『GODZILLA ゴジラ』

旧作は観ていませんので、予備知識などはほとんどないまま観たけれどおもしろかった!すごく巨大だった。
以下、ネタバレです。









一応、家族もの寄りのストーリーがあるんですが、ごっそり無くてもいいような感じがした。特にアーロン・テイラー=ジョンソン演じるフォード関連のエピソードが余計に思えてしまった。最後も、爆弾処理班がその場面で生かされるのか!と思ったら、別に処理できていなかったし、都合良くヘリは来て救出されるし、家族ともすぐに会えていた。未曽有の災害っぽかったので、あんなにすぐに会えるものなのかな…と最後までしらけ気味になってしまった。

ハワイのモノレールみたいなところから外のパニックになった様を見るシーンや、レールの上で追いかけられるようになるシーンは、ムートーやゴジラに比べて人間の小ささが実感できたし、無力さもよくわかったので良かった。でもそれなら、別に名前のついた登場人物である必要はないし、家族の存在もなくていい。

父親が隠蔽を暴こうとして、疑っていたフォードもそれを信じざるを得なくなって…というのはあって良かった。ならばそちらだけで、フォードの奥さんと息子の話を削っても良かったのではないか。

あと、フォードの父親と渡辺謙演じる芹沢博士の話ももっとあっても良かったと思った。サリー・ホーキンス演じる助手ももっと活躍してほしかった。ちなみにフォードの父親役は、『ブレイキング・バッド』でウォルターを演じているブライアン・クランストン。
要は、アーロン・テイラー=ジョンソンが良くなかったような気がしてきた。『キック・アス』の時とは違って、だいぶビルドアップされていた。腕っぷしが強そうだし、これは『キック・アス3』はないな…と思った。『キック・アス』のときはもっと良かった気がしてたんだけれど…。役のせいなのか、筋肉のせいなのかわからない。
謙さんとサリー・ホーキンスとウォルター役の人の三人がうまく協力して、ゴジラやムートーと対して欲しかった。

でも、今作において、本当に人間は無力で対することはできていなかった。人間が様々なことを考えて、案を実行したとしてもうまくいかない。それだけ“敵”が強大すぎる。それに、向こうは別に人間のことなどどうとも思っていない。イェーガーでも出してこないと対抗できない。

車の窓から外を見ているようにワイパーが映る映像や、ゴーグル越しに見ているようにゴーグルの枠が映っていたりと、あたかも映画を観ている人がそこにいるような映像が多かった。
ゴジラとの最初の邂逅シーンも空港の窓の外に足だけが見えて、全体像はわからない。でも、窓から足しか見えてないということは、相当大きいことがわかる。そして、カメラが外に出て、下からぐわーっと上がっていき、顔のところまで行ったところで咆哮。ゴジラのとらえ方として完璧だと思う。
もちろん大きさを実感するためにはなるべく大きいスクリーンのほうがいいし、咆哮で劇場がびりびりなるので音響もいいほうが迫力あると思う。私はIMAXで観ました。

ハワイでバカンスを楽しんでいる人やサンフランシスコの会社にいる人などの前に、ゴジラやムートーは急に現れる。日常生活と隣り合わせでいきなり襲われるので、災害のような感じだ。今作において人間はどうせ無力で逆らうことなどできないのだから、一つの家族をピックアップしなくても十分に怖さは伝わるし、ピックアップすることで、逆にうまく行き過ぎ感がわざとらしく思える。

それで、その災害に立ち向かう方法として、イェーガーの無い人間たちができることはただ見守るだけなんですね。芹沢博士が、ゴジラに任せようみたいなことを言う。
なんとなく、芹沢博士は昔、旧作のゴジラを観ていて、ゴジラファンで、今作は物語の中だけだと思っていたゴジラが実在したのか!と思ってるような気がしてしまったけれど、そんな話ではなかった。
でも、それくらい、今作はリアリティがあるというか、実際の日常生活と地続きな感じがしてしまった。

ゴジラとムートーの対戦はまるでプロレスのような感じだった。別に人間を救おうと思ってやっているわけではないので、野生動物を見ているようだった。それでも、長い尻尾を巧みに使ったり、ムートーの体内に自分の口から出るエネルギー砲(?)を撃ち込んで攻撃する様子は恰好良かった。これも満を持して、終盤で出てくる。

人間関連のストーリーは置いておくとして、ゴジラは存分に恰好良く撮られていたし、ゴジラにその気はないにしても正義の味方のようだった。監督は相当ゴジラ愛が強いそうだと思ったら、大ファンのようです。
ギャレス監督は元々、幼い頃に観たスター・ウォーズがきっかけで映画の道に進んだらしいけれど、今度、スター・ウォーズのスピンオフの監督をすることも決まっているらしい。きっとそれも愛を感じるものになるんだろうな。

あと、これはどうなのかわからないけど、原発事故、津波、電力会社や政府の隠蔽、広島への原爆投下なども直接関係あったりなかったりする感じで描かれていて、ゴジラだから当たり前っちゃ当たり前なんですが、日本のことを意識して作られた作品だと思った。そのわりに、不思議の国ニッポンみたいな描かれ方をしてるけれど、『ウルヴァリン:SAMURAI』ほどではないです。

『複製された男』


『プリズナーズ』のドゥニ・ヴィルヌーヴ監督。予告編を見る限り、どんでん返しがある謎解きものみたいだったので一生懸命観ていましたがわからなかった。最後まで観て、騙された!というわからなさではなく、どういうことだかよくわからなかった。
『プリズナーズ』は途中でわからなくても、最後まで観ればすっきりしたんですが。

以下、ネタバレというか、観ていて多分そうゆうことだろうなと思ったこと。







ただ、そうゆうことだろうなと思うことがいくつかあっても、それらが繋がらないし、全貌はまったく見えてないです。

まず、母親はなんらかの事情を知っていそうだった。もしかしたら、ラスボス的なポジションなのかもしれない。
キーワードとなるブルーベリー。母親も口にしたし、アンソニーも有機栽培のブルーベリーの話をしていたし、アンソニーの家にもあった。
また、アダムは何も言ってないのに、アンソニーが三流役者であることを知っていた。アダムが少し不審そうな顔をしていたので、たぶんアダムが話したわけではないと思う。
母親が事情を知っているとして、考えられるのは双子かな。胸の下の傷と言っていたので、結合双生児かなとも思ったんですが、二人とも同じ側に傷があったようなので違うのかな。
アダムがアンソニーのふりをしてアンソニーの家にいるときに、奥さんが「お母さんから電話があったからかけてあげて」と言っていたので、そこでアダムがアンソニーのふりをして電話をしたら実の母が出て…みたいな感じに謎が解けるのかと思った。電話していなかった。

そもそも、邦題の通り、複製されたんでしょうか。原題はEnemyで、最大の敵はもちろんアダムにとってのアンソニーなんだと思う。これはこれで意味が通るので、邦題は原題とは別とすると、複製されてはいないのかもしれない。複製されたとして、どちらがどちらを?どのタイミングで?どのように?など、全部わからない。
追記:原作の小説のタイトルの邦訳が、“複製された男”らしい。

本当にそもそものところで、アダムとアンソニー、二人いるのかもわからない。二重人格かもしれない。でも、アダムの彼女が、指輪の跡はいつもはなかったと言っていたので、二重人格でもないのかも。
大体、役者と学校の先生という二つの職業の両立はできなさそうなので、二人いることはいるのか。

最初にアダムが講義していた内容、支配とか歴史は繰り返すみたいなのも、何か関係がありそうではあった。序盤で同じ講義風景が二回流れるのも気になった。

あと、謎の部屋ですよね。マンションの管理人さんが楽しかったと言っていた部屋。鍵がなくては入れない、鍵はこまめに変わるというところから、選ばれた者だけが入れる秘密クラブみたいなものだと思う。一番最初に流れた映像でしょう。
最初に流れた映像であの場所にいたのって、もしかしたらアダムなのだろうか。終盤でアンソニー宛ての封筒を開封して出てきた鍵を持って、訪れたところなのかもしれない。それは、アンソニーだかアダムだか、どちらかわからない人物がとてもつらそうだったから。なんとなく、アンソニーは少し病的というか、秘密クラブも楽しみそうなんですよね。アダムはその類のものに嫌悪感を抱いていそう。
というか、これ、アンソニーもアダムもジェイク・ギレンホールなんですよ。この演じ分けが素晴らしい。

あの秘密クラブの意味はまったくわからない。ただ、女性が大きい蜘蛛を踏み潰していたのが気になる。
それで、違うかもしれないんですが、秘密クラブに妊婦の裸の女性がいた気が。あと、アンソニーの家のタンスの中にあったハイヒールって、蜘蛛を踏み潰してたハイヒールかな…。アンソニーの奥さんは秘密クラブとなんらかの関係がありそうな気がする。

蜘蛛もキーワード的に何度か出てくる。アダムは町の中を巨大な蜘蛛が闊歩する夢を見ていた。
そして、ラスト、アンソニーの妻を呼びに部屋を覗いたら、部屋におさまりきらないくらいの巨大蜘蛛が。妻が食われたのか、妻の正体が蜘蛛だったのかがわからない。そもそも、非現実的だし、アダムの幻覚なのかも。でも、なんでアダムは蜘蛛の幻覚を見るのか。それもわからない。妊娠していることと関係があるのか。
そもそも、おなかの中のそれって本当に人間なの?というところから疑ってしまう。

こんな感じで、断片的な予想しかできない。しかも、点と点が繋げられない。公式がヒントを出していそうなので、ちょっと見てきます。

ネタバレ見ました。要は妊娠した妻と愛人と…という話のようで、見ないほうが夢があった。アンソニーの奥さんもそう言えばあの女みたいなこと言ってた。先生をやりながら役者をやってるということだろうか。
だから、複製されたって、誰かにやられたわけではなくて、自分の中で複製されたということなんだと思う。

そうすると、どこまでが本当なのかわからない。ホテルでアンソニーとアダムが二人で会うシーンはもちろん無いわけで。
最後の事故はあったのか。同日同時刻のように撮られていたけれど、結局一人しかいないのだから違う時間なのか。
アンソニーの奥さんが学校にアダムをたずねていくシーンはどうとらえたらいいのか。先生をやってることを知らなかったのか。知っていたけど、別人のような姿と、自分を認識してない様子に驚いていたのか。
あの秘密クラブもあるのかないのか。鍵が届いていたので存在するのか。でも、そもそも、彼とどんな関係があるのか。
蜘蛛のとらえ方もわからない。結局幻なのだろうか。それか、最後のシーンも夢なのかも。それで、奥さんとの和解のシーンが先で、愛人との喧嘩からの交通事故が後だとすると、少し怖い結末になってしまう。

2012年公開。イギリスでは2011年にテレビ放映、劇場公開作品ではなかったようです。『300<スリーハンドレッド>〜帝国の進撃〜』の戦う息子役のジャック・オコンネルが良かったので観たんですが、デイヴィッド・テナントもほぼ主役で出てきた。1958年に起こったミュンヘンの悲劇を描く実話。

サッカーに詳しくないので“ミュンヘンの悲劇”という事故も知らなかったんですが、それでも楽しめた。試合シーンはほとんどなく、中盤に問題の飛行機事故を据えて、そこまでのジャック・オコンネル演じるマンチェスター・ユナイテッドの選手ボビー・チャールトンの台頭と、それ以降のチームの再生とボビーの復活を描いている。

サッカーがよくわからなくても、少し前まで一緒にいて、雑談を交わしていたチームメイトの大半が一気に亡くなってしまうつらさはわかる。特に親しかった友人も亡くなった。喪失感もあるだろうし、なぜ自分は生き残ってしまったのかとも思うだろう。
それでも、もう一度サッカーを、と試合前の選手控え室の扉を開けるシーンが泣けた。扉の向こうの世界へ、文字通り一歩踏み出す。
そのシーンの少し後に、足を負傷したが奇跡的に命は助かった監督についても、別の試合での選手控え室の扉を開くシーンがある。
二人とも、扉を開けて、新しいチームを目の当たりにして一歩踏み出すのは勇気がいったはずだ。新しいチームを受け入れることは、前のチームメイトがいなくなったことを受け入れることでもあるからだ。それでも、信じたくない現実をしっかりと見据える、その強さが良かった。

デイヴィッド・テナントはコーチ役だった。前半はボビーを育て、後半はチームの再生に奔走する。遠征には参加していなかったので、飛行機事故も当事者ではないのだが、一番近い場所ですべてを見守る役だった。
デイヴィッド・テナントというとやっぱり『ドクター・フー』の印象が強いので、ドクターが別の役をやってるという感じになってしまうのかなとも思ったんですが、そんなことはまったくなかった。
少し痩せていたので、目の大きさが目立った。顔がかなり特徴的ですが、声も目立つ。前半の控え室で試合前の選手を鼓舞するシーンが最高だった。ちょっと舞台演技ではあるのかな。声を張り気味に、早口で話す。
後半の新しい選手をかきあつめて契約させて写真を撮るシーンの連続作り笑いも良かった。
飄々としていて調子が良くやっているだけのようでも、選手とチームのことを人一倍考えているのが伝わって来た。常に一生懸命だった。
事故のあと、病院に駆け付けて、惨状を見て、誰もいない階段で泣くシーンも良かった。人前では絶対に弱さを見せないが、耐えきれず一人で姿を隠して号泣していた。
役自体が良かったのかもしれないけれど、デイヴィッド・テナントにも合っていたのだと思う。

キーパーであり、飛行機事故のときには怪我人を救出し、チームにも早々に復帰していたハリー・グレッグ役のベン・ピールが恰好良かった。ジャクティン・ティンバーレイクにちょっと似ている。彼をイギリス顔にした感じ。2013年のTOYOTAハリアーのCMに出ています。

イギリス人俳優満載だから、出だしからかなりイギリス訛りなのかと思っていたけれど、考えてみたらサッカー選手だから余計そうなんですね。ボビーの住んでいるのもそれほどいい家でもなさそうだったし、おそらく労働者階級だと思う。

『素粒子』



2007年公開。ドイツでは2006年公開。『アグネスと彼の兄弟』のオスカー・レーラー監督。これもトム・シリング目当てで観ました。
原作小説がある作品ですが、監督が同じなので、『アグネスと彼の兄弟』と作風が似ている。こちらも兄弟が主人公。兄も弟もなにかと人生がうまくいかない。異父兄弟で、母親は子供を置いて出て行っているので、やはり親に問題があるのではないかと思ってしまう。

今作も自然な感じで悪いことが起こって行くというか、ほんの少し決断が遅れたことや、勇気が出なかったことが取り返しのつかない結果に繋がって行く。観ていてもそれは納得する行動で、私でも同じことをするかもしれないと考えてしまう。だから共感し、その結果を想い、胸が痛くなる。途方もない話ではなく身近な悲劇が描かれている。

弟ミヒャエルについては、プロムのようなダンスパーティーで幼馴染みから誘われた時に踊れば良かったのではないかと思う。あの場面で断っていなければ、もっと早くアナベルと親密になっていたかもしれないし、そうしたらアナベルだって遊び歩くようなことはしなかったかもしれないし、そうしたら病気にもならなかったかもしれない。
ただ、その頃は勉強に没頭していたし、ダンスをどう踊っていいかもわからなかっただろうし、彼にとって遠い世界のできごとだったのだろう。
それに、あの場面で踊ったとしても、親密になるとは限らない。親密になったとしても、アナベルが孤独感を抱かないとも限らない。遊び歩かなくても、他の要因で病気になるかもしれない。その先の無数の選択が良い方向に進まないと結局結果は同じになってしまうかもしれない。

兄ブルーノは、クリスティアーネが車いす生活になってしまったときに、一緒に暮らせるかと聞かれて口ごもってしまった。あの場面で、一緒に暮らそうと言えていたら、また、そのあとの電話がもう少し早ければ、クリスティアーネが身を投げることも無かっただろう。
ただ、あの場面で一緒に暮らそうとは言えない気持ちもよくわかる。これから付き合って行こうと思っていても、まだ出会ってそれほど時間が経っていないのだ。この先の人生を思えば戸惑うのも当たり前だと思うし、その後、電話をする勇気がなかなか出ないのもわかる。
それでも電話をかけたのだ。本当ならば、ここまで人生に行き詰まっていた人物が勇気を出したら、それが報われて、この場合クリスティアーネが電話に出て、めでたしめでたしとなるところではないか。だけど、ならない。もう悔やんでも悔やみきれない事態が起こる。

歯車が上手い具合に噛み合うことなんて実はそうそうない。噛み合わない場合の方が圧倒的に多い気がする。そっちのほうが印象に残るからかもしれない。だから、共感してしまうし、胸にぐさぐさと刺さる。

それでも、原作は違うらしいですが、この映画はハッピーエンドなのだと思う。ミヒャエルは結局アナベルと一緒にいることを決めたようだった。
そして、ブルーノを病院から海へと連れ出すシーン、海辺に四つ椅子が並べてあって、ミヒャエル、アナベル、ブルーノが座っているが、一つは空いている。クリスティアーネの椅子なのはわかる。ここで、アナベルが「あなたたち二人もアイスランドに来ない?」と誘う。ブルーノにはクリスティアーネが見えていて、ミヒャエルとアナベルもそれに合わせてあげているのだ。
映像で直接描かれているわけではないけれど、二人は病院からブルーノを勝手に連れ出したわけではないだろう。ちゃんと医者にブルーノの症状というか、事情を聞いて、全て了解した上で外へ誘ったのだ。
何も言わないで合わせてあげる、この優しさが家族ならではだと思う。

最後に、ブルーノは生涯入院生活だったが幸せだったようだという文章が出て、もう彼が幸せならばそれでいいのではないかと思った。思春期の悲惨な体験の数々の話も前半に出てきたし、もう充分酷い目に遭っている。無理に真実をつきつける必要なんて無い。医者からも、ミヒャエルとアナベルからも、そんな優しさを感じた。

『アグネスと彼の兄弟』よりもこちらのほうがストーリーが重めだったり厳しかったりするけれど、ブルーノを優しく包み込むような終わり方が優しかった。クリスティアーネは実際にはいなくても、もう彼は孤独じゃない。

ブルーノ役は、『アグネスと彼の兄弟』でセックス依存症の兄を演じていたモーリッツ・ブライプトロイ。この映画でもクリスティアーネに会うまでは性欲に支配されている、似た感じの役だった。モテなくて、女性との距離のとり方もいまいちわからない。この役者さんがそういう役がうまいのか、オスカー・レーラー監督がそんな役で使いたがるのかわからないけれど、よく合っているし、うまい。他の出演作を見ていると、『ワールド・ウォーZ』なんかにも出ていて驚いた。

トム・シリングは過去のミヒャエル役。プロムで踊れない役ですね。眼鏡をかけていて、神経質っぽい役だった。『アグネスと彼の兄弟』のような悪ガキとはまったく違う。でも、暗さがあったり、悩みを抱えてそうな役なのは共通している。『コーヒーをめぐる冒険』でもそうだった。内面をすべては見せていない。これはこの俳優さんの味なのかもしれないし、魅力的だと思う。彼の出演作がもっと観たい。今回はあんまりジェームズ・マカヴォイには似てませんでした。

ブルーノが過去の話をするとき、ミヒャエルが過去を思い出す時、色鮮やかな映像で語られる。きっと、育児放棄にも見えるけれど、母親のことも恨んではいないんだろうなと思う。

観たあとで、この映画のジャケットを見ると初めて意味がわかる。椅子が五つ並んでいて、ミヒャエル、アナベル、ブルーノ、そしてクリスティアーネが座っていて、一番後ろの椅子には若かりし日の母が座っている。とても、母親らしい恰好ではないけれど、一番後ろに椅子が配置されているのが、なんとなく全員を見守るような形になっている。
歪な形でも、どうしようもなくても、家族として繋がりを感じて泣ける。



日本だと2005年のドイツ映画祭で上映されたらしい。ドイツでは2004年公開。トム・シリング目当てで観ました。

三人兄弟それぞれの揉め事の話なので、『ひかりのまち』や『8月の家族たち』と似た印象を受けた。ただ、本当に個々の揉め事で、彼ら兄弟間のやりとりはそれほどなかった。男兄弟だとそんなものかなという気もするけれど。

また、タイトルを見るとアグネスが中心でその兄弟の話はそれほど出てこないのではないかと思うが、むしろ、アグネスが一番少ないくらいで、兄弟二人のエピソードのほうが分量が多く感じた。けれど、邦題詐欺というわけではなく、原題がAgnes und seine Brüderなので、おそらく、原題のままだと思う。

三人とも、家族間の問題やら、セックス依存症やら、性転換からのごたごたやら、人生がうまくいっていない。悪人が酷い目に遭う分にはザマーミロという気持ちになるけれど、この三人については、悪人というわけではなく、切羽詰まった中で踏み外した小さな一歩からごろごろと転げ落ちるので、他人事ではない。身近な悲劇に感じる。

それでもきっかけが小さな踏み外しなので、ぼろぼろではあっても三人ともに対して、回復の兆しや光が見える。身近な悲劇に救いがあるのは観ていてほっとする。

ただ、最終的にそれで良かったのかわからない。一人の兄の妻は家を出るのをやめたけれど、家庭の問題がそこから修正できるのかわからない。もう一人の兄は運命の恋人に出会えたけれど、父を殺しているのでいずれ捕まるだろう。アグネスは昔の恋人とのわだかまりは消えたようだったけれど、おそらく性転換手術のときに負った何かで命を落とす。ただ、最期に見た幻は優しいものだったので、これで良かったのかもしれない。

三人の父親は、子供が12歳までおねしょしていたことを近所に言ってまわる、子供に性的虐待をする、妻が出て行っていることなどから、問題のある人物であることは間違いない。三兄弟がそれぞれ問題を抱えてしまったのも、父親の影響があるのかもしれない。
父親を殺してしまった兄は、アグネスがいまでも相手をさせられていると思い込んでいたし、自分の状況もままならなかった。私から見ても、あの父親の影響を疑うのだから、当事者が、すべて父親のせいだ、あいつがいなければ…という思考回路に陥ってしまうのも仕方がないのかもしれない。その翌日に人生が好転するのは、皮肉としか言えないけれど。

アグネスが良いキャラクターだったので、もっと彼女の話が見たかった。これは性転換ものではよくあるパターンでもあるのかもしれないけれど、少しヘドウィグを思い出した。
夜、出歩いて、同居人と喧嘩をし追い出される。夜に出歩くのもさみしさなどがあったのでしょうが、それはアグネスが悪い。
病気のことを誰にも言わないのは、周囲の人に心配をかけたくなかったのだと思う。そして、性転換のきっかけとなった男との再会のシーンが泣けた。責めることはしないで、許したのは、彼と会うのが最後になるとわかっていたからだろうか。スターになった彼に再会して、あなたには野心があったのだから仕方ないと告げるさまが良かった。また、一緒に部屋を抜けようと誘われても気丈に断っていた。今更ついて行ったところで得られるものなど何もないこともわかっていたんだろうし、自分の病気のことも考えたのだろう。ここでの行動が本当に恰好良かった。

トム・シリングは一人の兄の息子役だった。思ったよりもたくさん出番があって満足。年頃の息子ってあんな感じなのかもしれないけれど、憎たらしいし、親の心配をよそに家を空けて「友達とレイヴに行っていた」とか言っちゃう。高校生か大学生か、ある程度の年齢っぽいけれど、まだまだ子供という役柄だった。
『コーヒーをめぐる冒険』は2012年で、この映画はそれの更に8年前になるんですが、この時のほうが、ジェームズ・マカヴォイに似ていた。


日本ではDVDスルーだったようです。ドイツでは2010年公開。原題『Rammbock』。邦題のとおり、ドイツのゾンビ映画です。テオ・トレブスくん目当てで観ました。主人公と一緒に逃げたり戦ったり篭城したりする少年役。

ゾンビ映画なんですが、あまりゾンビが映らなかった。影からばっと出てきて驚かせるということもなく、血もそれほど出ず、内臓を引きずり出すわけでもない。ショッキングシーンはほとんどないので、怖くなかった。走って追って来るのでハラハラはするけれど、それほどでもない。パッケージのほうがよっぽど怖い。

舞台が集合住宅で、部屋の中から下にいるゾンビの様子を見るということが多く、距離があるので怖くないというのもある。それでも、食料やトイレの心配はあって、ちょっと家の外に出ると遭遇しちゃう。家の中にいる分には安心ではあるけれど、いつまでもはいられない。さあ、どうしよう?という、本当にピンチになる一歩前なので、緊迫感もそれほどなかった。
ちょっとした器具を作るシーンがあって、主人公が工作系が得意だということが判明するんですが、出来上がった器具と一緒に「撮るよー」みたいなことを言って記念撮影をしていた。呑気である。

ゾンビ映画にはそれぞれのゾンビルールがあると思うんですが、今回のルールは、走って追って来るタイプ、音に敏感、外見の特徴は白目(見えてない?)、噛まれてもアドレナリンが出なければ発症しない、弱点は光(フラッシュ?)というところでしょうか。

あと、ゾンビ映画ではよくある、大切な人がゾンビになった時にどうするか?というゾンビセンチメンタルは踏襲されていた。ある人は噛まれた奥さんを精神安定剤で鎮めていたけれど、発症してしまったあとは道連れにするように一緒に窓から落ちていた。
主人公の元恋人もゾンビ化してしまったが、そのとき、主人公も噛まれていたので、最後に抱きしめてあげていた。元々は別れた彼女の鍵を返しにアパートに来たのだ。あわよくば復縁を望んでいたようだったし、最後に会えて本望といったところか。

テオ・トレブスくんについてですが、彼自体に少し影があったり、謎めいた印象があるので、何か秘密があるのかと思っていたら何もなかったのは残念だった。しかも、元彼女の部屋に何故か居た美少年なのかと思っていたのに、Wikipediaを見たら鉛管工だったらしい。確かに、テオくんと一緒にいて早々にゾンビ化していたおじさんはアパートの管をいじっていたし、彼と来たとすれば、鉛管工なんでしょうけども…。
もっと、このゾンビ騒動のきっかけを作った人物であるとか、未来から来た主人公の子供であるとか、実は女の子であるとか、何かしら、はっとするんでもぎょっとするんでもいいから秘密が欲しかった。
トイレのドアが閉鎖されてて、シンクでしようとしたけれど、ここではするなと怒られ、部屋の花瓶の中にして、その花瓶が何故か透明で、それを窓の外から下へ捨てるという描写はあれはなんだったんだろう。サービスでしょうか。
お母さんが電話に出ないのも何かの伏線かと思ったけれど、特に回収はされなかった。彼に関してもゾンビセンチメンタルがあると良かったけど特に無かった。
それでもやっぱり、顔が綺麗だし、むっとしたような無愛想さも幼くていいし、同じアパートの女の子に褒めてもらった時の得意げな顔も可愛かった。主要キャラのため、『コーヒーをめぐる冒険』よりはこちらのほうが断然出番が多いです。

タイトルのRammbockがドイツ語の翻訳サイトで見てもよくわからなかったんですが、城壁や城門を壊すのに用いた破城槌のことらしい。劇中で隣りの部屋に行くのに外にはゾンビがいるから壁を破る道具を作ってたんですが、それを指していそう。
(RammsteinもRamme(激突する) + Stein(石) = 破城槌って言われてるけど、どうなんでしょう。ちなみに、Bockは“行くことを拒絶する”という意味みたい)


桜坂洋のライトノベルが原作。漫画化もされているとのこと。どちらも未読なので、映画版との違いはわかりません。

以下、ネタバレです。









記憶を残したまま時が戻って、同じ時間を何度も繰り返すいわゆるループもの。ただ、何をしようと結果は同じになってしまうというものではなく、ちょっとずついろいろ変えて先に進める点、死んで最初に戻る点は『ミッション:8ミニッツ』系。ただ、あれはあれこれやりながら真実に近づいていく話でしたが、こちらは異星人だか謎の生命体の進撃を止めるということで、よりアクション色が強いかも。

予告編を見た時に、死んで記憶を残したままやり直すというところがゲームっぽいと思った。実際、死んで元に戻って、戦場に繰り出したときに敵やその他の人など、主人公以外の動きは同じなので、敵の動きを憶え、右に避け左に避け、ここで攻撃など、記憶をしながら少しずつ進んで行くさまはアクションゲームのようだった。

また、闇雲に進んでもだめというのもゲームっぽい。戦場でリタという女性に会って、「私をさがして」と言われる。ただ戦場に来ただけでは先に進めず、突入する前にリタをさがさねばならないのだ。
リタをさがすためにも、分隊から一次離脱をはからねばならず、その離脱の途中で失敗して死んだりもしていた。こんなつまらないところで…というのが、アクションゲームではよくあることだし、この作りにはすごく納得した。

また、アクションパートの操作ミスでの死だけではなく、アドベンチャーパートで選択肢を間違えてバッドエンドを引き起こしてしまうこともあった。この場合、必ずしも死ぬわけではないので、リタにリセットと言われながら銃で撃たれて殺されていた。
アクションパートはともかく、アドベンチャーパートは選択肢を手当たり次第ためしていて、途中セーブができないから失敗すると最初からやり直しだし、私だったら攻略サイトとかどうにかして解答を見ているところだと思った。

そうやって、途方もない回数、最初からやり直しているんですが、映像の作り方に無駄がないのがうまいと思った。前回と違う部分だけ流しても、ループしている気がしない。かといって、同じ映像ばっかり流すのも退屈。
同じシーンでは主人公が面倒くさそうにしてたり、先のことを言って他の兵士を驚かせたりと、多少コミカルに作ってあるのがいい。そして、見慣れたシーンから新しい場所へ進めたときには、まるで自分がゲームを進めているかのような、ほっとした感じとこれから何が起こるんだろうという期待感に胸が包まれる。わくわくする。

主人公のケイジを演じているのがトム・クルーズなんですが、彼の演技が際立ってうまく感じた。ループしているのは彼だけだから、というのもあるかもしれない。
元々は広報だったケイジが軍隊に放り込まれて、最初は戸惑いしかないんですよね。戦場に向かう飛行機の中では恐怖で表情がかたいし、安全装置の解除の仕方もわからないまま戦場に出ることになって、わたわたと何も出来ないまま、あっという間に死ぬ。
二度目は戸惑いと混乱の中、これもあっという間に死ぬ。
回を重ねるごとに、そしてリタの話を聞くことで事情をのみこみ、余裕と繰り返した重みが備わる。どんどんタフになるし、顔つきも精悍になっていく。

もちろん、すべての回を見せているわけではないので、全部で何度ループしているのかわからない。映画内で初めて流れたシーンでも、リタと会話をするときに、「これが初めてじゃないの?」と聞かれて曖昧に笑っていた。
死ぬことで元に戻ることがわかってはいても、毎回恐怖も感じただろう。途中で無駄死にも何度かしたはずだ。
それを全て乗り越えて、最後、何度目かわからないリタとの出会いのシーンで、微笑んで一瞬涙ぐむのがすごくうまかった。いままでの苦労とまた会えて良かったというリタへの想いと気のゆるみなど、全部が凝縮されたあの表情は本当に素晴らしい。

リタとの出会いのシーンですが、リタ役のエミリー・ブラントが黒いタンクトップで一人腕立て伏せみたいなのをしてるんですね。そして、近づいて来たケイジを不審そうに見ながら、体をぐっと反らす。体は汗で光っている。
このシーンはループで何度も流れます。たぶん、いいシーンだからだと思う。

ケイジはリタとのこの出会いを何度も経験している。リタとしては毎回初回だから不審な顔をするんですが、ケイジは懐かしそうな嬉しそうな顔をしていたと思うんですね。最初から始めてここまで来るのも一苦労だろうし、とりあえず会えるところまでで一段落なんだと思う。それで、その時点では初対面でも事情を知っているのは彼女だけだし、何度も出会ってその都度打ち解けることで、特別な感情も芽生えただろう。

そんなケイジの想いを踏まえた上で、最後の一瞬涙ぐむ表情を思い浮かべると泣きそうになってしまう。

敵がいまいち何者なのかは最後までよくわからないんですが、別にその解明をされたところで解決することはなさそうだし気にすることもないのかな。倒し方は水の底のコアみたいなところに爆弾をぶちこんでいて、少し『パシフィック・リム』を思い出した。

あと、ロンドンが舞台だと聞いていたんですが、あまりロンドンらしさはない。しかし、特別に許可されたというトラファルガー・スクウェアでの撮影は大興奮。あの狭いスペースにイギリスの軍用ヘリが…。場所的に作戦本部はナショナルギャラリー内なのかな。

ディズニーアニメ版の『眠れる森の美女』の裏話かと思っていたら、まったく違う話だった。同じディズニー配給だし、アニメ版に忠実に作るのかと思っていた。私はアニメ版が好きで思い入れがあるので、違いについて考えながら観てしまった。

以下、ネタバレです。







まず、マレフィセントが幼少の頃の話から始まる。子供のステファン(オーロラ姫の父)と友達になり、幼馴染みのようにして二人が育つが、ステファンは王になりたいがためにマレフィセントを裏切り、羽根を狩る。
ステファン王ってこんなに悪い奴だったのか!と思いつつも、まあ、欲に目がくらんだのだろう。そして、マレフィセントも裏切られたんだから恨むのは当たり前だし、生まれた子供(オーロラ)に呪いをかけるのも納得。
でも、納得できたのはここまでだった。

三人の妖精のオーロラに対する祝福なんですが、アニメだと“美貌”と“美しい歌声”、それに“マレフィセントの呪いは真実のキスで解ける”という三つだった。
この映画だと、“美貌”と“幸せな人生”、呪いの緩和は、マレフィセントがステファン王を跪かせることで自ら行う。これ、ステファン王役のシャールト・コプリーが許しを乞うシーンを入れたかっただけじゃないかな…。その姿は確かに似合ってた。けれど、三人目の妖精の祝福は有耶無耶のまま無くなってしまった。

三人の妖精が山奥の小屋で16歳までオーロラを育てるのはアニメと一緒。けれど、妖精たちは育児放棄のようにまったくオーロラをかまわない。三人のケンカに夢中。アニメ版だと、16歳になったときに、「昨日までこんなに小さかったのに…。離れたくないわ」って言いながら泣いているくらい本当の親のように可愛がっていた。
それで、この映画だと妖精の代わりに誰がオーロラを育てているかというと、マレフィセントとお付きの カラスなんですね。アニメ版だと16歳の誕生日当日に居所をつきとめるのに、この映画では城から退避して来たその日にもう居所がマレフィセントにバレている。

さすがに赤ちゃんのときは出歩かないけれど、オーロラは幼少期からマレフィセントのところへ夜な夜な遊びに行っている。これを16年間続けていて、一緒に住んでいる妖精たちは何も気づかないというのは迂闊すぎる。そんなことがあり得るのだろうか。

フィリップ王子とオーロラ姫が森の中で出会うのはアニメ版と一緒。だけど、決定的に違うところがある。ディズニーアニメ版『眠れる森の美女』ではここでオーロラ姫がテーマ曲である『Once Upon A Dream』を歌うんですね。“私、あなたを知ってるわ。いつか見た夢の中で一緒に散歩をしたもの(I know you,I walked with you once upon a dream.)” 映画の中で、一番大切なシーンだと思う。
なのに、この映画では一目惚れということにされていた。違う、二人は夢の中で会ってるんですよ! 初対面ではない。ここを変えられてしまっては、ディズニーアニメ版とは別物と思わざるを得ない。大切なテーマ曲である『Once Upon A Dream』が意味をなさなくなってしまう。
この映画の中では、オーロラは夜な夜なマレフィセントの元へ行っていたわけだし、王子様の夢を見る暇なんてないんですよね。もういっそ、王子を出さなくても良かったのではないかと思う。

この後、オーロラは自ら城に乗り込んでいって糸車で指を刺して眠りにつく。それを助けに行くのが、マレフィセントとマレフィセントが馬に変えたカラス。それと、マレフィセントに魔法で眠らされた王子。しかも、眠ったオーロラの元まで、王子を先導するのはマレフィセント。
アニメ版の王子は、眠ったオーロラの元まで茨をかき分け、マレフィセントと戦って、自分の力で駆け付ける。
オーロラの元にも人の力で連れて行ってもらう、更にオーロラとも一回会っただけでは王子が出て来る意味が本当にないと思う。もうオーロラ姫を起こす真実のキスだって、性別とか王子様でなければいけないなんて決まっているわけではないし、マレフィセントのキスでいいんじゃないの?なんて、半ば自棄になって考えていたら、本当に王子のキスでは目覚めず、マレフィセントのキスで目覚めた…。これ、作ってる側も王子の必要性を感じてないんじゃないの…。

そしてラストはマレフィセントとステファン王のバトルです。目覚めたオーロラがマレフィセントの翼を見つけ出して、マレフィセントの背中にぶわっと翼が戻った時に、もうなんの映画を観てるんだかわからなくなってしまった。
オーロラは、赤ちゃんのときに両親と離されている。いくら変わり果てた姿とはいっても、父親との再会みたいなシーンは一切無かった。それどころか、マレフィセントに加担しちゃう。
しかも最後、マレフィセントがステファンのことを拳で殴っていた。魔法は…。そして、ステファンが突き落とされても、オーロラがどうしてたのかは一切映らない。実の親より育ての親のほうが大切なのだとしても、葛藤みたいなのもないのか。描かれてないから不明。

マレフィセントを主役にした話が作りたかったのはよくわかった。でも、そのせいであらゆるシーンがマレフィセント都合に変えられてしまった。これなら、ディズニーアニメ版とはまったくの別物として欲しかった。“ディズニーが隠したかった真実”という宣伝文句が付いていたので、あくまでもディズニーアニメ版に準拠した内容になると思っていた。

アニメ版に思い入れが無かったら楽しめるのかもしれない。私はディズニーアニメ版が大好きなので、『Once Upon A Dream』がないがしろにされただけでもうだめです。ちなみに、歌うシーンがないので妖精の二つ目の祝福が“美しい歌声”ではなかったんだとあとで気づいた。

シャールト・コプリーはいつも通りのアクの強い、憎たらしい役だった。最後の方に着ていた鉄の鎧もよく似合っていた。
あと、カラスが人間になったときの役がサム・ライリーで、彼も良かったです。卑屈になりきらない、でも自分を殺しつつ、マレフィセントに仕え、優しい視線をオーロラに向けるという良い役。
『九十九』がアカデミー賞短編アニメーション部門にノミネートされたのも記憶に新しい森田修平監督作品の一気見に監督のトークショーが付き、更にこの7月からの新アニメ『東京喰種』の一話の放送まであるイベントに行ってきました。
いままで森田監督作品は『FREEDOM』しか観ていなかったのですが、まとめて観られる貴重な機会だった。また、『九十九』祝ノミニーの凱旋上映でもあったらしい。

以下、全ての作品についてネタバレがあります。





『カクレンボ』
2005年の作品。
3DCGのため、人物の動きが少しぎこちなかった。ただ、3DCGは人間の表情を描くのは難しいけれど、今作では全員狐の面をつけているので、それが隠せたとトークショーで言っていました。500万の借金をして、一年間で作り上げたとのこと。
童歌と神社に祀られた神様の不気味さみたいなのがよく表現されてた。仏像がからくりのように目玉がぎょろっと、パーツがガシガシ動き出し追いかけてくるのが怖い。
かくれんぼというよりは鬼ごっこのようだったけど、「もういいかい」「まあだだよ」という怖い呼びかけもかくれんぼでしか使えないし、子供が神隠し的なものに遭うために、やはりかくれんぼを題材にするのがちょうどいいのかなと思う。
香港のようなネオンで漢字が浮かび上がっている看板とか、すごく高い塔など、美術面も凝っていた。



『コイ☆セント』
2010年の作品。
平城遷都2000年の祭り中なので、舞台は西暦2710年とのこと。ネオ奈良といった感じだが、街並はかに道楽の未来版みたいなのがあって大阪のくだおれみたいだった。
これも3DCG。ファンタジーだし未来の話だし、ホログラムで浮かび上がるバスガイドなども出て来るからこちらのほうが合ってると思う。それか、だいぶ間があいているみたいなので、技術が上がったのか。
小さいおばさんとごついコミカルな兄弟が追ってくるとか、空から女の子が降ってくるとかラピュタから影響を受けてるようなシーンが多くあった。けれど、一緒に観に行く映画がたぶん『ローマの休日』だったので、逃げて来て身分を偽った姫がつかの間のデートを楽しむということで、和風のローマの休日でもあるのかもしれない。
こちらは大仏と風神雷神がからくりっぽく動く。『カクレンボ』と同じテイストが生きてる。



『九十九』
アカデミー賞短編アニメーション部門ノミネート作品。『SHORT PEACE』というオムニバスの中の一遍。映画は2013年公開だけど、この作品単体ではもう少し前に出来上がっていたらしい。
古いほこら、妖怪、畳、襖、浮世絵、おまけにMOTTAINAIがテーマで、外国の人が好きだろうと思われる要素がこれでもかとつめこまれてた。富士山が最後にばーんと映るのも完璧。
ただ単につめこまれているわけでなく、カエルをモチーフにした傘の妖怪の動きはコミカルだし、着物がぶわっと嵐のように舞うのも綺麗。狭い部屋を囲む襖の柄も傘の部屋は目玉のような、傘を上から見たような二重丸だったり、着物の部屋は見返り美人のようになっているなど凝っている。
最後の部屋で、もう再生できないほど痛んだ者たちが、からくりのように一つの形を作り出す。ここでもからくりが出てきた。
からくりだけは三作品に共通して出て来るので、たぶんお好きなのかなと思ったら、妖怪好きらしいので、あれらはからくりというより妖怪なのかもしれない。本来物質であるものに命が宿っているからそうか。

ごつくて荒々しく見えるけど、器用で優しいという主人公のキャラクターもいい。
監督によると、あらすじ自体は地味で文章で説明しても面白く感じられないけど、映像で見ると面白い、まんが日本昔ばなしみたいなのが作りたかったとのこと。すこし説教が入っているあたりも昔ばなしっぽい。
アカデミー賞授賞式に監督は紋付袴で出席。ジョン・ラセターともハグした。また、マシュー・マコノヒーにも声をかけてもらったらしく、アカデミー会員でもある彼に「お前に投票したよ!」と言われたとのこと。


『火要鎮』
これで“ひのようじん”と読む。『SHORT PEACE』より、大友克洋監督作品。今回のイベントは森田監督一気見ですが、『SHORT PEACE』の上映もあったため、他の監督作品も含まれます。
上下に和柄のラインが入っていて、まるで絵巻物のようだった。登場人物も日本画のようだった。
最後のようで大火事が起こるんですが、まるで生き物のような、火の表現のうまさも堪能できる。
森田さんのべらんめえ演技ががうまかった。


『GAMBO』
『SHORT PEACE』より。『茶の味』『PARTY7』『ナイスの森』などの石井克人監督作品。最近はアニメも撮っているのを知らないかった。
山奥の村のような場所が舞台だったけれど、こんな場所に白熊が?と思ったら、見ていくうちに別に白熊ではなかったらしい。聖獣みたいなものなのかな。村を襲う鬼と戦うと、体が血で染まるのが目立つから白かったのかもしれない。
鬼の非道な行動は、吐き気がするくらい情け容赦なかった。


『武器よさらば』
『SHORT PEACE』最後の作品。ガンダムのメカニックデザインのカトキハジメさんの監督作品。
ここまで、和風だったり、時代が昔の日本だったりしたので、そうゆうコンセプトでやっているのかと思ったら、これだけおそらく未来の日本が舞台だった。富士山が映ったので未来は未来のようだけれど、日本人が出てこないので時代は不明。でも少なくとも着物の時代ではないと思う。テイストが他の三作とは違う。
そして、名前からして欧米人がパワードスーツを着込んで潜入しようとしている。
このパワードスーツも戦う戦車も乗ってた車も、デザインと書きこみが細かさが恰好良かった。これくらいの出来の良さで『機龍警察』のアニメが見たい。
パワードスーツを着ていたり、武器を持っている人間を認識して攻撃する戦車が出て来る。武器を持って侵略してくる欧米人を攻撃しているので、どこの国の人なのかをわざわざ伏せているのかもしれないけれど、たぶんアメリカ人なのかな…。


『東京喰種トーキョーグール』
森田監督初のテレビアニメ。
原作があるものだし、からくりは出てこない。それに和風テイストでもない。
でも、人ならざるものが出てきたり、単純に人でないものが悪というわけではない話というのは監督の好みらしい。
一話目だけではなんとも言えないですが、背景の夜のビルなどがすごく丁寧で、大きなスクリーンで観ても耐えられるくらいだった。
また、人を喰うことをためらっている主人公が無理矢理口に押し込まれ、ぱっと画面が暗転してごくんという呑み込む音がするという演出がうまかった。喰うシーンを映さなくても、食べちゃったんだ…というのを察することができる。この察せよがたまらない。


『クラッシュ』のポール・ハギス監督。
予告を見ると、パリ・ローマ・ニューヨークの三都市が舞台らしいのと、リーアム・ニーソン、エイドリアン・ブロディ、ジェームズ・フランコの三人が出るのがわかる。おそらく、三都市それぞれに一人ずつ配置しての大人のほろ苦ラブストーリーなのだろうなと思っていた。なぜか、オムニバスだとも思っていた。

実際は群像劇だったんですが、それだけではなくて、思っていた話ともだいぶ違いました。

以下、ネタバレです。






ネタバレとは言っても、完全に理解しきれてないと思うので私の解釈です。

スコット(エイドリアン・ブロディ)の話はローマなんですが、マイケル(リーアム・ニーソン)はパリのホテルにいるとして、リック(ジェームズ・フランコ)はニューヨークなのか、ちゃんと場所名が表示されるわけではないのでいまいち自信がなかったけれど、消去法でニューヨークかなと思った。その他に、子供の虐待疑惑がかけられているジュリア(ミラ・クニス)の話という4つが同時進行している。時間帯が同じようだったので同日同時間かもしれない。

最初に、プールに入れずたたずむ女性とスマートフォンが水に落として使えなくなってしまうシーンなどが映り、水がモチーフなのかなとも思った。それぞれが、少し不吉な印象を残す映像だった。

それぞれの話は淡々とした日常のように進んでいて、何の話なのかよくわからない。ただ、人物に密着をした描写の仕方で、それぞれがいきいき動くので、何が起こるというわけではないけれど、見ていて飽きない。これはポール・ハギスの味なのかもしれない。

観ていくと、どの話にも子供が関わって来ているのに気づく。ただ、スコットは携帯に保存しているメッセージと写真だけで、どうやら今は奥さんと別れたのか、会えないらしい。ジュリアも虐待疑惑のために子供に会えない。リックは子供が家にいるけれど、どうもうまくいっていないらしい。マイケルに関しては不明。

その内、ジュリアが清掃員として働くホテルがマイケルが滞在しているホテルだったり、ジュリアの元夫がリックだったり、少しずつ人物が交錯していき、やっぱり群像劇はおもしろいなと思う。

しかし、リックが住んでいるのはおそらくニューヨークなのにジュリアはパリのホテルで働いているとか、スコットが電話している別れた妻がエレインだったりと、話が矛盾していく。エレインはスコットともマイケルとも結婚していたのかなと思ったけれど、プールで子供が泳いでいて目を離した隙に…というエピソードがかぶる。かぶるのに、スコットとの子供は娘でマイケルとの子供は息子だ。

マイケルの愛人アンナはマイケルの日記を盗み見し、「なんで自分のことなのに、“僕”じゃなくて“彼”って書くの?」と聞く。
作家であるマイケルの担当編集者はマイケルが自分の私生活を切り売りして小説を書いていることに苦言を漏らす。
つまり、日記は純粋な日記ではなく小説のネタ帳みたいなものなのだ。

スコットとエレインの不可解なやり取りは、実はマイケルの小説の中でのことなのだ。“彼”と三人称(サード・パーソン)にすることで、あたかも自分のことではないようにしているが、子供のエピソードも重複の仕方からして、現実に起こったことに少し手を加えただけである。リックはマイケル自身の投影なのだ。

リックとジュリアの子供の名前がジェシーで、マイケルの子供の名前もジェシーなので、これもマイケルの創作なのだろう。ただこの場合、マイケルの投影はリックではなく、息子に会いたくても会えないという立場のジュリアなのかもしれない。そうすると、虐待疑惑から「私はやってない!」という叫びがマイケルももがきにも感じられる。リックの息子のジェシーも「Watch me.(見ててね)」と言うことからも、これが創作なのがわかる。

最初のシーンで、小説を書いているマイケルがどこからかの「Watch me.」という子供の声に振り返る。もちろんそこには誰もいなくて幻聴です。

それで、実際には何が起こったのかを整理すると、マイケルとエレインにはジェシーという息子がいて、ジェシーはマイケルに泳ぎを見てもらおうとする(「Watch me.」)。しかし、電話がかかってきて、マイケルが目を離し、そのせいでジェシーは溺死してしまう。
マイケルはエレインに、仕事の電話だったと嘘をつくが、本当は愛人であるアンナからの電話だった。
アンナは自分がかけた電話のせいでマイケルの子供を溺死させたと知り罪悪感を抱え、それが父親にもバレ、父親はそれで弱みを握って、アンナと関係を持った。
おそらく、このような感じだと思う。

だから、映画の中でどれが現実でどれがマイケルの創作なのかがごちゃごちゃになるんですけれど、アンナはいると思う。父親とアンナのエピソードを小説に書いたのがバレて振られた話は現実だと思うから。ただ、アンナとのエピソードもすべてが現実に起こったことなのかわからない。特に、最後のローマでエレインと電話しているシーンのアンナはいないと思う。マーケットの本屋みたいなところにマイケルの日記が置いてあるわけはないので、日記を読んで呆然としているアンナはたぶんパリのホテルかどこかでのことでしょう。関係が破綻したあと一人でローマに来たのだと思う。

エレインもいる。けれど、エレインとスコットの電話での会話はなかった。
出版社の人もいるのだろう。だから、マイケルの小説が一作目以降売れていないのも事実なのだと思う。
サード・パーソンというタイトルだから、実際にマイケルが関わっているエピソードはすべて現実なのかもしれない。
スランプに陥って、死んだ息子のことや、愛人が父親と関係を持っていることなど、すべてを書いて、妻や愛人、編集者から、人格すら疑われている作家の話なのだと思う。ただ、「Watch me.」という幻聴は鳴り止まないようだったので、マイケル自身も罪悪感で少しおかしくなってしまっているのかもしれない。

ジュリアがリックに許してもらうのは、自分のことも許して欲しいという表れなのかもしれない。でも、結局、そのリックの想いはジュリアには伝わらないというラストにしたのも、マイケルの苦悩がわかる。

スコットはモニカと車で逃げて、はっきりとは映らないけれど、後部座席にどうやらモニカの子供が乗っている。細かいエピソードはすっ飛ばしてのハッピーエンドになっていて、なんか途中で面倒になった感じまでが伝わって来る。

それぞれのエピソードの意味がしっかりとは理解できていないと思うし、最初の不吉な水モチーフは子供の溺死と関わって来ているのはわかるけれど、細かいヒントが各所にちりばめてありそうだし、もう一度観たら、もっといろいろな発見がありそう。


アカデミー賞で監督のスパイク・ジョーンズが脚本賞を受賞し、作曲賞や美術賞にもノミネートされていました。アカデミー賞以外の賞も受賞&ノミネート多数。
アカデミー賞でヤー・ヤー・ヤーズのカレンOがこの映画のために作った『The Moon Song』を歌っていたので、映画の音楽もヤー・ヤー・ヤーズなのかと思っていたら、アーケイド・ファイアだった。

以下、ネタバレです。





AIに恋をするというあらすじと主役がホアキン・フェニックスであるという点から、相当キワモノなのではないかと思っていた。『ザ・マスター』でもなかなか気持ち悪かったけれど、今回もそれでキャスティングされたのだろうと思っていた。
けれど、彼の置かれた状況や、気持ちや感情の移り変わり、それに基づく行動が丁寧に描かれていて、自然に共感できる内容だった。

セオドア(ホアキン・フェニックス)は、最初にAIを起動させて、会話をしていくうちにそのすごさに舌を巻いたように笑ってしまうんですが、その瞬間にもう恋が始まっていたんだと思う。いつも浮かない顔で、友人からの誘いも断って来たセオドアの心が少し動いたのだ。

セオドアは妻と別居中なのですが、何があったかという過去の話がサマンサ(AI)に話すという行為を通じて少しずつあきらかになっていくという手法が面白かった。サマンサと仲良くなるうちに、心の奥の方の誰にも知られたくない内容まで話していく。映画を観ている私たちにも、話が進むにつれて情報が開示されていく。

サマンサと仲良くなるにつれて、セオドアの表情がどんどん明るくなり、行動も軽やかになっていく様子を見ると、別に人間じゃなくても、何かとても好きなもの、夢中になれるもの、自分を幸せな気持ちにさせるものがあれば、それでいいのだと思った。
エイミーが終盤で「人生は短いんだから、楽しんだもん勝ちよ。誰に何をいわれてもクソくらえだわ」というようなことを言いますが、まさにその感じ。
デートシーンも、イヤホンを片耳に入れて、iPhoneくらいの大きさのものを一緒に持ち歩いていて、他の人から見たら完全に一人なんですけれども、セオドア自身はいきいきとしていてとても幸せそう。このあたりのホアキン・フェニックスの演技も素晴らしい。

セックスシーンも泣ける。AIだから肉体がないんですが、セオドアが「髪を撫でるよ」といった具合に行動を口に出す。それ自体はチャットルームでの手段なんですけれど、AI相手となると、まるで口に出すたびに、肉体が現れるというか、セオドアによって少しずつ肉体が作られていくというか、不思議な感覚だった。もちろん、映像で出てくるわけではありません。セオドアの、私の、そしてサマンサの想像の中だけの話です。

サマンサは高度に発達したAIなので、想像もするし、感情も持っていて、映画を観ていると、サマンサの気持ちの動きもよくわかる。
なんとなく二人の気持ちがすれ違い始めたときに、AIとのセックス時の肉体代行を人間の女性に頼む。そうすることで、セオドアも喜ぶのではないかと思っての行動なのですが、セオドアからしたら、サマンサの声に合わせて口をぱくぱくやっている知らない女性としか見えない。サマンサに姿形がなくても、この女性がサマンサではないことは確実にわかる。
でも、サマンサとしては、肉体がないことが一番のコンプレックスなんですよね。だから、偽物でもいいから肉体を持って、セオドアと接してみたかった。セオドアもそれを望んでいるはずだと考えた。でも、肉体を持っている側からしたら、あれは生きているダッチワイフみたいだった。サマンサの気持ちもわかるけれど、そうそう受け入れられるものでもなさそう。この、肉体を持つものと持たないものとのどうにもわかり合えなさが切ない。でも、この代行サービスで来た女性も、「二人の愛に感動して」と言っていたのでいい子なんですよね…。彼女を巻き込んだことで、より切なさも増した。

サマンサの声を演じたのはスカーレット・ヨハンソン。『キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』のときもちょっと声が掠れ気味なくらいガラガラだと思ったんですが、今回も掠れているというかハスキーというか、やはり前からは変わって来ているような気がした。ただ、『キャプテン・アメリカWS』に出てるナターシャが結構好きだったので、今回も引き続き好感がもてた。声だけ、しかもAIなのに感情が読み取れた。

元妻役にルーニー・マーラ。セオドアの想像の中ではニコニコしていたし、はしゃいだ様子も可愛かったけれど、離婚のサインをするために実際に会ったら表情はかたく、セオドアを嫌っているのがよくわかったし、あの食事のシーンはつらかった。また、これは言った方が悪いと思うけれど、AIに対する理解もない様子だった。
『サイド・エフェクト』の時も思ったけれど、ルーニー・マーラはシャルロット・ゲンズブールっぽくなりそうな気がする。少し病んでいるというか、気持ちが不安定な役が似合う。

友人役のエイミー・アダムスがすごく良かった。大きめくるくるのカーリーヘアにほぼノーメイクという外見もとても可愛かったんですが、サバサバした性格もいい。
彼女は映像を作ったりゲームを作ったりしている、何らかのクリエイターのような職業みたいなんですが、素人目に見ても出来があまり良くないというか、センスが無さそう。これがスパイク・ジョーンズの映画に出て来るのが面白い。彼が作ったら、センスの良さが出てしまう。映画の中に出てきたCMやイメージビデオみたいなものはさすがというか、とても恰好良かった。
エイミーはあのセンスでは、おそらく売れっ子ではないと思う。そして、パートナーとも別れてしまった。彼女もセオドアとほぼ同じような状況で同じようにAIに出会って使い始める。同性で友達のような関係だったみたいだけれど、楽しそうに笑っていた。

セオドアに関してもエイミーに関しても、それぞれ接するAIがなかったらもっと長く落ち込んでいただろうし、笑顔はなかった。いつまでも気持ちが同じ場所に居座り続けたと思う。

この作品においては、AIとの恋愛や友情という少し突拍子もないものだったけれど、映画でも本でもなんでもいい、とにかく深く沈んでいた心が何かをきっかけとして動いたというのが一番重要なのだ。これはラブストーリーであり、成長物語ともとらえられるのではないかと思う。

ラスト、建物の屋上でエイミーとセオドアが肩を寄せ合っているが、おそらく、それぞれのAIとの日々に想いを馳せていたのだろう。最近、そこにはいないものに想いを馳せる描写も好きでたまらなくなってきた。

そして、まるで魔法のような日々が消えてしまったからといって、前の状態には戻らないと思うんですよね。切ないけれど、気持ちは残っている。階段をしっかりと一段上がれていると思う。サマンサは、かつてのパートナーとの別れのショックから立ち直らせるためだけに存在したのではないかと考えると、本当にラブストーリーではなく、成長物語に思える。

カレンOの『The Moon Song』は劇中ではサマンサとセオドアが歌う。二人で写真を撮ることはできないからその代わり、と歌われていて、メロディはシンプルで可愛らしいながらも少し切ない名曲。エンドロールでもう一回流れると、“100万マイル離れていても大丈夫”のあたりが二人を思って泣ける。

『ダークナイト』や『インセプション』などのクリストファー・ノーラン監督作品や『マネーボール』などの撮影をしてきたウォーリー・フィスターの初監督作。出演者もキリアン・マーフィーやモーガン・フリーマンというノーランファミリーとも言える方々に加えて、ジョニー・デップとポール・ベタニーということで期待してたんですが…。

以下、ネタバレです。







死にゆく博士の意識を人工知能に取り入れて、成功はするものの、現代社会は様々なものがインターネットに繋がっているため、世界各地まで拡散し、世界征服しようともくろむ脅威となる、という話かと思っていたけれど、そうではなかった。本当はそうゆうSFが観たかった。これはSFですらないと思う。

AIなんだから、他のAIとかコンピューターを味方につけたらいいのに、人間を内部から改造していく。治療するついでに内部に細工をして、操る。また、雨を降らせて、その雨を浴びた人にナノロボットを埋め込む。
じゃあ、家に居た人は無事なの? 傘をさしてた人は? そんなアナログな手段で操られるのを防ぐことができるのもおかしい。でも、序盤も、1年間職場に潜伏していたテロリストが毒入りのケーキをふるまうことで皆殺しにするというシーンが出て来た。ジョセフは仕事をしていて食べなかったので生き残った。これ、甘いもの嫌いなんで、とかでも生き残れたんですよね。1年潜伏してたら、もっと確実な方法で殲滅をはかるんじゃないかと思うけれど。職場を丸ごと爆破するとか。そもそも、1年潜伏する必要があったのか。

他にも時の流れに違和感があった。博士の意識がAIとして働き始めてから軌道に乗るまで2年もかかっている。ネットに繋がっているんだし、もっと素早く世界を混乱させられるはず。僻地(ロケ地はニューメキシコ)に施設みたいなのを作っていたけれど、それ、作ってるの人間なんですよね。たぶん、だから時間がかかってたのかな。SF的ではない。

そして、その2年間、レジスタンスの面々やFBIは何をしてたんだろう。ウィル博士は普通に亡くなったと思っていたにしても、少なくともエヴリンは行方不明になってるのに。捜索されてはいなかったのかな。この面以外にも、キャラクターがスクリーンに登場しているとき以外はまったく動いていないように思えた。その場限りで都合良く動いているようにしか見えない。せっかくいい役者さんを揃えているのに、キャラクターに命が宿っていない。

崩壊以降も3年経っても、降らせた雨粒が残っていたのかも不明。3年も経過させる必要があったのか。

終盤、操られた人間VSレジスタンスがドンパチで戦うんですが、どれが操られている人間かわ
からないとか、撃たれた部分が即座に治療されるとか、これって、SFというよりゾンビ映画では…。優秀なAIなんだから、人間同士で争わせるよりは、もっと有効な手段があるだろう。

そもそも、施設の拠点をニューメキシコにするのはいいとしても、AIならば、コンピューターに侵入して大ダメージを与えられる都市部を舞台にしたほうが良かったのではないかと思う。あの場所では機械があまりなさそうだし、もう最初からゾンビ映画にしたほうが良かったのではないか。

最後の方でもエヴリンとマックスの「ウイルスを私に注射して!」「でもこれを注射すると君の細胞にもダメージが…」って、病原体じゃないんですよね? コンピュータウイルスの話をしてるんですよね? 書いてて、もしやあれ、病原体のことだったのかなとも思ったけれど、病原体ではAIにダメージが与えられないし、やっぱりコンピュータウイルスですよね。そんなの、人体に注入して生きてられるの? そもそも抽出できるものなのか。この辺だけSFだから細かいことは気にするなみたいなことを言われても説得力がない。

それで、地下で人体錬成みたいなことをしてたけれど、出来上がったのは普通のジョニー・デップなんですよね。もっと、人を超越した、エイリアンみたいなものを作れば良かったのに。

私はもともとあったAIであるPINNがウィル博士の意識を呑み込んで、ウィルのふりをして人類の脅威となる話だと思ってたんですよ。でも、たぶん、一応のオチとしては、AIは本当にウィルの意識で、人の病や怪我を治す、植物を守るというエヴリンの願いを叶えてあげてたってことだと思う。誰も殺さなかったと言ってたし。まあ、だったら、なんか埋め込むのはやめたら良かったんじゃないかと思うけれど。
インターネットとかコンピューターがなくてはどうにもならない現代社会に警鐘をならしたりはしてなかった。ひどく狭い世界の話だったようです。

とにかく、AIとかSF要素の組み入れ方が中途半端だった。凶悪なAIが他のコンピューターとともに都市にいる多くの人間をパニックに陥れてほしかった。最後の停電のシーンではビル群が出るじゃないですか。あの一帯とも繋がってたってことですよね? なら、もっと多くの人間を間接的に支配できたんじゃないの? FBIなどもニューメキシコにわざわざ出張してきてご苦労様です。しかも、キリアン一人だけ…。他のFBIはどうしたんだろう…。

AIがAIの能力を発揮しないのならば、いっそ、ゾンビ映画にしてほしかった。死んだ夫ウィルを愛するあまり、ゾンビとして生き返らせた妻エヴリン。ウィルは仲間を増やすために人間を襲ってゾンビ化。「奴はもう死んでるんだ!目をさませ!」とか言いながら、危険な妄想にとりつかれたエヴリンを救うために、マックスがゾンビ軍団と戦う。

マックスはエヴリンのことを少し好きっぽかったし、生きている人間同士の何かもあったら良かったのに。ゾンビ映画の話ではなく、『トランセンデンス』の話です。マックスというキャラクターをもっと活躍させていれば、話の流れも変わった気がする。

それでも、ひまわりや雫など、映像は綺麗でした。さすが撮影監督。