試写会にて。『アメリ』のジャン=ピエール・ジュネ監督ということで、フランス語で舞台もフランスなのかと思い込んでいたけれど、英語でアメリカを横断していた。
『T・S・スピヴェット君 傑作集』という小説が原作になっていて、作家さんは1980年生まれと随分若い。

以下、ネタバレです。








小説が原作のせいか、スピヴェットの語りでストーリーが進んで行く。視覚的な要素も絵本のように可愛らしく、効果的に取り入れられていると思ったので、あんまり説明せずとも映像だけで見せてくれてもいいのにとも思った。
ちなみに、試写会だったので2D上映だったのですが、
前半部分、スピヴェットが旅立つ前までは、時系列もばらばらだし、エピソードエピソードが短く、破片を語りで繋げて行くようなパッチワークっぽい印象で、わりとちゃかちゃかしていたので、内容があまり頭に入って来ないまま話が進んでいってしまった。

けれど、スピヴェットが家を出てからは、慣れたせいもあるのかもしれないけれど、一気に観やすくなった。登場人物が減ったせいかもしれない。
基本的に旅の道中はスピヴェット一人で、奇妙ではあるけれど優しい大人に助けられながら話が進んでいく。
合間で会う大人たちは誰も彼も魅力的。セーラー人形の船長によく似たおじさん(ホームレス?)、ホットドッグ屋台の肝っ玉おばさん、コントのような警官(たぶん演じているのはコメディアンじゃないのかな…)、ヒッチハイカーの写真を撮るトラック運転手(痩せていてヴィジュアルが特徴的)。
前半にしても、中盤にしても、話が進んでいくといった感覚は変わらない。特に中盤は電車自体がアメリカを横断しているので、ラストへ向かっていく印象を残す。

映画は大きく分けて三部構成になっていて、スピヴェットがスミソニアン博物館に到着してからが三部といえると思う。
こうゆう子供が一人で冒険する話はだいたい道中が大切で、もう到着しようがしまいがどっちでもという撮られ方や、到着したとしてもしたところで終わることが多い。でも、この映画に関しては、着いてからも長い。
頭に電流を流されているところは何か嫌な予感がしたし、スミソニアン博物館次長の女性はスピヴェットのことを持ち上げてステージママのようになっていたし、ここにきて話がそんな流れになると思わなかった。到着してめでたしめでたしで終わらせてくれたほうが良かったのではないかと思った。

でも、チラシにもなっている、スピヴェットの受賞スピーチシーンは良かった。おめかしした姿は美少年っぷりが際立っていた。
また、いままではわりとどんな大人に会っても、困難に直面しても動じなかったのに、スピーチシーンではたどたどしくなっていて、演技もうまいと思った。
このシーンは、エキストラ130人の前で10ページ分のセリフを話したそうなので、本当に緊張気味だったのだろうか。

博物館次長のステージママの売り方もあり、テレビにも出演してちやほやされて、博物館に到着して以降がこんなに長くなくていいのにとも思ったんですが、そのテレビ番組のゲストに本物の母親が来たあたりから、嘘みたいに話が丸くおさまっていく。

結局、家族ものとして帰結していくんですが、普通の家族ものと違うところは、子供であるスピヴェットはとっくに大人だったというところだ。
遊んでいる最中に双子の弟を亡くした傷を一人でずっと抱えながら生きてきた。途中、弟の幻のようなものと会話するシーンもあったが、おそらくまったく正常な状態なわけではなく、病んでいたのだと思う。

無骨な父親、変わり者で博士の母親ともに、スピヴェットとちゃんと話すということがなかったのだろう。姉にしたって、弟とちゃんと話すなんてことはしない。年頃の女の子なら当たり前だ。

それを初めて、テレビ番組収録という場ではあったけれど、面と向かって話す。あれは事故だった。あなたは悪くない。

いつまでも鉛のように心の奥底に居座っていた出来事について、初めて、許されたと感じたと思う。言葉で聞かなきゃわからない。

この映画は、子供が道中で成長するわけではなく、子供に出て行かれた家族たちが成長する話だったのだ。

スピヴェットたちの住まいは西部だし、アメリカを横断しているし、スミソニアン博物館はワシントンにある。でも、監督の反ハリウッド精神がアメリカでの撮影をよしとしなかったらしく、カナダのアルバータ州とケベック州で行ったらしい。電車のシーンはどう撮っていたのだろう。

2Dで観たのですが、3Dだと発明品やスピヴェットが頭で考えている図式などがぼんやりと手前に浮かんでくるのかもしれない。迫力面とは違う使われ方をしてそう。監督自身、3Dにかなりこだわりをもって作ったらしいので、3Dのほうがいいのかもしれないけれど、見比べていないので不明。

DVDスルーだったようで、日本で発売されたのは2011年。アメリカでの公開は2010年。
スター・ウォーズのファンたちのインタビューを中心にして、ジョージ・ルーカスの過去のテレビ出演時の映像を交えたドキュメンタリー。フランシス・フォード・コッポラやサイモン・ペグなども出てくる。

ファンたちはエピソード4、5、6が好きで、コスプレをしたり、おもちゃを作ったり、パロディ映像を作ったりして一様に賞賛している。
ところが、1997年に“特別篇”と銘打たれた4、5、6が上映される。

私は、4、5、6は好きではあっても、何度も繰り返し観ているわけではないからわからなかったけれど、一部がCGで差し替えられていたり、ハン・ソロが先に撃った/撃たなかったみたいなシーンがあったらしい。
わからなくても、彼らの怒りはよくわかる。熱狂的に何度も観た映画、例えば『ダークナイト』や『インセプション』が手直しされて特別篇としてリリースされたらやっぱりすごく怒ると思うからひとごとじゃない。
しかも、スター・ウォーズに関しては過去の映像をDVDなどでソフト化する予定は一切ないそうだ。
過去のレーザーディスクがインターネット上にアップロードされているからそれを観たらいいという意見も飛び出していた。違法なのはわかっているけれど、文化を保護しているのだという言い分もあった。

まるで聖書を書き直されたようだとか、他人の記憶を押し付けられたようだとか、絵画だって手直しできないじゃないかとか、ファンの意見にいちいち頷いてしまった。

もちろん作品を作ったルーカスがその世界の神様なのはわかる。だから、神様が直したいというのなら、仕方が無いのかもしれない。でも、一度手を離れたらもう、それは作った人だけのものではないのもわかってほしい。

一度作品に触れたらもう、触れる前には戻れない。それを今更特別篇などと言われても、記憶は消せない。
一番最初に触れた時の驚きがファン一人一人の中で育っているのだ。

そして、次にファンを怒らせたのがエピソード1の存在である。
映画公開まで散々盛り上がって盛り上がって、肝心の内容が…。公開に向けて上がっていったボルテージが一気に下がっていく様子。これは、私もリアルタイムで体感した。
初日にオールナイト上映で観たので、ライトセーバーを持っている人もいた。拍手も起こっていたと思う。あの文字が流れる様子とテーマ曲は本当にわくわくした。でも、途中で寝てしまった。

映画の中でも、何かの間違いだと思って何回も観に行くファンがいたけれど、私もオールナイトだったからかなと思ってもう一度観たけれどまた寝てしまったし、テレビで観た時にも寝てしまった。

あと、映画に出てくるファンの人たちはジャー・ジャー・ビンクスのこと大嫌いすぎて逆におもしろかった。エピソード5の最後の方でハン・ソロが氷漬けにされますが、あれのジャー・ジャー版のが作られていた。ジャー・ジャーのマスクをかぶった人に物が投げつけられたりしていた。

エピソード2だったかな。ジャー・ジャーがカメラ目線になってこちらに向かって笑うシーンがあるらしい。「“不人気だけどまだ出ますよ(笑)”ってあおられてるようだった」って言ってて、そのシーンが観たくなった。

これも知らないんですが、クリスマスのホリデースペシャルみたいなのがあったみたいで、チューバッカが里帰りするらしいんですが、そこで20分くらいチューバッカが家族とうめき声だけで会話するシーンがあるらしい。字幕はなし。観たいですが、お蔵入りだそうです。

特別篇とエピソード1、2、3で打ちのめされて、嘆きながら自分たちで編集し直したり、新しいスター・ウォーズを作ったりしていた。
なんでもそうだと思うんですが、好きなんですよ。憎いわけじゃなくて、好きだから怒るし、文句をつけたい。
『レベルE』で、最初は乗る気のしなかったゲームに対して、もっと○○だったらいいのにみたいな意見が出始めて、それはハマっている証拠だと言われるシーンがあるんですが、それと同じ。
スター・ウォーズに関しては、自分で何かを作りたいクリエイティブなファンが多そうなので、余計に俺なら私ならこうする、と考えてしまうのかもしれない。

作品は誰の物なのか。作り手とファンとの間に齟齬が生じた時、どちらが譲歩するのか。いっそ離れるという選択肢は無さそうだった。
殴られるのがわかっているのに夫のところへ行く妻と同じですよ、なんて笑えない話も出てきた。

最後の人形遊びはルーカスとファンの関係でしょう。ぶちゅうっとキスをした後、お互いにうえー、うえーとなって、何事もなかったように、まあまあコーヒーでも飲みに行きましょうかとなる。
根本的に嫌いなわけではない。端から見たら面倒くさい人たちだと思われそうだけど、作品にたいして人一倍執着心とこだわりがある。

VSとは言え、完全にファン目線だし、私もファン側だから偏った意見かもしれないけれど、作る側の人たちは、ファンを決してないがしろにしちゃいけないと思う。

ところで、エピソード7はディズニーがルーカスフィルム買収して監督がJ・J・エイブラムスに決まってますが、ファンたちはこの件についてはどう思っているんだろうか。


『赤ずきん』


2011年公開。アマンダ・サイフリッド主演。ゲイリー・オールドマンが出ているということで観てみました。

全体的には所謂『赤ずきん』の話はほぼ関係がない。アマンダ演じるヴァレリーが赤いずきんをかぶるのと、狼が出てくるくらい。一応、おばあさんとの会話、「おばあさんの耳はなぜそんなに大きいの?」「お前の声をよく聞くためさ」なども出てくるけれど、夢の中の話であり、ストーリーには関わらない。また、『赤ずきん』モチーフなのは、誰が狼か?という謎の騙しとしても有効だったかもしれない。おばあさんがあからさまにあやしい感じがしてしまう。あと、ラスト付近で、人狼の腹を割いて石をつめて湖に沈めるシーンはあり。人間の姿なので、多少グロテスクである。

村に狼が出て、この中の誰が人狼なのか?と疑心暗鬼になる、閉鎖された空間ではよくあるといえばよくある話。そこに、ヴァレリーと幼馴染みと婚約者という三角関係が絡む。

禁断の恋愛みたいな謳い文句だったため、出演者の中で二番目に名前の出たゲイリー・オールドマンが実は狼で、彼とアマンダ・サイフリッドが恋に落ちるのかと思っていた。もしかしたら、『ドラキュラ』を思い出していたせいかもしれない。

でも、ゲイリー・オールドマンは村を救いにきた神父役だった。ソロモン神父はかつて、人狼になってしまった妻を自らの手で殺したという暗い過去にとらわれていて、この村の人狼もなんとしても殺そうとする。まるで恐怖政治のように力で村を弾圧する。
演説調の喋り方がノリノリで、紫のビロードで大きく十字が書いてある衣装や銀の爪もハマっていて、カリスマ性を感じたが、ゲイリーだけが頑張っていた印象を受けた。彼だけ演技がうまくて逆に浮いてしまっていたというか。
でも、ヴァレリーをめぐる二人の若者があまり魅力的ではなかったので、なおさら、ソロモン神父との恋愛が見たかった。
後半であっさり死にます。悪役めいていたからかな。

そして、何が禁断かというと、結局父親が人狼で、助けにきた幼馴染みを噛んだから幼馴染みも人狼になってしまって…、でもあなたが好き!みたいな展開がラストにあったからなんですけども。確かに禁断なのかもしれないけれど、ティーン向けな感じがしてしまった。
観ていないけれど『トワイライト』っぽいのかなと思っていたら、『トワイライト』と同じ、キャサリン・ハードウィック監督だったらしい。じゃあ多分、『トワイライト』っぽいのだろう。

村の雰囲気や衣装、美術が素晴らしかった。
ソロモン神父が持ってくる巨大な象は乗り物なのかと思っていたら、乗る部分の布が上に開いて人を閉じ込める拷問器具だった。

村の宴のシーンは長めですが、まさに村の宴といった感じで良かった。狼を倒したと思い込んで浮かれているんですが、羊のマスクを被ってメエメエ言っている人がいたり、三人が豚のマスクを被って『三匹の子豚』を再現していたり。

全体的に色調が暗いんですが、アマンダ・サイフリッドが着る赤いずきんというかマントだけが鮮やかな赤なのが印象的。後ろが長いんですが、それで雪の上を歩くシーンなどとても美しかった。
また、アマンダの白い肌と金色の髪と赤ずきんがよく似合っていた。なおさら、村の若者たちが冴えなく見えてしまった。
後半、赤ずきんのお馴染みの恰好で、手に持ったかごの中にゲイリーの銀の爪付きの手が入っているのも少しホラー要素があって良かったです。

美術はトム・サンダース。『ドラキュラ』でアカデミー賞にノミネートされている。だから『ドラキュラ』っぽいと思ったのかもしれない。



2011年公開。タイトルのおかしさというかB級感からは考えられないくらい、主演ダニエル・クレイグ、共演ハリソン・フォード、ポール・ダノ、サム・ロックウェルと豪華。監督も『アイアンマン』のジョン・ファヴロー。
同名のグラフィックノベルが原作らしい。

主人公が記憶喪失というところから始まるんですが、こんなタイトルで、説明を求めたいのはこっちなくらいなのに、主人公まで何もわからないなんてどうなってしまうのかと思う。そして、西部劇っぽいのに、似つかわしくない謎の最新機器のようなものを腕にはめられていて、しかもとれないらしい。
でも、おそらくタイトルからして、エイリアンに付けられたのではないかと推測できる。

このような、西部劇とSFのミックスの仕方が妙でおもしろかった。
ドラ息子(もちろんポール・ダノ)が村のバーでお金を払わず暴れている場面などは普通の西部劇のようだった。村の雰囲気も埃っぽくて、西部劇によく出てくるのと同じだった。
なのに、急にUFOが攻めてきて、人が光に吸い込まれるようにして連れ去られてしまう。
他のシーンでも、普通の西部劇と思って楽しんでると、突然エイリアンが割り込んできて、圧倒的な力で台無しになることが何度かあった。

通常であれば、宇宙人が攻めてくるような映画は、現代だったり、近未来が舞台になっていることが多いが、この映画は1873年という設定である。だから、エイリアンとかUFOという認識がないのか、悪魔と呼ばれている。教会はあったので、キリスト教上の災いをもたらすものという意味でそう読んでいたのかもしれない。

普通に考えて、カウボーイとエイリアンではエイリアンのほうが強そう。文明の差もありそう。大体、空飛ぶマシーンと馬では、馬のほうが分が悪い。だけど、カウボーイの銃や弓で、ある程度の攻撃ができているようだった。

砂漠の真ん中のような乾燥している地帯で、炎天下にエイリアンが出てくるというのも、なかなか珍しいのではないかと思う。町中や、近未来的な建物の中で出てくるのが多そう。そして、圧倒的に夜のシーンが多いはず。この映画では白昼堂々なのが、勇気があると思った。エイリアンはもちろんCGなんですが、その光のあて方なども他の映画と違うだろうし、大変だったのではないかと思う。

荒くれは村を荒らし、住民との間で争いがあったみたいだし、村の住民とアパッチ族も対立していそうだった。ここまでは普通の西部劇と同じである。しかし、宇宙人と認識はされていなくても、何か人類の敵ととらえられる圧倒的な勢力に攻めて来られては、三つ巴になって争っている場合ではない。力を合わせて立ち向かって行く、呉越同舟ものだった。とても好きなジャンルだった。

また、極限状態においての人間ドラマも多くあった。
ウッドロー(ハリソン・フォード)のお手伝いさんのような役割のアパッチ族の青年の想いがちゃんと通じたのも良かった。たぶん、ウッドローはアパッチというだけで気に食わないと思っていたようだったが、最後には理解してもらえていた。
妻を助けるために、銃を持ったことのないバーの主人、ドク(サム・ロックウェル)が銃を教わったけれどうまくいかず、しかし、ここ一番という場面で狙いが定まり、仕留められたのも良かった。銃の扱いを教えてくれた村民に感謝する気持ちと何としても妻を助けなくてはいけないという強い気持ちが伝わって来た。
子供が終盤でナイフを使うシーンがあるのも、しっかりとした伏線回収だった。かなり人間ドラマ側の小さいエピソードはちゃんと作られている感じがして、感動的だった。

ダニエル・クレイグ演じるジェイク・ロネガンに関しても、記憶を取り戻したら、元はロクでもない人物だとわかって、思い出さないほうが良かったのではないかと思った。でも、一度記憶を失うことで、そしてエイリアンと戦うことで、生まれ直しではないけれど、後悔から、もう一度、人生をやり直そうとする意志が感じられた。
ダニエル・クレイグだからかもしれないけれど、ボンドばりの無駄なセクシーシーンがあった。また、シャツの腕をまくって銃を構えている姿も、それだけでセクシーでした。

タイトルから想像するよりも、もっと真面目で大作っぽい内容でしたが、人間ドラマがしっかりしているわりに設定に無理があるから奇妙な印象が残った映画だった。パニック映画、だけど舞台は西部だからみんな武器持ってるよ…という感じだろうか。それもちょっと違う気もする。


グザヴィエ・ドラン監督/主演。ミシェル・マルク・ブシャールの戯曲が原作になっている。登場人物が少なく、その一人一人がとても濃いのに納得。話もとっ散らからずコンパクトにまとめられている。舞台は広大な農場だけれど。
また、ドラン、ブシャールともにカナダのケベック州出身で、物語の舞台もケベック州となっている。

以下、ネタバレです。









最初にボールペンの先を水に浸して、青いインクがじわっと広がる映像が出るんですが、それがとても綺麗で泣きそうになる。紙ナプキンに詩のようなものを書いていて、それはあとで死んだ恋人にあてた弔辞だと判明する。グザヴィエ・ドラン自身も、作品のアイディアや思ったことを紙ナプキンにメモする癖があるらしい。

登場人物はトムと死んだ恋人ギョームの母と兄のほぼ三人。誰の本心もわからないし、三人は上手く噛み合ない。ただ、三人とも、ギョームが死んだことでの喪失感は同じだと思う。

ただごとじゃない気配を感じてトムは序盤で逃げようとするんですが、結局引き返すことになる。普通だったら、Uターンする車を外部から映しそうなものですが、このシーン、車内のトムの表情だけをずっと映し続けてる。日光の当たり方が変わるので明らかにUターンしているのがわかる。この時の本当は帰りたいし帰った方がいいこともわかっている、面倒なことに首をつっこみたくはないけれど、中途半端なまま帰るわけにはいかないという覚悟を決めたドランの表情が素晴らしく、監督主演だけど顔がいいだけではないか…と疑っていたけれど、この人は演技もうまいのだと驚かされた。

両側が農場で真ん中に真っ直ぐな一本道が通っていて、そこを車で戻って行くシーンは、絶望的な気分になる。
走って逃げようとするシーンもあるんですが、もう到底無理なんですよね。トウモロコシの葉は体を傷つけるし、兄の方が農場を周知しているからすぐに捕まってしまう。

トムが償うために戻ってきたと言うんですが、償いとはなんだったのだろう。息子さんと同性愛関係だったことに対しての、そしてそれについて嘘をついていたことに対しての償いだろうか。

牛の出産を手伝って血だらけになった手を見て泣き崩れていたので、もしかしたらトムがギョームを殺してしまったのかとも思ったのですが、そんな話は最後まで無かった。事故死らしいので、そのときにトムも一緒にいたのかもしれないし、そこで血を見たのかもしれない。もしくは、事故死とはいえ、間接的に殺してしまったのかもしれない。作中での言及はありません。本当に牛の出産にびっくりしただけかもしれない。

兄に対しても、素性が少しずつわかっていくので、映画自体にミステリー要素も加えられていると思った。
家に来たトムを殴り、母には恋人だったとは言うなと脅す様子は、過剰なホモフォビアなのかもしれないが、同時にホモセクシュアルでもあるのではないかと思った。
そもそも、弟のことを同性愛者だと言われたからと言って、相手の口を裂くまでの暴力はやりすぎだ。弟に対して、どんな感情を抱いていたのかも結局わからない。

また、トムに対しても、暴力をふるって農場に縛り付けても、縛り付ける原因はなんだったのだろう。
田舎で広大な農場に母と二人というのは、もう何の希望もなかったのだろう。そこへ来たトムに手伝わせて、彼のことが好きになっていったのではないか。出て行った弟の代わりと思っていたのではないか。

兄が弟に対しての愛情をすり替えるようにしてトムに押し付けていたのかもしれないが、トムもギョームへの気持ちを兄にすり替えることをまったくしていなかったとは思えない。
香水に対してもそうだけれど、二人でタンゴを踊るシーンと、兄がトムの首を絞めるシーンは、そんなつもりがないのかもしれないけれど、トムがとても色っぽくなっていた。

もちろんお互いに憎しみがあったとは思うけれど、それだけではない、何か愛情に似たものも芽生えていたのではないかと思う。

あの人には俺が必要なんだとか、レーザー式の搾乳機を買ってあげなくちゃとか話していたトムは、目つきがおかしくて見た目にもおかしくなっているのがわかった。この辺の演技もグザヴィエ・ドランのうまかった。ストックホルム症候群なのか、同情なのか。でも、恋愛感情はまったくなかったのだろうか。

最後、兄は「俺にはお前が必要だ!」と叫んで、半狂乱でトムを探していた。それは本心だとは思う。でも、トムを捕まえたら殴るだろうし、きっともう二度と逃げないように繋いでおくだろう。
だから、同情する気持ちや恋愛感情があったにしても、トムが意を決してあの家を出たのは正解だったと思う。ドラッグもやっていたし、兄がまともでないことは確かだった。おそらく、トムの力で救うことはできない。

母親も母親で、たぶんトムを息子代わりに思っていたのだろう。また、家に来ない息子の恋人に対して、怒りをあらわにしていた。母親なら当然だと思う。目の前にいる僕が恋人ですよと伝えられないトムはつらく、悲しかったと思う。
実際のところ、母に直接話したらどうなっただろう。案外、普通に受け入れてくれるのではないかと思ったけれど、兄のあの猛反対具合を見ていると、ホモフォビアというのはもっと根深いものなのかもしれない。
カトリックとか保守的な土地柄というのもあって、同性愛なんて考えられないのかもしれない。ましてや、高齢の、実の母親である。私自身、LGBTへの嫌悪感というのが本当にわからないのでなんとも言えないけれど。

ギョームの遺品を、母、兄、偽の恋人サラ、トムが囲むシーンは、ここも序盤のUターンシーンと似てるんですが、四人の表情のみを映していく。母以外は事実を知ってるんですよね。そこで、各々が微妙な、何か言いたそうな、気まずそうな表情をしている。とても舞台っぽいアプローチでもあった。そして、その何かがおかしい、嘘をつかれているのではないか、と気づいた母親が叫び出す。
母親役の方は、舞台版でも母親役をやっていたらしい。

遺品のシーンで、母が「恋人なら遺品を手に取るでしょ!」と怒る。サラはもちろん恋人じゃないからそんな演技はできないし、トムは手にとりたいけれど恋人なのがばれるからとらないし、兄はその遺品のノートに何が書いてあるかわからないのでとらない。でも、最後に逃げる時に、トムはちゃんと遺品をカバンに入れていた。
トムのギョームに対する気持ちも本物なのがわかるし、家からトムと遺品が消えていたら、おそらく母親も気づくだろう。
カバンに遺品を入れるシーンを作るだけで、直接的な説明は何もなくても、いろいろなことがわかる。

また、途中でキャリーバッグが邪魔になったトムが遺品だけをジャンパーの中に入れて、手にスコップを持って歩き出す。そこでも、何はなくとも遺品が大切だというギョームへの気持ちがわかるし、スコップが兄が追いかけてきたときの応戦用で何が何でも逃げなくてはという気持ちをもって家を出たのがわかった。

トムはおそらく、もう少しで兄と母親と農場にとらわれるところだったのだろう。最初はそれぞれ別のことを考えていて、到底わかり合えるはずもなかったのに、暴力と一緒に居ることで情がわいて、トム側が二人に気持ちを寄せたのだと思う。
そんなときに、過去の事件を知るバーのマスターの話を聞いて、正気に戻ったのだろう。それは、知った事実のせいもあるのかもしれないし、二人以外の外部の人間とちゃんと話したせいもあるのだろう。よくぞ、正気に戻ったと思う。

逃げながら寄ったガソリンスタンドで、口を裂かれた男の人を後ろから映すシーンは蛇足かもしれないけれど、あえて会わないというのが粋な感じもする。そのあと、一瞬だけ兄が脱力したように椅子に座っている姿が映ったのはなんだったのだろう。トムが少し思い出したということだろうか。
兄はトムを追いかけてきて、もしかしたら、この店にたどり着くかもしれない。そして、口を裂いた男と再会するのかもしれない。
こんな風にいろいろ考えられるので、やっぱりあって良かったシーンなのかもしれない。

グザヴィエ・ドラン出演作、初めて観たんですが、表情やたたずまいが素敵でフォトジェニック。今回、特にブロンドでゆるいパーマのかかった長い髪が顔を少し隠すアンニュイな雰囲気も良かった。ちょっとヒース・レジャーに似てた。

カンヌ映画祭審査員特別賞受賞作の『Mommy』はすでに2015年4月に日本公開が決まっている。かなり早い対応だし、メディアもこぞってとりあげているし、今回、『トム・アット・ザ・ファーム』の前の予告で日本独占のインタビューまで流れていた。主演作『エレファント・ソング』もすでに公開が決まっているらしい。ちょっと推され方が並ではない。
次々回作はジェシカ・チャステインが主演で英語作品というのも気になる。

『裏切りのサーカス』のジョン・ル・カレ原作のスパイ映画。ル・カレも撮影現場に足を運んで、ちょっとした通行人役で出演したりもしていたらしい。
主演は今年2月に急逝したフィリップ・シーモア・ホフマン。
映画の撮影が行われたのは2012年の秋だったようなので、だいぶ前です。

以下、ネタバレです。









実は、ジョン・ル・カレという作家さんは昔の方なのだと思い込んでいたので、今回は9.11以降の話だったので驚いた。2008年刊行らしい。
更に、2010年刊行の『われらが背きし者(Our Kind Of Traitor)』の映画化も控えているらしい。主演はユアン・マクレガー。
まだ訳されてはいないようだが、2013年にも新刊を出していて、現在も精力的に作品を書き続けている。

映画化された『裏切りのサーカス』の原作『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』しか読んだことがないのでわからないのですが、今作もトーンは似ていて、撃ち合いのような派手さはなく、息づまる心理戦が繰り広げられる。
あまり感情的にはならない主人公のギュンターはスマイリーを連想させ、そういえばスマイリーって太っている設定だったし、ゲイリー・オールドマンよりフィリップ・シーモア・ホフマンのほうが似合うのでは、と思ったら、やはり、ル・カレは希望を出していたらしい。

心理戦だし、9.11の関連とのことでイスラムのテロ組織との戦いなので、HOMELANDを思い出した。
あれもCIAとか海兵隊員とか大統領陣営とかアルカイダが何重にも絡まっているが、今作も登場人物が多く、ドイツのスパイ、CIA、テロ組織、銀行、人権弁護士とグループが分かれていて、対立しているようにも仲間のようにも見える。その関係性は話が進んで行くうちに変わって行ったりもする。

テロを未然に防ぐためにスパイが奔走するのだが、今回描かれているのは、おそらくギュンターたちが潰してきた事件のほんの一部に過ぎないのだろう。
あやしんでいた人物が、終盤で銀行からある団体へ資金を送る書類にサインをする。そこにこぎつけるために、二重にも三重にも慎重に罠を仕掛け、その人物を影から誘導したのだ。
それは気の遠くなるような作業であり、そのために巻き込まなくていい人を巻き込んだり、傷つけたりしたが、ギュンターは義理だけは通そうとしていた。孤高に見えたが、多方面に気を遣い、できるだけ多くの人を助けようとしていた。

細心の注意を払って作戦を完遂させようとしていた。それでも、なんとなく不穏な空気というか、嫌な予感は感じていた。
このまま終わるとは思っていなかったけれど、ここまでめちゃくちゃになるとは思わなかった。ここまで丁寧に丁寧に、慎重に慎重にやってきたことが、台無しにされる。映画を観てきた2時間くらいの静謐ながらもエレガントな時間がぶち壊される。

砂の城が大波で一気に崩されたような感じ。それか、夏休み中にこつこつ作ってきた工作をガキ大将に壊された感じ。
とにかく逮捕、疑わしきは罰するという態度は大雑把で、いかにもアメリカ様という感じがした。9.11で実際に被害に遭った国なのでわからなくもないんですが、なんのための話し合いだったのか。
ここまで感情をおさえてきたギュンターが、一気に怒りを爆発させる。車から降りて、震え声で「FFFFFFFFFFFFUCK!」と叫ぶ様子にすべてが凝縮されていた。ここまで感情がおさえられていただけに、ここでのフィリップ・シーモア・ホフマンの演技には圧倒される。

ロビン・ライト演じるCIAの女性職員とは旧知の仲だったようだし、もしかしたら好意を抱いていたのかもしれない。ギュンターにとって、また一人信用できる人物がいなくなった。

このアメリカ様描写は、ヨーロッパの作家、監督だからできることである。HOMELANDではできない。もしかしたら、ル・カレにはスパイ時代に実際にアメリカに似たような横暴な振る舞いをされて、「FFFFFFFFFFFFUCK!」と叫ぶような過去があったのかもしれない。

なんとなく海外ドラマっぽく感じたのですが、それはHOMELANDを連想していたせいもあるんですが、いきなり本題に入るからかもしれない。
登場人物が多いけれど、それぞれのキャラクターの説明は一切ないのだ。しかし、そのキャラのことをよく知っていたような気になるのは、それだけしっかりと人物が描かれているのだと思う。そして、役者さんたちの演技のうまさもあると思う。

フィリップ・シーモア・ホフマン演じるギュンターは酒も煙草もやるし、スパイだからということもあるが、影を背負っている。でも、不思議と温厚そうに見える。もしかしたら、太っているせいもあるのかもしれない。ジャマールを抱きしめるシーンは、この人は信用してもいいのだと安心感を与えられる。

部下のイルナは、ギュンターにアナベルのことが好みなのではないかと茶化し、「好みじゃない」と言われると、「じゃあ、あなたの好みは?」と聞く。ああ、この人はギュンターのことが好きなのかなと思っていたら、ギュンターは張り込んでいるのがバレないようにキスをする。その後、ギュンターはすまんなというような仕草をするんですが、それで、この人は気づいていないのだというのがわかった。
直接は語られなくても、登場人物たちの気持ちや、どんな人なのかというのが伝わってきた。

イルナを演じているのはニーナ・ホス。『素粒子』の奔放な母親役が印象的。あの時にはつーんとしていて、いかにも女優という感じでしたが、だいぶ年をとった感じ。でも、いまでも綺麗です。

ギュンターのもう一人の部下役にダニエル・ブリュール。それほど大した役ではないんですが、だからこそ、説明がないまま始まるので無名な俳優では顔がおぼえられない。ましてやスパイものなので、バーなどで紛れて対象人物の調査をするシーンもあるんですが、顔がおぼえられない俳優では、いるのも気づかない。

また、顔のおぼえられない俳優についてはしっかり名前を呼ぶなどの工夫がされている。登場人物が多く一人一人について人物の説明がなく、純粋に起こっている一つの事象のみが描かれているだけだが、わかりやすい。

ギュンターたちのチームが全員良かったし、CIAとの確執も解消されていなかったので、また別の事件について描いた続編が観たい。イルナとのロマンスもあってもいいかもしれないし、今回あんまり目立たなかったマキシミリアン(ダニエル・ブリュール)が活躍する回もあってほしい。でも、ル・カレが続編を書くことがあったとしても、もうフィリップ・シーモア・ホフマンはいないから、永遠に実現することは無い。

アントン・コービン監督の次回作は『Life』。デイン・デハーンとロバート・パティンソン共演の、ジェームズ・ディーンと彼を撮ったカメラマンの話。
作品のせいかもしれないけれど、今作はじっとり、じっくりとした人物の描き方と対照的な乾いた風景の雰囲気が良かったので、次回作も楽しみ。

四時間超えのポルノだと騒がれていましたが、二部構成にて無事に公開されて良かった。
ラース・フォン・トリアー監督だけれど、語り口はユーモラスだし、舞台作品のような面もあるし、なによりポルノと言われているけれどそれほどどぎつくなく、どちらかというと淡々としていた。そのため、一部と二部を続けて観るのは少し飽きてしまうような気がする。

以下、ネタバレです。







路上で倒れていた女性を初老の男性が助けるところから話が始まる。
ストーリーは初老の男性(ステラン・スカルスガルド)が女性ジョー(シャルロット・ゲンズブール)の半生の話を聞くことで進んで行くのだが、この二人のやりとりがすごく淡々としていて味がある。
また、男性の部屋の中での出来事なので、ワンシチュエーションということで舞台っぽく思えた。

自分のことを色情狂だと言うジョーは、自分に起こった出来事を幼少期から話して行く。色情狂の人の話なので、それなりに過激ではあるんですが、それに対する男性の相づちのうちかたが滑稽。
初体験の時に突かれた数をジョーが「前で3、後ろで5」と言うと、「3+5? フィボナッチ数列だ!」などと返す。
他にも、釣りとか音楽とか文学とか、ジョーの話に対しての例え話がいちいちずれている。博識なのも魅力的だし、そのずれ方が可愛い。でも、どうしてずれてしまうのか。

なんとなく、ジョーの話している内容に対して、現在の部屋の中の二人は淡々としすぎている気がしたのだ。
話の通りだと、手当り次第に男をひっかけてきたジョーは、部屋の中の男性についてはどうでもいいのだろうか。年齢差のせいだろうか?とも思ったし、最初に初老の男性と書いてしまったんですが、ステラン・スカルスガルド、まだ63歳だった。役の上ではいくつなのかわからないけれど、ジョーは50歳という設定みたいなので、それほど年の差も開いてなかった。

また、男性も男性で、そんな話を聞いていてもまったく欲情している感じではなかった。電車の中で何人ひっかけられるかみたいな話をジョーがしている時も、フライフィッシングと一緒だなどと言っていた。

学校に通っているジョーを想像するときも、エロではあったけどコミカルな姿だった。実際その後、自分で笑っちゃってた。エロい子だと思ってないわけではない風なのに、部屋に二人きりでもまったくそんな雰囲気にはなっていなかった。

怪我をしているからか、単純に彼女の話が気になるのか、それとも単に映画の進行上の都合なのか。わからないが、セラピストと患者のようなこの二人の関係が後編でどうなるかも気になる。

ジョーが話すのは自分のセックス遍歴みたいな感じなので、過激ではあるけれど、一回言われていたようなハードコアポルノといった感じとは違う。

先程のフィボナッチ数列のシーンも画面に大きく“3+5”と出たり、オルガンの低音中音高温に例えて三人の男性との関係を語るシーンでは画面が三分割されたり、車の駐車シーンでは図式が出たりと、映像にふんだんに遊びが盛り込まれていた。楽しいし、おしゃれでもある。

四章では病床の父親との別れが描かれるのですが、四章だけがモノクロであり、ジョーの感情を表しているようだった。

三章のミセスHは、話される内容もワンシチュエーションで、より舞台っぽかった。ジョーの部屋に、不倫中の男性と、その妻が三人の子供を連れて乗り込んで来る。ジョーは修羅場を修羅場と思わない感じだったので、ほとんどミセスHの独壇場で、わーわーと喋り倒し、ひっかきまわすだけひっかきまわす様がおもしろかった。子供を使ったコントはずるい。
ミセスH役はユマ・サーマン。本当に年をとっているせいもあるかもしれないけれど、あまりメイクをしてないからか、地味だったからか、最初は気づかなかった。

章ごとにカラーが違っているけれど、シャイア・ラブーフが演じるジェロームは、何度が出て来る。ジョーの初体験の相手であり、おそらく、唯一好きになった相手。
叔父がもっている会社に叔父の代わりで働いているんですが、そのボンボンっぽさがシャイア・ラブーフによく合っていた。
なんとなく二世俳優とか親の七光りっぽいイメージがあったんですが、そうではなくてただ単にスピルバーグの秘蔵っ子というだけだった。Wikipediaによるとご両親は元ヒッピーだそう。
でも、本人はあんまり頭が良くないけれど、育ちの良さとか優雅さが身に付いてしまっている感じが、はまり役だと思った。下品だけれど根本的には上品というか。
撮り方のせいもあるんですけれど、指先の動きとか、細かいところがとてもセクシーだった。

ちなみに、悪い方にはまったのが『欲望のバージニア』。あれも、ボンボンっぽい三男だったけれど、世間知らずや考え方の甘さのせいで、酷い方向へ事態が動いてしまった。

手を引き上げた時に、エレベーターの中で引き上げてもらったことを思い出すのもロマンティックだった。
電車の中のシーンも切なかった。もう会えない彼のことを思って、彼に似てるパーツをいろいろな乗客からさがして、パズルのように頭の中で組み合わせる。
そうやって彼のことを思い出しながら電車の中で…という描写がなければ、普通の恋愛映画でも見かけないくらいセンチメンタルなシーンだった。

ロマンティックといえば、最初のほうで「私に罪があるとすれば、夕日に多くを求め過ぎたこと」というポエティックなセリフも良かった。 過激な面よりも、このようなロマンティックな面と、ステラン・スカルスガルドとのぼけぼけした掛け合いのコメディ面がこの映画のおもしろさだと思うし、好きでした。

シャイア・ラブーフはきっと後編にも出てくると思うので楽しみ。できれば重要な役割で出てきてほしい。ジェロームはジョーにとっても、重要な位置をしめているといい。

でも、そもそもこの話のスタートがすべて終わったあとだったようだし、その時のジョーは路上に倒れていて怪我もしているようだった。表情はすっきりとはしていても、幸せとは言えない状況だと思う。

ジョーの身に何が起こったのかも気になるし、ジェロームとどうなってしまうのかも気になる。それに、ステラン・スカルスガルドとの関係も。このままずっと、観客の代弁者のような位置で、ジョーの話を引き出すだけの役割なのだろうか。




2005年公開。アメリカでは2004年公開。公開時に映画館でも観たんですが、今回はテレビで。

両親が火事で亡くなって孤児になってしまうし、意地悪な伯爵に遺産は狙われるし、確かに不幸ではあると思う。
でも観ていて憂鬱になるタイプの映画ではない。子供たちは力を合わせて、勇気を出して問題を解決していく。

美術や衣装が過剰なまでにごてごてと凝っている。まるで少し不気味な童話のよう。
監督は違うのですが、ティム・バートンの映画に雰囲気が似ていて、彼の映画のスタッフが多く関わっている。音楽もトーマス・ニューマンだし、衣装もコリーン・アトウッド。

コリーン・アトウッドの衣装がすべて素晴らしい。サニーは二歳か三歳くらいではないかと思うんですが、ふんわりしたスカートのドレスっぽい服が可愛い。ヴァイオレットのコートのような服も良いし、最後のウェディングドレスもピンチのシーンだったけれど、衣装はとても可愛かった。ほっぺを紅く塗る化粧も可愛い。

オラフ伯爵は『ナイトメア・ビフォア・クリスマス』のジャックのような細身の黒に白いラインの入ったスーツだった。

そのオラフ伯爵を演じているのがジム・キャリー。近年のジム・キャリーはわりと好きなんですが、この頃のなのか、この作品のなのか、苦手なタイプのジム・キャリーだった。声、顔、動きのすべてでやりすぎというか。嫌な人の役なので、より嫌に思えた。

他にも、メリル・ストリープやダスティン・ホフマンなど有名どころが出演している。

主役のボードレール三姉弟妹は姉のヴァイオレット役がエミリー・ブラウニング。ぷっくりした口唇が可愛い。『エンジェルウォーズ』にベイビードール役で出てました。
弟のクラウス役はリアム・エイケン。少しJGLにも似ていた。
末っ子のサニーは出演者の名前がカラ&シェルビー・ホフマンになっているので双子だったらしい。
衣装のせいもあるかもしれないのですが、この三人の雰囲気がいい。頼りになるしっかり者の姉は妹を抱っこしていて、弟は腕っ節は強くないけれど頭脳明晰。

映画の世界観そのままのエンドロールが可愛い。絵本や影絵のようだった。テレビなのにしっかりそこまで流してくれて良かった。

ただ、明らかに続きそうな終わり方なのがすごく気になった。
オラフ伯爵は一度逮捕されたけれど釈放されているようなので、まだまだボードレール三姉弟妹を追うことができる。
目玉のマークは放火の告発だけの意味だったのだろうか。
また、どうして親戚でもない人々に預けられることになったのか、そして全員が持っていた望遠鏡の秘密。語り手であるレモニー・スニケットも持っていた。そもそもレモニー・スニケットって誰なのか、と調べたら、声の出演がジュード・ロウで、この先も続くようだったら出て来るはずではなかったのか。

更に、最後には“一章終わり”の文字。もともと、全13巻の小説が原作らしいのですが、この映画で描かれたのは1〜3巻までだったらしい。確実に続きはある。

多分、9年前に観た時には続編が楽しみと思っていたのかもしれないけれど、もうこれだけ年数が経ってしまっては難しいと思う。それに、子供たちは育ってしまっているから同じキャストというわけにはいかない。残念。


フランク・サイドボトムのかぶり物を絶対にはずさない男が主人公というちょっと変わった映画。しかも、かぶり物の中身がマイケル・ファスベンダーというのでも話題。ただ、ポスターや宣伝などから受けるキャッチーな印象とは少し違った映画でした。

以下、ネタバレです。






もう、かぶり物の中身がマイケル・ファスベンダーということだけでおもしろそうだった。
初めてステージに現れたときのマリンスーツ姿のフランクを見た時には爆笑したし、煙草を吸おうとしたときにかぶり物に火がついてしまったり、シャワーのときにもかぶり物にビニールをかぶせていたりと、コミカルなシーンも多々あった。この辺はイメージしていた通りなのですが、思っていたよりも現実的というか、少し違った方向へ話が進んで行って、着地点も意外だった。

音楽を作って演奏することに憧れる平凡な青年ジョンが、ひょんなことからちょっと変わったバンドと知り合って、そのメンバーになることからストーリーが始まる。
かぶり物をしているバンドの中心人物フランクは謎めいているし、作る曲も素晴らしい。アイルランドの小屋に篭ってのレコーディングは他のバンドメンバーから疎まれたりしてつらいけれど、フランクの信頼は着実に得てきているし、様子を実況しているTwitterのフォロワーも増えてきている。なんとネットを見た関係者から、インディーズバンドの大会に出ませんか?と声もかかった!

こうなったら、大会に出て、たとえ結果は思わしくなかったとしても、バンドが団結、ジョンも晴れてバンドメンバーになって、ハッピーエンド…となりそうなものである。今回はだめでも、これからも楽しい仲間たちの冒険は続く!『フランク2』お楽しみに!といった感じに。

なんとなく『リトル・ミス・サンシャイン』を思い出した。そこまでの家族はバラバラで、でもオリーヴのミスコンに向かってみんなが動いていて。でも、ミスコンに行くと、ちょっと比べ物にならないほど本気の人たちがいて、とてもうちの子が勝てるとは思えない。案の定、失敗はしてしまうけれど、家族全員のフォローもあって団結力は強まった。

本来の目的とは違うけれど、もっと大切なことがわかる、というのはハッピーエンドの形としてよくあるものだと思う。この映画もそうだと思っていた。

この映画では、大会が近づくにつれ、バンドメンバーが一人一人抜けて行き、肝心の大会ではフランクすらも昏倒してしまう。
ジョンはバンドの仲間入りをするどころか、めちゃくちゃに壊して、フランク自身のことも壊しただけだった。形だけ繕って、一人去って行く…という寂しい終わり方だった。
映画内でいい曲を作ることもなかった。結局、どれだけ憧れても、凡人は天才たちの仲間には入れないのだということをまざまざと見せつけられたようだった。

ただ、ジョンがナレーションをやっていたり、Twitterにあげる文章もジョン視点だから、映画自体をジョン視点で見てしまっていたが、逆に、もともとのバンドのメンバー側として考えると、また違った見方もできる。

そもそもフランクがかぶり物が取れないというのは、見た目はコミカルでも深刻な問題である。バンドのメンバーは、フランクを守るように音楽活動をしていた。ジョン視点で、他のメンバーの気持ちはあまり語られないからわからないけれど、彼らはおそらく人気者になりたくてバンドをやっていたわけではない。
それなのに、ジョンはTwitterで実況をし、勝手に撮影をしてYouTubeにアップされてた。ジョンとしては、善かれと思ってやったことでも、メンバーの一人、クララは盗撮だと怒っていた。
結果、インターネットで興味本位の人々をひきつけることになる。大事に守ってきたフランクが晒されてしまう。

フランクには音楽の才能があるし、カリスマ性もある。でも、日常生活でもかぶり物がとれないというのは、ひどくデリケートな問題なのだ。序盤はいついかなる時もかぶり物をとらない様子がコミカルに描かれていても、これは漫画ではなく、もっと現実的な話なのだ。後半は精神病の一つとして描かれる。

ジョン視点だと、クララに意地悪されてバンドから追い出されそうになって…というのは、かわいそうだなと思うんですが、おそらくクララは最初から嫌な予感を感じ取っていたのだろう。事情のわからない外部の人間を入れたら、大事にしてきたものが壊されてしまうのがわかっていたから、早めに追い出したかったのだ。そして、追い出せずに予感は当たってしまう。

ジョンが、フランクのことをずっとかぶり物をしているなんてクール!としか思えなかったことは、浅はかとしか言いようが無い。天才とか凡人とかではなく、事情を察することができていない。
少し変わっているからこそ天才なのだなと、そもそもフランクのことを理解しようとしなかったのかもしれない。どちらにしても、思いやりの欠如である。

ただ、ラストでフランクはかぶり物を脱いだ状態で歌うことができる。もしかしたら、荒治療が成功したのかもしれないと思うと、どちらが良かったのかわからない。
かぶり物をずっと着けたままの生活は幸せでも、クララたちだって、いつまでもこのままではいけないとは思っていたはずだ。
かぶり物の無い状態で、涙を流しながら、“I love you,all”と歌うマイケル・ファスベンダーの姿は感動的でもあった。

映画のほとんどでかぶり物をしているので、マイケル・ファスベンダーの姿が見たいなあと思っていたけれど、かぶり物をとったフランクはずっと不安定だったし、見たいなあと思ってしまって申し訳なかった…と思うくらいに演技がうまかった。

また、かぶり物をしている時の手などの動きはかなり大袈裟で、顔の表情はなくてもすべての感情が伝わってきた。特に、ジョンの気持ちを買ってなのか、売れよう、人気者になろうと考えてからは、フランクがいっぱいいっぱいになって次第に追いつめられていくのがよくわかった。
売れようと考えて作った曲は奇妙なものだったし、大会のステージに上がる前には白いドレスでかぶり物に化粧を施していて、笑いを誘う姿ながらも、中の人が相当追いつめられているな…というのがわかった。そもそも、化粧と言うのは素顔を隠すためのものなのに、素顔を隠すためのかぶり物に更に化粧をしているというのは、もう自己を内の内にまで隠してしまっているということだ。

ただ、ジョンの気持ちにも応えたいと考えるあたり、フランクは優しくもあるんですよね。謎がありながらも、性格が伝わってきた。

クララ役にマギー・ギレンホール。出ていると思わなかったので驚いた。ジョンから見たら少しイカれていて怖い人な演技がうまかった。フランクに対する態度は優しかった。
フランクが去った後、場末のバーでしっとりと歌う様も綺麗だったけれど、フランクとバンドを組んでいるときの、肩を細かく震わせながらキーボードを弾くパフォーマンスが鬼気迫っていた。

ジョン役はドーナル・グリーソン。監督やこの映画の舞台と同じくアイルランドの俳優さんで、未見ですが、いま公開されている『アバウト・タイム』にも出演中。『スター・ウォーズ』の最新作にも出るらしい。

最近、観た映画の出演者を調べると、結構『スター・ウォーズ』の最新作に出る方がたくさんいるので、一旦まとめると、『それでも夜は明ける』でアカデミー賞助演女優賞を受賞したルピタ・ニョンゴ、『アタック・ザ・ブロック』のジョン・ボイエガ、『インサイド・ルーウィン・デイヴィス』のオスカー・アイザックとアダム・ドライバー。

『悪童日記』


アゴタ・クリストフの1986年の小説の映画化。
読んだのは20年以上前で、内容を忘れていたので原作との比較はできません。近いうちに読み直したい。

以下、ネタバレです。







舞台は戦時下のハンガリー。
戦時下とはいっても、戦争をしている当事者ではなく、子供たちの目を通して描かれているので、ドンパチはそれほどない。どちらかというと静かなくらいなので、数回ある爆発シーンはどれも音がかなり大きく感じた。
それぞれが、人を殺すシーン、母親に爆弾が落ちるシーン、父親が地雷を踏むシーンと衝撃的でもあるので、余計に爆弾の威力を感じて大きく聞こえたのかもしれない。

兵士が戦ったり、爆弾で吹き飛ばされるのも、もともとの小説の作風通りというか、双子が日記に書いた絵で表現されている部分もあった。
それも、淡々としているので、少し不気味で怖いパラパラアニメのようになっていた。

淡々としているのは、主人公の双子の感情そのままなのだろう。戦争につかず離れずのようでいて、結局両親や隣りの家の女の子を戦争でなくすのだから、自分たちが兵士として戦うわけではなくても、直中にいたのだ。

ポスターなどを見ればわかるが、主役の双子役の子たちの表情が素晴らしい。監督が見つけてきたハンガリーの貧しい村の子たちらしく、映画出演も初めてだそう。かなり顔の整った双子なのですが、この先も映画に出て行くのだろうか。
感情を殺しているような役なので、演技面ではよくわからないけれど、たたずまいははまっていた。
大体のシーンで、周りすべては敵という顔をしてるんですが、一人が下から睨み、もう一人が顎をあげてこちらを見ている様子などは、並んでいるだけで絵になる。
コートなどのもこもこした服も可愛かった。体を洗ってもらうときの痩せ細った裸も印象的。

優しくて綺麗で若い女性に、体を洗ってもらい、食事を与えてもらうシーンは映画の中で色合いもあたたかく、ほっとするシーンだった。でも、なんとなく嫌な予感も感じるシーンで、それは双子と同じく私も疑心暗鬼になっているだけかなと思ったら、やっぱりいい人ではなかった。

他のシーンはだいたい、少しくすんだような色で撮影されている。祖母の家が古いせいかもしれない。
あたたかい色合いはほっとしたけれど、作り物めいていてなぜか居心地が悪かったのだ。くすんだ色のほうがしっくりくる映画だった。
また、双子役の少年たちが美しいせいもあるかもしれないけれど、背景を含めて、綺麗で絵になる映像が多かった。

二人は育つというより、どんどん精神的に強くなっていた。二人が離ればなれになったとき以外は取り乱すこともない。子供らしさが封印されていた。成長とは少し違うと思った。
最後、あれだけ嫌がっていたことを自分たちで選択をする。大人の手によって、ではなく、自分たちで離れて行く。もうそうなると、これで本当に怖いものがなくなる。

この二人はどんな大人になるんだろう…と思っていたら、『悪童日記』のあとに二作続編が出ているらしい。未読ですが、再会もするとか。
今回のヤーノシュ・サース監督が権利を持っているそうなので、ぜひ映画化してもらいたい。もちろん、主演の二人はそのままでお願いします。

ヤーノシュ・サース監督はアゴタ・クリストフと同じハンガリー生まれとのこと。
ハンガリーでもホロコーストがあったらしく、それは映画内にも出て来るのですが、監督のご両親がホロコーストからの生還者とのこと。
かなり戦争に近い位置にいたと思うのだが、戦争に対する感情的な怒りは描かれていない。小説のトーンを尊重しているのだろう。秘めた怒りは存分に感じる。

監督インタビューなどは新聞や雑誌の記事になっているみたいですが、双子に関しては何も無い。もちろん、役者ではないからかもしれないけれど、映画以外でのグラビアも見たかった。

映画は一部ドイツ語でほぼハンガリー語なのですが、あまり馴染みのない言語でした。双子がおばあさんを呼ぶ時の語尾がニャで可愛かった(nagyanya)。

『MUD-マッド-』


2012年公開。
少年たちが森の中に住む謎の男と会うが、彼が殺人事件の逃走犯だと知る。謎の男役にマシュー・マコノヒー。

マシュー・マコノヒー演じるマッドはアウトローっぽく、危険な香りを漂わせていて、14歳の好奇心旺盛な少年たちが夢中になるのも仕方ないと思う。
しかも、十字の靴底、体を守るシャツ、魔除けのたき火と話す内容も魅力的。嘘だか本当だかわからない、おとぎ話のようなことを言っていて、周りにそんな大人はいないだろうし、ましてや両親の離婚に直面しているエリスや両親のいないネックボーンは、マッドに魅了されて当然だと思う。

そこには、おそらく現実逃避的な意味も含まれているのだろう。暗い日常では、危険で刺激的なものにひかれてしまう。

エリスに関しては、マッドから愛とは何かも学ぶ。自分の両親の不仲のせいもあって、マッドのジュニパーに対する一途な愛に憧れる。自分もちょうど好きな子が出来て、少しいい感じになったりする。14歳だし、初めてのデートなのかもしれない。
ただ、彼女もジュニパーも、結局は別の男と一緒になるところを見てしまう。

愛ってなんだ?と苦しむんですが、もうこれは本当に14歳だからたぶん、最初の苦悩だと思う。恋愛に酔っているときにはロマンチストだけれど、裏切られると、一気に地獄へ真っ逆さま。子供には酷な話だと思う。

恋愛と、勇敢さと、盗みや嘘などの悪いことをおぼえて、少年は大人になる。
それだけで良かったと思う。少年たち、というか、エリス一人を主人公として描いてほしかった。
マッドはサンタクロースとかと同じ架空の人物で、少年の成長(しかも、両親の離婚のタイミングだ)のために現れたけれど、本当にいたのかどうかわからないというくらいで良かった。ある日、ふっと消えてしまって、少年(と映画を観ている人)が夢のような出来事と男に想いを馳せるような終わり方で良かったのではないか。

おそらく、監督が真面目な人で、マッド側の殺人事件についてもちゃんと決着をつけようとしたために、丁寧に描いていたのだろう。息子を殺されたギャングのような集団が中盤に出てきたときに、そちらのことについても描かれることに少し違和感を覚えたんですが、終盤でも銃撃戦のシーンが出て来る。また、トムが狙撃の名手という伏線がここで回収されたりもするけれど、別に回収する必要の無い伏線だったと思う。

マッドについても描こうとするから、撃ち合いのシーンを入れなきゃいけなくなった。更に、川に飛び込んだマッドがどうなったか、ということまで最後に描いている。
その辺も、川に飛び込んだ、死体は上がっていない、それだけで良かったのだ。生きているのかもしれない、もしかしたら死んでいるのかもしれない、生きていたらいいなくらいの余地が欲しかった。

少年たちは映画の中ではマッドの行く末を知らない。観ている側にもそれで良かった。
マッドが実在したかはわからないけど、子供は現実の世界で確実に成長してる。それだけが残れば良かったのではないか。

後半のいくつかを削れば、120分以内におさまった。134分は少しだけ長い。

結局、トムがマッドを助けてボートで逃げていたけれど、彼女のジュニパーは『一生逃げて暮らすのは無理」と言っていたが、トムはそれを選んだのだろうか。結局父親代わりということか。

もう根本的なところで、マッドの話すジュニパーという幼馴染みであり恋人も、話の中だけの人物で良かった。
ただ、終盤、マッドがジュニパーに別れをつげるために、こっそり遠くからジュニパーを見るシーンは素晴らしかった。そのマシュー・マコノヒーの表情がとても穏やかで、様々な裏切りを受けたことをまったく恨んでなさそうだったのだ。それでも愛しているという、表情だった。あの顔こそ、エリスに見せてあげたい。

この映画では川が多く出て来るのと、マシュー・マコノヒーということで、『ペーパー・ボーイ 真夏の引力』に舞台が少し似ていた。あちらは沼ですが、今作の川も決して綺麗ではなかった。

ちゃんとは描かれないのですが、エリスの家は川のへりというか桟橋というか、母親の言葉だとボートと言っていたので浮かんでいるのかもしれないですが、そこで川の魚をとって、町へ売りに行っているようだった。
当然貧困層であり、『ペーパーボーイ』のヒラリーの沼の家を思い出した。


ドルビーアトモスで観たんですが、席が前方だったせいもあるかもしれないけれど、あまり音の良さはよくわからなかった。前回がIMAXだったからかもしれない。
IMAXと同じく、最初のプロモーション映像みたいなのはすごかった。葉っぱが右から左へ。

以下、二回目で思ったことをちょこちょこと。ネタバレです。







二回目でも、最初に10ccが流れてきた時に泣いてしまった。二回目のほうが、この先に起こることがわかっていたから余計に泣けた。

最初の廃墟でオーブを盗むシーンで、さあ行くかねとヘッドフォンを耳に装着し、『Come and get your love』を聴くシーン。タイトルがバーンと大写しになったときに、下の方でひょこひょこ踊っているのが最高。
大事そうな任務途中なのにこんなノリの良い音楽が流れることで、この作品のスタンスがわかって、観客側もこれから始まるのがどんな映画なのかがなんとなく知ることができるシーン。
楽しくはあるけれど、母親の形見を大人になるまで大事に持ち歩いてる、そして一人きりというところにほろ苦さもある。
そして、この先に合う仲間たちの存在の大きさとの対比もできる。

一人きりといっても、ヨンドゥはずっとピーターの近くにいたんですよね。序盤でピーターがオーブを一人で売り飛ばそうとしたときも、ヨンドゥは「生け捕りでつかまえろ!俺が殺す!」って言うんですが、大抵この場合って殺さないですよね…。
また、仲間がピーターを食おうとしたところを何度も救ったと言っていた。何度もとは、本当に親代わりとして大事に思っていたのだと思う。
だから、最後にオーブを受け取った時も、おそらくピーターが渡して来たのが偽物だと気づいていたのではないかと思う。そうでなきゃ、あんなところで、すぐに、無防備にあけたりしないだろう。
開けたときに、中のトロール人形の髪の毛が馬鹿にしたようにぴょこんってなるのが可笑しいし、ヨンドゥも怒りではなく、わかっていたことだというように苦笑していた。ピーターはがちゃがちゃのカプセルにおもちゃをつめこむように、髪の毛を慎重に折り込んで、オーブのケースの外にはみ出ないようにしたんだろう。
ヨンドゥの船は墜落して、操縦席に置いてあったおもちゃも一部を残して無くなってしまったようだったので、新たなラインナップに加わるのではないかと思う。

ピーターの正統派ヒーローとは違う飄々としたキャラクターがこの映画の魅力だと思うんですが、コレクターにオーブを渡す時に一回落としそうになるのはクリス・プラットのアドリブではないんだろうか。真剣味の無さなのか、緊張してなのか。どちらにしても落としたら一大事だというのがわかってなさそうな適当さがいい。

ガモーラの「この船不潔よ」に対してピーターが「ブラックライトをつけるとアートが浮かび上がるんだけどな」のシーンは“精子はブラックライトで光るから”だという説があった。確かに、「Great picture.」と言うクリス・プラットが大層いやらしいにやにや笑いをしていたので、その説で間違いなさそう。

ジョン・C・ライリー演じるノバの兵士あてに、ピーターから着信があったときに出て来るピーターの写真が、すごく中途半端な表情というか、そんな写真で登録されてしまうところからも、彼のキャラクターが周囲からどうとらえられているかわかっておもしろい。

ドラックスは、最初に観た時には乱暴者だし怖いキャラだと思っていたけれど、今回は彼についてわかっていたので最初から怖さは無かった。家族を失っている孤独さはピーターと同じだけれど、素直で優しい。
人の言うことをそのまま受け取るということは、嘘をつく人などいないと思っていることだし、自分も嘘がつけない。嘘という概念自体を持っていないのかもしれない。思ったことは照れくささなど感じずに口にしてしまう。
敵の船に乗り込むときに、ドラックスは笑いっぱなしで、たぶん大興奮しているんですが、その勢いで、他のメンバーに会えていかに嬉しいか、いかに大切な友達かを語り出す。それは本心だとわかるから、観ている側は泣ける。けれども、その場にいる人たち、特にガモーラなんかは照れくささから、そこに賛同しないところがこの映画のいいところ。
普通だったら、ドラックスが切々と語っていたら、全員、僕らも嬉しい!私も!みたいになって円陣でも組みそうなシーンである。最終決戦前だし、涙の一つも浮かべるかもしれない。でも、ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーの面々は、冷めているというか、そうゆうのやめてよみたいな雰囲気になっているのがたまらない。それでこそ、この映画なのだ。

敵を前にして、ピーターが急に踊り出すシーンもなんですが、ガモーラが首を傾げちゃうんですよね。それは映画を観ている側もそうなんですが、仲間ですら、彼の行動が理解出来ない。それで、「次!君も踊って!」みたいな感じでガモーラをダンスに誘うんですが、ガモーラは無言で首を横に振って断る。
ここも、普通の映画だったら断らないですよね。ましてや、少し前に、『フットルース』のダンスバトルの話をしているんですよ。その伏線を回収する場所でしょう。でも、断る。
これ、踊ってしまったらガモーラじゃないと思う。良い雰囲気になっても、キスをしない彼女である。あの場所でキスをするようなキャラなら、一緒に踊っていたかもしれない。
この少し前のシーンで、メンバーが最終決戦へ向かう前に横並びで歩くシーンがあるんですが、ここも普通の映画なら決めてるはずですが、ガモーラは欠伸をしちゃっている。
こんな感じで、普通の映画だったら、話の流れ的にこうするよなということからことごとくズラしてくるのが面白いし、そのズラし方もこの映画の魅力だと思う。
まず、敵を前にして踊り始める主人公がいなかったと思う。小さい驚きの連続なのだ。

音楽の使い方も使われている曲がそれぞれ良い曲なのはもちろんなんですが、それらが入って来るタイミングが独特なのだ。それは、それらの曲が収録されているのが、お母さんの遺した“最強ミックス”のカセットテープだという理由もあるのだけれど。

お母さんの関連ですが、最初に手を伸ばしたときにピーターはお母さんの手をとらないんですよね。そのまま亡くなってしまう。ピーターは多分それをずっと後悔し続けてきたと思う。
映画の最後のほうのオーブのシーンで仲間と手を繋ぐことで、初めて26年越しの後悔が消える。
タイトルが出るシーンでもわかる通り、ピーターは(ヨンドゥは居たけれど)基本的にいままでずっと一人だった。その彼が仲間を得て、手を繋ぐことではっきりと繋がった。手を繋ぐという行為は結束力の証でもあるし、後悔を昇華させる行為でもある。

この盛り上がるシーンでもぼろぼろ泣いてしまうんですが、この映画はもう一度この後に泣き所があって、一度観ているのに不意打ちを食らう。
お母さんの手紙のシーンですね。ピーターに託したのはAwesome MixのVol.2でここに入っているのがMarvin GayとTammi Terrell『Ain't no mountain high enough』。“私が必要ならば例えあなたがどこにいてもかけつける”と歌われるこの曲は、そのまま母からのメッセージでもある。
いつでもあなたのそばにいる、音楽を流せば。さびしさよりもこの力強さに、最後もう一度泣いてしまう。

完璧なのが、泣いたまま終わらせずに、このあとに、ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーの面々が新しい冒険に旅立つシーン、そして続編への予感を漂わせているところ。
すぐにでも続編が観たくなるし、キュートなベイビーグルート(とドラックス)の動きでにこにこしてしまうので、気持ち良く映画館を出られるのだ。