『MUD-マッド-』


2012年公開。
少年たちが森の中に住む謎の男と会うが、彼が殺人事件の逃走犯だと知る。謎の男役にマシュー・マコノヒー。

マシュー・マコノヒー演じるマッドはアウトローっぽく、危険な香りを漂わせていて、14歳の好奇心旺盛な少年たちが夢中になるのも仕方ないと思う。
しかも、十字の靴底、体を守るシャツ、魔除けのたき火と話す内容も魅力的。嘘だか本当だかわからない、おとぎ話のようなことを言っていて、周りにそんな大人はいないだろうし、ましてや両親の離婚に直面しているエリスや両親のいないネックボーンは、マッドに魅了されて当然だと思う。

そこには、おそらく現実逃避的な意味も含まれているのだろう。暗い日常では、危険で刺激的なものにひかれてしまう。

エリスに関しては、マッドから愛とは何かも学ぶ。自分の両親の不仲のせいもあって、マッドのジュニパーに対する一途な愛に憧れる。自分もちょうど好きな子が出来て、少しいい感じになったりする。14歳だし、初めてのデートなのかもしれない。
ただ、彼女もジュニパーも、結局は別の男と一緒になるところを見てしまう。

愛ってなんだ?と苦しむんですが、もうこれは本当に14歳だからたぶん、最初の苦悩だと思う。恋愛に酔っているときにはロマンチストだけれど、裏切られると、一気に地獄へ真っ逆さま。子供には酷な話だと思う。

恋愛と、勇敢さと、盗みや嘘などの悪いことをおぼえて、少年は大人になる。
それだけで良かったと思う。少年たち、というか、エリス一人を主人公として描いてほしかった。
マッドはサンタクロースとかと同じ架空の人物で、少年の成長(しかも、両親の離婚のタイミングだ)のために現れたけれど、本当にいたのかどうかわからないというくらいで良かった。ある日、ふっと消えてしまって、少年(と映画を観ている人)が夢のような出来事と男に想いを馳せるような終わり方で良かったのではないか。

おそらく、監督が真面目な人で、マッド側の殺人事件についてもちゃんと決着をつけようとしたために、丁寧に描いていたのだろう。息子を殺されたギャングのような集団が中盤に出てきたときに、そちらのことについても描かれることに少し違和感を覚えたんですが、終盤でも銃撃戦のシーンが出て来る。また、トムが狙撃の名手という伏線がここで回収されたりもするけれど、別に回収する必要の無い伏線だったと思う。

マッドについても描こうとするから、撃ち合いのシーンを入れなきゃいけなくなった。更に、川に飛び込んだマッドがどうなったか、ということまで最後に描いている。
その辺も、川に飛び込んだ、死体は上がっていない、それだけで良かったのだ。生きているのかもしれない、もしかしたら死んでいるのかもしれない、生きていたらいいなくらいの余地が欲しかった。

少年たちは映画の中ではマッドの行く末を知らない。観ている側にもそれで良かった。
マッドが実在したかはわからないけど、子供は現実の世界で確実に成長してる。それだけが残れば良かったのではないか。

後半のいくつかを削れば、120分以内におさまった。134分は少しだけ長い。

結局、トムがマッドを助けてボートで逃げていたけれど、彼女のジュニパーは『一生逃げて暮らすのは無理」と言っていたが、トムはそれを選んだのだろうか。結局父親代わりということか。

もう根本的なところで、マッドの話すジュニパーという幼馴染みであり恋人も、話の中だけの人物で良かった。
ただ、終盤、マッドがジュニパーに別れをつげるために、こっそり遠くからジュニパーを見るシーンは素晴らしかった。そのマシュー・マコノヒーの表情がとても穏やかで、様々な裏切りを受けたことをまったく恨んでなさそうだったのだ。それでも愛しているという、表情だった。あの顔こそ、エリスに見せてあげたい。

この映画では川が多く出て来るのと、マシュー・マコノヒーということで、『ペーパー・ボーイ 真夏の引力』に舞台が少し似ていた。あちらは沼ですが、今作の川も決して綺麗ではなかった。

ちゃんとは描かれないのですが、エリスの家は川のへりというか桟橋というか、母親の言葉だとボートと言っていたので浮かんでいるのかもしれないですが、そこで川の魚をとって、町へ売りに行っているようだった。
当然貧困層であり、『ペーパーボーイ』のヒラリーの沼の家を思い出した。

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