『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』



ジェイク・ギレンホール主演。監督は、『ダラス・バイヤーズ・クラブ』のジャン=マルク・ヴァレ。
あんまりな邦題だと思ったけれど、原題は『Demolition』で、デモリションではなんとなくシルヴェスター・スタローンを思い出してしまうから避けたのかなというのは考えすぎだろうか。そのまま“破壊”ではイメージが違うし。また、この邦題も勝手に考えられたものではなく、映画内に出てくるフレーズである。

以下、ネタバレです。









ある日突然、妻が自動車事故で他界してしまう。
近くにいすぎて、仕事が忙しすぎてというのは言い訳っぽいと思うけれど、主人公のデイヴィスは、あらゆることに興味がなくて、そのあらゆることの中には妻も含まれているようだった。
毎朝同じ時間に起きて、ヒゲと胸毛を剃って、同じ電車に乗って、働いて、帰ってきてディナーを食べて、寝る。デイヴィスは機械的に毎日のルーチンをひたすらこなして生活しているようだった。そこには何の感情もなさそうだった。

救急病棟で妻の死を聞かされた直後、病院に設置してあるお菓子の自動販売機でM&M'Sを買おうとするけれど、よりによってひっかかって出てこない。普段でもいらいらするけれど、妻を失ったばかりという状況でこの仕打ちはひどい。多分、普通この状況だったらナースステーションで怒鳴り散らして怒りをぶつけ、別にそれほど欲しい訳でもないM&M'Sをなんとか入手しようとすると思うけれど、デイヴィスの場合は、「苦情はベンダーの業者に」と言われたら素直に聞いて、冷静に連絡先を携帯で写真に撮っていた。
この時点でおかしいといえばおかしい。

さらに、その業者にあてた手紙に苦情だけでなく、丁寧に事故のことを書いていた。事故のことだけではない。今までの暮らしについて、仕事のこと、妻についてのことも事細かに。心の内を一気にさらしているように見えた。デイヴィスには友達がいなそうだったけれど、いたらその人に向かって話すかのような内容だった。でも、相手の顔が見えないからこそできることなのかもしれない。誰でもいいから聞いてもらいたかったのか、書くことで吐き出して満足だったのか。

まるで日記のようだった。取り繕ってもしょうがないのでおそらく彼の本心なのだと思うが、妻が死んでも悲しくないと書いていた。鏡の前で泣き顔を作ってみて真顔に戻るみたいなこともしていたし、本当に悲しくなかったのかもしれない。でもそれは、悲しいという感情がわからなくなっていたのではないかと思う。

それは行動にも表れていて、さっそく朝のルーチンがこなせなくなっていた。鏡に向かってみてもヒゲが剃れない。電車内でいつも会う顔見知りの乗客に急に話しかける。電車の非常停止ボタンを押す…。
本人はいたって普通のつもりだし、冷静なつもりだけれど、周囲からは、あの人は最近奥さんを亡くしたから…と同情の目を向けられる。

また、感情の動きがあまりよくわからないデイヴィスに対して、義父が「心を分解して、悪いところを見つけ出して、もう一度組み立て直せ」と言う。それがデイヴィスの心のどこかに引っかかっていたのかどうかはわからない。ただの、映画内でのメタファーなだけかもしれないけれど、事故に遭う直前に妻に言われた水漏れしている冷蔵庫、義実家の点滅する電気、会社のトイレの軋む扉など、次々に分解してしまう。けれど、組み立てられないのは、技術的な問題なのか、それとも、バラバラにすることはできても元へは戻せない心の状態を指しているのか。
そんなだから、会社からは休職を命じられる。デイヴィスの分解行動はエスカレートして、金を払って解体業を手伝ったりしていた。タイトルにもなっている“破壊”行動である。
それでも、解体作業中はいきいきとしていても、それがどんな結果をもたらしているのかは不明だった。まるで、玉ねぎの皮のように、むいてもむいても、本心にはたどり着けない。

そんな中で、ベンダーのお客様係のカレンから電話がかかっている。あんな長いお手紙を何通も書かれたら気になるのもわかる。そして、彼女と彼女の息子と交流を持つことになる。おそらく、デイヴィスにとって、いつ以来かわからないけれど、久しぶりにできた友達なのではないだろうか。

仕事上のしがらみもないし、前までの自分も知らないから気楽に付き合えたというのもあるだろう。彼女たちの自由さに触れて、自宅すら破壊しながらデイヴィスは少しずつ感情を取り戻していく。

まるで、痺れた足をバシバシ叩いて感覚を取り戻すかのようだ。また、歯の治療時に麻酔をかけ、唇まで感覚が無くて噛んでいる時の感じ。麻酔が切れた時、本当の感覚が戻ってきた時にとても痛い。

妻の不倫が発覚しても、自分のやってきたことに気づいたから怒りなどはない。ああ、そうだろうなというあきらめと後悔とが混じったような気持ちになったのだと思う。
思い出す彼女は自分に対して愛を向けていてくれたのに、それにまったく応えていない自分に気づいた。遅すぎる。もう亡くなっているのだ。謝ることも、許してもらうこともできない。

ラストシーンで、デイヴィスは関係がこじれた義父と一緒に、壊れたメリーゴーランドを直す。実家も割れたガラスは直らないけれど、暮らせる程度までは修繕したようだ。やっと、分解したものを組み立て直すことができた。完璧な形では無くても、元には戻せた。

破壊と再生の話だが、妻が亡くなる前の状態に戻った訳ではない。感情は妻が亡くなる前よりもっと昔に死んでいた。それ以前に戻ったのだ。
だから、妻との関係がどうこうというラブストーリーというよりは、デイヴィス個人の話だったと思う。

予告編を見た時にはボロボロに泣くのではないかと思っていたが、そういうタイプの話ではなく、エンドロールの音楽を聴いている時に余韻で泣けてしまった。
妻を亡くした悲しさもある。生きている間に接し方を見直さなかった後悔もあるだろう。けれど、それよりはもう一度、立ち上がって笑って走れるところまで戻ってきたデイヴィスの姿が良かった。

デイヴィスを演じたのがジェイク・ギレンホール。この人のどんよりした底無し沼のような瞳が、何を考えているかわからなくてはまっていた。本心がわからない役を演じさせたら右に出るものはいないと思う。

カレンの息子クリスは、映画内で「15歳、見た目は12歳、やることは22歳」と言われていた。確かに幼い顔のわりに、タバコを吸ったり、化粧をしてクラブで踊ったり、大音量でロックを流したりと大人顔負けだった。演じたのはジュダ・ルイス。プロデューサーにもディカプリオの再来と言われていたらしい。ドラムも即興演奏だったとは。
トム・ホランドが演じる『スパイダーマン:ホームカミング』のピーター・パーカー役の最終候補6人のうちの1人にもなっていた。2001年生まれなので実際にも15歳。

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