MCUの前作、『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』の約1年後の話。
CMやポスターなどの通り、仲間であったキャプテン・アメリカとアイアンマンが戦いますが、誰かに操られているわけでもなければヒドラに寝返ったわけでもない。そして、今回、急に仲が悪くなったわけでもなく、『エイジ・オブ・ウルトロン』の時点でだいぶギスギスしている。本作単体でも楽しめるのかなとは思うけれど、前作を観ておいたほうが、各人の気持ちの変化などわかりやすいというか、納得しやすいと思う。

それに今回、ポスターなどはアベンジャーズ風であっても、タイトルはあくまでも『キャプテン・アメリカ』である。三部作の三作目となっているが、観てみるとなるほど、これは紛れも無くキャプテン・アメリカ続編だと思う。
ちなみに監督も、キャプテン・アメリカの前作にあたる『キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』のルッソ兄弟。そのことからも、話や世界観が続いている。

以下、ネタバレです。







本作だけをいきなり観た場合のことはわからないが、作品を順番に観ていくと、登場人物がわちゃわちゃと多くても、その一人一人がちゃんと自分の考えや意志を持っていて、筋道立てた動きをしているのがよくわかる。アクション映画だと、動きを重視するあまり、一人くらい唐突な動きをする人物が出てきたりと、人の心の動きは軽視されがちである。

一人一人の行動について考えてみると、誰一人悪いわけではない。その結果の戦いであることがわかる。

スティーブがバッキーに執着しすぎなのはそうかもしれない。けれど、『キャプテン・アメリカ』1と2でバッキーとのこともわかるし、なにせ、今作では愛したカーターを亡くしているのだ。もう、大切な人を失いたくないと思うだろう。

それがヘリコプターのシーンによく表れていると思う。
逃走しようとするバッキー(というかウィンター・ソルジャー)の乗ったヘリコプターを素手で捕まえる。この手は絶対に離さない、離してしまったらもう二度と会えないかもしれないから。そんな意志を感じる。彼はもう後悔したくないのだ。
この時、キャプテン・アメリカのコスチュームを着ていないのがまたいい。スティーブとして、バッキーを繋ぎ止めている。平和のためというより、友人のためだ。

一応、キャプテン・アメリカ側、アイアンマン側と二手に分かれるが、ロマノフのように途中で考えを変える者もいる。
彼女はキャプテン・アメリカというよりスティーブの味方なんですね。これも、前作『ウィンター・ソルジャー』を観ていると、ガムをくっちゃくっちゃやってた時のことなどを思い出す。
カーターのお葬式の時も、対立する立場だったのにすっと現れたのが本当に良かった。恋愛ではない、不思議な関係。

そして、意見を変えたロマノフに対して、「二重スパイの癖が抜けないのか?」と問うトニーは酷い。彼特有の皮肉なんだろうけれど、こんなことを言われては、キャプテン・アメリカ側につきたくなってしまう。
考えを変える気はさらさらないし、他の意見が受け入れられない。意固地になっている。ポッツがいたら少しは変わっていただろうか。

ただ、彼も『エイジ・オブ・ウルトロン』の最初に見た悪夢にまだ悩まされているのではないかと思う。全員が自分のせいで死んでしまうのは耐えられない。
おまけに、耐えられないと思って作ったウルトロンが暴走して…という前回の事件で罪の亡い人々を巻き込んだ張本人でもある。彼が人一倍苦しんでいるはずだ。そして、臆病にもなっている。毒舌で皮肉っぽいことを言っているけれど、弱い人間なのだと思う。

また、本作の序盤に、自らが発明した機械を使って若い頃のトニーが記憶のやり直しをするシーンがある。亡くなる両親にしっかりと別れの挨拶をする、というセンチメンタルなものだ。彼が両親をどれだけ愛していたかがわかる。
それを受けての、後半の殺されるシーンの映像である。あんなもの見せられたら、ウィンター・ソルジャー憎しとなるに決まっている。それを庇うキャプテン・アメリカも同罪である。バッキーは洗脳されていたとはいえ、そんなこと聞く耳は持たないだろう。

誰の言い分もわかって、わかった上でのあの戦いだから、すべての人の気持ちを知っている観客はつらい。

誰に悪意があるわけでもない。けれど、ヘルムート(ダニエル・ブリュール)はもしかして誰かから命じられたのだろうか? ブラックパンサーと会話をするシーンでは、彼もソコヴィアの被害者だし仕方がないのかもしれない、でも復讐は何も生まない…などと考えていたけれど、最後で「作戦は失敗してない」というようなことを言っていて、もしかしてと思った。具体的には何も出てこない。けれど、操られているとしたらヒドラなのだと思うけれど。

『エイジ・オブ・ウルトロン』もそうでしたが、本作も登場人物が多いせいもあり、密度がつまっている。考えている間もなく、話が怒濤の勢いでどんどん進んでいく。
トニーがピーター・パーカーをスカウトに行くシーンでやっと止まるかもしれない。
メイおばさん(若い!)の作ったクルミパンをトニーがペッと吐き出す部分で、やっと一息つけた気がした。
新スパイダーマンがトム・ホランドに決まったときに、『インポッシブル』や『オン・ザ・ハイウェイ その夜、86分』から期待しかなかったんですが、とても良かったです。『白鯨との闘い』も良かった。

トビー・マグワイアやアンドリュー・ガーフィールドに比べるとだいぶ若い印象。おしゃべりヒーロータイプで、戦いながら、チームCA側のファルコンに「それ、カーボン製?」と聞いたりしていた。
また、若さを生かして、「『帝国の逆襲』って昔の映画知ってる?」などと言っていて、なるほど、昔の映画ね…と思った。新世代の登場を感じた。

2017年にスパイダーマン単体の新シリーズ『スパイダーマン/ホームカミング』が公開予定ですが、ベンおじさんのところからやるのだろうか。あと、スパイダーマンといえば、MJやグウェンとの恋愛ですが、トム・ホランドには少しはやい気がする…。と思ったけれど、年齢を確認したら19歳だった。童顔である。

スパイダーマンが出ることは予告を見ていたから知っていたけれど、ブラックパンサーが出てくるのは知らなかった。けれど、よく見たらポスターにも載っていたので特にネタバレ案件ではなかったらしい。キャプテン・アメリカの盾の原材料ヴィブラニウムが採れる国の王子ということで、これからそのあたりにも言及があるのかな。

ネタバレといえば、アントマンがでかくなるのはネタバレ案件だったらしい。小さくなるだけでなく、巨大なほうにもなれるのを知らなかった。ジャイアントマンという名前も付いているらしい。今回初登場のパワーだけれど、単体の『アントマン』の機関車トーマスのシーンを思い出した。

今回初参入や初登場のメンバーがいるけれど、いままで出番の少なかったファルコンとスカーレット・ウィッチにもちゃんと見せ場が用意されているのも良かった。
ファルコンの遠隔で飛ぶ羽根の部分は便利だし、スカーレット・ウィッチはその気になればヴィジョンも沈められるということでかなり強い。まだ不安定のようでしたが。また、序盤のアクションシーンで二人の連携技があったのも恰好良かった。

アクション面のこだわりを感じたシーンはバッキーの家から逃げるところです。アパートの階段を使って、縦の動きを駆使していた。

また、最大の見せ場である空港のシーンも迫力があった。建物内の狭い空間を利用してのバトルと広い滑走路を使ってのバトルと両方見られるのが楽しい。

また、空港ならば広くて一般人に迷惑がかからないのだろう。そもそもそれがソコヴィア協定の元になる部分であるから、巻き込むわけにはいかない。

本作は、修復不可能なまでに仲違いして終わるとか、どちらが勝つ(どちらかがどちらかを殺してしまう)という結末じゃなかったのも良かった。かといって仲直りをするわけではない。けれど、希望を残して終わる。トニー次第というところなのは、やはり、タイトルが『キャプテン・アメリカ』だから、スティーブ寄りの目線での作品なのだと思う。

また、バッキーもどうなるのかと思ったが、結局自分から洗脳を恐れ、コールドスリープに入ってしまった。
バッキーについては、ふとしたことから洗脳状態に戻ってしまったので、もしかしたらこの人はまたヒドラ側の人間になってしまうのではないかと心配していたし、このシーンでも洗脳がとけていないのではないかとひやひやする場面がいくつかあった。
けれど、途中、スティーブがエージェント13とキスをしているのを、サムとバッキーが二人で遠くから見て、からかうようにニヤニヤしている姿を見て、ここでは完全に洗脳がとけているのがわかった。ちゃんとバッキーのことが信じられたし、ニヤニヤしている二人は可愛いしで、うまい見せ方だと思った。好きなシーンです。





アカデミー賞で監督賞、撮影賞、何よりレオナルド・ディカプリオが初の主演男優賞を受賞。
アカデミー賞予想みたいなものが毎回あるけれど、日本ではほとんどの作品が公開前のため、イメージや事前情報を頼りにするだけのものになってしまう。
私は、この映画を観る前にはアカデミー賞前に公開されたので観ていたし、『スティーブ・ジョブズ』のマイケル・ファスベンダーが受賞して、ディカプリオは逃すんじゃ…みたいなことを言っていましたが、とんでもない。どう考えても、こちらでした。
マイケル・ファスベンダーが悪いというわけでは決してない。あれはあれでとても好きです。

ただ、ディカプリオっぽさという点なら、『ウルフ・オブ・ウォールストリート』のほうが…とも思う。あの作品のときに受賞しても良かった。

それでも今作は、がんばったで賞も含め、ここでとれなかったら本当にわざととらせないようにしているのではないかと思うような熱演だった。
改めておめでとうございます。

以下、ネタバレです。








小難しかったりワケがわからなかったりする、所謂アート系作品なのかと思っていたが違った。中盤以降はセリフがほとんどなくても、行動原理はわかりやすいし、エンターテイメント作品だと思う。
考えてみたら、『ゼロ・グラビティ』『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』のアレハンドロ・G・イニャリトゥ監督である。エンターテイメントでないわけがない。

わりと、そんなにうまくいく?とか、そんなことがあっても死なないの?とか、不死身さについてはいろいろあるけど、実話じゃないしまあ…と思っていたら、実話だったので驚いた。
もっとも、クマに襲われて仲間に見捨てられたけれど生還したという伝説のような話が残っているだけのようだけれど。

フィッツジェラルド(トム・ハーディ)に息子を殺されたヒュー・グラス(レオナルド・ディカプリオ)が置いていかれて復讐するという大まかなストーリーはだいぶ前に聞いていた。

実際に観てみてその通りで、どんでん返しのようなものはない。細かい枝葉もそれほどない。俳優陣の圧倒的な演技力と、自然の雄大さと、びっくりするようなカメラワークでぐいぐい進んでいく。

中盤以降、セリフがほとんどないというのは、そもそも置いていかれたグラスが一人きりで行動するからでもあるけれど、喉をかっ切られているから、ヒューヒューしてしまっていて、話せないという部分もありそうだった。

それにしても、恐るべき回復力である。最初は這って歩いていたのが、立ち上がり、杖をつきながら歩き、馬にも乗れるようになる。まるで、人類の進化のようだった。

特に、山を登った先に、バッファローの群れがいたシーンと、その後のインディアンの若者との邂逅は感動してしまった。
煌煌と燃えさかる火と、そこで肉に食らいついている様子から、生命の躍動を感じた。
先程まで死にかけていて、真っ白い雪の世界の中、一人きりで這い回っていて、いつ死んでもおかしくないような状態だった。このシーンで、弱々しい心臓の鼓動が初めてドクンと強く脈打ったような印象を受けた。

息子を殺し、グラスを置き去りにしたフィッツジェラルドは、集団のリーダーなのかと思っていたが違った。
リーダーは別にいて、それはドーナル・グリーソンが演じていた。ディカプリオとトム・ハーディだけで、他の俳優はそれほど出番がないのではないかと思っていたけれど、結構出てきて嬉しかった。
金持ちの毛皮商である。おぼっちゃんっぽい役が似合っていた。赤毛を長めにした髪型も良かったし、丈の長いコートも美しく育ちが良さそうだった。
これは終盤にフィッツジェラルドを探しに行くシーンなのですが、毛皮ごわごわで髭ボサボサという熊のようなディカプリオと、妙に小綺麗なドーナル・グリーソンの対比が良かった。

トム・ハーディ演じるフィッツジェラルドはリーダーでもないし、インディアンに頭皮をはぎ取られた過去があって、布などを巻いて頭をずっと隠しているなど、少し可哀想な役どころだったし、小物感を漂わせていた。
殺人を犯したけれど、極悪人とまでは言い切れない感じがする。
そもそも最初のインディアンによる襲撃は、本当にグラスたち銃声を響かせたからバレたのではないのか。それが発端となって一連の悪いことが重なったのだとしたら…。神経質なだけの男なのではないか。
でも、金に汚そうだったし、やっぱり悪い人なのかな。目つきは凶悪だった。

メンバーの中のグラスを尊敬している若者役にウィル・ポールター。朴訥ながらも、まっすぐで、でも言い含められると何も言えずに従っちゃう弱さもあるいい役だった。彼も、案外出番が多くて嬉しかった。
でも、なんとなく、前よりも男前になってきてる気がする。別にいいんですが。
前まではどっしりした小僧とかジャイアンみたいな印象だったのに、本作では頭身が上がっているというか、成長してるから当たり前なんですが、しゅっと引き締まった印象。表情のせいかもしれない。ぼんくらっぽさはない。
今回の演技を見ていると、今後もいい役まわってきそうで楽しみ。

今作は演技の他に、カメラワークがとんでもなかった。
最初のインディアンによる襲撃シーンはそのただ中に自分もいるようなカメラだった。混乱の中心へ連れて行かれる。
矢がどこかわからないところから飛んでくる。すぐ近くの人がその矢に射たれて倒れる。一歩間違えれば自分に当たったのではないかというひやひや感。戦況がわかりやすい。
手持ちのシーンもあったけれど、POVではない。近いとは思うけれど、誰かの目線ではない。
『ゼロ・グラビティ』でも一部あったし、『バードマン』は全編そうだったけれど、ここも長回し風である。撮影は同じく、エマニュエル・ルベツキ。カメラがぐるっと周囲を見渡すと、そこかしこで戦いが起こっている。カメラの前で俳優が演技をしているわけではない。映ってない部分でも何かしらの動きがある。その臨場感と迫力に圧倒される。すべて見のがさないようにしようと、必死でスクリーンを見てしまう。

登場人物の過剰なクローズアップも何度かあった。
それは、ディカプリオの息でレンズが曇るほど。あれは演出なのだろうか。本当だとしたらそれをそのまま使っているのも過酷さが伝わってくるしすごい。

熊に攻撃されるシーンも迫力があった。ヒグマっぽいなと思ったけれどグリズリーと言っていた。いま調べたら、ヒグマの亜種らしい。
とにかくでかくて、あんな巨体でのしかかられたら動けない。そこを鋭い爪でがりがりやられるわけです。それが、かなり近くでとらえられる。
顔のにおいを鼻をすんすんいわせて嗅いでいたのも怖い。息づかいがすぐそばで。
動かなくなったときに一回去ったし、死んだフリは案外有効なのかもしれない…と思いながら見ていた。

においや熱気まで伝わってきそうな近いカメラもあるけれど、遠景でとらえているシーンも多い。本作はたき火のシーン以外はすべて自然光を使っているというのも大変さがうかがえるが、ドキュメンタリーっぽい感じもするのでなるほどと思った。

だだっ広くて真っ白で、誰もいない場所にぽつんと立っている様子は、大きなスクリーンで観てこそ価値のあるものだと思う。
できればIMAXで観たかった。
この時期、話題作の公開が相次いでいて、『レヴェナント』は一週間しかIMAX上映をやらなそうなのが残念。
それを考えても、本作はこの時期ではなく、もっと前に公開してほしかった。なるべくIMAX作品が重ならない時期に。

馬ごと崖を落ちるシーンの、崖の上からのショットも素晴らしかった。普通ここからは撮らない。誰がいるわけでもないし、誰の目線なのだろう。
木がクッションになったからか、グラスは生きていたけれど馬はおそらく即死。そこでグラスが何をするかというと、腹をかっさばいて、内臓を取り出し始める。
ああ、こんな感じで内臓を使ってあたたまるシーンって『スターウォーズ』でもあったな、臭いって言ってたし臭いんだろうな…と思っていたら、なんと自らが馬の中に入ってしまう。
臭いも尋常じゃないだろうけど、隠れる場所としては最適である。雪も凌げるだろう。
カメラはもう一度上にあがるが、馬が倒れているようにしか見えない。
朝、皮がぱりぱりに凍ってしまって出るのに苦労するのもリアリティがあった。

終盤の復讐シーン、雪崩は人工的に起こしたものらしいけれど、CGではないとのこと。一発勝負である。また、本当に色んな作品で見るけれど、白い雪には赤い血が映える。

ラストショット、グラスというかディカプリオのアップなのですが、目線が少しずつ移動して、こちらを見た。これが、安全な場所で見ているつもりが、あちらからも見られているというやつです。何か、時代や場所は違っても、映画の世界とスクリーンのこちら側が繋がってしまったような感じがして、どきっとした。

バッファローの肉を譲ってくれたインディアンと、雫を舌で受け止めるシーンは過酷な映画の中、オアシスのような感じがした。ただ、友情が芽生え、ここから二人で行動するのかと思ったら大間違いだった。

民族を越えた対話のようなものも少しだけ描かれている。
そもそも、グラスの妻は違う民族なので、彼自身は差別意識はないようだった。
ラスト付近でも、女の子を助けることで情けをかけられていた。

けれど、そこまで民族や差別、侵略の歴史など、メッセージ性は強くない。説教臭さよりも、あくまでも楽しさ優先の作りになっている。

それでも、復讐については一応メッセージ性があったかな。復讐は何も生まない。神の手に委ねる。もちろん、復讐心を糧にして死の淵から蘇ったのだとは思うけれど、それでも最後の一手は加えなかった。

なんとなく、民話的というか昔話のようだった。最初に、熊に襲われるというのもなんとなく、昔話っぽいと思う。

上映時間2時間36分ということだけれど、本当にあっという間で、長さを感じなかった。夢中で観ていたら終わっていたし、もっと映像を観ていたいという想いも残った。



『嗤う分身』



2014年公開。イギリスでは2013年公開。
声優や俳優としても活躍しているリチャード・アイオアディ監督。コメディアンでもあるそうだけれど、本作にコメディ要素は一切ない。
アークティック・モンキーズやカサビアン、ヤー・ヤー・ヤーズなどのミュージックビデオも手がけているらしく、それはなるほどと思った。MV監督らしい、映像美は感じられる作品だった。

原題『THE DOUBLE』。自分の前に自分そっくりな人物が現れて…?という内容。最近、ジェシー・アイゼンバーグは、作品によってかつての童貞っぽさを出したりイケメンっぽさを出したり天才っぽさを出したり…と様々な面が見られるが、この作品では片方が童貞、片方がイケメンなので、なるほど、ハマり役。顔は同じでも、髪型や表情、口調などでうまく演じ分けていた。

開始してしばらくは世界観が唐突すぎて、なかなか話に入っていけなかった。
舞台も未来なのかなとも思うけれど、テレビや電話やジュークボックスが妙に古い。コピー機がやたらと大きい。
テレビでやっている番組も、チープなSFのような感じだった(『ザ・レプリケーター』というタイトルなのかも)。レトロフューチャーですね。独特な世界がしっかり作り込まれていて、美術が凝っていると思った。

主人公がいるところも社員と言っていたので会社なのかなと思うけれど、一番偉いのは社長ではなく大佐という人物らしいのでよくわからない。
そして、会社も主人公が住んでいる大きな団地のような場所も妙に薄暗い。主人公の家の机の引き出しにドミノが入っていたのも何か意味がありそうでなさそう。意味ありげな美術は多かった。

意味ありげといえば、SUKIYAKIソングとか、ジャッキー吉川とブルーコメッツの『ブルー・シャトウ』『雨の赤坂』『草原の輝き』『さよならのあとで』が使われていたのはなんでなんだろう。一曲ではなく、これだけ使われているということは意味があるのだと思うけれど。劇中には日本要素は一切ない。

自分にそっくりな人物が会社に入ってきて翻弄される。しかもそいつは自分より仕事ができて、コミュニケーション能力が高く、要領がいい。そのため、仕事の手柄や好きな女の子など、いい部分は横取りされ、やっかいごとだけが押し付けられる。

結局、このそっくりな人物はなんだったのか、というのは明らかにされないんですね。それで首を傾げてしまった。

自分にだけに見えている亡霊みたいなものなのかと思ったけれど、他の同僚も話していたので違う。
自分だけがそいつのことが同じ顔に見えているのかと思ったけれど、「そういえば似てるね」なんて言われていたのでそれも違う。また、似てることは周知の事実のようだったけれど、周囲は特に混乱していない様子だった。

ただ、殴ったら自分も血が出たので、同一人物の可能性がある。映画のタイトル出すとネタバレだから出さないけど(とはいえ超有名作だから今更ですが)、あの作品系の二重人格なのかとも思った。それで、周囲が合わせてるのかとも思った。でも二人同時に出ている場面もあったし、「○○君は新人なのにちゃんと仕事ができるのにお前と来たら…」みたいな怒られかたをしていたので、それも違う。

結局、飛び降りることになるときに、最初のほうシーンとループになるのかとも思った。同じく手を振っていたし、シチュエーションが似ていた。
また、ハナが遭っていたストーカー被害も、地下鉄とか家が近所で覗かれているとか共通項があった。でも、結局助かっていたし、ハナがピアスをして見せるなど、これも違う。

もしかしたら、全体が悪夢なのかもしれない。最初の地下鉄のシーンから、おかしな世界に舞い込んだのかとも思った。地下鉄ってそうゆうのの入り口っぽいし。

でも、なんの説明もないまま終わってしまった。こうゆうのは説明をするのも無粋なのかもしれないけれど。不思議な余韻は残った。謎を明かしてしっかり終わるタイプの映画ではないのだ。

エンドロールを見ていたら、エグゼクティブプロデューサーのところにマイケル・ケインの名前があって驚いた。イギリスの映画だし、別にいいんですけれども。

あと、ドストエフスキーの『二重人格』(『分身』)が元になっているらしい。読んでみたらもうすこし何かわかるだろうか。




アカデミー賞作品賞、脚本賞受賞。
2002年に明るみになった神父たちによる児童虐待について、それを暴いたジャーナリストたちを描いた実話。
監督はトム・マッカーシー。

以下、ネタバレです。







アカデミー賞作品賞としては地味かなと感じてしまったんですが、それはカトリック教会との距離なのかもしれない。カトリック教会の存在の大きさが日本人だとわかりづらい人も多いと思うので(私もそう)その辺は想像で補わなくてはならない。

神父=神様なので目をかけてもらえると有頂天になるとか、神父のことは憎んでも信仰は別だとか、なかなかわかりにくい。ただ、劇中の登場人物が、ミサに行けなくなったと言っていたので、信仰は別というのはキリスト教徒でも難しいのかもしれない。

最初は小さな事件で、それを追っていくうちに、とんでもない事実が明らかになっていく。追っていくのは、ボストンの地元紙の特集欄“スポットライト”を担当する四人のチームだ。

序盤は人物の名前が多くて混乱した。登場はしない、話の中だけに出てくる人物や、登場しても少しだけの人物などだ。ただそれは、被害者や加害者、弁護士などこの件に関わってきた人物が想像以上に多いということなのだとも思う。四人が動くたび、少しずつ実態が明らかになっていく。

また、途中で、事件を洗い直しているだけの部分もあることが明らかになる。被害者は「何年か前にも資料を新聞社に送ったけれど見てくれなかったのか!」と憤る。その時には人ごとだと思ってあまり目を通さなかったのかもしれない。それでも、今回調べてみると、記者ですら自分がたまたま逃れていただけだというのがわかる。誰でも被害者になりえた。

最初にボストンの地区だけでも17人の神父が性的虐待を行っていて…という調べが付いた時、もっと前から調査をしていた機関にそれは少なすぎる、90人くらいではないかと言われ、さらに詳しく調べると87人に容疑がかかった…というシーンでぞっとした。
調べれば調べるほど、被害の大きさがわかっていく。そして、敵(カトリック教会)の得体の知れなさがわかる。

全貌がわからない巨大な闇に立ち向かって行く様子が『ボーダーライン』に似ていると思った。ただ、あちらの主人公が無力だったのに対して、こちらはスクープを焦らない地道な取材と裏取りで、なんとか明るみには出る。
今まで弁護士も巻き込んで隠蔽を繰り返していたことから考えると、まさに“世紀のスクープ”である。

ただ、まさにスポットライトというか、底知れぬ闇の一部しか照らせていない。
地道な取材の結果、地元紙がスクープを出したけれど、これで解決ではないのだ。

エンドロール前に出る文章がすごく怖かった。枢機卿がローマへ転属することになるなど、解決になっていない。
あまりの被害者の多さにも愕然とした。また、神父による性的虐待が起こった主な都市がリスト化されていたけれど、小さい字で何件も何件も出てきて、まったく終わらない。まさに、全世界的な規模の大きさだった。日本はリストに入っているかどうかは見つけられなかったけれど、日本でも事件は起こっている。

光を当てるとばっと散り散りにいなくなる虫を想像した。一匹見つかると百匹いるなんて話もあるし、まさに虫である。

全員を駆逐することは到底無理なのだろうと思わせる絶望感があったけれど、この映画をきっかけに、また調査が進めばいいと思う。

余計な人物描写はそれほどなく、スポットライトチームの面々も仕事に打ち込む姿がほとんどだったけれど、それでも個々の生活が見えてくるのがうまいと思った。特に、チームのリーダー、マイケル・キートンと、フットワークが軽く、正義感溢れる熱血漢のマーク・ラファロがうまかった。




原題『L'affaire SK1』。フランスでは2014年公開、日本では公開されていません。
アラン・ドロンの再来といわれるラファエル・ペルソナ主演(Raphaël Personnaz
のため、ラファエル・ペルソナーズ表記のところもあり)。

ストーリーは警察側の話と弁護士側の話と、大きく二つに分かれている。警察側の話が連続レイプ犯を追うもので、弁護士側がその裁判。途中でわかったんですが、時間軸がずれていて、弁護士側の話はずっと現在、警察側は遡った過去からスタートし、途中で一致する。

二つの違ったアプローチで一つの事件に迫るというのは変わった手法だとは思う。まったく違う映画のようだった。ただ、それがあまりうまく生かされていないというか、どちらかで良かったのではないかなと思ってしまった。

警察側は犯人の残虐性にスポットを当てて、怪物として追っていた。弁護士側は犯人の奥にある人間性を追っていた。
同情の余地があるのかないのかや、フランスには死刑制度はないようだけれどその罪の償い方などに切り込めなかったか。罪を憎んで人を憎まずというような、深い部分にまで切り込んでほしかった。

最後、裁判で「○○(人の名前)を殺しましたか?」「ウィ」と一人一人について聞いていくシーンが良かったので、どちらかというなら、裁判や弁護士だけの話が見たかった。最後のほうでは、警察はまったく出てこなくなる。

それよりなにより、ラファエル・ペルソナさん目当てで見てるのに、彼のイケメン力が無視されているのが本当にもやもやした。
映画のスタート時、1991年は新婚さんである。ほどなくして子供も産まれる。だから、女を口説くこともしない。ラブストーリー的な展開も無い。
右も左もわからない新人だから、最初の担当事件に真っ直ぐに向き合う熱血警官みたいなポジションでイメージと違う。もっと狡猾にたちまわるような役が見たかった。

また、この事件にとらわれていると言っていたので、犯罪ものによくあるような、シリアルキラーに影響されて自分もおかしくなってしまう感じかと思ったけれどそれでもなかった。
というのも、この事件って実話らしいんですよね…。なので、そこまで荒唐無稽なことも起こらない。

警察側は、91年から97年とそれなりに年月が経っているけれど、俳優たちに時の流れが感じられないのもどうかと思う。髭が伸びただけだった。弁護士側の話との時間のズレで撹乱させるためだろうか? でも、そもそも、時間をずらしているのも、別に撹乱目的でもない気もする。

あと、ラファエル・ペルソナさんは写真だとアラン・ドロンに似ていて、再来と言われるのも納得なんですが、この映画で動いている姿を見ると、どちらかというとセバスチャン・スタンに似ていた。まあ、イケメンなことには変わりないので、何か他の映画も観てみたい。違った役が見たいです。





WOWOWで観賞。劇場公開はされておらず、DVDスルーにもなっていません。(追記:カリテ・ファンタスティック!シネマコレクション2016にて公開されるようです)

“恋のロンドン狂騒曲”というサブタイトルもWOWOWが独自で付けたもののようです。ロンドンの名所が出てくるというような映画の説明が書かれていたけれど、それほど出てこなかった。駅くらいかな。デートしていたボーリング場も有名な場所なのかもしれない。(追記:カリコレでのサブタイトルは“60億分の1のサイテーな恋のはじまり”。やっぱりロンドンは取られているけれど、ちょっと長過ぎる気もする…)

『べガスの恋に勝つルール』『ミリオンダラー・アーム』のレイク・ベル主演。お相手役にサイモン・ペグ。
サイモン・ペグ目当てで観ました。

以下、ネタバレです。




レイク・ベル演じるナンシーは30代後半だけれど独り身、友達の紹介で男性と知り合っても、下ネタが暴走して失敗しまう。
そんな中でナンシーは、サイモン・ペグ演じるジャックと別の女性の待ち合わせに、その女性のふりをして現れる。
二人は意気投合し、楽しいデートを繰り広げる。ただし、ジャックは別の女性と思い込んでいて、ナンシーは人違いだと言い出せない。そのままデートは進み…という内容。

元も子もないことを言ってしまうと、サイモン・ペグ目当てで観たけれど、ジャック役はサイモン・ペグには合わないのではないかと思ってしまった。
ペグはペグでかっこいいとは思うけれど、それは慣れているからで、一目で好きになるほどだろうか。ナンシーがこのお喋りをすぐに好きになるタイプとは思えなかった。
もっと色男系の人がやったほうが良かった気がする。昔ならヒュー・グラントあたりだけれど、もっと若いほうがいいとは思う。

途中でジャックの前妻が出てくるのだが、意識高い系というか、頭の良さそうなキリッとした厳しそうなタイプで、ジャック(サイモン・ペグ)と別れたのは納得なんですけれど、そもそもなんで結婚したのかがまったくわからなかった。最初から合わなそうなのだ。彼の人生が見えてこない。
ナンシーと一発で意気投合するということは、そういうタイプが元々好きなのだと思う。そうしたら、あの妻は選ばないと思う。何か複雑な事情があって結婚したのだろうかとも思ったけれど、そうでもなさそうだった。
性格は合わないとは思うけれど、一見して素敵要素のある役者さんならその辺も納得するんですよね。上品さや優雅さも持ち合わせていたら、尚いい。
何度も言いますが、私はサイモン・ペグが好きです。が、一般的なイケメン俳優とは違う。

それとも、私のとらえ方が違っていて、英国ではサイモン・ペグはイケメン枠なのだろうか。

なんとなく、サイモン・ペグが出ているとぶっ飛んだコメディを想像してしまうのだが、彼にしてはまともというか真面目な役だったし、映画自体もコメディよりもラブ要素の強いラブコメだった。

その中で一人ぶっ飛んでいたのが、学生時代にナンシーにつきまとっていたショーン役のロリー・キニア。本当だったらキニアさんの役をペグがやれば良かったんじゃないかなとも思うけれど、こんなキニアさん初めて見たので、これはこれでいい。本当にすごかった。ローレンス・オリヴィエ賞受賞男優にこんな役やらせていいんだろうか。

ナンシーのことが好きすぎて気持ち悪くなっちゃっていた。トイレで黒ブリーフ一丁で待っていたり、ナンシーの家を座標で記憶していたり。何度か、うわあ…と呟いてしまった。他の作品では絶対に見られない姿。最高でした。




監督は『複製された男』、『プリズナーズ』のドゥニ・ヴィルヌーヴ。
アカデミー賞で撮影賞、作曲賞、音響編集賞にノミネートされました。
原題は『Sicario(シカリオ)』。耳慣れない単語でも、得体の知れなさやなんとなくの不気味さは伝わってくる。それに、意味は映画の一番最初に説明されるし、原題のままでいいのではないか。もちろん、映画内で重要な意味を持つ言葉である。
それに、『ボーダーライン』というのはちょっとダサくもある。いっそ、そのまま“国境”など、日本語のほうがまだマシなのでは、とも思ったけど、国境だけではなく、“善悪のボーダーライン”みたいな意味も入ってるのかもしれない。ダブルミーニング。

以下、ネタバレです。









女性が危険な地域に潜入して行くということで、なんとなく『ゼロ・ダーク・サーティ』のようなものを想像していた。
ただ、その女性を演じるのがエミリー・ブラントとはいえ、彼女がリーダーでジョシュ・ブローリンとベニチオ・デル・トロを従えているとは思えなかった。従うタイプの二人ではない。見た目的にですが。
じゃあ、彼らの新米部下なのだろうか?などと考えていたが、大体合ってるが正確には違うといった感じだった。
そもそも三人とも同じ組織ではない。同じ目的のために動く二人と、出向してきた一人である。だから新米は新米で間違いない。

このような映画の新米にはよくあることなのだが、彼女は正義の人である。どう考えても、彼女の言っていることが正しい。ただ、その正しさは、厳しい現場ではあまり意味を持たない。

FBIだから一般市民とは違うけれど、映画の中では一番真っ当な人物だ。映画を観る者のよりどころであり、共感できる人物だし、自己を投影できる人物だ。

その彼女が、最初から最後まで無力なのだ。できることが何一つ無い。
だから、映画が終わったあと、見ている側も無力感に苛まれる。酷い現状を見て、ただただ、圧倒されるのみだ。

だから、どちらかというと主人公はエミリー・ブラント演じるケイトではなく、ベニチオ・デル・トロ演じるアレハンドロである。
寡黙だし、何を考えているのかわからない。けれど、やるときゃ容赦ない。
原題のシカリオとは、暗殺者という意味らしいが、彼のことである。
映画内だけでも何人殺したかわからないし、ヤリ口がそれぞれ鮮やか。
家族を殺された復讐で動いているので、これが彼なりの正義なのかもしれない。

最後にババン!とタイトルが大きく出るのは、あなたは彼の行動をどう思いますか?と問われているようだった。
だからこそ、タイトルをシカリオのままにしてほしかったのだ。重要な意味があると思う。

ケイトの絶体絶命のときに助けにくるシーンでは、助けに来る行為そのものも王子様っぽかったけれど、大事な人に似ているというような告白まで始まり、ここでアレハンドロとケイトのラブ展開があるのかと思ったけれど無かった。その辺は安易に甘くしない。
それどころか、防弾チョッキ部分とはいえ、撃ってきたりもする。

ただ、終盤には、アレハンドロはケイトのことを怯える姿が娘に似ていると言っていた。最初の“大事な人”というのは妻なのだろうし、彼が復讐の鬼と化すくらい大切な二人に似ているということは、やはり何かしら特別な存在なのだと思う。
でもこのあと、不正な書類にサインを書かせるために顎に銃を突きつけたりする。そして、ここまで映画を観てきたら、この人はたぶん脅しではなく本当に撃つだろうなというのもわかる。

ケイトも怒りにまかせてベランダから下にいるアレハンドロを銃で撃とうとするが、撃てない。振り返ったアレハンドロは何も言わないが、威嚇するような、挑発するような目をしていた。撃てるものなら撃ってみたら?とでも言ってそうだ。そして、どうせ撃てないだろ、と。

結局、その通り撃てない。
最初は雰囲気があるけど何者なの?くらいだったけれど、最後にはもうひれ伏すしか無い。絶対にかなわない。

顔の半分が影になって隠れる撮り方も、彼の正体不明さを際立たせていた。怖さが増す。

ただ、怖いだけではなく、たまらなくセクシーでもある。人物像がよくつかめないあたりも危険な香りがする。銃を顎の下に突きつける仕草や、拷問をする時に足と足の間に入って詰め寄るのも良かった。

もう一人の主要登場人物はジョシュ・ブローリンなんですが、ベニチオ・デル・トロと顔の雰囲気が似てるといえば似ている。
けれども、このマットという人物は、アレハンドロとほぼ正反対くらいに喋りまくる。軽口を叩いて、飄々としている。登場時はビーチサンダルを履いていたのも食えない奴感が滲み出ていた。本心を出さないという面では、アレハンドロと同じである。
また、見た目や言動からは想像できない、かなりのやり手である。
好きなキャラだったので、もっと出てきて欲しかった。
この映画は続編がすでに決まっていて、主要キャラ三人は続投とのことなので、次作ではもっと出番が欲しいところ。

部分的POVとか登場人物の後ろにカメラがべったりはりつく撮り方は本作でも使われていて、確かに流行なのかもしれないと思った。
終盤のトンネル潜入シーンの暗視カメラ目線は、『ゼロ・ダーク・サーティ』を思い出した。

最初のフアレスというメキシコの治安が悪い町に連れて行かれるシーン。登場人物が乗っている車の中にカメラがあって、自分もまるで車に乗っているかのような気持ちになった。車窓を眺め、おぞましい風景を見る。実際には行きたくないが、治安の悪い町をスクリーン越しに観光しているようだった。

部分的POVや登場人物のすぐ後ろにカメラを置くのは、観客にも臨場感や緊張感を体験させるものなのかもしれないけれど、本作はそれほど緊張感はなかった。
その原因は、アレハンドロが強すぎるからだと思う。彼が敵の銃弾に倒れるところは本作では少しも感じられなかった。ひやひやしなかったのだ。

この先、彼の弱点になりそうなのはケイトなのかなとも思うけれど、いまのところはそこまでいれこむ気配はない。続編でも今回のような無敵っぷりなのだろうか。


『ルーム』



主演のブリー・ラーソンがアカデミー賞主演女優賞を受賞している。他、作品賞・監督賞・脚色賞にもノミネートされました。
原作は小説とのこと。脚色賞を受賞していることから、少し違いがあるかもしれないので読んでみたい。作者ご本人が脚色を担当したらしい。
監督は『FRANK-フランク-』のレニー・アブラハムソン。

以下、ネタバレです。







どの映画でもそうなんですが、観る前にあまり情報を頭に入れないようにして臨んでいる。それでも、映画館に行くと、上映前に流れる予告編は見てしまう。事前に多くの、もしくは重要なネタバレがあるという話を聞いている場合はそれもなるべく見ないようにするが、この映画の場合は見ていました。

そこで得た事前情報として、主人公は監禁されているというのと、その息子が死んだフリをして逃げるということは知っていた。
けれど、なかなか逃げず部屋の中のシーンが長い。

部屋の中でも空間は狭いが様々なことが起こる。狭い中でも運動不足にならないように息子を走らせる、男が生活に最低限必要なものを持ってくる、仕切りのない風呂に入る、電気を止められる…。
過酷な生活と、外の世界を信じられない息子について描かれているが、逃げ出すこと前提で見ていたので、部屋の内部でのシーンの長さに不安をおぼえる。
もしかして、逃げ出すのがクライマックスだったらどうしよう。部屋の中からカメラの動かない、ワンシチュエーションものだったらどうしよう。
それならそれで新しい試みだとは思うけれど、だったら、予告編を見るんじゃなかった…と後悔しかけたが、そんなことはなかったので良かった。

また、逃げるシーンにあまり時間が割かれていなかったのも良かった。
トラックから飛び降り、犯人に見つかって連れて行かれそうになるが、犬の散歩の男性がちゃんと察して警察を呼んでくれる。パトカーの中でも、運転手の男性は「児童養護施設に連れて行こう」とか「そいつちょっとおかしい」とか心ないことを言っていたけれど、後部座席の女性警察官が親身になって話を聞き、事情を察し、母親の監禁場所もあっさり見つかる。犯人もちゃんと逮捕されていた。
ちょっとあっさりすぎるし、女性警察官の察しが良すぎるのはご都合主義っぽくはあるけれど、命からがら逃げてきたことを観客が知っている以上、ひっぱるシーンではないと思う。
決死の覚悟でトラックから飛び降りたのに、犯人に連れ戻されたら、また部屋からやり直しになってしまう。警察に連れて行かれて、上手く話せない息子の事情聴取に長時間割かれ、ラストで母親が助け出されるというのも、察せない警察官たちにいらいらしそう。
そんな、息子の孤軍奮闘とか犯人との攻防というようなサスペンス展開はいらないのだ。

この映画で本当に描きたかったのはこの先なのだというのがわかって、観ていてほっとした。
ちゃんと時間をはかったわけではないけれど、体感だと25%が部屋、5%が逃げるシーン、70%が外に出た後くらいだろうか。見終わってみると、このペース配分がちょうど良かった。

生まれて初めて、トラックの上から一面に広がる青空を見た息子のシーンが泣ける。息子の目線のカメラで、青空だけではなく、電線も見える。普通の風景ではあるけれど、それを見て、喜びというより、驚きと恐怖をおぼえているような表情をしていた。母親とも生まれて初めて引き離され、不安感でいっぱいという表情だった。
息子にとって初めての世界との接触はきらきらしていて、喜びに満ちたものなのかと思っていた。そんな、“センス・オブ・ワンダー”中心の話なのかと思っていた。

ほどなくして母親も解放され、二人で外の世界へ出るが、出たところでめでたしめでたし、ではないのだ。当然、ない。

あまりの世界の広さと勝手の違いに怯える息子と、周囲の状況の変化に戸惑う母親。
両親の離婚もショックだったろうが、息子(孫)のことを見られない祖父が一番ショックだったろう。もしかしたら、離婚の原因は自分かもしれないと思ったかもしれない。

七年というのは決して短い時間ではない。学生時代に友達と撮った写真を見て、この時一緒だった彼女たちは何をしているかわからないけど誘拐されていないと言っていた。何故、自分だけが時間を奪われなくてはいけなかったのか。

それに、映画では開始したらもう息子がいたけれど、その前が一番苦しんだと思う。一人きりで部屋に閉じ込められ、妊娠し、出産を決め…。その時期が一番つらいし、苦しんだと思う。映画では描かれていなくても、充分に伝わってきた。描かれていたら、映画自体がエグいものになっていただろうし、考えればわかるのだから映像化されていなく良かった。

マスコミもまた、そんなこと聞くなよという感じなのですが、「息子さんが大きくなったら父親のことを話しますか?」とか「生物学上の父親という意味です」とか…。このシーンだけ、テレビ向けに、しっかり化粧をしているのも痛々しい。他のシーンではブリー・ラーソン、ほぼノーメイクである。
そっとしておいてあげて…と思ったけれど、それが彼らの仕事なのだろう。マスコミのストーリー上の役割でもある。それでも、そういうズケズケと攻撃されるシーンは極力少なくなっていて、それも良かった。

母親は結局、自殺を試みて入院することになり、ふたたび息子と引き離される。
どんどん追いつめられていく母親とは対照的に、息子の急速な世界の広がり方には勇気づけられた。
最初は嫌がっていたレゴでもちゃんと遊べるようになる。階段も一人で下りられる。食べ物もなんでも食べられるようになる。家族だけではなく近所の人とも会話ができるようになる。特に、「グランマ、大好き」と言うシーンが良かった。友達ともボールで遊ぶ。
すべてを飲み込み、吸収しながら、大きくなっていく。

最初は部屋に帰りたいと言っていて、それは、そこしか知らなかったら、狭くて母親と二人きりの空間に帰りたいのも仕方がないのかなと思っていたけれど、次第にしっかり順応していっていた。子供だからなのだろう。
後半だと、息子のほうが母親よりも大人に見えてしまった。

ラスト付近で、息子が部屋に行きたいと言ったときに、もしかしてまだあの部屋に戻りたかったのかと思った。けれど、部屋に行って、「縮んだ?」と言ったときに、ちゃんと外の世界に慣れたのがわかってよかった。

息子は、洋服ダンスやベッドなどに「バイバイ」とさよならの挨拶をしていた。母親しかいない部屋で、「おはよう」と声をかけていたそれらは息子にとっては大事なともだちだったのだろう。
母親にとっては忌々しいだけでしかないその場所も、息子にとっては世界だったのだ。逃げるときに怖い思いはしても、それまでの五年間は“幸せ”に暮らしていた。愛おしくもあって当然なのだ。

けれど、比較対象がないから“幸せ”だっただけだというのも知ったのだろう。それをふまえた上での別れを告げる「バイバイ」だったのだ。またここに住みたいという言葉が出てこなかったことで、彼の世界が確実に広がったのだというのを感じられて良かった。



『君が生きた証』



2015年公開。
息子を病気だか事故だかで亡くした父親が、息子の作った曲を代わりに歌う…というなんとなくのストーリーは聞いていて、このタイトルから、お涙頂戴の泣かせにくるタイプの映画なのかなと思って、公開時には映画館へは行かなかった。

けれど、今回観てみたら、まったく違っていて驚いた。
途中まではその通りだと思っていた。けれど、中盤のある仕掛けでストーリーがひとひねりしてあるのがわかった。ただ、中盤のひとひねりは知らないで観たほうがいいと思う。以下にネタバレがあります。
ウィリアム・H・メイシー、初監督作。ご本人の出演はありません。

父親が何か仕事で成功をおさめて、その打ち上げをしようと息子を電話で呼び出す。「授業なんてサボっちゃえよ」なんて言いながら。息子は、「授業をサボらせる親はどうかと思うぞ」と言いながら、結局学校へ行く。
待ち合わせの店に息子は現れず、父親が店を後にしようとすると、店のテレビで大学で乱射事件があったというニュースが。息子の通う大学である。

事件で息子を亡くした父親は自暴自棄な行動をとって会社をクビになり、ボート暮らしを始める。そこへ、自宅の整理をした元妻が、息子が作っていた音楽のCDなどを持ってくる。父親はその曲をおぼえ、飛び入りライブOKのバーへ出演する…。

このあたりまでは、最初に想像していた通りの話だし、もう息子はこの世にいないけれど、曲は残る。これが“生きた証”か…などと思いながら観ていた。
また、息子の作るものがいい曲ばかりだった。それを父親が演奏する、曲のシーンが出てくるたびに涙が出てくる。

だが、これだけの話ではなかったのだ。
父親が息子の誕生日に墓参りに行く。墓にはでかでかとDEMONと書いてあったり、生まれ年が書いてあるBornの後にin hellと書かれていたり…心ない落書き放題だった。被害者の墓にひどい!と一瞬思ってから、なんで?と思って混乱する。
え?待って?そっち?と思った。勝手に被害者だと思い込んでいた。
何か、正体不明の極悪人が学校に忍び込んで、息子は巻き込まれたのかと思っていたが、とんでもない思い込みだった。自分の想像力がなさに呆れる。

私が考えていた犯人は顔が黒く塗りつぶされていたし、この映画には関係がないものだと思っていた。しかし、その犯人こそ、息子だったのだ。被害者ではなく、加害者だったのだ。

そうすると、今までのすべてに対して合点がいく。
学校に向かう息子が思い詰めたような表情をしていたのは、父親との約束を破ることを気に病んでいるからだと思ったけれど違った。
葬式に行っても、父親は一人で座っていた。周囲の人物の声のかけかたもどこかぎこちなかった。マスコミは映画だと酷いものとして描かれることが多いが、それにしたって、最近息子を亡くした父親に対する態度とは思えない突進の仕方をしていた。しかも、複数人亡くなったと思われるが、この父親にだけ集まってきているようだった。

何より、一番なるほどと思ったのは息子の作った曲である。
“別れる前が一番君のことが好き”、“いい時でもガラスに半分しかない”、“家に帰りたいけどとても遠い”、“僕は馬鹿野郎(I'm An Asshole)”
どれも楽しくてしかたない!といった歌詞ではない。どこか傷ついていて、悩みを抱えている。

そして曲も、どこか毒のあるメロディだった。レディオへッドやニルヴァーナにも似ている。きっと、だから私は好きな曲だなと思ったのだと思う。
ただ単に泣かせるようなものではない。
弱くて痛くて切なくて、でも美しい。

最後に父親がステージ上で歌う曲は特に良かった。
序盤にその曲を息子が歌いながら録音しているシーンが出てくる。おそらく、大学の寮だろうか。
“閉じ込められたまま/状況を噛みしめる/ヘッドライトに目がくらみ/見つめるのをやめる”
ここまで歌ったところで、酒の瓶を持った生徒が、無遠慮にドアを開ける。その人物は友達ではなさそうだったし、歌を録音しているのを馬鹿にしていたようだった。
寮の部屋はそのまま息子の内面に置き換えられそうだった。そこに友人でもない人物がずかずかと入ってきて、荒らすだけ荒らして去って行く。

いじめとはいかないまでも、息子はあまり大学生活に馴染んでいなかったのかもしれない。
「こんなところ早く出なきゃ」と呟いて、“僕の言うことは全部ウソ/いっそ酒でも飲もうか/歌うことなんかやめて”と、たぶん本来のものとは違う歌詞で歌って、自嘲気味に笑う。

この辺のことを、父親は息子の曲を聴いて初めて知る。この映画で、息子は序盤にしか出てこないけれど、映画が進み、曲が出てくることで、観客も父親と一緒に息子のことがわかっていく。曲を通じて、人柄がわかる。音楽映画として、あるべき姿だと思うし、これこそ、“生きた証”そのものである。死んでしまっても、作った曲はその人柄とともに残る。

映画のラストで、父親は息子が序盤で歌っていた曲を歌う。もちろん、“いっそ酒でも飲もうか”なんてことは歌わない。たぶん、序盤だけ息子が作った歌詞で途中からは父親が作ったものなのだと思う。
ここまで何曲か出てきたような、ひりひりしていて、いろいろな意味で若さを感じる歌詞とは違い、慈愛に満ちたものになっている。

“一緒に歌おう”という歌詞が出てくる。曲のタイトルもそのまま『Sing Along』だ。曲に惚れ込んだ若者クエンティンとの関係は結局破綻してしまうけれど、父親はクエンティンと一緒に演奏することで、息子ともこのような関係になれたら良かったのにと思ったのだろう。きっと、それは後悔にも近い。
もっと息子のことを知ることができていたら、こんな事件は起きなかったのではないか。息子の曲を一緒に歌うことができていたら、何かが変わっていたのではないか。文字通り一緒に歌わなくてもいい。ちゃんとしたコミュニケーションがとれていたならば。

それでも、もう過去に戻ることはできない。だからせめて、息子が遺した曲を演奏する。歌詞は願いであり、他者に対してのメッセージでもあったと思う。

当然ですけど、大学の慰霊碑に犠牲者の名前は書いてあっても息子の名前は載っていないんですよね。世間は忘れようとしている。じゃあ誰がおぼえていてあげるのかといったら、それは親である自分以外にない。

歌い終わった後に、涙は流さないが、ぐっと堪えたような表情をして客席を見るのが印象的だった。先程まで歌われていた曲の余韻は美しいだけでなく、強いものとして心に残った。
また、曲に力のある映画なので、メロディを思い出すだけで映画の内容が鮮明に思い出され、涙が出てくる。特に最後の曲は強く心に残っている。






二回目の観賞だと、話の内容が面白いほどするする頭に入ってきた。アメコミ原作を読んでないからわからないわけではなく、私の読解力というか映画を観て理解する力が足りなかったようです。
結果、“よくわからない部分もあったけどわくわくした”という感想が、“めちゃくちゃおもしろかったしわくわくした!早く続きが観たい!”まで跳ね上がった。

以下、ネタバレです。






中盤まで、登場人物がそれぞれ違うことをやっている。バットマン(ブルース・ウェイン)とスーパーマン(クラーク・ケント)だけではなく、レックス・ルーサーはもちろん、ロイス・レイン、『マン・オブ・スティール』の時にその裏で足を失ったウェイン産業の社員、議員など国の関係者(この中でもレックス・ルーサーのやることに賛成するもの反対するものが出てくる。たぶんそれはそのまま、スーパーマン賛成派、反対派になるのだろうけど)など、結構大人数だ。

その大人数はほとんど一同に介することはなく、いろんな場所で、いろんなことをしている。その様子がかなり細切れでどんどん流れるから、え?これがさっきの続きで?と話を消化できないままに次のエピソードの細切れに進んでいってしまい、結局なんの話だったのか理解ができないのだ。もっと人ごとにまとめるとか、人同士が関係ありそうな部分を繋げてくれたりしたほうがわかりやすくなると思う。けれど、ザック・スナイダーの手法なのかもしれない。
せめて、誰か中心になる人物を決めてその人を軸にまわすとか。もちろん、バットマンとスーパーマンが主役なのだろうけれど(しかしこの時点でも二人いる)、中盤まではほとんど群像劇のようになっている。しかも、暗躍といってもいい感じで、裏に思惑を抱えた行動をとっているのでよりわかりづらい。

一人一人について、自分の頭の中を整理する意味でもまとめてみる。

バットマン(ブルース・ウェイン)
映画で描かれている時点から二年前、『マン・オブ・スティール』のラストバトルのときに、ウェイン産業のビルが壊され、社員が怪我をする。母親を亡くした子供を庇いながら、スーパーマンの力に懐疑心を抱く。
自警団としても町を守っている。核が持ち込まれる情報を調べるため、レックス・ルーサーのパーティでデータを盗む。
そのデータから、レックス・ルーサーが武器(核)を輸入しようとしていることがわかるが、それは実は同じ放射性物質でも核ではなくクリプトナイトだとわかる。
アルフレッドの反対を押し切り、そのクリプトナイトを使って、強大な力を持ったスーパーマンを倒そうとする。

スーパーマン(クラーク・ケント)
テロ組織に潜入したロイスを助けに行った際に、一般人を巻き添えで殺したと疑いをかけられるが、実際は殺していない。殺したのは、レックス・ルーサーの部下。
その力のせいで国の管理下においたほうがいいのではないかと議論が起こるが、本人は黙々と人助けをする。
バットマンとも戦いたくないので、攻撃をされてもとりあわない。けれど、母がレックス・ルーサーに誘拐され、殺されそうになったので、仕方なく戦うことにする(最初は説得しようとしていた)。

レックス・ルーサー
知識はあっても、力はないのがコンプレックスで、バットマンやスーパーマンには敵わないと思っている。
インド洋で見つかったクリプトナイトをアメリカに輸入したいと国に申し出るが許可はおりない。その時に、スーパーマンに対する抑止力のため、と言っていたが、実際の目的は不明。
国の一人がこっそり許可をする。宇宙船の中にも入らせる。
クリプトナイトは輸入できたが、使う前にバットマンに奪われる。ゾット将軍の遺体と自分の血を使って、宇宙船の中でドゥームズデイを作る。

ウェイン産業の足を無くした社員
『マン・オブ・スティール』のラストバトルで足を失い、それ以来、スーパーマンを恨んでいる。スーパーマンの像によじ上って落書きし、逮捕される。
レックス・ルーサーが保釈金を払い、スーパーマンを告発させる。スーパーマンが呼ばれた公聴会で、この社員とレックス・ルーサーに反対した議長、スーパーマンを巻き込んで爆発が起こり、死亡。スーパーマンが疑われる。もちろん、レックス・ルーサーの仕業。

ロイス・レイン
テロ組織の取材に行き、逆に捕まる。スーパーマンに助けてもらうものの、一般人が巻き添えになる。
そこで見つかった弾から、実はレックス・ルーサーが絡んでいたことを突き止める。

これが時系列順ではあっても細切れにされているのでわかりにくいのだと思う。更に、バットマンというかブルース・ウェインの夢もわかりにくい。しかも二回も出てくる。ちなみに、夢の最後で出てくる「俺はやすぎた?」とか「俺たちを見つけろ!」と言っているのは、ザ・フラッシュだそうです。エズラ・ミラーですね。

他、良かったところ。
序盤、『マン・オブ・スティール』のラストバトルをブルース・ウェイン目線で見るシーンが迫力ある。自分もその場にいたら、スーパーマンやロイスではなくあの立場だろうし、なるほど、スーパーマンって正義の味方っていうけどどうなんだ?と思う。ブルースが小さい女の子を抱いて、空の異星人を見上げている様子は、ちょっとしたパニック映画みたいになっている。

国はスーパーマンを規制しようとするんですが、他の有識者みたいな人の中には「助けてくれ神よ、って言ってたのに、神様が来たら規制?そんな馬鹿な!」といった感じで、スーパーマンを受け入れろ派もいる。その議論の様子がテレビで流れている映像と、それを知ってか知らずか(たぶん知っている)、スーパーマンが黙々と一人で人を救い続ける様子が交互に出てくるシーンが泣ける。一人で氷の中に立ち往生した巨大船を引っ張ったり、洪水で動けなくなって屋根の上に非難している人たちのもとに空から現れたり。どんな想いで人助けを続けていたのだろう。
まあただ、最初のテロリストのシーンでは確かに一般人は殺していないかもしれないけれど、『マン・オブ・スティール』では巻き込んでるし、今回のドゥームズデイとのバトルでも、高層ビルに打ちつけられたりしてた。電気が付いてたので人はいたんじゃないかな…。なるべく人を巻き込まないような場所で戦うように気は遣われてたけど、巻き添えは多く出ていそう。

バットマン一人対多人数のバトルが二箇所あるのですが、どちらもかっこいい。周囲を警戒しながら、攻撃されたのも生かしつつ、二、三人同時にやっつけたりする。
私はノーランバットマンとはえらく動きが違うのもいい。
スーパーマンが吹き飛ばされて地面に擦りながらズルズルとこちらに飛ばされてくるシーンがありますが、あれは3Dだとどうなるのだろう。後付け3Dらしいのでそんなに飛び出さないかな。

ワンダーウーマンのダイアナ・プリンスにデータを盗まれたブルースが取り返しに行くシーン。ブルースは「君みたいな女性を知っているんでね」と言いますが、多分これがキャットウーマンのことなんですよね。それで、「そうは見えないけど」なんて言われているのが笑った。女性に縁なさそうみたいなことで。で、「ほんっとに男の子って」みたいな感じで馬鹿にされるんですが、そのあと、ブルースがダイアナに送ったメールのタイトルが“Boys shere too.”なのも面白かった。男の子って言われたこと根に持ってたんだ!というのがわかる。

あと、ワンダーウーマンのテーマ曲のタイトル、“Is She with You?”って、彼女が戦いに参戦したときに、スーパーマンがバットマンに尋ねる「彼女、君の連れ?」ってセリフそのまんまだった。緊迫したシーンなのにふわっと緩むいいセリフ。その返しの「君のだろ?」っていうのもいい。二人して、援軍が来たのが嬉しいはずなのにそれよりも「誰?」が勝っている。ここのやりとりが本当に好きなので、本当だったらもっと二人の会話があると良かった。誤解が解けた後ですぐにラストバトル、それでスーパーマンは死んでしまう(?)ので。

レックス・ルーサーですが、父親とかそんな個人的なことじゃなく、もっと大きな目的のために動いているようだった。
スーパーマンに対する抑止力というのも嘘なのだとしたら、なんなのだろう。
ラスト付近でバットマンに対し、「もう鐘は鳴っちゃったよ」と言っていたので、“鐘を鳴らす”ことが目的のようだ。ドゥームズデイを作り出したこと、それとバットマン、スーパーマン、ワンダーウーマンが戦ったことをどこかで何者かが知ったということなのだろう。
本当に今作は、これから始まるジャスティス・リーグの序章にすぎないのだ。

他、わからなかったところ。
バットマンの正体がブルース・ウェインなのみんな知ってるのかな。バットマンの恰好なのにわりとブルースと呼びかけられていた。
クラーク・ケントは知られていないようで、スーパーマンが行方をくらませていて、クラークも出社していない時、編集長に「かかとを三回鳴らしてカンザスに帰ったか」と言われていたのに笑った。オズの魔法使いですね。

あと、ちょっとしたことですけど、ダイアナのメールアドレス、いつ聞き出したんですかね…。それくらいは調べられるのかな。

多分、粗みたいなところはいくつもあるのだと思うけれど、話をわかった状態で観たら充分に楽しめた。続編がはやく観たい。


2014年公開。
西部劇でコメディという日本で売れない要素がつめこまれているのによく劇場公開したなと思う。セス・マクファーレンが監督・制作・脚本・主演とすべてにおいて関わっているため、『テッド』シリーズが流行った日本なら大丈夫だろうと思われたのだろうか。

ウエスタンっぽいものが嫌いな主人公の出てくる西部劇という一風変わったストーリー。人がすぐ死ぬ世界はごめんだと思っている羊飼いで、本当はサンフランシスコに住みたいと思っている。そして、そのへたれが原因で、彼女にもフラれてしまう。

セス・マクファーレンなので、エロネタも汚ネタも含め、かなりキツい下ネタが多いんですが、それらを抜いたらディズニー映画にできるのではないかと思った。
まず濃いキャラクターたちは擬人化の逆で擬動物化する。

主人公アルバートはネズミ(ミッキーではなく)。アマンダ・セイフライド演じる元恋人ルイーズはリス。ニール・パトリック・ハリス演じる立派な髭をたくわえたルイーズの新しい恋人フォイはキツネ。ジョヴァンニ・リビシ演じる情けないけど優しい友人エドワードはミーアキャット。ニコール・キッドマン演じる女性ガンマン、アナは上等な毛並みのミンク。リーアム・ニーソン演じる夫のクリンチはクマでしょうか。

へたれな主人公が可愛い彼女に捨てられて、彼女の新しい恋人は主人公とは正反対の西部が似合う男。立派な口ひげもたくわえていて、口ひげの男たちが口ひげの歌で主人公を追いつめ踊る様子もディズニー映画っぽかった。
傷心の彼の元にどこからか美しい女ガンマンが現れて、彼の成長の手助けをしてくれるのもまた、王道展開。しかも、私たち観ている側は美しい女ガンマンには怖い夫がいることを知っている。女ガンマンは少し意地悪顔(ニコール・キッドマン)なので、もしかしたら悪い奴で主人公は騙されちゃうんじゃないの?という疑惑も捨てきれない。騙されて、結局は元恋人とよりを戻すのかな…とも思っていた。

ただ、大麻クッキーのあたりとか、セス・マクファーレンとニコール・キッドマン二人のシーンだと、彼のギャグに本気で笑っているようにしか見えなかった。あんなに気持ち良さそうに「あっはっはっはっ!」と馬鹿笑いするニコール・キッドマンを初めて見た。あんな笑い方をする人が悪人のわけがない。

望まないながらも二回ほど決闘をすることになるのですが、一回目のフォイとの決闘はアナが飲み物に強力な下剤を入れて勝利。二回目のクリンチとの決闘は毒を塗った弾を腕にかすらせて勝利。両方とも姑息である。

もちろん練習もしていたけれど、近くまで寄って行っても全然当たらなくて結局手で落とすとか、上に投げた皿が撃てなくて自分に当たっちゃうとか散々だった。そのアナによる特訓風景もディズニー映画のように見えた。
こんな状態の男が、練習したとはいえ短時間で上達するはずがないから、姑息な手を使うのは正しいと思う。

また、部族に助けられた時のトリップ風景の悪夢的な感じもディズニー映画にありそうな感じだった。ヒツジが喋ったり、二足歩行であの口ひげの歌を踊ったりする。

姑息な手でも勝利は勝利。お尋ね者だったクリンチを倒した懸賞金が出たが、それでアルバートがなにをしたかというのがラストシーンで出る。あり得ないくらいの大量のヒツジ、その真ん中で抱き合ってキスをするアルバートとアナ。

もう本当に王道コメディなんですよね。
これ、エロ要素、下品要素はどうしても入れなくてはならなかったのだろうか。照れなのか?
とも思ったけれど、考えてみたら、『テッド』シリーズも下品すぎるギャグを抜いたら、ストーリー自体はわりと王道なのだ。王道の合間にあの毒っ気を入れるというのが、セス・マクファーレンの作風なのかもしれない。
今作も、大きな幹があって、途中途中、枝葉が出ていて、投げっぱなしの下品ギャグが挿入されている。一緒である。枝葉をすっぱり切り落とし、太い幹だけにしたら立派ではあるけれど、見栄えも良くないし物足りないのだろう。

同じ西部劇ということで、エンドロールのあたりでまさかのジャンゴが出演していて笑った。この場合、ジェイミー・フォックスではなくジャンゴです。
途中でも、ドクとデロリアンが出てきた。クリストファー・ロイドではなく、ドクです。
他、カメオでユアン・マクレガーとライアン・レイノルズが出ていたらしいけど見つけられなかった。
パトリック・スチュワートもまったくわからなかったけれど、トリップしていたときの喋るヒツジの声らしい。






イアン・マッケランが日本での公開日にツイッターで“MITENE.”と書いていました。監督は『ドリームガールズ』や『愛についてのキンゼイ・レポート』のビル・コンドン。
ミッチ・カリン著『ミスター・ホームズ 名探偵最後の事件』という同名の小説の映画化。アーサー・コナン・ドイルによるものではない。

探偵業を引退した老いたシャーロック・ホームズが、その引退のきっかけとなった事件をもう一度振り返って行く。
翻訳はアンゼたかし。

以下、ネタバレです。








最初に『セメタリー・ジャンクション』に出てきたような英国の田舎の駅が出てきて、まずそれで盛り上がってしまった。
ホワイトクリフが見えていたので、英仏海峡のあたりだと思われる場所に、養蜂を営みながらひっそりと暮らすホームズ。
イアン・マッケランが演じているんですが、あまりにもおじいさんでイアン・マッケラン年とったなーと思っていたら、場面が30年前に映ったときにそんなに老いてなくてびっくりした。歩き方がよたよたしていたのも演技だった。過去では背筋もピンと伸びている。顔の皺などはメイクによるものだけれど、動きがまったく違っていた。
養蜂を営んでいたのは93歳のホームズ、過去は63歳くらいか。実際のイアン・マッケランは現在76歳のようです。演じ分けが素晴らしかった。

所謂、鹿撃ち帽とパイプのホームズのイメージはワトソンの創作で、この映画ではかぶっていない。けれど、そのせいでホームズだと信用されなかったり、残念がられたりしていた。
また、実際の事件を元にした小説をワトソンが書き、それが映画化されたものをホームズが観に行き、「結末が違う。くだらん」と文句を言ったりもしていた。

ホームズと言えばカタブツのイメージで、創作なんかは信じない。それは他の作品の若いホームズもそうだし、この映画でもそうだ。けれど、この映画のホームズは93歳である。

年老いているので、記憶も曖昧、だけれど、過去の、引退をするきっかけとなった事件は解決したい。自分に死が迫っているのがわかる中、時間と戦いながら事件の解決を目指すホームズというのは新しい。

家には家政婦とロジャーという10歳の少年がいる。年老いているから、家政婦がいなくては生活もままならないのに冷たく当たる。それも、元々のホームズのイメージではあるけれど、少年には優しい。それは懐いてくれているからかもしれないし、孫のような気持ちでもいたかもしれない。

ホームズが日本に行った経緯があんまりよくわからなかったけれど、頭をはっきりさせるためのヒレザンショウを探すのが目的だったのだと思う。映画の中では日本特産スパイスみたいな感じで扱われているし、これからはロイヤルゼリーの代わりにこれ!みたいに重宝されていたけれど、日本人でもさっぱりわからない。液体のように見えたので、うなぎなどにかける粉山椒とはまた違うようだった。
映画では広島のしかも爆心地のあたりで見つけていましたが、実際には沖縄とか小笠原とか、南のほうのものらしい。別名琉球山椒ともいうらしい。

日本でウメザワという男性と一緒にレストランに入るのですが、『インセプション』の最初に出てきたサイトウのいた建物のような、少し中華風のものだった。トンデモ日本風です。それでも、ちゃんと日本で撮影していたらしい。

ヒレザンショウも手に入れ、記憶を呼び覚ましながら、少しずつ過去の事件を紐解いていく。
過去パートは、他でよく観るシャーロック・ホームズのようだった。純粋な推理ものです。生まれてくる前に子供を亡くした女性アンが悪魔の楽器と言われるアルモニカを使って交信しようとする。アルモニカを教えている先生はどうも怪しい。けれど、そんな見た目にも怪しい人物が犯人なわけはない。細かい仕草や会っていた人物から夫殺害を計画している…?かと思いきや、それも違う。小さいけれどどんでん返しがあって、事件は解決した…ともう一度思いきや、悲劇的な結末を迎える。

結局、解決できたと思った事件ができていなかったということで、ホームズは引退した。落ち込みもしたし、後悔を抱えながら30年生きてきたのだと思う。
昔の事件当時、30年前には気づけなかったことに93歳のホームズは気づいていく。過去の事件と現在、そして日本に行ったときに起きたことはばらばらな出来事であり、直接的に繋がることはないけれど、間接的に繋がっていく。

過去のアンと生まれてこなかった子供、現在の家政婦とその子供ロジャー、日本のウメザワ親子。どれも親子である。アンは子供を亡くし、自らも命を絶った。それはたぶん自分のせいで、ウメザワが父を亡くしたのもおぼえていないが自分のせいでもありそう。そして、自分のせいでロジャーが病院へ運ばれる。
もうこれ以上、周囲の人を亡くすのは嫌だったのだろうし、大事な人を亡くした人を見るのも嫌だったのだろう。

過去のワトソンも出てくるが、顔は出てこない。それでも強烈な存在感だったし、過去のワトソンはホームズを助けていた。記憶の中にはいるけれど、今は死んでしまっていない。もうホームズの周りには誰もいないのだ。尚更、これ以上亡くしたくない。

そのためにはどうするのか。ホームズは、自分から周囲に優しくなろうとする。93歳という年齢のせいもあるのかもしれないがやっと気づいたのだ。自分が30年前に優しくなっていたら、たぶんアンは救われていた。もう亡くしたくないから、家政婦にも優しい言葉をかける。ウメザワにも、途中から創作による手紙を書いた。あんなに嫌っていた創作という手法が必要なときもあることがわかったのだろう。

そして、最後、ホームズは自分の周りに石を置いて死者を弔う。マイクロフト、ワトソン、ハドソン夫人、ウメザワのご両親、アン。みんなもう周囲にはいない。死者に想いを馳せながら、過去の自分がまったく孤独ではなかったことにも気づいたのだろう。
優しいホームズなんてどうなの?と思われるかもしれないが、93歳という年齢のことを考えると、人間味のあるホームズも良かった。

何より、ホームズが途中で死んで、少年が跡を継いで事件を解決!みたいな話じゃなくて安心した。

養蜂は、ホームズが引退後はやりたいと話すシーンが原作に出てくるらしい。また、緋色の研究という本が出てきたり、怪我をしたときに「バスカヴィル家の犬にかまれたみたい」というセリフが出てきたりもする。映画内の映画のホームズ役が『ヤング・シャーロック/ピラミッドの謎』のニコラス・ロウなのもおもしろい。

ロジャーを演じたマイロ・パーカーですが、トーマス・B・サングスターに似ている、というか同じ顔をしていた。将来が楽しみです。ポスターを見るだけでワクワクする、ティム・バートンの次回作『Miss Peregrine’s Home For Peculiar Children』にも出演が決まっている。

ウメザワ役に真田広之。日本でのことはそれほど描かれないしちょっとした役ではあるけれど、存在感があった。