『君が生きた証』



2015年公開。
息子を病気だか事故だかで亡くした父親が、息子の作った曲を代わりに歌う…というなんとなくのストーリーは聞いていて、このタイトルから、お涙頂戴の泣かせにくるタイプの映画なのかなと思って、公開時には映画館へは行かなかった。

けれど、今回観てみたら、まったく違っていて驚いた。
途中まではその通りだと思っていた。けれど、中盤のある仕掛けでストーリーがひとひねりしてあるのがわかった。ただ、中盤のひとひねりは知らないで観たほうがいいと思う。以下にネタバレがあります。
ウィリアム・H・メイシー、初監督作。ご本人の出演はありません。

父親が何か仕事で成功をおさめて、その打ち上げをしようと息子を電話で呼び出す。「授業なんてサボっちゃえよ」なんて言いながら。息子は、「授業をサボらせる親はどうかと思うぞ」と言いながら、結局学校へ行く。
待ち合わせの店に息子は現れず、父親が店を後にしようとすると、店のテレビで大学で乱射事件があったというニュースが。息子の通う大学である。

事件で息子を亡くした父親は自暴自棄な行動をとって会社をクビになり、ボート暮らしを始める。そこへ、自宅の整理をした元妻が、息子が作っていた音楽のCDなどを持ってくる。父親はその曲をおぼえ、飛び入りライブOKのバーへ出演する…。

このあたりまでは、最初に想像していた通りの話だし、もう息子はこの世にいないけれど、曲は残る。これが“生きた証”か…などと思いながら観ていた。
また、息子の作るものがいい曲ばかりだった。それを父親が演奏する、曲のシーンが出てくるたびに涙が出てくる。

だが、これだけの話ではなかったのだ。
父親が息子の誕生日に墓参りに行く。墓にはでかでかとDEMONと書いてあったり、生まれ年が書いてあるBornの後にin hellと書かれていたり…心ない落書き放題だった。被害者の墓にひどい!と一瞬思ってから、なんで?と思って混乱する。
え?待って?そっち?と思った。勝手に被害者だと思い込んでいた。
何か、正体不明の極悪人が学校に忍び込んで、息子は巻き込まれたのかと思っていたが、とんでもない思い込みだった。自分の想像力がなさに呆れる。

私が考えていた犯人は顔が黒く塗りつぶされていたし、この映画には関係がないものだと思っていた。しかし、その犯人こそ、息子だったのだ。被害者ではなく、加害者だったのだ。

そうすると、今までのすべてに対して合点がいく。
学校に向かう息子が思い詰めたような表情をしていたのは、父親との約束を破ることを気に病んでいるからだと思ったけれど違った。
葬式に行っても、父親は一人で座っていた。周囲の人物の声のかけかたもどこかぎこちなかった。マスコミは映画だと酷いものとして描かれることが多いが、それにしたって、最近息子を亡くした父親に対する態度とは思えない突進の仕方をしていた。しかも、複数人亡くなったと思われるが、この父親にだけ集まってきているようだった。

何より、一番なるほどと思ったのは息子の作った曲である。
“別れる前が一番君のことが好き”、“いい時でもガラスに半分しかない”、“家に帰りたいけどとても遠い”、“僕は馬鹿野郎(I'm An Asshole)”
どれも楽しくてしかたない!といった歌詞ではない。どこか傷ついていて、悩みを抱えている。

そして曲も、どこか毒のあるメロディだった。レディオへッドやニルヴァーナにも似ている。きっと、だから私は好きな曲だなと思ったのだと思う。
ただ単に泣かせるようなものではない。
弱くて痛くて切なくて、でも美しい。

最後に父親がステージ上で歌う曲は特に良かった。
序盤にその曲を息子が歌いながら録音しているシーンが出てくる。おそらく、大学の寮だろうか。
“閉じ込められたまま/状況を噛みしめる/ヘッドライトに目がくらみ/見つめるのをやめる”
ここまで歌ったところで、酒の瓶を持った生徒が、無遠慮にドアを開ける。その人物は友達ではなさそうだったし、歌を録音しているのを馬鹿にしていたようだった。
寮の部屋はそのまま息子の内面に置き換えられそうだった。そこに友人でもない人物がずかずかと入ってきて、荒らすだけ荒らして去って行く。

いじめとはいかないまでも、息子はあまり大学生活に馴染んでいなかったのかもしれない。
「こんなところ早く出なきゃ」と呟いて、“僕の言うことは全部ウソ/いっそ酒でも飲もうか/歌うことなんかやめて”と、たぶん本来のものとは違う歌詞で歌って、自嘲気味に笑う。

この辺のことを、父親は息子の曲を聴いて初めて知る。この映画で、息子は序盤にしか出てこないけれど、映画が進み、曲が出てくることで、観客も父親と一緒に息子のことがわかっていく。曲を通じて、人柄がわかる。音楽映画として、あるべき姿だと思うし、これこそ、“生きた証”そのものである。死んでしまっても、作った曲はその人柄とともに残る。

映画のラストで、父親は息子が序盤で歌っていた曲を歌う。もちろん、“いっそ酒でも飲もうか”なんてことは歌わない。たぶん、序盤だけ息子が作った歌詞で途中からは父親が作ったものなのだと思う。
ここまで何曲か出てきたような、ひりひりしていて、いろいろな意味で若さを感じる歌詞とは違い、慈愛に満ちたものになっている。

“一緒に歌おう”という歌詞が出てくる。曲のタイトルもそのまま『Sing Along』だ。曲に惚れ込んだ若者クエンティンとの関係は結局破綻してしまうけれど、父親はクエンティンと一緒に演奏することで、息子ともこのような関係になれたら良かったのにと思ったのだろう。きっと、それは後悔にも近い。
もっと息子のことを知ることができていたら、こんな事件は起きなかったのではないか。息子の曲を一緒に歌うことができていたら、何かが変わっていたのではないか。文字通り一緒に歌わなくてもいい。ちゃんとしたコミュニケーションがとれていたならば。

それでも、もう過去に戻ることはできない。だからせめて、息子が遺した曲を演奏する。歌詞は願いであり、他者に対してのメッセージでもあったと思う。

当然ですけど、大学の慰霊碑に犠牲者の名前は書いてあっても息子の名前は載っていないんですよね。世間は忘れようとしている。じゃあ誰がおぼえていてあげるのかといったら、それは親である自分以外にない。

歌い終わった後に、涙は流さないが、ぐっと堪えたような表情をして客席を見るのが印象的だった。先程まで歌われていた曲の余韻は美しいだけでなく、強いものとして心に残った。
また、曲に力のある映画なので、メロディを思い出すだけで映画の内容が鮮明に思い出され、涙が出てくる。特に最後の曲は強く心に残っている。




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