『トランス』


答え合わせを兼ねて、日本語字幕付きで二度目。どんでん返しがあるから二度目も楽しめるし、細かい、
でも重要な部分でわかっていない部分がいくつかあった。
以下、ネタバレです。




字幕なしでわからなかった部分ですが、まず、最初のほうのサイモン(ジェームズ・マカヴォイ)が、フランク(ヴァンサン・カッセル)と組んでたことをエリザベス(ロザリオ・ドーソン)に告白するシーン。ギャンブル中毒だったのもわからなかった。

あと、ヘアー関連のもろもろ。画集のページが切り取られたことと、エリザベスの毛が無いことが関連しているとは思わなかった。すごく重要な部分だった。
真っ裸でバスルームから出てくるシーンがあって、イギリスで観た時に毛が無いのでぎょっとしたんですが、そこに理由があるのが英語が聞き取れなくてわからなかった。
イギリスだとR18だったのはこのシーンのためかと思われますが、日本だとR15で股間にぼかしが入っていた。ぼかしが入るのは仕方ないにしても、なんで黒いぼかしにしちゃうのか。エリザベスが「好みはわかってるから準備してくる」と言ってバスルームへ行き、毛を剃るような音が聞こえていたし、あとから言葉 で説明されるから、ああ、あのシーンは毛が無かったのね…となんとなくわかりますが、ぎょっとすることがないのは残念。『ハングオーバー2』も同じですが、別に観たいわけじゃないけど映ってるとぎょっとするじゃないですか。だからR18のほうがいい。ソフト化されたときどうなるのか。

あとは、“BRING TO ME”。何を、と思ったら、絵のことだった。エリザベスは最初から仕向けてたのか…。

大筋はわかっていたとはいえ、結構重要な部分が理解できていなかった。いろいろとすっきりして、話が深く楽しめました。


逆に言えば、サイモンがどんどん印象を変えて行くのはセリフではなく、すべて映像で描かれている。ジェームズ・マカヴォイの演技力にまんまと騙されたわけです。

大体、マカヴォイが髭が無くて可愛い顔なのがズルい。最近わりともさもさと髭をはやして映画に出てるのに。あんなベビーフェイスでは信用してしまう。
しかも、序盤の、仕事を真面目にしていたり、ギャングに脅されているだけといった風だったり、素敵なセラピストに好意を抱いていく様など、感情移入してしまう。

しかし、彼の頭の中が少しずつ明らかになるにつれ、おかしな部分が見えてきて、感情移入できなくなっていく。それと同時に、ギャングであるはずのフランクがまともに見えてくる。最初はサイモンの味方として観ていて、フランク酷いヤツと思っていたけれど、途中から誰も信用できなくなってしまう。

エリザベスもエリザベスで、サイモンとフランクどちらにも良い顔をしていて信用ならない。しかも、彼女は催眠術で人の心を操ってしまうから、もうどれが本当かわからない。

そんな中でフランクとエリザベスが関係を持って、別れ際に「また会える?」と言うシーンがあるんですが、あそこだけは本当なのが際立っている。ここの照れるヴァンサン・カッセルがすごく可愛い。やっぱり恋に落ちるシーンはいい。初めて、フランクというキャラクターの感情がちゃんと見える。ここを境にして、頭の中で主役がサイモンからフランクへと徐々に変換されていった。この視点の変え方がうまい。

でもサイモンも、エリザベスのことが好きすぎ ただけなので、可哀想といえば可哀想。記憶を消されても、また好きになる、また彼女を選んでしまうというのが切ない。この面は、最近だと『オブリビオン』『劇場版銀魂』『ワイルド・スピード EURO MISSION』と同じ。本来ならロマンティックなのだけれど、ストーカー気質となると、少し意味合いが違うか。
あと、わりと序盤で、エリザベスが催眠状態を長く継続できる話をしていて、これはサイモンの状態ことを言っているのだなとわかり、二回目ならではの鑑賞をすることもできた。

催眠状態のサイモンが見ている映像(体験してること?)が独特で、夢みたいなものなのでファンタジー混じりなんですが、作りがとてもダニー・ボイルっぽい。
現実に起こったことと頭の中での創作が混じっていく。どこまでがホントでどこからがウソか、人の記憶のあやうさがよく表されている。
ガラス窓を叩くシーンが各所に出てきますが、これは、現実ではおそらく、心が遠くにいってしまったエリザベスの気をひくために叩いていた。執着心の現れみたいなものだろうか。
ガラスを叩くシーンは海外版の予告編で効果的に使われていたけれど、日本版では一瞬しか出てこなくて残念。
家に届けられた荷物をうきうきで開封する映像と、赤いアルファロメオに乗ってる女性がエリザベスに見えて混乱する映像が特におもしろい。確信に近づくにつれて、音楽も盛り上がって行く。サイモンと同じように、観客も高揚感を味わうことができる。

この映画に限ったことではないですが、ダニー・ボイル映画は音楽が恰好いい。凝った映像とよく合っていて、PVのようになっている部分もある。今回もその催眠術のシーンだけでなく、画像を見せながらCTで脳波を調べるシーンのデジタルっぽい曲も良かった。それで、誰かと思ったら、リック・スミス、アンダーワールドの人でした。そりゃ、いいに決まってた。

エリザベスはサイモンの記憶が蘇ったら殺されるかもしれないというリスクを冒して「私はあなたを助けられる」という話をもちかけたのは、絵のためなんでしょうか。最終的に絵を手に入れてご満悦っぽかったのでそうなのかな。

ラストシーンのボタンを押すか押さないか、押せるわけねえじゃねえかのヴァンサン・カッセルも可愛くてニヤニヤしてしまう。ヴァンサン・カッセルは『イースタン・プロミス』のドラ息子役も可愛かったですが、今作でかなり好きになりました。

ところで、ここでタブレット端末を届けにくる人が、サイモンの頭の中に出てきた人と多分同じなんですが、意味があるんだろうか? もしかして現実じゃないなんてことは…。

『クロニクル』


首都圏のみ、二週間限定での公開…だったけれど、結局、好評だったためか、首都圏以外での公開も決定し、
二週間という期間も延長された映画館も出た。1000円均一ということは、Blu-rayとかDVDの上映なのかもしれない。それでも、大きなスクリーンで観られて良かった。
以下、ネタバレです。







低予算だからPOVのファウンド・フッテージなのかと思ったけれども、そうではないのかもしれない。前回観た時よりも、より工夫に気づくことができた。
ただのモキュメンタリーではないのは、手持ちカメラだけでなく、超能力によってカメラを浮かせている映像も出てくる点だ。ゆらゆらと不安定だけれども、俯瞰の映像で浮かせている撮影者である人物も映っているのがおもしろい。普通のモキュメンタリーならば、撮影者は自撮り以外では映らない。空から落ちてきて叩き付けられるカメラなども超能力ものならでは。

画面がゆらゆらしていることで、超能力の具合もわかる。あり得ないはずの超能力を実感させるのにもってこいの方法だと思う。最後のほうで、アンドリューが叫んだ時にカメラにヒビが入るのも、そのパワーに説得力を与えている。

手持ちのビデオカメラだけでなく、病院の監視カメラやパトカーの車載カメラなどに切り替わることによって、それまでの撮影者がカメラを持てない場合でも状況を追えるようになっているのも工夫の一つ。

主役のアンドリューのカメラですべてを記録するというようなモノローグで始まるが、マットの彼女もブログ用に常にカメラを回している。アンドリューに車ごと持ち上げられた時の映像は、まるで観客も車に乗っているような臨場感が味わえる。この場合、アンドリューの視点では持ち上げられた車が映るだけで面白くない。視点を車の中に置いているのも、映像づくりの工夫だと思う。大体、あの状態のアンドリューはもうカメラを回す余裕はない。

ファウンド・フッテージものに共通していることだとは思いますが、どんな場でも、顛末を一番近くで見ているような感覚になる。息をつく暇がないので、真剣に観ているとかなり疲れるし、こんなに近くで観ているのに、事態がどんどん悪くなっていくのになんの手出しもできないのがもどかしくなる。

あと、アンドリュー、マット、スティーブは互いの名前を呼び合うシーンが多く感じた。これは、誰が撮影しているか、わからなくならないようになのかな。

それにしても、デハーン演じるアンドリューの性格がかなり面倒くさい。怪我をして消防士を辞めることになって家にいる父の影響だと思うので仕方がないとは思う。そして、あの捻曲がり方は思春期特有のものだとも思う。それにしても、スティーブやマットに比べると子供すぎる。

友達のいなかったアンドリューに、秘密を共有するような形で友達が出来た。悪ふざけで超能力を使っているときのはしゃぎようは良かったけれど、子供なので、同じように怒りに任せて力を使ってしまう。スティーブもマットもいたずらにしか使っていないのに、アンドリューだけだ。

カツアゲに行く時に消防士の服を着るのは、父親への復讐の気持ちもあったのかもしれないが、おそらく姿を隠していればバレないと思ったのだろう。しかし、あっけなく声でバレてしまうあたりが、読みが甘いというか、想像力の無さは、やはり子供なのだ。用意をしているときにデヴィッド・ボウイの『ジギー・スターダスト』がかかるのは、アンドリューがジギー気取りなのだろうか。“Like a leper messiah”、そしてその末路は…。

童貞卒業できそうだったときに吐いたのは、超能力で人気者になってしまったことの自責の念かなとも思ったけれど、きっとそこまで考えてない。ただ単に緊張しただけだろう。でも、そこで拒まれたことをきっかけにして、どんどん事態が悪化する。

人に拒まれる。父親にも嫌われている。誰も愛してくれないけれど、俺には超能力がある。それで、力を爆発させるけれど、もし、マットが取り返しがつかないことが起こった後のチベットじゃなくて、アンドリューにちゃんと好きだと伝えていたらどうなっていただろう。「言う機会が無かったけれど…」と言っていたけ れど、ちゃんと言われないと、アンドリューにはわからないだろう。マットに好かれているということがわかったら、アンドリューももう少し救われたかもしれないのに。心の拠り所になるようなものがあったら、まったく違っていたのではないか。結局、さみしいだけなのだから。

マットは最後、カメラに向かって「正体を必ずつきとめる」とは言っていたが、その場にカメラを置いていってしまう。だから、マットが正体をつきとめることがあっても私たちにそれが知らされることはない。つまり、続編はありえない。やっぱり、超能力の正体はわからないままなんだろうという点でのもやもやは相変わらず残った。


ゾンビの男の子が人間の女の子に恋をする、ゾンビ・ミーツ・ガールものだと聞いて興味はあったのですが、監督が『50/50』のジョナサン・レヴィンだと聞いてますます観たくなって、主演のゾンビ役がニコラス・ホルトだと聞いて観るのを決めました。
『50/50』 を観た時に、ジョナサン・レヴィンはジェイソン・ライトマンと作風が似てる?と書きましたが、今回は別に似ていなかった。人物描写は『50/50』のほうが丁寧だったと思う。ただ、変わった題材の見つけ方と曲の使い方のうまさはこの監督らしさなのかもしれない。他のも観てみたい。

以下、ネタバレです。







最初から、ゾンビのモノローグなのがおもしろい。ゾンビがものを考えてるなんて思いもよらなかった。そして、ものを考えているというのがわかると、ゾンビなのに怖くない。人間を食べるシーンも多少出てくるけど、ホラー映画がだめな人でも楽しめると思う。

アクションやバトルシーンも出てきますが、ラブコメにカテゴライズしていいのではないかと思う。
ゾンビゆえの負い目や躊躇、考えてはいるけれど呻くばかりでうまく喋れなさや、動きの緩慢さ。それは、好きな女の子の前でやると、そのまま不器用な男の子や童貞性に置き換えられる。
うまく喋れないから気持ちを代弁するような曲をかける様子は、まるでラブソングを集めた自作カセットテープを好きな女の子にあげる行為のよう。
同じ部屋の床に寝ていいよと言われたときの戸惑いや、着替えを見ちゃいけないと思いつつ目が離せない様子などは、本当に青春ムービーのようでした。
ゾンビだから、記憶をなくしていて、自分の名前もRまでしか思い出せない。だから、ピュアで女の子への接し方もわからないあたりがかわいい。女の子が活発なタイプなのもいい。

ラブコメ面では文句なしだったんですが、バトルシーンはちょっとお粗末かなと思った。ゾンビより更に悪い者としてガイコツというのが出てくるんですが、CGがあまりうまくない。それに、こんな第三勢力が出てきちゃったら、ゾンビと人間は結託するんだろうなというのがなんとなく予想できてしまう。

それでもラブストーリー側のことは予測できない。そもそも、ゾンビ・ミーツ・ガールというのが前代未聞だから、終わり方が見えない。
彼女のことを文字通り食べちゃうのかもしれない。Rが人間に頭を撃たれて死ぬかもしれない。

ストーリーが雑な部分はいくつかあった。
ゾンビはゆっくり歩いているけれど、走って追いかけてくるタイプもいたみたいだった。どちらかに統一されてないの?
関係がうまくいっていなかったとはいえ、彼氏を食べてしまったゾンビをそんなに簡単に好きになれるものなの?
ラスト付近でRは胸を撃たれていたけれど、人間に戻りかけているならそれが致命傷にはならないの? 痛みが嬉しいとか言ってる場合ではないのでは?
ゾンビと人間が共存することになったのはいいけど、ゾンビは人間を食べたくはならないの?
そもそも、ゾンビが生き返るってなんなの?

『50/50』は人物描写が細かく丁寧で、ジェイソン・ライトマンに作風が似ている監督さんなのかと思ったけれど、粗も目立つ今作では、あまり似ている感じはしない。

それでも、そんな話の整合性とか細かい部分なんてどうでも良くなるくらい、ニコラス・ホルトが演じるRはゾンビのくせにとてもキュートで、彼の恋を応援したくなる。ゾンビだけれど、恋に落ちる瞬間が描かれている映画がやっぱり好きです。もちろん、人間に戻ったいつものニコラス・ホルトも恰好いい。そして、いろんなことはもういいかと思えるハッピーエンド。


原作があるとはいえ、今回も題材のチョイスの仕方が独特で面白い。あと、曲の使い方が若い監督らしくて、好みでした。
同じ部屋で寝ていて、Rが夢を見た次の朝、彼女が外に出て行ってしまったときの曲が良かった(Chad Valley『Yamaha』)。
気持ちを代弁するレコードも、レコードゆえに少し古めのボブ・ディランやガンズなどが使われているのもいい。
ゾンビのRに人間らしいメイクをするシーンで、プリティーウーマンのテーマ曲をかけちゃうお遊びもあり。

お遊びといえば、人間の町にこっそりRが来た時に、バルコニーから彼女が顔を出すんですが、ロミオとジュリエットっぽいと思って観ていたら、やっぱりあれはオマージュだったらしい。


ジョン・マルコヴィッチが出ているのを知らなかったので驚いた。あと、パンフレットを読むまで、彼氏役の俳優さんデイヴ・フランコがジェームズ・フランコの弟さんだって知らなかった。『グランド・イリュージョン』にも出るらしいです。

エンドロールにトム・フォードがヴィジュアルなんとかでクレジットされていた。ニコラス・ホルトのことになると口出してくる感じなのかな。と思って調べてたけど、どこにも何も書いてなくてもしかしたら、トム・フォードなんて書いてなかったのかもしれない…。
(追記:ヴィジュアル・エフェクト・プロデューサーとしてクレジットされていたトム・フォードはデザイナーであり『シングルマン』の監督であるあのトム・フォードとは別人のThomas F.Ford IVという方。1996年からヴィジュアルエフェクト関連の仕事をしているベテラン)


去年も行ったのですが、沢の鶴プレゼンツで日本酒の試飲会と映画の上映と字幕の戸田奈津子さんのトークショーのイベント。
今年は『ユー・ガット・メール』でした。

1998年公開。たかだか15年前ですが、Eメール界隈はかなり変わっていることがわかった。それぞれの持つノートパソコンが厚い。トム・ハンクス演じる金持ちが使っているのがIBMで、メグ・ライアン演じる小さな書店の店長が持っているのがMacというのも、背景がいろいろわかって面白い。Macのリンゴマークはもちろん虹色です。
そして、メールを受信する時に聞こえるダイヤルアップ接続音! 懐かしすぎる。

本屋が舞台のロマコメということで、少し『ノッティングヒルの恋人』を思い出したりもしました。
この手の話にしては119分と少し長く、映画を観ている側はメールをしているのが二人だとわかっているので、ネタばらしまでがいろいろともどかしい。
また、自分だったら、メールをしている相手のことを好きになっても、それが自分の経営している小さいけれど大切な絵本屋をつぶした人だとわかったら、好きにはなれないと思った。

ただ、この話には原作があって、そこだと絵本屋を裏切って金持ちと一緒になったことで同僚から総スカンのあげく、大型本屋のオープンと同時にフラれるという散々な終わり方をするらしい。それならこの映画の通りのほうがいい。

脚本・監督ノーラ・エフロン、主演トム・ハンクス、メグ・ライアンという組み合わせは『めぐり逢えたら』と同じ組み合わせとのこと。ノーラさんは読書エッセイの中で、『スマイリーと仲間たち』の感想として、「ジョン・ル・カレ以上にスマイリーのことが好きになった」「彼の傷を癒してあげたい」などと書いているキュートな方らしい。
戸田奈津子さん曰く、ロマンティックになりすぎず、コメディになりすぎず、ロマコメのバランスの取り方が上手い方とのこと。

ただ、映画中、二人がよく喋るので、字幕をつけるのが大変だったらしい。すべて訳していると、画面上が文字になってしまう。大抵、一秒に三文字くらいしか読めないので、意味が通じるように縮めるのが大変だったらしい。

例えば、
I met Margaret in San Francisco.
は三秒くらいで言えるけど、そのまま訳すと
私はサンフランシスコでマーガレットに会った。
と九文字をゆうに越えてしまう。そのため、地名をあの町にしたり、人名も意味が通じるならば彼女などに置き換えるらしい。

また、戸田奈津子さんはTIFFで来日するトム・ハンクスの通訳もつとめるらしいですが、彼のことを悪く言う人はいないと言っていました。
映画の主演をつとめる人は、監督と一緒にスタッフにも信頼されなくてはいけないから人柄も大事とのこと。顔がいいだけの人は一本二本で主演作を持てるかもしれないけれど、すぐ消える。常に第一線にいる俳優さんは、みんな素晴らしい方らしいです。

試飲させていただいたお酒はさっぱりしていてとても飲みやすく、日本酒なのに度数が低めなので酔わない点が良かった。映画鑑賞のお供にも最適でした。


園子音流の少し血が多すぎるコメディ。最近、どちらかというと社会派な映画を撮ることが多かったけれど、監督を数話でつとめているエロコメドラマ『みんな!エスパーだよ!』が面白かったため、期待してました。
やくざの組長が獄中の妻のために映画を作るということで、『アルゴ』っぽいのかなと思ったらそうではなかった。

トロント国際映画祭でミッドナイト・マッドネス部門というよくわからないあやしそうな部門の観客賞を受賞しているらしい。

以下、ネタバレです。





親に反抗する組長の娘、その娘に恋する男、対立する組同士、映画一筋の男、その男と長年つるんできたが疑問を感じ始めた主演俳優…。登場人物たちがそれぞれ別の方向をむいている。しかも、キャラクターが濃いのでまったく収拾がつかない。
前半はカット数が多く、ちょこまかと落ち着かない。しかし、一つの出来事に向けて話が動いていくのがわかる。

その出来事というのが、本作のクライマックスでもある討ち入りシーンを映画に撮るシーン。バラバラだった全員があれよあれよという間に、冗談みたいに巻き込まれて集結していく。その過程にはわけのわからないスピード感がある。

両者が入り乱れて日本刀で斬り合うシーンを撮影していく(混ざるので片方が和服を選んだのだと納得)。しかも、カメラマンも音声さんもやくざという冗談だか本気だかわからない画面。
斬りつけて大量に血が吹き出るのでエグさもあるけれど、首が吹っ飛び、手首が吹っ飛び、頭に刀を刺されても死に体で動いている姿などを見ていると、だんだんギャグに思えてくる。行き過ぎた描写で残虐性が排除されていて、見ていて痛さを感じない。

出演者の殺陣の恰好良さと、大人数の斬り合いと、室内を真っ赤に彩る血液と、その中で大興奮で撮影し続ける映画仲間ファックボンバーズ。映像からものすごいパワーみたいなものを感じて圧倒的される。
『愛のむきだし』の満島ひかり登場シーンや、『冷たい熱帯魚』のでんでんを思い出す。理屈抜きで映像に釘付けになってしまう、あの感じが戻ってきた。

セリフが変に芝居がかっていたり、主演俳優にブルースリーの黄色いトラックスーツを着せたりと、ファックボンバーズの監督平田はかなりコミカルに描かれている。
そのため、こんな監督が日本の金をかけた映画のことを嘆いたり、映画のことを熱く語っていても、映画讃歌なのか、その様子を馬鹿にしているのかわからない。
園監督自身ももうそれほどマイノリティでもない気がするし、園監督の言葉を代弁しているのではないかもしれない。
とにかくすべてにおいて、冗談と本気の境目がわかりづらい映画なので、平田というキャラクターのとらえ方もどうしていいかわからなかった。

しかし、ラスト、自分も撃たれながらも、ふらふらの状態でフィルムと音声を回収して「ヤッター!」と叫びながら夜道を走る様子は、冗談ではなく本当の映画バカだし、そんな姿は妙にエネルギッシュで、観ている側は元気になれる。

小さい場末の映画館はもう開店することはないし、首をはねられた組長は、首に包帯巻いて実は生きていましたなんてこともない。拍手は起こらない。それでも夢は見ていられる。

やくざモノと映画愛に満ちた青年たちの青春物語をよく混ぜたと思う。しかも、全員一癖も二癖もあって、まともな人が出てこないのに、よく一本の映画にまとまっている。
まさに、唯一無二、こんな脚本みたことないです。

更に、エンドロールの最後に、“監督・脚本・音楽:園子温”と出て驚いた。音楽も園監督でしたか。
ということは、あの耳に残る劇中内CMソング♪全力歯ぎしりレッツゴーもかな、と思って調べてみたら、作詞作曲ともに監督自身によるものでした。頭の中で延々と流れてしまう感じがCMソングとして非常に優秀。

映画館で音が結構大きかったんですが、バルト9だからか映画の方針なのかは不明。でも、大音量で観て気持ちのいい映画です。 



『奇跡』


2011年公開。最初にジェイアール東日本企画の文字が出るんですが、JR九州とジェイアール東日本による九州新幹線全線開通記念の企画ものとのこと。

両親が離婚して、母方と父方に別れて暮らす兄弟の話という情報しか知らなかったので、『そして父になる』のような家族ものなのかと思っていたけれど、どちらかというと子供たちの冒険映画でした。もちろん家族ものの側面はありつつも、子供主体だし、学校でのシーンも多い。

『そして父になる』でも両方の家の子供がいきいきと描かれていたが、今回は子供中心なので、より一層輝いている。そして、『そして父になる』の子たちよりも少し大きいので、しっかりとした意見を持っているあたりも面白い。

主演がまえだまえだなんですが、名前となんとなくお笑い?みたいなところまでしか知らなかったのも良かったのかもしれない。先入観がまるでなかった。姿見たのも初めてでした。
この二人はやっぱり少し慣れているのか、ちゃんと演技をしている部分もある。天真爛漫で場所にすぐに適応しちゃう弟と、いつまでも元の家族と元の生活が忘れられないしっかり者の兄。しっかりキャラクターも作られていた。そして、そのキャラクターが二人に合っていて良い。
電話で空気を読まずに野菜の話をするところや、女の子に囲まれているところなど父親に似ているし、新幹線に乗る金の工面の仕方も兄がおもちゃを売ったりしているのに対して、弟は直接父親に交渉するなどシンプル。兄弟の性格の違いがよく出ている。

演技をしているシーンも良かったけれど、たぶん勝手に喋らされているんだろうなと思うシーンも良かった。
大 きくなったら何になりたい?という夢について、丸くなって話すシーンや、はじめての熊本の町を散策するシーンはまるでドキュメンタリーのようだった。子供たちがかたくならずに素の表情で映っている。熊本で知らない人の家に泊まった夜のまるで修学旅行のようなはしゃぎっぷりも良かった。

新幹線がすれ違う時、子供たちがそれぞれの願い事を叫ぶけれど、その願い事でそれぞれの性格がわかりやすかった。
「女優になりたい!」と叫んだ子は、たぶん願いを叫んだことで自分の心がかたまったのだろう。家に帰った後、東京へ行くと親に宣言をした。
先生と付き合いたいと言っていた子は、結局は「父ちゃんパチンコやめてー!」と叫んだ。一番の願いはそれだった。
飼い犬が死んでしまった子は生き返ってと叫んだが生き返らなかった。それで死を受け入れたのだろう。
弟が叫んだことで、父親のバンドが番組に出ることになった。奇跡もちゃんと起こっていた。
そして、兄は「桜島火山が噴火して鹿児島に人が住めなくなって、また家族が一緒に暮らせますように」という願いを結局口にできなかった。「家族より世界を選んだ」と言っていたが、一つ大人になった。鹿児島の自分以外の人々のことも考えられるようになった。
別れ際に弟に「父ちゃん頼んだで」と言っていたので、もう家族は元に戻れないというのを受け入れたのだろう。
新幹線に乗るだけで、小学生にとっては大冒険なのだ。冒険をして、みんなきちんと成長している。

子供主体の作品ではあるけれど、この大冒険はいい大人たちに囲まれていなかったらなし得なかった。お母さん、おじいちゃん、保健の先生、老夫婦など、周囲の大人たちのサポートする様子の描き方も素晴らしかった。

子供たちが願い事を叫ぶ前に、モチーフ映像が連続して出てくる。
ポテチの袋に残ったカス、体温計の液晶に映る40.1度、桜島噴火の絵を描いたあとの茶色赤黒の絵の具の乗ったパレット、老夫婦の家で出前でとった親子丼、灰にまみれた水着のパンツ、自販機の下の100円玉、地面に棒でかかれたバッターボックス、フラダンスの指先、 死んでしまった犬のマーブル、駅にいた幸せそうな四人家族の後ろ姿、一口かじった鹿児島特産和菓子かるかん、自転車のベルを先生が指で魅力的にはじく様子、出発進行の駅員さんの指先、手の平に乗せたコスモスの種、笑顔の兄弟が二人一緒に写ってる写真、父親のインディーズCDのジャケット…。
これらはそれぞれ、映画内では映っていなかったものだ。自販機の下でお金を発見するシーンは出てきた。ポテチの袋に残ったカスが一番おいしいという話は出てきた。脇の下で擦ると体温計の温度が上がるから仮病に使えるという保健の先生のアドバイスは出てきた。だけど、実際には100円玉もポテチの袋の中も体温計の液晶も、その場では出てこない。
人物の顔が映らない、何気なく切り取られた写真のような映像ながら、本編で起こったいろいろな出来事をまとめて思い出すことができる。

この本編関連モチーフ映像は『ゴーイング マイ ホーム』のエンディングでも、手の平に乗せたもみじ、餅ピザが出来上がったところ、子供からのおじいちゃん退院祝いのカードなど同じ形で出てきた。撮影が同じ山崎裕さんでした。

途中で流れるギターインスト曲がおしゃれで良かったんですが、挿入歌でくるりが流れて、もしやと思ったらエンドロールで流れる曲くるりで、音楽はくるりでした。おそらく、電車と言えば、という感じで抜擢されたのだと思う。


2011年公開。ジョセフ・ゴードン=レヴィッド主演。
がんを宣告された青年が主人公ながらも、暗くならない爽やかな青春映画。脚本を書いた方が実際にがん克服経験のある方らしい。実話という表記は特になかったので、ストーリーは一応オリジナルなのかも。

セス・ローゲン演じる主人公の友達がとてもいい。常に主人公の近くにいて、がんを宣告された時の彼女との反応の違いも顕著で、彼女がいかにも悲痛な表情だったのに対し、友達は50パーセントなんて高い確率だと笑う。
その後の接し方も変わらず、同じ調子でナンパしに行こうと誘っていた。主人公ががん宣告された直後に暗い表情にならなかったのは、この友達がいたおかげだろうと思う。

最後、手術へ向かう主人公を抱きしめたのも友達だった。その後の手術跡に薬を塗ってあげるのも…って、少しべったりしすぎな気もしますが、ともかく、彼女よりもお似合いなくらいでした。

作風が少しジェイソン・ライトマンに似ている。軽い作風ながらも、しっかりと人物が描かれていて、最後は爽やかな感動が残る。ジェイソン・ライトマン35歳 (10/19で36歳)、この映画の監督ジョナサン・レヴィン37歳と年齢も近いので、世代的なものもあるのだろうか。

レディオヘッドの『High and Dry』が使われていたり、会話中にドギーハウザー、ヴォルデモート、トータルリコール、ソウなどの単語が出てくるのも若い監督ならでは。重くなりがちな題材を仰々しくなく軽やかに、そしてリアルに描くのに役立っている。