映画館で見かけた、グラムロッカーみたいな化粧をしたマット・デイモンのポスターが気になったので観ました。予告編は流れてなかったんじゃないかな…。
ボーンシリーズや最近の『エリジウム』など、どちらかというと、男らしいマッチョなアクションをこなす俳優なイメージだったので、こうゆう少しキワモノ風なポスターは意外でした。

リベラーチェという実在するピアニストの恋人が書いた伝記の映画化。スティーブン・ソダーバーグ監督作品。もう映画は撮らないんじゃないの?と思っていたら、これはテレビ映画だそう。

以下、ネタバレです。






観終わるまで、リベラーチェがマイケル・ダグラスだって気づかなかった…。前情報を入れていないにしても、かつらと表情のせいで、ものすごく若く見えました。
そして、演技も素晴らしかった。最初の、ステージ上でピアノを弾いてるシーンから、お客さんとして観にきているスコット(マット・デイモン)や他の観客と同様に、リベラーチェにすっかり魅了されてしまった。
スパンコールやラインストーンがちりばめられた衣装にピアノもギラギラしていた。これは、いままでピアノ弾きと言えば、黒いタキシードと黒いピアノだったことに対する反発らしい。
ピアノには枝付き燭台も飾られていた。原題は『Behind the Candelabra』。ただ単に、枝付き燭台の後ろ側にいるリベラーチェを指しているのか、それとも、Candelabraの華やかさをリベラーチェに例えて、リベラーチェの素顔みたいな意味もあるのかも。

最初のピアノショーのシーンは映画というより本当にピアノショーのようだった。『マジック・マイク』もショービジネスの裏表みたいなものを描いていたけれど、『恋するリベラーチェ』もテーマ自体は似通っている。ただ、『マジック・マイク』のほうがもっと乾いた印象を受けた。こちらは湿っている。ドロドロです。

リベラーチェはキュートで、楽しいことが好きで、高慢で、人を愛することがやめられないし、愛されたいという欲望も尽きることを知らない。年齢は関係ない。独りよがりに見えるけれど、だからこそ、スターになれたのだろう。
スコットはそんなリベラーチェに振り回される。一方的に愛を押し付けられて、戸惑いながらも次第に夢中になっていく。キスやセックスがわりとはっきりと描かれて、マット・デイモンのお尻も何回も出てきていた。キスシーンにはベン・アフレックも嫉妬したらしい…。

しかし、ほどなくして飽きられてしまう。リベラーチェは別の男に夢中になる。
スコットが最初にリベラーチェの楽屋に行った時にちやほやされるが、その画面手前側で、前の男が不機嫌そうに、黙って一人でご飯を食べていた。それと、同じ構図で後半には、手前側にスコットが一人でご飯を食べ、奥にリベラーチェが若い男をもてなしていた。きっと、いままでもこの繰り返しだったのだ。

憎しみの中で別れたスコットがリベラーチェの葬式で観たショー的なものは彼の頭の中のことだろう。哀しみというよりは、まるで宝塚のような華やかさ。ここでリベラーチェが言う、「いいことも、度がすぎると素晴らしい」という言葉はソダーバーグ監督の映画を撮るのをやめるにあたっての遺言めいたものにも感じられた。
それを見つめるマット・デイモンの表情が素晴らしい。一人の観客として、リベラーチェを観ている。それは、なんでこの人のことを好きになったのかを思い出した顔だった。

主演のマイケル・ダグラスとマット・デイモンの演技が本当にすごかったんですが、アメリカではテレビドラマとして放映されたため、アカデミー賞にはノミネートされないらしい。けれど、エミー賞は総なめだったらしいです。(追記)ゴールデングローブ賞にも多数ノミネートされています。

美術や衣装も観ているだけで、ワクワクしてしまうきらびやかな世界だった。リベラーチェの舞台の衣装やアクセサリー、ピアノなどはもちろん、リベラーチェの屋敷の装飾品や家具もじっくり観てしまった。

リベラーチェがピアノを弾くシーンが何度か出てきますが、実際にリベラーチェが弾いたものも含まれているらしいです。

映画の中盤で、整形で顔が変わり、ドラッグのせいで体型が変わるなど、姿形が自在に変化していたけれど、撮影期間が30日だったみたいなので、特殊メイクやCGみたいです。
それで、大阪の矢田弘さんという特殊メイクアーティストの方が、エミー賞の特殊メイク部門をこの映画で受賞してました。

映画を観終わったあと、パンフレットを買うかどうか迷っていたんですが、思った通りのキラキラした装丁だったので購入。それに、映画が終わったあとで、スコットがリベラーチェにコートをかけてあげてるメインヴィジュアルを見ると、二人が良かった頃を思い出して泣けて仕方なかった。


フランソワ・オゾン監督。すごい美少年が出ているというので観に行きました。
生徒に絶望している教師は、
一人の生徒の文章力とその内容にひかれる。他人の家族を執拗に観察している作文は次第にエスカレートし、教師もその内容が気になり…というストーリー。
映画のスチルやこの内容からサスペンスっぽいのかなと思ったら、コメディと書いてあった。観てみると、爆笑というわけではなく、皮肉混じりなおもしろさで、なるほどフランスっぽいと思ったけれど、スペインの舞台が原作らしい。
映画も舞台のテイストがふんだんに感じられた。演技というよりは、舞台特有のテンポの良いセリフの掛け合いで進んでいく。

以下、ネタバレです。








教師ジェルマンが生徒クロードの文章を見こんで、文章を手直ししていくのだけれど、フランス語がわからないので、文法のことなどは一切わからなかった。また、結局字幕を読んでしまっているだけなので、文章がうまいというのも、正確には伝わってはいないのだと思う。それでも、翻訳もうまいという話も見かけたけれど、どの部分がうまいのかもピンとこない。
この映画のような、文章を主体とする作品は、もしかしたら他の国での上映は向かないのかもしれない。

そう思いながら観進めていったけれど、文章だけではなく、その文章を映像にして見せるという手法で多少カバーされている。やはり、本ではなく映画なのだ。
教師が手直しすると、同じような映像が変わるという工夫もおもしろかった。例えば、父親のシャツの色を書くと、映像でも色の付いたシャツを着ていたり。それはクロードが書いた文章を読んで、ジェルマンの頭の中に思い浮かんだイメージを映像化したものなのだと思う。

ストーリーはそれほどのあっと驚く展開はない。一番話が動くのはクロードの友人ラファが自殺するあたりでしょうか。真実なのか、それともクロードの創作なのかわからずに混乱してくる。私たち(観客とジェルマン)はクロードの文章の中でしか、ラファとその家族のことを知らないのだと痛感させられる。
結局は、全員がクロードに弄ばれている。周囲を引っ掻き回して、望んでか望まずか、破綻させて終わる。

クロードを演じたエルンスト・ウンハウワーくんは本当に美少年で、すべての人を操るというのは、あれだけの美貌がないとできないだろうからハマり役です。説 得力がある。少年ということもあり中性的な顔立ちで、綺麗なだけではなく、少し影もある。美形ではあっても、関わってはいけない妖しい雰囲気をまとってい る。一緒にいても、決して幸せにはなれなさそう。
また、上半身裸のシーンが少し出てきますが、あれもかなりの威力があった。マッチョでもない、がりがりでもない、ぷよぷよでもない。色白で、完成されきってない躯。まさに少年の躯だった。

クロードは母親がいないことで母親くらいの年齢の女性に憧れるのか。父親の怪我も、もしかしたら、クロードが関わっているのではないか。彼の家族についての 描写は重要そうではあるけれど、そこまで言及されない。最後のほうに、父親の介護をしているシーンが少しあるくらいだった。
また学校での様子も詳しく語られない。ラファ以外の学生、特に女生徒は出てこない。
あくまでも、クロードとジェルマンと、クロードの描写するラファの家族の様子が重点的に描かれていて、余計な要素は出来る限り排除されている。その辺は舞台が原作というのも関わっているかもしれないけれど、話があっちこっちにいかずコンパクトにまとめてあって観やすかった。

ジェルマンがクロードの文章にのめりこんでいく様子は、まるで底なし沼に沈んでいく様子を見るようだった。文章のうまさが気になるのか、文章に書かれている他人の家の様子が気になるのか。もう最後のほうは、文章が妄想でも現実でもどちらでもよくて、ただクロードの頭の中が知りたいという欲望に塗れていたと思う。
妻を抱かなくなったのも、もっと夢中になれるものを見つけてしまったからだろう。

結局、ジェルマンは教師という職と妻の両方を失う。しかし、学校にもどこか冷めていたようだし、制服の件で校長先生らしき上の人とも折り合いがつかないようだったし、妻のことももう愛してはいなかったのかもしれないし、近くにクロードが残った。
最後に二人で知らない家庭の様子を想像してストーリーを作っている様子は楽しそうだったし、そこから再スタートすればいいのではないか。
すべてを失って破綻したように見えても、あれでハッピーエンドなのだと思う。


原題『NOW YOU SEE ME』。このタイトルとキャストと、なんとなくのストーリーが発表されたのがちょうど一年くらい前。
ジェシー・アイゼンバーグとウディ・ハレルソンという『ゾンビランド』コンビ、モーガン・フリーマンとマイケル・ケインという『ダークナイト』おじいちゃんベテランコンビ、『アベンジャーズ』のハルクというかバナー博士役も良かったマーク・ラファロと、豪華…というか、私好みのキャストが揃えられていたのと、マジシャンが銀行強盗をして、FBIと対決するというストーリーで、かなり期待していました。
長い間原題で期待していたのと、映画の最初と最後に出てくるロゴが恰好良かったので、原題のままが良かったです。

どんでん返しがあるタイプの話なので、できるだけ前情報無しで観たほうがおもしろいです。以下、ネタバレです。







まず、手品とクライムムービーを合わせるというストーリーがおもしろかった。
手品なんて、生で見るものだし、映画だとCGでも使えばどうにでもなるだろうと思っていたけれど、ちゃんとトリックの説明もあって納得がいった。けれど、少し、催眠術が便利すぎるかなとは思った。

手品のシーンはどれも恰好良かったです。最初、四人がそれぞれの持ちネタというか得意ジャンルで手品を披露しているシーンは、テンポの良い自己紹介も兼ねていた。
そして、四人が揃った手品シーンは、テレビ番組を模したカメラワークがきまっていた。上のほうからぐるぐると丸いステージの周りを囲むようにまわるカメラが大袈裟なほどダイナミック。最後の手品の時に、建物にプロジェクションマッピングをするのも流行がとりいれられていて良かった。最後に札が空中に舞うのも花吹雪のようで、華やかな舞台に見惚れて、結局まんまと騙されてしまった。
騙されたといっても、手品なんて騙されたほうが楽しめるし、途中でネタがわかってしまったら興ざめだし、失敗されても気まずい。これは、この映画についても言えることで、最後の最後でネタばらしというかどんでん返しがあるんですが、すっかり騙されていたため、それがとても心地よかった。途中で先が読めてしまったらつまらない。

この映画は予告編も非常に良くできている。予告に使われている映像はほぼ序盤の手品の様子なのがいい。あと、最初の自己紹介っぽい部分で個人が手品に失敗と見せかけるシーンがあるんですが、それが大事故やトラブルが本当に起こったようにされているのも、予告に緊迫感を与えていた。そして、さも、マジシャンの四人が主役であるような作りになっている。

マジシャン四人組について、過去が明らかにならなかったり、私生活についてもほぼ描かれていないなど、人物の掘り下げが少なかったのが残念だった。ただ、登場人物が多い部分がおもしろい映画だから減らしてほしくはないし、かといって掘り下げを各人についてやっていたら、映画の時間がいくらあっても足りなくなってしまうので仕方がない。華やかで映画的な見せ場も多い四人ですが、結局は脇役なのだと思う。

映画を観るまで、もう一年間くらい、マジシャンが銀行強盗をして、FBIと対決するというストーリーだと思い込んでいたのだ。
実際にマジックをしながら銀行強盗もした。ただそれは、黒幕に依頼されてのことだった。四人も自発的に集まったわけではなく、黒幕によって集められた。もうこれは、映画が開始されてすぐにわかることだけれど、黒幕が誰か、というのがわかるのは最後の最後だというのがニクい。

合間合間で、 FBI内でも内輪を疑うような発言がされていたり、モーガン・フリーマン演じるサディアスはいかにも怪しかったり、各所に仕掛けらた罠からやっぱりインターポールの捜査官(メラニー・ロラン)なのかなーなんて思っていたんですが、本当に意外なことに、マーク・ラファロだったときには、にやりとさせられた。端的に言えば、復讐の話でした。

一応、マジシャン四人が金を奪った三箇所にも筋道が通る説明がつけられる。四人もショーの最後に客に金をばらまいていたから、金が目的ではなかったのだ。

ただ、集められる前にはあれだけケチな方法で金を稼いでいた、特にメリット(ウディ・ハレルソン)とジャック(デイヴ・フランコ)は金儲けには興味は無くなったのかな。それよりは、アイの指令のほうに夢中になっていたのかな。

他にも、ちょっと無理があると思う部分もあったけれど、マジックだと思えば納得がいく。それに、一年間くらい期待に胸膨らませて、はちきれそうな感じで観たけれどおもしろかったということはおもしろかったんだと思う。
もしかしたら、贔屓目で観過ぎているかもしれないけれど。

去年の11/19に初めて情報を見た時の私のtweetを見ると、

J・アイゼンバーグとW・ハレルソンは銀行強盗には見えるけど、マジシャンには見えない。かといって、FBIにも見えないな。どっちだ。M・ラファロはマジシャンにも銀行強盗にもFBIにもなれそう。M・フリーマンとM・ケインは元FBI? M・ケインはマジシャンも似合いそうだけど。

と書いていた。キャストから誰がマジシャンで誰がFBIか予想しているのですが、半分くらい当たってる。というか、マーク・ラファロについて、かなり鋭い読みをしてた。

『グランド・イリュージョン』はキャストも豪華。
やっぱりマーク・ラファロはうまかったし、色気があった。無精髭がたまらない。
途中までのマジシャンに振り回されっぱなしの部分もいいし、最後のほうの正体をバラしてからのさびしげな顔も良かった。最初のほうは、マーク・ラファロっぽくない役だなとは思ったんですが、最後まで観て、なるほど彼らしい役だと納得しました。

ジェシー・アイゼンバーグはいつもと違って少しも童貞臭がしなくて戸惑う。しかも、最初のほうでは、ファンの女の子が部屋に押し掛けてきて、それを慣れた感じでかわしていた。でも、話し方はいつもの神経質そうな早口で安心した。
今回、彼がイケメンに見えるのは、ストレートパーマをかけてるせいじゃないかとも思う。劇中で久しぶりに会った過去のパートナーに、髪型変えた?と聞かれてるシーンがあるんですが、それがストパーのことなのかわからなかった。過去シーンがちょっとでも出てきたらおもしろかったのに。


デイヴ・フランコは『ウォーム・ボディーズ』のときよりも、ますます兄ジェームズ・フランコに似てた。下っ端の若造役。ウディ・ハレルソンが胡散臭い催眠術師役なのも似合ってた。

モーガン・フリーマンとマイケル・ケインは、違うシーンですが、二人とも屈辱的な顔をするのが良かった。

あと、別に好きな顔とかではないんですが、最近、観るもの観るものに出てくる人がここでも出てきていて気になった。『パーソン・オブ・インタレスト』『マン・オブ・スティール』『クロニクル』に端役で出てました。マイケル・ケリーという方らしい。


2007年公開。このところ、ダニー・ボイル監督作品を連続で観てますが、
こんなSFを撮っているとは知らなかった。しかも、主演がキリアン・マーフィー。でも、考えてみればキリアンは『28日後…』でも主演だった。

映像面でのこだわりは相変わらず感じられました。宇宙船のシールドが動くところなどはその大きさがものを言うようだったので、映画館で観たかったです。
船外活動をする時の宇宙服が太陽から身を守るためだと思うけれど、ギラギラとした金色なのが変わっていた。顔の部分も溶接マスクのよう。誰かデザイナーでも関わっているのではないかと思うけれど、どうなんだろう。
最初のほうの地球にメールを送るシーンはパソコンの内側から見ているような画面になっているお遊びも。下のほうに表示されている“send”が鏡文字になっていたり。
キリアン演じるキャパと真田広之演じるカネダキャプテンが船外でシールドを直すシーンは、宇宙船の中にいる人たちの左右上側に出ていて、ゲームの一画面のようなデザインだった。
目のショットが多いのもこだわりだと思う。太陽を見つめる目はまるで神様を見るようだった。宇宙服の中の目だけを映すことで緊張感も表されていた。

宇宙船も縦長で、その先にでっかいパラボラアンテナみたいなシールドが付いているという変わった形だった。ただ、この特殊な形のせいだけではないかもしれないけれど、登場人物がどこにいるのかいまいちわかりにくい面もあった。太陽に撃ち込む核爆弾も、宇宙船のどこについているのかわからなかった。ラスト付近でキャパがいた広めの場所も、どこだったのかわからない。

閉鎖された宇宙船内で閉じ込められた形のクルーたちが次第に疑心暗鬼になっていくサスペンスというのは、よくあるといえばよくあるとも思う。逃げ場のないところで、人間関係が崩れていく。

よくあるとはいえ、好きなシチュエーションなのでかまわないんですが、この映画は少し変わってた。
中盤で、行方不明になった宇宙船からの救難信号を受信して、針路を変更するんですが、辿り着いた宇宙船には誰もいない。その宇宙船内を探索しているときに、かつてのクルーたちの笑顔の写真がサブリミナルのように挿入されるのがすごく怖い。「埃は人間の皮膚です」という言葉も怖い。
そして、もとの宇宙船に、4人しかいないはずなのに、AIが5人いるという。名前はわからないと。

結局それは、行方不明になった宇宙船の船長が乗り込んできていたのですが、肌は太陽で焼き爛れていて、その人が追いかけてくるものだから、完全にホラーになる。AIが生体反応がないと言っていたようなんですが、その辺のこともどうしてなのか、わからなかった。
そして、ちゃんと映るわけでもないし、キャストを確認したときに、その船長役がマーク・ストロングだったのはびっくりした。

最後まで観てもいまいちすっきりとはしないでわかりにくい面もありましたが、全体的な世界観や、途中から話のトーンが変わるのは好きでした。

ダニー・ボイルの映画では、エンドロールで使われてる曲にも注目する癖がつきましたが、今回、表示されているのが二曲だけだったのが意外。SFだからそれほど曲も合わないか。

『ザ・ビーチ』


2000年公開。曲や映像づくりなど、とてもダニー・ボイルらしい映画だった。
幻のビーチに辿り着くまでの話なのかと思っていたけれど、かなり序盤でビーチには辿り着いてしまう。そこから物語が展開していくということは、ビーチがただの天国ではなかったということ。

一人旅の若者が怪しい若者に地図を渡されて、興味を持ってそこへ向かうという話だけでも不穏な感じもしつつ、ワクワクする。ビーチへ向かう途中でも苦労はする。海を泳いでいる途中で仲間が沈んだときには、本当にサメに襲われたのかと騙された。
そんな風に島にわいわいと騒いだり、苦労しつつ、なんとか島に辿り着く。そして、島の中の崖から決死の思いで海に繋がっているであろう水の中へ飛び込む。この辺までは、普通の青春映画のようだった。

そこは自分探しの旅人の吹きだまりのような場所で、女長が取り締まっていた。このサルという女長役がティルダ・スウィントン。支配者役が合っていた。
最初に、この場所を誰かに教えたか、という質問に、レオナルド・ディカプリオ演じるリチャードは教えてないと嘘をつく。考えてみれば、これがすべての元凶だった。このせいで、サルと関係を持つことになってしまうし、それがバレてフランソワーズにはフラれるし、場所を教えた人たちが島に来ないように見張らなくてはならなくなってしまうし、いろいろ重なって、ついには狂うことになる。

ただ、内緒の場所を教えてもらったら、他の人に教えたい気持ちもわかる。噂の場所を知っているという優越感もあっただろうし、教わった男もクスリをやっていたから信憑性もあやしく軽い気持ちだったのだろう。
主人公のリチャードが、かなりふわふわしていて、簡単に嘘をつく。フランソワーズに、サルと寝たのかと詰め寄られても、首を振っていた。その場を切り抜けることしか考えていなそうだけれども、リチャードの行動や気持ちの変化には、なんとなく頷ける部分もあった。
ここだけではなく、映画の最初から最後まで、リチャードの翻弄のされ方というか、心の弄ばれ方がうまくて、たぶん、私もこうなるだろうな/こうするだろうなと思いながら観ていた。

フランソワーズにフラれたくらいから、リチャードは徐々に狂っていく。島に住んでいる人に親指を見られて、ゲーム好きの烙印を押されていたけれど、その伏線が後で回収される。実際にゲームボーイで遊んでいる様子も出てくるけれど、自分が地図を渡した人たちをとらえるのがゲーム感覚になってしまっていた。ゲーム画面のような作りは、ダニー・ボイルらしかった。森の中を意気揚々と歩くディカプリオ、ダメージを受けると死ぬけれど、もう一基残っていて、復活。ここで、Blurの『ON YOUR OWN』がゲームっぽくアレンジしたものが使われていた。一見楽しそうなシーンだけれど、完全に狂っている。
元々の住民である農民の銃を奪おうとしておどけてみたり、喜々として落とし穴を掘ってみたり。落とし穴の中に先を尖らせた竹を仕掛けているあたり、殺そうとしている。
また、島に来たときには、崖から飛び込むのに躊躇していたのに、迷いも無く飛び込むシーンも出てくる。最初の頃のフレッシュな気持ちはもう無いのかわかる。
幻の中で、地図をくれたダフィとリチャードのセリフが逆になるのもおもしろい。映画の序盤では、リチャードはまともで、ダフィはクスリをやっていた。リチャードが「言っちゃ悪いが、お前、イカれてるよ」と言うと、そんな話すら聞いていないように、ダフィは「会えて良かった」と言って握手を求めてくる。ここではダフィがリチャードに「お前、イカれてるよ」と言うし、実際にイカれていた。

ディカプリオのだんだん狂っていって、完全にまともじゃなくなる演技がうまかった。暗がりの中にいるときの影で顔が隠れてしまっている様子や、撃つときの顔なども鬼気迫っていて良かった。最初のほうの、ただの一人旅の若者とはまったく違う表情だった。
なんにしても、主人公がこうなってしまった以上、バッドエンドの予感しかしなかった。

島にいる人たちは、島には居るけれども、いざ都会に行く人がいると、それぞれが買い物をたくさん頼むあたり、都会を捨てきれてもいない。
また、長であるサルの気を損ねないようになのか、狭い人間関係で面倒を起こしたくないからか、右向け右で意見を持たないものの集まりのようだった。
黙って従っていれば、サルが良くしてくれるし、良いところしか見たくないからこの島にいる。だから、サメに足を喰われ、怪我をした人が呻き声をあげていたら落ち着かない。だから、怪我人を追放した。見えるところにいなければ、狭い世界の中なので存在しないも同然。

右向け右なのはわかっていたはずなのに、ラストのサルは考えが浅はかだった。結局玉は入っていなくても、殺すことはなくても、撃つところを見せてしまったら、住民は全員が一斉に逃げ出す。みんな、サルのような強い意思をもって、そこにいるわけではないのだから。
島から脱出するときに空が曇っているのも、楽園なんてないというのを表しているようだった。

ラスト、ネットカフェのような場所でリチャードがフランソワーズからのメールを受信する。それは島の住民が楽しそうにジャンプをしている写真が貼付されていて、“パラレルユニバース(別次元の世界)”というメッセージが添えられている。これも、序盤で出てきたセリフである。島に向かう途中で、夜、星の写真を撮ろうとしているフランソワーズにリチャードが「あの星には別の僕らがいるかもしれない」と言いながら。
このシーンもそうですが、崖から飛び込むところ、ゲーム好きの親指、ダフィとのやりとりと、前半に出てきたエピソードを繰り返すのが何度も出てきて、それを持ってくるか、やられた!と何度も思った。
特にこのラストシーンはメールを開いたリチャードもやられた!って顔でニヤリと笑うんですが、たぶん、私も同じ顔で笑っていた。

そして、ちょっとこれって、『トランス』のラストにも似てるんですよね。ネタバレしないために名前は出しませんが、あの人もやられた!って顔してた。あの人が持っていたのはおそらくiPadでしたが、この映画では2000年ということで昔のiMacです。

エンドロールで流れた曲を歌っている声にとても聞き覚えがあって、観ていたら、UNCLE Featuring Richard Ashcroftとなっていた。リチャード・アシュクロフト、ザ・ヴァーヴのボーカリストだった人ですね。
Mobyの『Porcelain』も使われてる!と思ったけど、この映画のサントラで売れたらしい。

あと、主演は本当はユアン・マクレガーにする予定だったらしいけれど、集客アップを狙ってディカプリオにしたという話は、いま読むとおもしろい。いまなら、ユアンのままで良さそう。


1996年公開。ダニー・ボイル監督初期の作品。
途中まで観てやめていたことが多く、最後まで観ていなかった。と思ったけれど、
最後のほうの丸い部屋で取引するシーンはなんとなくおぼえているのでもしかしたら最後まで観たことがあるのかも。

なんで途中でやめていたのかというと、序盤のほうの結構汚いシーンでめげてしまっていた。今回もめげそうになったんですが、最後まで観ました。でも、登場人物は好きになれなかった。

イギリスが舞台のグループもののクライムムービーというと、ガイ・リッチー監督の『ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ』や『ロックンローラ』あたりを思い出す。『トレインスポッティング』はクライムムービーというよりは青春ものの意味合いが強い気もするので違うのかもしれないけれど、比べた場合に、ガイ・リッチーの一連の作品は登場人物のことを好きになれた。駄目な面があっても、結局愛おしかった。だけど、『トレインスポッティング』はユアン・マクレガー演じるレントンはロンドン以降はまあまあ好きになれたけれど、他の仲間は最後まで、観ていてもやきもきするだけで好きになれなかった。

それでも、ダニー・ボイル特有のセンスの良い映像と音楽の合わせ方はこの時から健在。ミュージックビデオっぽい。
特に、最初のほうのドラッグでハイになっているシーンと、禁断症状のシーンの映像が印象的。禁断症状のシーンの音楽はアンダーワールド。死んだ赤ちゃんが天井を歩きながらこちらに向かってくる様子や、逮捕された友達がロッカーの上に腰掛けながら足の鎖をじゃらじゃらやっている地獄絵図。
今年公開された『トランス』の催眠状態の頭の中のシーンにも似ていると思う。

また、レントンがスコットランドからロンドンへ出てきたシーンでは、各名所やピカデリーサーカスなどの駅名、ロンドン塔のコスプレスタッフさんがこちらに手を振る映像、トラファルガースクエアの路上パフォーマンスなどが繋ぎ合わされていいて、まるで、観光案内ビデオのようだった。


『トレインスポッティング』の音楽というと、Underworldの『Born Slippy』が有名。ラストはこの曲に合っていた。疾走感と、未来へ向けての明るさみたいなものが見える。
ただ、それだけでなく、96年、いまから20年近く前ということで、私の好きなイギリスのバンドの曲がたくさん使われていた(ちなみに、これを同じ曲の使い方をいまやってるのが『ワールズ・エンド』)
強盗をして捕まって、裁判をやるシーンではblurの『Sing』が使われていた。Pulp、エラスティカ、プライマルスクリームなんかも使われています。
エンドロールで流れる遊園地っぽいSEがコーラスも含め、すごくblurっぽいけれど、アルバムには入っていないと思うのでなんだろうと思ったら、“Performance by”の後に四人くらいの名前が書いてあって、その中に、Albarnを発見。サントラだと、デーモン・アルバーンの個人名義になっているみたい。他の三人が誰だったのか気になる。


試写会にて。
淡々としていながらも、観終わったあとにふわっとしたあたたかさが残る良作。原題は『
EVERYDAY』 ですが、ここに“いとしき”が付けられた邦題はすごくいいと思う。
IMDbのキャスト欄を見たところ、同じ名前の人が四人いて、何かと思ったら四兄弟は実際の兄弟らしいです。
以下、ネタバレです。





ストーリーは、刑務所に入った父親を待っている四人の子供と母親の、出所するまでの日々という、いたって単純なもの。その日々は何も起こらないわけではないけれど、過剰にドラマティックには描かれないし、説明もほとんどない。父親の捕まった理由も不明。

春とか冬とか何ヶ月後みたいな表示は出なくても、スクリーンに映し出されるイギリスの田舎の農村風景を見れば、季節の移り変わりがわかる。草が枯れていて牧草ロールが置かれていれば冬の準備、樹木から葉が落ちていれば冬、草が青々としていたら春から夏くらいなのだろうなと思う。同じように、登場人物の服装からも季節がわかる。

そんな中で、刑務所内の父親はほとんど同じ服装だし、部屋からは季節もわからないのが対照的だった。刑務所内の男の心情は語られなくても、それだけで過酷さがうかがえる。

季節の移ろいが何回か繰り返されるので、何年間かの話なのだろうなとは思うけれど、季節ごとにまとめて撮影しているのかと思ったら、実際に5年間かけて撮影されたらしい。そういえば、子供たちの表情は少しずつ確実に成長していた。

まるで、ドキュメンタリーのような密着加減だし、子供たちは実際の兄弟とのことですが、ここで泣いてくださいとか、演技はさせていたらしい。自然すぎて、どこからどこまでが演技なのかわからない。

季節は変わっていっても、学校に通う道は繰り返し出てくるし、朝食は掻き込むようにシリアルだ。母親一人で時間と余裕のない育児の日々が続いて行く。
映画に出てるのは、他の日と違った何かがあった日で、他は気が遠くなるような日常が続いていたのだろう。それを一人で乗り切るのはつらい。子供を一人で寝かしつけて、ベッドでため息をついていた。
それなのに、ハシシを持ち込んだのがバレて刑期を伸ばす父親は阿呆です。妻の多少の浮気も仕方ないと擁護したい。子供たちだって、海で遊んでもらってて楽しそうだった。
でも、父親は妻のことが好きすぎる描写が何度も出てくるんですよね。たぶん、子供より好きそう。だから、可哀想ではあるけれど、だったら余計におとなしくしてないといけないだろう。

ラストで家族六人で冬の海にいるシーンが本当にいい。カメラが上へ移動していって、家族以外に誰もいないのがわかる。なんてことはないシーンなのに、じんわりと滲み出るような感動が広がる。マイケル・ナイマンの音楽もいい。

音楽は全編にわたって、寄り添うように、見守るように穏やかに流れている。それが、イギリスの田舎の風景とよく合っている。イギリス東部のノーフォークという町らしいです。山が見当たらなく、だだっ広いのがたまらない。
父親のいる刑務所はロンドンにあって、電車で面会に向かうんですが、一時間半の映画内に「電車が遅れた」というセリフが二回くらい出てきて、イギリスの郊外の電車って本当に遅れるのだということを再確認しました。

父親役のジョン・シムという役者さんは、どことなくレディオヘッドのトム・ヨークに似てた。THE英国人な顔立ちで好きです。調べたら、イギリスのドラマによく出ている人みたい。特にDoctor Whoが気になる。
同じ監督マイケル・ウィンターボトム、音楽マイケル・ナイマンの『ひかりのまち』(99年)は妻役の女優さんとも一緒に出ているみたいで観たい。