『ムーンライト』



アカデミー賞作品賞受賞。その他、アカデミー賞では脚色賞、マハーシャラ・アリが助演男優賞を受賞しています。
戯曲が元になっているとのこと。その戯曲の作者タレル・アルバン・マクレイニーと本作の監督であるバリー・ジェンキンスが偶然同じ公営住宅出身で、似た環境で育ったとのこと。
そして、その環境が、この『ムーンライト』の主人公シャロンに似ているらしい。

以下、ネタバレです。










シャロンは母親が麻薬中毒者である。マクレイニーもジェンキンスも同じだったらしいのだ。また、映画の舞台になっているのもこの公営住宅らしい。
同じ公営住宅で同じように麻薬中毒者なんてことあるの?と思ったけれど、要するに治安の悪い場所なのだろう。だから、シャロンのような、マクレイニーのような、ジェンキンスのような子供は珍しくはないのだと思う。

映画は三章に分かれている。
シャロンという一人の人物に焦点を当てて、シャロンが子供の頃、シャロンが10代の頃、シャロンが大人になってからという分け方だ。あとから調べたところ、一章は10歳、二章は16歳、三章は三十代前半らしい。

一章はシャロンがマハーシャラ・アリ演じるフアンという男性に会う。ナオミ・ハリス演じる母親が麻薬中毒でシャロンのことをないがしろにする。学校ではいじめられる。そんな中、フアンと、フアンと一緒に住む女性テレサだけがシャロンとちゃんと向き合っていた。
学校と家、どちらにも居場所がなかったら、一体どこにいたらいいのだろう。おまけに自分のセクシャリティについても悩んでいる。
そんなシャロンの横で、非難するでも必要以上に鼓舞するでもなく、フアンは寄り添っていた。

ただ、この地域に住む大人ということで、フアンも売人である。しかも、フアンの売った麻薬をシャロンの母親が買っていたということもわかってしまう。もう地獄のような状況である。しかも、そこで一章は終わる。

二章になるとシャロンは少し成長している。具体的に何年後とは出ないけれど、6年後だったらしい。成長といっても、体は大きくなっていてもうつむき加減なのは変わらない。いじめられているのも変わらない。
あと、母親が全然変わっていない。シャロンに金をせびるなど、余計にひどくなっていってる。メイクのせいもあるけれど、年をとりつつ、中毒状況や生活の荒み方が演技からよくわかった。ナオミ・ハリスも助演女優賞にノミネートされていただけあってさすが。

また、フアンの家にはテレサしかいない。
最初には何の説明もされないが、観ていくうちにどうやら死んだことがわかる。死因や死んだシーンの回想などもないけれど、年齢的にも老衰ではないし、病気というよりはトラブルに巻き込まれたのだろうと思う。
一章の最後で、シャロンは自分の母親に麻薬を売っていたのがフアンだとわかってショックを受けているようにも見えたから、そこで関係を絶ってしまったのかなとも思ったけれど、まだ続いていたようでよかったとは思った。
ただ、おそらく、シャロンは居場所がないままなのだ。だから、フアンに、フアンがいなくなってもテレサに頼らざるをえない。厳しい状況が説明のないまま伝わってくる。伝わってくるというか感じられるというか。無駄な説明が省いてあってスマートな作りになっている。

セリフも、シャロンが寡黙で、シャロン中心の話だから極力少ない。シャロン中心ではあっても、シャロン目線というわけではないからモノローグもない。カメラや監督の視線は、ただ優しく、シャロンのそばに寄り添っている。まるでフアンとテレサのようだ。

一章でフアンが、“黒人の肌は月明かりに照らされるとブルーに光る”という話をする。それをふまえると、二章でのケヴィンとシャロンの海岸のシーンがさらに美しく幻想的に見える。
ここだけではなく、夜のシーンでの光の当て方が特殊なのだと思うけれど、夜に紛れがちな黒人の肌を艶やかに浮かび上がらせていた。ここまで美しい撮り方は初めて見ました。

砂浜でケヴィンもキスに答えるけれど、おそらく恋愛感情はない。けれど、他の人がいじめるなか、シャロンと仲良くしている。子供の中ではシャロンが唯一心を許す相手だったと思う。
10代も後半になると、いじめも更に暴力的になり、誰もが逆らえないいじめの中心人物も親すら口出しできない何かになる。
いじめの中心人物はケヴィンとシャロンが仲がいいことを知っていたのだろうか? 隠れて話をしていたようなので知らなかったのかもしれないが、ケヴィンは命令されてシャロンを殴る。
立ち上がってくるな!というケヴィンの声が悲痛だった。立ち上がらなければ殴られないで済むのに、シャロンは何度も立ち上がって、ケヴィンは何度も殴ることになる。見ていて本当につらかった。

二章は、シャロンがいじめの中心人物を椅子で殴り、逮捕されるところで終わる。シャロン自身の痛みなどによる怒りはあるだろうけれど、それよりもケヴィンにあんなことをやらせたのが許せなかったのだと思う。今まで我慢をしていたけれど、ついにブチ切れたという具合だろう。

三章ですが。ここで、シャロンはとてもシャロンとは思えない姿になっている。本当のところ、最初はこれがシャロン?じゃないよね?と思いながら観ていた。一章、二章では細かったシャロンが筋骨隆々になっている。しかも、どうやら、フアンと同じ、麻薬の売人になっている。フアンのようなバンダナをしていて光るピアスをつけていたのは、彼になろうとしていたのだろうか。

二章から三章も何年後という表示は特にないけれど、おそらく15年くらい経っている。椅子で殴ったいじめの中心人物のことをもしかしたら殺してしまったのだろうか。何年間かは刑務所に入ったようである。刑務所の仲間からこの仕事を斡旋されたと言っていた。

筋トレをしているシーンもあった。体を見ればわかるが、だいぶ鍛えたらしい。もう自衛するしかないと思ったのだろう。そして、この姿になってからは人から虐げられることもなくなったと思う。

けれど、だからつらいことがなくなったかというとそういうわけではない。シャロンがこんな姿にならなくてはいけなかったその過程を思うと本当につらい。もちろん一章、二章もつらい面があるけれど、二章と三章の間の描かれていない部分が一番つらかった。想像する余地がありすぎたからかもしれない。

母親はというと、麻薬中毒患者の厚生施設に入ったようだ。ここもナオミ・ハリスが演じているが、一章二章では険しい顔をしていたが、一気に憑き物が落ちたような顔になっていた。やっと母親の表情になっていた。
ただ、謝られても今更でしょう…という気持ちにしかならなかった。過ぎた時間は帰ってこない。
「子供の頃に愛を与えなかったから、私のことを愛してくれなくてもいい」と言うセリフもつらかった。
それより何より、小さくなってしまった母親と、筋骨隆々にならざるを得なかったシャロンが並んでいる様子がつらい。

ケヴィンからも久々に電話がかかってくる。このあと、シャロンはケヴィンに会いに行くが、元の戯曲だと、三章は電話だけらしいので、映画ならではの膨らませ方をしているらしい。それで脚色賞をとったのだろうと思う。

筋骨隆々のマッチョな人物は、自分に自身があるイメージがある。シャロンはブラックとして仕事をしているときには強そうだったけれど、母親やケヴィンの前だと顔がうつむき加減でまさにシャロンのままだった。似ている人物が演じているわけではないけれど、魂はシャロンなのがよくわかる。
特にラスト、ケヴィンにおそるおそる想いを告白するシーンがよかった。切なさを感じたということは、外見が変わってもシャロンであると感じることができたということだ。ずっと描いているわけではなくても30数年間の気持ちがちゃんと伝わってきた。
演じているのはトレヴァンテ・ローズ。もともと陸上の短距離の選手だったらしい。

ケヴィンが働いている食堂に白人のお客さんがいて、これがこの映画で初めて出てきた白人だと思った。
なんとなく白人が黒人につらくあたることで差別を描いたりすることが多いと思うが、この映画ではあえて白人を出さない。それでも、過酷な状況がよくわかる。
むしろ、黒人のみのコミュニティとその中のシャロン一人にスポットライトをあてることで、伝わってくることが多かった。すごく近くで、一人の人生を見てきたような気持ちになった。



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