『神のゆらぎ』



2014年公開。日本では2016年公開。
グザヴィエ・ドランが出演しているが、監督はダニエル・グルー。Podzという名前でテレビシリーズの監督なども手がけているらしい。

群像劇になっているのだが、その誰もが悩みを抱えている。
白血病で輸血しないと死んでしまうが、神の教えによって血を混ぜることを禁じられている。恋人も親も、周囲すら輸血を拒んでいて、彼の本心はわからない。
この青年、エティエンヌ役がグザヴィエ・ドラン。群像劇ということもありますが、そこまで出番は多くない。

別の話、宗教とは関係ない話で、ギャンブル狂の男がホテルの老バーテンに「毎年、妻とキューバに行ってるんだ」と話す。バーテンは実は同じホテルで働く女性と不倫をしていて、その言葉に突き動かされるようにキューバ旅行へ誘う。
老バーテンはここでギャンブル狂の男に声をかけられなかったら、思い切った行動には出なかったかもしれない。

一方で、あやしげな仕事をする男が出てくる。ドラッグの売人らしい。この男についてはどうして売人をしているのか、というのが話が進むうちにわかってくる。なにやら過去にやらかしたらしいというところから、それが姪っ子に関係あるということ、はっきりとはしめされないし映像なんて出てこないけれど姪っ子と関係を持ったらしいということ…。それが本当なのかというところまでも描かれないが、姪っ子はどうやら嫌ではなかったらしい。
ただ、親(男の兄弟)からすればたまったものではない。けれど、兄弟だから、二度と現れないことを条件に、逃がしてやろうとする。兄弟は空港勤めだ。キャンセル待ちの席を男にこっそりとあてがってやろうとする。

物語の序盤で飛行機事故が起きて、エティエンヌの恋人でもある看護師は病院に向かう。生き残りは一人だが、大怪我をしていて身元もわからない。
映画を観ているうちに、実はこの飛行機事故に向かって話が進んで行っているのがわかる。

ギャンブル狂の男とその妻、バーテンの男性と不倫相手の女性、そして逃げる男と全員が乗るのかどうやら同じ飛行機のようだ。
じゃあ、生き残っているのは誰なのか。

そのようなサスペンス展開がある一方で、エティエンヌたちのストーリーも進行している。エティエンヌの恋人である看護師は、医者に白血病は輸血をしないと治らないと聞かされても頑なに拒んでいたが、飛行機事故で人の死を目の当たりにして気持ちと信仰がゆらぐ。

飛行機事故の生き残りの人と血液型が合うのが看護師だけだった。すぐに輸血をしないと間に合わない。多くの人の死を目の当たりにしたのとエティエンヌのことがあったのだろう。
それより何より、不倫の女性の家に勧誘しに行った時に、夫が「全知全能の神がいるなら、飛行機事故なんて起こらないだろ」と言われたことが一番ひっかかっていたのだと思う。
彼女は輸血を承諾する。
そのために友人からは排斥され、家も出ることになった。エティエンヌには告白していたが、きっとエティエンヌの気持ちが知りたかったのだと思う。

エティエンヌの本心はどうだったのだろう。どこかで死にたくないという気持ちもあったと思う。それでも本当に、自分が復活することを信じていたのかもしれない。周囲がそう言うし、いままでそう信じてきたから今更考えは変えられないということか。
ここでのグザヴィエ・ドランは、正しいとか正しくないとかわからないけど信じてるんだよというような『トム・アット・ザ・ファーム』で見せたようなぐるぐる目になっていた。

結局、エティエンヌは(輸血をうけないまま?)亡くなり、看護師が輸血をした男性は一命をとりとめる。
ギャンブル狂の男の妻が病院に呼ばれていた。空港で別れ話をしていたので、こんな状況で呼ばれるなんて皮肉だと思っていたが、どうやらギャンブル狂の男とは別人ということが発覚する。

その前に空港のシーンがあったのですが、飛行機が苦手なバーテンの男性に向かって、過去に罪を犯した男性が勇気付けるようなことを言うんですよね。不倫の二人はその言葉で飛行機に乗ったのだ。
この二人がキャンセルして売人の男性が乗ったのかと思っていたが、キャンセルしたのは妻に別れ話を切り出されたギャンブル狂の男性だった。

ということは、病院で大怪我をしていて一命をとりとめたのは、過去に罪を犯した男性である。ちゃんとは描かれないけれど、おそらくそうなのだと思う。

難しいところで、過去に罪を犯した男は勇気付けるために不倫カップルに声をかけたのに、そのせいで彼らが乗った飛行機は落ちた。
過去に罪を犯した男はこの場から逃げたかったのに結局戻ってくることになってしまった。
教えに背いて看護師が輸血をして命を救った男は犯罪者だった。
ギャンブル狂の男の妻は、この先この男性と何か関わりを持っていくのだろうか。夫との関係は…。

最後に「全知全能の神がいるなら飛行機が落ちることはないだろ」というセリフがもう一度流れる。不倫の女性の夫である。最初にこのセリフが流れた時は、宗教の勧誘を断るためだけの言葉かと思っていた。けれど、妻が別の男と出て行った上に彼女が乗った飛行機が落ちたという彼の状況がわかった上で聞くと、深い悲しみがうかがえる。本心から、神など信じられないという気持ちだったろう。
宗教と運命と人の幸福と。考えさせることが多い作品だった。






アカデミー賞13部門、歌曲賞は二つと全14ノミネート。これはタイタニック以来だそうです。
何部門受賞できるかどうかはわからないけれど、間違いなく今年度の中心となる作品であることは間違いない。

以下、ネタバレです。








オープニングは渋滞で止まっている車から人が降りて歌って踊るというもの。ここで歌われるのが歌曲賞にもノミネートされた『Another Day Of Sun』。これから映画が始まるというわくわくが止まらなくなる。
映画が観ていなかったのでわからなかったが、今年のゴールデングローブ賞のOPは、これのわかりやすいパロディだった。
監督曰く、実際に渋滞に巻き込まれている最中にひらめいたとのこと。渋滞は日常的なことだし、そこからミュージカルの世界に自然に引き込みたかったと言っていた。

ライアン・ゴズリングとエマ・ストーンのコンビだと『ラブ・アゲイン』を思い出してしまう。『ラブ・アゲイン』ではライアン・ゴズリングが男前を演じていて、男前が男前役をやるとかなり迫力があるなと思ったけれど、今回は男前役ではないです。

ライアン・ゴズリング演じるセブは、売れないジャズピアニストで、冴えない、鬱陶しい、面倒臭い。頑固で考えを曲げない。ジャズ語り出すと熱くなってしまい、その情熱は少し『セッション』を思い出すほどだった。

序盤、エマ・ストーン演じるミアは、オーディションに落ちて落ち込んでいるところ、友人たちに誘われてパーティーへ出かける。ここでドレスアップした女子たちがきゃいきゃい言いながら踊るのも可愛かった。けれど、運命の相手に会えるかも?とわくわくしながら参加したのに、結局収穫はなく、車もレッカー移動されて、とぼとぼ歩きながら帰ることになってしまう。
そこで、店の中からピアノの音色が聴こえてくる。映画を観ている私は中にセブがいることがわかっているし、二人が恋に落ちることもわかっている。ミアはふらふらと引き寄せられるように店内へ入っていく。

元々、今夜は運命の相手を探しに出たんだし、ここで運命の相手に会ったのだ。ミアは釘付けになっていたし、ああ、恋に落ちたなと思った。
しかし、話しかけようとしたのに、店を解雇されたセブはミアに肩をぶつけ、不機嫌そうにしながら店を出て行く。
ここではなかった。

その次に二人は偶然再会をする。セブはa-haの『Take On Me』を演奏する余興向けのバンドの雇われキーボーディストをしていて、もちろんやる気がなさそう。それをおもしろがったミアはA Flock Of Seagullsの『I Ran』をリクエストして、挑発するようなダンスをする。このシーンがとても可愛い。セブが眉間にシワを寄せて鬱陶しそうな顔をしているのもいい。

その後、夜の公園で二人きりになる。雰囲気はロマンティックだけど、二人ともロマンティックにならないように自制しているのがなんとも可愛い。
ここでミアは黄色いワンピースを着ているんですが、ポスターでよく見るあの服なので、二人で踊るシーンが来るぞ来るぞと構えてしまう。
二人のタップダンスが始まる。子供が拗ねた時に足を地面にトンとやるような仕草からのタップダンスでその入り方も素敵。あのポスターになっている場面もあります。

背景もロマンティックだし、ポスターにもなっていたし、ここで二人は恋に落ちるのだろうと思っていた。だいぶ意識をする関係にはなっていたけれど、ここでもなかった。ここではおそらくセブの方がミアのことを好きになっていたようだったが、ミアには彼氏がいたのだ。しかし、このすれ違い具合はもどかしくてドキドキして楽しい。

このあと、映画の約束などをするんですが、その日はミアが彼氏とのデートの日だったんですね。でも、ミアは彼氏と食事をしていても全然楽しくないし気が気じゃない。
このミアの彼氏、ちらっと見えた顔がフィン・ウィットロックに見えて、動揺してしまう。その後に結構はっきり顔が映って、フィン・ウィットロックなのを確信して、出ているのを知らなかったからびっくりして、大切なシーンなのに一部、ストーリーが頭に入ってこなくなってしまった。

ミアはレストランを抜け出して映画館へ駆けつける。映写機に照らされた姿が綺麗ですごくいいシーンなのに、私だけフィン・ウィットロックでまだ動揺していた。
ここで、お互いにじりじりと手を握るのがいい。そのあと、キスをしようとして映写機のトラブルでまたお預けをくらっていたけれど、二人で手をとって、映画に出てきたグリフィス天文台へ向かう。

ここで、二人は完全に恋に落ちる。ここも本当に素敵なシーンだし、ああ、良かったと思った。
でも、ここまでじりじりと焦らされて、でも結局おつきあいすることになったということはこの先どうなるの?といきなり不安な気持ちになってしまった。

最初から、“冬”とか“春”というように季節のテロップが入るんですよね。これは、季節の移り変わりと共に二人の関係も変わって別れるパターンなのでは…。

この先を観ながら、これはロマンティックなラブストーリーとはちょっと違うのだなと思う。女優を目指すミアと自分の店を持って自分の好きなジャズを弾きたいセブという、夢を追いかける二人の話なのだ。二人はたまたま出会って恋に落ちたが、それが中心ではない。おそらく、ミアにとっては。

恋愛と夢とどっちが大事ということもないのだと思うけれど、敢えて考えるなら、ミアは夢をとり、セブは恋愛をとったのだと思う。

お金を稼がなきゃいけないとやりたくないバンドに入ったセブ。結局、プールで演奏していた時と変わらないが、バンド本体の能力差で今回は売れて、アメリカツアーに出る。
このバンドのボーカルを演じているのがジョン・レジェンド。さすがに歌が上手いし、ジャズではないけれど曲も恰好良かった。

やりたくもないことをやって金を稼ぐセブと、あくまでも夢を追い続けるミアの間ですれ違いが起こる。

夢にいつまでしがみつくのか、夢をあきらめることが大人になることなのか。なんとなく、『フランシス・ハ』を思い出してしまった。

ミアの一人芝居の日。お客さんは身内だけだったけれど、そこに彼はいない。
何をしていたかというと、バンドのバカみたいな撮影で、あまりのバカバカしい撮影に苦笑してしまったけれど、多分、本当に行われていそう。

ミアは自分の舞台が失敗し、おまけに悪口まで聞いてしまいどん底だけれど、その時に近くにはいてくれなかった。

その後、一回仲直りしたかに見えたけれど、オーディションに行ってこいと背中を押して、そこでたぶん、セブの役目は終わったのだと思う。
一人芝居の夜もそうだし、すれ違い初めてからもそうかもしれない。いつ終わったのかはわからないけれど、背中を押して、完全に終わったのだ。

ミアがパリに撮影に行くことになったらどうするか?という話をしたときに、セブが様子を見ようと言うんですが、おそらくこれも良くなかったのだと思う。
恋愛シュミレーションゲームの選択肢を間違えて、バッドエンドになってしまった。

いきなり5年後に時間が飛ぶ。
ミアは歩き方が女優然としていて、かつて働いていたカフェでコーヒーを買う。特に説明はないけれど、映像から、どうやら女優として成功をして、豪華な家に住んで、セブではない男性と結婚をし、子供もいる。ああ、別れてしまったのだなと思う。

じゃあ、セブはどうしたのだろう。
ミアと夫が子供をベビーシッターに預けて出かけ、帰りに偶然寄ったのが彼の店だった。
二人はお互いに認識をするが、話さない。ここで映画が終わりだったら、とても切なかった。それに、序盤は楽しかったのにこんな終わり方でいいのかと怒ってしまっていたかもしれない。
しかし、ここで走馬灯のように二人の出会いからがミュージカル仕立てで流れる。

最初のピアノの店で出会うシーンから、話しかけたミアにセブがキスをする。ほら! やっぱりあのシーンで恋に落ちなきゃいけなかったんだよ!と思う。ここでそうしていたら、この先の未来もバラ色になっていたのかもしれない。

このミュージカルシーンはドタバタしながらもハッピーなことしか起こらない。セブはバンドの誘いを断る。ミアの一人芝居は成功。セブはミアと一緒にパリに行く。二人は結婚し、子供が生まれる。

確かに、見たかった未来はこれなのかもしれない。けれど、こんなにうまくいかないのも人生だ。選択肢だって間違える。目の前の金に目がくらむ。ぽっと出の女優の一人芝居が満席になるわけはない。

けれど、ミアは女優になったし、セブは店が持てた。夢は叶ったのだ。さっきバッドエンドと書いたが、バッドエンドではなく、多くある終わり方の一つだろう。

ミアは久しぶりに会ったセブが自分の店でピアノを弾くのを見つめ、いろいろと思い出したとは思うけれど、今更家族を捨てることはないだろう。
歩き方もそうだけれど、表情も5年前とはまったく違う。チワワっぽいというか、可愛いけれど愛嬌のある可愛さだったけれどそれが無くなった。実際には5年も経ってないわけで、エマ・ストーンの演じ分けが素晴らしい。

確実に捨てているものもあるし、逆に言えば、何かを捨てないと大女優にはなっていないと思う。
夢見る私が恋したあなた、夢見る私とサヨナラしたときにあなたとも一緒に別れるといったところか。
彼女は決して自分を曲げない。一貫して夢を追い続けてきた。

セブのほうがふらふらはしていたけれど、結局自分の店を持って、しかも繁盛しているのだから、夢は叶っている。
でも、おそらく、セブはミアのことを想っていたのだろう。
それでなければ、彼女が考えた店名とロゴの店は作らない。彼女に見つけて欲しかったのだ。すぐわかるように、そのロゴを使った。

けれど、結局、ミアの夫が店を見つけるというのも皮肉なものだ。

走馬灯のようなミュージカルパートは、こういう未来もあった可能性というよりは、この映画か完全にミュージカルだったらこうなっていたというのが示されていたのかもしれない。この映画は、それほどコテコテのミュージカルではない。ドラマ部分も多い。
ミュージカル部分が夢の世界、または夢のようなうきうきした世界、ミュージカル以外の部分が現実ということでもあるのかも。
オープニングも、渋滞という苦行からの現実逃避でもあるのかもしれない。

ほろ苦い再会ではあったけれど、店を出る時に振り返ったミアとピアノの前に座るセブは笑顔を交わしていた。吹っ切れていなかったら、振り返ることもなかっただろうし、後日一人で訪れると思う。ここで振り返って微笑めるというのは完全に吹っ切れた証拠だろう。

これで二人の関係は本当に終了したけれど、セブも違う未来に向かって歩き出せる。きっとこれはこれで幸せな未来なのだ。

もっと幸せいっぱいなキラキラした気持ちで映画館を離れるのかと思ったけれど、ちくちくする小さなトゲを残すような映画だった。
でも、ビシッと背筋が伸びるような、爽やかさが残った。



1月26日にTOHOシネマズ六本木ヒルズで行われたジャパンプレミアへ行ったのですが、そのことも少し。
主演のライアン・ゴズリングと監督のデイミアン・チャゼルの舞台挨拶が一時間くらいとかなり長く設けられていた。

多数の部門でノミネートされた感想
デイミアン・チャゼル「スタッフたちも本当に頑張った映画なのでみんなにスポットライトが当たったのが嬉しい」

エマ・ストーンとの共演について
ライアン・ゴズリング「今回で3度目の共演だけれど、前回2回は短かったので今回は長くて嬉しい。過去の作品でも撮影の合間に彼女が歌ったり踊ったりしていたので、ミュージカルができることはわかっていた」

日本は監督は初めて、ライアン・ゴズリングは『きみに読む物語』以来12年ぶり。だけれど、今回の日本滞在時間は短かったらしい。前日まで北京にいたようなので、その次の日くらいには別の場所に移動か帰ってしまったと思われる。
もっと長く滞在できたら?という質問にライアン・ゴズリングは「映画を撮ってみたい」と言っていたが、おそらくサービスではないかと思われる…。

ライアン・ゴズリングは歌だけでなく、ピアノやタップダンスなども三ヶ月間練習をしてすべて自分でやっているらしい。
長回しシーンについて、「綱渡りのような緊張感がある。けれど、その緊張感がマジックを生み出していい映像になる」と言っていた。

ミアは作中でオーディションに落ち続けるが、オーディションに受かるコツについて、ライアン・ゴズリングは「わからない(笑)」とのこと。逆に監督にどうしたら合格かという質問をぶつけると「こんな冷たい本読みはせずに、もっと遊びをもたせたオーディションにしてその部分を見る」と言っていた。


ジェイク・ギレンホール主演。監督は、『ダラス・バイヤーズ・クラブ』のジャン=マルク・ヴァレ。
あんまりな邦題だと思ったけれど、原題は『Demolition』で、デモリションではなんとなくシルヴェスター・スタローンを思い出してしまうから避けたのかなというのは考えすぎだろうか。そのまま“破壊”ではイメージが違うし。また、この邦題も勝手に考えられたものではなく、映画内に出てくるフレーズである。

以下、ネタバレです。









ある日突然、妻が自動車事故で他界してしまう。
近くにいすぎて、仕事が忙しすぎてというのは言い訳っぽいと思うけれど、主人公のデイヴィスは、あらゆることに興味がなくて、そのあらゆることの中には妻も含まれているようだった。
毎朝同じ時間に起きて、ヒゲと胸毛を剃って、同じ電車に乗って、働いて、帰ってきてディナーを食べて、寝る。デイヴィスは機械的に毎日のルーチンをひたすらこなして生活しているようだった。そこには何の感情もなさそうだった。

救急病棟で妻の死を聞かされた直後、病院に設置してあるお菓子の自動販売機でM&M'Sを買おうとするけれど、よりによってひっかかって出てこない。普段でもいらいらするけれど、妻を失ったばかりという状況でこの仕打ちはひどい。多分、普通この状況だったらナースステーションで怒鳴り散らして怒りをぶつけ、別にそれほど欲しい訳でもないM&M'Sをなんとか入手しようとすると思うけれど、デイヴィスの場合は、「苦情はベンダーの業者に」と言われたら素直に聞いて、冷静に連絡先を携帯で写真に撮っていた。
この時点でおかしいといえばおかしい。

さらに、その業者にあてた手紙に苦情だけでなく、丁寧に事故のことを書いていた。事故のことだけではない。今までの暮らしについて、仕事のこと、妻についてのことも事細かに。心の内を一気にさらしているように見えた。デイヴィスには友達がいなそうだったけれど、いたらその人に向かって話すかのような内容だった。でも、相手の顔が見えないからこそできることなのかもしれない。誰でもいいから聞いてもらいたかったのか、書くことで吐き出して満足だったのか。

まるで日記のようだった。取り繕ってもしょうがないのでおそらく彼の本心なのだと思うが、妻が死んでも悲しくないと書いていた。鏡の前で泣き顔を作ってみて真顔に戻るみたいなこともしていたし、本当に悲しくなかったのかもしれない。でもそれは、悲しいという感情がわからなくなっていたのではないかと思う。

それは行動にも表れていて、さっそく朝のルーチンがこなせなくなっていた。鏡に向かってみてもヒゲが剃れない。電車内でいつも会う顔見知りの乗客に急に話しかける。電車の非常停止ボタンを押す…。
本人はいたって普通のつもりだし、冷静なつもりだけれど、周囲からは、あの人は最近奥さんを亡くしたから…と同情の目を向けられる。

また、感情の動きがあまりよくわからないデイヴィスに対して、義父が「心を分解して、悪いところを見つけ出して、もう一度組み立て直せ」と言う。それがデイヴィスの心のどこかに引っかかっていたのかどうかはわからない。ただの、映画内でのメタファーなだけかもしれないけれど、事故に遭う直前に妻に言われた水漏れしている冷蔵庫、義実家の点滅する電気、会社のトイレの軋む扉など、次々に分解してしまう。けれど、組み立てられないのは、技術的な問題なのか、それとも、バラバラにすることはできても元へは戻せない心の状態を指しているのか。
そんなだから、会社からは休職を命じられる。デイヴィスの分解行動はエスカレートして、金を払って解体業を手伝ったりしていた。タイトルにもなっている“破壊”行動である。
それでも、解体作業中はいきいきとしていても、それがどんな結果をもたらしているのかは不明だった。まるで、玉ねぎの皮のように、むいてもむいても、本心にはたどり着けない。

そんな中で、ベンダーのお客様係のカレンから電話がかかっている。あんな長いお手紙を何通も書かれたら気になるのもわかる。そして、彼女と彼女の息子と交流を持つことになる。おそらく、デイヴィスにとって、いつ以来かわからないけれど、久しぶりにできた友達なのではないだろうか。

仕事上のしがらみもないし、前までの自分も知らないから気楽に付き合えたというのもあるだろう。彼女たちの自由さに触れて、自宅すら破壊しながらデイヴィスは少しずつ感情を取り戻していく。

まるで、痺れた足をバシバシ叩いて感覚を取り戻すかのようだ。また、歯の治療時に麻酔をかけ、唇まで感覚が無くて噛んでいる時の感じ。麻酔が切れた時、本当の感覚が戻ってきた時にとても痛い。

妻の不倫が発覚しても、自分のやってきたことに気づいたから怒りなどはない。ああ、そうだろうなというあきらめと後悔とが混じったような気持ちになったのだと思う。
思い出す彼女は自分に対して愛を向けていてくれたのに、それにまったく応えていない自分に気づいた。遅すぎる。もう亡くなっているのだ。謝ることも、許してもらうこともできない。

ラストシーンで、デイヴィスは関係がこじれた義父と一緒に、壊れたメリーゴーランドを直す。実家も割れたガラスは直らないけれど、暮らせる程度までは修繕したようだ。やっと、分解したものを組み立て直すことができた。完璧な形では無くても、元には戻せた。

破壊と再生の話だが、妻が亡くなる前の状態に戻った訳ではない。感情は妻が亡くなる前よりもっと昔に死んでいた。それ以前に戻ったのだ。
だから、妻との関係がどうこうというラブストーリーというよりは、デイヴィス個人の話だったと思う。

予告編を見た時にはボロボロに泣くのではないかと思っていたが、そういうタイプの話ではなく、エンドロールの音楽を聴いている時に余韻で泣けてしまった。
妻を亡くした悲しさもある。生きている間に接し方を見直さなかった後悔もあるだろう。けれど、それよりはもう一度、立ち上がって笑って走れるところまで戻ってきたデイヴィスの姿が良かった。

デイヴィスを演じたのがジェイク・ギレンホール。この人のどんよりした底無し沼のような瞳が、何を考えているかわからなくてはまっていた。本心がわからない役を演じさせたら右に出るものはいないと思う。

カレンの息子クリスは、映画内で「15歳、見た目は12歳、やることは22歳」と言われていた。確かに幼い顔のわりに、タバコを吸ったり、化粧をしてクラブで踊ったり、大音量でロックを流したりと大人顔負けだった。演じたのはジュダ・ルイス。プロデューサーにもディカプリオの再来と言われていたらしい。ドラムも即興演奏だったとは。
トム・ホランドが演じる『スパイダーマン:ホームカミング』のピーター・パーカー役の最終候補6人のうちの1人にもなっていた。2001年生まれなので実際にも15歳。



『アイアンマン3』『キスキス,バンバン』のシェーン・ブラック監督。
だからというか、やはりというか、ロバート・ダウニーJr.がカメオ出演しているらしい。後から聞いたけれど、本人かどうかなんてわからない役でした。
主演はライアン・ゴズリングとラッセル・クロウ。

以下、ネタバレです。










70年代風のサイケなフォントでタイトルとキャスト名が出る。おしゃれな車とレトロな服装で雰囲気もいい。

本作の主人公コンビの私立探偵マーチ(ライアン・ゴズリング)と示談屋ヒーリー(ラッセル・クロウ)は、同じ案件に関わったことで会う。ただ、マーチが探偵として追っていた女性に、ヒーリーは近づくなという件で現れたので、マーチがヒーリーに殴られる。ここで、痛めつけられて「キャー!」という悲鳴をあげるライアン・ゴズリングに笑った。本当に「キャー!」だった。

結局は同じ敵(?)と対峙していることがわかったので、二人は協力することになる。ポルノ女優が集まるあやしげなパーティーに潜入するが、裸などはでてきても、どぎつさや見ていて引いてしまうような下品さはなかった。
人魚が泳ぐプールも、上半身裸ではあるがおしゃれ。金持ちの集まる場みたいだったので、どうしてもおしゃれで洗練されたものになってしまうのだろうか。それとも、美術の人がちゃんとしているのかも。

このパーティーだけではなく、映画全体がどぎつい印象にならない理由として、二人とも妻はそれぞれの理由で今はいないけれど、そこまで落ちぶれていないことが挙げられると思う。

マーチは情けなく見えるし、すぐに酒に逃げるアル中気味の男だ。しかも職業が探偵である。
それでも、愛娘のホリーには愛想をつかされていない。むしろ、パパ大好きである。それだけで、情けないように見えても、この人は本当にダメな人間ではないのだなというのがわかる。

ヒーリーも酒を断っていたから、昔、酒で何かやってしまったのかと思っていた。レストランでの食事中、妻から「あなたの父親と寝たわ」と言われるシーンを思い出した時に、心を静めようとしていたので、その場で何か殴る、暴れるなどをしたのかと思った。腕っ節が強そうだったから、もともとはカッとなりやすいタイプなのかと。
途中で警察が、レストランの事件の件と話していたのも、「銃を持った男がレストランに来て、後先考えずにそれを止めた」ということだったが、もしかしたら、その銃を持った男がヒーリーだったのかなと思ってしまった。でも、別にそんなことはなかったので、本当にただの正義感の強い、腕っ節の強い男なのだ。酒も仕事中だから断っていただけなのだろう。

ということで、二人とも基本的に良い奴なのだ。まさに、タイトル通りのナイスガイズである。

しかし、ガイズと言っても、バディものでもないのかなとも思う。マーチの娘、ホリーはキュート要員以上の活躍を見せていた。
この子を主人公にして、ダメなおっさん二人をひっぱっていくというストーリーでも良かったのではないかと思う。そういう一面もあったとは思うけれど、もっと全体的に強くしてもよさそう。ポスターにも出して欲しいくらいだ。

演技もうまいこの子はアンガーリー・ライス。『スパイダーマン:ホームカミング』でピーター・パーカーの恋人、ベティ・ブラント役を演じることも決まっている。

下品だったりつきぬけたギャグは薄めでも、ストーリーがしっかりしていて、ミステリーとしても二転三転する展開がおもしろかった。

また、ただのおしゃれ70年代“風”ではないこともわかる。多分、最初には時代は出ていなかったと思うのだけれど、最後の方の自動車ショーのシーンで初めて、これが何年の話なのかが出てくる。おそらく、本物のその時代、70年代と思われる映像も使われていた。

二人は事件に巻き込まれる形で政府を敵にまわすことになってしまう。一応は“勝った”ものの、私立探偵などでは、大きな力にはかなわない。
しかし、「自動車産業は死なないわ」と力強く言っていたが、映画を観ている側の私たちはその時代よりも未来にいるので、そこからどうなるかを知っている。
自動車産業は徐々に衰退し、リーマンショックでGMは破綻し、なんとか持ち直したものの、デトロイトは2013年には財政破綻してしまう。
悪態をついていたマーチとヒーリーは知らないけれど、こんな未来が待っているのだ。

ラストに出てくる私立探偵のチラシにはヒーリーも描かれていた。メキシコ人っぽいと言って嫌がるそぶりを見せていたけれど、嬉しそうだった。このコンビの続編も見たいけれど、今回、70年代と時代を明確にしてしまったのでどうだろう。あと、アンガーリー・ライスが成長してしまうから難しいかな。



2014年公開。日本では2015年公開。フランソワ・オゾン監督。

タイトルからもわかるが、“彼”なのに“女ともだち”である。予告編を見たところ、平凡な女性が女装をした男性と出会い、意識を変えていく話なのかと思っていた。けれど、それよりずっと複雑だった。

いきなり棺桶の中の女性が映り、お葬式のシーンから始まって驚く。若い綺麗な女性で、ウェディングドレスを着ている。
亡くなったローラの幼馴染であり親友のクレールのスピーチ内容なのか回想なのか、二人がどれだけ仲が良かったかというのが、子供の頃から遡って映像で流れる。セリフはほとんどないけれど、唯一無二の親友といった感じだった。それぞれに恋人ができた様子を見ていると、少し、もしかしたら親友以上だったのかもしれないとも思った。

そこまで仲の良かった親友を失ったのだから、クレールは傷ついている。しかし、傷ついているのは彼女だけではなかった。
ローラの家に行ったところ、ローラの夫のダヴィッドがローラの服を着て、ウィッグをかぶり、赤ちゃんをあやしていた。

予告やタイトルに出てくる“女ともだち”が親友の夫だとは思わなかった。
しかし、同時に納得してしまったのは、彼が「彼女の服を着ると落ち着く」と言っていたからだ。
相手を失った悲しみからとか、相手を恋い焦がれるあまりとか理由はいろいろあるが、相手を愛するあまり、自分がその対象になってしまいたくなる。この現象は他の映画や小説やアニメでもよく出てくるのでポヒュラーなのかもしれない。

ただ、ダヴィッドの場合は、ローラが亡くなってから女装をしたくなったわけではなくて、その前かららしい。ローラもそれは知っていたし、恋愛の対象は女性だという。このあたりがこの作品を複雑にさせる部分である。

ダヴィッドがローラの服だけではないにせよ、女性の格好がしたくて、さらに男性が好きというならシンプルだったと思うのだ。
クレールと女性の格好をしたダヴィッド(ヴィルジニアという名前)は、一緒に出かける。服を選んだり、クラブで一緒に踊ったり。
クレールとしても、最愛の親友を失ったさみしさを、ヴィルジニアと一緒に遊びに出かけることで癒しているように思えた。

話が進んでいくうちに、ダヴィッドは女装をしたいだけではなく、自分を女性であると思っているらしいというのがわかる。けれども、恋愛の対象は女性。

ダヴィッドはダヴィッドとしてなのか、ヴィルジニアとしてなのか、クレールにひかれていく。クレールもダヴィッドとしてなのか、ヴィルジニアとしてなのか、好きになっていってしまう。

ホテルで二人で会った時に、二人の思惑がわからなくなってしまった。
ダヴィッドは女性の格好をしていたので、おそらくヴィルジニアとしてクレールを誘う。クレールもその誘いにのっていく。ということは、クレールもレズビアンなのだろうか。でも、夫とも普通にセックスをしているようだった。それとも、ヴィルジニアの中のダヴィッドを見ていたのだろうか。
けれど、体は男だから、当然勃起してしまう。そこに触れたクレールは夢がさめたように、行為を中断してホテルの部屋を出る。一気に親友の夫と不倫という感じになってしまう。それは自分としても許せなかったのだろう。

セクシャリティは個人的なものだし、全員違う。だから、体が男性で、自分を女性であると認識して、女性を好きになっているダヴィッド/ヴィルジニアは結局何をしたかったのかがわからなくなってしまった。
そのまま男性の機能を使ってセックスができるのだろうか。ローラとの間に子供もいたからできるのか。
でも、クレールとしては、ヴィルジニアとは関係を持ってもいいけれど、ダヴィッドととなると話は別のようだった。けれど、もしかしたら、親友に悪いと思いつつもダヴィッドにもひかれていたのかもしれない。

この後、ダヴィッド/ヴィルジニアが交通事故に遭ってしまう。そこで、クレールは本当の気持ちに気づいたのだと思う。けれど、それは明かされない。

話は7年後に飛ぶ。ローラとダヴィッドとの子供も大きくなり、ダヴィッドはヴィルジニアの姿で迎えに行っている。その隣にはお腹の大きいクレールがいる。クレールにも子供ができて、ヴィルジニアとも仲良くやっているみたいで良かったと思ったけれど、よく考えてみたら、夫が出てきていない。
クレールのお腹にいるのは当然夫との間の子供だと思っていたけれど、もしかしたらヴィルジニアとの子供なのかもしれない。意図的に明かさない、遊びを残した形で終わっている。

でもこれ、もしも夫との子供ではないとしたら、クレールの夫の立場がなくないか…とも思った。ストーリー上、ラストシーンのどっちの子なの?と考えさせるためだけに出てきたとしか思えない。
この可哀想な夫を演じているのがラファエル・ペルソナ。アラン・ドロンの再来と言われている美形の彼です。






グザヴィエ・ドラン監督作。すっかりカンヌの常連ですが、こちらもグランプリ受賞作。
カンヌだとアート系の作品が多くて、ふんわりとしか意味がわからない作品も多いけれど、グザヴィエ・ドランの作品はどれもわかりやすい。
本作はレア・セドゥ、マリオン・コティヤールなど旬の有名フランス俳優が揃えられているせいもあって、とっつきやすくもある。主人公はギャスパー・ウリエルです。

戯曲が原作になっている会話劇とこじれた家族の話というところから、『8月の家族たち』を思い出した。

以下、ネタバレです。








会話が多く、その喋っている人をクローズアップするショットが多い。また、舞台はほぼ家の中である。
対話劇なんて言葉があるのかわからないけれど、会話というよりは二人が面と向かった形の対話が多かった。

『8月の家族たち』は中心となる濃い人物とその周囲といった感じだったが、本作は主人公とその母、妹、兄と兄の嫁という5名と人数が少ない。けれど、少ない分、全員が濃いというか濃厚なやりとりが繰り広げられる。

主人公のルイは、自分が死ぬことを伝えるために12年ぶりに家に帰る。
すぐ伝えるのかと思ったけれど、12年ぶりの帰宅に家族も歓迎ムードでなかなか切り出せない。それでも、空元気っぽくも見える。
そんな中、兄だけはずっとイライラしている。でもそれも、母や妹の隠しているイライラを一心に受けてのことなのかもしれない。

二人だって、イライラしていないわけはない。おめかしをして綺麗にしていたし、料理を作っていたし、歓迎ももちろんしている。久しぶりに会えたのも嬉しい。
でもきっと、ルイのことがわからないのが怖くもあったと思う。
家族といえども同じ人間じゃないから考えていることなどわからない。しかも12年も離れて暮らしていたら、ほとんど他人だ。

ルイは都会(?)で劇作家として成功しているようだった。
時々送ってくれる絵葉書も二、三語しか書いていない。この日だって、みんなが話すのを聞いて、ほとんど喋らず、曖昧に笑うだけだ。

これは最後までわからないんですが、ルイが家を出て行った原因が謎のままだ。
34歳になったというセリフがあったので、22歳で家を出たということになる。単純に、仕事のためなのかもしれない。
でも、もしかしたら、ゲイであることが原因だったのかもしれないとも思う。

ルイの母はルイが来る前にマニキュアを塗りながら「ゲイっていうのは綺麗なものが好きなのよ」と言っていたけれど、かなり偏見が混じっている。
「ルイは綺麗なものが好きなのよ」と言うならわかる。個人ではなく、何かよくわからないぼんやりとしたものとして息子をとらえている。
もしかしたら、ゲイであることを告白した時か知られた時に、何か距離を置かれたのかもしれない。そして家にいづらくなったのかも。

何をしに家に来たのかをルイが言えないまま、気まずい時間だけがどんどん過ぎていく。
そんな中で兄の嫁が真っ先に察する。演じているのがマルオン・コティヤールなのですが、これがとても上手かった。いつもはゴージャスな印象が強いけれど、まさに庶民の嫁という感じだった。顎の肉の付き方と常に夫の機嫌を伺っているようなおどおどした表情がリアル。
でも、このどん臭そうで空気の読めなさそうな感じなのに、真っ先に気づくということは人を観察する能力には長けている。
夫に対しても、ひどいことを言われているようだったけれど、それだけではない面も見えているのだろう。暴力をふるわれているわけではなさそうだった。
それに、家族ではなく外部の人間だから気付けたのかもしれない。

妹は、兄は恰好いいし、会えて嬉しいと純粋に思っていそうだった。
でも、どこか得体が知れないとも思っている。
子供の頃しか知らないと言っていたけれど、ルイが22歳で家を出た時に子供なのだとしたら、子供がいくつを指すのかはよくわからないけれど、10代前半かそれくらいだろうか。結構、年が離れた兄妹なのかもしれない。
演じているレア・セドゥは31歳だけれど、19歳の時に22歳のルイを見ていたとは思えない。
レア・セドゥはメイクをほとんどしてないとだいぶ幼く見えるし、もっと若い設定なのだろう。
兄のことが好きで、知らないことが多いからもっと知りたい。私のことも知ってほしいけれど、よく知らないしそんな恥ずかしい部分は見せられない。そんな遠慮があるように思えた。家族としてはよそよそしい。

母もルイのことがよくわからないと言っていた。でも愛していると。
本当は父親がいない家を長兄だけでなく、あなたにも守ってほしいと言っていた。仕事で成功しているのかもしれないけれど、戻ってきてほしいのだろう。
それを聞いても、ルイは何も言わず、というか言えずに、曖昧に笑っていた。
また、「シュザンヌ(妹)に家に遊びに来いって言ってあげて」と言っていた。次の約束などできない人物にそれは厳しい言葉だ。
でも、ルイのそんな事情を知っているのはルイ自身と映画を観ている私たちだけなのだ。

ルイは家族一人一人と順番に話しているのですが、一番言わなきゃいけないことは言えない。兄とも二人で話す機会があった。
「朝早く空港に着いちゃったから喫茶店へ行って時間をつぶしてた。あの二人に言うと気を使わずに家に来たら?って言われるから兄さんにしか言えないんだよ」と、妹と母相手にはほとんど聞き役だったルイがやけに話す。もちろん、兄が言うように沈黙が怖かっただけかもしれないけれど、本当に兄にだけ話せることというのもあるのかもしれない。
兄はずっとイライラしていて、ここでもやっぱりイライラしてるから、こんな話聞かせてほしいと思ったのか!と言ってくるが、この先のシーンを考えると、謎のルイが多分自分にだけ打ち明けてくれた話があるというのは、特別に思ってくれたようで嬉しかったのだろうと思う。

序盤でルイは、おそらく恋人と電話をしていて、「デザートを食べ終わったら言おうと思ってる。それで今日中に帰る」と話していた。
映画を観ている人たち(と兄嫁?)だけは彼の秘密を知っているから、デザートのシーンでああ、ついに言うんだな…とひやひやする。
しかし、ルイは「実は…」と真実を言いかけて、母に言われた通り、妹に向かって「家に遊びにおいで」だとか、ありもしない次の約束だとかを展開し始める。
そこで、兄は「約束があるから帰るんだろ?送ってく」とルイの腕をとるのだ。

兄から見たら、さっきの話を聞いた後だと、ああ、こいつ無理してるな、母と妹に向けていい感じで振る舞おうとしているだけで、本心で話しているわけではないなというのがわかってしまう。何か事情があってこの場には居づらいのだろうから、助け舟を出してやろうと思ったわけだ。

けれど、母と妹からしたら、やっと心を開いてくれたルイともっと一緒にいたい、会話をしたい、できれば泊まっていってと思っているから、長兄はそれをぶち壊す悪魔に見えていたのだと思う。

実際、映画を観ていた私も兄は嫌なやつだなと思ってたけれど、途中から、たぶんそこまで悪いやつじゃない、不器用なだけだと思えてきた。

「遊びに来なよ」とか「もっと頻繁に帰ってくるよ」なんていうルイの言葉は、結局、否定も肯定もしない、何も言わないお得意の曖昧な笑みと一緒。その場だけの誤魔化し。
けれど、それは、母や妹を悲しませたくなくて出た嘘なのだ。

母と妹だって、困らせたくてルイに泊まっていってと言ったわけではない。本当に、良かれと思っての言葉だ。兄も、ルイのためを思って助け舟を出した。

全員が相手のことを大切に思っている。けれど、かみ合わないからギズギスする。

ルイは結局、自分が死ぬことを家族に伝えられなかった。
兄はあの場面で助け舟を出したが、気づいていたのだろうか?
妹と母はどうだろう? 頑なに帰ろうとする様子に、結局、12年ぶりに帰ってきた目的を言わなかった様子に、さすがにおかしいと思っただろうか。妹は気づかず、母は気づいたとしても信じたくないという感じかもしれない。

それで、ルイのお葬式のときに、この日の会合を思い出すのだろう。あの時のルイの目的を思うのだろう。
おそらく勘づいたと思われる兄嫁は、あとで知っていたのになんで教えてくれなかったのと攻められるかもしれない。
けれど、彼女だって、秘密を抱えて生きていくのはつらいのだ。本心では、ルイと秘密の共有をしたくなかっただろう。

なんでもいい。ルイが12年ぶりに帰ってきたことで、変わったことはあったのだろうか。
不毛ではないか? ルイは家族に会うのが怖いと言っていたが、こんな風にギスギスすることがわかっていたのだろうか。だから帰ってきたくなかったんだよと思っただろうか。

でも、自己満足だとしても、死ぬ前に家族の顔が見られて良かったとは思っているはずだ。そして、愛されていることにも気づけたはずなのだ。
序盤では「言っても、あの人たちは泣かないかも」なんて電話で冗談っぽく話していたけれど、家族と話をして、確実に泣くのはわかったし、悲しむだろうというのもわかったのだと思う。だから言えなかった。だから、叶えられない次の約束をした。すべては悲しませないためなのだ。

『イコライザー』



2014年公開。『マグニフィセント・セブン』がおもしろかったので、同じアントワーン・フークア監督の別の作品も観てみました。
80年代にアメリカで放映されたテレビドラマの劇場版とのこと。

以前、映画館で予告を見た時には、16秒でコロスとか娼婦の少女を救うためみたいな印象だったので、『レオン』っぽいのかと思った。

けれど、観てみるとそのイメージとは違っていた。昼はホームセンター勤務、夜は殺し屋(?)ということで、『ザ・コンサルタント』っぽいのかと思った。実際には殺し屋ではなかったけれど、確実な仕事っぷりと日常生活を普通に送っているけれど世を忍ぶ仮の姿があるというのは同じなのかもしれない。
でも、別に誰かから依頼があってやっているわけではない。

主人公のロバート(デンゼル・ワシントン)は娼婦テリーを痛めつけた悪の組織に乗り込んでいく。目をギロッとさせて、周囲を観察して頭の中でシミュレーションして、その通りに動く。流れるような動きが恰好いい。あっという間に死体の山の出来上がり。

しかし、ダイナーで本を読んでいるときも、ホームセンターで日中働いているときも、穏やかこの上ない感じの人物がこんな只者ではない動きをするとは。一体何者なのだろう。

ホームセンターの同僚の実家が悪徳警官にひどい目に遭わされた時にも、赴いてやっつけていた。この事件は最初に出てきた娼婦と関係がないし、テリー役はクロエ・グレース・モリッツだったが、決して主役級ではないのだということがわかった。

その次はホームセンターのレジに強盗が来て、レジの金とレジ係の女性の指輪を盗んでいく。このシーンでは、ロバートがこらしめるシーンはもうわかったでしょ?とでも言うように省略されていた。ただ、ホームセンターの売り物のハンマーに付いた血を拭いていて、ああ、それを使っただなということがわかる。けど、売り物…。

こんな感じで、何者かわからないけどとても強いロバートがどんどん悪を倒していく世直しアクションなのだろうか?と思っていたら、こてんぱんにした娼婦宿の元締めであるロシアンマフィアが暗躍している様子が映される。自分の店をめちゃくちゃにされて黙ってはいられないだろう。

全身刺青の様子をなめるように撮り、「フハハハハ…」といかにも邪悪そうな笑い方をしていた。
また、残虐な手段で殺している様子から、相当怖い連中だということもわかる。

なんだかよくわからない謎の男が正義の味方よろしく悪を倒していき、最終的にロバートの正体が何者なのか発覚するという作りなのかと思っていた。しかし、中盤くらいで元CIAということがわかる。『RED』と同じような感じだ。

あと、奥さんを亡くしているのは、ダイナーでテリーも言っていたけれど、ここでも話に出てくる。おそらく、自動車事故でロバートだけが生き残ったのだろう。
けれど、一人で生き残った後の日常はつまらなそう。
時間をきっちり管理して行動し、生活しているようだった。どことなく寂しそうで、生きる目的を見失っている。毎日が楽しいとは言えなさそうだ。

ロバートはロシアン・マフィアに目をつけられるけれど、きっちりと影で対応していた。自分の方が強いことをそれとなく見せて、穏便に事を済ませようとする。

石油タンカーを爆破するシーンは迫力があった。後ろで大爆発が起こっているのに、振り返らずにこっちに歩いてくるロバートというかデンゼル・ワシントンが笑っちゃうくらいかっこいい。

ロバートはあなたたちが仕掛けてこなければこちらから乗り込むことはないよと示していたが、ロシアン・マフィアは、ロバートが働くホームセンターの職員たちを人質にとる。
観ながら、あーあ、怒らせた、知ーらないと思った。他の人、特に親しい人たちを巻き込むのはロバートが一番嫌いな事だと思う。

そこで『エージェント・ウルトラ』を思い出すようなホームセンターバトルが開幕する。ホームセンターにあるものを使って戦うのだ。ここはロバートの職場、つまりホームかアウェイでいったら完全にホームなわけである。負けるはずはない。

『マグニフィセント・セブン』でもデンゼル・ワシントンが砂埃や返り血で汚れることはないという指摘があった。
本作では、血が滴るナイフを持った男にのしかかられても、その血液は落ちることはない。

スプリンクラーが作動するのですが、それが土砂降りみたいに見える中、棚の向こうからデンゼル・ワシントンが現れる。恰好良すぎて、思わず変な声が出ました。
スローで、顔を伝う水滴がぽたりと落ちる。まさに水も滴るいい男である。
監督は本当にデンゼル・ワシントンが好きなんだ…というのを再確認した。
これは、映画館で見ても変な声が出てしまったかも。

それで、ロバートというかもうデンゼル・ワシントンなんですけど、話のバランスがおかしくなるくらい強い。ホームセンターにいるボスもあっさり倒す。
更に、その大ボスの自宅に忍び込んで感電死させていた。

まったくピンチらしいピンチがない。最強としか言いようがない。しかも、冷静にちゃっちゃと短時間で仕事を終える姿勢も恰好良い。

本作の最大の敵はロシアン・マフィアであり、ロバートが目をつけられた原因がテリーなのだから、テリーは一応ヒロインなのかもしれない。
最後にも出てきて、ロバートにお礼を言いに来る。でも予告ほどはまったく活躍していない。恋愛もない。
ロバートの妻に関しても、映像や声も出てこないし、ラストでも言及は無し。
ロバートは悲しみの中で戦っているのだと思うが、妻の名前を叫んだり、許しを乞うたりと、湿っぽくならない。

ただただ、ひたすらロバートが強い。そして、それを演じているデンゼル・ワシントンが恰好良く撮られている。
完全に監督の趣味映画だった。

なるほど、この過剰なまでの魅せ方は、『マグニフィセント・セブン』に受け継がれると思う。繋がっていくのがよくわかる映画だった。






原作は『ハヤブサが守る家』というファンタジー小説。2011年のベストセラーにも選ばれたらしい。
映画の邦題もこのままの方がわかりやすいのではないかと思ったけれど、ティム・バートン監督の映画なら『ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち』というタイトルの方が合っている気もする。

以下、ネタバレです。








謎の島にある謎の屋敷、そしてそこに住まう謎の人々…。そんな設定からしてわくわくする。
キャラとキャストがばっちり合っていたと思う。またキャラ造形が可愛いというよりはちょっと不気味なのもいい。金髪縦巻きカールのお人形さんみたいな少女の後頭部にもう一つ巨大な口があったり、双子が謎のマスクを付けていたり。
空気より軽い少女、エマの鉄の靴のデザインも凝っていて、見ていて楽しい。衣装は今回もコリーン・アトウッドです。

屋敷の女主人、ミス・ペレグリンの髪の毛が真っ黒ではなく少し青っぽいんですが、青いハヤブサに変身するのも綺麗。

前半は、ジェイクの目を通して、奇妙なこどもたちとペレグリンを観察するといった感じ。自己紹介パートだったと思う。
中盤、ペレグリンが悪いやつにさらわれてからは、こどもたちがそれぞれの能力を生かして戦う。まるでX-MENのようだった。
特に、ブラックプールの遊園地でのバトルは音楽を含めて楽しかった。イーノックの能力で命をさずけられたガイコツたちが触手のモンスターに果敢に挑んでいく。
序盤でも出てきたけれど、イーノックが命をさずけたものの動きはCGのようななめらかさではなく、コマ撮りのようにカクカクしているのがいい。本当にコマ撮りなのか、CGをコマ撮り風にしているのかわからないけれど、ティム・バートンだから本当にコマ撮り撮影なのかもしれない。
この遊園地の乗り物にティム・バートンが乗っているのも発見できて楽しい。

この後の建物内のシーン、炎を操る少女と氷を操る悪者のシーンは少し対決があるけれど、もう一声欲しかった。物足りなさが残った。
あと、マスクを取って石にする双子は、あの能力は1日一回しか使えないとか、充填する時間が必要とかなのだろうか。あの能力があったら、二人だけで倒せそう。

物足りないといえばペレグリンなんですが、自分でも言っていたけれど、彼女には鳥に変身する能力と時を戻せる能力しかないんですよね。バトルはできない。だから、後半のバトルで見せ場がないのが残念。せっかくの女主人というかボスっぽい存在感なのに。途中からずっとハヤブサの姿です。檻から放たれても飛んで逃げるだけ。

ファンタジー特有というか、作品内のルールがいまいちよくわからなかった部分もあった。
一番重要なループまわりです。島のトンネルを抜けると現代から過去に戻る(このループを作ったのがペレグリン?)。それは屋敷がドイツ軍の爆撃に襲われる日なので、ペレグリンが爆撃直前から朝に戻して同じ日を繰り返す。

ペレグリンがバロンにさらわれるが、その向かった先がブラックプールのループをくぐった場所。現代だけれど、ジェイクが来た時間(島のループを通った先の現代)よりは少し前である。このループは戦いの日の夕方にとじることになっていて、ジェイクはそのまま現代に残って、少し前ではあるけれど自分の世界に戻った感じになる。

ただ、冒頭の祖父の死は回避できたものの、そこから何度かループを通って、閉じたブラックプールのループの先へたどり着く。ここまでの紆余曲折をジェイクが話すけれど、結構早口なのと、途中でおもしろ日本が出てきて注目してたら字幕を読み損ねて何を言っているのかわからなかったのと、最後まで言い終わらないうちに、ジェイクの口をエマがキスで塞ぐんですよね…。
どんな過程を経たのかわからないけれど、世界各地にあるループを通って、何度か行き来を繰り返すとブラックプールのループが閉じる前に戻れたってことなのだろうか。でもそうすると、倒したはずのバロンも生きてたりしない? バロンを倒した後、ループの閉じる直前だろうか。でもそうすると、ループのこちら側で座り込んでいるジェイクはどうなる? 同じ人間には会わない仕組み?
考えれば考えるほどわからないし、これがラストシーンなので、なんとなく腑に落ちないまま幕が降りてしまう。なんとなく不完全燃焼だった。

あと、これは個人的なストーリーの趣味なんですが、行きて帰りし物語方式にしてほしかった。
現代でジャックはバイトもつまらなそうだったし、お友達もいないようだった。でも、本当だったら、過去でもなんでも冒険先で成長して、戻ってきて、現実とも折り合いをつけて生きていくというようにしてほしかった。

本作はただの一般人巻き込まれものではなく、ジャックにも実は特殊能力があったから、奇妙なこどもたちの仲間には入れるんですよね。祖父も、現代に戻ってきて後悔したのだろうか。ジャックも現代でこのまま生きていても、変人扱いされるだけだと思ったのだろうか。でも、戻ってきて、祖母と結婚して、ジャックの父が生まれて、ジャックが生まれた。そのジャックに向かって、彼女たちの元へ行けなんて言うだろうか。祖父にとって、ペレグリンの屋敷から帰ってきた後の人生はなんだったのだろう。まったく話に出てこなかったけれど、祖母のことはどう思っていたのだろうか。ずっとエマを想い続けていたのだとしたら失礼な話である。

それに、現代に残した父母や序盤で気遣ってくれたバイト先のおばさんはどうするのだろう。もう2度と会えないけれど、何か説明をして出かけたとも思えない。第一、そんな説明は通じないだろう。また病院に連れて行かれるだけだ。それでも、父母なんだし、黙って出かけて2度と会えないというのもどうなのだろうと思う。
この辺、原作も同じなのだろうか。


一回目がおもしろくて二回目を観ましたが、二回目のほうがさらにおもしろかったパターンです。
以下、ネタバレです。
ネタバレというか、妄想と個人的なこと。






この話の主人公はサム・チザムで、最後に彼の復讐だったと明らかになる。知っている状態で観ると、最初にエマからの依頼に興味がなさそうだったけれど、ボーグの名前を聞いた時にちょっと表情が変わったり、グッドナイトに「妹が生きていたら彼女(エマ)と同じ年くらいか?」と聞かれたりしているのが気になってしまう。

サム・チザムに関しては命をかける理由があるのがわかるけれど、他のメンバーは何故着いてきたのかわからないなどと言われていたけれど、全員について考えることはできる。

例えば、サム・チザムの話が進行している裏で、ファラデーの話も同時に進行していると思う。
彼は最初、さびれた酒場のテーブルで物騒な連中とギャンブルをしている。トランプを使っていたのでブラックジャックか何かかと思いますが、配られたカードを見て、「いいカードが来ない。ツキを変えたいな」とぼやいている。
これは彼の最後のセリフ、「ツキがまわってきたぜ」と対になっているように思える。

ツキを変えたいというのは何もギャンブルだけのことではなく、何かおもしろいことないかなあ?くらいの意味も含まれているのではないかと思う。
それまでのファラデーはギャンブルで小銭を稼いだり、負けて馬をとられたり、時にはイカサマをしたりという毎日だったのだろう。銃のことを妻と呼んでいたから家族もいないようだった。父親はいないというセリフもある。小さい頃から今まで、孤独に暮らしてきたのだろう。

イカサマがバレて、劇中では襲いに来た兄弟があんな感じだったから手品で気を引いて逃げられた。けれど、それが2度3度と通用するとも思えない。冒頭のギャンブル相手はあの兄弟よりもよっぽど怖そうだった。あいつでないにしても、どこかでイカサマがバレて、誰かに殺されるオチだろう。
それでも、きっと、いつ死んでも別にいいという風に生きていたのだと思う。

そこに舞い込んできたサム・チザムからの誘いである。もちろん、馬を取り返したかったというのもあるかと思うが、彼に着いていったらおもしろいことが起こるのではないかという予感があったのではないか。

着いていったファラデーは他の仲間に会って、笑いながら酒を飲んで、結局他の仲間と村を救うためにガトリング銃を破壊しに突っ込んでいく。道中はこれまでの人生よりも楽しかったと思うし、敵陣地へ向かっていく時に仲間から後方支援を受けられたのは嬉しかっただろう。何より、敵さん達がまんまと騙されてくれたのが痛快で、満を持しての「ツキがまわってきたぜ」という言葉だ。
ツキを変えたいとぼやいていた彼にやっとツキがまわってきたのだ。
だから、結果的に敵もろとも爆死してしまうが、後悔はなかったと思う。悲しいけれど、サム・チザムに着いていかなかったらロクな死に方をしなかったと思う。

他のメンバーに関しても、グッドナイトはサム・チザムに命を救われた過去がある。亡くなった妹のことも知っているくらいだから、付き合いも深かったのだろう。恩を感じていたはずだし、それをいずれは返さないといけないと思っていたはずだ。
ビリーはグッドナイトと行動を共にするので、二人は一緒にサム・チザムに着いていく。

バスケスは賞金首で、サム・チザムに着いていかなかったらあの場で彼に殺されていただろう。それに、着いていった場合はどうするかという条件として、「お前は賞金首のままだが、俺はお前を追わなくなる」と言われる。俺はお前よりも上だが、お前はそこらのバウンティーハンターよりは強いだろうという意味がこめられていそうだ。バスケスのことも認めつつ、でも、俺の方が強いぞと暗に示しているサム・チザムの粋な言葉。これに心を奪われたのだろう。

レッドハーベストはどんな理由があってのことなのかはわからないけれど、長老から一人で行動しろと言われてしまう。畏怖なのかもしれないし、何か悪いお告げみたいなものなのかもしれない。少なからず孤独だったと思うのだ。そんな彼が認め、認めてくれる人物がサム・チザムだった。運命的な出会いだったのではないか。

ジャックはすでに隠居の身だったようだけれど、このままゆっくりと死んでいくのもつまらないと思ったのだろうか。血が騒いだとか、それくらいの理由かもしれない。
彼に関してはあまり素性も明らかになっていないが、殺したネイティブアメリカンの頭皮を集めていたとか物騒な話は出てきた。それは、結局敵方のインディアンに殺されてしまうことと関連付けられているような気もする。因果応報というか。

2度目なので、キャラクターについての裏の設定やサム・チザムに会うまでの人生などを考えながら観ていた。あと、とても気になったビリーを集中的に見てしまった。

登場人物の多い話なので、前の方で話の中心になっているメンバーの後ろでも別のメンバーが動いている。ビリーはナイフさばきなど、戦闘はもちろん恰好いいし、賞金首時代のグッドナイトが認めたくらいだから強いのだが、それ以外だとわりと気遣いの人でもある。グッドナイトだけに関してかもしれない。

決して口数は多くないけれど、常に気を配っていた。一本のタバコを二人で吸うシーンは気づいていたけれど、その後ろで、ビリーが二本くわえて両方に火をつけてやって、一本グッドナイトに渡すというシーンもあった。
また、グッドナイトが錯乱した時に慌ててタバコをつけてやっていたので、タバコを吸って落ち着けというよりはやはり阿片なのかもしれないとは思った。

どちらにしても、ビリーはグッドナイトに拾われなかったら、グッドナイトでないにしても別のバウンティーハンターに殺されていたと思う。殺されないにしても、各地で暗殺を繰り返し、一人きりで逃げ続ける廃れた生活になっていただろう。
グッドナイトもPTSDで不安な気持ちになったときに、隣に誰かいるのといないのでは大きな違いだと思う。
サム・チザムもグッドナイトのPTSDに関して理解は示していたし心配もしていたけれど、そこまで深くは立ち入っていなかった。
ビリーとグッドナイトの互いが互いを理解し、気遣う関係が良かった。全員に関しての過去が知りたいけれど、断然、この二人のスピンオフが観たいです。


『REDリターンズ』



2013年公開。前作、『RED』は映画館で観て、別につまらなかったわけではないけれど、続編は見逃していた。

前作の内容をあまり覚えていなかったんですが、年老いた元ワルが久しぶりに現場に戻って大暴れするんだっけ? でもそれは『エクスペンダブルズ』か…と考えていたのですが、まあまあその通りだった。ワルではなくCIAエージェントでしたが。

ちなみに『エクスペンダブルズ』が2010年8月、『RED』が2010年10月と、アメリカではほとんど同じくらいの時期に公開されている。日本では『エクスペンダブルズ』が2010年10月『RED』が2011年1月とこちらも同じくらい。

あともう一つ、相手役の女性サラとの年の差が気になったんですが、何故か本作では気にならなかった。でもこれも調べてみると、演じたメアリー=ルイーズ・パーカーが現在52歳だったので驚いた。撮影時も40歳半ばか後半だったのか…。30代にしか見えない。
少しだけ足を引っ張るタイプのヒロインだったけれど、ブルース・ウィリス演じるフランクのことが大好きなのがよくわかって可愛かった。昔の女が出てきたらめちゃくちゃ嫉妬もする。また、自分の住んでるのとは違う危険な世界にいるフランクのことを、普通ならヒロインは心配しそうなものだけれど、目をキラキラさせながらそっちの世界へ行こうとする。逆にフランクが止めるくらいだ。フランクが過保護すぎるともいえる。

そこを張り切って背中を押すのが、ジョン・マルコヴィッチ演じるマーヴィンだ。前回にも増してお茶目な役だった。可愛いおじいさん役だ。飄々としていて、何も考えてないようでやるときゃやる天才肌。
本作では最後に打ち上げっぽいシーンがあるけれど、その時に女装というか仮装していたのも可愛い。

前作はあまりおぼえてなくても、ヘレン・ミレンが機関銃をぶっ放すシーンがものすごく恰好良かった印象は残っていたけれど、本作でもずっと華麗で恰好良かった。
最初の感じからして、前作では仲間でも本作ではヘレン・ミレン演じるヴァイオレットは一転してフランクたちの命を狙う役なのかと思った。殺し屋だし、依頼されたら金次第でなんでもやるのかと思ったけれど、ちゃんと仲間は裏切らない。
芝生に寝っ転がって、遠くからスナイプするときにストッキングの足先がセクシーだったんですが、一緒にいた恋人?に「狙う時に足の指が曲がるんだね…」と言われていて、「変態」と返していたけれど、私も同じところ見てました…。

もう一人(というかヴァイオレットは違うけれど)、フランクの命を狙う依頼を請け負ったのがイ・ビョンホン演じるハン。
最初、裸にされて浴衣を着せられ、おもしろ日本みたいなところで面接を受けていて、アジアはハリウッドからすると一括りにされてるんだなあと思った。
ガトリング銃を使うシーンもあるけれど、一人対多人数の格闘技のようなシーンも多い。真っ黒い細身のスーツで長い手足を使ってのバトルが美しかった。キックが特に痺れました。
あと、二丁拳銃はやっぱり好きです。
ハンは基本的にビリーと同じく無愛想な役どころ。フランクに個人的な恨みもあったようで、ずっと怒っている。怒鳴りながらフランクを追いかけてくる。

結局彼も仲間になるんですが、ヴァイオレットを助手席に乗せてのカーチェイスシーンは音楽も含めて恰好良かった。車をスピンをさせて、ヴァイオレットは両手に銃を持って腕をピンと伸ばして開けた窓から撃って周囲の敵を一掃する。もっと長い間見ていたかった。

仲間になったとはいえ、遺恨がなくなったわけではなさそうだったので、ハンにも相棒とか仲間がいたら良かったのにと思う。最後まで一人きりだったし打ち解けてもいなかった。

その二人が敵ではないとすると誰なのと思っていたら、アンソニー・ホプキンスだった。彼が演じる教授は、最初はニコニコほわほわしていて、頭がおかしいと思われているけれど本当はまともみたな役柄だった。実はその時点ではアンソニー・ホプキンスだとは気づかなくて、途中から明らかに悪い顔になる。視線の送り方とか表情がガラッと変わるのがうまかった。

役者さんやキャラクターはそれぞれよく、それより何より、『マグニフィセント・セブン』のビリー役のイ・ビョンホン目当てで見て、彼はやっぱり恰好良かったからそれでいい。
けれど、これは他の映画でもあることだけれど、核爆弾を積んだ小型機が海上とはいえ割と近くで爆発するんですよね。それを逃げもせずに、「滅多に見られないぞ」とか「きれいだ」みたいなことを言って近くで見ている。呑気というか、雑というか、ファンタジーというか。核爆弾の扱いについてもやもやしてしまうのは日本人だけなんでしょうか…。

ハンが浴衣で畳で面接しているシーンもそうですが、元がコミックなんだし深く考えなくていいことなのかもしれない。原作にあるエピソードなのかどうかはわかりませんが。





『七人の侍』、『荒野の七人』のリメイク。もちろん観ていたほうがリメイク元からの違いとかモチーフにしているキャラクターとかを考えられて楽しめると思いますが、観ていなくてもまったく問題ないです。

監督は『サウスポー』のアントワン・フークア。

以下、ネタバレです。







リメイク元とストーリーは大体一緒だと思う。
金鉱目当てで悪党が村を乗っ取るために乗り込んでくる。村の外から訪れた凄腕のガンマン七人が、戦いの素人である村人たちと力を合わせて悪党とバトルをするというもの。

最初からやっつけるべき悪党がわかっている。また、同情の余地がないほどの悪党なので、善悪について考えるということもない。この辺は西部劇っぽいのかもしれない。

倒す側はならず者であり、七人のキャラクターが濃い。
主人公はデンゼル・ワシントンが演じるサム・チザム。バウンティーハンターだが、全身黒ずくめ、馬も黒いということで影がある。めちゃくちゃ強い。

最初に仲間になるのは調子のいいギャンブラーで手品師のファラデー。クリス・プラットが演じているが、食えない奴である。携帯している拳銃のことを片方は妻、片方は愛人と呼んでいた。手品で気をそらしている間に撃ったりと正攻法ではない。
最期も死んだふりからのダイナマイト投擲というのは彼らしいではないか。もう何発もくらったところでタバコをくわえる。敵は最後の情けと思って火をつけてやる。そこで撃とうとするけれど、そのまま前に倒れこむ。死んだならば撃つことはないだろうと、敵は銃を仕舞うんですが、ジョシュは起き上がり、タバコの火をつかって着火したダイナマイトを投げるという。手品と同じ、やっぱり油断させてからのニヤリなんですよね。飄々としたキャラがクリス・プラットによく合っていた。

賞金首のヴァスケスは、逃がす代わりにサムたちの仲間になった。メキシコ人で、ファラデーとは人種差別ばりばりな言い合いをしていた。それでも本気で仲が悪いわけではなく、いいコンビである。
二人とも二丁拳銃で、二丁拳銃好きとしては嬉しい。

イーサン・ホーク演じるグッドナイトはサムと長らくの知り合いのようだった。ウィンチェスター銃を使うスナイパー。腕は確かだけれど、南北戦争で多数の人間を殺した経験からPTSDになっている。
ジョシュも人の死について話していたけれど、西部劇特有かもしれないけれどとにかく簡単に人がどんどん死んでいく映画である。相手は悪党だから、銃をバンバン撃って人が倒れていくのは爽快感もあるけれど、ちゃんと死にも言及していた。

グッドナイトの相棒ビリーにイ・ビョンホン。銃も使うけれど、ナイフ投げとか髪の櫛で攻撃するのが独特で恰好いい。
無表情で愛想も無いけれど、グッドナイトの前だと喋るし笑うのがいい。

助ける村へ行く途中、一行の前に現れたネイティブアメリカンのレッドハーベストも仲間になる。銃も使うが弓矢と斧を投げる。

敬虔なクリスチャンなのか、聖書の一節を唱えることが多いハンターのジャック。大きな体格を生かしての攻撃もしていた。

このように、七人それぞれのキャラが濃い。体格もバラバラ、人種もバラバラで統一感がない。大げさなキャラ付けなので、漫画っぽい。入り乱れての戦闘でも誰がどこにいるかすぐにわかる。

ストーリーの流れとしては、村が襲われる。襲われた村から来た女性にサムが雇われる。サムは七人の仲間を募り、村に着き占領している悪党の子分たちを成敗。それを聞きつけたボスが新たな仲間を引き連れて村に襲撃。罠を作ったり銃の練習をしたりした村人と七人が悪党をやっつけるという本当にシンプルなもの。
しかも、案外苦労することなく七人は集まるし、大きな喧嘩もない。村に行く途中に襲われたりもせず、旅の道中も短い。

この映画は133分と長めである。じゃあ、何に時間が割かれているのかと言ったら、ほぼガンアクションなどのバトルである。これが本当に恰好いいし、七人それぞれがちゃんと動くので見ていて飽きない。おそらくもう一度観たら新たな発見がありそうなくらい見どころが多い。

ほとんどバトルとは言っても、戦い方にキャラクターがよく出ているし、バトル前日の飲み会でも性格はよくわかるから、しっかりと命の通ったものになっている。

キャラクターの濃さも漫画っぽいが、展開のお約束加減とか見たいものをしっかり見せてくれるのも気持ちが良かった。
敵側にネイティブアメリカンの強い人がいたけれど、やはりこちらのレッドハーベストとの戦いがある。PTSDを理由に途中離脱したグッドナイトは、やはり最終決戦には戻ってくる。悪党のボスを仕留める最後の一撃は、やはり夫を殺された村の女性によるものだった。
やっぱりそうでなきゃな!の連続がとてもいい。

また、デンゼル・ワシントンが真っ黒い服装で真っ黒い馬に乗りながら銃をぶっぱなしているだけで本当に恰好いいけれど、その他にも画作りのこだわりが感じられた。

教会の鐘の近くからグッドナイトとビリーがウィンチェスター銃で遠くの敵を撃っていたが、ガトリング銃で狙われてしまう。その連射で二人も撃たれるが、弾は鐘にも当たってカンカンと非情な音を鳴らしていた。

悪党のボスは教会で死ぬが、十字架のまえで悪党が倒れているのも、画面がまとまっているというかまるで絵のようだった。

最初から最後まで悪党でしかないボス役にピーター・サースガード。最初に村に来た時にもそうだったが、平然と、死ななくてもいい人を撃つあたりが怖い。また、ガトリング銃を持ち出して部下が村を一網打尽にしているときには恍惚とした表情をしていた。不思議な色気がある役者さんだと思う。最後、教会では許しを乞いながら涙目になっているのも良かった。死にかけながらも銃に手をやる底意地の悪さも姑息で完璧だった。

色気といえば、イ・ビョンホンも良かったです。寡黙ながらもナイフ使いが華麗で確実に仕留める姿もいいし、長めの前髪が顔にかかる様子もいい。
彼が演じるビリーとグッドナイトの関係も良かった。この映画では描かれていなくても、ここまで長い期間コンビを組んでいて、絆が深いのがよくわかった。
グッドナイトはサムと再会するまで、PTSDのことはビリーにしか話していなかったのだろう。酒に逃げて、外には弱さを見せないようにしていたのだと思う。ビリーはそんなグッドナイトも受け入れて、サポートしていたのだろう。

最終決戦時にグッドナイトが戻ってきて、「戻ってくると思ってたよ」と言って彼のスキットルを胸から出してビリーが笑う。ここまでびしっとした表情だったのに、一気ににっこりする。それは破顔とも言えるくらいに。もちろん戻ってきたのが嬉しかったのもあるとは思うけれど、おそらくもう死ぬのがわかっていて、それを覚悟したようにも見えたのだ。いいシーンで好きでした。



1912年イギリスの女性参政権を求める運動についての映画。運動自体は実際にあったものだが、まるまる実話というわけではないらしい。
監督はもちろん、他の製作スタッフも女性を中心としていたとのこと。

以下、ネタバレです。









原題は『Suffragette(サフラジェット)』。もともとはイギリスでのこの女性参政権を求める運動をする人たちはサフラジストと呼ばれていたらしい。けれど、一向に認めてもらえず、窓を割る、ポストを爆破するなど非合法の手段で運動をしていた人たちを、合法的な手段を用いて運動をしていた前者と区別してサフラジェットと呼んでいた。

『未来を花束にして』というタイトルは優しすぎる。どちらかというとサフラジストっぽい。この映画で描かれているのは、この邦題から受けるそんなふわっとした優しいイメージでも慈悲深いものでもない。そんな季節はとっくに過ぎたのだ。
慈悲深さなんてものは、自分に余裕があるときに生まれるものである。この映画に出てくる女性たちに余裕なんて無い。
この映画で描かれているのはもっとガツンとした、ゴリゴリした岩のような事柄である。

主人公のモードは最初はサフラジェットたちの過激な行動を見て、関係を持たないようにしていたし興味もなさそうだった。最初に逮捕されたときにも、私はサフラジェットじゃないとはっきり言っていた。夫にも怒られるし迷惑していたようだ。女性参政権については最初から無いものと思っていたから求めることもしなかったと言っていた。
しかし、サフラジェットたちの話を聞き、一緒に行動するうちに、ちゃんと自分で考え始める。よくよく考えてみたら、おかしなことが多いことに気づく。
主演のキャリー・マリガンの表情も、最初はぽやぽやしていたけれど、次第に険しく、きりりと引き締まってくる。

私も最初は、投石するのはやりすぎではないかとも思った。けれど、男に力で押さえつけられ、最初から馬鹿にされている彼女たちを見ていると、怒りの気持ちがわいてきた。
声をあげて行進していても何も変わらないなら、気にかけてもらえる行動をとるしかない。

モードは実際には存在していない人物とのこと。実話をもとにした映画で、主人公が創作なのも珍しいと思うが、きっと、運動に参加していた中にはモードのような女性もいたのだろう。それに、普通の人を主人公にしたほうが、観ていてより感情移入できる。逮捕されるのが普通のことか?と思うかもしれないが、逮捕者は千人以上だったらしい。普通の人が逮捕されたのだ。

映画の登場人物で実際に存在したのは、メリル・ストリープ演じるサフラジェット界のカリスマエメリン・パンクハーストと、最後にダービーのレースに飛び込んでいった女性の二人らしい。メリル・ストリープはメリル・ストリープだから仕方が無いけど、日本のポスターなどに使われているけれどほとんど友情出演くらいの出番しかない。けれど、重要な役です。
最後に走る馬の中に入っていった女性は実際には何のために亡くなったのかはわからないらしいが、映画の中ではそれがきっかけで、この運動について他の国にも知られることになり、政府も動いた。葬儀に多数の人が訪れた映像は、実際にこの女性の葬儀の時のものらしいので、やはりサフラジェットとまったく関係無いということもなさそう。

それにしても、ここまでやらないといけないとは。ここまでやって、やっと女性が参政権を手にすることができた。イギリスでは1928年のことだ。わりと最近である。
最後に各国が女性参政権を得た年代が出るけれど、どの国でも男女は平等ではなかった(ない)のがわかった。日本も1945年である。サウジアラビアにいたっては2015年だし、いまだに認められていない国もある。

過去に戦ってくれた人たちがいるから今がある。それを思うとひとごとではないし、現在だって、ニュースでは連日デモ行進の様子が報道されている。それが何であれ、訴えたいこと、変えたいことがあるのは同じなのだ。

実話をもとにしたとのことだけれど、時代背景もちゃんと考えられているらしい。
あの時代、労働者階級の女性は実際に映画に出てきたような洗濯場で粗悪な条件で働いていたらしい。
また、カメラを使った捜査もあの時代から始まったとのこと。
そして、刑務所でハンガー・ストライキを行った者をおさえつけ、チューブで食物を流し入れる虐待も実際に行われていたらしい。

外国の政治関連の映画だし、とっつきにくいかもしれない。ショッキングな内容も多い。けれど、本当にひとごとではないし、観て良かった映画だった。

そういえば、モードの夫役がベン・ウィショーで、一応目当てでもあったんですが、とても嫌な奴です。この映画に出てくる男性はすべて嫌な奴です。
ただ、アーサー警部だけは、モードと何度か語り、追ううちに心を動かされているようにも見えた。けれど、味方になったり、かばったりはしないです。