フランソワ・オゾン監督。すごい美少年が出ているというので観に行きました。
生徒に絶望している教師は、
一人の生徒の文章力とその内容にひかれる。他人の家族を執拗に観察している作文は次第にエスカレートし、教師もその内容が気になり…というストーリー。
映画のスチルやこの内容からサスペンスっぽいのかなと思ったら、コメディと書いてあった。観てみると、爆笑というわけではなく、皮肉混じりなおもしろさで、なるほどフランスっぽいと思ったけれど、スペインの舞台が原作らしい。
映画も舞台のテイストがふんだんに感じられた。演技というよりは、舞台特有のテンポの良いセリフの掛け合いで進んでいく。

以下、ネタバレです。








教師ジェルマンが生徒クロードの文章を見こんで、文章を手直ししていくのだけれど、フランス語がわからないので、文法のことなどは一切わからなかった。また、結局字幕を読んでしまっているだけなので、文章がうまいというのも、正確には伝わってはいないのだと思う。それでも、翻訳もうまいという話も見かけたけれど、どの部分がうまいのかもピンとこない。
この映画のような、文章を主体とする作品は、もしかしたら他の国での上映は向かないのかもしれない。

そう思いながら観進めていったけれど、文章だけではなく、その文章を映像にして見せるという手法で多少カバーされている。やはり、本ではなく映画なのだ。
教師が手直しすると、同じような映像が変わるという工夫もおもしろかった。例えば、父親のシャツの色を書くと、映像でも色の付いたシャツを着ていたり。それはクロードが書いた文章を読んで、ジェルマンの頭の中に思い浮かんだイメージを映像化したものなのだと思う。

ストーリーはそれほどのあっと驚く展開はない。一番話が動くのはクロードの友人ラファが自殺するあたりでしょうか。真実なのか、それともクロードの創作なのかわからずに混乱してくる。私たち(観客とジェルマン)はクロードの文章の中でしか、ラファとその家族のことを知らないのだと痛感させられる。
結局は、全員がクロードに弄ばれている。周囲を引っ掻き回して、望んでか望まずか、破綻させて終わる。

クロードを演じたエルンスト・ウンハウワーくんは本当に美少年で、すべての人を操るというのは、あれだけの美貌がないとできないだろうからハマり役です。説 得力がある。少年ということもあり中性的な顔立ちで、綺麗なだけではなく、少し影もある。美形ではあっても、関わってはいけない妖しい雰囲気をまとってい る。一緒にいても、決して幸せにはなれなさそう。
また、上半身裸のシーンが少し出てきますが、あれもかなりの威力があった。マッチョでもない、がりがりでもない、ぷよぷよでもない。色白で、完成されきってない躯。まさに少年の躯だった。

クロードは母親がいないことで母親くらいの年齢の女性に憧れるのか。父親の怪我も、もしかしたら、クロードが関わっているのではないか。彼の家族についての 描写は重要そうではあるけれど、そこまで言及されない。最後のほうに、父親の介護をしているシーンが少しあるくらいだった。
また学校での様子も詳しく語られない。ラファ以外の学生、特に女生徒は出てこない。
あくまでも、クロードとジェルマンと、クロードの描写するラファの家族の様子が重点的に描かれていて、余計な要素は出来る限り排除されている。その辺は舞台が原作というのも関わっているかもしれないけれど、話があっちこっちにいかずコンパクトにまとめてあって観やすかった。

ジェルマンがクロードの文章にのめりこんでいく様子は、まるで底なし沼に沈んでいく様子を見るようだった。文章のうまさが気になるのか、文章に書かれている他人の家の様子が気になるのか。もう最後のほうは、文章が妄想でも現実でもどちらでもよくて、ただクロードの頭の中が知りたいという欲望に塗れていたと思う。
妻を抱かなくなったのも、もっと夢中になれるものを見つけてしまったからだろう。

結局、ジェルマンは教師という職と妻の両方を失う。しかし、学校にもどこか冷めていたようだし、制服の件で校長先生らしき上の人とも折り合いがつかないようだったし、妻のことももう愛してはいなかったのかもしれないし、近くにクロードが残った。
最後に二人で知らない家庭の様子を想像してストーリーを作っている様子は楽しそうだったし、そこから再スタートすればいいのではないか。
すべてを失って破綻したように見えても、あれでハッピーエンドなのだと思う。


原題『NOW YOU SEE ME』。このタイトルとキャストと、なんとなくのストーリーが発表されたのがちょうど一年くらい前。
ジェシー・アイゼンバーグとウディ・ハレルソンという『ゾンビランド』コンビ、モーガン・フリーマンとマイケル・ケインという『ダークナイト』おじいちゃんベテランコンビ、『アベンジャーズ』のハルクというかバナー博士役も良かったマーク・ラファロと、豪華…というか、私好みのキャストが揃えられていたのと、マジシャンが銀行強盗をして、FBIと対決するというストーリーで、かなり期待していました。
長い間原題で期待していたのと、映画の最初と最後に出てくるロゴが恰好良かったので、原題のままが良かったです。

どんでん返しがあるタイプの話なので、できるだけ前情報無しで観たほうがおもしろいです。以下、ネタバレです。







まず、手品とクライムムービーを合わせるというストーリーがおもしろかった。
手品なんて、生で見るものだし、映画だとCGでも使えばどうにでもなるだろうと思っていたけれど、ちゃんとトリックの説明もあって納得がいった。けれど、少し、催眠術が便利すぎるかなとは思った。

手品のシーンはどれも恰好良かったです。最初、四人がそれぞれの持ちネタというか得意ジャンルで手品を披露しているシーンは、テンポの良い自己紹介も兼ねていた。
そして、四人が揃った手品シーンは、テレビ番組を模したカメラワークがきまっていた。上のほうからぐるぐると丸いステージの周りを囲むようにまわるカメラが大袈裟なほどダイナミック。最後の手品の時に、建物にプロジェクションマッピングをするのも流行がとりいれられていて良かった。最後に札が空中に舞うのも花吹雪のようで、華やかな舞台に見惚れて、結局まんまと騙されてしまった。
騙されたといっても、手品なんて騙されたほうが楽しめるし、途中でネタがわかってしまったら興ざめだし、失敗されても気まずい。これは、この映画についても言えることで、最後の最後でネタばらしというかどんでん返しがあるんですが、すっかり騙されていたため、それがとても心地よかった。途中で先が読めてしまったらつまらない。

この映画は予告編も非常に良くできている。予告に使われている映像はほぼ序盤の手品の様子なのがいい。あと、最初の自己紹介っぽい部分で個人が手品に失敗と見せかけるシーンがあるんですが、それが大事故やトラブルが本当に起こったようにされているのも、予告に緊迫感を与えていた。そして、さも、マジシャンの四人が主役であるような作りになっている。

マジシャン四人組について、過去が明らかにならなかったり、私生活についてもほぼ描かれていないなど、人物の掘り下げが少なかったのが残念だった。ただ、登場人物が多い部分がおもしろい映画だから減らしてほしくはないし、かといって掘り下げを各人についてやっていたら、映画の時間がいくらあっても足りなくなってしまうので仕方がない。華やかで映画的な見せ場も多い四人ですが、結局は脇役なのだと思う。

映画を観るまで、もう一年間くらい、マジシャンが銀行強盗をして、FBIと対決するというストーリーだと思い込んでいたのだ。
実際にマジックをしながら銀行強盗もした。ただそれは、黒幕に依頼されてのことだった。四人も自発的に集まったわけではなく、黒幕によって集められた。もうこれは、映画が開始されてすぐにわかることだけれど、黒幕が誰か、というのがわかるのは最後の最後だというのがニクい。

合間合間で、 FBI内でも内輪を疑うような発言がされていたり、モーガン・フリーマン演じるサディアスはいかにも怪しかったり、各所に仕掛けらた罠からやっぱりインターポールの捜査官(メラニー・ロラン)なのかなーなんて思っていたんですが、本当に意外なことに、マーク・ラファロだったときには、にやりとさせられた。端的に言えば、復讐の話でした。

一応、マジシャン四人が金を奪った三箇所にも筋道が通る説明がつけられる。四人もショーの最後に客に金をばらまいていたから、金が目的ではなかったのだ。

ただ、集められる前にはあれだけケチな方法で金を稼いでいた、特にメリット(ウディ・ハレルソン)とジャック(デイヴ・フランコ)は金儲けには興味は無くなったのかな。それよりは、アイの指令のほうに夢中になっていたのかな。

他にも、ちょっと無理があると思う部分もあったけれど、マジックだと思えば納得がいく。それに、一年間くらい期待に胸膨らませて、はちきれそうな感じで観たけれどおもしろかったということはおもしろかったんだと思う。
もしかしたら、贔屓目で観過ぎているかもしれないけれど。

去年の11/19に初めて情報を見た時の私のtweetを見ると、

J・アイゼンバーグとW・ハレルソンは銀行強盗には見えるけど、マジシャンには見えない。かといって、FBIにも見えないな。どっちだ。M・ラファロはマジシャンにも銀行強盗にもFBIにもなれそう。M・フリーマンとM・ケインは元FBI? M・ケインはマジシャンも似合いそうだけど。

と書いていた。キャストから誰がマジシャンで誰がFBIか予想しているのですが、半分くらい当たってる。というか、マーク・ラファロについて、かなり鋭い読みをしてた。

『グランド・イリュージョン』はキャストも豪華。
やっぱりマーク・ラファロはうまかったし、色気があった。無精髭がたまらない。
途中までのマジシャンに振り回されっぱなしの部分もいいし、最後のほうの正体をバラしてからのさびしげな顔も良かった。最初のほうは、マーク・ラファロっぽくない役だなとは思ったんですが、最後まで観て、なるほど彼らしい役だと納得しました。

ジェシー・アイゼンバーグはいつもと違って少しも童貞臭がしなくて戸惑う。しかも、最初のほうでは、ファンの女の子が部屋に押し掛けてきて、それを慣れた感じでかわしていた。でも、話し方はいつもの神経質そうな早口で安心した。
今回、彼がイケメンに見えるのは、ストレートパーマをかけてるせいじゃないかとも思う。劇中で久しぶりに会った過去のパートナーに、髪型変えた?と聞かれてるシーンがあるんですが、それがストパーのことなのかわからなかった。過去シーンがちょっとでも出てきたらおもしろかったのに。


デイヴ・フランコは『ウォーム・ボディーズ』のときよりも、ますます兄ジェームズ・フランコに似てた。下っ端の若造役。ウディ・ハレルソンが胡散臭い催眠術師役なのも似合ってた。

モーガン・フリーマンとマイケル・ケインは、違うシーンですが、二人とも屈辱的な顔をするのが良かった。

あと、別に好きな顔とかではないんですが、最近、観るもの観るものに出てくる人がここでも出てきていて気になった。『パーソン・オブ・インタレスト』『マン・オブ・スティール』『クロニクル』に端役で出てました。マイケル・ケリーという方らしい。


2007年公開。このところ、ダニー・ボイル監督作品を連続で観てますが、
こんなSFを撮っているとは知らなかった。しかも、主演がキリアン・マーフィー。でも、考えてみればキリアンは『28日後…』でも主演だった。

映像面でのこだわりは相変わらず感じられました。宇宙船のシールドが動くところなどはその大きさがものを言うようだったので、映画館で観たかったです。
船外活動をする時の宇宙服が太陽から身を守るためだと思うけれど、ギラギラとした金色なのが変わっていた。顔の部分も溶接マスクのよう。誰かデザイナーでも関わっているのではないかと思うけれど、どうなんだろう。
最初のほうの地球にメールを送るシーンはパソコンの内側から見ているような画面になっているお遊びも。下のほうに表示されている“send”が鏡文字になっていたり。
キリアン演じるキャパと真田広之演じるカネダキャプテンが船外でシールドを直すシーンは、宇宙船の中にいる人たちの左右上側に出ていて、ゲームの一画面のようなデザインだった。
目のショットが多いのもこだわりだと思う。太陽を見つめる目はまるで神様を見るようだった。宇宙服の中の目だけを映すことで緊張感も表されていた。

宇宙船も縦長で、その先にでっかいパラボラアンテナみたいなシールドが付いているという変わった形だった。ただ、この特殊な形のせいだけではないかもしれないけれど、登場人物がどこにいるのかいまいちわかりにくい面もあった。太陽に撃ち込む核爆弾も、宇宙船のどこについているのかわからなかった。ラスト付近でキャパがいた広めの場所も、どこだったのかわからない。

閉鎖された宇宙船内で閉じ込められた形のクルーたちが次第に疑心暗鬼になっていくサスペンスというのは、よくあるといえばよくあるとも思う。逃げ場のないところで、人間関係が崩れていく。

よくあるとはいえ、好きなシチュエーションなのでかまわないんですが、この映画は少し変わってた。
中盤で、行方不明になった宇宙船からの救難信号を受信して、針路を変更するんですが、辿り着いた宇宙船には誰もいない。その宇宙船内を探索しているときに、かつてのクルーたちの笑顔の写真がサブリミナルのように挿入されるのがすごく怖い。「埃は人間の皮膚です」という言葉も怖い。
そして、もとの宇宙船に、4人しかいないはずなのに、AIが5人いるという。名前はわからないと。

結局それは、行方不明になった宇宙船の船長が乗り込んできていたのですが、肌は太陽で焼き爛れていて、その人が追いかけてくるものだから、完全にホラーになる。AIが生体反応がないと言っていたようなんですが、その辺のこともどうしてなのか、わからなかった。
そして、ちゃんと映るわけでもないし、キャストを確認したときに、その船長役がマーク・ストロングだったのはびっくりした。

最後まで観てもいまいちすっきりとはしないでわかりにくい面もありましたが、全体的な世界観や、途中から話のトーンが変わるのは好きでした。

ダニー・ボイルの映画では、エンドロールで使われてる曲にも注目する癖がつきましたが、今回、表示されているのが二曲だけだったのが意外。SFだからそれほど曲も合わないか。

『ザ・ビーチ』


2000年公開。曲や映像づくりなど、とてもダニー・ボイルらしい映画だった。
幻のビーチに辿り着くまでの話なのかと思っていたけれど、かなり序盤でビーチには辿り着いてしまう。そこから物語が展開していくということは、ビーチがただの天国ではなかったということ。

一人旅の若者が怪しい若者に地図を渡されて、興味を持ってそこへ向かうという話だけでも不穏な感じもしつつ、ワクワクする。ビーチへ向かう途中でも苦労はする。海を泳いでいる途中で仲間が沈んだときには、本当にサメに襲われたのかと騙された。
そんな風に島にわいわいと騒いだり、苦労しつつ、なんとか島に辿り着く。そして、島の中の崖から決死の思いで海に繋がっているであろう水の中へ飛び込む。この辺までは、普通の青春映画のようだった。

そこは自分探しの旅人の吹きだまりのような場所で、女長が取り締まっていた。このサルという女長役がティルダ・スウィントン。支配者役が合っていた。
最初に、この場所を誰かに教えたか、という質問に、レオナルド・ディカプリオ演じるリチャードは教えてないと嘘をつく。考えてみれば、これがすべての元凶だった。このせいで、サルと関係を持つことになってしまうし、それがバレてフランソワーズにはフラれるし、場所を教えた人たちが島に来ないように見張らなくてはならなくなってしまうし、いろいろ重なって、ついには狂うことになる。

ただ、内緒の場所を教えてもらったら、他の人に教えたい気持ちもわかる。噂の場所を知っているという優越感もあっただろうし、教わった男もクスリをやっていたから信憑性もあやしく軽い気持ちだったのだろう。
主人公のリチャードが、かなりふわふわしていて、簡単に嘘をつく。フランソワーズに、サルと寝たのかと詰め寄られても、首を振っていた。その場を切り抜けることしか考えていなそうだけれども、リチャードの行動や気持ちの変化には、なんとなく頷ける部分もあった。
ここだけではなく、映画の最初から最後まで、リチャードの翻弄のされ方というか、心の弄ばれ方がうまくて、たぶん、私もこうなるだろうな/こうするだろうなと思いながら観ていた。

フランソワーズにフラれたくらいから、リチャードは徐々に狂っていく。島に住んでいる人に親指を見られて、ゲーム好きの烙印を押されていたけれど、その伏線が後で回収される。実際にゲームボーイで遊んでいる様子も出てくるけれど、自分が地図を渡した人たちをとらえるのがゲーム感覚になってしまっていた。ゲーム画面のような作りは、ダニー・ボイルらしかった。森の中を意気揚々と歩くディカプリオ、ダメージを受けると死ぬけれど、もう一基残っていて、復活。ここで、Blurの『ON YOUR OWN』がゲームっぽくアレンジしたものが使われていた。一見楽しそうなシーンだけれど、完全に狂っている。
元々の住民である農民の銃を奪おうとしておどけてみたり、喜々として落とし穴を掘ってみたり。落とし穴の中に先を尖らせた竹を仕掛けているあたり、殺そうとしている。
また、島に来たときには、崖から飛び込むのに躊躇していたのに、迷いも無く飛び込むシーンも出てくる。最初の頃のフレッシュな気持ちはもう無いのかわかる。
幻の中で、地図をくれたダフィとリチャードのセリフが逆になるのもおもしろい。映画の序盤では、リチャードはまともで、ダフィはクスリをやっていた。リチャードが「言っちゃ悪いが、お前、イカれてるよ」と言うと、そんな話すら聞いていないように、ダフィは「会えて良かった」と言って握手を求めてくる。ここではダフィがリチャードに「お前、イカれてるよ」と言うし、実際にイカれていた。

ディカプリオのだんだん狂っていって、完全にまともじゃなくなる演技がうまかった。暗がりの中にいるときの影で顔が隠れてしまっている様子や、撃つときの顔なども鬼気迫っていて良かった。最初のほうの、ただの一人旅の若者とはまったく違う表情だった。
なんにしても、主人公がこうなってしまった以上、バッドエンドの予感しかしなかった。

島にいる人たちは、島には居るけれども、いざ都会に行く人がいると、それぞれが買い物をたくさん頼むあたり、都会を捨てきれてもいない。
また、長であるサルの気を損ねないようになのか、狭い人間関係で面倒を起こしたくないからか、右向け右で意見を持たないものの集まりのようだった。
黙って従っていれば、サルが良くしてくれるし、良いところしか見たくないからこの島にいる。だから、サメに足を喰われ、怪我をした人が呻き声をあげていたら落ち着かない。だから、怪我人を追放した。見えるところにいなければ、狭い世界の中なので存在しないも同然。

右向け右なのはわかっていたはずなのに、ラストのサルは考えが浅はかだった。結局玉は入っていなくても、殺すことはなくても、撃つところを見せてしまったら、住民は全員が一斉に逃げ出す。みんな、サルのような強い意思をもって、そこにいるわけではないのだから。
島から脱出するときに空が曇っているのも、楽園なんてないというのを表しているようだった。

ラスト、ネットカフェのような場所でリチャードがフランソワーズからのメールを受信する。それは島の住民が楽しそうにジャンプをしている写真が貼付されていて、“パラレルユニバース(別次元の世界)”というメッセージが添えられている。これも、序盤で出てきたセリフである。島に向かう途中で、夜、星の写真を撮ろうとしているフランソワーズにリチャードが「あの星には別の僕らがいるかもしれない」と言いながら。
このシーンもそうですが、崖から飛び込むところ、ゲーム好きの親指、ダフィとのやりとりと、前半に出てきたエピソードを繰り返すのが何度も出てきて、それを持ってくるか、やられた!と何度も思った。
特にこのラストシーンはメールを開いたリチャードもやられた!って顔でニヤリと笑うんですが、たぶん、私も同じ顔で笑っていた。

そして、ちょっとこれって、『トランス』のラストにも似てるんですよね。ネタバレしないために名前は出しませんが、あの人もやられた!って顔してた。あの人が持っていたのはおそらくiPadでしたが、この映画では2000年ということで昔のiMacです。

エンドロールで流れた曲を歌っている声にとても聞き覚えがあって、観ていたら、UNCLE Featuring Richard Ashcroftとなっていた。リチャード・アシュクロフト、ザ・ヴァーヴのボーカリストだった人ですね。
Mobyの『Porcelain』も使われてる!と思ったけど、この映画のサントラで売れたらしい。

あと、主演は本当はユアン・マクレガーにする予定だったらしいけれど、集客アップを狙ってディカプリオにしたという話は、いま読むとおもしろい。いまなら、ユアンのままで良さそう。


1996年公開。ダニー・ボイル監督初期の作品。
途中まで観てやめていたことが多く、最後まで観ていなかった。と思ったけれど、
最後のほうの丸い部屋で取引するシーンはなんとなくおぼえているのでもしかしたら最後まで観たことがあるのかも。

なんで途中でやめていたのかというと、序盤のほうの結構汚いシーンでめげてしまっていた。今回もめげそうになったんですが、最後まで観ました。でも、登場人物は好きになれなかった。

イギリスが舞台のグループもののクライムムービーというと、ガイ・リッチー監督の『ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ』や『ロックンローラ』あたりを思い出す。『トレインスポッティング』はクライムムービーというよりは青春ものの意味合いが強い気もするので違うのかもしれないけれど、比べた場合に、ガイ・リッチーの一連の作品は登場人物のことを好きになれた。駄目な面があっても、結局愛おしかった。だけど、『トレインスポッティング』はユアン・マクレガー演じるレントンはロンドン以降はまあまあ好きになれたけれど、他の仲間は最後まで、観ていてもやきもきするだけで好きになれなかった。

それでも、ダニー・ボイル特有のセンスの良い映像と音楽の合わせ方はこの時から健在。ミュージックビデオっぽい。
特に、最初のほうのドラッグでハイになっているシーンと、禁断症状のシーンの映像が印象的。禁断症状のシーンの音楽はアンダーワールド。死んだ赤ちゃんが天井を歩きながらこちらに向かってくる様子や、逮捕された友達がロッカーの上に腰掛けながら足の鎖をじゃらじゃらやっている地獄絵図。
今年公開された『トランス』の催眠状態の頭の中のシーンにも似ていると思う。

また、レントンがスコットランドからロンドンへ出てきたシーンでは、各名所やピカデリーサーカスなどの駅名、ロンドン塔のコスプレスタッフさんがこちらに手を振る映像、トラファルガースクエアの路上パフォーマンスなどが繋ぎ合わされていいて、まるで、観光案内ビデオのようだった。


『トレインスポッティング』の音楽というと、Underworldの『Born Slippy』が有名。ラストはこの曲に合っていた。疾走感と、未来へ向けての明るさみたいなものが見える。
ただ、それだけでなく、96年、いまから20年近く前ということで、私の好きなイギリスのバンドの曲がたくさん使われていた(ちなみに、これを同じ曲の使い方をいまやってるのが『ワールズ・エンド』)
強盗をして捕まって、裁判をやるシーンではblurの『Sing』が使われていた。Pulp、エラスティカ、プライマルスクリームなんかも使われています。
エンドロールで流れる遊園地っぽいSEがコーラスも含め、すごくblurっぽいけれど、アルバムには入っていないと思うのでなんだろうと思ったら、“Performance by”の後に四人くらいの名前が書いてあって、その中に、Albarnを発見。サントラだと、デーモン・アルバーンの個人名義になっているみたい。他の三人が誰だったのか気になる。


試写会にて。
淡々としていながらも、観終わったあとにふわっとしたあたたかさが残る良作。原題は『
EVERYDAY』 ですが、ここに“いとしき”が付けられた邦題はすごくいいと思う。
IMDbのキャスト欄を見たところ、同じ名前の人が四人いて、何かと思ったら四兄弟は実際の兄弟らしいです。
以下、ネタバレです。





ストーリーは、刑務所に入った父親を待っている四人の子供と母親の、出所するまでの日々という、いたって単純なもの。その日々は何も起こらないわけではないけれど、過剰にドラマティックには描かれないし、説明もほとんどない。父親の捕まった理由も不明。

春とか冬とか何ヶ月後みたいな表示は出なくても、スクリーンに映し出されるイギリスの田舎の農村風景を見れば、季節の移り変わりがわかる。草が枯れていて牧草ロールが置かれていれば冬の準備、樹木から葉が落ちていれば冬、草が青々としていたら春から夏くらいなのだろうなと思う。同じように、登場人物の服装からも季節がわかる。

そんな中で、刑務所内の父親はほとんど同じ服装だし、部屋からは季節もわからないのが対照的だった。刑務所内の男の心情は語られなくても、それだけで過酷さがうかがえる。

季節の移ろいが何回か繰り返されるので、何年間かの話なのだろうなとは思うけれど、季節ごとにまとめて撮影しているのかと思ったら、実際に5年間かけて撮影されたらしい。そういえば、子供たちの表情は少しずつ確実に成長していた。

まるで、ドキュメンタリーのような密着加減だし、子供たちは実際の兄弟とのことですが、ここで泣いてくださいとか、演技はさせていたらしい。自然すぎて、どこからどこまでが演技なのかわからない。

季節は変わっていっても、学校に通う道は繰り返し出てくるし、朝食は掻き込むようにシリアルだ。母親一人で時間と余裕のない育児の日々が続いて行く。
映画に出てるのは、他の日と違った何かがあった日で、他は気が遠くなるような日常が続いていたのだろう。それを一人で乗り切るのはつらい。子供を一人で寝かしつけて、ベッドでため息をついていた。
それなのに、ハシシを持ち込んだのがバレて刑期を伸ばす父親は阿呆です。妻の多少の浮気も仕方ないと擁護したい。子供たちだって、海で遊んでもらってて楽しそうだった。
でも、父親は妻のことが好きすぎる描写が何度も出てくるんですよね。たぶん、子供より好きそう。だから、可哀想ではあるけれど、だったら余計におとなしくしてないといけないだろう。

ラストで家族六人で冬の海にいるシーンが本当にいい。カメラが上へ移動していって、家族以外に誰もいないのがわかる。なんてことはないシーンなのに、じんわりと滲み出るような感動が広がる。マイケル・ナイマンの音楽もいい。

音楽は全編にわたって、寄り添うように、見守るように穏やかに流れている。それが、イギリスの田舎の風景とよく合っている。イギリス東部のノーフォークという町らしいです。山が見当たらなく、だだっ広いのがたまらない。
父親のいる刑務所はロンドンにあって、電車で面会に向かうんですが、一時間半の映画内に「電車が遅れた」というセリフが二回くらい出てきて、イギリスの郊外の電車って本当に遅れるのだということを再確認しました。

父親役のジョン・シムという役者さんは、どことなくレディオヘッドのトム・ヨークに似てた。THE英国人な顔立ちで好きです。調べたら、イギリスのドラマによく出ている人みたい。特にDoctor Whoが気になる。
同じ監督マイケル・ウィンターボトム、音楽マイケル・ナイマンの『ひかりのまち』(99年)は妻役の女優さんとも一緒に出ているみたいで観たい。

『トランス』


答え合わせを兼ねて、日本語字幕付きで二度目。どんでん返しがあるから二度目も楽しめるし、細かい、
でも重要な部分でわかっていない部分がいくつかあった。
以下、ネタバレです。




字幕なしでわからなかった部分ですが、まず、最初のほうのサイモン(ジェームズ・マカヴォイ)が、フランク(ヴァンサン・カッセル)と組んでたことをエリザベス(ロザリオ・ドーソン)に告白するシーン。ギャンブル中毒だったのもわからなかった。

あと、ヘアー関連のもろもろ。画集のページが切り取られたことと、エリザベスの毛が無いことが関連しているとは思わなかった。すごく重要な部分だった。
真っ裸でバスルームから出てくるシーンがあって、イギリスで観た時に毛が無いのでぎょっとしたんですが、そこに理由があるのが英語が聞き取れなくてわからなかった。
イギリスだとR18だったのはこのシーンのためかと思われますが、日本だとR15で股間にぼかしが入っていた。ぼかしが入るのは仕方ないにしても、なんで黒いぼかしにしちゃうのか。エリザベスが「好みはわかってるから準備してくる」と言ってバスルームへ行き、毛を剃るような音が聞こえていたし、あとから言葉 で説明されるから、ああ、あのシーンは毛が無かったのね…となんとなくわかりますが、ぎょっとすることがないのは残念。『ハングオーバー2』も同じですが、別に観たいわけじゃないけど映ってるとぎょっとするじゃないですか。だからR18のほうがいい。ソフト化されたときどうなるのか。

あとは、“BRING TO ME”。何を、と思ったら、絵のことだった。エリザベスは最初から仕向けてたのか…。

大筋はわかっていたとはいえ、結構重要な部分が理解できていなかった。いろいろとすっきりして、話が深く楽しめました。


逆に言えば、サイモンがどんどん印象を変えて行くのはセリフではなく、すべて映像で描かれている。ジェームズ・マカヴォイの演技力にまんまと騙されたわけです。

大体、マカヴォイが髭が無くて可愛い顔なのがズルい。最近わりともさもさと髭をはやして映画に出てるのに。あんなベビーフェイスでは信用してしまう。
しかも、序盤の、仕事を真面目にしていたり、ギャングに脅されているだけといった風だったり、素敵なセラピストに好意を抱いていく様など、感情移入してしまう。

しかし、彼の頭の中が少しずつ明らかになるにつれ、おかしな部分が見えてきて、感情移入できなくなっていく。それと同時に、ギャングであるはずのフランクがまともに見えてくる。最初はサイモンの味方として観ていて、フランク酷いヤツと思っていたけれど、途中から誰も信用できなくなってしまう。

エリザベスもエリザベスで、サイモンとフランクどちらにも良い顔をしていて信用ならない。しかも、彼女は催眠術で人の心を操ってしまうから、もうどれが本当かわからない。

そんな中でフランクとエリザベスが関係を持って、別れ際に「また会える?」と言うシーンがあるんですが、あそこだけは本当なのが際立っている。ここの照れるヴァンサン・カッセルがすごく可愛い。やっぱり恋に落ちるシーンはいい。初めて、フランクというキャラクターの感情がちゃんと見える。ここを境にして、頭の中で主役がサイモンからフランクへと徐々に変換されていった。この視点の変え方がうまい。

でもサイモンも、エリザベスのことが好きすぎ ただけなので、可哀想といえば可哀想。記憶を消されても、また好きになる、また彼女を選んでしまうというのが切ない。この面は、最近だと『オブリビオン』『劇場版銀魂』『ワイルド・スピード EURO MISSION』と同じ。本来ならロマンティックなのだけれど、ストーカー気質となると、少し意味合いが違うか。
あと、わりと序盤で、エリザベスが催眠状態を長く継続できる話をしていて、これはサイモンの状態ことを言っているのだなとわかり、二回目ならではの鑑賞をすることもできた。

催眠状態のサイモンが見ている映像(体験してること?)が独特で、夢みたいなものなのでファンタジー混じりなんですが、作りがとてもダニー・ボイルっぽい。
現実に起こったことと頭の中での創作が混じっていく。どこまでがホントでどこからがウソか、人の記憶のあやうさがよく表されている。
ガラス窓を叩くシーンが各所に出てきますが、これは、現実ではおそらく、心が遠くにいってしまったエリザベスの気をひくために叩いていた。執着心の現れみたいなものだろうか。
ガラスを叩くシーンは海外版の予告編で効果的に使われていたけれど、日本版では一瞬しか出てこなくて残念。
家に届けられた荷物をうきうきで開封する映像と、赤いアルファロメオに乗ってる女性がエリザベスに見えて混乱する映像が特におもしろい。確信に近づくにつれて、音楽も盛り上がって行く。サイモンと同じように、観客も高揚感を味わうことができる。

この映画に限ったことではないですが、ダニー・ボイル映画は音楽が恰好いい。凝った映像とよく合っていて、PVのようになっている部分もある。今回もその催眠術のシーンだけでなく、画像を見せながらCTで脳波を調べるシーンのデジタルっぽい曲も良かった。それで、誰かと思ったら、リック・スミス、アンダーワールドの人でした。そりゃ、いいに決まってた。

エリザベスはサイモンの記憶が蘇ったら殺されるかもしれないというリスクを冒して「私はあなたを助けられる」という話をもちかけたのは、絵のためなんでしょうか。最終的に絵を手に入れてご満悦っぽかったのでそうなのかな。

ラストシーンのボタンを押すか押さないか、押せるわけねえじゃねえかのヴァンサン・カッセルも可愛くてニヤニヤしてしまう。ヴァンサン・カッセルは『イースタン・プロミス』のドラ息子役も可愛かったですが、今作でかなり好きになりました。

ところで、ここでタブレット端末を届けにくる人が、サイモンの頭の中に出てきた人と多分同じなんですが、意味があるんだろうか? もしかして現実じゃないなんてことは…。

『クロニクル』


首都圏のみ、二週間限定での公開…だったけれど、結局、好評だったためか、首都圏以外での公開も決定し、
二週間という期間も延長された映画館も出た。1000円均一ということは、Blu-rayとかDVDの上映なのかもしれない。それでも、大きなスクリーンで観られて良かった。
以下、ネタバレです。







低予算だからPOVのファウンド・フッテージなのかと思ったけれども、そうではないのかもしれない。前回観た時よりも、より工夫に気づくことができた。
ただのモキュメンタリーではないのは、手持ちカメラだけでなく、超能力によってカメラを浮かせている映像も出てくる点だ。ゆらゆらと不安定だけれども、俯瞰の映像で浮かせている撮影者である人物も映っているのがおもしろい。普通のモキュメンタリーならば、撮影者は自撮り以外では映らない。空から落ちてきて叩き付けられるカメラなども超能力ものならでは。

画面がゆらゆらしていることで、超能力の具合もわかる。あり得ないはずの超能力を実感させるのにもってこいの方法だと思う。最後のほうで、アンドリューが叫んだ時にカメラにヒビが入るのも、そのパワーに説得力を与えている。

手持ちのビデオカメラだけでなく、病院の監視カメラやパトカーの車載カメラなどに切り替わることによって、それまでの撮影者がカメラを持てない場合でも状況を追えるようになっているのも工夫の一つ。

主役のアンドリューのカメラですべてを記録するというようなモノローグで始まるが、マットの彼女もブログ用に常にカメラを回している。アンドリューに車ごと持ち上げられた時の映像は、まるで観客も車に乗っているような臨場感が味わえる。この場合、アンドリューの視点では持ち上げられた車が映るだけで面白くない。視点を車の中に置いているのも、映像づくりの工夫だと思う。大体、あの状態のアンドリューはもうカメラを回す余裕はない。

ファウンド・フッテージものに共通していることだとは思いますが、どんな場でも、顛末を一番近くで見ているような感覚になる。息をつく暇がないので、真剣に観ているとかなり疲れるし、こんなに近くで観ているのに、事態がどんどん悪くなっていくのになんの手出しもできないのがもどかしくなる。

あと、アンドリュー、マット、スティーブは互いの名前を呼び合うシーンが多く感じた。これは、誰が撮影しているか、わからなくならないようになのかな。

それにしても、デハーン演じるアンドリューの性格がかなり面倒くさい。怪我をして消防士を辞めることになって家にいる父の影響だと思うので仕方がないとは思う。そして、あの捻曲がり方は思春期特有のものだとも思う。それにしても、スティーブやマットに比べると子供すぎる。

友達のいなかったアンドリューに、秘密を共有するような形で友達が出来た。悪ふざけで超能力を使っているときのはしゃぎようは良かったけれど、子供なので、同じように怒りに任せて力を使ってしまう。スティーブもマットもいたずらにしか使っていないのに、アンドリューだけだ。

カツアゲに行く時に消防士の服を着るのは、父親への復讐の気持ちもあったのかもしれないが、おそらく姿を隠していればバレないと思ったのだろう。しかし、あっけなく声でバレてしまうあたりが、読みが甘いというか、想像力の無さは、やはり子供なのだ。用意をしているときにデヴィッド・ボウイの『ジギー・スターダスト』がかかるのは、アンドリューがジギー気取りなのだろうか。“Like a leper messiah”、そしてその末路は…。

童貞卒業できそうだったときに吐いたのは、超能力で人気者になってしまったことの自責の念かなとも思ったけれど、きっとそこまで考えてない。ただ単に緊張しただけだろう。でも、そこで拒まれたことをきっかけにして、どんどん事態が悪化する。

人に拒まれる。父親にも嫌われている。誰も愛してくれないけれど、俺には超能力がある。それで、力を爆発させるけれど、もし、マットが取り返しがつかないことが起こった後のチベットじゃなくて、アンドリューにちゃんと好きだと伝えていたらどうなっていただろう。「言う機会が無かったけれど…」と言っていたけ れど、ちゃんと言われないと、アンドリューにはわからないだろう。マットに好かれているということがわかったら、アンドリューももう少し救われたかもしれないのに。心の拠り所になるようなものがあったら、まったく違っていたのではないか。結局、さみしいだけなのだから。

マットは最後、カメラに向かって「正体を必ずつきとめる」とは言っていたが、その場にカメラを置いていってしまう。だから、マットが正体をつきとめることがあっても私たちにそれが知らされることはない。つまり、続編はありえない。やっぱり、超能力の正体はわからないままなんだろうという点でのもやもやは相変わらず残った。


ゾンビの男の子が人間の女の子に恋をする、ゾンビ・ミーツ・ガールものだと聞いて興味はあったのですが、監督が『50/50』のジョナサン・レヴィンだと聞いてますます観たくなって、主演のゾンビ役がニコラス・ホルトだと聞いて観るのを決めました。
『50/50』 を観た時に、ジョナサン・レヴィンはジェイソン・ライトマンと作風が似てる?と書きましたが、今回は別に似ていなかった。人物描写は『50/50』のほうが丁寧だったと思う。ただ、変わった題材の見つけ方と曲の使い方のうまさはこの監督らしさなのかもしれない。他のも観てみたい。

以下、ネタバレです。







最初から、ゾンビのモノローグなのがおもしろい。ゾンビがものを考えてるなんて思いもよらなかった。そして、ものを考えているというのがわかると、ゾンビなのに怖くない。人間を食べるシーンも多少出てくるけど、ホラー映画がだめな人でも楽しめると思う。

アクションやバトルシーンも出てきますが、ラブコメにカテゴライズしていいのではないかと思う。
ゾンビゆえの負い目や躊躇、考えてはいるけれど呻くばかりでうまく喋れなさや、動きの緩慢さ。それは、好きな女の子の前でやると、そのまま不器用な男の子や童貞性に置き換えられる。
うまく喋れないから気持ちを代弁するような曲をかける様子は、まるでラブソングを集めた自作カセットテープを好きな女の子にあげる行為のよう。
同じ部屋の床に寝ていいよと言われたときの戸惑いや、着替えを見ちゃいけないと思いつつ目が離せない様子などは、本当に青春ムービーのようでした。
ゾンビだから、記憶をなくしていて、自分の名前もRまでしか思い出せない。だから、ピュアで女の子への接し方もわからないあたりがかわいい。女の子が活発なタイプなのもいい。

ラブコメ面では文句なしだったんですが、バトルシーンはちょっとお粗末かなと思った。ゾンビより更に悪い者としてガイコツというのが出てくるんですが、CGがあまりうまくない。それに、こんな第三勢力が出てきちゃったら、ゾンビと人間は結託するんだろうなというのがなんとなく予想できてしまう。

それでもラブストーリー側のことは予測できない。そもそも、ゾンビ・ミーツ・ガールというのが前代未聞だから、終わり方が見えない。
彼女のことを文字通り食べちゃうのかもしれない。Rが人間に頭を撃たれて死ぬかもしれない。

ストーリーが雑な部分はいくつかあった。
ゾンビはゆっくり歩いているけれど、走って追いかけてくるタイプもいたみたいだった。どちらかに統一されてないの?
関係がうまくいっていなかったとはいえ、彼氏を食べてしまったゾンビをそんなに簡単に好きになれるものなの?
ラスト付近でRは胸を撃たれていたけれど、人間に戻りかけているならそれが致命傷にはならないの? 痛みが嬉しいとか言ってる場合ではないのでは?
ゾンビと人間が共存することになったのはいいけど、ゾンビは人間を食べたくはならないの?
そもそも、ゾンビが生き返るってなんなの?

『50/50』は人物描写が細かく丁寧で、ジェイソン・ライトマンに作風が似ている監督さんなのかと思ったけれど、粗も目立つ今作では、あまり似ている感じはしない。

それでも、そんな話の整合性とか細かい部分なんてどうでも良くなるくらい、ニコラス・ホルトが演じるRはゾンビのくせにとてもキュートで、彼の恋を応援したくなる。ゾンビだけれど、恋に落ちる瞬間が描かれている映画がやっぱり好きです。もちろん、人間に戻ったいつものニコラス・ホルトも恰好いい。そして、いろんなことはもういいかと思えるハッピーエンド。


原作があるとはいえ、今回も題材のチョイスの仕方が独特で面白い。あと、曲の使い方が若い監督らしくて、好みでした。
同じ部屋で寝ていて、Rが夢を見た次の朝、彼女が外に出て行ってしまったときの曲が良かった(Chad Valley『Yamaha』)。
気持ちを代弁するレコードも、レコードゆえに少し古めのボブ・ディランやガンズなどが使われているのもいい。
ゾンビのRに人間らしいメイクをするシーンで、プリティーウーマンのテーマ曲をかけちゃうお遊びもあり。

お遊びといえば、人間の町にこっそりRが来た時に、バルコニーから彼女が顔を出すんですが、ロミオとジュリエットっぽいと思って観ていたら、やっぱりあれはオマージュだったらしい。


ジョン・マルコヴィッチが出ているのを知らなかったので驚いた。あと、パンフレットを読むまで、彼氏役の俳優さんデイヴ・フランコがジェームズ・フランコの弟さんだって知らなかった。『グランド・イリュージョン』にも出るらしいです。

エンドロールにトム・フォードがヴィジュアルなんとかでクレジットされていた。ニコラス・ホルトのことになると口出してくる感じなのかな。と思って調べてたけど、どこにも何も書いてなくてもしかしたら、トム・フォードなんて書いてなかったのかもしれない…。
(追記:ヴィジュアル・エフェクト・プロデューサーとしてクレジットされていたトム・フォードはデザイナーであり『シングルマン』の監督であるあのトム・フォードとは別人のThomas F.Ford IVという方。1996年からヴィジュアルエフェクト関連の仕事をしているベテラン)


去年も行ったのですが、沢の鶴プレゼンツで日本酒の試飲会と映画の上映と字幕の戸田奈津子さんのトークショーのイベント。
今年は『ユー・ガット・メール』でした。

1998年公開。たかだか15年前ですが、Eメール界隈はかなり変わっていることがわかった。それぞれの持つノートパソコンが厚い。トム・ハンクス演じる金持ちが使っているのがIBMで、メグ・ライアン演じる小さな書店の店長が持っているのがMacというのも、背景がいろいろわかって面白い。Macのリンゴマークはもちろん虹色です。
そして、メールを受信する時に聞こえるダイヤルアップ接続音! 懐かしすぎる。

本屋が舞台のロマコメということで、少し『ノッティングヒルの恋人』を思い出したりもしました。
この手の話にしては119分と少し長く、映画を観ている側はメールをしているのが二人だとわかっているので、ネタばらしまでがいろいろともどかしい。
また、自分だったら、メールをしている相手のことを好きになっても、それが自分の経営している小さいけれど大切な絵本屋をつぶした人だとわかったら、好きにはなれないと思った。

ただ、この話には原作があって、そこだと絵本屋を裏切って金持ちと一緒になったことで同僚から総スカンのあげく、大型本屋のオープンと同時にフラれるという散々な終わり方をするらしい。それならこの映画の通りのほうがいい。

脚本・監督ノーラ・エフロン、主演トム・ハンクス、メグ・ライアンという組み合わせは『めぐり逢えたら』と同じ組み合わせとのこと。ノーラさんは読書エッセイの中で、『スマイリーと仲間たち』の感想として、「ジョン・ル・カレ以上にスマイリーのことが好きになった」「彼の傷を癒してあげたい」などと書いているキュートな方らしい。
戸田奈津子さん曰く、ロマンティックになりすぎず、コメディになりすぎず、ロマコメのバランスの取り方が上手い方とのこと。

ただ、映画中、二人がよく喋るので、字幕をつけるのが大変だったらしい。すべて訳していると、画面上が文字になってしまう。大抵、一秒に三文字くらいしか読めないので、意味が通じるように縮めるのが大変だったらしい。

例えば、
I met Margaret in San Francisco.
は三秒くらいで言えるけど、そのまま訳すと
私はサンフランシスコでマーガレットに会った。
と九文字をゆうに越えてしまう。そのため、地名をあの町にしたり、人名も意味が通じるならば彼女などに置き換えるらしい。

また、戸田奈津子さんはTIFFで来日するトム・ハンクスの通訳もつとめるらしいですが、彼のことを悪く言う人はいないと言っていました。
映画の主演をつとめる人は、監督と一緒にスタッフにも信頼されなくてはいけないから人柄も大事とのこと。顔がいいだけの人は一本二本で主演作を持てるかもしれないけれど、すぐ消える。常に第一線にいる俳優さんは、みんな素晴らしい方らしいです。

試飲させていただいたお酒はさっぱりしていてとても飲みやすく、日本酒なのに度数が低めなので酔わない点が良かった。映画鑑賞のお供にも最適でした。


園子音流の少し血が多すぎるコメディ。最近、どちらかというと社会派な映画を撮ることが多かったけれど、監督を数話でつとめているエロコメドラマ『みんな!エスパーだよ!』が面白かったため、期待してました。
やくざの組長が獄中の妻のために映画を作るということで、『アルゴ』っぽいのかなと思ったらそうではなかった。

トロント国際映画祭でミッドナイト・マッドネス部門というよくわからないあやしそうな部門の観客賞を受賞しているらしい。

以下、ネタバレです。





親に反抗する組長の娘、その娘に恋する男、対立する組同士、映画一筋の男、その男と長年つるんできたが疑問を感じ始めた主演俳優…。登場人物たちがそれぞれ別の方向をむいている。しかも、キャラクターが濃いのでまったく収拾がつかない。
前半はカット数が多く、ちょこまかと落ち着かない。しかし、一つの出来事に向けて話が動いていくのがわかる。

その出来事というのが、本作のクライマックスでもある討ち入りシーンを映画に撮るシーン。バラバラだった全員があれよあれよという間に、冗談みたいに巻き込まれて集結していく。その過程にはわけのわからないスピード感がある。

両者が入り乱れて日本刀で斬り合うシーンを撮影していく(混ざるので片方が和服を選んだのだと納得)。しかも、カメラマンも音声さんもやくざという冗談だか本気だかわからない画面。
斬りつけて大量に血が吹き出るのでエグさもあるけれど、首が吹っ飛び、手首が吹っ飛び、頭に刀を刺されても死に体で動いている姿などを見ていると、だんだんギャグに思えてくる。行き過ぎた描写で残虐性が排除されていて、見ていて痛さを感じない。

出演者の殺陣の恰好良さと、大人数の斬り合いと、室内を真っ赤に彩る血液と、その中で大興奮で撮影し続ける映画仲間ファックボンバーズ。映像からものすごいパワーみたいなものを感じて圧倒的される。
『愛のむきだし』の満島ひかり登場シーンや、『冷たい熱帯魚』のでんでんを思い出す。理屈抜きで映像に釘付けになってしまう、あの感じが戻ってきた。

セリフが変に芝居がかっていたり、主演俳優にブルースリーの黄色いトラックスーツを着せたりと、ファックボンバーズの監督平田はかなりコミカルに描かれている。
そのため、こんな監督が日本の金をかけた映画のことを嘆いたり、映画のことを熱く語っていても、映画讃歌なのか、その様子を馬鹿にしているのかわからない。
園監督自身ももうそれほどマイノリティでもない気がするし、園監督の言葉を代弁しているのではないかもしれない。
とにかくすべてにおいて、冗談と本気の境目がわかりづらい映画なので、平田というキャラクターのとらえ方もどうしていいかわからなかった。

しかし、ラスト、自分も撃たれながらも、ふらふらの状態でフィルムと音声を回収して「ヤッター!」と叫びながら夜道を走る様子は、冗談ではなく本当の映画バカだし、そんな姿は妙にエネルギッシュで、観ている側は元気になれる。

小さい場末の映画館はもう開店することはないし、首をはねられた組長は、首に包帯巻いて実は生きていましたなんてこともない。拍手は起こらない。それでも夢は見ていられる。

やくざモノと映画愛に満ちた青年たちの青春物語をよく混ぜたと思う。しかも、全員一癖も二癖もあって、まともな人が出てこないのに、よく一本の映画にまとまっている。
まさに、唯一無二、こんな脚本みたことないです。

更に、エンドロールの最後に、“監督・脚本・音楽:園子温”と出て驚いた。音楽も園監督でしたか。
ということは、あの耳に残る劇中内CMソング♪全力歯ぎしりレッツゴーもかな、と思って調べてみたら、作詞作曲ともに監督自身によるものでした。頭の中で延々と流れてしまう感じがCMソングとして非常に優秀。

映画館で音が結構大きかったんですが、バルト9だからか映画の方針なのかは不明。でも、大音量で観て気持ちのいい映画です。