティングでした。
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