ダニエル・クレイグがジェームズ・ボンドを演じる007シリーズとしては四作目。『カジノ・ロワイヤル』と『慰めの報酬』が続き物だったのに対して、前作、『スカイフォール』は単体でも楽しめる作品だった。今作は前の三作の総まとめという印象なので、人物名など忘れている場合は見返しておいたほうがいい。
また、今作は『スペクター』というタイトル通り、007シリーズ初期に出てきた悪の組織が出てくるため、過去作も観ておくとオマージュのようなものに気づくことができる。ストーリーは『カジノ・ロワイヤル』で仕切り直されているため、続きではない。なので、知識として知っているならば改めて見直す必要はないと思うし、見直さなくても話がわからなくなるようなことはない。
私は、過去作をほとんど観ていないため、『ロシアより愛をこめて』『サンダーボール作戦』『007は二度死ぬ』『女王陛下の007』を観ました。

以下、ネタバレです。







クリストフ・ヴァルツ演じる悪の大将みたいな人の名前がブロフェルドだと明かされたときにニヤリとした。最初、ヴァルツが白いペルシャ猫を撫でていないことに少しがっかりしたけれど、中盤で白猫がうろうろしていたときは嬉しかった。爆破の後、片目を怪我して出てきたときも、『007は二度死ぬ』と同じ姿なこともわかった。できることなら、ここでスキンヘッドになってくれると尚良かった…(けれど、クリストフ・ヴァルツは後ろ姿でもわかるくらい頭の形が特徴的なので、スキンヘッドは似合わないかもしれない)。この辺は、過去の作品を知らないとわからないことだし、サービスだと思う。
私は『スカイフォール』で初めて007に触れて、Mやマネーペニーでニヤリとできなかったので、今回、基礎知識を入れておいて良かったと思う。

また、オマージュは『女王陛下の007』の雪山の頂上の謎施設と、スキー客がわさわさ乗って来て見失うところだろうか。どうせなら、スキーでの追いかけっこや雪崩を起こしてもらいたかった。そこまでやるとそのまんまになっちゃうし、別にここがメインではないからだろうか。

あとは、メキシコのパレードが『サンダーボール作戦』のオマージュかなとか、電車内での戦闘は『ロシアより愛をこめて』かなとも思ったけれど、そんなことを言っていたら何にでも当てはめられそうな気もするしわからない。

最初のメキシコでの建物崩壊から、崩れた壁を利用して滑り台のようにすいーっと下に降り、そこに都合良くソファがというコントのような流れ、そこからの垂直飛びやくるくる回る曲芸のようなヘリコプター。とにかく派手。
中盤の砂漠の真ん中の施設の建物の爆破も、砂漠だからいいだろとでも言うように、見たことがないような大爆発が起こる。
最後には、『スカイフォール』では少し爆破されただけだったMI6の建物も、爆発により崩壊。

建物の壊し方やアクションなどが派手なので、それに呼応するように話の流れなども大雑把である。これだけやっておいて、脚本が繊細だったらバランスがおかしいのでこれはこれでいい。

一番、おいおいそれは…と思ったのは、ボンドがブロフェルドの施設で拘束されていて、頭に針を刺されているシーン。かなりハイテク機器に見えるのに、ちょっと虚をついただけで、がっちりした拘束がとかれる。
それで、少し前まで頭に針を刺されていたのに、ふらつくこともなくスタスタと走って脱出する。

ここですごくボンドっぽいなと思ったのは、ちゃんと、ボンドガールであるレア・セドゥの手をひいているところ。一人で走って、その後ろに女性がついて走る…というようにはならない。

ここで虚をつくときに使ったのが、オメガの腕時計に仕組まれた小型の時限爆弾。運転している車の謎ボタンを押して、上部から飛び出してピンチを脱するシーンもあった(『ゴールドフィンガー』で助手席が同じ仕組みで飛び出すシーンがあった)。『スカイフォール』でも、小型発信器やグリップがDNAを認識してボンドしか撃つことができない銃などが出てきたが、Qの秘密道具が、より派手になっている。

ショーン・コネリー版を観て思ったんですが、ボンドはスーパーマンなんですね。絶対に負けないヒーロー。そして、傍らには綺麗な女性がいる。スパイガジェットを使いこなしてピンチを脱出。きっとこれこそが、ジェームズ・ボンドなのだ。今回の『スペクター』ではその要素がより濃く感じられた。

私はこれまでダニエル・クレイグ版しか観ていなかったし、映画館でしっかりと観たのも『スカイフォール』が初めてだった。だから、それがジェームズ・ボンドなのだと思っていたけれど、おそらく元々のボンドファンからしたら、普通のスパイ映画と変わらないと思われていたのではないだろうか。今作は昔の作品と比べてみると、より一層、ジェームズ・ボンドらしいのだと思う。それは、スペクターという昔からの悪の組織が出てきたせいもあるのかもしれない。悪の組織との対決である。ど派手にするしかないじゃないか。

ラスト付近、MI6内部でブロフェルドとガラス越しに対峙するシーン、ガラスの銃痕がスペクターのタコのマークになっていた。ここも、大写しになるわけではないし、なんの説明もされないし、実際に銃痕はこうはならないんだろうけれど、遊び心を感じてニヤリとした。現実味はない。

『スカイフォール』が深刻な調子だったのに対して、『スペクター』はどっかんどっかん敵をやっつけながらもりもり進んでいく感じだった。やはり同じダニエル・クレイグ主演であっても、雰囲気はまったく違うと思う。007っぽさでいったら間違いなく『スペクター』なのだ。
これは、どちらが出来が良い悪いではなく、単純な好みですが、私はそれでも『スカイフォール』のほうが好きだった。元々007シリーズのファンならばまた違った意見にもなると思う。でも、私は007シリーズというよりダニエル・クレイグ好きで『スカイフォール』を観たのだ。それで、とてもあの作品が好きになってしまった。ダニエル・クレイグが演じているのはジェームズ・ボンドなので、本当ならば今回の路線でいいのだと思う。でも、今回の路線でやるなら、(あの頃の)ショーン・コネリーのほうが合っている。ダニエル・クレイグがこれをやらなくても良かったのではないか。
ダニエル・クレイグもセクシーイケメンであることは間違いないのですが、彼はクールなタイプだと思う。この作風であれば、ショーン・コネリーボンドのような、匂い立つような雰囲気、胸やけするような濃さ、それでいて飄々とした感じ、胸毛、ニクらしいニヤけ顔などがあったほうがいいと感じた。

148分と上映時間が長いせいかもしれないけれど、登場キャラが多い。モニカ・ベルッチ演じる悪の組織メンバーの未亡人はもう少し活躍してほしかった。ボンドガールが二人とのことだったので、片方が悪役なのかなと思ったけれど、出番が少なかった。フェリックス・ライターも名前だけ出てきたけれど、本当はジェフリー・ライトが出てくると嬉しかった。
悪役も、クリストフ・ヴァルツはたくさん出てくるけれど、アンドリュー・スコットはちょこっとしか出てこなかったのが残念。最初、親しげな態度だったので、私が悪役と思い込んでいただけでもしかして仲間なのかなと思ったが、やはり悪役だった。送り込まれた悪役なので仕方がないけれど、クリストフ・ヴァルツとアンドリュー・スコットの会話シーンなどもあると良かった。一緒に映っているシーンがないのが残念。リーダーと末端のものなので仕方がないのか。
悪役、クリストフ・ヴァルツとアンドリュー・スコットではアクション的な見せ場がないと思われたからか、すっかり映画スターになったデビッド・バウティスタも出てくる。ボンドとの殴り合いなどは彼担当です。

ミスター・ホワイトがこんなに活躍すると思わなかったので驚いた。予告で何度も「You are a kite dancing in a hurricane,Mr.Bond.」のシーンは観ていたのに、あれがミスター・ホワイトだとは気づかなかった。本作ではスペクターの謎について話すし、今回のボンドガールは彼の娘である。
考えてみれば、『カジノ・ロワイヤル』ではお決まりのセリフ、「Bond,James Bond」が出てきたのは、ラストでミスター・ホワイトに名前を聞かれた時だった。『慰めの報酬』の序盤にも出てくるし、最初から重要人物だったのかもしれない。
『スカイフォール』には一切出てこないので、彼のことはダニエル・クレイグボンドの最初の二作を観ていないと、急に出てきても誰かわからないだろう。

今作ではマネーペニーやQが後方支援ではあるけれど、ボンドのサポートにあたっている。若い仲間たちは無理難題を言いつけてくるボンドに文句を言いながらも、彼のことを慕っているからしぶしぶと協力していて、その関係がとてもいい。Mも最終的には協力していた。いい上司。

Qはいつもはボンドと離れたところでパソコンをパチパチやりながら指示を出したりするんですが、見かねて雪山まで押しかけるんですけど、そこのベン・ウィショーの冬仕様の服装が可愛かった。もこもこしていた。
結局はそこでもお願いを聞いてしまうんですが、捨て台詞のように、「I really really hate you」と言っていたのが可愛かった。really二つも付けなくても。字幕ではあっさりと「腹が立ちます」となっていたけれど、それどころじゃない憎まれ口だと思う。
あと、クリスマスがどうのと粋っぽいことを言っていたのに、それが省略された言葉の字幕が付いていたのも残念だった。(「M has been Chsing me for Christmas decorations,〜」?)
なので、吹替でも観たくなりました。

最後、Qの一人アジトみたいなところにボンドが来て「忘れ物がある」と言うシーン、Qのことを迎えに来たのかと思ったら車だった…。「彼は新しいところに馴染めなくて一人でここに」みたいな話が最初に出てきたので、どこか新しい環境に連れ出してあげるのかと思った。Qも結構嬉しそうな顔していたし。あれでは、Qは独りきりでずっとあの場所で仕事をすることになってしまう。でも、別に一人でのほうが仕事しやすいタイプなのかもしれないしいいのかな…。




2011年公開。イタリアでは2010年公開。イタリア映画ですが、主題歌というかエンドロールの曲がなぜか中国語に聞こえた。

パスタとかアルデンテとかタイトルについていますが、別に食はそれほど関係がない。主人公が実家のパスタ工場で働くことになるくらいです。

主人公トンマーゾはゲイで、家族の前でカミングアウトしようと兄に相談する。実際の家族会議の場面で、兄が弟の秘密を話し始めるので、それは優しさではないぞ…と思っていたら、兄が自分はゲイであるとカミングアウトしてびっくりした。弟に先に言われたら自分が言えなくなると思ったのだろう。姑息である。その上、父親はショックで倒れてしまうし、工場を継ぐ者もいなくなってしまう。弟は、仕方なく工場で働くわ、カミングアウトはできないわで散々な目に遭う。

作家になりたいという夢もかなえられない、好きな人がいるのに工場で一緒に働く女性とくっつけられそうになる、その好きな人も男性なので家族に紹介できない…。トンマーゾはあらゆることを我慢して、耐えて、自分を偽って生きている。
父母、特に父親が古いタイプの人間で、理解がないと大変ネーなどと思って観ていたけれど、終盤、トンマーゾの祖母の事件で一気に見方が変わった。

祖母は重い糖尿病で甘いものが食べられないようだった。それが、ある晩に、決意をしたように、綺麗に化粧をして、甘いものを存分に食べる。あの食べているときの恍惚とした表情を見て、彼女は甘いものが好きで好きでたまらなくて、我慢していたのだなと知る。
翌朝、彼女は亡くなるが、ここまで生きてきたのだ、好きなことを我慢してまでこれ以上長生きして何になるとでも言いたいようだった。

彼女の行為に勇気づけられてトンマーゾは本当は作家になりたいから工場は継げないと告白する。ゲイであることのカミングアウトはできないが、それは父親が倒れているのでまだ仕方がないだろう。

そして、勇気づけられたのはトンマーゾだけではない。トンマーゾの場合は、ゲイであること、作家になるのが夢であること、それらを隠して、耐えて生きていたけれど、内容は違えども、決して人ごとではないのだ。

これまで、ゲイの登場人物がそれを隠して苦しむ映画などを観ていて、大変だとは思っても、私は同性愛者ではないので自分に置き換えることは難しかった。けれど、この映画を観て、作品の主人公はトンマーゾだけではなく、祖母でもあり、兄であり、すべての登場人物であり、主題はゲイのカミングアウトだけではなく、我慢することでの後悔とあらゆる抑圧からの解放と考えると、もう完全に自分の映画でもあると思った。
もちろん、完全に理解できているわけではないだろう。でも、自分に寄せて考えることができた。

祖母の葬列と、過去の、祖母が若かった頃の結婚式が交錯するラストが美しかった。
祖母は浮かない顔で、過去に望まぬ相手と結婚してるんですよね。これはオープニングでも少し出てくるんですが、本当に結婚したかった相手と無理心中をはかろうとしている。
けれど、結婚式では兄と父が和解していたり、姉の夫とトンマーゾの友達(姉の夫のことが好みだと言っていた)が踊っていたりと、様々なごたごたが丸くおさまっている。祖母の結婚式なので、参列者たちはいるはずのない人々なので、現実ではなく理想なのかもしれない。それでも美しいことには変わりなく、望まぬ結婚ではあっても、何か報われたのかもしれないというような気持ちになった。



カンヌ国際映画祭、ある視点部門グランプリ受賞。良い犬映画に送られるパルムドッグ賞も受賞してます。
カンヌ関連でハンガリー・ドイツ・スウェーデン合作というヨーロッパ映画だと、芸術風味が強すぎてわかりづらいのかと思っていたけれど、そんなことはなかった。エンターテイメント作だと思う。
少女と犬のふれあいを描いてほろりとさせるヒューマンドラマだと思ったら大間違いだった。かなり変わった映画。

以下、ネタバレです。






犬を飼いたい娘と飼いたくない父親。親子仲も悪い。ある日、父親は犬を家から離れた場所に置き去りにしてしまう。
普通だったら、犬を探す少女の冒険ものになるとか、少女と父親の仲が少しずつ修復されて、結局二人で犬を探しに行き、三人で暮らそうねめでたしめでたしみたいなことになると思う。
ところがこの映画はここから少女リリのパートと犬のハーゲンのパートに分かれる。

リリのパートは、ハーゲンを一人で探しつつ、通っているオーケストラクラブのようなところの先生に怒られたり、淡い恋心を抱いてる男の子にはどうやら片想いだったり、父親とわかりあえなかったりと、孤独感を抱えながらも、一生懸命生きようとする姿が描かれている。
このリリを演じたジョーフィア・ブショッタちゃんが可愛らしい。目元にデイン・デハーンにも似た暗さを持つ。いかがわしいクラブに背伸びをしてついていって、お酒を飲んでそのまま床に転がってしまっていたけれど、あんな美少女なのに大丈夫なのかなと思ってしまった。
途中までは髪の毛を後ろで一本にまとめていてパーカーを着るなど、お洒落とは言えない恰好をしているけれど、演奏会のときには髪を下ろし、ブラウスを着ていて、美少女加減が際立っていた。本作が映画デビューとのこと。

リリの所謂人間パートともいえる部分は、イメージしていたヨーロッパ映画的な雰囲気があった。
ハーゲンパートは、最初はリリと同じく急に孤独になってしまった犬の様子が描かれる。喋りだしはしないものの、感情が伝わってくる表情と動きだった。別の犬との交流も見ることができ、どの犬の演技も素晴らしかった。
野良犬のコミュニティのような場所にいるときに、保健所の職員が現れて、捕まらないように逃げるシーンでは、人間が悪者だった。犬視点なのである。このシーンで使われている音楽も、ハラハラ、ヒヤヒヤする、スリリングなものだった。
犬たちの動きなどは可愛らしく動物映画のようだったし、逃げるシーンは恰好良くアクション映画のようでもあった。リリはハーゲンを探してはいるものの、ハーゲンパートとリリパートは別の映画のようだった。雰囲気がまるで違う。

ハーゲンは保健所の職員につかまりそうになったところをホームレスに保護される。このホームレスとの間に絆が生まれるのかなと思った。ところが、このホームレスがまた悪い奴で、闘犬の仲介業者のようなところにあっさりと売り渡してしまう。そして、マフィアのような男がハーゲンを買い取り…。ハーゲンの人生(犬ですが)は転落していく。
マフィアは、薬や暴力を使ってハーゲンをトレーニングし、それはそれは立派な闘犬に仕立てあげた。
おっとりしていたハーゲンは表情も凶暴なものに変わり、別の犬の血で鼻先が真っ赤に染まり…。ひどい、残酷、可哀想というようなことを思いながら見ていた。

このような感じで、ハーゲンパートは刺々しくギスギスしているけれど、その合間合間にゆったりしたリリパートが入るのが何か変な感じ。映画の構成が変わっている。
けれど、本当にこの映画が変わっているのはこの先なのだ。

ハーゲンはマフィアの元から逃げ出すが、結局保健所の職員に捕まってしまう。けれど、そこから抜け出す。保護され、殺処分される寸前の多数の犬を率いて、逃げ出す。
手始めに保健所の職員に襲いかかるんですが、食いちぎっており、完全にホラーの殺し方。もうここから後半はずっとホラーだった。無差別に人間を襲うわけではなく、自分を酷い目に遭わせた人物を狙って殺す。殺され方も凄惨だし、死体もしっかり映る。
ここまでも構成が変わっているなと思っていても、急に突飛な方向へ舵を取り始めたので、ちょっと笑ってしまった。『猿の惑星』や『鳥』が比較に出されているけれどまさにそんな感じの動物の反乱。

リリと別れた直後のハーゲンのみのシーン、犬の表情が豊かだと思ったけれど、そこでは微笑ましさを描いていたわけではなかったのだ。犬可愛いなあなんてほのぼのした気持ちになっていたが、それこそ人間目線であり、犬からしたらなめるなという話である。
おそらく、犬にもしっかり感情があるのだというのが示されていたのだろう。急に意志を持って反乱を起こしたわけではない。最初から意志を持っていたのだ。

ポスターなどから、少女が大量の犬を従えているのかと思ったけれど、それも思い上がりだった。犬が犬を従え、人間を襲う映画だった。びっくりしたけれど、痛快/壮快映画でもある。

当然、最後には父親に襲いかかろうとするのですが、それをリリが止める。リリは地面に寝っ転がって、ハーゲンと同じ高さに目線を合わせる。その横に父親も同じように寝っ転がる。父親は娘とも犬とも初めて同じ目線になった。娘の気持ちになって考える、犬の気持ちになって考えることができるようになったのだ。関係が修復されたと見ていいのだろう。
大量の犬と人間が向かい合って身じろぎしない、静かなエンディングだった。ここまでがちゃがちゃしていたのが嘘のよう。この後味は実際に観ないと体感できないものだ。

エンドロールのハーゲンを演じていた犬の名前がBody és Lukeとなっていた。ésは調べてみたところ、ハンガリー語の&の意味らしいので、二匹で演じていたらしい。穏やかなシーンと凶暴なシーンだろうか。
主人公で出番も多いからハーゲンの演技が目立つけれど、お友達のようになる子犬にも表情があったし、逃げ出す犬たちも統率がとれていた。CGも使っているのだろうと思っていたけれど、“CGに頼らず実現した本物の迫力”と書いてあって驚いた。
『ベートーベン』や『ベイブ 都会へ行く』などを手がけたアニマルトレーナー、カール・ルイス・ミラーの娘でアシスタントもつとめてきたテレサ・アン・ミラーが本作では犬たちのトレーニングをしたらしい。



2014年公開。イギリスでは2013年公開。
イギリスの“ブリテンズ・ゴット・タレント”という素人オーディション番組からオペラ歌手になったポール・ポッツの自伝映画。スーザン・ボイルもこの番組出身らしい。

オペラ歌手というと、なんとなく育ちが良さそうであったり家が金持ちであったり、お高くとまっていそうなイメージだけれど、このポール・ポッツという人はもちろん才能はあったのだろうが、ただの歌好きの一般人であり、その辺にいそうである。そのため、映画自体もオペラ歌手とはいっても、難しさとか格調高さなどはなく、親しみやすいものになっている。こちらも構えずに観ることができる。そもそも、映画で描かれているのがオーディション番組に出るまでであり、ポール・ポッツがオペラ歌手になる前の日常部分なのだ。

伝記とはいっても、すべて真実ではなく、元にした創作なのだろうと思った。盲腸や内臓の腫瘍、のどの病気、自転車での交通事故…。わざとらしいほどに不幸に不幸が重なって、うまくいくものもうまくいかない。なかなか前に進めない。
だが、調べるとそれら全部が本当に起こったことのようであり、更にポール・ポッツご本人のインタビューを見ると、「あれよりもっと不幸なことが起こっていた」と言っていたので驚いた。

のちに妻となる女性ジュルズとの出会いは事実とは少し異なるみたいですが、映画では元々メール友達だった。自分はブラッド・ピットに似ていると言っていたのと、自分の容姿に自身がないことから会うのを拒んでいたが、仕事先の同僚が勝手にメールを送ってしまい、会うことになる。
容姿は聞いていたものとまったく違っても、メール上のことはそんなものだとジュルズはわかっていたのか、特に気にしていない様子だったし、一日デートをしている間に、ポール・ポッツの人柄にひきこまれていたようだ。
臆病で容姿もいまいちだけれど、歌が大好きで心優しい好人物というのがよく伝わってきた。ジュルズが終電で帰るために二人で手を繋いで駅のホームを走り、ジュルズが電車に乗り込んで、窓にはーっと息を吹きかけてポールあてにハートマークを描くシーンのくすぐったくなるほどの青春映画っぷりが良かった。二人は瑞々しくて、キラキラしてて、涙が出てきた。

二人とも好感が持てるし、一人では一歩踏み出せないポールの背中を常に後押ししてあげていて、その関係性も良かった。

ポール・ポッツを演じたのがジェームズ・コーデン。気弱で心が純粋なポールにとてもよく合っていた。体型も似ている。
この映画は一人の男のサクセスストーリーだけれど、ちょうど、ジェームズ・コーデンもこの映画の前の2012年にトニー賞を受賞して、イギリスだけでなくアメリカでも受け入れられたところだったらしい。また、今年、アメリカCBCの長寿トーク番組『ザ・レイト・レイト・ショー』の新司会者に決まった。イギリス自虐ギャグも時々飛び出しているこの番組が好評らしく、更に五年間1000万ポンドという契約での続投が決まったとのこと。彼自身のサクセスストーリーも続いている。

映画内での歌はポール・ポッツご本人の吹替らしいけれど、ボイストレーナーがついて、ジェームズは歌いながら演技をしていたらしい。

ポールの同僚であり友達のブラドン役にマッケンジー・クルック。ポールとは体型も真逆だし、性格もポールがうじうじと悩んでいるところでブラドンはスパンスパンと簡単にいろいろ決定していて、そのコンビがおもしろかった。マッケンジー・クルックが好きなせいもあると思うけれど、ちょい役でも強烈な印象が残った。

最後のオーディション番組のシーン、審査員の映像は実際の番組の映像だったのだろうか。違うとしても、ポッツのそのオーディションで実際に審査をしていた方々みたい。その審査員の一人、ワン・ダイレクションの生みの親としても知られる音楽プロデューサーのサイモン・コーウェルは、この映画の製作にも関わっているようだ。



二回目で気づいたこと。音楽の使い方について。
以下、ネタバレです。







ベッカムがカメオ出演しているとのことでしたが、一回目の時はその情報を観てから聞いたため探しもしていなかったんですが、聞いてから観ると、確かにベッカムだった。序盤の、クリヤキンがKGBで上司からナポレオン・ソロの説明を受けているシーンの映写技師役です。一回目に観たときには、この上下間違えるの必要?と思っていたんですが、なるほど、必要でした。

この場面でもそうなんですが、場面が変わった時のテロップや、イタリア語ロシア語ドイツ語など、各国の英語字幕が同じフォントで黄色と統一されている。ぷくっとしていて、自己主張が強く、目をひく。きっちりと統一した意志を感じる。

60年代が舞台ということで、最初だけ映りがガサガサした触感というかフィルム調になっているように感じた。ソロがギャビーに会うあたりからは普通の映りになっていたので気のせいかもしれない。

金網をそれぞれのスパイ道具で開けるシーン、クリヤキンが得意げになっていますが、その前日の朝に、お互いの盗聴器についての応酬のシーンがあるんですが、These.are.American-made.と嫌味たっぷりにいったあと、ローテクという言葉も付け加えていた。ここを受けてのシーンでもあると思う。CIAのほうが、ガジェットでは劣っているのだ。

前回、後半の潜入シーンは、前半に潜入シーンがあるから省略してその後のド派手カーチェイスを見せ場にしたのだろうと書いたんですが、前半の潜入シーンも省略されていた。
ただ、それも「俺は上の階から見るからお前は下の階から」と分担するんですね。で、分かれた一人一人を分割した画面で見せる。それで、結局何も見つからない、というシーン。見つからないのだから、きっちりとやらなくてもいい。
ここでも、おそらく見せたいのはこの後なのだ。“ザ・キス”という立ったまま気絶させるよくわからないKGBの裏技もそうだろう。ただ本当に見せたかったのは、金庫やぶりからボートチェイスなのだと思う。

普通、停電も復旧して、追われながら金庫を開けようとするならば、音楽も緊迫したものになるだろうし、開ける側も焦ると思うのだ。けれど、ソロは悠々お喋りをしながら作業をしているし、かかっている音楽もフラメンコのような優雅でセクシーなものだった。まるで、女性の服を脱がすようにして金庫を開いていく。開けられるの?開けられないの?というヒヤヒヤよりも、どうせ開けますから、それを前提として、別の部分を見てほしいと言われているようだった。

その後のボートチェイスも、その流れでか、音楽がマカロニ・ウェスタンなのがおもしろい。

更に流れで、ソロが一人、車でつけたラジオから流れるのも、イタリア歌謡だ。朗々と歌い上げられるのは、69年のイタリア映画『ガラスの部屋』のテーマ曲らしい。車の中でワインやパンなどを食べるのには合うが、この音楽は水に沈んだクリヤキンを助けるシーンでも流れ続ける。車のまま水へ突進し、ボートごと沈むが、その車のライトが沈んで行くクリヤキンをとらえる。不思議と音楽と合っていて美しいシーンだ。
ここも、この映画は前日譚だし、どうせ二人が死なないことはわかっているでしょ?とでも言うようだった。ハラハラには重きが置かれていない。

同じ音楽が流れ続ける中、いろんな場面に切り替えられるという手法は拷問のあたりでも使われていた。普通はピンチっぽい緊迫した音楽が流れると思うが、ここではドラマティックで哀愁が漂う曲が使われていた。拷問だけではなく、ヘリに乗せられるギャビーなども同じ音楽の中で描かれる。

その後の、二人が話し合っていて、背後でピントの合っていないルディが燃えているシーンも、音楽自体が呑気なもので、話し合ってはいるものの、二人にとってはルディがどうなろうと特にどうでも良いのだなというのがわかっておもしろい。そもそもピントが合っていないというのが酷い。そして、燃えてしまっても、ソロも自分のジャケットのことしか気にしていなかったのも酷い。

序盤の西ドイツへの逃亡シーンと、最後のカーチェイスは緊迫した音楽が使われていた。けれど、緊迫しすぎないというか、適度に緩めて、変わった音楽がチョイスしてあるのがこの映画がおしゃれになっている所以だと思う。普通、主人公の一人が水に沈んで行き、もう一人が助けるというシーンでスローテンポのイタリア歌謡は流れないだろう。歌い方からも想像はつきましたが、もちろんラブソングです。

ちなみに、ラストで「イスタンブールへ行ってこい」という指令を受けて、続編か!と思いますが、決まってはいないようだ。テレビシリーズの第一話の舞台がイスタンブールらしいので、そこへ続くということらしい。
最後の各キャラプロフィールで、ソロがギャンブラーとかまだ出てきていない設定も書いてあったけれど、これもテレビドラマ版のキャラの設定なのだろうか。
続編が観たいので、“the man from uncle,sequel”などで検索をかけてみましたが、ヘンリー・カヴィルとアーミー・ハマーが是非やりたいと言っているニュースだけで、特に情報はありませんでした。


1969年の月面着陸のあの映像はスタンリー・キューブリック監督の捏造映像だった!?という都市伝説を元にしたストーリー。タイトルのロゴも『時計じかけのオレンジ』風になっています。
出演は『ハリー・ポッター』シリーズのロン役のルパート・グリント、『ヘル・ボーイ』シリーズや『パシフィック・リム』の闇商人役のロン・パールマン。
監督は本作がデビューのアントワーヌ・バルドー=ジャケ。なんと、イギリス人ではなくフランス人だった。

以下、ネタバレです。









ルパート・グリントは『ハリー・ポッター』シリーズで有名なようですが、私は『ハリー・ポッター』を観ていないので、1999年の『ターゲット』の印象が強い。今作も『ターゲット』と同じルパート・グリントでした。どことなく情けなくて、面倒ごとに巻き込まれてしまう。
そのひょろひょろした感じと、がっしり強面のロン・パールマンの二人の対比がおもしろい。闇金業者に突撃したときに、ロン・パールマンの後ろに隠れていたのが、体格の違いなどもよく表れていた。ロン・パールマンに命じられるままに、ひぃぃぃと言いながら金を回収する様子もいい。若い頃のマーティン・フリーマンがやりそうな役。

キューブリックの月面着陸捏造映像の話とはいっても、実話というわけではない。なんせ、元々が都市伝説だし、そもそもこの映画にはキューブリックは出てこない。もともとが偽キューブリックである。なので、全部フィクションとして自由にやっています。

偽の映画を作って何かの事態を救うというと『アルゴ』が思い出されるが、それとも違っていた。また、素人の映画作りというと、ミシェル・ゴンドリー監督の『僕らのミライへ逆回転』なんかも思い出すがこれとも違った。ただ、本作の製作のジョルジュ・ベルマンはゴンドリー監督のプロデュースに多く関わっている方だった。

だったら、もっともっと映画作りのシーンを多く観たかったなあという気もする。後半では撮影シーンも出てくるけれど、物足りなかった。いやに立派なアポロ11号を作るのはどうやったんだろう。月面の砂などの作り方も知りたい。宇宙服も手作りにしてしまっても良かったのでは…など気になる点をすべて映像で見せて欲しかった。
ただ、前衛映画とはいえ、一応、映画監督に撮影を頼んでいるし、日にちもないという設定だったから仕方が無いのだろうか。それに、本物に見せるために作るから、奇抜なアイディアでどうにかするというよりは、地味目な映像になってしまうのかもしれない。

それか、途中でバンドのメンバーが乱入して来て、誤魔化すために君らのPVの撮影だよなどと言っていたけれど、それの撮影風景でもやってほしかった。そちらなら、だいぶめちゃくちゃなことができるだろう。くらげの姿になっていたけれど、楽しそうじゃないか。

映画作りだけの映画にしても良かったのではないかと思うけれど、思ったよりもドンパチが多かった。しかも、撃たれて頭が吹っ飛ぶなど過激なもの。三回くらい吹っ飛んでいた。当然、血の量も多い。この辺で映画の年齢制限がかかったのかもしれない。

それか、映画を撮影するのがヒッピーの館だというところ。スウィンギング・ロンドンという60年代イギリスの若者文化も本作のテーマになっている。オープニングのサイケな色合いのアニメはイエローサブマリンを思い出した。
この館には多数の上半身裸(映っては無いけれど、上半身だけじゃないかも)の女性たちがいる。また、ドラッグも吸い放題。
アヘンにLSDで、悪夢のようなイメージ映像とともにへろへろになっているロン・パールマンは可愛かったです。ロン・パールマン演じるキッドマンはCIAでベトナム戦争帰還兵という役柄なのですが、PTSDに苦しめられていた。ドラッグのあとで、手の震えが止まっていたので何かを克服できたのかもしれない。ドラッグのおかげではなく、みんなと楽しく遊んだからかもしれないが。

撮影していたヒッピーの館が銃撃戦でめちゃくちゃになり、キッドマンたちは逃亡するんですが、途中で月面着陸のニュースを見る。さきほど、宇宙飛行士役だった青年が「あれ、俺たち?」と聞くと、ルパート・グリント演じるジョニーは「違うよ、着陸成功したんだ…。リアルの映像だよ」と言う。それを受けて、キッドマンが少し不安そうに「…だよな?」と言うのが良かった。あくまでも、捏造なんてありませんでした!ではなく、少しだけぼやかしているのが粋。

エンドロールでは、撮影を頼んだ監督のインディーズ前衛映画『跳ねる』が使われていた。太った男性が跳ねている様子がスローでとらえられているだけ。ダブサウンドにのって、肉がぼよよんと震える。映画内では「三年かけたんだ!」と言っていたのを思い出してくすっとした。


1960年代のテレビドラマ『0011ナポレオン・ソロ』のリメイク。旧作を見ていないので、映画版が決まったエピソードのリメイクなのか、それとも登場人物だけが同じなのかがわからない。
監督は『ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ』『スナッチ』『ロックローラ』『シャーロック・ホームズ』シリーズのガイ・リッチー。ガイ・リッチーが監督で、アメリカCIAのスパイとロシアKGBのスパイが嫌々コンビを組まされるとなれば、もう期待せずにはいられない。しかも、CIAスパイがヘンリー・カヴィル、KGBスパイがアーミー・ハマーである。先行で公開された映画内のスチルだけ見ても、男前が二人並んでいてとてもかっこいい。

ガイ・リッチー監督作品のプロデュースを多くつとめていたマシュー・ヴォーンが監督し、突い最近公開された『キングスマン』もスパイものであり、比較されることも多いかもしれないけれど、どちらもブロマンスものではあるけれど、作風はかなり違っていた。『キングスマン』のほうがぶっとんだ世界観で派手さはある。しかし、一見地味でも、スタイリッシュさでは本作のほうが上に感じた。

以下、ネタバレです。








アメリカのスパイとロシアのスパイということで、これはいがみ合いながらも仲良くなっていくパターン、いわゆるケンカップルなんだろうなあと思っていた。おおまかに見ればそうなんですけれど、性格が正反対だったり、王道が貫かれているのがたまらなかった。
アメリカのスパイ、ナポレオン・ソロは常に余裕。スーツをびしっと着こなし、背筋もピンと伸びている。女好きな面も考えると、ジェームズ・ボンドタイプだとも思う。
対するロシアのスパイ、イリヤ・クリヤキンは、まず服装が野暮ったい。背が高いが、猫背である。ソロは自分に自信がありそうだったけれど、クリヤキンは自信はあるかないか以前に、そんなことを考えたこともなさそう。
そして、こちらは常に力勝負で全力投球。余裕はない。女性に対する態度も同じ。最初、ギャビーのことをどうでも良さそうだった時には、別にちょっと意地悪なくらいで普通の態度だった。けれど、少し意識し始めるともう駄目で、どんどん好きになってしまう。その様子が見て取れるのがたまらなく可愛い。大型犬を思わせる愛らしさすら感じる。しかも、キューンキューンと、捨てられた犬がさみしげに鳴いている感じ。

このキャラクターを、まるでギリシャ彫刻のように隙の無いハンサムのヘンリー・カヴィルと、嫌味の無いかっこよさとつい笑いがもれてしまう可愛さを兼ねているアーミー・ハマーが演じているのが本当に合っている。
舞台が60年代なのですが、ヘンリー・カヴィルのハンサムさは完璧すぎて少し古さすら感じさせるものなので、世界観とよくマッチしている。また、アーミー・ハマーの、『ソーシャル・ネットワーク』の双子、『白雪姫と鏡の女王』の王子、『ローン・レンジャー』のローン・レンジャーと、なんかきまらない、多少可愛くなってしまう様が今回も出ていていい。あれは、役者の持つ力なのかな…。それとも、育ちの良さがぽやぽやした雰囲気を出してしまっているのだろうか。

前半、施設に潜入するシーンの針金を破る道具、ロシアのほうが技術力は高いのだなというのがわかっておもしろかったし、得意げなクリヤキンの様子もおもしろい。中に入ってからの、金庫を破るソロのスマートさも恰好いい。
逃げたあとでの水上戦、モーターボートをクリヤキンが操縦し、ソロが助手席に乗っていたんですが、荒い運転でソロはぽろっと水中に落ちる。「落ちるなよ!カウボーイ(ソロのこと。アメリカ人だからこう呼んでいる?)」と言ったクリヤキンが、とっくに落ちているソロを確認して、え?ってなるのも良かった。
そして、ソロは陸まで泳いで、止めてある車に乗り込む。ラジオで曲を流しながら、車の中にあったワインやパンを拝借し、優雅にお食事。この時のヘンリー・カヴィルの、水もしたたるいい男っぷりもすごい。本当にハンサムな男性が水に濡れるとハンサム度がアップするのがよくわかった。
優雅にお食事の後ろで、水上ではクリヤキンのボートが別のボートに追い回されている。沈められたところで、やれやれといった感じで助けに入っていた。でも、まだまだ序盤だし、潜入する時のカッターの件でバカにされ、絆もそれほど強くもなっていないけれど、ちゃんと助けてあげるあたりも余裕がある。逆にクリヤキンが陸に上がっていたら、ざまーみろとばかりに放置しそう。

前半、ソロの部屋にロシアの盗聴器が、クリヤキンとギャビーの部屋にアメリカの盗聴器がそれぞれ仕掛けられていた。そのこっちにこんなものありましたよ?いえいえ、こちらにも?みたいな応酬のシーンもそれだけで面白かった。お互いがお互いの部屋の内情を実際に監視してるシーンは映画には出てこないんですが、ソロはホテルの受付のお姉さんを連れ込んで一晩過ごしてるし、クリヤキンとギャビーはギャビーが酔っぱらって挑発するだけで特に何もない。そんなお互いの一晩の性生活をお互いが知っていると思うと、何かおかしい。この辺にもソロの余裕が窺える。

余裕の違いはラストでも感じられた。お互いに、核兵器のディスクを奪ったら相手を殺しても良いとの指令を受ける。ここまで協力してきても、もともとの雇い主はアメリカとロシアなのだ。ましてや、冷戦時代である。そこで、クリヤキンはソロを殺してディスクを奪おうとする。けれど、ソロはクリヤキンがその覚悟で来たのを察し、自分も銃をすぐとれる場所に移動させる。ソロのほうが一枚上手なんですね。なので、たぶん、一触即発の状態からせーので撃ち合いになったら、ソロのほうが勝つと思う。けれど、一瞬はやかったソロの行動は、クリヤキンの父親の形見の時計を彼に投げることだった。
そもそも、その前に、クリヤキンの時計を見つけて確保しておいたのは、優しさと打算、どちらだったのだろうか。すぐに渡さなかったということは、このような事態に備えてのことだったのかもしれない。どちらにしても、ソロのほうが余裕がある。もちろん、クリヤキンはエディプス・コンプレックスの件も関係しているのかもしれない。でも、そもそも、ソロ側としてはクリヤキンを殺すつもりがなかったんですね。

そのあとで、ディスクを燃やしてそれをつまみに酒を飲むシーンが出てくる。屋外で酒を傾ける、先行スチルでも散々見たこれは、本作における打ち上げともいえるシーンだったのだ。やっぱり打ち上げのある映画はいい映画。そして、ラストで彼らがシルエットになるんですが、それがお互いに背を向けているのがいい。最後までこうだ。一件落着のように見えて、仲良しになどなっていない。
(このシルエットは007シリーズのオープニングっぽくしたのだろうか。)

二人にはそれぞれアメリカとロシアが付いているのですが、ガイ・リッチーはイギリスの監督なのに、いやにイギリス色が薄い作品だなと思った。ヘンリー・カヴィルがイギリス俳優だとしても。リメイクだから仕方ないのかな、とも思った。けれど、中盤から出てくるヒュー・グラントが曲者だった。いやにちょい役だなーと思っていたら、とんでもない。
結局、途中から出てきたイギリスが漁父の利で見せ場をかっさらう展開は恐れ入りました。ちゃんと、ガイ・リッチー監督作品だった。

そして、イギリススパイのギャビーもまたいい。最初はただのお姫様ポジションのヒロインかと思ったけれどとんでもない。彼女をめぐる気持ちの移り変わりも良かった。たぶん最初はソロのことが好きで、クリヤキンが気に食わなそうだった。酔っぱらってレスリングでクリヤキンに突進した夜も、ただ酔っぱらっていただけだと思う。けれど、クリヤキンはそこで完全に好きになっちゃうんですね。キスしそうでできないシーンが特に良かった。クリヤキンが手をギャビーの腰のあたりにまわしたときに、彼は恋に落ちたのだと思う。
また、最後にもキス未遂が出てくるのが良かったです。関係は進みそうで進まない。でもだからこそ、次に続けられると思うんですよ。続編ありますよね?

ガイ・リッチー、いままでの作品でも見たいものを見せてくれる監督だったけれど、本作でもそれは変わらない。もういいなあという展開しかない。かゆいところに手が届くというか、頭の中を覗かれているというか。
キャラクターの関係性だけでなく、二回目の潜入シーンを大胆に省略しているのも良かった。一つの映画に二回も潜入シーンいらないもの。そして、省略したあとで、君たちはこれを観たいんだよね?と言わんばかりのカーチェイスにがっつり時間を割く。映画全体の時間があまり長過ぎるのも考えものだ。そこでいるシーンいらないシーンの選別が重要になってくると思うが、この省略は大正解だと思った。道を無視してのカーチェイス、楽しかったです。