『ゴーン・ベイビー・ゴーン』



アメリカで2007年公開。日本ではDVDスルー。ベン・アフレック監督作品。本人は出演はしていないけれど、主演は弟のケイシー・アフレック。

私立探偵のカップルが主人公ということで、この二人でシリーズ化できそうだと思ったけれどしていないということは、片方もしくは両方が死ぬか、廃業するか、別れるか、何かしら事情がある、ハッピーエンドではない終わり方なのだろうと思った。
あとから知ったのですが、『私立探偵パトリック&アンジー』という小説があり、そのシリーズの四作目『愛しき者はすべて去りゆく』が原作になっているらしい(原題は映画と同じ『Gone,Baby,Gone』)。シリーズ化されていた。しかも、今回が最後なのかと思ったら、六作目まで出ているらしい。
ここでの邦題、“愛しき者”というのは、誘拐されたアマンダであり、パートナーのアンジーでもあるのだと思う。“すべて”なので。おそらく原作でもアンジーは去るのだ。そうすると、五作目、六作目ではどうなるのだろうか。『私立探偵パトリック&アンジー』シリーズということは、アンジーも戻ってくる?

狭い町で少女アマンダが誘拐される。父親はおらず、母親はコカイン中毒。見かねた叔父叔母が私立探偵であるパトリックをたよってきて…という内容。
中盤くらいで、犯人と思われる麻薬の元締めみたいな男が殺され、アマンダは湖に落ちて死体は上がらず、うやむやのまま、アマンダの死亡届が出され、なんとなく事件が片付いてしまった。
映画の残り時間から考えて、真実は必ずあるのだろうし、その真実は大抵暴かれないほうがいいものであるパターンが多いことを推測しながら観ていた。

結局は、警察の腐敗…なのかもしれないけれど、みんながアマンダのことを考えて行動した結果なのだ。唯一あんまり考えていないのが母親という皮肉である。

難しい問題だと思う。そりゃあ、パトリックの言うことも正しい。というより、パトリックの言うことのほうが、一般的に考えたら正しいのだろう。けれど、正しいことが良いことだとは一概に言えないと思う。夢を見過ぎだと思う。私も、アンジーと同じく、アマンダはジャック警部の家で暮らしたほうが幸せだったと思う。

終わらせ方も残酷だった。母親が心を入れ替えて、娘と仲良く過ごす姿で終わっても良かったと思う。それなのに、母親は新しい男に会いに行こうとしていた。子守りを頼んでいるけどまだ来ないと言っていたけれど、たぶん来なくても、アマンダを置いて出かけていたと思う。それくらいウキウキした様子だった。誘拐された娘が、死んだと思っていた娘が帰って来たのに娘より男をとる。あの態度では、この先も変わらないだろうし、アマンダの将来だって危うい。

子守りを代わりに引き受けたパトリックは、アマンダの隣りに座って何を考えていたのだろう。後悔していたのではないかと思う。これで良かったと心からは思えなかったはず。それか、ジャックやレミーたちと同じ行動に出たい衝動にかられたのではないか。ここにいても幸せになれないというのを痛感しただろう。意見の違いからアンジーとも別れてしまっている。自分のやったことが良いことだったのか、悪いことだったのか、自問自答していたのではないかと思う。パトリックのモノローグはないけれど、彼の想いを考えさせられるラストだった。

この、ああ、もしかして自分は失敗したのでは…という後悔というか、後味が苦さが不気味でいいラストです。

カメラワークもいいなと思える部分がいくつもあって、ベン・アフレックあなどれないと思った。
銃を持って逃げるレミーをパトリックが追うシーンでは、壁ぞいに走るパトリックのすぐ後ろに手持ちのカメラがついていて、この角の先にいるのではないかとドキドキした。緊迫感がある映像になっていた。
パトリックとアンジーが、ジャックのことを通報するかどうか口論するシーンでは、パトリックを映しながら、背後にぼんやりとパトカーのランプが見えて、結局呼んじゃったのか…となんとも言えない苦しい気持ちになった。

また、前半、恋人が殺された母親がアマンダのことも心配しているシーン、車の後部座席で不安げな表情をしているところに日の光が当たっていて、なんとなく、この人は本当に娘のことを心配していると信じたくなった。このあと、車から降りた母親のことをパトリックが慰めるように抱きしめる。もしかしたら、パトリックもこの時のことが忘れられなくて、最後の決断をしたのではないだろうか。



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