『her/世界でひとつの彼女』


アカデミー賞で監督のスパイク・ジョーンズが脚本賞を受賞し、作曲賞や美術賞にもノミネートされていました。アカデミー賞以外の賞も受賞&ノミネート多数。
アカデミー賞でヤー・ヤー・ヤーズのカレンOがこの映画のために作った『The Moon Song』を歌っていたので、映画の音楽もヤー・ヤー・ヤーズなのかと思っていたら、アーケイド・ファイアだった。

以下、ネタバレです。





AIに恋をするというあらすじと主役がホアキン・フェニックスであるという点から、相当キワモノなのではないかと思っていた。『ザ・マスター』でもなかなか気持ち悪かったけれど、今回もそれでキャスティングされたのだろうと思っていた。
けれど、彼の置かれた状況や、気持ちや感情の移り変わり、それに基づく行動が丁寧に描かれていて、自然に共感できる内容だった。

セオドア(ホアキン・フェニックス)は、最初にAIを起動させて、会話をしていくうちにそのすごさに舌を巻いたように笑ってしまうんですが、その瞬間にもう恋が始まっていたんだと思う。いつも浮かない顔で、友人からの誘いも断って来たセオドアの心が少し動いたのだ。

セオドアは妻と別居中なのですが、何があったかという過去の話がサマンサ(AI)に話すという行為を通じて少しずつあきらかになっていくという手法が面白かった。サマンサと仲良くなるうちに、心の奥の方の誰にも知られたくない内容まで話していく。映画を観ている私たちにも、話が進むにつれて情報が開示されていく。

サマンサと仲良くなるにつれて、セオドアの表情がどんどん明るくなり、行動も軽やかになっていく様子を見ると、別に人間じゃなくても、何かとても好きなもの、夢中になれるもの、自分を幸せな気持ちにさせるものがあれば、それでいいのだと思った。
エイミーが終盤で「人生は短いんだから、楽しんだもん勝ちよ。誰に何をいわれてもクソくらえだわ」というようなことを言いますが、まさにその感じ。
デートシーンも、イヤホンを片耳に入れて、iPhoneくらいの大きさのものを一緒に持ち歩いていて、他の人から見たら完全に一人なんですけれども、セオドア自身はいきいきとしていてとても幸せそう。このあたりのホアキン・フェニックスの演技も素晴らしい。

セックスシーンも泣ける。AIだから肉体がないんですが、セオドアが「髪を撫でるよ」といった具合に行動を口に出す。それ自体はチャットルームでの手段なんですけれど、AI相手となると、まるで口に出すたびに、肉体が現れるというか、セオドアによって少しずつ肉体が作られていくというか、不思議な感覚だった。もちろん、映像で出てくるわけではありません。セオドアの、私の、そしてサマンサの想像の中だけの話です。

サマンサは高度に発達したAIなので、想像もするし、感情も持っていて、映画を観ていると、サマンサの気持ちの動きもよくわかる。
なんとなく二人の気持ちがすれ違い始めたときに、AIとのセックス時の肉体代行を人間の女性に頼む。そうすることで、セオドアも喜ぶのではないかと思っての行動なのですが、セオドアからしたら、サマンサの声に合わせて口をぱくぱくやっている知らない女性としか見えない。サマンサに姿形がなくても、この女性がサマンサではないことは確実にわかる。
でも、サマンサとしては、肉体がないことが一番のコンプレックスなんですよね。だから、偽物でもいいから肉体を持って、セオドアと接してみたかった。セオドアもそれを望んでいるはずだと考えた。でも、肉体を持っている側からしたら、あれは生きているダッチワイフみたいだった。サマンサの気持ちもわかるけれど、そうそう受け入れられるものでもなさそう。この、肉体を持つものと持たないものとのどうにもわかり合えなさが切ない。でも、この代行サービスで来た女性も、「二人の愛に感動して」と言っていたのでいい子なんですよね…。彼女を巻き込んだことで、より切なさも増した。

サマンサの声を演じたのはスカーレット・ヨハンソン。『キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』のときもちょっと声が掠れ気味なくらいガラガラだと思ったんですが、今回も掠れているというかハスキーというか、やはり前からは変わって来ているような気がした。ただ、『キャプテン・アメリカWS』に出てるナターシャが結構好きだったので、今回も引き続き好感がもてた。声だけ、しかもAIなのに感情が読み取れた。

元妻役にルーニー・マーラ。セオドアの想像の中ではニコニコしていたし、はしゃいだ様子も可愛かったけれど、離婚のサインをするために実際に会ったら表情はかたく、セオドアを嫌っているのがよくわかったし、あの食事のシーンはつらかった。また、これは言った方が悪いと思うけれど、AIに対する理解もない様子だった。
『サイド・エフェクト』の時も思ったけれど、ルーニー・マーラはシャルロット・ゲンズブールっぽくなりそうな気がする。少し病んでいるというか、気持ちが不安定な役が似合う。

友人役のエイミー・アダムスがすごく良かった。大きめくるくるのカーリーヘアにほぼノーメイクという外見もとても可愛かったんですが、サバサバした性格もいい。
彼女は映像を作ったりゲームを作ったりしている、何らかのクリエイターのような職業みたいなんですが、素人目に見ても出来があまり良くないというか、センスが無さそう。これがスパイク・ジョーンズの映画に出て来るのが面白い。彼が作ったら、センスの良さが出てしまう。映画の中に出てきたCMやイメージビデオみたいなものはさすがというか、とても恰好良かった。
エイミーはあのセンスでは、おそらく売れっ子ではないと思う。そして、パートナーとも別れてしまった。彼女もセオドアとほぼ同じような状況で同じようにAIに出会って使い始める。同性で友達のような関係だったみたいだけれど、楽しそうに笑っていた。

セオドアに関してもエイミーに関しても、それぞれ接するAIがなかったらもっと長く落ち込んでいただろうし、笑顔はなかった。いつまでも気持ちが同じ場所に居座り続けたと思う。

この作品においては、AIとの恋愛や友情という少し突拍子もないものだったけれど、映画でも本でもなんでもいい、とにかく深く沈んでいた心が何かをきっかけとして動いたというのが一番重要なのだ。これはラブストーリーであり、成長物語ともとらえられるのではないかと思う。

ラスト、建物の屋上でエイミーとセオドアが肩を寄せ合っているが、おそらく、それぞれのAIとの日々に想いを馳せていたのだろう。最近、そこにはいないものに想いを馳せる描写も好きでたまらなくなってきた。

そして、まるで魔法のような日々が消えてしまったからといって、前の状態には戻らないと思うんですよね。切ないけれど、気持ちは残っている。階段をしっかりと一段上がれていると思う。サマンサは、かつてのパートナーとの別れのショックから立ち直らせるためだけに存在したのではないかと考えると、本当にラブストーリーではなく、成長物語に思える。

カレンOの『The Moon Song』は劇中ではサマンサとセオドアが歌う。二人で写真を撮ることはできないからその代わり、と歌われていて、メロディはシンプルで可愛らしいながらも少し切ない名曲。エンドロールでもう一回流れると、“100万マイル離れていても大丈夫”のあたりが二人を思って泣ける。

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