度肝を抜かれた前作から5年、まさかの続編登場。あの内容で続けられる?と思ったけれど、ちゃんと続くし、前作必須の内容だった。
監督はロード&ミラーから『シュレック・フォーエバー』のマイク・ミッチェルに変更されたが脚本に携わってもいるし、テイストは変わらず。

以下、ネタバレです。前作のネタバレも含みます。













前作は兄(実写)が作ったレゴの王国に、妹(実写)のデュプロが攻め込んでくる描写で終わったが、本作はその続きである。
妹のデュプロは主人公の王国をめちゃくちゃにする。映画内でエメットたちは戦争を仕掛けられてあたふたしているが、実写側では妹はただただお兄さんに「一緒に遊んでー」と言っているだけなのだ。

前作は後半で急に実写が出てきて、そういう話だったか!と大層驚いたけれど、今回はそういう話なのがあらかじめわかっている。
つまり、エメットたちに起こっていることは、実写の世界で起こっていることだと認識しながら観られるのがおもしろい。
今回はネタばらしではなく、みんなわかってますよね?という視点で進んでいくから、途中途中に実写が混じる。また、実写が混じらなくても、エメットたちに起こっていることを見れば、実写の兄妹がどんな関係なのかわかるという、めちゃくちゃ凝った構成。前作の内容を知っているということを逆手にとっている。ストーリー的に前作の続きだから前作を観た方がいいとは思うけれど、前作を踏まえていない場合はただ単に戦争しているだけに見えるかもしれない。

エメットたちの世界で時が5年後に進むが、これは実写でも5年進んだことを意味する。また、映画自体も前作から5年です。細かい。
エメットのプリントはハゲかけていて、5年の月日が感じられる。5年前の時点でボロボロだったベニーはさらにボロボロに。でもまだ捨てずに持っていた!
エメットたちの世界は自由の女神が崩され、一面砂に覆われ、猫好きのおばさんの飼ってる猫もトゲトゲした武器を付けられていて…という世紀末的な世界になっている。
要は『マッドマックス 怒りのデス・ロード』の世界観なんですが、たぶん、実写のお兄ちゃんがこれを観て影響されている。ゴツゴツした車も出てきた。
その世界にもたびたびファンシーな敵が襲いかかる。要は、作り上げた世界を妹に破壊され続けてるんですね。ミニフィグ(人形)も奪われ続けていたようで、それは、シスター星雲にさらわれたという言い方をされていた。

兄妹は音楽の趣味も違うようで、シスター星雲では“頭にこびりつく”(という歌詞)ポップスが流れている。この音楽に汚染されるとその国に染まってしまう。ベニーは星型のサングラスをかけられ、バットマンは白いコスチュームに変えられる。先にさらわれたスーパーマンやグリーンランタンはキラキラのコーティングになっていた。
星型のサングラスも白いコスチュームも、妹がもっと可愛くしたいと思ったのだろうし、キラキラもマニキュアか何かでコーティングされていた。
ルーシーも黒髪にメッシュだったが、洗うとマジックが落ちて水色とピンクのポップな髪色だった。兄は自分の趣味でゴスっぽくしたんですね。
特に兄妹だと男の子と女の子だし、一緒に遊べないだろうなと思う。

エメットがさらわれたルーシーたちを救いに行くという行為は、兄が人形たちを取り戻す行為である。
エメットにはレックスという味方ができる。彼の宇宙船の乗務員はすべてヴェロキラプトル。レゴのジュラシック・ワールドシリーズについてくるようですが、もちろんエメットのCVがクリス・プラットなので中の人ネタ。レックスもTレックスだったのかな。

エメットは優しすぎるのが難点で、序盤から世紀末的な世界でも前作のオープニングと同じようにコーヒーを買って、♪Everything Is Awesome!と歌っている。デュプロ軍団にもレゴでハート型を作って渡していた。
けれど、ルーシーはそれが気に入らない。もっとタフになってほしいと思っている。
レックスはエメットがタフに育った将来の姿だった。確かにタフでも、乱暴者で、シスター星雲を破壊する。ハートを渡すようなことはしない。
エメットはタフ側に成長しそうになっていて、マジックで無精髭を描いたり、髪型を変えたり、服を変えたりしていた(ミニフィグの上半身がつけ変えられるのを知らなかった…)。しかし、それは実写の兄の成長の方向を意味する。決して妹の世界を受け入れず、人形は取り返し、妹の作ったレゴの世界を壊す。

これは、もしかしたらだけど、自国第一主義とか不寛容社会みたいなものの暗喩でもあるのかもしれないとも思った。自分と意見の合わない世界は受け入れないという風潮に対する抗議でもあるのかもしれない。

でもレゴムービーの世界は根本が兄妹ゲンカのため、すべてを終わらせるのは母である。二人がケンカしている部屋に入ってきて怒り、お約束としてレゴを踏むという…。

兄は一緒に遊びたい妹を受け入れる。二つの世界は融合する。見た目はいびつでも、レゴはみんなで遊べば楽しいね!というメッセージまで含まれている。前作も思ったけれど、ちゃんとレゴブロックというおもちゃに対するリスペクトが一番大きくなっているのが素晴らしい。

『スパイダー・バース』でも思ったが、ロード&ミラーの脚本の巧みさは職人芸になってきてる。テンポが良くて、くすっと笑わせつつも、いくつもの要素を混ぜ込んで、細かいところをついてきながら結局普遍的なテーマに持ち込んで、最後には泣かせるいい話になる。本当に感心してしまう。

エンドロールでは兄妹や兄弟、夫婦など、趣味の合わない二人が作ったいびつなレゴが流れるのも楽しい。キメラみたいになっちゃってるのもあったけど、完璧な世界観を作り上げるだけがレゴではないのだ。なんでもあり。なんでも作れる。

また、エンドロールの歌が、エンドロール待ってました!みたいな曲になっているお遊びもおもしろかった。曲の歌詞の字幕を見るのと、エメットたちミニフィグがレゴで作られているのを見るので忙しかった。そこで、このエンドロール長くない?という歌詞もあったけれど、この後も本当に長くて、さっきのは伏線だったか…と思った。エンドロールで頭にこびりつく曲を流すのもずるい。






2015年アメリカ公開。日本では2017年公開。『フロリダ・プロジェクト』のショーン・ベイカー監督。
iPhoneのみで撮影したことでも話題になった。5sとのこと。それでも立派な映画になっていた。

刑務所帰りのトランスジェンター、シンディは友達のアレクサンドラに彼氏のチェスターが女と浮気をしていたと聞かされる。激昂したシンディは各地でチェスターの居場所とチェスターの浮気相手の居場所を聞きまくる。
シンディは怒ってるからずっとイライラしている。歩き方も早足で、カメラ(iPhone)がその後ろをどんどんついていく。そしてどこに行ってもカリカリ、ギャーギャー。でも、刑務所帰りの彼女のことを歓迎している知り合いも多く、顔が広そうだった。

シンディと別れたアレクサンドラはバーのような場所で歌うことを宣伝するチラシをいろいろな場所で配っている。クリスマス・イブの群像劇です。

タクシードライバーのラズミックの様子も合間合間に出て来るので、最初はこの人がチェスターなのかと思っていた。ラズミックはアルメニアからの移民らしい。トランスジェンダーかと思って声をかけた娼婦が女性だったので怒っていた。どうやら、シンディやアレクサンドラとも知り合いとのことだったけれど、客だったらしい。でも、客というよりは親しそうにも見えた。
ラズミックは個人タクシーのようで、夜になったら家に帰ったけれど、そこには妻と子供、それに妻の母と母の友達なのか、高齢の女性がたくさんいて、ラズミックは耐えきれずに外へと出ていく。

シンディは浮気相手のダイナの居所を見つけて、娼館……のような使われ方をしているモーテルに乗り込んでいく。お店なわけでもないし、多分働いている女性たちも大事にはされていそうにないし、客も金があるわけでもなさそうだった。シンディに邪魔をされて割引券をくれなどと言っていた。
ダイナは細くて小さいが、シンディと髪をつかんだりの取っ組み合いの喧嘩をしていた。ダイナはチェスターなんか知らないなどと言っていたけれど、あとでそれも嘘だとわかる。強かである。

シンディはダイナより体格もよく力もあるせいか、引きずるようにしてチェスターの元へ連れて行こうとする。しかし、途中でアレクサンドラがバーで歌うことを思い出して、バーに先に向かうことにする。ダイナを引きずりながら。

アレクサンドラはあれだけチラシを配ったのに、別にお客さんもほぼ来ていない。歌はうまかった。でもそれだけでは駄目なのだ。でも、シンディは来ていて、無駄に拍手がでかく、盛り上げていた。この店の楽屋のような場所で、ダイナとシンディは一緒に何かのドラッグをやったり、化粧をしてあげたりしていた。この先のシーンを見れば決してそんなことはなかったと思うんですが、この時点だと少し仲良くなったのかと思った。結局は社会のはみ出し者同士なんですよね。似ている二人。

この後、まだ引きずるようにして、逃げられないように手をつないで、チェスターのいるというドーナツショップへ向かう。アレクサンドラも一緒。チェスターがまあロクでもない男で、ドラッグの売人をやってるようなんですが、言葉巧みにシンディにお前だけだよというようなこと言っていた。でも刑務所に入っている間にはやはりダイナとも繋がりを持っていたらしい。
そこにシンディに会いたかったラズミックも登場。彼は恋とかでは多分ないのですが、自分の家のまともな生活にうんざりしていそうだった。そこにラズミックの義母も登場する。義母はラズミックがシンディやアレクサンドラのようなトランスジェンダーと一緒にいること自体にも驚いていたけれど、ラズミックが名前を口にすると、「名前を知ってる仲なの!」と更に驚いていた。短い中で関係性が説明されるいいシーン。ついに妻と子供もドーナツショップに迎えに来る。

もうドーナツショップに全員が集まってギャーギャーやっていて大騒ぎ。ここが群像劇でみんなが集まる場所だった。オーナーの女性(アジア系。ママサンと呼ばれていたから日系という設定だったのかも)は出て行けと怒り、警察を呼ぶ。

店の外でも言い合いは続く。その中でアレクサンドラも一回チェスターと寝たことがわかってしまう。
一人で娼館というかモーテルに帰ったダイナは代わりの娼婦をもう雇われてしまっていて帰る場所もない。
ラズミックは家に帰ったものの、一人きり。後ろには派手に輝くクリスマスツリー。
アレクサンドラとシンディは険悪なムード。
はぐれ者たちは結局バラバラな場所に帰って、それぞれ孤独になる。クリスマスなのがまた寂しい。

けれど、アレクサンドラは必死に謝る。多分、会話を聞いていてもこの件でもチェスターが圧倒的に悪そうだった。ここまで観てきてアレクサンドラの性格もなんとなくわかってきているから、アレクサンドラを庇いたくなる。

少し離れた場所で、シンディは客を取ろうとして、車の中から尿を引っ掛けられてしまう。アレクサンドラは彼女をつれてコインランドリーへ。着ていた服とウィッグも洗う。
トランスジェンダーにとってのウィッグの位置付けがまだいまいちわかっていないのですが、『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』を観る限りだと、洋服か、洋服よりも大事なものであり、お金がないといいものも買えない。しかし、そんなに頻繁には変えられない。でも、見た目にも大きく関わる。アイデンティティまではいかないと思うけれど、とても大切なものなのだと思う。
二人でコインランドリーに並んで座って、アレクサンドラは自分のウィッグをシンディにかぶせてあげていた。ここでも『ヘドウィグ〜』を思い出した。たぶん、ごめんなさいという言葉よりも大きい気持ちがこもっている。
二人で並んで座っている様は、孤独な魂が寄り添っているようで、とても好きでした。
『ヘドウィグ〜』のことを思い出していたせいかもしれないけれど、なんとなく、『セックス・エデュケーション』のオーティスとエリックにも似ていると思ってしまった。喧嘩をしても、結局、はみ出し者同士なのだし、気が合う。恋愛は抜きにして、あんたにはあたしだけ。友情は続く。





スパイク・リー監督。アカデミー賞で脚色賞を受賞。
作品賞が『グリーンブック』になったことで、スパイク・リーや『ブラックパンサー』のキャストが怒ったという話がありましたが、今までは映画を観ていなかったので理由がわからなかった。やっと日本でも公開されたので、やっと理解ができました。
コロラドスプリングスの警察署の初の黒人刑事である、ロン・ストールワースが書いた書籍を原作とした実話。
主演はジョン・デヴィッド・ワシントン。デンゼル・ワシントンの息子であり、クリストファー・ノーランの新作への出演も決まっている。ロンの代わりにKKKに潜入するフリップ役にアダム・ドライバー。アカデミー賞助演男優賞にもノミネートされていました。

以下、ネタバレです。










予告編はとてもコミカルな作りでてっきりコメディなのかと思っていたが違った。もちろんくすっとしてしまう部分もあったけれど、コメディ要素は思ったよりも少ないので、予告編の編集の力だと思う。けれど、予告編を作った方はアダム・ドライバーの魅力(というか、いつものアダム・ドライバー)をよく知っていると思った。やられっぱなしの少し情けない男性という印象。でも、映画内ではもっとしっかりした人物だった。
ロンの代わりにKKKの内部に潜入するフリップという刑事の役なのですが、彼はユダヤ人なのだ。KKKは白人至上主義で、白人のアーリア人以外は排斥する団体である。そのため、ユダヤ人も差別される。フリップは始めは自分がユダヤ人であることを隠すようにしていたけれど、途中からは誇りを持つようになっていたようだったし、潜入したことで、ロンの気持ちもわかったのではないかと思う。

ロンはアフロヘアだし、服装もおしゃれだったので、警察署の人気者なのかと思っていた。しかし、ただ単に70年代後半から80年代という時代の流行のヘアスタイル、流行の服装だったようである。
彼はコロラドスプリングス初の黒人刑事だったせいもあるのか、最年少だったせいもあるのか、警察署内でも白人たちに差別を受けていた。トード(蛙)と呼ばれていたり、わざとぶつかられたり、これは新米だからかもしれないけれど資料室の担当だったり。
警察が黒人を目の敵にしていて、不当な逮捕や暴力を繰り返すものだから(『デトロイト』で観たのも記憶に新しい…)、当然ロンの友達や恋人は、ロンが刑事なことが気に食わなかったりもして、大変な立場だと思う。それでも警察になりたいと思っていたから辞めることはできないと言うのも良かった。

後半に私服のロンがKKKの爆弾を持った女性を追いかけて捕まえようとしたけれど、逃げられそうになり、そこにパトカーが来るシーンがある。ああ、良かった、助けに来たと思ったら、パトカーから出てきた白人警官たちは、ロンを攻撃する。味方などではないのだ。黒人差別が普通であり、先入観が植えつけられている。白人女性が叫んでいたら、真偽など確かめず、黒人男性に手錠をかける。

彼自身は黒人だから大々的には潜入できないのですが、ついていくような形で潜入したKKK内部の様相は胸が痛かった。射撃訓練なのだろうか、KKKの人らが的に向かって銃を撃っているのだが、的は見えない。あとからロンがその場を訪れた際に的が映る。黒人が逃げている姿なのだ。また、KKKの会合でみんなで昔の映画を観ているシーンでは、黒人が酷い目に遭うシーンで歓声が起こっていた。人を人とも思わぬ対応を見て、ロンは何を思ったのだろう。

また、KKKの最高幹部のデュークは「アメリカ・ファースト」とか「アメリカを再び偉大に」と言っていて、なるほど、トランプはKKKではないし、映画の時代は違うけれど、その辺りで繋げてトランプ批判も映画内に織り混ぜるのだなと思いながら観ていた。しかし、80年代のトーク番組で、デュークが実際に「アメリカ・ファースト」、「アメリカを再び偉大に」と言っているらしい。トランプがKKK最高幹部の言葉を使っていたのだ。創作ではないと思わなかった。ぞっとした。

最後にシャーロッツビルでの極右集会とそれに抗議するデモの実際の映像が流れる。2017年である(アメリカで本作が公開されたのが2018年8月10日らしく、ちょうど一年後だったとのこと)。現代であっても何も変わっていない。この抗議活動で亡くなったヘザー・レイヤーさんのためと、他、不当な差別でなくなった人々のために、アメリカ国旗の反旗が掲げられる。
アメリカ・ファーストなどとお気楽なことは言っているのがどうかしている。これは反旗で終わる映画なのだ。

『グリーンブック』は確かに入門編というか初心者向けだと思う。そこまで踏み込まないけれど、人種差別についてなんとなくわかるし、鑑賞後に爽やかな気持ちになる。また、くすっとさせられる部分もあり、いい話を観たなあという印象が残る。でも、残ってすぐに消えてしまうかもしれない。所詮おとぎ話である。
特に、アメリカ人なら初心者向けなどとは言ってられないと思う。目をそらさずに、もっとしっかりと向き合わなきゃ駄目だと思った。受けた印象の重さがまったく違う。
だから、アカデミー賞作品賞が『グリーンブック』だったというのは、選ぶ人たちに勇気がなかったんじゃないかと思う。この事態に向き合うのは相当怖いものだと思うので。でもこのままではきっと何も変わらなさそう。両方観てみてやっと、『ブラック・クランズマン』や『ブラックパンサー』ではなく『グリーンブック』が受賞したことでの呆れや絶望感、無力感がよくわかった。

『バンブルビー』



『トランスフォーマー』シリーズのバンブルビーをメインとしたスピンオフ…という位置付けなのかもしれないけど、マイケル・ベイ監督とは別物に感じた。どちらが良い悪いではなく、作風がまったく違うので両方好きです。
監督は『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』のトラヴィス・ナイト(NIKE創業者のご子息)。

以下、ネタバレです。





まず驚いたのが、最初のオプティマスたちオートボットとディセプティコンの戦い。マイケル・ベイ版だと滑らかなCGというイメージだったが、本作ではおもちゃっぽいのだ。トランスフォームも滑らかというよりは本物のおもちゃっぽい。無理のない変形というか。トランスフォーマーは元々おもちゃなのだし、おもちゃっぽくていい。なんとなく、子供同士がトランスフォーマーで対戦させて遊んでいる様子を想像してしまった。あれがどうしてそう見えたのかはよくわからない。少し安っぽい(それが悪いという意味ではなく)映像だったからだろうか。妙にくっきりしているというか、日本の特撮っぽいというか。最初から違いが出ていておもしろかった。

予告を見る限り、優しい少女がバンブルビーと出会って友情を育み…というストーリーなのかと思っていた。優しくはあるけれど、少女チャーリーは最愛の父を亡くしたことで傷つき、家族の中で孤立していた。また、学校は出てこないからスクールカーストというのもおかしいかもしれないけど、上のほうにいる集団に馬鹿にされ、友達もいない。
傷ついてはいても、彼女にはロックがあるというのも良かった。『キャプテン・マーベル』もキャロルがNIN Tシャツを着ていたけれど、チャーリーもモーターヘッドやザ・スミスのTシャツを着ている。メイクもゴス調。それが彼女を守る戦闘服だ。ラストの本当のバトルの際も、ロックTシャツに革ジャンで気合を入れていた。
音楽も80年代のものが多く使われていた。特に、チャーリーが好きなスミスは何曲も使われていた。

孤独なチャーリーとバンブルビーが出会って心を通わせる。バンブルビーは大きいが、小動物のようだった。どの動作も可愛かった。瞳の青い光もチャーリーを見つめる時だけ大きく、黒目がちになる。
チャーリーを傷つけたときに怒って赤い光になったときは多少つり目で光も小さかった。少しアニメ的でもあると思う。

少女とオートボットの触れ合いと別れという、所謂『E.T.』のような話かと思っていたが、軍隊も絡んでくる。87年が舞台ということで、冷戦の話も少し出てくる。明言はされないが、ディセプティコンの機能で居場所を突き止める云々の話もそのことだろうと思っていたけれど、米軍ではなく架空の政府機関らしいので違うかも。
また、オートボット対ディセプティコンという、本来のトランスフォーマーの要素も当たり前だが入っている。
バンブルビーが可愛いし、チャーリーも魅力的だったので、ロボットと少女の触れ合いだけで観たいとも思ったけれど、それではトランスフォーマーでなくなってしまう。
中盤あたりまでは、それぞれの要素が独立してるし、詰め込みすぎでは…と思いながら見ていたけれど、ちゃんとすべてが絡み合って綺麗に収束するのがお見事。

チャーリーは飛び込みの選手で、でも父が亡くなってからは飛び込めなくなっているというエピソードが出てくる。カースト上位のイケメンが煽るように、飛び込み対決をしろと誘うシーンがあって、チャーリーがそれに応じて根性を認められて仲良くなるのかと思った。しかし、チャーリーは飛び込めず、イケメンの出番もそこで終了。飛び込みのことをすっかり忘れていた。
しかし最後、ディセプティコンにバンブルビーが海に落とされた時に姿勢を正してしまった。来る!と思った。ここで、チャーリーが飛び込むのだ。このための伏線だった(このシーンは『パディントン2』や『シェイプ・オブ・ウォーター』を思い出した)。
飛び込むことでチャーリーは父の死を乗り越えた。バンブルビーとは別れることになるが、ちゃんと成長していた。

ラストのバトルもおもちゃっぽかった。まったくないわけではないけれど、変に飛び道具を多用しない。殴り合いメインです。
ディセプティコンで、ロボット、車、ヘリコプターと変形するものが出てくるんですが、ヘリコプターになった時にバンブルビーが鎖を投げてプロペラに巻きつける。その状態でロボットに戻ると体に変な感じに鎖が絡まっていて、それを引っ張るとばらばらになる。これって、本物のおもちゃも多分同じなんですよね。ヘリコプターの時に糸を絡めて、そのままロボットに戻したらぐちゃぐちゃに絡まってどうしようもなくなる。糸が強固なものなら、おもちゃはばらばらに壊れてしまうと思う。
ちゃんと変形の法則が考えられているところにトランスフォーマー愛を感じたし、『KUBO』での折り紙が折られる様子を思い出してしまった。

かといって、マイケル・ベイ版が駄目というわけではなく、マイケル・ベイはマイケル・ベイで、あのドッカンドッカンの派手な映像は観ていて気持ちがいい。あれはあれで好きです。派手さでは断然マイケル・ベイが勝っていた。


2017年の小説『ささやかな頼み』を原作にしているとのこと。
監督はポール・フェイグ。アナ・ケンドリックとブレイク・ライブリー主演。
おしゃれとしか感想を聞いていなかったので、肝心のストーリーについてはあまり気にしていなかったのですが、おもしろかった。

以下、ネタバレです。









主人公のステファニーはママ友(といっても本当の意味でのママ友ではなく、これを見ていてくれるあなた方はみんな友達みたいな意味でのママ友)向けの動画ブログをやっていて、そこで事件の発端が紹介される。
途中途中、また顛末まで動画ブログで紹介されるので、あたかも私までブログの読者になったような気持ちになる。

ステファニーはちょっと服装が少しズレてはいるんですが、明るくて人懐っこい。ブログを見ていると彼女の味方になりたくなってしまう。
どの辺がズレているかというと、猫ちゃん柄の10足1000円の靴下を履いていたりする。夫を亡くし、シングルマザーのためお金がないのだ。それでも子供に惜しみない愛情を注いでいるし、猫ちゃん柄の靴下も似合っている。登場時のどピンクの服もぎょっとはしたけど似合っていた。

そんな彼女は自分とは正反対のママ、エミリーと会う。子供が同じ学校だけれど、エミリーはNYで働いていて、忙しい。夫は元売れっ子作家で二人の住む家はハイソで豪華。服装もびしっときまっていて、背も高くて素敵。夫との仲も良好で、ステファニーはエミリーと昼からマティーニを飲みながら語らい、憧れを強めていく。
しかし、エミリーが子供を預けたまま失踪していまい、湖の底から遺体で発見される。ステファニーは犯人探しを決意する。

ステファニーには少しズレているピュアな天然さんみたいなイメージがあった。だから、本当に親友の事件を解こうと頑張ってるのだと思っていたが、ストーリーが進むうちに、腹違いの兄と関係を持ったことや、夫と兄を一緒に亡くしたことなど仄暗い過去が明らかになる。
また、エミリーの夫とも関係を持ってしまう。この夫役のヘンリー・ゴールディングの所作がとても恰好良かった。女癖が悪いんですが、それも仕方ないと思わせる恰好良さだった。『クレイジー・リッチ』に出ているとのこと。
ステファニーはエミリーの家に住むことになって、エミリーの服などを処分しようとしていた。憧れの人に成り代わるために殺したのではないかと思ってしまった。
また、夫は夫で、エミリーに多額の保険金をかけていたり、職場の助手とも関係を持っていて怪しい。
しかし、途中でエミリーが実は生きている?という疑惑が持ち上がる。死体は見たし…と思っていたら双子でした。

ミステリーでの双子設定は禁じ手だと思っていて、出てくるとがっかりしてしまうんですが、本作はその奥に悲しい設定が隠れていて、ただの双子設定とは違ったので良かった。

双子は二人で厳格な父から逃れるために家に放火をし殺したという過去を持っていた。エミリーとフェイスは家を離れ、途中で別れるが、仕事などで成功したエミリーとは違い、フェイスは薬物中毒になっていた。そのため、金をよこせとフェイスはエミリーを脅す。

双子なのでエミリーもフェイスもブレイク・ライブリーが演じている。もちろんメイクやヘアスタイルのせいもあるだろうが、まるで別人のようになっていて演技力に唸った。
また、ここではメイクやヘアスタイルで印象は変わるよということを教えてくれているようにも思えた。
そうじゃなきゃ、こんなにファッションにこだわった映画にならないだろうし、そこはポール・フェイグ監督の良さだと思う。監督自身がものすごくおしゃれ。

ステファニーは最初こそ猫ちゃんソックスだし襟に猫の顔のついた服だったが(それも可愛い)、リップの色が濃くなり、服装が垢抜けていく。
序盤に、エミリーの会社(服飾デザイン?)に行く時に精一杯の大人っぽい服装としてスカーフを巻くのが可愛かった。しかし、なんか変だなと思ったら、スカーフの結び方が変なのと、「GAPにヴィンテージエルメス」(会社の人に指摘される)だったそう。ヴィンテージって言いかたですが、要は古い、時代遅れということ。しかし、その似合ってなさ、決まらなさも、それはそれで可愛い。

最後はさながら服装交換という感じだった。エミリーがふんわりしたワンピースを着て、髪型もふんわりとフェミニンな印象になっていた。夫も「ステファニー?」と間違えていた。
ステファニーはここまで着ていなかった黒、そしてパンツスタイル。ステファニーはどちらかというと派手な色で、モノクロな服を着ていたのはエミリーのほうだった。更に囲み目メイクで銃を構える。

ミステリー自体もおもしろかった。特に、最後にご近所が助けに来るのはステファニーの今までが報われたようでほろりとした。
ステファニーは周囲にバカにされていたのを自分で気づいていたのかいなかったのかわからない。でも、知り合いがブログをやってたらみんな見ますよね。
最初は馬鹿にしていたご近所さんは、家族向けの豆知識と料理について、本当に便利だと思ったのかもしれない。また、ステファニーの人柄も滲み出ていた。すっかりブログの読者になっていて、ステファニーのファンにもなったのだと思う。

ファッションだけでなく、フランス・ギャルやセルジュ・ゲンズブールやブリジット・バルドーなどフレンチポップが使われているのもおしゃれ。踊るアナ・ケンドリックも可愛かったが、歌うシーンも本当に可愛かった。自分がイエー!!となってるときに、ギャングスタラップを歌ってるのも可愛かった。

ファッション、特にアナ・ケンドリックがとても可愛くて、それも加味した評価にはなってしまってると思う。でもいい映画でした。

読みやすさ度外視のエンドロールもおしゃれだった。

観終わってからわかったのですが、カタカナ表記のロゴ、“バー”の点々がマティーニグラスになっていた。当たり前ですが日本語独自のタイトルロゴ。ここまでこだわってくれるのがとても嬉しい。



アベンジャーズ界隈としては『インフィニティ・ウォー』で大変なことになっている最中ですが、本作は95年ということで過去の話。
あらゆる映画において日本の公開は遅いですが、本作は『エンドゲーム』の公開日が決まっていて、しかもそれが世界同時とのことで、一週間遅れで済みました。
監督はアンナ・ボーデンとライアン・フレック。他の作品でもコンビを組んでるとのこと。
主演はブリー・ラーソン。

以下、ネタバレです。










まず、オープニングのマーベルロゴがスタン・リー追悼バージョンになっていたのが不意打ちで泣かされた。そういうものは最後に持ってきてください。『スパイダーマン:スパイダーバース』では最後だったので油断していた。

相変わらず、原作を読んでいないので、『フューチャー・アベンジャーズ』での情報しか知らなかった。そのため、遠くから来た強いお姉さんという印象しかなかった。地球の人なのか宇宙の人なのかもわからず。

ヴァース(ブリー・ラーソン)は任務に失敗して地球に落ちてくる。95年であり、CD屋にはスマッシング・パンプキンズの『メロンコリーそして終わりのない悲しみ』(95年)やPJ ハーヴェイの『Rid of Me』(93年)のポスターがべたべたと貼られている。懐かしさに震えていると、エラスティカの『Connection』(95年)が流れ出す。バトルのシーンではノー・ダウトの『Just A Girl』(95年)が使われていた。
ニルヴァーナの『Come as You Are』(91年)も流れるけれど、ほぼ女性ボーカル曲であり、流れたシーンで多少キャロル(ヴァース)が煽りのようなものを受けていることを思うと、意図的だったように思う。
また、90年代で女性ボーカルといえば…のホールの『Celebrity Skin』(98年)がエンドロールで満を持してかかるので、涙が流れた。待ってました!インパクトのあるギターのジャジャ!ジャジャ!ジャジャ!のイントロに続いての♪Oh,make me over〜は一緒に歌いたくなった。

ナイン・インチ・ネイルズが本作とのコラボTシャツをオフィシャルストアで売っていたのが謎だった。音楽がトレント&アッティカスというわけでもなかったため、ひょっとしたら95年が舞台だし、94年に『The Downward Spiral』が出たので、曲が流れるのかなと思っていた。
しかし、曲は流れない。代わりに、中盤でずっと、ヴァースがNINのおなじみのロゴのTシャツを着ていました。コラボTシャツはキャプテン・マーベルのマークも入っているのでブリー・ラーソンが劇中で着ていたデザインとは違う。同じデザインのものも売っています。『アイアンマン』を観たAC/DCファンもこんな気持ちだったのだろうか。

ヴァースはフューリーと一緒に地球に侵入しているスクラル人を倒しながら、自分の過去と向き合っていく。そして、スクラル人が実は悪者ではないこと(子供や女性のスクラル人を出すことで彼らにも家族がいるよ、だから悪者じゃないよと示すのは少しずるい気がした。前半でミスリードを誘いすぎというか…)がわかる。
もう少しコールソンも活躍してほしかったけれど、フューリーのサポートとしてちょっと出てくるだけ。でも出てきただけでも嬉しい。『エンドゲーム』にも出てきてほしいが、無理そうかな…。『エージェント・オブ・シールド』を観ているので、彼の今後について思いを馳せた。

ヴァースもヴァースという名前ではなく、キャロルという名前のアメリカ空軍所属の地球の人であることがわかる。スーパーパワーを手に入れたのは事故によるものだった。しかし、それを覚醒させたのは彼女が元々持っていた強さなのが感動した。
何度倒れても、男に馬鹿にされても、決して泣き寝入りはせずに立ち上がる。両足でしっかりと立っているポスターからも滲み出ている力強さが全編に貫かれている。

覚醒してからの強さのインフレ具合は笑ってしまうほどだった。生身で宇宙まで飛んでいける。アイアンマンにもできないこと。でも、『エンドゲーム』でアベンジャーズに加わるのだから並の強さではいけない。

とんでもない強さになってるのはわかるはずなのに、ヴァースの上官であるヨン・ロッグは最後まで教えてやろうみたいな偉そうな態度なんですよね。男というだけで立場が上だと思っているのか、見苦しく見えたけれど、それをキャロル(ヴァース)が一発で沈めるのがスカッとしました。

ポスターにも出てきていたグースという猫ちゃんはとても可愛いんですが、大変凶暴でした。猫ちゃんの時にはフューリーは「よちよち」みたいな文字通りの猫撫で声だったんですが、本来の姿を見てからは怯えた口調になっていた。フューリーの目を今のような眼帯にしたのもグースだったんですが、原作通りなのかは不明。

ラストではフューリーがアベンジャーズ計画の書類を作っていて、ああ、この計画でアイアンマンの元へ…と思った。『アイアンマン』のラストですね。もう全部観直したいくらいですが、『エンドゲーム』までには時間がない。

『インフィニティ・ウォー』の最後、消える直前のフューリーはキャロル(キャプテン・マーベル)宛に通信を飛ばした。この映画の時のこと…95年のことを消える直前に思い出していたのだなと考えると感慨深い。
そして、エンドクレジットの後では、キャプテン・マーベルがスティーブやナターシャたちに合流していた。絶望しかなかったラストに少しの希望が加わった。あとスコット・ラングですかね…。

エンドロールの最後、グースがキューブを吐き出していて、あれ、今、キューブってどうなってるんだっけ?と思った。これは復習しておきたい。(『キャプテン・アメリカ/ザ・ファースト・アベンジャー』から『マイティ・ソー』の間なのではとのこと)




スコットランドの女王メアリーとイングランドの女王エリザベスの対立を描いた話だと思われそうなタイトルですが、原題が『Mary Queen of Scots』ということで、メアリー側の話中心。
メアリー役にシアーシャ・ローナン。エリザベス役にマーゴット・ロビー。メアリーの2番目の夫、ダーンリー卿役がジャック・ロウデンで、彼目当てで観ました。

以下、ネタバレです。








メアリーがフランスからスコットランドへ戻ってきて、処刑されるまでが描かれている。
メアリーとエリザベスの往復書簡でのやり取りを描いたドキュメンタリーを事前に見ていて、大体の流れや出来事を知っていたせいもあるのかもしれないけれど、基本的にそれをなぞっているだけに思えて、少し淡々として見えてしまった。衣装やヘアスタイルの豪華さには目を奪われたけれど、話自体はいまいち盛り上がりに欠ける気がした。
ラスト付近のメアリーとエリザベスの会談の部分は夢のような美しさとドラマティックさでした。ただ、二人は書簡のみのやりとりで実際には顔を合わせていなかったと思うので、あの部分は創作だと思う。それでも、その部分が一番映画的であり、見せ場でもあると思った。
小さな小屋の中で二人きり。薄い布のようなものが張り巡らされていて、互いの姿が見えそうで中々見えない。この焦らされ方も良かったし、やっとのことで対面するのもロマンティックだった。長年恋い焦がれた人物にやっと会えたという積年の想いが遂げられたのを感じた。
このシーンはマーゴット・ロビーは最終日、シアーシャ・ローナンは初日で、実際に初めて顔を合わせたというのもぐっとくるエピソード。

日本では同時期公開だったので同じイギリス宮廷ものとしてどうしても比べてしまうんですが、『女王陛下のお気に入り』くらいあけすけな女同士の愛憎入り混じった戦いが見たかった。
だから、本当は本作に対しても、エリザベス側の出番をもっと増やして、二人の書簡でのひりひりするやりとり中心で見たかった気がする。
エリザベスはあまり出てこないのですが、ラストの処刑付近で衣装がどんどん派手になっていくのは見所だと思った。ただ、一瞬しか映らないのが残念。
原作があるものだし、原題を考えたらメアリーについての話というのは明らかではあるんですが。
ただ、今、EU離脱の件でも荒れているし、今とは比べ物にならないほどの男社会の中で戦う二人の女王ということで、Me Too的な面をテーマにしても良かったのではないかと思うが、そのような社会的なものではなく、どちらかというとメロドラマになっていた。

ただ、宮廷ものはメロドラマにしやすいとも思う。戦いのシーンは一回だけです。
エリザベスにとってのロバートは夫になりうる人物として描かれていたけれど、バージンクイーンとして有名だし、どうなんだろうか。ロバート役にジョー・アルウィン。なんとなく『女王陛下のお気に入り』とも似た役だと思った。あそこまで情けなくないけれど。

メロドラマ的な要素が強く、メアリー側の話が多いということで、ダーンリー卿の出番が思っていたよりもだいぶ多くて嬉しかった。
ダーンリー卿、イングランド人でカトリックでバイセクシャルで大酒飲みということで国民からだいぶ嫌われていたという情報は得ていた。また、メアリーが懐妊した際にも自分の子ではなく仲の良かった秘書の子ではないかと嫉妬して殺し、その結果、建物ごと爆破させられて殺され、爆破現場から離れた場所で見つかった遺体には首を絞められた痕があったなどもう散々な話しか聞いていなかった。ただ、どの資料でもハンサムとは書かれていたらしい。顔の良さだけが取り柄の男…。

ほとんどその通りだったんですが、想像していたよりは鬼畜ではなく、駄目男とかカスといった印象で、これはジャック・ロウデンの演技や優しい顔つきによるものなのか、私がジャック・ロウデンが好きだからなのかわからない。

まずダーンリー卿の父親役が『ダウントン・アビー』のベイツ役でお馴染み、ブレンダン・コイルだったのがちょっとおもしろかった。
彼は父と一緒にスコットランドへ赴く。侍女とメアリーは同じような服装をしていて、詩を詠みながらその中から見事メアリーを当てて求婚する。
メアリーも恋やセックスに憧れがあったし、ダーンリー卿も言葉巧みだし優しいのですぐに恋に落ちる。
しかし、ダーンリー卿は結婚式で泥酔。メアリーの秘書の男性に絡んで、結局一夜を共にする。メアリーは結婚式の最中から後悔した顔をしてましたが、この浮気もすぐに見つかる。
そこからは夫婦仲は冷めていくばかりで、一応懐妊はするものの、その時のセックスも愛なんてないもので、ここはちょっと鬼畜めでした。
でも、秘書を殺すのも、ドキュメンタリーだとダーンリー卿の独断っぽかったが、本作では周囲にそそのかされてしぶしぶといった感じだった。人の良さが滲み出ていた。秘書の子ではないかと疑うシーンもなし。
別居の住まいにも男性を連れ込んでいた。ドキュメンタリーだとバイセクシャルとのことだったけれど、本作では男色家と呼ばれていた。

ダーンリー卿のせいで狂わされたメアリーの人生が中心のようになっていた。失脚の原因も、メアリーが不倫を隠すためにダーンリー卿を暗殺させた、メアリーは淫売!みたいな噂を立てられたからだった。その前からダーンリー卿とのあれやこれやも国民に吹き込まれていたが、その吹き込む役が最初から女王の存在をよく思わないジョン・ノックス。演じたのがデヴィッド・テナント。宮廷ものだから仕方ないけれど長髪に髭ということで、あまりデヴィッド・テナントらしさはない。ただ、ぎょろっとした目はそのまま。また、声に特徴があるので、人を煽動するような演説に向いているので役に合っていた。

まるで、ダーンリー卿がまともだったら彼女が国を統治してしたのではないかとでも言いたそうな作りだった。もちろんその部分もあったのかもしれないが、その部分に特にスポットが当てられているのですごい悪役具合でした。出番が多くて満足。

『運び屋』



クリント・イーストウッド監督・主演。
ニューヨーク・タイムズ別冊『90歳の運び屋』に着想を得たと書かれていたが、どのくらい実話なのか不明(追記:今回の映画パンフレットに全文が載っているらしいです)。でも、映画と同じ園芸屋ではあったらしい。
メキシコ麻薬カルテルものに白人の爺さんが紛れ込んでいるというちょっと見たことがないストーリーだった。

以下、ネタバレです。










年老いた男が家族のためを思って一度だけ悪の道に入るが抜けられなくなって地獄…というような話を想像していた。
しかし、この主人公のアールは思ったよりも善人ではない。一応家族のためを思って悪事に手を染めるけれど、それまで家族を省みていない。ランの栽培をしていて、それで大賞をとってちやほやされているけれど、娘の結婚式にもでない。ランの農園に一人で暮らしている。
しかし、時が経って、ネット通販のせいでインターネットの使えない老人であるアールの商売は成り立たなくなっていき、家も立ち退く事になってしまう。
行く場所がなくなってふらふらと家族の元へ戻るが、娘や妻は当然受け入れない。孫娘のパーティー中で彼女にはぎりぎり嫌われていないので資金の援助をしたい。が、先立つものがない…という時に、パーティーに来ていた謎の男に声をかけられて運び屋稼業を始める。

最初はもちろん一回きりでやめようとしていたみたいでしたが、お金があるとみんながちやほやしてくれるんですよね。もうランの関係ではちやほやされないし、家族にも疎まれている。このアールという爺さんは90歳でありながらちやほやされるのが好き。若い女性にも群がってもらいたい。もう年齢は関係なく、性格なのだなと思う。

それで二度三度と運び屋稼業を繰り返すんですが、これも性格なのか年齢なのかわからないですが、あまりびくびくせずに、罪悪感も感じていない。戦争帰りというせいもあるのか、滅多なことでは動じない。

歌を歌いながら車を運転していて、ただのドライブのように見える。ランの農場でメキシコ人三人を使っていたせいもあるのか、メキシコ人を自分(白人)より下に見ているので、マフィアもそれほど怖くなさそう。年代のせいもあるのか、黒人のことをニグロと呼ぶ。ただ、道路でパンクして困っている家族を助けてあげている時に呼ぶので悪意はないんですよね。そう呼ぶのが染みついている。
人種差別が普通。現代用にアップデートはされていない。今の映画では絶対に見かけない描写ですが、主人公が90歳だからできること。その点でも変わった映画だと思う。
人種差別の他にも90歳だから、ある一定の年齢より下の人は一括りで若者なんですよね。だから、マフィアが脅したところで、若者が意気がっている程度にしか捉えない。
他の登場人物は90歳よりは圧倒的に年下だから、マフィアにもDEAにも説教をして人生観を説いたりもしていた。家族を大切にしてこなかった自分の今までの人生を悔やんだり、でも一方では好きなことをやりなさいと言ったり。
まるでDEAとメキシコ麻薬カルテルとは90歳の爺さんは別の場所にいるように錯覚してしまった。あらゆる面で達観していた。

あまりにも飄々としていて、世俗から離れている印象だったので、もしかしたらDEAはメキシコ人たちは捕まえるけれど、アールだけはするっと抜けだしてしまうのではないかとも思ってしまった。

だって、妻が病気になってしまい、余命いくばくもないとわかった時に、運んでいる途中なのに家に帰って妻に付き添うのだ。こんな麻薬カルテルものなかった。『ブレイキング・バッド』も大学教授が悪の道へ入って行くということで似た感じでもあると思うけれど、ウォルターはどんどん悪に染まり、家族も顧みない。でも、本作は90歳なので、もう人生に後悔したくない。ここで妻の死に目に会えなかったら自分も後悔するし、娘だけではなく孫娘にも縁を切られる。それは避けたい。

結局、姿を消したことが原因でカルテルに痛めつけられる。その後、DEAに捕まるのですが、捕まるときには顔を怪我していて、ちゃんと犯罪者の貫禄が出ているのがすごい。怪我をしていなかったら、気の良いお爺さんのままで、なんとなく捕まえた方が悪い、お爺さんかわいそうみたいな印象になってしまったかもしれない。このあたり、クリント・イーストウッドの表情もあるのですが、うまいと思った。

裁判で弁護士が「高齢者を利用して……」と弁護しようとしてたところに自分で「有罪だ」と言っていたのが印象的だった。Guiltyだと自分自身でわかっている。高齢者という立場には甘えたくない。金のためにやったのだし、元々は家族を省みない自分が悪いのだとわかっているのだ。

DEA役にブラッドリー・クーパーとマイケル・ペーニャ、それにローレンス・フィッシュバーンと豪華勢が並んでいたので、最終的には捕まるのだろうと思っていたので着地点は思った通りだったけれど、中盤までの90歳の爺さんとメキシコ麻薬カルテルというミスマッチ加減がおもしろかった。そして、この90歳の爺さんがとても魅力的なキャラクターだった。イーストウッドがとても恰好良かったです。


アカデミー賞、ゴールデングローブ賞はもちろん、他の様々な映画賞の長編アニメーション部門を総ナメした本作だが、観て納得した。
『ヴェノム』のおまけ映像として流れた時にはこんな作品だとは思わなかった。
ただのCGアニメではなく、かといってぬるぬる動く作画アニメとも違う。まったく新しい表現で、アニメ映画で今になってこんなに新しいものが出てくるのかと驚いた。
脚本にフィル・ロードの名前があり、製作総指揮にもフィル&ミラーの名前があるからか、ストーリーも安心安定の仕上がり。

以下、ネタバレです。









アニメなんですが、元がアメコミである。そのために、オノマトペが文字で記されていて、コミックが動いているようになっているシーンが多くあった。
スパイダーセンスは、トム・ホランドのピーター・パーカーは腕の毛がヒュンと立ち上がっていましたが、本作では顔の周りにひょろひょろした線で示される。彼らが何かを感じていると、一目で直感的にわかる。
また、キャラが登場時に静止画になって集中線がババンと付いていたこともあった。それは静止画になったので余計に漫画の一コマのようになっていたが、他にも一時停止をしたら漫画のコマのように見えるであろうシーンが多数あった。

また本作は異次元のスパイダーマンが集まってくるので、その次元の違いによって作画が違う。その違いによって動かし方も違うと聞いていたけれど、観るまではぴんと来なかった。しかし、スパイダーハムとピーター・パーカーの並びを見てなるほどと思った。まるで、アニメの世界に迷い込んだ実写の人間のように見えた。スパイダーハムはカートゥーン調なのでよりアニメっぽい動きに、ピーター・パーカーはより実写っぽい動きになった結果だと思う。

異次元のスパイダーマンが多数出てくるということで、『アルティメット・スパイダーマン ウェブ・ウォーリアーズ』の61話から64話(62話から65話)の“異次元のスパイダーマン”のようになるのかなと思っていた。しかし、『アルティメット・スパイダーマン』ではスパイダーマンが異次元を移動して、スパイダーマン自身がCGやら白黒やらカートゥーンに変わる。本作は向こうから来るから逆に来た側が世界に馴染まず動きが一人一人で変わる。

ラストバトルのカラフルさはアニメでしか表せない世界だった。列車が縦横無尽に飛び回り、黄色ピンクの色彩に目を奪われる。
最近、人間ドラマ的な映画を観ることが多かったので、久々にIMAXで観るべき、3Dで観るべき映画だったと思う。
映画館でしか体験できない。まさに体験だったのだ。

ストーリーとして、フィル・ロードっぽいなと思ったのは、自分を信じられずビルの屋上から跳べなくて、おとなしく階段を降りて行って低いビルに移動という単なるコメディリリーフかと思ったものがあとで効いてくるあたりだ。
また、おじさんの女の子口説き落としテクの肩ポンの伏線回収もフィル・ロードっぽかった。おじさんの声がいやにセクシーだなと思ったらマハーシャラ・アリだった…。

「自分を信じて跳べ」というのは『インセプション』でも出てきたんですが、これはLeap of Faith.というもので繋がりがありそう。
マイルスがスパイダーマンに蜘蛛の糸で縛り付けられますが、それを破った瞬間がこの映画の主人公が殻を破る瞬間だと思う。脚本のお手本のようでわかりやすいのも特徴だろう。
また、行きたくない進学校で一人ぼっちだったマイルスに友達ができて、親とも和解する。ストーリー開始時より、ちゃんと一歩前進する。
マイルスだけではなく、スパイダーマン・ノワール(ニコラス・ケイジだったとは)が白黒の世界にルービックキューブを持ち帰るというエピソードだけでも一歩踏み出したのがわかる。自堕落な生活をしていたピーター・パーカーがMJの元へ行くのも良かった。みんな身近な人を亡くしているという点で共通していた。けれど、悲しみを乗り越えて一歩踏み出すのだ。

やはりロード&ミラーの関わっているストーリーは安心して見られるほど完璧なものだなと思っていたら、最後に、『困ってる人がいたら助けるのがヒーローだ』というスタン・リーの言葉が出て、その次に、『一人じゃないと教えてくれてありがとう』というスタン・リーとスティーヴ・ディッコ宛の言葉が出るという…。
最後にこんなメッセージを出すのはずるい。不意打ちで泣かされた。

ただ、ちょっとしんみりしかけたところでエンドロール最後におまけ映像。
スパイダーマン2099という未来のスパイダーマンがアース67へ送られる。アース67というのは1967年のスパイダーマンらしく、昔風のアニメで、2099もカクカクした動きのアニメーションになってしまう。
エンドロールでオスカー・アイザックの名前を見て驚いたけれど、2099役でした。


セザール賞5部門受賞。『BPM ビート・パー・ミニッツ』のナウエル・ペレーズ・ベスカヤートが出演してますが助演。主演はアルベール・デュポンデル。彼が監督、脚本をつとめている。

公式サイトの雰囲気や、『パルナサスの鏡』が引き合いに出されているあたりで勘違いをしていたのですが、そんな楽しげで華やかな話ではないです。
『その女、アレックス』のピエール・ルメートル著の小説を原作にしている(という情報を知ってから観たらまた違ったかも)。

以下、ネタバレです。












主人公の男アルベールが警察に話を聞かれているシーンから映画は始まる。彼の過去回想で進んでいく。

塹壕で時間稼ぎをして休戦を待っているフランス軍が映し出される。ドイツ側も攻撃を仕掛けてこない。なんとなく意外な気がしてしまったけれど、前線の兵士たちは誰も戦いたくないのだ。当たり前だ、死にたくないもの。
ところが中尉のプラデルは、戦争したがりで、二人の兵士に様子を見て来いと命令する。こういう男がいるから無駄な死が増えるし、戦争は終わらないのだな…と思った。全員泥だらけなのにこの中尉だけはきれいなのも嫌な感じだった。
様子を見に行った兵士たちは案の定撃たれ、それを合図にしたように交戦が始まる。しかし、撃たれたのも後ろから=ドイツ軍ではなくフランス軍から撃たれているとアルベールは発見する。プラデルの仕業だろうとすぐわかるが、気づかれたのを知ったプラデルにアルベールは生き埋めにされそうになる。それを助けたのがエドゥアールで、彼はそれが原因で顔に消えない傷を負ってしまう。

この、プラデルとアルベール、エドゥアールの関係が戦後も因縁のように続いていく。

この先、アルベールによるプラデルへの復讐と、エドゥアールと父との関係が描かれていくが、人間関係が複雑に絡み合っていて、まったく別々の話のようで同時に進行していくのがおもしろかった。

エドゥアールは父との間に遺恨が残っているので、いっそ死んだことにしてほしいと言う。アルベールはそのアリバイづくりに奔走するが、墓の業者がプラデルで、しかも彼はエドゥアールの姉の夫になっていて、エドゥアールの家に住んでいた。プラデルは運転も乱暴だし、汚職を繰り返していて、戦時中に嫌な奴だった人間は戦争が終わっても嫌な奴のままだった。戦争は一人の人間に起こった一つの出来事に過ぎない。思えば、戦場で無理な指示をしてくる上官の戦後の生活の様子などは、映画ではほとんど描かれない。
アルベールにしても、戦争から戻っても働き口がなく、復職もできず、妻にも逃げられて孤独になっていた。

エドゥアールは絵が上手く、芸術的な才能があるようで、自分の怪我をした顔を隠すための仮面を作っていた。この仮面の数々がどれも個性的で、セザール賞衣装デザイン賞受賞も納得。ただの仮面ではなく、ちゃんと感情が示されているのがおもしろかった。口がへの字の仮面の口の部分を逆にしてにっこりさせるのもいいアイディアだと思った。特に詐欺のカタログが出来上がったときの悪い顔の仮面は笑ってしまった。
ナウエルはほとんど顔が出ない。上部だけ出ている時もある。しかし、パントマイム的な手の動きと仮面の表情だけで感情が伝わってくるのだから、演技力があるし、難しかったと思う。また、『BPM』の次が本作なのだから振り幅がすごい。

アルベールは死んだことになっているエドゥアールの墓の案内などをして、エドゥアールの家族とも会い、仕事まで紹介してもらう。そこで父親はエドゥアールのことを決して嫌っていないことも知るが、エドゥアールは聞く耳を持たなかった。
エドゥアールは自分の絵の才能と戦没者慰霊碑が求められていることを知り、慰霊碑のデザイン詐欺で儲けようとする。金だけせしめて慰霊碑は作らないという詐欺です。
しかし、回り回って、地元の有力者である父の元へデザイン画がたどり着き、息子が生きているのではないかと気づく。
父と息子は対面するが、この時のエドゥアールの仮面も良かった。かなり派手でリアルな孔雀の頭。しかし、目の部分はエドゥアールの目なので、父を見つめる目は見えるし、父もきっと本人だと確信したと思う。そこで仲直りをしたようにも見えたが、エドゥアールはそのまま屋上から飛び降りてしまう。普通の鳥ではなく、孔雀なのも意味があった。綺麗だが飛べないのだ。

プラデルは自分の悪行で自爆した面も強いんですが、部下の妻と知らずに不倫して部下に逃げられる、汚職がエドゥアールの父にバレる、エドゥアールの姉にも愛想をつかされる。そして、アルベールの前で半ば事故のような形で生き埋めになって死ぬ。因果応報です。

さらに、ずっとアルベールを尋問していた警察(国境警備隊みたいな人かも)は、休戦間近の時にプラデルが様子見をさせに行った兵士の親だった。彼の復讐も一緒に遂げていたのだ。そのため、無事に国境を越えさせてもらう。

情報は入れないようにしていた面もあるんですが、雰囲気的にミステリアスな仮面の男(エドゥアール)とそれに巻き込まれる普通の男(アルベール)が、フランス各地で興行を繰り広げる友情珍道中ものかと思ったら違った。
興行的なシーンは、エドゥアールが催すパーティ一回だけです。

このパーティでも、各国の指導者たちを模した仮面を被った人物たちをシャンパンで撃っていくというシーンがあったが、本作は思っていた以上に戦争映画だった。戦時中の話が序盤に少し、あとは戦後ではあるんですが、戦争自体が終わっても人々の心の中に残った傷は癒えない、人との関係も終わらない。簡単には戦争は終わらないというのがよくわかった。
普通は、終戦を迎えた時点で映画も終わってそこでめでたしめでたしとなる作品が多いと思うが、本作はその先と過去も少し描かれていて、戦争は人生の中での出来事の一つに過ぎないのだと気づいた。そんなことすらわかっていなかったのだ。





本年度アカデミー賞作品賞受賞。でありながら、異論が噴出している作品。
できることならこんな先入観は無しに観たかった。
監督は『メリーに首ったけ』のピーター・ファレリー。
主演はヴィゴ・モーテンセンとマハーシャラ・アリ。マハーシャラ・アリは各映画賞の助演男優賞を受賞しています。ただ、映画を観ると、助演というよりは主演級に思えた。

以下、ネタバレです。










ヴィゴ・モーテンセン演じるトニーはクラブで用心棒として働いていた。チップを騙し取ったりなどしていて、あまり品はない。家に来ていた業者が黒人だったときに、彼らが使ったコップを捨てるなどする人種差別主義者。
そんな彼が、上品で金持ち、カーネギーホールの上に住むピアニストのドクター・ドン・シャーリー(マハーシャラ・アリ)の運転手として働くことになる。

衣装などからはそれほどよくわからなかったけれど、舞台は1962年。特にアメリカ南部では人種差別が行われているが、ドクは自ら進んでツアーに出かけて行く。

グリーンブックというのは、黒人が泊まることのできる宿を記載した本。南部の奥に行けば行くほど、汚いモーテルになっていっていた。
年代がわからず観ていた序盤、トニーが、泊まる場所は同じ場合もあるし違うこともあると言われていた時に、運転手だからトニーの泊まる場所のランクが下がるのかなと思っていたが違った。

また、演奏をする場所でもトイレは別だし、バーに行けば黒人というだけでいちゃもんをつけられる。レストランにも入れない。それは南部に行けば行くほど酷くなっていく。

序盤、面接の時のドクは本当に王族のような服装だったし、後部座席に座っている時も姿勢良くきりりとしていた。言葉遣いや身のこなしが上品。
対するトニーはあらゆる面で粗野。やめろと言っても車内でタバコを吸うし、吸い殻やゴミも外へ捨てる。文字もうまくかけない。
フライドチキンも車内でぼろぼろこぼしながら手づかみで食べていた。ドクはそれを見て顔をしかめていたが、怖々食べてみて、トニーに心を開き始める。
(しかしその後、セレブの食事会でフライドチキンが出されるのは強烈な皮肉。良かれと思ってやったことが差別になる)

ツアーをしながら正反対の二人が仲良くなるロードムービーなのだが、やはりどちらかというと、トニーの心は変化するが、ドクの心はそこまで変化しない。というのも、ドクは最初から、なんか粗野で嫌だなとは思っていたと思うが、その程度である。黒人が使ったコップを捨てていたところからスタートするトニーとはわけが違う。

ただ、トニーも要は単純なんですよね。保守的な家庭で育って周りがそうだったからというだけで差別していたけれど、ちゃんと付き合ってみれば、別にすぐに考えは変わる。

それよりはドクの心中が気になった。序盤は人種差別主義者なのがわかっていながらトニーを雇った。おそらく、腕っぷしを買ったのだろう。それは、南部へ行って、自分が暴力にさらされるのがわかっていたからだ。
兄とは疎遠だと言っていた。一体何があったのかは明らかにされないし、トニーは単純だから、こっちから手紙書けよなどと言っていたが、おそらく修復不可能なのだと思う。それは、同性愛者であることも関係しているのかもしれない。
白人の前で演奏することの葛藤をしめすシーンにも泣いた。感情を吐露する演技が本当にうまく、マハーシャラ・アリ、さすがの助演男優賞だなと思った。この先もたくさん賞をとりそう。演奏後ににこっと笑うのも、上品な振る舞いも、知性も、感じを良くして馬鹿にされないように、もっと言うと、暴力を振るわれないように必死に身につけたものなのだろう。
6年前に黒人のミュージシャンが袋叩きにあった場所にツアーに出る。彼の勇気だと言われていたけれど、たった6年である。いつ暴力を振るわれてもおかしくない。実際、ステージ以外の場所では殴られることもあった。それでも、事態を変えていくためには、出かけて行かなくてはならない。そのために身につけたピアノの技術であり、身のこなしなのだ。

後半、黒人ばかりのバーでくだけた感じで演奏をした時にも、演奏後に営業スマイルを見せていて、あ、癖になっちゃってるんだな?と思った。また、そのバーで現金を出していたのは、気が緩んだのだろう。白人ばかりの場所では決して見せないだろうし、気を張っていると思う。ほぼずっと、気を張って生活しているのだと思う。

それに比べると、イタリア人とはいえ、白人のトニーはあらゆる面で気楽に見えたし、自分は気楽だったなと気づいたと思う。
でも、アカデミー賞関連で反感をおぼえられたシーンは、銃で脅してドクを救うシーンなのかなとも思った。

あと、実話だから本当のことなのかもしれないけれど、最後もトニーがドクの“お城”に向かってほしかった。クリスマスに大家族がわいわい集まっているトニーの家。逆にお手伝いさんも帰してしまい、一人きりのドクの家。トニーは家で難しい顔をしていたのだから、彼が動くべきだった。シャンパンを持ってトニーの家を訪れるドクも、それも勇気なのかもしれないが…。でも、最後まで彼に勇気を振り絞らせてどうする。あのあと、保守的なトニーの家族はちゃんとドクを受け入れたのだろうか。トニーが受け入れたように、しっかり話せばわかるのだろうか。ドクが嫌な思いをしていないといいなと思う。

終わり方はふんわりとしていて、何も解決していないといえばしていないが、人種問題が解決してない時代の話なので仕方ないのかなとも思う。
でも、レストランに入れてもらえなかったり、黒人というだけで夜間外出して収監されたりと、劇中で感じた怒りがふわっとしたもので誤魔化されて、なんとなくいい話としてまとめられていることも事実。
この二人だけの話として考えれば、とも思うけど、それも視野が狭すぎる。

マハーシャラ・アリは多くの白人に観てほしくて、敢えて白人監督の映画に出たそうだ。確かに観やすさはある。鑑賞後に爽やかな気持ちになるのも悪くない。でも、だからこそ一方で反感を持たれるのはわかる。

正反対な二人のコミカルなやりとりはおもしろかった。でも、アカデミー賞というには…?という疑問が呈されるのもよくわかる。でも、『ブラック・クランズマン』については依然公開されていないのでどちらがどうとは言えないのも…。

内容は関係ないですが、おいしそうな食べ物が次々に出てくる映画でもあった。フライドチキン、食べたくなりました。