タイトルから、『クローバーフィールド/HAKAISHA』の続編と思われそうだけれど、違います。作風も、『クローバーフィールド』がファウンドフッテージものだったけれど、こちらは違う。まったく関連がないと言ってもいいと思う。
製作にJ・J・エイブラムスが入っているのは同じだけれど、監督は違う。(ただし、JJは「血の繋がった映画」と言っているらしい)
製作費も、『クローバーフィールド』が2500万ドルだったのに対して、本作は1500万ドルである。

ただ、予算が少ないながらの工夫があり、とても楽しめた。
ちなみに、一番最初に観た予告編は三人が部屋のテーブルを囲んでいて、楽しげな音楽が流れているものだった。けれど、次第に音楽が歪み始め、三人のうち、女性がそこから逃げようとするもの。
これで『10 クローバーフィールド・レーン』というタイトルが出たので、驚いてしまった。
これは、オリジナル版の予告を縮めたものだったのだと思う(公式サイトを見る限り)。
日本版の予告は怪獣の姿が出てしまっているらしかったので、見ないようにしていた。でも、映画館にあるポスターなどでちらっと観てしまい、慌てて目をそらしたりしていた。

『クローバーフィールド』でも、ためてためて最後に怪獣をバーン!と出していたので、その姿をはっきり映してしまうのは情緒が足りないと思う。けれど、そうしないとお客さんを呼び込めないのかもしれない…。

映画を観た後で日本版の予告を観たけれど、これは詐欺だと言われそうだし、私は本作が好きだけれど、多分、こっちの予告だけ観て本編を観た人は想像と違ったと思う。オリジナル版予告のほうが本作に忠実です。

以下、ネタバレです。









というのも、怪獣が出てくるのが本当に終盤の少しの時間だけだからだ。
そして、できることならば、出てくるという情報も知りたくなかった。けれど、タイトルに“クローバーフィールド”と付いているから、ある程度出てくるだろうなとは思うのだけれど…。
本作は、本当は何が起こっているのかがわからないところがおもしろい。

主人公のミシェルは恋人と別れ、傷心のまま車を運転していたところ、事故に遭い、目覚めたら監禁されていた…というところから始まる。
あれやこれや考えて、工夫をして逃げようとする様子は少し『ソウ』を思い出した。

ここの主人がハワードという太った男で、外は汚染されているから良かれと思ってお前を助けてやったと繰り返す。もう一人逃げこんでいたエメットと、この狭いシェルター内での共同生活が映画の主たる部分である。

観客はミシェルと同じ視点である。POVというわけではないが、観客の知っていることとミシェルの知っていることが一緒なのだ。ハワードが言っていることを疑わしいと思うのも、この人信用できるのかも、と思うのも同じタイミングだ。だから、共感できる。

外が何者かに攻撃されて…と急に言われても信用できない。もちろん、観客は頭の中に“クローバーフィールド”という単語がちらついているから、その点ではミシェルよりもハワードのことを信じたかもしれない。
そして、エメットというおそらく同い年くらいの青年がいた時には、本当に外が汚染されているとして、ハワードはもしかしたらノアの方舟を作りたいのかなとも思ってしまった。けれど、エメットとミシェルが少し仲良くなり始めたら腹を立てていたので違うらしい…。

ハワードが車をぶつけてきたことを思い出したときにも、ミシェルと同じくただの誘拐からの監禁かと思った。だから、逃げようと思った気持ちもわかった。
しかし、外で生きている人…瀕死の女性が、「ガスを少しだけ浴びた」と言いながら必死で助けてと言っていて、本当に何事かが起こったのはわかった。

けれど、その後もハワードには怪しい部分が多すぎて、あの瀕死の女性ももしかしたらハワードが仕込んだ人物なのではないかとも思ってしまった。
常に疑心暗鬼である。ミシェルと一緒に、様々な出来事を疑いながら観るのが楽しい。

ハワードの娘のエピソードが少しわかりにくかったんですが、エメットの友人の妹をさらってきて、娘代わりにしていたということでいいのだろうか。それで、抵抗したから殺した、と。それで、ミシェルも同じようにやはりさらってきたということなのだろうか。
だから、やはり気が動転していて車をぶつけてしまったという序盤の弁解は嘘だったのではないかと思う。

エメットも最初は(目的はわからないながらも)ハワードとグルなのではないかと思っていたけれど、話していくうちに、信用できる普通の青年なことがわかったし、あの異常な状況の中で普通の他者がいるとどうしても好きになってしまうところもあった。ミシェルがどうだったかはわからないけれど。
ラブな展開はまったくなく、ハワードにあっさり殺されてしまう。

そうなったらもう本格的に逃げるしかない。命からがら、手作り防護服を纏って外へ出たけれど、虫の声はするし、鳥が空を飛んでいる。
ああ、やっぱりハワードの言ってることは嘘だったんだ。汚染なんてされていない。こんな防護服なんて着ちゃって馬鹿みたいね。なんて感じでマスクを取る。遠くからヘリが飛んできて、助けを求めて映画が無事に終わるのかなと思った。けれど、この時にも、頭の中に“クローバーフィールド”という単語がちらちらしていた。

で、結局、助けてくれるヘリなんかではなく、それが怪獣だっていう…。
ちなみに、この空を飛ぶ巨大な宇宙船に触手が付いたような怪獣は、日本版のポスターにも予告にも出てました。これを出しちゃだめだろう。映画で観て、初めて絶望する感じがいいのに。

そこで怪獣を撃退し、ハワードの車で大きな通りまで出るんですが、そのときに吹っ飛ばしたポストに書かれていたのが“10 クローバーフィールド・レーン”でした。住所だった。なるほど。
大きな通りでは辛うじてラジオが受信できるんですが、ヒューストンで怪獣と戦っているらしいという情報を得て、車のハンドルをそっちにきるシーンで映画は終わる。勇ましくて好感の持てる主人公でした。

もうあらかた話は終わったと思ったところで怪獣が出てくるので、パニックものみたいなのを想像した人はがっかりすると思う。時間にしても30分もないと思う。本当に、出てこないまま終わるのかとすら思った。だから、怪獣出まっせ!みたいな煽りの強い、日本版の予告はどうかと思うのだ。

私はオリジナル版の予告しか観ていなかったので、予告での印象ともそれほど違わなかった。個人的な好みもあるかもしれないけれど、ほぼ密室三人芝居の心理戦がとてもおもしろかったです。少しずつ謎が明らかになっていくサスペンスは、パニックムービーに比べると地味といえば地味なので、好き嫌いは分かれそう。IMAXとか大きなスクリーンが割り当てられているのは、映画館の人か配給の人かわからないけれど、内容を観てないんでしょうか。

エンドロールで初めて知ったんですが、ミシェルの元恋人のベン役がブラッドリー・クーパーで、評価が更に一段階上がった。ベンは電話の声だけの出演です。





1960年代のロンドンに実在した双子のギャングの話。
双子のギャングを演じるのはトム・ハーディ。一人二役。他、クリストファー・エクルストン、タロン・エガートン、コリン・モーガン、ポール・ベタニーなど、イギリス俳優好きにはたまらない面々が揃えられている。
監督は『ロック・ユー!』『42 〜世界を変えた男〜』のブライアン・ヘルゲランド。

以下、ネタバレです。




ギャングの双子、クレイ兄弟に関しては、1990年に『ザ・クレイズ 冷血の絆』というタイトルですでに映画化されている。クレイ兄弟を演じたのはなんとスパンダー・バレエのゲイリー・ケンプとマーティン・ケンプ。双子ではなく兄弟です。
同名タイトルで小説が出ているが、映画の小説化というわけではなく、映画の元となった小説『The Profession of Violence』(ジョン・ピアースン著)を翻訳したもの。今作も、原作は同じくこの小説です。

原作は読みました。『ザ・クレイズ 冷血の絆』のほうは観ていないのでわかりませんが、本作に関しては、そこを切り取ったか…という感じだった。

本作はクレイ兄弟というより、エミリー・ブラウニング演じるフランシスが主人公とまではいかないが出番が多かった。こんなに多くなくてもいいのにというくらい多かった。エミリー・ブラウニングの魚顔は好きなんですが、それでも首を傾げざるを得なかった。

ただ、フランシスをそんなに出すなら、もういっそ、フランシスとレジーのラブストーリーにしちゃえば良かったのに。出番が多いのに、深くは描かれてないから、なんで二人が魅かれ合ったのか、なんで「愛してる」などと言い合っているのか、なんで結婚することになったのか…。いつの間にか感が否めなかった。
フランシスが映画の語り手なんですが、端折るためのナレーションというか、説明くささも気になった。「のちの私の義弟である」とか、なんで結婚することを先に言ってしまうんだろう。ドラマも何もない。実際、ドラマチックには描かれていませんでしたが。
それでも、たぶんレジーとの結婚のことだと思うんですが、フランシスは「私の夢」と言っていた。それがないがしろにされているようで、可哀想に思えた。

また、レジナルドはレジナルドで、結婚したら堅気に戻ると言っていたのに、実際に結婚したあとは、堅気に戻るそぶりも見せなかった。それどころか、余計にギャング業に精を出しているようだった。フランシスのこともあんなに好きだとか愛してるとか言っていたのに、鬱陶しそうに扱っていた。釣った魚に餌をやらないタイプという風にも見えなかったし、まるで二重人格ではないか。
原作ではこんな人物ではなかったと思う。

ラブストーリーにしないのなら、真っ当なギャングものやクライム・ムービーにしてほしかった。双子にきっちり焦点を合わせ、原作の通り、子供時代からレジーのボクシングのエピソードなども入れてほしい。フランシスはエピソードの一つだろう。
でも、子供時代をやるとしたら、子供の双子を連れてこなきゃ行けなくて、それも厳しかったのだと思う。

改変をするならフランシス中心ではなく、もっとうまくできなかったのかと思う。トム・ハーディーが双子を演じていて、どうしてこうなってしまったのか。もっと兄弟愛を前面に出してほしかった。愛というか、愛憎か。
最後のほうで、レジーが人を滅多刺しにしたあと、ロンに「なんでこんなことを?」と聞かれ、「俺にはお前を殺すことはできないから身代わりだ」と耳許で囁くシーンがある。
このシーンだけは、ぞくっとしたし、いいな!と思えた。どうしてこの路線でやらなかったのか。
原作ではレジーが問題児のロンの世話をかなり焼いていたと思う。迷惑も多大に被っていた。けれど、兄弟というか、双子なので憎めない。どんなに憎くても殺せない、呪いのような関係を描いてほしかった。

双子なのだし、二人には二人にしか理解し得ない事柄がたくさんあるはずなのだ。そんな二人の濃密な時間や関係はまったく描かれない。それどころか、二人一緒のシーンがほとんどない。
なぜかと言ったら、それは一人二役だからです…。

レジーは正統派ハンサム。髭も無いし、こんな美形なトム・ハーディーは久しぶりに見た。ロンは問題のある人物。特徴のある大きな眼鏡と、喋り方は『‪Stuart: A Life Backwards‬』のスチュアートっぽい。
二人の演じ分けは完璧だし、両方のトム・ハーディーが見られるお得な映画ではある。
けれど、二人が同じ画面に収まると合成感が隠しきれない…。

二人が向かい合っていて、一人が背中姿では味気ない。触れるシーンもほとんどない。二人きりのシーンはなかったと思う。
殴り合いのシーンでは、オールバックにしていた御髪が乱れて顔が隠れるので、たぶん違う人なんだろうなというのが丸わかり。また、レジーとロン、それぞれのPOVになったのは、そうするしかないよなあと苦笑してしまった。
(トム・ハーディーは最高だったけれど、こんなことなら本物の双子を使ったほうが良かったんじゃないか、でもそんな都合のいい双子なんて…と考えてたときに、こんな場面にルークとハリーのトレッダウェイ兄弟がいる!と思った。イギリスだし! でも、あいつらは、ロンドン暗黒界を牛耳るギャングの体型ではなかった…)

あまり予算がなかったのかなと思った。屋外のシーンがまったく1960年代っぽくなかったことからもそう思いました。

他の出演者について少し。
ポール・ベタニーはほんの少ししか出てこない。似ているけどそうなのかなと思ったらそうだった。
コリン・モーガンの実直さはとても良かった。フランシスの兄の役。
クリストファー・エクルストンはドクターの時のようなスキンヘッドじゃないとよくわからなかった。彼の出番はそこそこ多かったけれど、あとから知りました。あの耳の大きさで気づくべきでした。
タロン・エガートンは生意気っぽくて良い役だった。けれど、彼も原作ではもっと出番が多かったし、もっと特徴のある人物だった。どうせならロンと際どいくらいいちゃいちゃして欲しかったです。とにかくどっちかに振れた作風にしてほしかったのだ。なんとなく単調で、事実をなぞっているだけに思えた。




タイトルから『シェフ 三ツ星フードトラック始めました』と似た感じになるのではないかなと思った。
かつてのやり手シェフがなんらかの原因で落ちぶれ、そこから再起を目指す。
そのおおまかなあらすじは一緒だけれど、アプローチの仕方や結果はまったく違っていた。

ブラッドリー・クーパー主演。ポスターには彼しか写っていなかったので知りませんでしたが、ダニエル・ブリュール、オマール・シー、シエナ・ミラー、エマ・トンプソン、ユマ・サーマン、アリシア・ヴィキャンデルなどなど豪華キャストが揃っている。
監督は『カンパニー・メン』『8月の家族たち』のジョン・ウェルズ、脚本は『イースタン・プロミス』『完全なるチェックメイト』の脚本、『オン・ザ・ハイウェイ その夜、86分』の監督のスティーヴン・ナイト。

以下、ネタバレです。








『シェフ 三ツ星フードトラック始めました』はSNSで失敗をして店を追放される。それで、そこからはフードトラックで各地をめぐるロードムービーになる。キューバ音楽がゴキゲンに流れ、料理も本当においしそうに撮られていて、まさにおしゃれな料理映画という感じ。
息子や友達の力は借りるけれど、あくまでサポート。フードトラックだから店は飛び出して独立するという形で、基本的には一人。
けれど、『二ツ星の料理人』は“みんなで力を合わせること”がテーマになっていた。

確かに、本作でも料理もおいしそうに撮られている。けれど、『シェフ 三ツ星フードトラック始めました』のようにお腹が鳴るとか、おいしそうすぎて身悶えするようなことはなかった。まああれは、おいしそうに食べるジョン・ファブローがずるいとも言える。
本作は料理映画というよりは、スポ根映画だった。店で働く料理人たちはそのままスポーツチームにも置き換えられる。主人公アダムは能力はあるがワンマンプレーが問題の選手。

ライバルが、かつてはチームメイトだった(同じ店で働いていた)というのもスポーツものっぽい。ライバルというのは、互いを認め合っているから対立するのだ。嫌いなわけじゃない。そのあたりの描き方も絶妙だった。
アダムが逃げ出したときに甘える相手は結局はライバルなんですよね。ライバルのリース側もそれがわかっている。
だから、アダムが酷い状態で店に侵入してきても、呆れることはあっても怒ることはしない。朝ご飯のオムレツも作ってあげる。
同じ土俵で争える数少ない人物だから理解し合えるのだ。たぶん、話が通じる相手もそれほどおらず、同じ孤独を抱えているのだと思う。おもしろい存在だと思う。

ライバルの他にも、アダムの店で働くスタッフ(料理人、給仕係)の面々、精神科医、雑誌記者など登場人物が多い。
けれど、『八月の家族たち』の監督だと知って、なるほどと思った。一人一人のバックグラウンドがしっかり見えてきて、キャラクターがちゃんと“生きている”群像劇である。
とっちらからないのはちゃんとアダム中心になっているからだ。省くところは省き、スポットライトを当てるところは当て、という取捨選択がうまい。

ただ、描かれていないだけで、それぞれがいろんな想いを抱えているのがわかる。それを踏まえた上でもう一度最初から観たい気もする。

それこそフードトラックで生計を立てていたデヴィッド(サム・キーリー)はアダムに引き抜かれ、店で働くことになる。狭いアパートに彼女と住んでいて、よくわかっていない彼女に「一ツ星はルーク・スカイウォーカーで、三ツ星はヨーダだ!」とわかりやすいんだかわかりにくいんだか、よくわからない説明をしていた。
たぶん彼はその時には現実味はなかったのだろうけれど、働くうちに、まかない係も担当し、シェフと副シェフがいない間の厨房をまかされたりもし、と確実に成長していた。きっと、もっともっとすごい料理人になるのだと思う。

かつて、アダムに酷い仕打ちを受けたミシェル(オマール・シー)は、おそらくアダムに声をかけられた時から、復讐の機会を狙っていたのだろう。
最初の頃のアダムは「自分のせいだ」を繰り返しつつも周囲に当たり散らし、罵倒も繰り返していた。周囲はそれでも、彼の才能を認めていたから一緒に働いていたのだろう。
けれど、最初からアダムが憎かったミシェルはどうだ。もうずっと、毎日耐えて耐えていたのだろう。それで、最高のタイミングで最大の爆弾を落とした。それが、本当にミシュランなのか、というのは調べる手段もなかっただろうし、もう余裕が無かったのだろう。たぶん、それだけ限界に来ていたのだと思う。
この復讐を受けたアダムが怒るでもなく笑っちゃっていたところに、とてもよく感情が表れていたと思う。完全に自分が悪い。ミシェルがそのような行動に出たのも理解できる。自業自得だ。最初からうまくいくわけなんてなかったんだ。そんな感情がないまぜになった顔だった。

アダムがかつて働いていた店のオーナーの息子、トニー(ダニエル・ブリュール)についても、初登場時の表情から何からもう一度見返したい。
トニーはアダムのことを前から知っていて、少なからず恨んでもいて。だから、目の前に現れたときに、厄介なことになったなと思ったはずだ。
でも、しょうがない奴だなというように服をたたんであげてたし、服のにおいを嗅いでいた?と思ったけれど、しばらく洗ってないとかその辺を気遣っているのかと思った。

でも、シャワーを浴びてる姿を見ちゃいそうになったときに、おっとというように身を隠したんですよね。
そこで、あれ?と思ったら、実はアダムのことが好きだったという…。
「おなかが空いてるなら朝食作ろうか?」「それは愛せないことの謝罪?」という言葉のやりとりがとても好きでした。

ああ、好きだったんだ…と思うと、戻ってきた時の彼の気持ちをもっとよく考えてしまう。
酷い扱いをされて、恨んではいても、それだけじゃなかったんだ。
きっと、少し嬉しかったんだろうな…。

鬱陶しそうにしてたけれど、献身的に支える立場にまわっていた。影で支えていた。近くで見守るときに、ホテルマン立ちになってしまっているのも良かった。

ミシュランが勘違いだったことを告げられて、アダムが喜びのあまりトニーにキスをするシーンも良かった。
トニーは冷静を保とうとしつつも大混乱で、思わず「ありがとう」なんて言っちゃうのが本当に可愛かった。

序盤でアダムは『七人の侍』の話をしている。一人ではなく、人を集め、複数で戦うことを夢見ているようだった。

それはかつては手の中にあったものなんですよね。
ライバルのリースとミシェルとマックスと、一緒に働いて、その後飲みに行って、また働いて。シェフの娘と恋人同士になって、一緒にドラッグをやって。
それはそれで、楽しくて最高の日々だったのだろう。
でも、その日々はアダムが一人で壊した。もう作り直すことはできない。だから、それを新しくまた作り直したいというのは、何か罪滅ぼし的な意味も含まれていたのではないかと思う。

過去の映像は話に出てくるだけで一切出てこない。でも、その若かりし日々は想像で補える。ここも取捨選択が絶妙だと思う。現在にだけスポットを当てて、濃く描いている。

一回目のミシュランの人らが来ているというときに、料理風景が手持ちカメラでぶれぶれに撮られているのが、不安感をかき立てた。まるでアクション映画風で、暴力的にも思えた。嫌な予感がしたら、やっぱり…というようなことが起きる。

二回目の本物のミシュランの人が来ているときには、困難を乗り越えていたので、アダムの精神を反映するように、映像も落ち着いていた。料理も綺麗に見えた。

映画の最後で、ミシュランのアダムの店のページに星が三つ付いている映像が流れたりしたらダサイなと思ったけれど、そんなのは入らなかったのも良かった。

音声無しで、おそらく結果を報告しているだろうというシーンは流れる。トニーもアダムも笑顔ではあった。やったねという顔にも見えたし、まあ次回また、という顔にも見えた。
きっと、それはどちらでもいいのだ。そこは主題じゃないから。

ラスト、料理人たちがまかないをわいわい食べている中に、アダムが自分から加わって行く。少し前には、みんながまかないを食べていても、少し離れた場所で書類かなんか見ていた男が、だ。

序盤のアダムは完璧主義者だったので、おそらくみんなと何かやりたいという気持ちはあっても、それと同時に他の人は信用できないとも思っていたのだと思う。
それか、過去の仲間と比べていたのかも。
どちらにしても心を開いていなかったのだ。

それが、まかないを食べるテーブルに加わるという映像だけで、心を開いたのがわかる。
まだこれは、ちょっとの前進で、ここからスタートといったところなのかもしれない。それでも、大切なものを得た手応えは感じていたと思う。

ブラッドリー・クーパーは『アメリカン・スナイパー』から体重というか体型が戻ってなさそうだった。ムキムキしていてゴツい。顔も丸く、だんごっ鼻に見えた。
でもその体型がシェフとしても説得力があった。

副シェフのエレーヌはシエナ・ミラーで、あとで『アメリカン・スナイパー』コンビだと気づいた。二人とも、まったく印象が違った。
エレーヌは仕事はできるけれど、はすっぱというか気が強くて好みでした。

元彼女役がアリシア・ヴィキャンデル。少し褐色風のメイクで、エキゾチックになっていた。少し前に『エクス・マキナ』を観たばかりだけれど、どちらも可愛いです。

他にもたくさんのキャラクターが出てきて、その全員がとても愛しい。しっかり描かれているからだと思うが、演じている俳優さんもそれぞれうまいです。


現代にタイムスリップしてきたヒトラーが騒動を起こすという、大丈夫なのかなと心配してしまう内容だけれど、原作小説はベストセラーになり、映画もドイツで『インサイド・ヘッド』を抑えて一位になったらしい。

以下、ネタバレです。






ヒトラーそっくりさんは謎の人物として出てくるわけではなく、最初からヒトラーの一人称なので、ありえないけれどヒトラーご本人がタイムスリップしてきたというのは観客には前提として明かされる。ヒトラー目線のまばたき付きPOVもありました。

クロコダイルダンディ型カルチャーギャップコメディなのかなと思っていたけれど、コメディ要素は意外に少なかった。カルチャーギャップでくすっとくるシーンもまったく無いわけではないです。“世界征服”でインターネット検索しようとするシーンとか。
ただ、予告やポスターだともっと愉快なおじさんの話なのかと思ったらそうでもない。ゴスの恰好をしている女性と二人で映っているスチルがあるけれど、あのゴス娘はそれほど活躍もしない。ヒトラーとの絡みも少ない。もっと崇拝してるくらいかと思ったけれど、そんなこともない。ラブ展開でもあれば良かったのに。

本作は意外にも半ドキュメンタリーという手法を使っていた。ドイツ各地にヒトラーそっくり俳優を連れて行き、市民の反応を見ている。ドッキリカメラみたいな感じ。
だから、ヒトラー役には有名俳優ではなく無名の舞台俳優を使ったとのこと。

ふざけてハイル・ヒトラーの敬礼をする人、スマホで写真を撮る人、一緒にセルフィーを撮る人、ツイッターへの投稿する人…。
監督曰く、「ポップスターに遭遇したときの反応のようだった」とのことだけれど、なるほど、まさにそれである。
ドイツ人とヒトラーとの距離がいまいちわからなかったけれど、わりともうちゃかしの対象にできる存在なのだろうか。ドイツ国内に住む外国人となるとまた違うのかもしれない。

何より、このように呑気でいられるのは、この人がヒトラー似の別人だとわかっているからである。
ドキュメンタリーでない部分でも、登場人物は彼のことをヒトラーに似た誰かだと思っている。だから、ただのおもしろい人材として視聴率を稼ぐためにテレビに出演させる。

終盤でやっと、準主役の青年があれは本物のヒトラーだと気づくが、そんな荒唐無稽なことは誰も信じず、青年は精神病棟に入れられてしまう。まるでバッドエンドである。

ゴス娘がその扉の前で泣き崩れていたが、このあと、この子とその仲間のゴス軍団とおばあちゃんを加えて、ヒトラー討伐隊を作ってほしかった。恋人なんだから、青年の言うことも信じるはず。

ヒトラーが現代にやってきて、カルチャーギャップなどですったもんだ起こすが、結局は元の時代へ帰って行く。そんな話かと思っていた。
更に、現代で経験したことを元に、過去に戻って考えを改めてくれたら尚いい。ヒトラーの行きて帰りし物語方式ですね。

ところが、この映画はまったく逆だった。
エンドロールで、オープンカーに乗り、沿道の一般市民に手を振るヒトラーの映像が流れる。相変わらず呑気に一般市民は手を振り返したり、写真を撮ったりしている。
流れるのは原題と同じ、『Er ist wieder da』という曲。直訳で“彼がここに帰ってきた”。“彼が帰ってきたの/連絡もなく”というラブソング風のものだ。1960年代の曲らしく、原作小説もこの曲からタイトルをとったのかもしれない。シャンソンっぽい曲調だ。

ところがこの曲の音が急に歪み出す。
そして、現在の移民排斥運動の映像が流れる。これに、ヒトラーの声で「好機だ」というのが重なる。これは、現代にヒトラーが来たら、本当に歴史が繰り返されるかもしれない。
危険な思想が蔓延してくすぶっているのがよくわかった。誰かがそっと手を貸すだけで、大爆発が起きる。そんな警鐘が鳴らされている。非常にぞっとする終わり方だった。

原作が発売されたのは2012年らしい。その頃、移民問題はどうだっただろうと思ったけれど、原作は終わり方が違うらしい。原作も読んでみたい。



アカデミー賞で視覚効果賞受賞、脚本賞にノミネートされました。
アリシア・ヴィキャンデルの強烈な姿が目をひきますが、ドーナル・グリーソンとオスカー・アイザックといま旬な俳優が揃えられていて、どちらかというと、ドーナル・グリーソンが主役だった。
監督は『ザ・ビーチ』『28日後…』『わたしを離さないで』の脚本のアレックス・ガーランド。本作が初監督作とのこと。

以下、ネタバレです。








ドーナル・グリーソン演じる青年が社内抽選にて何かに当選するところからストーリーが始まる。
普通だったら、抽選で当たるものを示し、応募を迷うか何かして結局応募、そしてドラマティックに当選という流れになりそうなもの。ところが、急に何かに当選し、ヘリでどこかに連れて行かれるというのがスリリング。そして、山に囲まれた草原で下ろされ、ヘリは帰ってしまう。これで嫌でも逃げることはできない。そのまま歩いて、謎の建物にたどり着くと、中の閉鎖された無機質な空間では、富豪(あとで青年の会社の社長だとわかる)が秘密の研究をしていて…という、ここまでの導入部分だけでも、ものすごくわくわくする。

この先は、ほとんどこの建物の中の出来事である。カードキーで自由が制限される。なんとなく不気味な社長と、実験に参加する青年、ゆらっと歩いてくる異形のもの…。登場人物もほぼこの三人である。
異形のものは、AIに人間風の体を与えたものだけれど、独特なフォルムだった。ロボットのように金属っぽくはない。顔と手だけが人間のようになっている。上半身の胸までと下半身の腰の部分がメッシュ素材のようになっていてあたたかみがある。その他の部分は中身のコードが透けている。

室内だけでなく、野外でのAIの映像もあったのが素晴らしい。自然光の下での質感もよくわかった。
あと、皮膚を張り付けるシーンでは、『私が、生きる肌』を思い出した。

このAIのエヴァを演じているのが、アリシア・ヴィキャンデル。『リリーのすべて』で助演女優賞も受賞。
体の部分も演じているのかもしれないけれど、あまり大きな動きはない。表情も豊かというわけではないけれど、愛らしく、青年ケイレブと打ち解けて行くのがよくわかった。

ケイレブを演じているのがドーナル・グリーソン。『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』のハックス将軍で見せた小物感は今回も健在。
そして、キング・オブ・普通というか、巻き込まれ系の役が多い。普通の人が異常な世界に巻き込まれて行く、この普通の人の部分を演じることが多いので、観客目線でもある。
若い頃のマーティン・フリーマンが演じていたような役が多いと思った。でも、マーティンのほうが毒があって、ドーナル・グリーソンのほうがいい人っぽいかな。

社長のネイサン役にオスカー・アイザック。本作では富豪役で、納得の体つきをしている。金持ちってなんとなく体を鍛えているイメージがあり、ネイサンもそうなのでムキムキはしている。けれど、その反面、お酒を飲みすぎていて、そのだらしなさも併せ持ったような体型なのだ。本当に説得力のある体つきである。
そして、坊主に髭という騙し絵のような風貌も怪しげでいい。
眼鏡の奥の目が濁っている。オスカー・アイザックと言えばこれなのだ。たまらない。
『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』にオスカー・アイザックが出ると聞いたときに、あんなに目が濁っていたら、真っ当な正義の味方はできないだろう、絶対に途中で裏切ると思っていたのだが、ポー・ダメロンは真っ当な役だった。それが悪いわけではないけれど、やはり、今回のような、影のある役が似合う。

あと、今回、ディスコミュージックに合わせて踊るシーンがあるんですが、そこのキレッキレのダンスが本当に最高でした。もう一度観たい。

ネイサンが秘密裏にAIを開発していて、そのテストをするために呼ばれたのがケイレブだった。チューリングテストをしろというのだ。アラン・チューリングによって考案されたもので、人間と対話をした相手が、人間か人工知能なのかを判定するというもの。今回は相手が人工知能だとわかっているので、会話をして、その優秀さを確かめるという形だった。

会話を進めるうちに、ケイレブとエヴァ(AI)の間に恋心が芽生える。その内、ネイサンは悪い奴である、ここから一緒に逃げないかという話になる。

二人のプラトニックな恋愛がこの映画の主題なのかと思っていた。それは、私がケイレブ目線になっていたからだ。
しかし、ネイサンに言われるまで気づかなかったけれど、恋愛もすべてAIの計算ずくで、一人で逃げるという可能性もあるのだ。
そして、その通りになって、なるほど、と思った。そりゃそうだ、演じているのがドーナル・グリーソンなのだ! 最後に酷い目に遭うに決まっている!
普通は、結局普通のまま。突出したものに憧れるけれど交われないのは『フランク』でも描かれていた通りである。

廃棄されたAIの肌を自分に張り付け、人間の女性の裸体を手に入れていくエヴァの姿はさぞ綺麗だったでしょう。ガラス越しに見ていたケイレブはその時にもエヴァに恋をしていたと思う。

それでも、ケイレブは建物内に閉じ込められたままという、非情な扱いを受ける。その先どうなったかなんて描かれない。けれど、停電でもドアがロックされる仕様だから、もう出られないんでしょう。出たところで、ヘリが来ない。連絡手段がない。

その、ケイレブが乗って帰るはずだったヘリにエヴァが乗る。ケイレブ以外の人間が何故乗れたんだろう。ネイサンの指示だと言ったのかもしれないし、もっと物騒な手段をとったのかもしれない。例えば、操縦士を殺したのかも。もう人間(ネイサン)一人、殺しているし。エヴァならヘリの操縦くらいできそう。

エヴァが人間社会に入ったときに、地面が上という逆さに撮られていた。逆さだけれど、影が映っているので、影が立っているように見えるのが面白い。影だと人間の姿のエヴァがいるのがまったくわからない。
周りの人間も特に気にすることはなく、完全に紛れていたようだ。

この先、どうするのだろう。恋愛目的ではないのだろう。興味はあるのかもしれないが、それが第一目標ではないはずだ。また、人の恋心を操って、何か自体をスムーズに進めるための手段にするのかもしれない。

エンドロールでSaveges(サヴェージズ)の“Husbands”が流れる。Savegesはイギリスの女性のみのパンクバンドである。“Husbands”は“男”に対する呪詛が叩き付けられているような曲である。なんとなく、この曲を聴きながら、エヴァが涼しい顔をして大量殺戮を繰り広げているところを想像してしまった。

エヴァに悪意があるのかどうかはわからない。仲間意識みたいなのもあるのかわからないが、ゴミのように廃棄されたプロトタイプの仇を討ちにきたのではないかと考えてしまうのだ。
その悪意を持った存在が、人間の中に完全に紛れている。
あなたの隣りのその人も人間ではなくAIかも?というようなひんやりした終わり方。
エンドに賛否両論あるようだが、否の人たちはケイレブと一緒に逃げて仲良く暮らすみたいなのが良かったんでしょうか?
とんでもない。この終わり方一択でしょう。





ウディ・アレン監督作。実は個人的に合わないというか、ここ最近のものは観ている間は楽しくても、終わると首を傾げることも多かったけれど、本作はとてもおもしろかったし好きです。
ホアキン・フェニックスとエマ・ストーンがハマり役。

以下、ネタバレです。









映画のジャンルとしてコメディと書いてあるところもあるけれど、どちらかというと、クライムとかスリラーとかミステリーとかそっちです。
ただ、それが、音楽や全体的な作風でふわっと隠してあって、なんとなくコメディ風になっているのがとてもいい。

まず、殺人を実際に犯すとは思わなかった。人生に絶望した教授(ホアキン・フェニックス)が、殺人を妄想するも、生徒のジル(エマ・ストーン)の恋愛パワーで生きる意味を見出して行くような、キラキラしたストーリーを想像していた。
しかし、教授が生きる意味を見出したのは殺人だったし、殺してからは明るさが妄想していた時よりもアップしていた。

タイトルを見て本当に人を殺すとは思っていなかったんですが、よく考えたら妄想だけなら“妄想殺人”ではなく“殺人妄想”となると思うし正しい。

それにしたって、実際に殺しているのに“おかしな”はないだろうとも思ったけれど、もしかしたら、その軽さを狙っているのかもしれない。
というのも、教授は世直しのつもりで殺人を犯したようだったからだ。
悪徳判事を自分が殺せば、それで救われる人がいるし、世の中が少しでも良くなる。そんな考えに支配されていた。正義の味方気取りである。

ロシアンルーレットで頭にピストルを当ててバンバン撃っていたり、ED気味で女性と寝ることもままならなくて、鬱病のようだった教授が、殺人の計画を考えている間はウキウキしていた。
その教授の心の中を示すように、音楽もジャジーなピアノがおしゃれな曲が使われていた。
普通、殺人の計画を立てる時、毒入りジュースを普通のジュースを入れ替える時は、バレるの?バレないの?みたいなヒヤヒヤした音楽が使われる。こんな軽快で楽しげな曲が使われることはあまり無い。観ている側からしても、教授が人を殺そうとしている風には思わなかった。実際、計画は失敗するのかと思っていた。

けれど、成功してしまう。教授が人を殺すシーンであの音楽。
この何でもなさ感や軽さがタイトルに現れているのではないか。

そう考えると、よく練られた邦題だなと思いました。ウディ・アレンだと業界内に特別思い入れのある人もいそうだし、その人の仕業かもしれない。
原題は『Irrational Man』、“不合理な男”とあっさりしたものである。


映画の始まりはラブストーリーだし、ラブストーリーなのかと思っていた。ジルは教授に恋をする。それは、教授だということもあるだろうし、考え方が独特で変わっているということもあるだろう。同級生の彼氏はいても、飽きてしまい、刺激を求めたのかもしれない。
教授が殺人を犯す計画を立ててたり、実際犯したなんてことはジルは知らないけれど、教授がどんどん明るくなっていき、自分にも振り向いてくれたのが嬉しいようだった。けれど、一緒にいる時間が増えるにつれ、判事殺しの犯人では…という疑念も芽生えてくる。

このあたりから、生徒と教授のイケないラブストーリーという雰囲気ではなく、シリアルキラーとそれを追う名探偵という風に二人の構図が変わってくるのが面白い。

ジルの両親と教授と四人で食事しながら事件のことを話すシーンが面白かった。ウディ・アレン監督らしく、今回もセリフは多く、登場人物が喋りっぱなしです。
父母はすっとんきょうな的外れの推理をしていたけれど、ジルは起こったことを見てきたような、するどい推理をする。ばっちり当たっている。

そのうち、教授の昔の女やジルの友達から証拠が集まってくる。更なる証拠を集めるべく、ジルは教授の家に忍び込む。

教授の机の上にあった『罪と罰』の空きページに殺した判事の名前を書かれていた。あの主人公ラスコーリニコフも悪徳金貸しババアを殺していた。良かれと思ってやったことだ。ただ、ラスコーリニコフはそのあと、罪の意識に苛まれることになるが、教授はただただ明るいだけだった。
そして、そこにハンナ・アーレントの名前と“悪の凡庸さ”という言葉も書いてあったのもなるほどと思った。アドルフ・アイヒマンの裁判レポートを発表した女性ですね。「大量殺戮は悪魔が起こすわけではなく、普通の人間が考えなくなったときにやることだ」と書いている。教授も殺人を犯したが、悪魔ではなく普通の人間である。悪いことだとは少しも思っていないのだろう。

ジルは教授に自首しないなら通報するというのですが、教授にはそのつもりがまったくない。最初の殺人は世直しだったはずだが、教授はジルのことも殺そうとする。
そこでジルのことを救ったのが、教授にもらった懐中電灯というのもまた良かった。一緒に言った遊園地のゲームで貰った景品である。あの時の二人は本当に幸せそうだった。ただ、恋愛が成就して嬉しいジルと、人を殺したことで人生の重圧を逃れた教授というまったく違う幸せだったわけだけれど。けれど、教授からしたら、あの時の懐中電灯のせいとは、皮肉なものである。
そのあと、呆然と明かりのついた懐中電灯を手に取るジルも良かった。何より、あれは伏線だったのか、という展開が待っているとは思わなかったのでおもしろかった。

ジル役のエマ・ストーンは服装も表情も本当に可愛かったんですが、後半、教授を責め立てているときにはそんなに可愛くなかった。あれは、教授に恋をしている演技だったのだ。
彼氏がいるのに教授のことも好きになっちゃって…というのは、ロクでもなさそうだけれど、頭が良い女の子役なので好きになれるキャラクターだった。

教授役のホアキン・フェニックスは、もう彼にしかできないんじゃないかというくらいにハマっていたと思う。ミステリアスで何を考えているかわからないけれど、セクシーでモテるのもわかる。けれど、一緒にいても決して内面は見せず、自分だけの世界を持っていて、異常さや変態性も持ち合わせている。他に演じられる人はいないでしょう。ぴったりでした。


『サウスポー』



アントワーン・フークア監督。『エンド・オブ・ホワイトハウス』でもボクシングシーンがあったので何か思い入れがあるのかと思ったら、監督自身がボクサーでもあるらしい。
そのため、主演のジェイク・ギレンホールも6ヶ月間、本物のボクサーさながらのトレーニングをつんで、映画のボクシングシーンもノースタントでこなしたとのこと。
試合会場の照明をいじらなかったり、本物のボクシング実況の方が担当していたり、カメラも普段試合を撮っている方だったりと、ボクシングの試合シーンにもこだわりがあったとか。
撮影監督が『リアル・スティール』のマウロ・フィオーレというのも納得。迫力がありました。

以下、ネタバレです。









ちょっとした揉め事に紛れて妻が射殺されてしまったボクサーが、どん底に落ち再起を果たすまでを描いている。
もともとは、本作で主題歌を書き下ろしたエミネムが『チャンプ』のリメイクをやらないかと脚本のカート・サッターに持ちかけたのがきっかけだったらしい。子供との関係という面では確かに『チャンプ』っぽくもあるけれど、そこに、彼のユニットのメンバーだったプルーフがクラブで射殺されてしまった事件も加えて描かれている。何気なく主題歌を聞いていたけれど、そこまでエミネムがちゃんと関わっている作品なのだとは思わなかった。

序盤に妻が射殺されてしまい、夜に銃を持って車で出かけて行こうとするジェイク・ギレンホールの姿を見たときには、もしかしたらこれはボクシング映画じゃなくて、ノワールだったのかなと思った。暗黒面に身を落とした主人公が、復讐の鬼と化して銃をぶっ放す…。ジェイク・ギレンホールだと何でもありというか、汚れ役も似合ってしまうのでそんな予想をしてしまったけれど、ちゃんとしたボクシング映画でした。

最近のボクシング映画だと『クリード チャンプを継ぐ男』が後悔されたけれど、それに比べても、ストーリーが王道だったと思う。漫画っぽいというか。
ただ、綺麗に話が進む故に、ジムの子供の死や主人公のビリーと妻が両方とも施設育ちという境遇などが、少しご都合主義のようにも思えた。話をスムーズに進めるのに利用されているように見えた。

最後も、KOではなく判定に持ち込まれたので、そこで負けるのかと思った。ビリーも金を積んで不正な判定勝ちをもぎとったことがあったようだし、プロモーターはライバル側についていたし、同じ仕打ちをうけるのかと。結局、昔なじみなのはビリーのほうだし、金が入るならどっちが勝ってもいいという感じなのだろうか。
それに、ベルトという形に見えるものを手にし、ジムに飾って他の子供たちの目標を作るためには、勝利をしないといけなかったのかもしれない。娘の信頼を回復させるためにも、負けたけど実質勝っていた奴は金を積んで…みたいな後味の悪いことをやるよりも、勝利で気持ちよく終わったほうがいいのだろう。

綺麗すぎるくらいの展開と終わり方のストーリーだったけれど、カメラワークが時々遊んでいるのがアンバランスでおもしろかった。

最初の試合のシーンで、「ライバルのミゲルも見にきています!」と実況の人が言うと、ミゲルはカメラに向かって挑発するポーズをとるんですが、テレビカメラに向かっているミゲルを映画のカメラが撮っているわけではなく、映画のカメラに直接向くのだ。まるでボクシングの試合をライブビューイングで映画館で観ているよう。この辺が実際のボクシングの試合を撮っている方の映像なのかもしれない。

また、それと別に、最後の試合では、ビリー目線のPOVになるシーンもある。打つシーンではなく打たれるシーンなのでカメラが揺れる。こことは別に、手持ちカメラも多用されているので、画面が揺れるシーンは多かった。

序盤、妻役のレイチェル・マクアダムスがビリーにのしかかっているシーンで、カメラもどさくさに紛れて下から撮っていた。ここはビリー目線のPOVではないため、レイチェル・マクアダムスの視線を独占することはできない。けれど、体にぴたっとフィットするドレスを着たレイチェル・マクアダムスが夫にせまっている姿を下からとられているのはおもしろい位置から撮るなと感心した。

娘がメールを送るシーン、普通は娘の後ろから画面の文面を映すという手法が多いけれど、娘の横にポップアップでウィンドウが出た。コメディとかもっと軽めの作品だとよくあるけれど、本作のような人間ドラマを取り扱ったような作品でこの手法はなかなかとられないと思う。メールの内容も別にふざけたものではなかった。

ラスト、試合に勝利したビリーと娘が控え室で抱き合っているのだが、「はいはい、もういいでしょ?ちょっと出てね〜」というように、映画のカメラもマスコミのカメラと一緒に部屋から追い出されてしまう。序盤のミゲルの挑発ポーズと同じく、映画のカメラが一体何視点なのかわからなくなってしまう。その変換が急なのでおもしろい。

このように、何故かちょっとお茶目なカメラワークが多かったのが気になった。

それにしても、ジェイク・ギレンホールの出る映画は一定以上には必ずおもしろいのがすごいと思う。いい役者さんっぷりに歯止めがかからない。
本作では序盤は打たれるほど強くなるというか、HP20%以下の時、攻撃力3倍というスキルを持っているような戦い方をしていた。妻は、そんな調子で戦っていたらあっという間にパンチドランカーになってしまうと心配していた。キレる力を利用しているので、顔つきも目がギラギラしていて野獣のようだったが、後半、別のトレーナーがついてからはガード戦法に切り替えて穏やかに、けれど強い男になっていた。
この両方の演じ分け方に今回も感心してしまった。



2015年12月にイギリスで公開されたブラーのドキュメンタリー。NMEアウォーズ2016の音楽映画賞も受賞している。
ドキュメンタリ−なのでネタバレもなにも無いですが、以下で内容に触れています。


2013年、日本でのライブが中止になり、その前のライブ地である香港で5日間滞在することになり、その空き時間を利用してできたアルバムが2015年に発売された『ザ・マジック・ウィップ』だというのはなんとなく知っていた。
そのあたりについて、詳しくといった内容。その時の香港での映像、メンバー個々のインタビュー、ライブの風景も少し。

順番としては、
2012年にロンドン五輪の閉会記念ライブをハイドパークで行う。
感触が良かったのと新曲も作ったため、2013年にワールドツアー開始。この一環で日本にも来るはずだったがキャンセル。香港で曲を作る。
その曲が元になったアルバムが2015年に発売される。
という流れ。
別にバンド活動だけではなく、何についても当たり前のことだけれど、何かがあって、それをきっかけにして何か別のことが起こる。すべてが繋がっていて、出来事が起こるのは唐突ではない。

香港で曲を作っていたのも、お戯れというか暇つぶしみたいなものだったらしく、曲作りをしたけれど、20曲が一旦お蔵入りになったそうだ。

その時の様子をおさめたビデオを見て、アレックスは気にしていたらしい。ただ、それと同時に平穏な暮らしも捨て難いようだった。久々のハイドパークのライブは元カノに呼び出されたようだったと言っていた。基本的に終わったこと、“元”なんですね。

ここで、実際に行動を起こしたのがグレアムだというのが驚いた。
グレアムは2002年に一度ブラーを脱退している。もうその頃はブラーを聴いていなかったため、あまり詳しいことは知らないのだけれど、音楽の方向性の不一致ともしかしたら、デーモンとの性格の不一致みたいなものもあったのかもしれない。グレアムは精神的にも不安定だったらしい。今回の香港滞在中にも後半で少し不安定になっていたらしく、デーモンが「“またか”と思った」と言っていた。

一度入った亀裂。その後、何度か再結成ライブをしていても、完全には修復はされていなかったのではないかと思われる。
そこで、グレアムから歩み寄って行ったのが泣ける。

そこで、香港で作った曲たちのマスターテープを預かってもいいかとデーモンに了解をとるんですよね。あまりバンド内のことなどはわからないけれど、ブラーの中心人物はデーモン・アルバーンであることは間違いない。けれど、思ったよりもずっと、バンド内での地位が高そうだった。そのくせ何を考えているかわからない部分もあるようで、なんとなく魔王のように見えた。

デーモンとしては、グレアムの提案はありがたく、どうぞどうぞとマスターテープを渡したらしい。今まで、一人で何もかもやっていたのがつらかったらしい。これ以上の重責は背負えないと言っていた。
自分からはやりたくなくても、人が、特にグレアムがやってくれる分には大歓迎だったのだろう。不安定だとかなんだかんだ言っても、ちゃんとグレアムのことを見守っているのがわかった。

なんとなく親子のような関係にも思えた。
影の権力者である母親のデーモンは、気難しいところのある息子グレアムのことを誰よりもよくわかっている。さしずめ、言葉少ないけれど堅実な仕事をする父親がデイヴさんで、飄々としたぼんくら兄貴がアレックスといったところか。

デーモンはグレアムのことを音楽面では本当に認めているらしく、いままで頑張ってきてやっと追いついたくらいだと言っていた。インタビューが一人一人別々の場所で行われているので、本人は目の前にはいない。聞かせてやりたいと思った。まあ、映画になっているので知ったでしょうが。

そして、グレアムもインタビューで「これ、18歳で貧血で入院した時に、デーモンのお母さんから貰ったマグカップ。取っ手はとれちゃったけど。中にはデーモンのネックレスのビーズが入ってるんだ」と言っていた。多分、自宅で、こちらも一人のインタビューである。取っ手がとれちゃったマグカップをまだ取っておいてある? 中に入っているビーズも壊れたネックレスじゃないの? それ、デーモンは知っているのだろうか。これも聞かせてやりたい。映画になっていますけども。

それで、グレアムはプロデューサーのスティーヴン・ストリートと一緒に曲の手直しをし、作り上げた。
その間、デーモンはのらりくらりとは言わないけれど、ブラー以外の活動をしていて、ブラーのことはあまり考えないようにしていたんでしょう。出来上がってきたものを聴いて、いいねと思ったものの、これ、自分が歌わなきゃいけないの?と初めて気づいたような感じに「Oh,God!」なんて言っていた。
グレアムがあの時の曲をちゃんとしたいと言った時も、まさか本当に作ってくるとはって感じだったんでしょうか。人ごとみたいに考えてたことが、自分に降りかかってきたという風に見えた。

デーモンは香港で曲を作っていた時の気持ちを思い出すために、もう一度出かけて行ったらしい。
そうして、歌詞に“Hong Kong”という言葉も出てくる『Ghost Ship』やオリエンタルな『Thought I Was A Spaceman』という、香港でしかできないような曲が集められたアルバム『The Magic Whip』ができあがったのだそうだ。

なんだかずるいと思ってしまった。ライブでも、香港のどこどこをイメージして作った曲ですとか言っていた。日本ではこのアルバムのライブすらやっていない。
こんなことなら、日本の次の場所が中止になって、日本に滞在してアルバム作ってほしかった。

けれど、香港はかつてイギリスの植民地だったとか、窓すら無い狭い建物の中に四人で集まって曲作りをして(別の部屋にいたデイヴさんも簡易ドラムを持ち込んで)ということ込みなのだろう。
香港だからこそ出来た。日本だったら、普通のオフだったかもしれない。

アレックスは、このアルバムが無かったら、安っぽい懐かしむだけの復活ライブになっていただろうと言っていた。
肩の力が抜けていてリラックスして作られたような『Ong Ong』もいい。グレアムとの関係を歌った『My Terracotta Heart』という曲もある。この曲では“僕らは昔は兄弟よりも仲が良かった”と歌われている。今、この曲が出てくる意味。本当の意味での修復がはかられたのはアルバムができたおかげなのだろう。アルバムというか、アルバムのための曲作り期間というか。

日本でのライブが中止になったことが、大きな意味をなしていた。

実は私はこの中止になったライブ(TOKYO ROCKS)のチケットを持っていた。十何年ぶりのライブで、しかもチケットが取れていたのだ。けれど、最初から、ホームページが作られずフェイスブックだけだったり、主催者がポエムみたいなことしか言っていなくて何か素人くさい…と思っていたら、結局中止に。
理由は説明されなかったし、映画内でもアレックスがなんか知らないけど中止になったと言っていた。

一応、翌年にちゃんとしたプロモーターがブラーを呼んでくれて、チケットも無事に取れて、ライブにも行くことができた。
でも、TOKYO ROCKSのことはここ数年で一番怒ったんじゃないかというくらいだった。

ライブが中止になって、チケットを払い戻して、日本で泣いていた私は、もちろんこの映画には出てこないけれど、ブラーの運命には組み込まれていたのがわかった。流れの中にいた。

たまたまできた休暇と、グレアムが出したちょっとのやる気。それが魔法のよう合わさってできたアルバムだった。しかも、ただアルバムができただけではない。バンド内の人間関係まで修復されたのだと思う。

しかし、四人のインタビューはバラバラだったし、一応もうブラーは終わったのだと思う。こんな偶然が続くことが、またあるのだろうか。無理矢理アルバムを作ることはもうしなさそう。

デーモンは「ステージに上がると“We are Blur!”ってなるけど下りるとみんなバラバラなんだ」と言っていた。昔はブラーがすべてだったのだろうが、今ではブラーでいる時間が短くなっているせいもあるのだろう。
ただ、ライブに関して、「僕らがエサを与えているのか、観客からエサをもらっているのか」とか、「エネルギーのかたまりがぶつかってくる感じがたまらない」とも言っていて、ライブがつまらないというわけではなさそうだった。

「永遠に続いてほしいと思っていて、でも続くことは無いことも知っているから切ない」とも言っていた。

この映画内で、ライブシーンも何曲かあって、それを観ているとライブが観たいなと思った。
けれど、ライブ自体の本数が少なそうなのに、来日することなんてこの先あるのだろうかとも考えてしまう。

そして、2014年の武道館公演も最高に楽しかったけれど、それとは別に、私もブラーも20年前に戻ったライブが観たいのではないかとも思ってしまった。兄弟よりももっと仲が良かった頃のグレアムとデーモンが観たい。ここまで神経質ではないグレアムと、ここまで巨大な存在ではないデーモンと(※実際の20年前の私はアレックスファンでした)。
でも、過去に戻るなんてことできないのはわかっている。ただ過去への郷愁に浸っているだけだ。

でも、もう二度と戻れない、あなたたちも私も、というようなことを思うと、なんとなく胸がちくちくするのだ。














毎年恒例のショートショートフィルムフェスティバル、今年で18回目とのこと。
毎年のことながら、短編映画はなかなか観られる機会がないので嬉しいです。

今年のアカデミー賞プログラムは4本と少なめ。
さすがに良作揃いではあったけれど、前々回の『Helium/ヘリウム』や前回の『THE PHONE CALL/一本の電話』に比べると少し弱いかなという印象。

以下、ネタバレ込みの感想です。


『Everything Will Be Okay/何も心配ない』

ドイツ・オーストリアの合作。アカデミー賞短編映画賞ノミネート。
妻と離婚した男が、久しぶりに娘と会う一日の話。

二人で記念にスピード写真を撮るシーンがあった。『バッファロー’66』でも見たが、海外だとプリクラ代わりに撮ることが多いのだろうか。でも、『バッファロー’66』でしか見てないので、一般的なのかどうかわからない…と思っていたら、それは伏線でした。
娘単独で写真を撮らせる目的で、それを使って緊急パスポートを作り、一緒に海外へ脱出しようとする大胆で無謀な決断。

結局、失敗をするんですが、娘を抱きしめて、わーわー泣き叫ぶ父親と困った感じの警察…。なんとなくですが、ドイツ人もこんな悩みがあるのが意外だった。
俗っぽいと言ったら身も蓋もないんですが、ドイツ以外の国でもよくあるいざこざに思えた。

タイトルの「何も心配ない」というのは、父と母、両方からの娘に対する言葉だった。車で空港へ向かう父が不安がる娘に「何も心配ない」と言い、警察につかまる父から娘を取り返した母が娘を抱きながら「何も心配ないわ」と言う。
娘としては、家にも帰りたかったが、父のことも考えているのだ。父母の「何も心配ない」と言う言葉は結局お互いが都合のいいことを言っているだけで、娘の気持ちは考えていない。自分に言い聞かせているだけとも言えるのではないかと思った。



『Bear Story/ベア・ストーリー』

アカデミー賞短編アニメーション部門を受賞。

セリフは一切無い。
熊が家で一人で黙々とブリキの人形を作っている。なんらかの理由があり、妻と息子は今はいないようで、愛しげに写真を見つめている。
そして、その二人の人形も含め、一式の道具を持って出かけ、町に立つ。どうやら、日本で言う紙芝居みたいな感じで、鐘を鳴らすと熊の男の子が寄ってくる。

覗き込むと広がるのはブリキの世界。観客も熊の男の子と同じ世界を観ることになる。ポップアップ絵本のような動きをしていた。流れるように進んでいく様子が美しく独特。

そこで描かれているのは、おそらく熊の半生。家族で幸せに生活していたところ、いきなり人間が押し入ってきて、さらわれてサーカスに連れて行かれる。
鞭を打たれ、こき使われ…、自分だけならまだしも、残してきた妻と息子が心配でたまらない。意を決して逃げ出すが、家に帰るともぬけの殻。さらわれてしまったのか、二人では生きて行けなかったのかわからない。
父親熊は呆然としていたが、ふっと後ろに妻と息子が現れる。そして、ハッピーエンド。

最初のほうで示されていた通り、実際には妻と息子はいないんですね。だから、最後は創作です。ただ、観ていた熊の男の子も大満足、風車をおみやげに貰って父親の元へ帰って行った。実話を実話通りにやって、最後に観てくれる人にまで悲しい想いはさせたくないという気持ちと、おそらく彼の願いもこもっているのだろう。

本作では熊がサーカスにさらわれるが、少し『それでも夜は明ける』を思い出した、さらわれて強制的に奴隷にされる。熊の話というより、人間に置き換えられるのではないかと思った。


『Shok/ともだち』

アカデミー賞短編映画賞ノミネート。実話に基づく話。

一人の男性が道に捨ててある自転車を見て過去を想起する。
子供の頃、アルバニア人である主人公は町にいるセルビア兵士にタバコか何か(追記:タバコを巻く紙らしい)を渡してお金を受け取っていた。“ビジネス”と呼んでいたことから考えても、ちょっと悪いことして稼いでる俺カッコイイみたいな気持ちだったのだろう。
彼の友達はナッツ売りで一年間コツコツためたお小遣いで自転車を買っていた。大切な自転車である。ある日、嫌がる友達を無理矢理セルビア兵のもとへ連れて行く。自分の仕事ぶりを自慢したかったのかもしれない。
もちろんお気に入りの自転車も一緒だったのだが、その自転車が兵士に奪われてしまう。甥にあげるそうだ。
結局、主人公の少年家族と友達はセルビア兵士によって町を追放されてしまう。兵士は振り向くな、振り向いたら撃つというが、そこを自転車…自分の自転車に乗った少年が通りかかり、思わず振り向いてしまう。もちろん撃たれる。
必死に小銭を貯めて買った自転車、自分のわがままにより兵士に奪われた自転車、それでも友達でいてくれたにも関わらず、一緒に町を追放され、途中で撃たれてしまった。すべて、自分の幼さのせいである。
最後に現代に戻って、青年がかつて暮らしていた町でつらい表情を浮かべていた。

よく、ナチスのユダヤ人迫害の映画は観るけれど、コソボ紛争の映画は観る機会がなかった。
短編であっても、触れれば紛争のことを調べるし、知ることができる。
海外、特に欧米以外の映画を観る醍醐味だと思う。


『Stutterer/僕はうまく話せない』

アカデミー賞短編映画賞受賞作。タイトル通り、吃音症の男性の話。

言葉はうまく出てこないけれど、心の中では饒舌。
口を開くと、たどたどしくも詩的な美しい言葉が出てくるが、それも父親に対してで、外では耳の聞こえない人のふりをして、道を聞いてきた人をかわしたりしている。

彼にはFacebookのメッセンジャーで長い間やりとりをしている女性がいて、密かに想いを寄せている。音声チャットではないから、吃音であることは隠している。そんな彼女から、「あなたの家の近くにいるから直接会ってみない?」という連絡が来る。

彼はすごく悩む。好きだから、今の関係でいたいと思う。でも直接会って、吃音なのが知れたら、嫌われるのではないかと思う。だから、返信ができない。だけど、迷っている間に、彼女からは「駄目だったかな?」というメッセージが来る。
これではどっちにしろ嫌われてしまう。というか、こちらが嫌っていると思われてしまう。そこで、彼は勇気を持って、会いましょうと送信する。

彼女が道の向こうにいて、まさに会うというところで、映画は終わる。会話を交わすシーンはない。この先は各自想像してねという終わり方だった。
けれど、大丈夫だと思うのだ。だって、彼女だって、別に喋るあなたを好きになったわけじゃない。長い間やりとりをしてきたんだから、人柄がわかってる。会いたいってことは、そこを彼女だって好きになったのだ。だから、たぶん平気。

あと、司会の人も言ってたけど道を渡る前にちゃんと左右を見ていたので、轢かれるというラストじゃなくて良かった。ショートショートってそういうどんでん返しみたいな唐突なオチがある場合が多いから。

イギリスの短編なので誰か知っている人が出てくるかなと思ったのですが、彼女役がクロエ・ピリーだった。『グランドフィナーレ』で脚本家集団の若い女性役だった方ですね。
主人公はマシュー・ニーダム。『ホロウ・クラウン』にも出ているそうだけれど未見…。『SHERLOCK』シーズン1のエピソード3、“大いなるゲーム”にBezzaという役で出ているそうだけれど、あまりおぼえていないので、次に観るときには意識してみようと思う。



『エンド・オブ・ホワイトハウス』の続編。
前作が公開された時、ほぼ同時期にホワイトハウスが襲われて大統領を守るためにSPが暴れ回る映画『ホワイトハウス・ダウン』が公開されていた。邦題だとどっちがどっちだかわからなかったんですが、これでやっと区別が付くようになった。
原題『London Has Fallen』が『エンド・オブ・キングダム』で、前作『Olympus Has Fallen』が『エンド・オブ・ホワイトハウス』。これが、ジェラルド・バトラー(SP)とアーロン・エッカート(大統領)のほうで、『ホワイトハウス・ダウン』がチャニング・テイタム(SP)とジェイミー・フォックス(大統領)です。

両方とも邦題にホワイトハウスが入ってるからわからなくなるのだと思うので、そもそも原題のままやればよかったのにとも思うけれど、今作は『ロンドン陥落』でいいとして、前作が『オリンポス(作中ででてくるホワイトハウスのコードネーム)陥落』ではわかりにくいのだろう。

監督は前作から変わって、スウェーデンのババク・ナジャフィ。
人が大量に死ぬ映画だとは聞いていたけれど、思ったよりも大惨事になっていた。

以下、ネタバレです。







前作ではホワイトハウスがテロリストに占拠されて大統領がつかまってしまい、SPがそれを助けに行くというストーリーだった。今作では、イギリスの首相が死去し、国葬のため、各国首相がロンドンに集まる。アメリカ大統領もSPとともにイギリス入りする。

当然、厳戒態勢がひかれているけれど、映画なので、テロが起こるんだろうなというのはわかる。起こらなきゃ話が進まない。問題はどこで起こるかということだ。

ドイツ首相を慰めるように、少女が一輪の花を渡しにくる。いかにもあやしい。SPは止めるけれど、「いいのよ」なんて言って受け取っていた。子供による自爆テロはよくあるし…と思っていたが違った。

実は、警備員や警察に何人もテロリストが紛れ込んでいて、一斉に混乱が起きていた。ロンドンの観光地として有名なビッグベンなどが次々と爆破される。

先程のドイツ首相も、あっさりと射殺されてしまう。まだ、少女からの花を受け取った心優しい首相が…というほうが美しい。情緒も何もない。
橋が爆破され、大量に車が川に落ちる(日本の首相はこれに巻き込まれる)。貨物船が大爆発を起こし、川の上でもどこかの国の首相が被害に遭っていた。

あまりにも警備がゆる過ぎるし、いろんな建物に爆弾を仕掛けられすぎである。イギリス、大丈夫なの?
そんなこと言ってると話が進まないけれど、いくらなんでもここまでのテロは起きないだろう。現実味は無く、ファンタジーなのだなと思う。

各国首相はあまりにもあっさり殺されてしまった。そんな中、アメリカ大統領は生きているから狙われる。

この先はテロリストに大停電を起こされたので町中が暗い。そこで、SP一人対テロリスト大人数の戦いになっていく。
一人対大人数なんて、普通だったら絶対に不利である。かなうわけはない。けれど、そこは映画である。SPは容赦なく殺していく。

まるで、FPS(ファーストパーソン・シューティングゲーム)のようだった。SP目線のPOVではないが、今流行りと言われている登場人物の後ろにべったりついたカメラである。

どんどん出てくるテロリストを躊躇なんてせずに撃っていく。
対象をゾンビとかエイリアンとか人間外のものにして、大量発生した物を撃ち殺していく映画はよくある。これを人間でやるパターンは最近なかなか見かけない。
そこにドラマなどないのだ。テロリストがこれまでどんな生活を営んできたかとか、家族のことなどはまったく見えてこない。血の通った人間という感じはしない。罪悪感はどんどん無くなっていく。

ラストもあれで良かったのだろうか。最初と同じく相手国に乗り込んで行って爆破では、結局、繰り返すだけな気がする。新たなきっかけを与えただけに見えた。
けれど、そんなことを考える映画ではないのだろう。

だって、テロリストは敵なのだから。そして、敵は殲滅しないといけないのだから。単純にそれだけの映画です。

前作で、SPと大統領二人のアクション以外のシーンがもっと多かったら良かったのにという印象を抱いた。幼馴染みな点があまり生かされていない。二人でボクシングをしていたけれど、あのあたりのシーンがもう少し長かったら良かったのにと思っていた。
今回は序盤で一緒にランニングしていて、二人は普通の友達のように接していて、その辺をもっと見たかった。ただ、主演の二人だけに人間味を持たせるのもアンバランスだ。ヒューマンドラマとしての面はすべて捨てたのだろう。

大統領役のアーロン・エッカート、本来は演技派だと思っているので、『サンキュー・スモーキング』のようなミニシアター系の作品ももっと観たくなった。
このシリーズのアクション無しのスピンオフが観たいけれど、まあやらないでしょう。

 

『デッドプール』



ライアン・レイノルズ主演。監督はティム・ミラー。
この監督さん知らなかったんですが、よくエンドロールで出てくるCGアニメの製作会社ブラー・スタジオの設立に関わった一人らしい。視覚効果アーティストとして活躍していて、本作が50歳で長編デビュー作となる。

一応マーベルヒーロー? ヒーローとも言えないから、“マーベルコミックに出てくる”くらいでしょうか。X-MENにも出てくることがある。
アメコミの原作を相変わらず読んでいないので、今回も例に漏れず『ディクス・ウォーズ:アベンジャーズ』で観た知識しかなかった。単独で出てきて、好き放題に適当なことをやっていた。一人称は俺ちゃん。登場人物でありながら視聴者に話しかけてくる。テレビだったから視聴者ですが、コミックでも読者に向かって話しかけてくるらしい。

以下、ネタバレです。








映画では同じ調子で観客に向かって話しかけてくるし、序盤でカメラにべったりガムが張り付けてくる。BGMと一緒に歌ったりもする。「ミュージック、スタート!」なんて言って、彼の声で音楽が流れたりもしていた。あらゆる面で自在に映画を操る登場人物。新しい。

また、ヒーローではないどころではなく、実際に観てみるとほぼ悪役のようだった。
弾が残り少ないにも関わらず、死んだ奴の上から何発か撃ち込む。その理由が「気持ちがいいから」。なかなか酷い。
頭を切り落としてサッカーボールのように蹴っ飛ばすのも、死体を使って人文字を作るのもなかなかである。

追いつめた後で、X-MENのメンバーが「そこで慈悲をかけてやるのが…」などというヒーロー論をかましていたが、それをぶった切ってしっかり殺していた。

明らかにヒーローではない。
そもそも、活動の動機が復讐である。
アニメだと、デッドプールになっている時だけで、スーツの中のウェイド・ウィルソンについては語られなかったので知らなかったが、ガンの治療と引き換えにおかしな能力を植え付けられ顔をずたずたにされ…という、結構シビアな過去があった。
もっと映画自体がギャグ満載ではっちゃけているのかと思ったけれど、勝手に改造された過去のくだりは少し暗い。

けれど、デッドプールになっている時には飄々としていて、過去との現在の間の気持ちの移り変わりがわかりにくかった。
普通、過去に酷い目に遭って復讐に燃えている場合には、恨みを背負っているからシリアスになったり、トーン自体が暗くなったりする。
過去と現在があまりにも違うので、こちらがどんな気持ちで観たらいいのかわからなくなる部分があった。

けれどそれは、ウェイド・ウィルソンのもともとの性格なのかもしれない。もちろん怒ってないわけはないのだろう。けれど、落ち込むわけではなく、ひたすら冷徹に絶対コロスの精神で突き進んでいく。元傭兵というのも関係しているのかもしれない。

また、お友達の感じだと、環境のせいなのかもしれない。素顔を見て変に慰めたり逃げていくわけではなく、「アボカド同士の子供みたい」と遠慮のないことを言っていた。きっと、変に気を遣われるよりはいいと思う。

デッドプールの行動原理は復讐とかさらわれた彼女を救うとか、もう自分のことだけなんですね。世界平和ではない。国連ももちろん出てこない。
戦うのも、デッドプールとX-MENから二人が助っ人に来るだけ。
最近のアベンジャーズまわりの詰め込みすぎ盛りだくさんもそれはそれでいいけれど、この映画くらいの規模はこれはこれでちょうどいいと思える。アベンジャーズシリーズだと、もう一作観ただけでは何もわからないというようになってしまったが、この作品だと一作で完結する。過去作を観なくても大丈夫。気負わずに観られる。
億万長者ではない。志も高くない。そんな主人公でも充分に面白い。

エンドロールのあとにマーベル恒例のおまけ映像があるのだけれど、そこで「続編の予告なんてないよ。眼帯を付けたサミュエル・L・ジャクソンも出てこない」とアベンジャーズシリーズとこの映画を比べるようなことを言っていた。MCUについていけなくなった人向けでもあるのだと思う。映画を作っている側もわかっていたのだろう。

過去作を観る必要はないけれど、くだらないことながら、他作品の小ネタは知っているとおもしろい。本筋に関わってくる話ではないので知らなくてもまったく問題がない。より楽しめるという話。
『127時間』とか、ヨーダを背負ってるとか、「何回も娘を誘拐されるリーアム・ニーソンは注意力がない」とか、ジェームズ・マカヴォイとパトリック・スチュワートとか。まだまだ、全然拾えていない。

しかし、小ネタ満載で下品でコメディだと、日本なら普通はDVDスルーなんですよね。
この辺、『テッド』と似ていると思った。あれもDVDスルーになりそうなところ、ぬいぐるみが喋るという飛び道具を使ってきている。『デッドプール』もコメディにヒーロー要素を付け加えている(逆かも)。
アクションもしっかりしていて見ごたえがあった。デッドプールは銃も使っていたけれど、背中の日本刀での戦闘が恰好良かった。

最初のアメコミの見開きページのような構図も恰好良い。そこから一旦少し過去に戻ってその構図のシーンにたどり着くので、もっとちゃんと観ておきたかったと後悔する。

また、全体的に軽口を叩きながら軽快なトーンでぽんぽんと進んでいくが、こっちもケラケラ笑いながらゆるく観ているとそれが伏線だったりして、さっきなんて言ってたか忘れてしまっていたりする。具体的にはワム!のくだりとか。
なので、先の展開がわかった上でもう一度観たい。(くだらない)セリフが多い本作、吹替えもかなりいいようなので…。