もともとは1997年にオフ・ブロードウェイで上演され、そのあと、映画化(2001年)。日本では2004年、2005年に三上博史、2007年、2008年、2009年に山本耕史、そして今回、森山未來主演で上演中です。
三上版が大好きで何度も観に行ったのですが、山本版は演出が違う方だったにもかかわらず、細かいセリフまでそっくりそのままだったので、一回しか行ってません。例えば、水を上に噴き出した際に、自分にかかってしまい、「パンクの精神は、自己犠牲!」というセリフなど。

しばらく経って、久しぶりのヘドウィグ。設定がかなり変えられていて驚いた。
以下、ネタバレです。







開演前、幕に原発関連の新聞記事が投影されていて、少し物々しい雰囲気だった。でも、何の関係があるのかは疑問だった。そうしたら、なんとなんと、舞台が福島。
原作では、ヘドウィグは旧東ドイツ生まれ、ベルリン壁の外に出るときに性転換手術→失敗→アメリカでベルリンの壁崩壊を知る。今回はその壁にあたるものが、原発の周りにはりめぐらされている。壁の中は無法地帯という設定。
バンドのメンバーが防護マスクをつけて出てきたのも、ファッションかと思ったら意味があった。放射能を測定して、安全を確認してからはずしてました。
それと、森山ヘドウィグのマントが日の丸パッチワークだったんですよね。あと、今回のロゴが英語でなくカタカナなのも、日本が舞台ということで納得。当然、歌も日本語訳版でした。お色直し後の衣装も、襟元が少し着物っぽい和風なのが可愛かった。
日本を舞台にすることで、電子レンジに顔突っ込んで歌うシーンがなかったのと、アメリカに出てきてトレーラーハウス住まいをしていた設定も消え、立ちんぼをやっていたシーンもなくなっていた。

舞台の変更はいいんですよ。これくらい大胆に変えていかないと、過去の上演と比べられてしまう。2012年版、ということでこうゆうのもいいかなとは思う。若い人たちにはベルリンの壁もピンとこないのかもしれないし。
ただ、個人的にはイツァークのキャラがだいぶ変更されていたのは不満でした。壁の中で生まれて、性別がない子供という設定でした。少年だか少女だかわからない。

イツァークは、ヘドウィグを影で支える存在であってほしかった。ヘドウィグが光でイツァークが影なんですよ。だから、イツァークがあんまり出しゃばってはいけない。今回のイツァークは喋りすぎだし、なにより歌いすぎ。歌部分だって、コーラス担当でないといけない。今回みたいにワンフレーズずつヘドウィグとデュエットみたいなことをしたり、まるまる一人で歌ってしまったりというのは、今までのイツァークのことを考えると、少し違うと思う。
『The Long Grift』にしたって、泣き崩れているヘドウィグの代わりに、仕方なくギターの人が歌うのが良かったのに、今回はイツァークまで歌っちゃう。

イツァークはもともと女装をしていて、クリスタルナハトという芸名をもつ有名人だった。しかし、ヘドウィグはイツァークが女装することを許さない(自分がかすむから?)。イツァークは抑圧されても、必死に耐え忍ぶ。それでこそ、後半にヘドウィグが愛想をつかされるシーンがいきてくるし、最後、ヘドウィグが許すようにイツァークにウィッグをつけてあげるシーンが泣けるのだ。そして、『Midnight Radio』の途中から、ヘドウィグを凌ぐような、完璧なドラァグクイーンとして登場する。ここにカタルシスがうまれる。まず耐え忍んでいないから、『Midnight Radio』で白いワンピースを着てきても、ただの可愛らしい女の子にしか見えない。

イツァークは三上版ではエミ・エレオノーラ、山本版では中村中が演じていて、キャスト発表時にあまりにも少女だったのでイメージが違っていて心配をしていたが、設定自体が変えられていた。
最初からそういうものだと思えばいいのかもしれないけど、それ以外にも、声が独特なので、他の人と一緒に歌ったときに浮いてしまうのも気になった。

曲が結構アレンジされていたのも2012年版ということかもしれない。最後のトミー・ノーシス版の『Wicked Little Town』が三拍子だったのは、より切なくなっていたのと、トミーの幼さみたいなものが表れていて良かったと思う。
『Sugar Daddy』はカントリー調のオリジナル版が好きなので、ピコピコアレンジはやめてほしかった。でも、ここで唯一森山ヘドウィグのキレのよいダンスが見られたのは良かった。少しPerfumeを模しているようだったのでピコピコさせる意味はあったのだと思う。イツァークも一緒に踊っていて、イツァークだと思わなければ可愛いのだけど、やっぱりキャラが違う。

トミーのキャラも弱かった。彼がロックを好きになる前に聞いていたアメリカの商業的な音楽の描写などがなく、どうしてヘドウィグにひかれていったのかがわかりにくかった。キャラが弱いというか、全体的に出番が少なかったです。

個人的に、顔面魚拓が無かったのは意外だった。ヘドウィグがタオルを顔に当ててはずすと、メイクが濃いためタオルにヘドウィグの顔の形がくっきりと写るという、結構わかりやすい笑いどころなのに。顔面魚拓っぽいTシャツが売っていたので当然あると思っていた。
よく考えたら、顔面魚拓もトミーがヘドウィグのバンドの演奏を見に来るシーンだから無いんですね。いろいろと説明不足な気はする。

前のほうがスタンディングでライブハウス形式だったため、『Sugar Daddy』でのカーウォッシュ(ヘドウィグが客席に下りていって、男性のお客さんの顔に股間を擦り付ける)は無かった。しかし、『Midnight Radio』ではスタンディングゾーンへダイブをしていて、映画のシーンを再現していた。

いろいろと気になるところはあったけれど、ヘドウィグを演じた森山未來はさすが。最近売れっ子なのにも関わらず、ちゃんと下品なところも省かれていなかったし、衣装なども含めてキュートに仕上げていた。歌声や歌唱法もクセがなくて聞きやすく、特徴がないながらもうまかったです。


上演後、拍手が起こって、カーテンコールかと思ったら、アンコールでした。劇中の曲をもう一度やるのかと思ったら『マイウェイ』。しかも、シドヴィシャスのパンクバージョン。開演前のSEでも流されていました。
歌詞は中島淳訳版のお馴染みのもの。「私には愛する歌があるから、信じたこの道を私は行くだけ」という歌詞を聞いてると、本当にヘドウィグにぴったりで、よく見つけてきたなと感心してしまった。


映画の前に原作を読んだんですが、あまり好きになれなかったので、観に行くのも躊躇してました。ただ、吉田大八監督というのと、やたらと評判がいいので行ってみたんですが、すごくおもしろかった。行ってよかった。行く前に原作を読むんじゃなかった。
以下、原作と映画について、ネタバレがあります。





原作は、一章ごとに語り手が変わる一人称視点の短編の群像劇。それぞれの話し言葉で書かれているため、文章が幼く読みにくかったけれど、高校生の心の中のことだし、わざとなのかもしれないと思った。
また、チャットモンチーやRADWIMPSなどの固有名詞も多く出てきた。チャットモンチーの歌詞を引用されても共感はできなかったし、RADWIMPSは聴いたこともない。しかし、それは私が高校生とは年齢的にだいぶ隔たりがあるため、わからなくて当然、読んだ私がいけなかったと思ったのだ。
しかし、映画は予告編で全世代向けと謳われていた。その点も、映画を観るまでは半信半疑だったのですが、上記のバンド名は両方ともまるまる省かれていた。それだけでも、好感触である。

固有名詞の関連だと、原作では、映画部の二人が『ジョゼと虎と魚たち』や『メゾン・ド・ヒミコ』、犬童一心や岩井俊二の話をしていた。2010年刊行ということでそれほど昔の本でもないのに、映画好き高校生のする話題にしては少し古臭く感じた。いまなら、園子温あたりではないか。『愛のむきだし』あたりについて、熱く語りそうなものだけど、と原作を読んだときには思ったけれど、映画では「昨日、満島ひかりが夢に出てきてさー」と話していた。やっぱり、そうでしょう? 

また、映画部が撮っているのをゾンビ映画にしたのが大正解。原作だと好きな女の子を撮影したり、青春映画っぽいのを撮っていたようですが、やっぱり自主映画といったらゾンビでしょう。最近で言うと『スーパー8』や『キツツキと雨』もそうでしたが、絶対にゾンビ映画って撮りたくなるものだと思う。
題材をゾンビにしたことも正解ですが、それをクライマックスに効果的に生かしたのも素晴らしい。桐島を追いかけて、屋上に全員集合して、結果的に映画部の撮影現場に生徒たちが乱入する。そこで神木くん演じる映画部の前田は、乱入してきた生徒たちを襲え!とゾンビ役に言う。スクールカースト最下層の生徒たちの反乱である。
カメラを通して見えるリアルなゾンビ、臓物、噴き出す血などは空想だけれど、頭の中ではどうにでもできるし、それを映像化することもできる。映画の良さまで描いている。

原作だとゾンビ映画を撮っていないので、この反乱シーンももちろん無い。スクールカーストの上側の意見や内面の描写が多いため、作者は学生自体、上に属していたのだろうと勘ぐってしまった。下の生徒については、内面よりも外側から眺めているような書き方だった。

映画のクライマックスであるゾンビのシーンですが、ここの音楽がまたいい。この映画は音楽が極端に少ないのですが、吹奏楽部が合奏をはじめて、その合奏曲がずっと流れる。それをバックにして、一連のシーンがはじまる。
その前に吹奏楽部沢島が、想い人である宏樹と恋人沙奈のキスを目撃してしまい、複雑な気持ちを抱えながら合奏に臨んでいる。その前には、校舎裏での沢島と前田のやりとりがある。最初から流れが途切れることがないのも、この映画のすごいところだと思う。

音楽も少ないけれど、セリフも少ない。それでも、状況がわかるような画面づくりがされていて目が離せない。情報量が多いし、そこからいろいろと推測できて楽しい。
前田が体育の授業のサッカーでわたわたするシーンは、グラウンドの端っこにいる前田だけが映されてることで、よりみじめさが際立つ。
前の席の好きな男の子が窓の外を見たときに、つられるようにして視線を追って窓の外を見てしまうシーンはとても美しかった。まるで一枚の写真のよう。
ほとんど学校内ですが、その一つ一つのシーンの切り取り方が本当に綺麗で、その映像を見ているだけでも少し泣きそうになった。きらきらした青春映画。

原作だと、登場人物の心の声が全部わかってしまうので、多少うるさく感じる。宏樹なんかは彼女に対し“可愛いけれど、中身は空っぽ”などと辛辣なことを思っていた。
映画でも彼女にはあまり興味は無いみたいだったが、もう少し穏やかそうだった。流されやすそうにも見えけど、私は映画版の宏樹のほうが好感が持てます。ちょっと妻夫木似です。最後、カメラを向けられて泣きそうになるシーンなどうまかった。心の中がわからない分、表情だけで表現していた。

神木くん演じる前田は序盤では黒ぶちの大きなメガネの縁が目にかかっていて表情も読み取りにくく、意志も弱そうだったけれど、話が進むにつれて、メガネをかちゃっと指で押し上げて、ちゃんと相手を見て、意見が言えるようになった。神木くんはもちろんだけれど、他の役者さんも全員うまかった。いかにもいそうなタイプが集められていることもあって、人選も完璧だったと思う。登場人物が多い映画で全員これだけいいのは珍しい気がする。

服装の違いもおもしろかった。ほぼ制服だけど、着崩し方とか、髪の毛の巻き方とか、ヘアアクセサリーとか、鞄につけているキーホルダーなどで、ちゃんとそれぞれの個性が出てた。少し派手めなスクールカースト上層部の女の子たちって、いまだにバーバリーのマフラーなんでしょうか? 私が高校生の頃もそうだったけども。

桐島の扱いも原作と映画では違った。原作だと一章でしっかり出てきて会話もしている。“桐島が部活をやめること”が“やりたいことをやめること”、もっと言えば“夢を諦めること”のメタファーになっていた。印象を受けました。個人の想いを桐島に投影し、それぞれがいろいろ考える。
映画だと、文武両道で人気者という、完璧な人間だったが、姿が出てこないため、概念のような扱われ方だった。一瞬、屋上に影が見えたのも、本当に桐島だったのかわからない。エンドロールにも桐島とは書かれていなかった。映画版は、桐島がいなくても話が成立しそう。桐島成分を差し引いても充分におもしろかった。

スクールカースト最下層の生徒の反乱と映画内映画のセリフですが、「ここが僕たちの世界。ここで僕たちは生きていかねば」からはメッセージ性を感じる。撮影したのはもっと前だろうし、最近のいじめ問題を意識しているわけではないだろうけど、不思議と世相を反映していると思う。

『最強のふたり』


2011年にフランスで大ヒットし、日本でもTIFFやフランス映画祭でもすでに上映されています。ハリウッドリメイクも決まっているらしい。原題『Intouchables』。英語にすると『アンタッチャブル』なので、タイトルが既存の作品とごちゃごちゃになってしまうからこの邦題になったのかな。別に『最強のふたり』でもいいとは思うんですが、『Intouchables』のほうが、よりいろいろと想像できる、深みのあるタイトル。

大富豪の白人の障害者と貧困層の黒人の介護人。趣味も話題も暮らしもまるっきり違う二人が出会って、さてどうなるか。予告を何度か観て既に泣いていました。映画本編は実話ベースだからか、ドラマチックというよりは静かに進んでいく。泣くことはあっても号泣という感じではなかったです。また、少しシニカルなフィリップ(富豪)とそのシニカルもユーモアで受け流すドリス(介護人)のやりとりでは何度も笑わされた。この泣きと笑いのバランスが絶妙だった。
障害者とその介護の話だと、難しい問題故に、慎重に扱われた結果、内容が重くなったり暗くなったりして、鑑賞後にしんみりしそうだが、全体にカラッと明るくまとめてあるため、爽やかな感動が残った。

以下、ネタバレです。







一番好きだったのが、フィリップ曰く“退屈な”バースデーパーティのシーンです。フィリップが室内楽団にクラシックの中でも有名な曲をドリスに聞かせる。最初はどうでもう良さそうだったドリスも「これはコーヒーのCMの曲だ!」など徐々に興味を持ち始め、そのうち、音楽から受けるイメージについて話し出す。まるで子どものような吸収力。先生(フィリップ)もいいのだと思うが、教養がどんどん身に付いていき、内面が魅力的に変わっていく。
その後、今度は先生がドリスに交代し、Earth Wind & Fireを聴かせる。ダンスをして見せると、他のバースデーパーティー出席者も一緒に踊り出す。
互いに影響しあって、いままで知らなかったことに触れ、心が豊かになっていく。理想的な関係です。しかも、周囲の人物まで巻き込んで、どんどん状況が良くなっていく。1+1が2どころではない大きな数字になっていく。まさに相乗効果。

二人のキャラクターが魅力的である点も、映画全体を良い雰囲気にしている。
フィリップは障害者でありながらひねくれたところがない。障害を持つことになった原因であるパラグライダーも、本来ならばやりたがらないだろう。勇気があるが、女性には奥手という面もかわいらしい。
ひねくれたところがなく見えたのは、ドリスに出会ってからなのかもしれない。よりひねくれた状態で登場したドリスは、良くも悪くも怖いものなし。どうしようもない若者にも見えたが、ラストでは穏やかな表情になっていたし、責任感が芽生えたせいか、大人になったのがよくわかった。

宣伝文句である“最強のふたりに起こった最高の奇跡とは”というのはどうかなと思った。奇跡が起こると言われると、どんでん返しとか大きな山場を想像してしまう。フィリップの病気が治ったり、ドリスの弟と対立していた輩がフィリップ宅に侵入してきて銃乱射とかを想像してしまった。また、フィリップが死んでしまうような着地点になっていなかったのも良かった。
と思っていたら、エンドロールで実話のご本人たちが登場。ご存命でした。この映像が車椅子に座ったフィリップの後ろにアブデル(ドリスの元になった方)が立っていて、二人で遠くを見ているもので、会話などはないけれど、力強さを感じる。
奇跡が起きるというよりは、二人の出会いそのものが奇跡だったのではないかと思う。人との出会いによって、今後のすべてが変わっていく。

原題の“Intouchables”は、決して交わることが無かったであろう、フィリップとドリスの関係や、頭部より下が麻痺をしていて、文通相手に触れられないことをおそれるフィリップのことを指しているのではないかと思う。
ドリスは車椅子に乗せるときにフィリップを抱きかかえるため、文字通り触れている。勢いあまってそのままダンスをするシーンもある。そして、ラスト、フィリップはドリスの小ニクい配慮で文通相手に対面することになる。“アンタッチャブル”から“アン”がはずれる、この幸福な変化がこの映画の醍醐味だと思う。


気になったシーンをいくつか。
ネタバレです。










苦しいこと(ここでは身近な人の死)を忘れて前に進みなさいという意味で使われていたように思う“move on”。物理的/精神的両方の意味で、一度落ちたところから上にのぼる意味で使われていたように思う“rise”。
一見すると同じ意味のようですが、“move on”がこの場所に留まりたいのに無理やり背中を押されたようなイメージで、“rise”はこの場所から自分の意志で動いたようなイメージだった。
何度か“rise”という言葉が使われていたと思うんですが、一番初めは、ベインのThe fire rises.ですかね。

アルフレッドが出て行った次の朝、家の玄関のベルが鳴って、ブルースが「アルフレッド?」とか言いながら階段下りて行きますが…。あれは、“玄関のベルが鳴ってるのになんで出ないの?”という意味なのか、訪ねてきたの人をアルフレッドだと思ったのか。どちらにしても、自分で追い出したことを忘れちゃったのかな。都合が良すぎる。それだけずっと身近な存在だったってことか。

アルフレッド関連だと、最後の墓場のシーンはブルースの両親の墓に向かって謝罪してた。ブルースに謝っているのかと思ってた。亡くなってもなお、アルフレッドは両親にも仕えていた。両親の代わりにブルースを護っている自覚があったんですね。

アン・ハサウェイの小憎たらしさはどのシーンでも魅力的。ネックレスを盗んだことがバレたときのOops.の表情。「ただし例外はある」と言ってブルースの杖を蹴っ飛ばして窓から逃げるときのスタイルの良さ。場末のバーの襲撃シーンでの「助けて!」と叫んだ後のいたずらっぽい表情。ジュノー・テンプルちゃんが財布盗んだの盗んでないのとワイワイやってるところを助太刀して、ちゃっかり時計まで盗んだときの茶目っけのある顔。ルーシャス・フォックスとの「君みたいなガールフレンドがいたとは」「彼、ラッキーよね」のやりとり。逃げちゃうかもといいながら、ちゃんと戻ってくるところ(でも銃を使ってベインを撃っちゃうところ)。

トム・ハーディというかベインは、大体のシーンでは、演説調の多少芝居がかった煽動口調なんですが、ブルースを奈落へ連れて行った最初の時だけは少し話し方が違う。So easy,so simple.のあたりの話し方は囁くようで色っぽい掠れ声になっている。このとき、マスクを剥ぎ取られたブルースは、動くこともできないし、もう死にかけなので、ベインは下手に威嚇する必要がないと思っているのかもしれない。あまりの弱さを蔑み、見下しているようにも思える。
ベインは立ち上がるときに、ブルースの胸のあたりに手を当てて体重をかける。あえて、そんな相手がみじめになるような簡単な方法で、ブルースに苦痛を与えているように見える。
実際、力の差が歴然なのは、その前の殴りあいのシーンでもわかる。ここは毎回、痛々しく見てられない。単純な肉体的な痛さもあるけど、煙幕のしょぼさもひどい。バットマンの隠し技的なのって、その程度だったっけ?

『ダークナイト』ではジョーカーが脱獄して箱乗りしているシーンが一番絶望的な気分になったんですが、今回は、雪の中、ウェイン産業の隠し武器庫から盗まれた戦車(?)が走るのを上からとらえているシーンで絶望的な気分になりました。静かすぎて、走るときに雪を踏みしめる音だけが聞こえてくるのが不気味。暴動は一段落して、すでにベインの陣営がゴッサムを支配しているのがわかる。

スタジアムの広告は、DoritosとUA.comなど実在の企業でした。プロダクトプレイスメント。

マーベルヒーロー大集合! 最初の『アイアンマン』公開時からずっと楽しみにしてました。
アメリカでの公開が5月頭だったので、日本でもGW映画にしてくれれば良かったのに。三ヶ月以上遅れた理由は諸説あるようですが、ようやく公開。
ただ、この時間がいけなかったと思う。予告編も何度も流されていたし、そのたびにどんどん期待が募ってしまったせいで、思っていたほどは楽しめなかった。
以下、ネタバレです。




各ヒーローたちの活躍どころがほぼ均等に与えられているけれど、それぞれの活躍とか人物背景がもっと観たくなってしまう。これでも、143分と上映時間は長めだし、個々のエピソードが観たかったら、単体の映画を観たらいいので、『アベンジャーズ』がこうなるのはわかっていたことだけど。それだけ、ヒーローたちが魅力的だということでしょう。
IMAX3Dで観たのですが、アクションがせわしなくて目が疲れてしまった。あんまり激しい動きのものは、3Dには向かないような気がする。

ヒーローそれぞれ個性が強いために、集められたところで急には打ち解けられない。前半の仲間内での争いシーンは案外長くて不評でもあるようなんですが、私はむしろそのあたりも好きでした。仲が悪いのが可愛かった。憎まれ口を叩きながら、わいわいやっていて、やっぱり根底ではこの人たち似てるんだろうなと思いながら観ていた。
さすがに皮肉吐かせたら右に出る者はいないトニー・スターク社長(アイアンマン)は口が達者だった。真面目っ子スティーヴ・ロジャース(キャプテン・アメリカ)とは合わないのはよくわかる。また、理系キャラな部分でブルース・バナー博士(ハルク)と社長が仲良くなるのが早いのも面白かった。
ソーと社長が反発するのも納得。それを止めに入るのが、弱いと思われたキャプテン・アメリカというのも良かった。じゃんけんでグーを出して勝った感じ。
この、みんながきゃっきゃやってるシーンにホーク・アイがいないのが残念。映画開始数分で、洗脳とはいえ寝返ってた。ジェレミー・レナーが好きなので、仲良くケンカしなの前半、みんなに加わってるシーンが観たかった。

ロキが可哀想というか可愛い。一人きりの悪役なんですけど、結構息巻いて威勢がいいわりには弱い。『マイティ・ソー』に続き、弟さんが拗ねているだけに見える。お友達もいないみたいだし、アベンジャーズに入れてあげたくなる。最後、ソーが連れて帰ってあげるあたりもなんとも。最近注目のトムヒさんが演じてるのも、私の中では注目すべき点です。『マイティ・ソー』、もう一度観返したくなりました。

俳優関係では、唯一キャスト変更があったハルク役のマーク・ラファロが良かった。『インクレディブル・ハルク』ではエドワード・ノートンが演じていて、彼は彼でかっこいいので最初、変更は納得がいかなかった。けれど、協調性がなかったような話を聞いてしまって、印象が悪くなった。物静かで穏やかを装う、頭脳明晰な役柄がとてもうまかったです。いまのマイナスイメージのエドワード・ノートンだと、おさえきれずにすぐにハルクになっちゃいそう。
それと、観たあとで知ったのですが、ハルクになったあとも動きはマーク・ラファロのモーション・キャプチャだし、表情や目の形など細かい部分も組み込んでいるらしい。単なるCGではなく、ハルク部分もマーク・ラファロが演じていたとはすごい。雄たけびもマーク・ラファロによるものだとか。もう一度観たい。

私がこの映画で一番笑ったのが、実はエンドロールの後のおまけ映像でした。あれは、あとで追加されたシーンらしいので、あの映像が観られたから三ヶ月以上公開が遅れたことも良かったのかな。いや、良くはないですけど、あれがあるとないとでは、少なくとも私の中での印象ががらっと変わる。
ケンカをしてたけど、一人の死をきっかけになんとか団結して、助け合いながら悪者を倒したあと、社長が打ち上げ的な意味を含めてアベンジャーズメンバーを食事(シャワルマ=ケバブ?)に誘う。たぶん、そのとき、よっぽど気分が高揚してたんでしょうね。観ている私たちもです。それで、エンドロールで少しクールダウン。
そのあと、店の映像。一つのテーブルを囲んで、ユニフォームのまま座るヒーローたち。後ろでは店内の清掃が始まっているので、もうすぐ閉店するっぽい。誰も、一言も口をきかない。
これだけなんですけど、ここに流れるなんとなく気まずい雰囲気がすごくおもしろい。社長は「なんでこいつら誘っちゃったんだろう…」って後悔してるんだろうけど、誘ったからにはあなたが盛り上げようよ! ああ、結局、この人たちは心から仲良くなったわけではないんだ…というのがよくわかっておもしろかった。エクスペンダブルズの面々の打ち上げは、あんなに和気藹々としてたのに。

なんにしても、キャラクターが見えるのはおもしろいです。アクションシーンよりも、前半のごたごたしてるところとエンドロール後のギスギスした空気が良かった。あと、一人きりのロキちゃんをどうにかしてあげて。


『大鹿村騒動記』


原田芳雄さんの遺作としても有名になっている本作。撮影がいつだったのかはわからないですが、公開後、まもなく亡くなられたとは思えないほど元気そうに見える。これも演技力なんでしょうか。
“偏屈だけど根は優しいオヤジ”、“望んでか望まざるか集団の指揮をとるリーダー気質の男”といういつも通りの役でよかった。今回は、人の親という意味でのオヤジ(親父)ではないのが少し違う。娘、息子はいないようです。その分、夫婦間の問題や愛に焦点が当てられている。

ベテラン揃いの出演者は、さすがに全員演技がうまい。岸部一徳、佐藤浩市、三國連太郎、でんでん、松たか子、瑛太など。登場人物が多く、それぞれのエピソードが少しずつ出てくるため群像劇の要素もあるけれど、それぞれの描きこみはあっさりしていて、上映時間は93分に収まっている。

奥さんと友人が駆け落ちして…というあらすじを聞くと、ドロドロしてそうな感じもするけれど、そこは田舎の村が舞台のせいなのか、どこかのんびりしていて、おかしみを含んでいる。悪人は出てこず、万引きが見つかっても、「顔見知りだから、金を払ってくれればいいんだけど」といった様子。
後半の歌舞伎のシーンが長いという話を聞いていたけれど、歌舞伎も本格的なものではなく、あくまでも村の人が演じているので、途中でおちゃらけが入ったりするので退屈はしなかった。普通の歌舞伎のようにぴきっと緊張感が持続するわけではなく、観客もにこにこしているし、あたたかな映画の雰囲気を損なうものではない。
一応、すったもんだはあっても、村を追放とか致命的な仲違いはせずに、事件というよりは本当に“騒動記”といった風で、観ていてとても心地の良い映画でした。

原田芳雄演じる風祭善が営業している鹿肉料理店『ディア・イーター』に“大鹿ジビエ”というポスターが張ってあって気になったんですが、実際に大鹿村ではジビエの地域ブランド化に取り組んでるらしい。また、『ディア・イーター』は映画後にそのまま、営業しているらしいです。行ってみたい!



来週から『アベンジャーズ』が公開になるため、おそらくIMAXスクリーンで観られるのは今週が最後だろうと思い行ってきました。
初日に豊島園で観たときにはそれほど違いがわからなかったのですが、もうストーリーがわかっているため、字幕を追わずに映像に注意して観ていたところ、IMAXカメラで撮影されたシーンがよくわかった。

前回の『ダークナイト』よりだいぶ増えていた。会話シーン以外はほぼIMAXで撮影されていたように思えた。IMAXカメラが高性能すぎて余分な音声を拾ってしまうため、会話シーンは撮影できなかった、というような記事を見かけたけどそのためでしょうか。

肌の質感や色が一番わかりやすかったように思う。より生っぽい。多少、赤みがかっている。見比べると、普通のカメラで撮影したほうは、肌が白っぽく、のっぺりして見えた。

以下、どのシーンがIMAXカメラで撮影されたものか、わかる範囲で。ストーリーを追いながらなのでネタバレです。



最初のゴードンの演説は普通のカメラ。その次の、CIAとベインの飛行機一連のシーンは全部IMAX。

ブルース宅のパーティシーンは普通のカメラ。そのあと、セリーナ・カイルがブルースの指紋を売ろうとした後、場末のバーで撃ち合いになるところはIMAX。

ゴードンが地下に連れて行かれるところはIMAX。そこでのベインと部下との会話、「何故、連れてきた?」などは普通のカメラ。

証券取引所襲撃から、ゴッサム市街でのカーチェイスはIMAX。その後、アルフレッドからお叱りを受け、「辞めます」「グッバイ、アルフレッド」までは普通のカメラ。しかし、その次の朝、裸で一人寝ているブルースが何故かIMAX。そのあと、呼び鈴を聞いて階段をおりてくブルースの背中もIMAX。扉を開けてルーシャス・フォックスと話すシーンは普通のカメラ。ミランダやダゲットなどと会社関係でごたごたするシーンも普通のカメラ。
車がレッカー移動されて、ブレイクに送ってもらうシーンもたしか普通のカメラだった。安アパートでのセリーナ・カイルとの会話、キャットウーマンの「Don’t be shy」、彼女についていくところも普通のカメラ。
この後、ベインのところへ行って、ガシャンと柵が閉じたところでIMAXカメラに変わる。そこから殴り合いはずっとIMAX。奈落に落ちて普通のカメラ。

奈落では、会話部分は普通のカメラで、穴の下から空を見上げたり、登るシーンはすべてIMAXだった。

ゴードンの病室でのシーンはすべて普通のカメラ。警官の地下突入、スタジアム、各地でプラスチック爆弾が爆発、刑務所の前でのベインの演説はすべてIMAX。演説をブレイクの家(?)でゴードンと二人で見ているシーンは普通のカメラ。

バットマンが戻ってきて、キャットウーマンにBatPodを託すシーンは普通のカメラ。クレイン先生の「デス!バーイ、エグザイル!」から、警察の奮起、ラストまでほぼIMAXですが、ベイン最期のシーンとタリア最期のシーン、ゴードンとの最後の会話シーン、ウェイン家の墓前シーンは普通のカメラ。


『ダークナイト』ではカーチェイスとか、病院爆破とか、シーンごとにまとまってIMAXカメラが使われていたようですが、今回はいろいろなところに細かくIMAX映像が挿入されていた。例えば、場面転換のときに何度か映った町の映像はすべてIMAXでした。

IMAX以外のシーンで少し気になったのは、孤児になったブレイクに大人たちが言った言葉が「Move on(前に進め)」なんですが、レイチェルのことでブルースとアルフレッドが言い争っていたときに、ブルースが「Move on」って言ってるんですよね。これは、ブレイクの話から少しかかってたりするのかな。それともただの定型なのか。

今回四回目ですけど、最後のカフェのシーンはどうしても顔がニヤッとしてしまう。あのラストで良かった! ハッピーエンド!

邦題に付けられてる“凍える太陽”はいるのかどうかわかりませんが、グレイだけよりは寒そうな感じが伝わっていいのかな…。季節感はまったくない、雪山が舞台。飛行機が雪山に墜落し、自然の脅威とオオカミの攻撃にさらされながら、無事に逃げ延びられるか、というストーリー。ジョー・カーナハン監督、リドスコ/トニスコ兄弟製作、リーアム・ニーソン主演の『特攻野郎Aチーム THE MOVIE』コンビですが、話の内容と雰囲気はまったく違う。ド派手だったAチームに対して、過去の回想などを抜かしてほぼ映像が雪山だけだし、地味に思えるかもしれない。でも、場面が変わらないのは、一つの事柄に集中できるし、緊迫感が持続するのに効果的だと思った。
以下、ネタバレです。




自然の脅威というよりは、オオカミによる攻撃のほうが深刻だった。神出鬼没だったり、気がついたら囲まれていたり、集団で人を食ったりという様子がそのままゾンビものに転用できそうで、サバイバルアクションというよりはホラー。来るぞ来るぞとビクビクしていたら、ギョッとする音とともにやっぱり来た!みたいな、ホラー映画でお馴染みの演出もあった。

ただ、驚かせるだけではなく、自殺まで決意した主人公が、極限の状態におかれることで必死に生きようと考えが変わったりと、ストーリー的にも見所はある。ただ、ラストは、やっぱり破滅型。自分を愛してくれなかった父の詩が心の奥に刻まれていた。幼い頃から刷りこまれてきたものは、なかなか消えない。

飛行機事故の生存者何人かでオオカミの群れから逃げるのですが、助け合うという余裕はないまでも、リーアム・ニーソン演じるオットウェイは頼りになるリーダーだった。最初、ブラッドリー・クーパー(Aチームでもフェイス役でした)キャスティング案もあったらしいですが、ちょっと若すぎる。顔の皺がいろいろな修羅場を潜り抜けてきたことを物語る、リーアム・ニーソンで正解。サバイバル知識も豊富なようだったし、終始落ち着いていた。あの仙人っぽさは若者では出せない。イケメンを主役に置いておいたほうが、華やかで派手にはなると思うけど。

上映前に、「エンドロール後に映像があります」とのアナウンスあり。最近、このようなお知らせが入ることが多いですが、作品を気に入ったらエンドロールまで全部観るでしょうし、エンドロールになった途端立ち上がるなら、そのようなおまけ映像は見ても見なくてもどちらでもいいと思う。席を立ちたい人を引き留めてまで見せるものではない。特に、この作品は二秒くらいでした。どうしても見なきゃだめというものではなく、補足。しかも直接的ではなく示唆に留めた映像。本当におまけです。気に入った人だけ見ればいいので、アナウンスはお節介ですよ。


過去の名作を週がわりで上映している“午前十時の映画祭”にて。
公開時に観たきりなので、特別版との違いなどはわかりません(追記1)。内容もほとんど忘れていた。E.T.は画像など見ると少し気持ちが悪い感じですが、動くと可愛かった。

ただ、脚本はそんなに良くできてないと思った。宇宙船に乗れなくて地球に置いていかれてしまったんですが、元々、何をしに来ていたのかわからない。迎えに来たときにもあっさり帰っていたから侵略しに来たわけではないのかな(追記2)。
自転車で逃げて、間一髪のところで空を飛ぶシーンも、だったら最初から飛べばいいのにと思ってしまった。ハロウィンの夜も、結局何が起こったのかいまいちわからない。

あと、撮影技術のせいなのかもしれないけど、瀕死状態で動かないE.T.がベッドに横たわっているシーンはただの人形がベッドの上に置いてあるようにしか見えない。実際、ただの人形なのでしょうが、さっきまで動いていたものが、息たえだえ…というようには見えない。その人形に、医師たちが必死で電気ショックを与えたり心臓マッサージをしているシーンはコントにしか見えなかった(追記3)。
続く、E.T.が生き返るシーンはエリオットの「I love you.」のセリフが引き金になったということでいいのかな。白雪姫? 生き返ったのがバレないように、棺桶に突っ伏して泣いてる振りをするのもコントっぽかった。さっきまでエリオットとE.T.が両方とも死にそうになっていた深刻で悲痛なイメージから一転する。

また、帰るときにエリオットの記憶を消したのかどうかも少し気になる。「いつでも君のそばに」みたいなことを言って、エリオットの頭を指すのは、記憶は消えるけど奥底に残るでしょうということなのか、それとも、文字通り、体は離れるけど思い出は残るということなのか。あと、宇宙船に乗るときに「行コウ」とエリオットを一回誘うのは意外だった。E.T.はそこまでエリオットのことが好きになっていたのか。

いろいろ気になるところはあるけれど、わかりやすい展開と、あの有名なテーマ曲で強引に押し切られて、やっぱり泣いてしまった。
あともう一つ、月をバックに自転車が飛ぶ有名なシーンは中盤よりももう少し前くらいで、クライマックスだと思っていただけに驚いた。ただ、目の前のスクリーンで流れ出したとき、映画館で観られて良かったと思った。ふわっと自転車が飛ぶときに、全身がぞわっとしました。

あと、前半にちょこちょこ出てきたE.T.ギャグは、時代を超えておもしろかった。結構、声を出して笑いました。ハロウィンで、ヨーダのお面をかぶった人をE.T.が仲間と勘違いしてしまうシーンが特に好きです。『E.T.』の世界に『スターウォーズ』が出てくるとは思わなかった。


追記1:音や画像が鮮明になっている他に、セリフが一部変更になったり、もともと着ぐるみだったりしたE.T.の動きをCGに変えたりという違いがあるらしい。だったら、瀕死状態もどうにかならなかったのか。着ぐるみのE.T.のほうが味がありそうだし見てみたい。

追記2:地球の植物の調査に来ていたらしい。いや、確かに植物に見とれてて宇宙船に乗り遅れた感じではあったけど。帰るときにも花の鉢植えを持たされてたけど。特に説明はなかった。そこから察しなきゃいけなかったのかな。

追記3:リアリティを出すために、医師たちは役者さんではなく本職の方々らしい。本職の方々が人形の胸のあたりを必死に押していたのかと思うと…。



試写会、IMAXで観て、今回通常スクリーンで。席が後ろのほうだったので、スクリーンがだいぶ遠く、小さく見えた。IMAXと比べてもどうしようもないですが、大きいスクリーンのほうが観ていて楽しかったです。
以下、ネタバレです。




『Mr.インクレディブル』を観て思いましたが、「町の平和よりもあなたの命が大事」と親身になって心配するのって、本当だったらアルフレッドじゃなくて奥さんの役割だと思う。それは、「外に出てくれるなら相手がチンパンジーでも」と言いたくもなるだろう。ここの、マイケル・ケインの「チンパンジー」って言い方が皮肉たっぷりで好きです。

ノーラン監督はベイン役について、「目と声だけの演技だから大変」と語っていた。表現できる箇所が少ないせいもあるのか、トム・ハーディの喋り方はいくぶん大袈裟です。でも、貧しい市民たちを煽動する演説シーンなどを観ていると、大袈裟で芝居がかっていたほうが、カリスマっぽくはなるのかなと思う。あと、最期のシーンでやっぱり涙がぽろっとこぼれていて、こうゆうマッチョで力押しな暴力系キャラが泣くシーンはなかなか出てこないと思う。ギャップがいいです。ノーラン、良くわかってる。
あと、トムハがシークレットブーツを履いているという話を聞いて気にして観ていたけどほとんど足元は映らなかった。スタジアムのシーンでも、博士の倒れた体でうまく隠されていた。

2004年公開。好評なのと、『ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル』のブラッド・バード監督なので、ずっと気になっていたところ、テレビで放映されたので鑑賞。

単純なヒーロー物の流れではなく、ヒーローとしての活躍部分は過去の栄光にとどめて、隠居生活に入っているところから始まるのが面白かった。近しい人がヒーローとは無縁の平穏な生活を望んでいて、当の本人はうぬぼれや正義感からヒーローに戻ることも望んでいるのはダークナイトシリーズのアルフレッドとブルースの関係と同じ構造。平穏な生活を望む側(妻)もヒーローであることは違いますが。
また、主人公かと思われた父親がとらわれて、それを母親と子どもが助けに行くという、一筋縄ではいかない珍しい展開もおもしろかった。
家族それぞれの特殊能力を適材適所で使っていくのも面白い。喧嘩をしても致命的な仲間割れはしないだろうし、家族でチームというのはなかなかいいのではないかと思う。

最終兵器である赤ちゃんの能力は最終兵器ゆえかもしれないけどちょこっとしか出てこないし、可愛くなったお姉ちゃんの今後も知りたいので、続編を作ってほしい。公開からだいぶ経ってしまってるので無理かな。
それか、栄光の過去部分ををとりあげた、ビギンズやZERO的なものを作ってほしい。フロゾンとのバディものでもいい。イラスティガールの若い頃もかわいかったので、もっと活躍部分が観たい。

今回、“豪華吹き替え陣!”と謳われていたけど、テレビ放映版の特別キャストなのかと思ったんですが、そうでもないらしい。Mr.インクレディブル役の三浦友和とイラスティガール役の黒木瞳は、二人とも下手ではないんだけど、元々の俳優さんが見えてしまう。自然といえば自然な演技。ヴァイオレット役の綾瀬はるかは、声にハリや力がなかった。でも、線が細いおとなしい子なので合ってるといえば合ってるのかな。
シンドローム役の宮迫は、かえって空回りというか、頑張っているのはわかるけど、わかっちゃったら駄目だろうというか。俳優が吹き替えをやる場合、大袈裟すぎるくらいの大袈裟な演技をしないと声優と同じようにはならないことはある。しかし、主役の三浦友和や黒木瞳が、ほぼ俳優演技のままなので、逆に耳についてしまった。『アベンジャーズ』のホークアイの吹き替えも宮迫ですけど、どうなるんでしょうか。