原題は『The Young Pope』。ジュード・ロウがローマ教皇を演じたドラマの後半。(前半の感想はこちら

前半は教皇が最強でもう誰も逆らえないみたいになったところで終わった。
ジュード・ロウ自体が美しいし、そんな彼が人を従えている様子は、神というよりは悪魔のように見えた。要は邪悪だったのだ。でもその邪悪さも含めて蠱惑的な魅力をまとっていた。
自分の風貌を最大の武器と考えていて、自ら、「美しい青い瞳と柔らかな唇」と言っていた。投票率操作により落選させることもできると、イタリアの首相を脅すようなこともしていた。

しかし、ドラマをこちら側から見ている私はただただ恰好良いと魅了されても、ドラマの中の人たち、バチカンの人たちや信者はたまったものではない。教皇を失脚させようとしているのは国務長官だけではなく、他の枢機卿たちや、母同然のシスターメアリーも、兄弟同然のアンドリューもなんとか彼を止めようとしていた。

彼の最大の弱点はいなくなってしまった両親だというのがシスターメアリーはわかっていて、それを利用した策を出したりしていた。
シスター・メアリーにまでこんなことを思われては相当である。彼女だけは、いつどんなときも教皇というか、レニーの味方だと思っていた。

そんな中で教皇は、同性愛者弾圧をアンドリューに任せたが、疑惑をもたれた青年は失職し、自殺してしまう。さらに、もう嫌だとローマから元々いたホンジュラスに帰ると、マフィアの奥さんに手を出したことがバレて殺されてしまう。

ここまででおそらく7話が終わったところだったと思うが、急に人が死に始める。また、5話の最後に教皇御一行で家まで訪れた、神の天啓を得たような市民は行方不明になってしまったらしい。
行方不明はどうなったのかはわからないが、自殺した同性愛疑惑の青年に対しては別にどうも思っていなかったようだ。ただ、シスターメアリーにも嘘をつかせてしまったことに対して、アンドリューが殺されてしまったことに対しては本当に悲しんでいて、レニーがやっと人間の心を芽生えさせる。あんなに満ちあるれていた自信のかけらもなくなって、眉をひそめていた。

ここまで何度か、若いシスターメアリーと、子供のレニーとアンドリューが出てくるシーンがあって、そのすべてを思うと、友達というよりは兄弟くらい近い存在だったのだろうし、こんな親しい存在がおそらくレニーには他にいないのだと思う。それを思うと本当に悲しいし、間接的に自分が殺したことに後悔もあっただろう。

そこで、このドラマがただのヴィジュアル重視ではなくて、一人の人間の成長物語だとわかる。前半のような人を馬鹿にするような表情(それはそれで素敵だったけれど、さておき)は見せなくなる。

ただ、ヴィジュアル面でさぼっているわけではなく、8話ではアフリカへ行くのだが、その時には、いつもの白い祭服に真っ赤なマントと真っ赤な帽子と真っ赤な靴を履いていた。また、そこにある藁でできたような教会もおもしろかった。あんな教会あるのだろうか。

また、アフリカでのスピーチが初めて教皇らしいものだった。父と母と一緒にいた時の景色を想ってのもので感動的だった。それは教皇というよりレニーが話していた。教皇としてというより、人間として未熟だった部分が成熟していくのがわかった。

9話はグティエレス中心の回だった。そういえば、前半でニューヨークに派遣する話が出ていた。ニューヨークで、カートウェル事件の調査をする話で、ジュード・ロウはあまり出てこないし、なんとなく話が止まってしまったように思えた。けれど、実は全部繋がっていた。ちなみにグティエレス役はハビエル・カマラである。

カートウェルというニューヨークの大司教が子供達に性的虐待をくわえていたことを調べて、それを突き止めてローマへ帰ってきた。事件を追う、刑事ドラマのような一話だった。

その成果から、教皇はグティエレスを秘書にしようとするけれど、グティエレスは自分が同性愛者だと告白して拒否する。しかし、教皇はそれも知っていて、しかもグティエレス自身が幼いころに虐待を受けていたことも知っていて、ニューヨークでの調査を任命したとのこと。
当事者ならばしっかり調べてくれるだろうし、同性愛者なのを知ってて側近にするということは、今まで強硬な姿勢をとってきたけれど、考え直してみようということだ。
しっかり大人になっている。

また、今までは子供だったから母親(シスターメアリー)が必要だったけれど、もう必要ないとも言っていた。それは、シスターメアリーを自分から解放してあげるという意味合いも含まれていたのではないかと思う。

この回のラストで、カートウェルがレニーが過去に書いたラブレターをスキャンダルとして公表するけれど、このラブレターの内容がとんでもなく美しくてロマンティックだった。かつての恋人へあてたものである。もう終わった恋。あまりにも幼い内容。しかも出されていないラブレターだ。
悪(カートウェル)はしっかりと成敗され、心が洗われるような純粋なラブレターで終わる、良い回だった。
吹き替えで観ていたのだが、ここの森川さんの穏やかな声もとても良かった。

国務長官は前半は姑息な手段で教皇を失脚させようとして小憎たらしかっった。けれど、後半になるに従って、どんどん愛らしくなってくる。思えば、最初からふくよかな女性の彫刻に性的興奮をおぼえるなど、憎めない部分はたくさんあった。
ずんぐりむっくりな体型もいいんですが、風で一人だけ帽子が飛んじゃったり、シスターメアリーに再三言い寄って、別れのシーンではシスターたちの真ん中に陣取ったりもしていた。
サッカーマニアで、応援しているチームのユニフォームを着ていたり、チームを馬鹿にされると記者相手でも声を荒げそうになったり。
いつのまにか、教皇を失脚させることも考えなくなっていたようだった。教皇の最後のスピーチで民衆に微笑んでくれと言ったら、彼も微笑んでいた。

いくつか謎が残っていている。
結局、行方不明のトニーノ・ペットラはどこへ行ってしまったのか。国務長官は、顛末に関しては教皇との秘密で言えないんだと言っていた。少し嬉しそうだった。

子供のころ、友達の瀕死の母がレニーが祈ったら復活した話はどうだろう? シスターメアリーもその場にいたとのことだが、話はいくらでも合わせられる。

不妊症だったエスターが祈ったら妊娠した話は? レニーのあの可愛がり方はただ子供が愛おしかっただけだろうか。ピウス14世などと呼んでいたけれど。でもエスターと関係を持ったとは思えない。だって、過去に好きだった女性の足にさえ触れられなかったんだもの。童貞の可能性もあると思う。それにエスターもレニーのことを本物の聖人と言っていたから無いだろう。

シスターメアリーも両親がいないということをレニーが知っていたのは? アンドリューから聞いたのではないかと思うがどうだろう。聖人だからわかると言っていたが。

アフリカの悪徳シスターが祈ったら死んだ話は? 水に毒でも仕込んだかと思っていたけれど、ここまでの話がすべて神の力なら、本当に祈っただけかもしれない。

けれど、神を信じず、教皇のイメージとも違った男が、最後にはちゃんと慈悲深いスピーチをしていた。
前半の性壁をぐいぐい突いてくる感じもたまらなかったけれど、後半にぐっとと深まった人間ドラマも素晴らしかった。
結局は、両親に捨てられて傷ついた一人の男の子が、愛に鈍感ながらも周囲の人間と関わりながら大人になっていき、 両親も許そうと思うまでに成長するわかりやすいストーリーなのだ。

全編を通して映像がとても綺麗なのだけれど、今調べて監督が『グランドフィナーレ』のパオロ・ソレンティーノだったことを知る。映像美で有名な監督が撮っているのだから、そりゃ美しいわけだ。
建物を遠景でシンメトリーに撮る感じとか水の綺麗さもなるほどと思った。

バチカンが舞台なのにもかかわらず、賛美歌がほとんど使われないのも面白い。何度か使われていたのはReconditeの『Levo(Club Edit)』 。Reconditeはドイツ人のLorenz Brunnerによるテクノユニット。去年11月には日本酒と音楽のコラボイベントで来日もしていた。

あと、最近の海外ドラマにしては珍しく、シーズンいくつみたいな続編は作られず(多分。作れるような内容ではない)、10話ですっぱり完結するのも見やすい。
見やすいといっても、今のところ手段がWOWOWしかないので、はやくソフト化してほしい。
(追記:ソフト化されました。あとHuluでも配信されているようです)



ワイルド・スピード8作目。
監督は『ストレイト・アウタ・コンプトン』のF・ゲイリー・グレイ。

アクション映画としてはおもしろかったけれど、ワイスピ感は薄いのかなと思った。でも、私は1作目とユーロ・ミッション(6作目)以降しか観ていないので、私のワイスピ感が間違っているのかもしれない。
過去作からもキャラクターがふんだんに登場するので過去作を見ておいたほうが良さそう。私は少しわからない部分がありました。

以下、ネタバレです。








それがワイスピ感なのかはわからないけれど、カーアクションが少なく感じた。
カーアクションといっても、普通の映画に出てくるカーチェイスのようなものではなく、それを車でやっちゃうの?とか、そんなバカな!みたいなやつです。

今回の敵がハッカー(この敵とドムは、初対面ではなさそうだったけれど、シャーリーズ・セロンは過去のワイルド・スピードに出ている気配はないので、初対面でいいのだろうか)ということで、車を多数ハッキングして自動運転で操縦するシーンがあった。今の時代に合っている。自動運転車が当たり前になったら、このような事件があるのだろうか…と少し思ったけれど、ワイルド・スピード自体はありえないカーアクションの連発なので、そこまでは多分大丈夫だろう。

このシーンに限ったことじゃ無いし、もしかしたらワイルド・スピード全般に言えることなのかもしれないけれど、ロボットもののSF映画のようにも見えた。車がロボットで、乗っている人間が操縦士だ。自動運転の車が列をなしている様子は、制御を失ったロボットが追いかけてくるシーンのようだった。

裏切ったドムの車の周囲をファミリーの車が囲って、逃がさないようにそれぞれの車から紐を飛ばしてドムの車に繋げるシーンがあった。言葉はなくても、その紐を通じて、仲間たちの気持ちがドムに向かって行っているように見えた。車だけでも感情表現ができる。

また、ラスト付近で、生身のドムを仲間の車で囲んで爆風を避ける(いくら頑丈な車でもたぶんそんなことは無理だろうけれど、ワイスピなら許される)シーンも、仲間の想いの強さがわかった。

氷の下から巨大な潜水艦が浮上してきて追ってくるシーンは、まるで怪獣のようにも見えた。怪獣に追いかけられるロボット…。もう何の映画だかわからない。
このシーンから副題がICE BREAKなのかなとも思うけれど、言うほどアイスシーンも多く無い。予告にも出てくるし仕方ないけれど、氷の上を走るというのは伏せてほしかった。
オープニングは灼熱のキューバだし、そこからのギャップがおもしろい。

ただ、アイスブレイクとは、初対面同士が打ち解ける手法というような意味合いもあるらしい。新キャラも出てくるし、一緒に戦えば仲間になれるよ!という意味も含まれているのだろうか。

オープニングのキューバパートが一番ワイルド・スピードっぽかった。毎回、最初にレースは入るものなのかな。スターターのセクシーなお姉さんとともに。
無理をしすぎてエンジンから炎があがり、それでもそのまま走り続け、炎で前が見えなくなってきたので、バック走行に切り替えるというとんでもなさ。
しかも、相手の自動車のキーは受け取らず、尊敬だけ受け取っておくよとは恰好良すぎる。その上、このバトルの相手が伏線になっていたのもよかった。

しかし、オープニングでいいところを見せていたドムも、その後すぐに敵に服従してしまい、ファミリーと対立することになってしまう。ほとんど最後のほうまで、ドムの活躍は敵側の行動だけなのでさみしい。やはり、本当ならば、仲間のリーダーとして活躍しているドムが見たい。

ドムの裏切りの理由は、自分の子供を人質に取られてのことだったけれど、その辺が少しわからなかった。一緒に閉じ込められていたのは前妻なのかなと思ってしまったがどうやら違うらしい。私はドムの恋人はレティしか知らなかったけれど、その前というか、レティが死んだと思われた時に関係を持ったらしい。その時にできた子供なのだろう。

ただ、序盤にレティが子供が欲しいというようなことを言っていたけれど、ここに違う女性とドムの子供がいる…。どうするのだろう?と思った。けれど、見せしめとして、ドムの子供の母親は殺されてしまう。
これでドムは従わざるをえないだろうというのもわかるけれど、どうもご都合主義的に殺された印象を受けてしまった。

ドムの裏切りによって、EMP奪取に失敗したホブスは刑務所に収監される。そこで、正面の監房の中にいたのがデッカードだ。二人が言い合っている様子は、ドウェイン・ジョンソンとジェイソン・ステイサム好きとしてもとても嬉しいし、可愛い。
このあとの刑務所脱出アクションも、重量感のあるドウェイン・ジョンソンと流れるような動きのジェイソン・ステイサムと対比が見応えありました。特に、収監されていたからデッカードは当然武器を持っていないが、警備の人間の銃を持つ手を掴んで他の人を撃ったりするのが恰好よかった。

ホブスはドムが敵側にいる間は、実質リーダーのような感じになっていて、本作では出番がとても多い。
ホブス登場のシーンは、自分の娘のサッカーチームとハカを踊って敵のチームを威嚇するというものだった。小さい女の子たちと一緒にハカを踊るドウェイン・ジョンソンが本当に可愛い。全力で敵チームをあおっていたけれど、敵チーム(これも当然女子)からはあきれられるという始末。可愛い。

本作ではデッカードもファミリーに入る。呉越同舟である。ここでもホブスとわーわー言い合っていて可愛い。けれど、デッカードが死んだという報告を受けたあとは、寂しそうにしていた。

ファミリーの中でわーわー言い合うといえば、ミスター・ノーバディの部下として新人が入ってきて、その新人とローマンもソリが合わなそうでまた可愛かった。言い合いながらも協力する描写がたまらない。
この新人役がスコット・イーストウッド。『スノーデン』だと体育会系の役だったけれど、今回は青二才というか真面目ゆえに考えが行き届かないというか、どちらにしてもあまり賢くはない役だった。今回は憎めない役だった。

本作で一番好きなのは、デッカードがドムの子供を救い出してから脱出するまでのシーンである。子供といっても赤ちゃんである。赤ちゃんを寝かせたバスケットを片手に持ちながらのバトルがとてもいい。演舞のような流れるアクションはそのままに、合間合間で赤ちゃんのご機嫌もとる。銃声がわからないように、子供向けの楽しげな曲が流れるヘッドホンをつけてあげるのだが、子供の機嫌をとるシーンではその曲が小さく流れる。
赤ちゃんを守りながらだから、アクションはさらに複雑になるし、恰好良いバトルと赤ちゃんをあやす可愛さが交互にでてきて、そのギャップが面白いし、ジェイソン・ステイサムがより好きになってしまった。
ただ、カーアクションでもないし、ワイルド・スピード感はない。好きなシーンだけど、あとから考えた時に、あのジェイソン・ステイサムは何の映画だったか…とわからなくなりそう。

後半ではデッカードの弟、オーウェン(ルーク・エヴァンス)もファミリー側として参戦。でもほんのちょっとだけだったので、せめて最後の打ち上げシーンに来てほしかった。

同じく、話題になっていたヘレン・ミレンも出番はほんのちょっとだけだった。デッカードとオーウェンの母親役ということで、風格はばっちりだったけれど、アクションはなかった。「車を運転できるなら出演依頼を受けるわ」と言っていたのであるのかと思っていた。また、運転しないにしても、アクションはできるんだし、『RED2』のように、助手席で銃をかまえるとか…。でもそうしたら、そのまま『RED2』になってしまうか。もしかしたら次作以降に出てくるのだろうか。

今回、キャラクターが多かったけれど、ちょっと生かしきれていないかなとも思った。ただ、私の好きなドウェイン・ジョンソンとジェイソン・ステイサムはかなり活躍する。

せめて、最後の打ち上げでいろいろと回収してほしかった。ショウ一家も勢ぞろいしてほしいくらいだったけれど、三人揃ったらそのまま乗っとりそうかな。

ただ、死んだはずのデッカードが現れたのだから、ホブスと言い合うなり、一言交わすなり、何かあってほしかった。ただ、ホブス関連だと、FBIに戻る/戻らないの話があったので、これ以上打ち上げでホブスについては触れられなかったのかもしれない。本当に主人公になってしまう。ただでさえ、本編中もドムの影が薄めだったのに。

あと、レティは別に自分の子じゃなくても、ドムの子供ということでいいのかな。もっともめたり悲しんだりするのかと思っていた。その件をドムが説明したりもしていなかった。死んでいたと思われる時期のことだし、別に誰の子よ!ともならないのか。過去作を観ていないので、エレナとレティの関係もわからないけれど、顔なじみなのだろうか。エレナの子なら…という感じなのかな。殺されたエレナに対する追悼もそれほど大きく取り上げられなかった。

それより、子供の名前をブライアンと発表するなど、ポール・ウォーカー追悼が続いていた。「名前はあなたが決めて」というセリフが中盤に出てきたときに、ブライアンにするのだろうなというのは予測がついたし、前作の最後のポール・ウォーカーを追悼するシーンが完璧だったので、どうなんだろうと思ってしまった。でも、前作とは監督が違うし、F・ゲイリー・グレイも追悼したかったのかもしれない。ブライアンはそれだけ特別なキャラクターだということだろう。

もう少し、本編が楽しかったことに対するまとめの打ち上げシーンであってほしかった。ただ、本編中でドムはほぼファミリーを離脱して味方側にいなかったけれど、打ち上げの中心はドムであることを考えると、そのバランスが難しくなってしまうのも仕方ないかもしれない。





これもWOWOWのみの放送で、ソフト化もされていないようなので、邦題はWOWOWオリジナルのものと思われる。KADOKAWAがオールライツを獲得したらしいので、そのうちDVDででるのかもしれない(追記:『ヤング・ポープ 美しき異端児』のタイトルで10/6レンタル先行リリースとのこと)。原題は『The Young Pope』。そのまま、“若きローマ教皇”です。全10話のドラマ。

ピウス13世は実在するのかと思っていたけれど、ピウス12世以降、現在のフランシスコまで、ローマ教皇にそのような名前の人はいないようなので、架空の人物らしい。WOWOWの番組説明が、“史上初のアメリカ人ローマ教皇に選ばれたピウス13世のミステリアスな人生を描く”ともっともらしく書いてあったので、いるのかと思っていた。

主演はジュード・ロウ。はっきり言って、ジュード・ロウが聖職者の服を着ているというだけでも見る価値があるドラマ。
普通、牧師の服や教皇の服はストイックであり、着ている人物も慎ましやかで質素であることが多い。

けれど、本作ではジュード・ロウである。派手な顔のハンサムだ。そんな彼が、教皇の真っ白な祭服に身を包んでいる。前半だと一回だけ教会の外に出るときに私服(これも“白い”パーカー)を着ていたが、それ以外はずっと聖職者の服だ。
派手な顔にストイックな服。ミスマッチと思われるかもしれないけれど、すごく似合っている。そして、聖職者だからといって、顔の派手さを隠すようなことはしない。自分で自分の顔が良いことも自覚している。
男前が男前であることを存分に生かした役を演じると迫力があるものだが、本作もそれである。
オープニングでも、毎回、悠々と歩く教皇がやおらこちらに顔を向け、ウインクをして、いたずらっぽく笑う。こんなの絶対に好きになってしまう。

それにこの教皇、禁煙の教会内でタバコを吸い始める。とがめられるけれど、一番偉いのは私だと言って、吸うのをやめない。権力を持っていることも自覚している。

若くて顔が良くて破天荒となったら、俗っぽい人物を想像してしまう。周囲の人物たちも、若造具合が気に食わなくて、国務長官はなんとか失脚させようと企む。
あれだけのハンサムだと女性経験も豊富そうだし、女性好きだろうと、修道女を脅して、ハニートラップを仕掛けるのに協力してもらったりしていた。
教会の中のことだけれど、まるで政治もののドラマのようである。高度な情報戦と、狭い空間の中での派閥争い。味方と敵と、当然、スパイや裏切りなども。

しかし、教皇は屈しない。近寄ってくる女性と親しくはなっても、ぎりぎり教皇として接している。もちろん、キスや肉体的な接触もない。
実はハラハラしながら見ていた。私は教皇をまったく信用してなくて、国務長官の罠にはまってしまうのかと思った。
もしかしたら罠なのをわかっていたのかもしれないが、見事に退ける。

しかし、何事もなかったかのように退けたわけではなく、自らの欲望と戦っているかのようなシーンもあった。自分自身に課した修行のようなものだったのかもしれない。

一話の最初で、教皇がスピーチをしようとバルコニーに立つと、空が一気に晴れ上がる。まるで神のようだ。そこでひどく俗っぽくて破廉恥な演説をして市民をざわつかせ、教皇の任を解かれてしまう。
結局、これは夢だったのだが、彼の心の奥底にある願望とか気持ちなのかもしれない。

実際の就任スピーチは姿を見せず、シルエットのみで行っていた。しかし、市民がライトを当て、怒り、中へ下がっていく。すると、空は一点、稲光が…という、夢とは逆のものだった。(ここで姿を見せなかったので、昔はこうゆう謎の多い教皇が実在して、その人を描いたドラマなのだろう…と思ったら架空の人物だった)

おそらく教皇は人一倍俗っぽいし、一話では神を信じていないと言っていた。そのあと、冗談だと訂正したが、本音だろう。
しかし、誘惑に負けなかった教皇は一皮向けたように、青臭さと俗っぽさが消える。

彼の手の中にある権力は更に強くなって、もう無敵である。
枢機卿に向けての挨拶のときには、服装も装飾の入った冠とぶりぶりの凝った刺繍の入ったマントで仰々しい。
自分が上、お前らは下なのだと自覚させる恐ろしさ感じるスピーチは、決して虚勢ではなかった。もう年齢は関係無い。若いからってなめんなという宣言でもある。

枢機卿の一人が立ち上がり、あなたに従いますという意味を込めて教皇の前に跪いて足にキスをする。続々と枢機卿たちが同じような行動をするが、失脚させようとした国務長官は、足の前で顔を背けてしまう。
そこで、教皇はもう片方の足で頭を押さえつけて無理やりキスをさせていた。こんな屈辱ってないだろうなと思うけれど、もう逆らうことができないのもわかったはずだ。

教皇は、神を信じているというよりは、私が神だといった様子だった。しかし、権力を振りかざして、人を従える男前の教皇は、神というよりはむしろ悪魔のように見えた。慈悲深さなんてない。けれど、とんでもなくセクシーで魅力的である。(6話〜10話の感想はこちら




『美女と野獣』



『美女と野獣』ってあの『美女と野獣』でしょ?と軽い気持ちで観に行ったけれど、その完璧さに恐れおののいた。さすがはディズニーである。
91年のアニメ版が完成形だと思っていたし、それを今更実写なんて…という声を封じ込めるように、アニメ版に対して最大限の敬意を払っているのがよくわかった。雰囲気はまるで同じ、実写なのにアニメ版そのもののように感じた。

ただ、アニメ版を観たのはだいぶ昔なので、細かい部分は覚えていない。なので、アニメ版も観返してみました。

以下、アニメ版との違いなどを含め、ネタバレです。













まず、実写版ですが、オープニングのディズニーのロゴの城が、野獣の城になっている。そこから手前に薔薇を配して、「むかしむかし、あるところに…」と自然にストーリーが始まる。
この、手前に薔薇、奥に城という最初の構図はアニメ版と同じだった。
アニメ版では王子が野獣に変えられるまでをステンドグラスで絵本のように示していたけれど、実写では語っている人はいても、絵本調ではなく、普通のドラマになっていた。ただ、野獣役のダン・スティーブンスは、この時にはピエロのような化粧をしていて顔はわからない。最後、人間に戻る時まで顔は出ません。

最初のベルの暮らす村の朝のシーンはイメージはほとんど同じ。この後もそうなんですが、ベルや野獣の着ている服がアニメ版とほとんど同じなのが素晴らしい。色はまるっきり一緒です。デザインが少しだけ違うくらい。

ベルの父は、アニメ版だと小太りで陽気な発明家ですが、実写だとからくり人形師みたいだった。絵も描いていた。また、少し影も背負っていて、それは亡くした妻に関してのことである。アニメ版には妻の話は一切出てこなかった。原作には出てくるのだろうか。
疫病の妻を置いて、娘とパリを離れた話とその解決を入れる事で、父親のキャラクターにも深みが出た。

小さな村にガストンとその子分のル・フウが来る。ル・フウはアニメ版だとディズニーによくいる、悪役のお付きのただのおちゃらけたキャラクターである。善悪なんて考えずに、ただただガストンに従う。
けれど、実写版だと、これはもう最初からわかるのですが、ル・フウはガストンに恋をしている。だから、ガストンがベルのことを話すたびに切なそうな顔をするし、結婚しないのか?と聞かれてももごもごしていた。
このキャラクターにも深みが出ていたが、同性愛者ということで、上映されなくなった国もあるようだ。

ベルの父親が野獣の城に迷い込むシーンは、アニメ版ではルミエール(燭台)やコグスワース(時計)が結構すぐに話し始めていた。父親もあっさりと受け入れて、他の喋るティーカップなどとも仲良くなっていたが、これはアニメならではなのだろう。
実写ではそうはいかない。ルミエールたちは口をつぐみ、チップ(ティーカップ)は子供ゆえの無邪気さで話しかけてしまい、父親は大混乱して逃げ出そうとする。これが普通の反応だろう。
燭台や時計などはCGですが、アニメのようなデザインではなく実物のようになっていた。ルミエールもアニメだとろうそく部分に顔が付いているけど、実写だと燭台部分が顔でその上にろうそくが付いている。燭台の柄がぎりぎり顔に見えるようなリアリティ。なので、あからさまにCGと実写の人間の共演という雰囲気にはならなかったのも良かった。

実写の父親は驚いて外へ逃げ出したところ、城の入り口に植わっていた薔薇をベルへの土産に摘んで、盗人として野獣にとらえられる。薔薇を摘んでとらえられるというのは原作にもあるもののようだけれど、この薔薇がベルからのリクエストで、それは母親関連で…というのは原作にあるのかどうかわからない。
アニメ版ではポット夫人などときゃっきゃとおしゃべりしていたところ、野獣に見つかって不法侵入でとらえられていた。

ベルは村が田舎だからか時代なのか、本を読んでいるだけで変わっていると噂されている。これはアニメと実写で共通しているが、実写ではさらに、女の子に文字を教えていると、余計な事をするなと袋叩きに遭うシーンもあった。生きにくい。

ガストンがまた求婚するシーンで、アニメではガストンがベルの読んでいる本を水浸しにすることで彼のガサツさを描いていたが、実写だとベルの家の畑のキャベツを足で踏みつけることで描いていた。よりわかりやすい。
そのあと、ベルが“ミセス・ガストン? 冗談じゃない”みたいな歌をうたうが、その時に、スカーフだかタオルを頭に巻きつけるんですが、それがアニメにも実写にもあってとても可愛い。このような可愛い仕草をちゃんと残しているあたりに愛を感じる。

父親の代わりにベルが城に閉じ込められるが、実写では先に野獣に会っているせいか、喋るポットなどもすぐに受け入れていた。絶望にくれているときに話しかけてきたのが彼らだったからかもしれない。
また、「全員動くの?」と言ってブラシに話しかけて、「それはただのヘアブラシ」と言われていたけれど、動く家具や雑貨がアニメ版よりも少なかった。アニメ版だとヘアブラシも動く。これは、少なくする事でそれぞれのキャラクターを引き立てる役割もあったと思うけれど、アニメ版だとそれ全部が最後に人間に戻ったら大変な人数にならない?とも思った。皿一枚一枚、ほうき一本一本がすべて人間に戻ったら城に入りきらない。アニメだとティーカップもチップ以外にも兄弟がいたけれど、ラストで人間に戻るのはチップだけである。他の子供達はどうした…。この矛盾も実写版では解消されていた。
動く家具などが少なくなったせいか、人間に戻ったら何をする?と歌う曲は実写ではなくなっていた(追記:アニメの劇場公開版でも長いという理由でカットされていて、スペシャル・リミテッド・エディションのDVDやBlu-rayのみに収録らしい)。しかし、実写用にアラン・メンケンが三曲新たに書き下ろしたとのこと。

野獣の表情もアニメと実写だと違っている。表情というか、気持ちの表情への出方というか。アニメ版だと、わりと序盤から、周囲に囃し立てられて、戸惑いの表情を見せたり照れたりしていたが、実写だと周囲に対してもベルに対しても威圧的。怒鳴ってしまい、ベルが最初の晩餐に来ないのは同じだった。

そして、一人きりのベルをルミエールたちがもてなし歌う、『Be Our Guest』のシーンは、アニメとほぼ同じ雰囲気だった。ここはアニメでもまるで夢の中のようですが、忠実に表現されている。食器たちのアクアミュージカルもあった。
歌も素晴らしいが、映像の豪勢さにうっとりする。このシーンはベルがお客さんとなってショーを見ているが、映画を観ているスクリーンの外側の私たちもベルと同じ気持ちになった。

その後、魔女の薔薇を見て野獣から叱責されて、ベルが城を逃げ出して狼に襲われたところを助けてもらうまでの流れも一緒だし、野獣の姿だけれど本当は優しいということもわかって、好きになっていくのも一緒。
ただ、アニメだと野獣とベルが仲良くなっていく過程で、小鳥との戯れのシーンがある。これはなかなか実写だと難しいし、野獣に小鳥が多く止まっている様子もアニメ的なので省かれていても別にいいと思う。
雪玉を投げつけ合うシーンは実写版にもあった。ここでベルが赤いずきんをかぶっていて可愛いのですが、実写でも同じ服装になっていて可愛い。

スープの飲み方もいいシーン。ここもアニメと実写で一緒ですが、アニメの方がより細かった。野獣の姿になって、手が大きくなってしまったためにスプーンが持てず、皿に直接顔をつけてガツガツ食べていたけれど、ベルがお皿を持ってそこからすするようにしてスープを食べたらいいじゃない?と順を追って説明していた。

有名な舞踏会のシーンもアニメと同じく黄色いドレスだったけれど、実写版はタンス夫人が何か足りないわねと言って、ドレスのスカート部分に綺麗な、でも主張しすぎない柄を付けてあげていた。
また、アニメだと野獣はダンスに慣れてなさそうだったけれど、実写だと元が王子だということを尊重してちゃんと慣れていた。

村の飲み屋での『強いぞ、ガストン』も『Be Our Guest』と同じくらいショーの雰囲気が強かった。個人的にはこの二曲のシーンが好きです。少し、実写版『レ・ミゼラブル』の『宿屋の主の歌』を思い出した。あれも、ヘレナ・ボナム=カーターとサシャ・バロン・コーエンが楽しそうに歌っていた。
演じているのがルーク・エヴァンスなので、歌の中での筋肉アピールはそれほどない。後半はともかくとして、ルーク・エヴァンスがとても恰好いいので、求婚されたら少し考えたくなってしまう。

ガストンとル・フウが、野獣の城をめざすベルの父親についていくというアニメにはないシーンがある。結局、森で迷ってしまって、ガストンがいらいらして、父親を殴り、狼の餌にすると森の中に縛り付けるというひどいことをするのですが、ル・フウはガストンを止めようとする。結局、ガストンのことが好きだから従ってしまうのが切ない。けれど、ル・フウが悪役にはなりきれない部分も見える。

結局父親は、村で物乞いをしている女性に助けられる。アニメ版にはこの女性はまるまる出てこない。実写だとこの女性は実は魔女だという描写が最後に出てくるのだ。魔女はここでも姿を偽っている。アニメ版だと最初のステンドグラスの絵本の中にしか魔女は出てこないし、悪者のような描かれ方をしているけれど、その点も実写だとフォローされている。

舞踏会の後、野獣とベルが心が通ったかと思われるシーンですが、ベルは父親のことが心配だと漏らす。野獣が魔法の鏡で父親の様子を写してあげると、実写では森から戻ってきた父親が殴る蹴るの暴行を受けていて、アニメでは一人で野獣の城に向かった父親が雪の中で行き倒れている。両方とも父親がピンチだ。
ベルは慌てて城を飛び出していくが、村に着いたベルはアニメ版では最初、村にいたときの青い質素な服装である。実写だと舞踏会の黄色いドレスのままで、確かに村の中では浮くけれど、村娘の恰好だと、慌ててるわりに着替えて出てきたの?と思ってしまう。黄色いドレスのままだと、緊迫感がよりよく伝わって来る。実写ならではのリアリティだ。

また。実写版では、ベルを帰した後に野獣の歌が新たに入る。そこでなぜ王子が野獣にされるような性格になってしまったのかが明らかにされる。母がはやくに亡くなったこと、父の教育…と、幼い王子の歌から始まる。野獣の爪でずたずたにされた肖像画も、アニメ版では王子一人だったけれど、実写版だと家族三人のものになっている。
王子の過去に触れることで、説得力とともに王子のキャラクターにも深みが出た。それに、アニメ版だとベルが主役という印象だったけれど、実写版だと王子が主役にも見える。

野獣の存在が村の人々に知れ渡り、松明を持って襲撃する。
アニメでは、ガストンに「野獣はあなたのほうよ」とベルが言うけれど、実写だと、村民やガストンが襲撃を行うための勇ましい曲を歌いながら行進しているけれど、ガストンの横でル・フウが小さな声で「ここにも野獣がいる」と歌うのだ。ガストンに従って襲撃にはついていくけれど、やっていることが正しいとは思っていない。けれど、大きな声では言えない。彼の気持ちが痛いほどわかってしまう。
ル・フウはアニメだと意気揚々と、悪い顔で率先してついていっていて、気持ちなどはまったくわからない。多分、何も考えていない。

この後の城内での戦いでも、実写版ではル・フウはポット夫人と意気投合して、城側に立つ。なんとか、ガストンを止めようとしている。

アニメ版ではタンス夫人が村民の男性に女性の服を着せると悲鳴をあげて逃走するシーンがある。実写でもこのシーンはあるのだけれど、三人の男性のうち、一人は嬉しそうな顔をする。そこで、タンス夫人は「自由に生きなさい!」と言うのだ。時代に合わせたメッセージ性を感じる、素晴らしい改変である。

ガストンと野獣の対決シーンは、実写の野獣のほうが俊敏だった。ガストンはアニメが弓、実写では銃を使っていた。これも多分変更の理由があるのだと思うけれどわからなかった。

薔薇の花びらの最後の一枚が落ち、魔法は解けなくなってしまう。
実写版では、ルミエールがただの燭台に、コグスワースはただの時計に、犬も元気に跳ね回っていたのにひっくり返ってただの足置きになってしまった。さっきまで元気に話していて、動きに愛嬌があって、親しみを持っていたキャラクターたちがただの物質になってしまう。物語の結末を知っていても、とても悲しくて涙が出た。このシーンはアニメ版にはないが、自分がここまでキャラクター達を好きになっていたというのがわかるいいシーンだと思う。

実写では魔女が現れて、すべてを元に戻す。アニメ版だと王子があまり恰好良くなく、ベルも奇妙な顔をしている(わけではないのだろうが)。野獣姿のままでよかったのにと思ってしまった。
実写版ではここで初めてダン・スティーブンスの顔が拝める。ベルの顔を両手で包み込み、信じられないというような、恋に落ちている表情をしていた。

ルミエールたちも元に戻るが、実写版だと城から追い出された村民がまだその辺にいる。でも、時間的にも、村民達の襲撃とガストンと野獣の対決は同じくらいの時間に行われていたはずなので、その辺にいるのが正しいと思う。
その中にポット夫人の夫と、コグスワースの妻もいて驚いた。村民は記憶を消されていたのだろうか。

平和になった城の中でのダンスシーンが最後にあるけれど、アニメではベルと王子が踊っていて、誰だかわからない人々が多数二人を囲んでいる。わりとちゃんとした恰好をしているようだったので元に戻った執事などではないと思う。ただ、誰なのか不明だ。

実写では村民たちも一緒に踊っている。タンス夫人に女性の服装を着せてもらって本当の自分に目覚めた男性(スタンリー)とル・フウが踊っている。良かったとは思うけれど、ガストン救済がまったくなかった。もしかしたら、ガストンとル・フウが一緒になるようなラスト改変があるかと思った。また、エンドロール後におまけ映像として、もうこりごりだよーみたいなのが加えられたり?とも思ったが…。落下してそのままである。

ベルが踊りながら、「また髭を伸ばしたらいいのに」と言うので、もしかしたら実写のベルも野獣姿のほうが好きだったのかもしれない。その言葉に王子が野獣の鳴き声で答えるのがとてもおちゃめで可愛い。

実写版のエンドロールは、変身させられた姿(燭台とか野獣とか)と元の俳優さん(衣装・メイクなし)と名前が一人ずつ出て、紹介映像になっていた。こんなところまでサービス精神を感じる。
ルミエール役がユアン・マクレガーだというのをここで初めて知る。『Be Our Guest』、本当に良かったし、声優としての演技もできることに驚いた。
その他にも、ポット夫人役のエマ・トンプソンがチップではないけれどティーカップを持っていて、それだけでとてもいい。

この二人の他にも、ベル役のエマ・ワトソン、野獣役のダン・スティーブンス、ガストン役のルーク・エヴァンス、コグスワース役のイアン・マッケランと英国俳優が多く揃えられている。
劇中に出てくる本もシェイクスピアだったり、円卓の騎士だったりとイギリス寄りだ。
(ただ、野獣が読んでいたのは『アーサー&グィネヴィア』ということで、円卓の騎士関連の中でもロマンスの度合いが強いものだと思われる。野獣は「剣で戦う話だ」と慌てて弁明していたけれど、ベルは知っているようだった。野獣の慌てぶりとロマンス小説を読んでしまうあたりが可愛い)

ここまでイギリスっぽいならいっそ舞台をイギリスにしてしまえば…とも思ったけれど、それはさすがに改変できないところだろう。それに、オープニングの曲の『Bell』に“ボンジュール”と出てくる。“ハロー”だとおかしい。

アニメ版で雰囲気の良かったところと細かい良かった部分は忠実に再現し、実写として無理のあるところや矛盾のあるシーンを直し、さらに個々のキャラクターの掘り下げまで行っている。
誰もが知っている名作を、ここまでの完璧さで仕上げてくるとは思わなかった。
もちろん元々のアニメ版がベースなのだから、アニメ版の素晴らしさの上に立っているものではあるけれど、私は実写版のほうが好きになってしまった。





原題は『En mai, fais ce qu'il te plaît』。英語タイトルは『Come What May』。
2015年、フランス/ベルギー制作。日本では劇場公開されておらず、ソフト化も今の所されていないので、邦題はWOWOWが独自で考えたものだと思う。

第二次世界大戦中の話。
主人公のハンスはドイツで反ナチ運動をしていたが、ベルギー人と偽って、息子のマックスを連れてフランスへ逃げてくる。
北部のレブッキエールという小さな村で暮らしていたが、そこでドイツ人だとわかってしまい、刑務所に連れて行かれ、息子とは離ればなれに。
その状態のまま、フランスにドイツ軍が侵攻してきて、村ごと南へと避難することになる。

このように、故郷を捨てて南へ避難したフランス人が1940年には800万人いたそうだ。映画の最初に“その旅をした母と一人の少女に捧ぐ”と出る。監督のクリスチャン・カリオンは1963年フランス生まれなので、すでに戦争は終わっていたようだが、彼の母がこの800万人のうちの一人だったのだ。
母の証言なのかはわからないけれど、実際に故郷から離れて避難した人々の話を元にしているとのことなので、戦争ものでも兵士ではなく、市民中心の描写になっている。

先に避難した息子を含めた村民と、村に帰ってきたけれどもぬけの殻で後を追う父親という二つの旅が並行して描かれる。
旅とかロードムービーとかいうと呑気なもののように聞こえるが、本作はどこでドイツ軍と会うかもわからない戦時中なので、常に緊迫感がある。ただでさえ、故郷から離れていて不安があると思うのに、その上、どこから、いつ攻撃されるかもわからない状態というのはかなり厳しい。

ましてや、ハンスとマックスは親子で離ればなれになってしまっている。
マックスは父親に会えるように、場所などを記したメッセージを村の学校の黒板に残す。これが邦題のブラックボードの由来だった。

マックスは村の人々と一緒とはいえ、一人だけドイツ軍だし、父親がどうなったかわからない状態で心細かったろう。
村の人々も、金がなくなってしまい、途中の村の商店が何も売ってくれなかったので襲撃していた。それだけぎりぎりの状態だったのだろう。

途中、プロパガンダ映画を撮るためのドイツ人の集団と会っていた。村ごと逃げていたため、大荷物であったり、村の人々は不安げな表情を見せていたり。そこへ容赦なくカメラを向ける。
映画の冒頭で実際の逃げている人たちの映像が流れたが、これがおそらく、ドイツ軍がプロパガンダのために撮影したものだと思われる。

また、爆撃機に襲われることもあった。多数の戦闘機が不気味なエンジン音を響かせて空の彼方から現れるのは怖かった。兵士ではなく、市民である。無抵抗だ。その集団に、上空の安全な場所から砲弾を浴びせる。
そこで逃げたマックスははぐれてひとりきりになった。

ハンスは、残していくのはもったいないからとワインをがぶ飲みし、ワインセラーで寝過ごしたら村の人々が出発しちゃっててとり残されたというちょっと間抜けな村民と、小隊からはぐれたイギリス兵との三人で南下する。
ハンス役のアウグスト・ディールはドイツ人役だしドイツ人なのでドイツ語はもちろん、フランスに逃げてきてフランス語、それにイギリス兵と話すのに英語も話せていた。
ちなみにイギリス兵役はマシュー・リースです。

三人のうち一人が兵士なので、二人くらいのドイツ兵なら戦えたけれど、複数現れては隠れることしかできない。結局、村民も撃たれてしまう。
村の人々が通った後をハンスたちも追っていく。途中の村の黒板にもメッセージが残されていて、マックスのいじらしさが見えた。
また、最初、金がなきゃ売らないよと言っていた商店の人たちも、一度襲撃されたので、ただで持って行っていいよと怯えていた。

イギリス兵とハンスの間に友情も芽生えていた。敵はナチスというのが共通していたのもあるだろう。イギリス兵はフランスの隊と合流していた。
ハンスはひとりきりになる。

ハンスもマックスもひとりきりになってから、二人が会うのは結構あっさりしていた。もしかしたらハンスの夢で、マックスは実は死んでいるのかなとも考えてしまったがそんなことはなかった。
二人が会うところとそれ以降は、トントン拍子というかうまくいくことの連続で、案外きれいにまとまってしまった。

ドンパチはそれほどないし、大量に人が死んだりもしないけれど、さっきまで普通に喋っていた個人が簡単に撃たれてしまったり、避難とはいえ馴染んだ村の人々と旅のような道中だったのに突如戦闘機が現れて仲間が死んでしまったりと、日常の中に急に非日常が割り込んでくるのが怖かった。
それと、単純に第二次世界大戦下のフランスの一般市民がこんな暮らしをしていたというのも知ることができて、興味深かった。

ストーリーとは関係ないのですが、避難する村の市長が飼っているアヒルが、かなり表情豊かだった。飛行機の音がしたら上空を見上げたり、兵士が近寄ってきたら袋の中に隠れたり。ちょくちょく映し出されるたびに和む。一人前の登場人物でした。

ソフト化されていないため、下の画像はサントラCD。音楽は、エンニオ・モリコーネ。






原作は映画での主人公、サルーが書いたノンフィクション本。
アカデミー賞で、作品賞、デヴ・パテルが助演男優賞、ニコール・キッドマンが助演女優賞、他、脚色賞などを受賞。

以下、ネタバレです。







ノンフィクション本ということで実話です。
オーストラリア人夫妻に養子として引き取られた主人公が、Google Earthを使って家をつきとめる話だというのは、予告編などからなんとなく知っていた。サブタイトルに“ただいま”と付いているし、実話の映画化ということは、四苦八苦してもたどり着けるのだろうと思っていた。

最初に考えていたのは、主人公はオーストラリア人夫妻の元で何不自由なく暮らしているが、揚げ菓子を食べたときに、はなればなれになった家族の記憶も一緒に蘇るのかと思った。それで、Google Earthなど他の最新テクノロジーを駆使して家をつきとめる、現代ならではの人探しものなのかと思った。

けれど、実際は人探しには重点は置かれていない。
デヴ・パテルが助演男優賞ということからも、青年の彼が主役ではないのだ。

現代から始まり、人探しをして、過去の回想があって、生まれ故郷に帰るという構成なのかと思っていたら、時系列だった。

まず主人公サルーの幼い頃から映画は始まる。
インドの山奥の貧しい村である。列車に無断で乗り込み、石炭を盗んでそれを市場のおじさんに持って行き、牛乳と交換してもらうような生活だ。父親はいないようで、母親も働いている。
サルーは兄の後をついて夜の仕事(これも盗みの類だった)を手伝おうとするが、眠くなってしまう。はぐれて、電車の中で寝てしまい、1600キロ離れた場所へ一人で連れて行かれてしまう。

東京から沖縄くらいが直線距離で1600キロらしい。この距離を結ぶ列車があるのがさすが広大なインド。そして、着いた先、カルカッタはベンガル語で、ヒンドゥー語しか話せないサルーの言葉が通じない。

大都市ではあるけれど(または大都市だから)、ストリートチルドレンも多い。ただ、路上で集団で寝ていても、人攫いに狙われる。
家に連れて行ってくれた優しい女性も、悪い奴に売り飛ばそうとしていたのだろうか。はっきりとは描かれないが、あの毒々しい色のジュースと、ためしに添い寝をしてみる男性があやしすぎた。サルーも嫌な予感を感じ取ったのか逃げ出していた。
孤児院のような施設もあやしかった。職員が夜な夜な子供を物色しているようだった。当たり前だけれど、子供はどこに行っても狙われる弱い存在なのだ。

サルーはおそらくそれほど孤児院にも長くはいなかったのだと思う。職員からの暴行も受けていないと思う。描写がないだけで本当はどうだったのかわからないが。

ほどなくオーストラリア人夫妻の元へと養子に引き取られていた。サルー自体が素直でいい子のようで、1年後に同じく養子として引き取られたマントッシュは難しいところもありそうだった。
しかし、おそらくマントッシュのような子供の方が多いのではないかと思う。サルーは迷子にはなったけれど、運良く他人から危害を加えられるようなことはなかったのではないか。マントッシュはきっともっと酷い目に遭っていたのではないかと思う。マントッシュは大人になっても稼いだ金をドラッグ代に使ってしまっていたようだ。

オーストラリア人夫妻は、自分の子供を作ることもできたけれど、貧しい子供を養子として育てて助けていたのだ。
ニコール・キッドマン演じるスーが過去の話をするシーンは泣けた。彼女にもつらい過去があった。悩んで、でも優しく接して。まるで聖母のようだった。実際のマントッシュが現在どうなっているかわからないけれど、スーのことも考えてあげてほしい。

観る前は、サルーは過去のことなど忘れてしまっているのかなと思っていたが、全部おぼえている。暮らしていたことも、迷子になった夜も、カルカッタで一人彷徨った日々も。彷徨った日々は死ぬほど怖かったはずだが、それよりも、自分のことを探しているであろう母と兄のことを考えるのが優しい。もちろん自分も会いたかったのだろうとは思うけれど。

サルーは、大学の仲間からGoogle Earthを使ったら?というアイディアを聞いてから、まるでとりつかれたかのようにそのことしか考えられなくなっていたようだ。
それでも、血眼になって生家をさがしているのをスーには言えないのもまた優しい。

結局、家が見つかって訪ねて行くのだが、幼少期からこの村にいなかったとはいえ、デヴ・パテルだけ異質すぎた。暮らしぶりが違ければ筋肉のつき方や身長の伸び方も変わるのだとは思うけれど、それにしても、他の村民と比べるとこの村出身とは思えないオーラになってしまっていた。仕方ないとは思いますが。

母とは再会できても兄はサルーが迷子になったその日に列車に轢かれて亡くなったらしい。母は一晩に二人の子供と離れることになったのだ。しかし、兄については亡くなったことがわかってもサルーは行方がわからなかったからだろう。戻ってくるのを信じて引っ越していなかったというのが泣ける。25年である。ずっと待っていたのだ。

サルーを演じる子役とはもちろん別人ですが、デヴ・パテルはちゃんと幼い頃の魂そのままに演じていたと思う。『ムーンライト』のシャロンもそうだったけれど、演じているのは違う俳優さんでもちゃんと一人の人物に見えるのが素晴らしい。

デヴ・パテルは助演男優賞だからそりゃそうなのだが、半分くらいはサルーの幼い頃の話だった。過去パートは映画を観る前は回想で少しの時間しか割かないのではないかと思っていた。

しかし、この映画の主題は、Google Earthがあってよかった!というところではないのだ。もちろん、列車の速度や微かな記憶を辿ってそれらしい場所を見つけられたのだから、あってよかったことはよかったのだけれど。

それよりも、インドで行方不明になる子供が現在でも8万人もいるという現状である。前半はドキュメンタリーのようなリアルな描写だった。ただ、決して80年代はこうでしたという話ではない。ストリートチルドレンがあんなにいることも知らなかった。

予告編だとテクノロジー万歳という話かと思っていたが、問題提起の部分がずっと大きい。サルーはとても運がよかっただけで、一歩間違えばどうなっていたかわからない。

自分の住んでいた村の名前を言い間違えていただけでなく、自分の名前すらも言い間違えていた。それだけ幼ない子供が迷子になってしまったのだ。無事に母にも再会できて本当によかった。

ラストで、サルーの本当の名前が明かされて、その意味が“LION”と出て、タイトルはそれだったか!と驚いた。予想外でした。



1996年公開『トレインスポッティング』の続編である。キャストはそのままなので、年をとっていて、映画の中でも現実と同じく20年経過している。

前作は若気のいたりというか、若いからこそ許されるようなダメダメ人間たちの話だったけれど、おっさんになった彼らはどうなっているのか。

前作の遺恨に決着をつける話でもあると思うので、絶対に前作は観ておいたほうがいいです。

以下、ネタバレです。










洗濯機、大きなテレビ、CDプレイヤー、車、クリスマスを一緒に過ごす家族…いろいろなものを自分で選べというモノローグで始まる前作。
自分で選べる自由な未来を手に入れろということだ。選べることは幸福で貧困層ではこうはいかない。

けれど、そんなことわかっちゃいるけど、そんな退屈な人生よりも、今が楽しいからドラッグがやめられない。やっとやめられたと思って、普通の仕事していても、昔の仲間が台無しにしにくる。

こんな生活もういやだと思ったマークが、悪巧みで得た金を一人で持ち逃げし、ここからスタートだ!というある種の希望のようなものに満ちたエンディングだったのが前作だ。

ドラッグ表現や禁断症状からの悪夢が音楽と相まって革新的な映像を作り出していた。まるで、ビデオクリップのようでもあった。

20年後、マークは未来を選べたのか。本作はその回答でもある。ただまあ、平穏無事な生活を送っていたら、映画にはなりませんよね。

マークはスポーツクラブのランニングマシーンで走っている。スポーツクラブに通う金と健康があるということは、ドラッグまみれだった20年前からは考えられない。20年前には金も健康もなかっただろう。

ああ、持ち逃げした金ではあるけれど、うまいことやっているのだなと思った。一方、持ち逃げされた三人だが、ベグビーは刑務所、サイモン(シック・ボーイ)はパブを切り盛りしているが、ゆすりのようなことをして生計をたてていて、スパッドは相変わらずのドラッグ中毒、妻(ゲイルと結婚していた!)と子供に逃げられている。

三人はまだエジンバラに暮らしていて、マークが20年ぶりに帰郷する。

サイモンは当然怒っている。20年間をめちゃくちゃにされたと言っていた。そりゃそうだ。今更お金だけ返されても時間は戻らない。けれど、幼馴染だから結局すぐに仲直りしていた。
マークもマークで、離婚したとか子供は実はいないとかは最初は嘘なのかと思った。またサイモンのことを陥れようとしているのかと思ったが、結局最後までどんでん返しみたいなものはなかったので本当だったらしい。それに、最初にランニングマシーン中に気絶していたのは心臓の病気だったらしい。これも嘘なのかと思った。

前作でスパッドにだけお金を残してあげていたが、スパッドはそれをドラッグに使ってしまったらしい。けれど、本作ではそこから抜け出そうとする。
マークに夢中になれることを見つけろと言われていた。サイモンの店のリフォームを手伝っていた時に生き生きしていたので、それかと思ったけれど、違った。でも、元の職場の仲間なのか、建築業の方々が集まってきていて、やっぱりスパッドはいい奴なのだと思った。
本作ではいい奴度がさらに強まっていて、おっさん相手に何を言っているんだという感じですが、キュートでもあった。
ここまでズルズルとドラッグに流されていたけれど、本当に我慢強く乗り越えるために、文章を書いていたというのが良かった。

懐かしい顔としてはダイアンも出てくる。字幕では名前が出てこなかったけれど、面影があったし、会話から間違いない。マークと一緒にいたベロニカのことを「あの子は若すぎるわ」ってどの口が言うのか。それでも、ちゃんと弁護士になっているあたりがしっかりしている。理想の20年後といった感じだ。もちろん彼女自身の努力もあったとは思うけれど、家がしっかりしていたのかもしれない。

相変わらずといえば相変わらずなのがベグビーで、刑務所を脱走してしまう。マークが金を持ち逃げしたことに、サイモン以上に怒っていたのはベグビーである。ただでさえ血の気が多い彼は脱走したあとも悪いことを繰り返す。

マークとサイモンが相変わらず姑息な悪事を働く裏で、映画を観ている私たちだけはラスボスのようなベグビーが刑務所から逃げてることを知っていて、いつ遭遇するのだろうとハラハラする。
そして、ベグビーとマークが会うのがクラブのトイレの個室というのがおもしろかった。隣り合わせの個室で軽口を叩いて、おや?みたいな顔をしていた。
そのあと、殺さんばかりの勢いでベグビーはマークを追いかけるけれど、20年ぶりの出会いがコミカルなものだったし、なんとなく本当に殺すまではいかないのだろうと思った。
地下駐車場で、助けを求めた車から流れているのがフランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドの『リラックス』なのも、追いかけたあとのベグビーがバイアグラを飲んでいたとはいえ勃起しているのも可笑しかった。

最後のバトル時に、マークとベグビーが二人とも子供の姿になっていた。前作を見ていたら20年前の姿は知っていても、そんな小さな頃は知らない。私たちの知らない絆が彼らにはある。だから、コードに首をつられて苦しそうにしているマークの下から足を抱きしめて、こっちへ来いというようなことを言っている姿は、殺そうとしているにも関わらず切なかった。

ベグビーは最初、息子に拒絶されて、怒っていた。けれど、スパッドの書いた文章を読んで、自分がこうなってしまったのは父親のせいだと考える。そこで、自分はダメだったけれど、息子には未来を選んでほしいと伝えていた。
イギリスでよく言われている話として、“労働者階級から抜け出すためにはサッカー選手かロックスターになれ”というものがある。現在はどうなのだろう。少なくとも、ベグビーたちが20代の頃はそれがまだ生きていた。
ベグビーの息子が大学へ行けたのは、ベグビーが刑務所に入っていたからだというのも皮肉だが。

ベグビーは、どうせもうダメな人生なのだし、せめてお前(マーク)を殺して俺も死ぬ覚悟というだったのだと思う。歪んではいるけれど、これも、友達ゆえの考え方なのだと思う。裏切られたことが悲しかったのだろう。

結局、ベグビーも死なず(死んでしまってスパッドが殺人罪に問われたらどうしようかと思った)、三人の誰も死なない。原作のアーヴィン・ウェルシュかダニー・ボイルの良心だろうか。

2、3年後ではなく、20年後なのがいいと思う。十年一昔とかとんでもない。20年経ったら取り返しがつかない。台無しにされたことは重みとなってのしかかる。20代と40代では選べる未来の選択肢の数が違う。
だからこそ、マークはベロニカに説教めいたことを言ったのだろう。そして、ベロニカはあの時のマークのように金を持ち逃げする。ただ、持ち逃げとは言っても、うっかり儲けたみたいな金だし、その融資先のサウナも建てることはできなくなってしまったので、ベグビーのように烈火のごとく怒って追いかけてくる人もいない。

スパッドが街の風景を見て、20年前、マークと一緒に捕まったことを思い出すシーンがある。その他にも、『Born Slippy』のイントロや一部分がちょろっと流れるシーンがあって、映画の登場人物だけでなく、私の気持ちも一気に過去に戻る。音楽にはその力がある。

ダニー・ボイルは音楽を効果的に使う監督だけれど、特に『トレインスポッティング』ではそれが顕著に表れていた。

マークは帰郷し、実家へ戻ると母親は亡くなっているけれど、部屋はそのまま残してある。印象的な列車の壁紙もそのままだ。映画の序盤で、彼は自分のレコードを懐かしそうに見て、針を落とそうとするが、一瞬だけ音を出してすぐに針を上げる。
聴いてしまうと、気持ちがあの時代に戻ってしまうから聴けなかったのだろう。戻りたくなかったのだ。

しかしラスト、マークはもう一度実家に帰り、父親をハグし、部屋へ行く。改めて、序盤に聴くことができなかったレコードに針を落とす。流れ出すのはイギー・ポップの『Lust For Life』(本作ではプロディジーリミックスらしい)。これは前作のオープニングで流れる曲である。
前作ではこの曲を聴いて、ドラッグをやったマークが恍惚とした表情で体を反らして倒れこむ。本作でも同じ表情をするが、倒れこむことはなく、曲を聴いて踊るのだ。
聴くことができたことがまず変わったことだと思うが、それに加えて、聴いたあとの行動も変化した。
前作のオープニングと本作のエンディングが繋がって輪になった。続編として一番好きな形である。はやく二枚組のブルーレイを出してほしい。

20年。それでも、根っこの部分は変わらない。サッカーの試合を見て、マークとサイモンがぎゃーすぎゃーす話していたのが可愛かった。多分ずっと変わらない。

マークとサイモンが相変わらずバカやっていて、ベグビーが相変わらず大暴れしていて、その裏でスパッドはドラッグを断ち切るために必死で文章を書いていた。
過去の自分たちについて書いていて、その文章をラストでゲイルに見せる。「タイトルが決まったわ」って、あーそれこそが『トレインスポッティング』なのだ。原作が小説だからこそできるメタ構造が楽しかった。
前作が鑑賞済みであることは必須条件になってしまうけれど、続編としては満点だと思う。二作まとめて大好きです。




2016年公開。ドイツで2014年に公開された後、アメリカでは2015年にDVDが出たそうなので公開は2014年だろうか。

邦題の『人生は小説よりも奇なり』というほどとんでもなくドラマチックだったり意外性のあることは起こらない。原題の『LOVE IS STRANGE』のほうがとぼけた風合いでさらっとしていていいと思う。

合法化を受けて、39年連れ添った熟年同性カップルのベンとジョージが結婚をする。普通だったら、いろいろあって結婚するまでを描く話になりそうなものだが、この映画は結婚式から話が始まる。

ただ、同性と結婚をしたことで、仕事を辞めさせられてしまい、家賃が払えなくなる。39年連れ添って、晴れて結婚できたのに、家を失い、彼らは親戚の家へばらばらに居候することになってしまう。

ベンの家には女流小説家がいて、昼間も家で仕事をしている。ベンがどんどん話しかけて、小説家はストレスがたまってしまう。ベンに悪気がないのもわかるし、夫の親戚なので怒ることもできない。
この女流小説家役が新生スパイダーマンのセクシーメイおばさんのマリサ・トメイだった。邦題に小説とあるので、彼女が二人のことを小説に書くのかなとも思ったが、そんなベタな展開はなかった。

ジョージが居候する家では毎晩パーティーである。家主であれば寝室にこもって寝てしまえばいいが、ソファで寝ているため、パーティーが終わるのを待つしかない。
そのパーティーで若いゲイの青年とジョージが知り合うが、別に浮気などもない。

別にベンとジョージには最後まで愛の危機は訪れない。ずっと愛し合ったままだ。ベンが居候している家の少年の小さなベッドで「君と寝るのが恋しい」と言っていたシーンが切なかった。ただ愛し合っているというだけではうまくいかない。

この映画は同性愛者が主人公ではあるけれど、いわゆる同性愛ものとも違うと思う。もちろん、合法化がはやければ、老年期に入る前に結婚できたし、そうしたら、例え仕事をクビになっても新しい仕事がすぐに見つかったかもしれない。同性愛者でなければ、結婚もすぐにしたかもしれないし、仕事をクビになることもなかった。かといって、差別反対!ということを全面に出している映画でもない。

ドラマチックな展開はなくても、二人が愛し合ったこれまでの時間を感じることができるし、今も愛し合っているのが十分にわかる。

絵の個展の話をして別れた夜、なんとなくこの後ベンは亡くなってしまうのだろうという予感はあった。意外性はない。だから、泣かせにくるような演出もない。でも、やはり、新居に一人で佇んでいるジョージの姿は悲しい。やっと新居が見つかっても、一緒に住むことはなかったのではないかと思う。

ジョージの元にベンが居候していた家の少年が訪ねてくる。ベンが描いた絵を持ってくるが、そこには彼の友人が描かれている。両親に怒られていたし、たぶん少年はその友人とはもう会うことはできなくなってしまっただろう。でも、今でも思い出として心に残っているはずだし、おそらく彼にとってはベンも、その友人と同じ引き出しに入っているのではないだろうか。
好きとか嫌いとかではない強烈な印象を残す人物として。そしてもう、彼らには会えない。

少年はベンの葬式に行けなかったらしいので、ジョージに絵を渡すことが、弔いの代わりだったのだと思う。

少年は、旅行先で女の子のことを好きになったけれど挨拶すらできなかったとベンに話していた。少年はベンから後悔のないように人生を楽しめという教訓めいたものを得たのだと思う。

ジョージの家を訪ねた少年は、少女と待ち合わせをしていた。もしかしたらあの日に挨拶もできなかった女の子かもしれないし、別人かもしれない。でも、両親も息子に友達ができないと悩んでいるくらいだったけれど、ちゃんと人付き合いをしている。大切な人を見つけられたのだ。

少年と少女が夕日の差す道路をスケボーに乗っているのがラストシーンで、それは穏やかでとても優しい。じんわりとしたあたたかさが胸に広がる。
ジョージとベンが、愛し合って結婚をしたにも関わらず一緒に住めないまま一方が亡くなってしまうというのは悲しいことだ。けれど、別に後味が悪さややきもきした気持ちは残らない。残るのは、爽やかな感動だけだ。





なんと、2001年公開『ズーランダー』の15年ぶりの続編。アメリカでは2016年に公開されたものの、日本ではビデオスルーになってしまった。

ベン・スティラー監督・主演、ストーリーもまあ一応、『ズーランダー』のラスト以降の話ではあるけれど、話がまったくわからないということはない。というか、知っていたけれど、こんなことでいいのかというくらいにくだらない。だから特に復習したり、観ておいたりはしなくていいと思う。

ただ今回もくだらなすぎて、おもしろいんだかなんだかもわからない。ラスト付近のバトルもいい加減で、特に盛り上がるということもない。

親子愛は結構良かったけれど、どうなっちゃうの?みたいなハラハラ感はまったくなく、ムガトゥの最終兵器もキメ顔で止めてしまう。こんなのでいいの?
その前にキメ顔が失敗してナイフが顔にさっくり刺さってしまったが、痛い痛いとは言っていたけれど、あっさり引き抜いていたし、すべて解決のあと、「溶岩パーティーだー!イエーイ!」と足元の溶岩に飛び込んでいた。しかもその効果で顔の傷も消えるとか、まるでルーニー・テューンズか何かのカートゥーンの世界である。

ただ、監督・主演のベン・スティラーは相変わらずノリノリである。オーウェン・ウィルソンもメインキャラだし相当楽しんでる。

今回はペネロペ・クルスもメインキャラですが、度重なる巨乳アピールに水着姿まで披露。後ろに回ったデレクに「胸につかまってて!」と言っていて、サービス精神旺盛だし、ベン・スティラーがずるい。
泥だらけになりながら胸でずさーっと滑り込む姿を見ていたら、なんか、ペネロペが好きになってきた。

今回もカメオ多数です。
一瞬だけですが、スーザン・サランドンが『ロッキー・ホラー・ショー』の『タッチ・ミー』のサビ、"♪Toucha-Toucha-Touch Me〜"を歌ったので度肝を抜かれた。

終盤のKKKのような秘密の暗黒ファッション会合(何を書いているかわからないけどこうとしか言えない何か。インターポールのファッション課というのも出てくる)には、マーク・ジェイコブズやトミー・ヒルフィガーなどファッション業界の重鎮たちやVOGUEの編集長アナ・ウィンターも登場。演技が案外うまいのもおもしろい。

スティングが意外と重要な役で出ていたりもする。メインキャラのクリステン・ウィグはドラァグクイーンのようなメイクで誰だかわからなかった。

ベネディクト・カンバーバッチは女装というか、性別がないオールという役で出ていた。自分と結婚したらしい。綺麗とか醜いとかではなく、宇宙人のような感じでステージで空を飛んでいた。マリリン・マンソンにも見えた。
吹き替えが、いつものベネディクト・カンバーバッチの三上哲さんなのが気になる。

乱交の末、複数の女性がハンセルの子供を妊娠するんですが、その中にキーファー・サザーランドも。
慌てたハンセルは「ラクダの様子を見てくる!」と言って家の外へ飛び出していくんですが、その時に取り残されたキーファー・サザーランドの気持ちの整理がつかないような、喜んでくれると思ったのにそうではなかったのがわかった切ないような泣きそうな表情の演技が無駄にうまくて笑った。
最後では「流産したんだ…」と言って、寂しそうに笑っていたが、それもうまいハンセルは「それでも家族なのは変わらないじゃないか!」と言って抱きしめる。
ちなみにキーファー・サザーランドの吹き替えもおなじみの小山力也さんでした。
吹き替えでも観たい…。

カメオは多数出てきたけれど、特にこの二人について、本当に何やってるの?というか、何やらされてるの?という感じが強かった。
多分、すごくいい人たちなんだろうと思って、俳優さんたち自身が好きになってしまった。
ストーリーやギャグよりはカメオに注目して観たほうが楽しめるかもしれない。

序盤の隠居生活を送るデレクが借りたDVDが『エージェント:ライアン』と『アウトロー』で、デレクが「二回シコれるな!」と言うんですが、この意味がわからなかった。トム・クルーズが好きなのかなとも思ったけれど、『エージェント:ライアン』はクリス・パインだった。
じゃあなんなのだろうと思ったら、『エージェント:ライアン』の原題が『Jack Ryan: Shadow Recruit』、『アウトロー』が『Jack Reacher』で、Jack offがマスターべーションをするという俗語らしい。
こんな小ネタがちりばめられていたのだとしたら、字幕ではわからない。というか、わかったところでくだらないのはくだらないですが。

ただ、世間で酷評されているよりは悪い作品ではないと思った。





2016年公開。韓国では2015年公開。原作はウェブ漫画とのこと。

『マグニフィセント・セブン』のイ・ビョンホンが良かったので、彼出演のハリウッド作は観たのですが、韓国映画は初めて。
韓国映画自体も観ないため、監督やイ・ビョンホン以外のキャストもわかりません。

また、韓国映画に慣れていないので、韓国語が聞き慣れないのと、名前が一文字(オ会長とか)なのに違和感があって、途中まで登場人物があまりよくわからなかった。
陰謀ものなので、誰と誰が裏で組んでて…というのが話だけで出てきた場合に、え?それって誰だっけ?となってしまった。なので、序盤は観にくかったです。
映画館ではなかったので、わかりにくいなら、自分で名前と特徴のメモを取れば良かった。
前に、他の韓国映画を観たときには名前だけでなく顔の区別もつかなかったのだけれど、今回は全員濃かったり薄かったりと特徴があって、わかりやすかった。

要は悪い奴が三人いる。財閥系の自動車の会社の会長(オ)、大統領になることを狙う議員(チャン)、新聞社の上層部(多分)(イ)が結託している。

イとつながりをもっていたゴロツキのサングは、イに裏切られたため復讐しようとする。一方で検事ジャンフンも、この三人を怪しんでいて別方面から追う。

ゴロツキと検事なので、出会いも最悪なんですが、結局目的が一緒だとわかったときに、サングとジャンフンは手を組む。
これが映画中盤くらい、一時間経ったくらいなんですが、ここからがおもしろかった。要は悪い奴が三人…というような人物関係がわかってきたのもこの辺である。

サングが家の屋上でラーメンみたいなものを食べているのですが、片手が切り落とされているせいもあるのかもしれないが、がっつくような食べ方ですごくおいしそう。

ジャンフンの実家(田舎で綺麗な家ではないけれど、本棚がたくさんあって、美術的にもみどころがある)の軒先で、焼肉鍋?(ジンギスカン鍋のような形)を囲むシーンも良かった。焼肉と、野菜(緑の唐辛子の大きいもの?)を味噌につけて食べていた。チャミスルフレッシュの緑の細い瓶が置いてあるのもいい。おいしそうだし、韓国料理を食べに行きたくなった。ここでもサングの食べ方がとてもおいしそうだった。
また、屋上もここでも、野外で食べているのがよりおいしそう。

しかし、それ以外に、少し前まで敵同士とは言わないまでも、ゴロツキと検事という何のつながりもなかった二人が、目的を同じにするとはいえ、急速に関係を深めた様子がこの食事シーンからよくわかった。
鍋を真ん中にはさんで向かい合って食事をするというのは、親しくないとできないことである。

屋上でラーメンを食べているシーンでも、サングは部下に「食うか?」と言っていた。食事が親しさの証である。
ラストでも、ジャンフンがサングを食事に誘っていた。

映画はサングの記者会見のシーンから始まるので、それがラストかと思っていた。しかし、話が進んで冒頭の記者会見は出てくるけれど、それは失敗してしまう。
ここから、ジェットコースターのように話が進んで行く。登場人物たちの本心が見えなくなってくる。

サングは刑務所の中、身動きがとれない。ジャンフンも検事とはいえ、上昇志向が高そうだし、清廉潔白という感じではなかったから…と思っていたら。

ラストがどんでん返しというか、爽快感あふれるものだった。
盛り上がる音楽と、ゆっくりとスローで入ってくる車。ここまで観ていれば最後まで言われなくてもその車から出てくるのが誰かはわかる。でも、はやく見せてほしい。映像はスローだし、観ている側の気持ちは盛り上がるしで、それが最高潮になったときに、車からジャンフンが出てくる。
なるほど、だからインサイダー“ズ”、内部者“たち”。でも、英題はInside Menなので、ちょっとネタバレでもあるのかな。

ジャンフンが出てくるというのが答えで、それを見せて終わりかと思ったけれど、回想映像を交えながら、すべてをちゃんと説明してくれる。わかりやすいし、悪が成敗されてスカッとする。
また、サングが刑務所を出た後だからか、半年後にはなるけれど打ち上げがあるのもいい。

悪の三人がしていた接待が本当に酷い。全員裸で、女の人が一人につき二人ずつくらいついていて、口で大きくしてもらった男性器で酒のグラスを倒してゴルフをするという…。ちょっと見たことがないほどおぞましかった。韓国の政治事情とかウラみたいなものもわからないけれど、本当にあったりするのだろうか。創作にしても、よく考えたなと思う。

イ・ビョンホン演じるサングは、ゴロツキだしちゃらちゃらしているようでいて、強い芯を感じた。髪が長くて派手な服を着ている姿も良かったけれど、髪を切り、スーツでびしっとキメるとえらく恰好良くなるあたりもたまらなかったです。

あと、おそらく韓国映画の中ではぬるいのだとは思うけれど、血が結構出ます。『マグニフィセント・セブン』が、西部劇だからそりゃそうだけど人が大勢死ぬわりにまったく血が出ないので、本作では返り血を浴びたイ・ビョンホンが見られる。






アカデミー賞作品賞受賞。その他、アカデミー賞では脚色賞、マハーシャラ・アリが助演男優賞を受賞しています。
戯曲が元になっているとのこと。その戯曲の作者タレル・アルバン・マクレイニーと本作の監督であるバリー・ジェンキンスが偶然同じ公営住宅出身で、似た環境で育ったとのこと。
そして、その環境が、この『ムーンライト』の主人公シャロンに似ているらしい。

以下、ネタバレです。










シャロンは母親が麻薬中毒者である。マクレイニーもジェンキンスも同じだったらしいのだ。また、映画の舞台になっているのもこの公営住宅らしい。
同じ公営住宅で同じように麻薬中毒者なんてことあるの?と思ったけれど、要するに治安の悪い場所なのだろう。だから、シャロンのような、マクレイニーのような、ジェンキンスのような子供は珍しくはないのだと思う。

映画は三章に分かれている。
シャロンという一人の人物に焦点を当てて、シャロンが子供の頃、シャロンが10代の頃、シャロンが大人になってからという分け方だ。あとから調べたところ、一章は10歳、二章は16歳、三章は三十代前半らしい。

一章はシャロンがマハーシャラ・アリ演じるフアンという男性に会う。ナオミ・ハリス演じる母親が麻薬中毒でシャロンのことをないがしろにする。学校ではいじめられる。そんな中、フアンと、フアンと一緒に住む女性テレサだけがシャロンとちゃんと向き合っていた。
学校と家、どちらにも居場所がなかったら、一体どこにいたらいいのだろう。おまけに自分のセクシャリティについても悩んでいる。
そんなシャロンの横で、非難するでも必要以上に鼓舞するでもなく、フアンは寄り添っていた。

ただ、この地域に住む大人ということで、フアンも売人である。しかも、フアンの売った麻薬をシャロンの母親が買っていたということもわかってしまう。もう地獄のような状況である。しかも、そこで一章は終わる。

二章になるとシャロンは少し成長している。具体的に何年後とは出ないけれど、6年後だったらしい。成長といっても、体は大きくなっていてもうつむき加減なのは変わらない。いじめられているのも変わらない。
あと、母親が全然変わっていない。シャロンに金をせびるなど、余計にひどくなっていってる。メイクのせいもあるけれど、年をとりつつ、中毒状況や生活の荒み方が演技からよくわかった。ナオミ・ハリスも助演女優賞にノミネートされていただけあってさすが。

また、フアンの家にはテレサしかいない。
最初には何の説明もされないが、観ていくうちにどうやら死んだことがわかる。死因や死んだシーンの回想などもないけれど、年齢的にも老衰ではないし、病気というよりはトラブルに巻き込まれたのだろうと思う。
一章の最後で、シャロンは自分の母親に麻薬を売っていたのがフアンだとわかってショックを受けているようにも見えたから、そこで関係を絶ってしまったのかなとも思ったけれど、まだ続いていたようでよかったとは思った。
ただ、おそらく、シャロンは居場所がないままなのだ。だから、フアンに、フアンがいなくなってもテレサに頼らざるをえない。厳しい状況が説明のないまま伝わってくる。伝わってくるというか感じられるというか。無駄な説明が省いてあってスマートな作りになっている。

セリフも、シャロンが寡黙で、シャロン中心の話だから極力少ない。シャロン中心ではあっても、シャロン目線というわけではないからモノローグもない。カメラや監督の視線は、ただ優しく、シャロンのそばに寄り添っている。まるでフアンとテレサのようだ。

一章でフアンが、“黒人の肌は月明かりに照らされるとブルーに光る”という話をする。それをふまえると、二章でのケヴィンとシャロンの海岸のシーンがさらに美しく幻想的に見える。
ここだけではなく、夜のシーンでの光の当て方が特殊なのだと思うけれど、夜に紛れがちな黒人の肌を艶やかに浮かび上がらせていた。ここまで美しい撮り方は初めて見ました。

砂浜でケヴィンもキスに答えるけれど、おそらく恋愛感情はない。けれど、他の人がいじめるなか、シャロンと仲良くしている。子供の中ではシャロンが唯一心を許す相手だったと思う。
10代も後半になると、いじめも更に暴力的になり、誰もが逆らえないいじめの中心人物も親すら口出しできない何かになる。
いじめの中心人物はケヴィンとシャロンが仲がいいことを知っていたのだろうか? 隠れて話をしていたようなので知らなかったのかもしれないが、ケヴィンは命令されてシャロンを殴る。
立ち上がってくるな!というケヴィンの声が悲痛だった。立ち上がらなければ殴られないで済むのに、シャロンは何度も立ち上がって、ケヴィンは何度も殴ることになる。見ていて本当につらかった。

二章は、シャロンがいじめの中心人物を椅子で殴り、逮捕されるところで終わる。シャロン自身の痛みなどによる怒りはあるだろうけれど、それよりもケヴィンにあんなことをやらせたのが許せなかったのだと思う。今まで我慢をしていたけれど、ついにブチ切れたという具合だろう。

三章ですが。ここで、シャロンはとてもシャロンとは思えない姿になっている。本当のところ、最初はこれがシャロン?じゃないよね?と思いながら観ていた。一章、二章では細かったシャロンが筋骨隆々になっている。しかも、どうやら、フアンと同じ、麻薬の売人になっている。フアンのようなバンダナをしていて光るピアスをつけていたのは、彼になろうとしていたのだろうか。

二章から三章も何年後という表示は特にないけれど、おそらく15年くらい経っている。椅子で殴ったいじめの中心人物のことをもしかしたら殺してしまったのだろうか。何年間かは刑務所に入ったようである。刑務所の仲間からこの仕事を斡旋されたと言っていた。

筋トレをしているシーンもあった。体を見ればわかるが、だいぶ鍛えたらしい。もう自衛するしかないと思ったのだろう。そして、この姿になってからは人から虐げられることもなくなったと思う。

けれど、だからつらいことがなくなったかというとそういうわけではない。シャロンがこんな姿にならなくてはいけなかったその過程を思うと本当につらい。もちろん一章、二章もつらい面があるけれど、二章と三章の間の描かれていない部分が一番つらかった。想像する余地がありすぎたからかもしれない。

母親はというと、麻薬中毒患者の厚生施設に入ったようだ。ここもナオミ・ハリスが演じているが、一章二章では険しい顔をしていたが、一気に憑き物が落ちたような顔になっていた。やっと母親の表情になっていた。
ただ、謝られても今更でしょう…という気持ちにしかならなかった。過ぎた時間は帰ってこない。
「子供の頃に愛を与えなかったから、私のことを愛してくれなくてもいい」と言うセリフもつらかった。
それより何より、小さくなってしまった母親と、筋骨隆々にならざるを得なかったシャロンが並んでいる様子がつらい。

ケヴィンからも久々に電話がかかってくる。このあと、シャロンはケヴィンに会いに行くが、元の戯曲だと、三章は電話だけらしいので、映画ならではの膨らませ方をしているらしい。それで脚色賞をとったのだろうと思う。

筋骨隆々のマッチョな人物は、自分に自身があるイメージがある。シャロンはブラックとして仕事をしているときには強そうだったけれど、母親やケヴィンの前だと顔がうつむき加減でまさにシャロンのままだった。似ている人物が演じているわけではないけれど、魂はシャロンなのがよくわかる。
特にラスト、ケヴィンにおそるおそる想いを告白するシーンがよかった。切なさを感じたということは、外見が変わってもシャロンであると感じることができたということだ。ずっと描いているわけではなくても30数年間の気持ちがちゃんと伝わってきた。
演じているのはトレヴァンテ・ローズ。もともと陸上の短距離の選手だったらしい。

ケヴィンが働いている食堂に白人のお客さんがいて、これがこの映画で初めて出てきた白人だと思った。
なんとなく白人が黒人につらくあたることで差別を描いたりすることが多いと思うが、この映画ではあえて白人を出さない。それでも、過酷な状況がよくわかる。
むしろ、黒人のみのコミュニティとその中のシャロン一人にスポットライトをあてることで、伝わってくることが多かった。すごく近くで、一人の人生を見てきたような気持ちになった。





クリス・マッケイ監督。『LEGO ムービー』では編集をしていたらしい。

『LEGO ムービー』で度肝を抜かれたため、フィル・ロード&クリストファー・ミラーが監督でないのは残念。
ストーリー自体もつながっているわけではない。だから、別に『LEGO ムービー』を観ていなくても、本作だけで楽しめる。

けれど、根底に流れるものが同じなので、もしも本作を面白いと思ったならば、『LEGO ムービー』を後からでも観てみるとなるほどと思う面があるはずだ。

イギリスの古典『高慢と偏見』にゾンビを加えたら?というとんでもパロディがベストセラーになった『高慢と偏見とゾンビ』の作者セス・グラハム=スミスの名前が脚本と原案にあるのも驚く。

以下、ネタバレです。
『LEGO ムービー』と『ダークナイト』と『ダークナイト ライジング』についてのネタバレも含みます。











吹き替えは小島よしおが中心人物を担当していて、しかも持ちネタを入れてくるというので(別に小島よしおのせいではないけれど)許せないと思って字幕で観ました。

キャストは、ロビン役にマイケル・セラ、ジョーカー役にザック・ガリフィアナキス、前作から続投でスーパーマン役にチャニング・テイタム、グリーンランタン役にジョナ・ヒルとなかなか豪華。バットマン役のウィル・アーネットも続投です。

ただ、小ネタが満載で、わりとちゃかちゃかと画面が展開する部分が多いため、字幕を読んでいると拾いきれない。

歴代のバットマンのポスターとかメインヴィジュアルをレゴで模した画像があって、すごくよくできていそうだったのに、ちゃんと観られなかった。ソフト化された際には一時停止しながら観たいです。

それに小島よしおがそれほど悪くないらしいという話も聞いたので、ならば字幕版ではなく吹き替えでもいいのかもしれない。
ちなみに、もう一つのお笑い芸人、おかずクラブのほうが気になってしまうらしいが、私はおかずクラブを知らないから声を聞いても顔が浮かばないし気にならなそう。それに、ロビンほどメインのキャラクターでは無い。

バットマンについてはクリストファー・ノーラン版しかほとんどわからない。
『ダークナイト』では、ブルースはアルフレッドに引退をしたらどうかと言われていた。彼自身も引退をして、あとは新市長であるハービー・デントにゴッサムを託し、レイチェルとの結婚を考える。

本当のバットマンとかブルース・ウェインというキャラがどうなのかはわからないけれど、自警団をしつつ、素の姿、ブルースに戻ると一人きりというのは共通しているのではないだろうか。両親を幼い頃に亡くしているのは変わらないだろうし。
本作のブルースは一人きりの部分が強められていて、極度のさみしがりやである。しかし一人でも大丈夫!と強がる面もあったりと、かなり面倒臭い性格になっている。

そんな彼に絡んでいくのが孤児院の子供ディック(ロビン)とジョーカーだ。
ジョーカーとバットマンの関係については『ダークナイト』でも思っていたけれど、愛憎が入り混じっている。バットマンにかまってもらいたいジョーカー。彼を殺すことのできないバットマン。
本作ではこの面もより強められている。
序盤で、ジョーカーからの「俺のことライバルだと思ってるでしょ?」との問いに「別に」と答えるバットマン。ジョーカーは悲しくって目がどんどん潤んでくる(レゴですが)。もうそれが可哀想やら可愛いやら。そこで、ジョーカーからしたらバットマン憎さ100倍になってしまう。
ちなみにジョーカーの吹き替えが子安武人さん、バットマンの吹き替えは『レゴムービー』から引き続き山寺宏一さんである。観たい。

強いテーマとしては二つ。バットマンとジョーカーの関係と、孤独なバットマンが仲間と戦ううちに彼らと絆が作れるのかというところ。
『ダークナイト ライジング』でもブルースは最後セリーナ(キャットウーマン)とどこか外国に一緒にいる。それを見たアルフレッドが一安心したような顔をする。
両親を失ったブルースに擬似であれ家族ができるというのは、バットマンとしての行き着く先の一つというか、ハッピーエンドの一つなのだと思う。

中盤、ジョーカーのアイディアで、バットマンシリーズのヴィランではなく様々な作品から悪役が連れてこられて大暴れする。アベンジャーズ感がある。
ジャンルの違う悪者が入り乱れて暴れるのは某映画を思い出したけれど、タイトルを書くとその映画のネタバレになってしまうので書きません。ジョス・ウィードンっぽさとでも言ったらいいか。

キングコング、サウロン、グレムリン…。そして、ヴォルデモートも出てくるけれど、レイフ・ファインズはアルフレッドの吹き替えです。中の人ネタは字幕ではなかったけれどあったのだろうか?

またブリティッシュロボットと言われていて、何かと思ったら『ドクター・フー』のダーレクが! 字幕だと“知ってたらマニアック”という説明、吹き替えだと“お友達に聞いてみよう!”という説明だったらしい。どちらも名前の紹介はないが、かなり活躍していた。
この辺りはダーレクだけではなく、悪役たちのそれぞれの動きも一時停止をしながら確認して観てみたい。

いろんな作品から悪いやつが連れてこられるのは単純に楽しいのですが、もしかしたらこれって、ぼくのかんがえた最恐軍団では…と思ってしまった。
『LEGO ムービー』が、実は子供が遊んでいたというのが最後で明らかになるが、こちらも種明かしこそないものの、多分同じなのだ。

ゴッサムの地盤が脆いのも、実写ではなくレゴだからだ。子供なのか大人なのかはわからないけれど、手作りなのだ。
コンピューターと呼ばれているのがSiriなのも、外部の音源を使うという手作り感が表れている(ちなみに本物のSiriに、“Hey,computer.”とか“Do you like LEGO Batman Movie?”などと聞くと小ネタ回答を見ることができるとのこと。日本語でもオッケーらしい)。

子供の頃、作品の括りを無視して適当にその辺にある悪そうなキャラを混ぜてラスボスにして遊んだ記憶があるだろう。それである。
一応、すべてレゴで出てる作品から持ってきたのかな。『ドクター・フー』は出てますが。

要するに究極のごっこ遊びなのだ。
しかし、悪役をたくさん連れてくるから、バランスをとるために、正義側もバットマン一人ではなく、他のキャラにも手伝わせることにする。そうすると、自然にバットマンが仲間を得るというストーリーが出来上がる。
ごっこ遊びの果てに、バットマン自体の核心部分にうっかり迫ってしまう。
オチを考えてからそこに向かってストーリーを組み立てて…という手順を踏まない、自然に、遊んでいるうちにストーリーができてしまったような楽しさがあるのだ。

種明かしとして父子が出てきたりはしないけれど(そうしたら前回と同じになってしまうし)、前作を観たら想像のつくことである。前作の話の続きというわけではないけれど、スピリットは同じだし、レゴである意味と、バットマンを題材にした意味を同時に叶えているのが素晴らしい。よくできている。

クライマックスで大きな地割れができたときの解決方法もレゴならではだった。
レゴの人形の頭の髪の毛とか帽子をとると突起がでてくる。それを足と繋げる。人形を繋げて橋を作ってしまう。うっとりするような発想の柔軟さ。どんな遊びをしようと自由なのだ。

ラストではジョーカーも、バットマンに“I hate you,forever.”とはっきり言ってもらえてにっこり。「興味ない」が一番つらいものだ。
完全ハッピーエンドです。楽しかった!



ヴィゴ・モーテンセンがアカデミー賞主演男優賞にノミネートされたほか、多数の賞へのノミネートや受賞をしている。
監督は俳優としても活躍するマット・ロス。

森の中で暮らす家族が街へ出てきて…?という話。

以下、ネタバレです。










家族がバスで旅するロードムービーというと、『リトル・ミス・サンシャイン』みたいな感じかと思っていた。ポール・ダノっぽいポジションとしてのジョージ・マッケイかとも思っていた。
けれど、あちらが、バラバラだった家族が旅をしていくうちに結束が強まるのに対し、本作は元々仲が良かったけれど、旅で考えが変わる人物が出てくるのが違う。旅の終わりはゴールではなく、まさに邦題通り、はじまりである。

父親ベンと子供6人の家族は、森の中でキャンプのような暮らしをしている。ナイフで狩りをしたり、岩をのぼったりと過酷な生活に見えた。
母親いないようで、逃げてしまったのかと思いながら観ていたが、バスにスティーブという名前を書いていたのは母親のようだった。

話が進んで行くうちに、三ヶ月前までは母親も一緒に暮らしていたらしいことがわかる。10年前長男のボウが8歳の時に森に越したと言っていたので、詳しくは語られないけれど、下の方の兄弟たちは森で産まれたのだろうか。

また、母親が亡くなった知らせを聞いてみんな泣いていて、本当に悲しんでいるようだった。
母親と子供たちの触れ合うシーンは一切無いので、どれだけ愛してたかはよくわからないが、もしかしたら、意図的に出していないのかもしれない。

その母親のお葬式に出るために、家族はバスで出かけていく。

森の中で暮らしていた大人一人、子供六人のご一行だし、ベンは子供たちを文明から遠ざけて暮らしていたから、カルチャーギャップ・コメディのような面もあった。ただ、単に文明に触れて驚くというよりは、毛嫌いしている部分が多く見られた。
銀行に太った人がたくさんいる様子などは、森で訓練をしないでぬくぬくと都会で暮らしているから太るのだとでも言いたいようだった。
でも、それは監督が森で暮らそう!という意見を持っているわけではなく、あくまでもベンの意見である。

途中までは、森とは言わないまでも田舎暮らし推奨映画なのかなとも思った。
ベンが妹の家に行くのだが、妹はいたって普通に暮らしている。しかし、ベンは子供にもワインを振る舞う。普通は子供にも聞かせられないような、母の自殺や病状についての話も事細かに話す。

妹は、子供にその話は…とか、ワインは…とか、学校に行かせたほうが…と意見を言う。一般的な意見だと思うし、私も同じ考えである。ここで、森での生活最高というようなファンタジー映画ではないのだと気づかされる。ファンタジーならば、家族だけで森で楽しく暮らして行ったらいい。けれど、ちゃんと現実も出てくる。
でも、ここの家の子供が絵に描いたようなクソガキなんですよね。勉強もできない。だから、ベン一家の小さい子が本で蓄えた知識に負けてしまう。
これでは学校に行くのが素晴らしいとは言い切れなくなってしまう。

ただ、ここで最初に外の世界に触れた時にはベン一家、森での暮らしが勝ったけれど、長男のボウが外の世界である女の子と接した時には、そうはいかなかった。
女の子とキスをして、舞い上がって、結婚を申し込んでしまう。
映画としては、ボウのあたふたする姿が可愛いし、ジョージ・マッケイ好きとしては微笑ましいシーンだったけれど、彼は本当に傷ついていた。

8歳から18歳という思春期を外界に触れずに過ごしたのだ。
本以外の世界を知らないという怒りを父親であるベンへぶつけていた。

序盤、スーパーマーケットで、家族総出で万引きまがいのことをするシーンは頑張れと思ってしまった。映像の撮り方が本当にミッションっぽかったからかもしれない。
けれど、それも、母親の実家では咎められる。やはりファンタジーではなく現実なのだ。

ベンやベンの考える森での暮らしが絶対的に正しいわけではなく、違う方向へも目を向けさせる。意識の誘導というか、考えさせるつくりがおもしろい。

母親の実家での、望まぬ弔い方は許せないが、言っていることには一理ある。年齢的な面もあるのかもしれないけれど、レリアンはベンに反抗していた。

だから、屋根をつたってレリアンを助け出す任務は失敗しろと思いながら観ていた。スーパーマーケットの任務を観ている時とは私の気持ちが変わっていた。

ボウやレリアンはベンの考えについていけない部分もあったようだけれど、女の子たちや小さい子たちは何があってもベンを信じきっているようだった。
屋根から落ちて怪我をしても瓦のせいだよ!と言っているときには、まるで信者のようでちょっと怖かった。
それこそ、思春期の女の子たちが外界に触れていないと、一番近い男性が父親である。考えすぎかもしれないけれど、そこに恋のような気持ちはなかったのだろうか。

でも、別にベンも悪いと思ってやっていることではないのだ。自分が正しいと思っているのだ。
子供たちが外界と触れ合っていないということは、ベン自身も10年間は内向きになっていた。そこで凝り固まった思考が、今回の旅で外界と接し、人の意見を聞くうちに、溶けていく。
もしかしたら、自分は正しくないかもしれないと気づく。おそらくショックだったと思う。

自分は子供たちの人生まで台無しにしてしまうのではないかと、母親の実家(金持ち)に子供たちを預け、一人で消えようとするが、結局全員ついてくる。
この辺はちょっとあっさりしすぎかなとも思ったけれど、10年間嫌ってきた資本主義の権化のような家には子供たち自身も馴染めなかったのかもしれないし、やはりいろいろ意見はあっても父親のほうが大切なのだろう。
そもそも、愛する母親が、彼女の意見にそぐわない形で弔われているのだ。そんなことをした人たちの元では暮らせない。

それに、彼らにはその母親を救うというミッションも残っている。
最初、家族で教会に現れた時は、まるで、『卒業』のようだった。結婚式ではなくて、葬式だけど、さらいににきたのは同じである。

その時点では失敗してしまったけれど、キリスト教式土葬によって埋葬されているところを掘り出す。

母親の遺体をバスに乗せて、亡くなってはいるけれど家族がやっと揃ったシーンが良かった。墓をあばくなど普通なら非常識だけれど、このシーンはやはり家族側を応援した。
火葬するシーンで、母親の望み通りに歌い踊って弔うのが美しかった。歌う曲がガンズ・アンド・ローゼズの『Sweet Child O Mine』なのもいい。少し、『海賊じいちゃんの贈りもの』を思い出した。

ボウについてですが、大学へ行かせてあげたかったとは思う。けれど、父が髭を剃った電動カミソリを使って自ら坊主にした時におそらく覚悟をしたのだろう。
もう大学はいいよ、あなたについていくよと。
バスのミラー越しに、言葉は交わさずに「おう、髪切ったな似合ってるぞ」「お父さんも髭剃って似合ってるよ」と目だけで会話しているようだった。

大学に行かせるには金が無いと行っていた。ベンはそれを義実家に子供たちを預けることで解決しようとしていた。
けれど、結局子供たちは父親についていくことにしたのだ。大学行きはそのための犠牲になったのだろう。ナミビアへ行くのもきっと片道切符なのだと思う。

本作はボウ役のジョージ・マッケイ目当てで観たところもあったんですが、とても良かったです。常に必死で、でも出しゃばらず、表情だけがくるくると変わる。だから、大学に受かったことを報告しに行った時の激昂が胸に刺さった。

子供たちは全員良かったんですが、レリアン役のニコラス・ハミルトンが気になった。小さい頃のリヴァー・フェニックスにも似ている。テオ・トレブス系の顔です。