『はじまりへの旅』



ヴィゴ・モーテンセンがアカデミー賞主演男優賞にノミネートされたほか、多数の賞へのノミネートや受賞をしている。
監督は俳優としても活躍するマット・ロス。

森の中で暮らす家族が街へ出てきて…?という話。

以下、ネタバレです。










家族がバスで旅するロードムービーというと、『リトル・ミス・サンシャイン』みたいな感じかと思っていた。ポール・ダノっぽいポジションとしてのジョージ・マッケイかとも思っていた。
けれど、あちらが、バラバラだった家族が旅をしていくうちに結束が強まるのに対し、本作は元々仲が良かったけれど、旅で考えが変わる人物が出てくるのが違う。旅の終わりはゴールではなく、まさに邦題通り、はじまりである。

父親ベンと子供6人の家族は、森の中でキャンプのような暮らしをしている。ナイフで狩りをしたり、岩をのぼったりと過酷な生活に見えた。
母親いないようで、逃げてしまったのかと思いながら観ていたが、バスにスティーブという名前を書いていたのは母親のようだった。

話が進んで行くうちに、三ヶ月前までは母親も一緒に暮らしていたらしいことがわかる。10年前長男のボウが8歳の時に森に越したと言っていたので、詳しくは語られないけれど、下の方の兄弟たちは森で産まれたのだろうか。

また、母親が亡くなった知らせを聞いてみんな泣いていて、本当に悲しんでいるようだった。
母親と子供たちの触れ合うシーンは一切無いので、どれだけ愛してたかはよくわからないが、もしかしたら、意図的に出していないのかもしれない。

その母親のお葬式に出るために、家族はバスで出かけていく。

森の中で暮らしていた大人一人、子供六人のご一行だし、ベンは子供たちを文明から遠ざけて暮らしていたから、カルチャーギャップ・コメディのような面もあった。ただ、単に文明に触れて驚くというよりは、毛嫌いしている部分が多く見られた。
銀行に太った人がたくさんいる様子などは、森で訓練をしないでぬくぬくと都会で暮らしているから太るのだとでも言いたいようだった。
でも、それは監督が森で暮らそう!という意見を持っているわけではなく、あくまでもベンの意見である。

途中までは、森とは言わないまでも田舎暮らし推奨映画なのかなとも思った。
ベンが妹の家に行くのだが、妹はいたって普通に暮らしている。しかし、ベンは子供にもワインを振る舞う。普通は子供にも聞かせられないような、母の自殺や病状についての話も事細かに話す。

妹は、子供にその話は…とか、ワインは…とか、学校に行かせたほうが…と意見を言う。一般的な意見だと思うし、私も同じ考えである。ここで、森での生活最高というようなファンタジー映画ではないのだと気づかされる。ファンタジーならば、家族だけで森で楽しく暮らして行ったらいい。けれど、ちゃんと現実も出てくる。
でも、ここの家の子供が絵に描いたようなクソガキなんですよね。勉強もできない。だから、ベン一家の小さい子が本で蓄えた知識に負けてしまう。
これでは学校に行くのが素晴らしいとは言い切れなくなってしまう。

ただ、ここで最初に外の世界に触れた時にはベン一家、森での暮らしが勝ったけれど、長男のボウが外の世界である女の子と接した時には、そうはいかなかった。
女の子とキスをして、舞い上がって、結婚を申し込んでしまう。
映画としては、ボウのあたふたする姿が可愛いし、ジョージ・マッケイ好きとしては微笑ましいシーンだったけれど、彼は本当に傷ついていた。

8歳から18歳という思春期を外界に触れずに過ごしたのだ。
本以外の世界を知らないという怒りを父親であるベンへぶつけていた。

序盤、スーパーマーケットで、家族総出で万引きまがいのことをするシーンは頑張れと思ってしまった。映像の撮り方が本当にミッションっぽかったからかもしれない。
けれど、それも、母親の実家では咎められる。やはりファンタジーではなく現実なのだ。

ベンやベンの考える森での暮らしが絶対的に正しいわけではなく、違う方向へも目を向けさせる。意識の誘導というか、考えさせるつくりがおもしろい。

母親の実家での、望まぬ弔い方は許せないが、言っていることには一理ある。年齢的な面もあるのかもしれないけれど、レリアンはベンに反抗していた。

だから、屋根をつたってレリアンを助け出す任務は失敗しろと思いながら観ていた。スーパーマーケットの任務を観ている時とは私の気持ちが変わっていた。

ボウやレリアンはベンの考えについていけない部分もあったようだけれど、女の子たちや小さい子たちは何があってもベンを信じきっているようだった。
屋根から落ちて怪我をしても瓦のせいだよ!と言っているときには、まるで信者のようでちょっと怖かった。
それこそ、思春期の女の子たちが外界に触れていないと、一番近い男性が父親である。考えすぎかもしれないけれど、そこに恋のような気持ちはなかったのだろうか。

でも、別にベンも悪いと思ってやっていることではないのだ。自分が正しいと思っているのだ。
子供たちが外界と触れ合っていないということは、ベン自身も10年間は内向きになっていた。そこで凝り固まった思考が、今回の旅で外界と接し、人の意見を聞くうちに、溶けていく。
もしかしたら、自分は正しくないかもしれないと気づく。おそらくショックだったと思う。

自分は子供たちの人生まで台無しにしてしまうのではないかと、母親の実家(金持ち)に子供たちを預け、一人で消えようとするが、結局全員ついてくる。
この辺はちょっとあっさりしすぎかなとも思ったけれど、10年間嫌ってきた資本主義の権化のような家には子供たち自身も馴染めなかったのかもしれないし、やはりいろいろ意見はあっても父親のほうが大切なのだろう。
そもそも、愛する母親が、彼女の意見にそぐわない形で弔われているのだ。そんなことをした人たちの元では暮らせない。

それに、彼らにはその母親を救うというミッションも残っている。
最初、家族で教会に現れた時は、まるで、『卒業』のようだった。結婚式ではなくて、葬式だけど、さらいににきたのは同じである。

その時点では失敗してしまったけれど、キリスト教式土葬によって埋葬されているところを掘り出す。

母親の遺体をバスに乗せて、亡くなってはいるけれど家族がやっと揃ったシーンが良かった。墓をあばくなど普通なら非常識だけれど、このシーンはやはり家族側を応援した。
火葬するシーンで、母親の望み通りに歌い踊って弔うのが美しかった。歌う曲がガンズ・アンド・ローゼズの『Sweet Child O Mine』なのもいい。少し、『海賊じいちゃんの贈りもの』を思い出した。

ボウについてですが、大学へ行かせてあげたかったとは思う。けれど、父が髭を剃った電動カミソリを使って自ら坊主にした時におそらく覚悟をしたのだろう。
もう大学はいいよ、あなたについていくよと。
バスのミラー越しに、言葉は交わさずに「おう、髪切ったな似合ってるぞ」「お父さんも髭剃って似合ってるよ」と目だけで会話しているようだった。

大学に行かせるには金が無いと行っていた。ベンはそれを義実家に子供たちを預けることで解決しようとしていた。
けれど、結局子供たちは父親についていくことにしたのだ。大学行きはそのための犠牲になったのだろう。ナミビアへ行くのもきっと片道切符なのだと思う。

本作はボウ役のジョージ・マッケイ目当てで観たところもあったんですが、とても良かったです。常に必死で、でも出しゃばらず、表情だけがくるくると変わる。だから、大学に受かったことを報告しに行った時の激昂が胸に刺さった。

子供たちは全員良かったんですが、レリアン役のニコラス・ハミルトンが気になった。小さい頃のリヴァー・フェニックスにも似ている。テオ・トレブス系の顔です。




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