『ベイマックス』


原題“BIG HERO 6”。同名のアメコミが原作になっているとのこと。

以下、ネタバレです。





予告編では“BIG HERO 6”的な要素は伏せられているため、原題を聞いた時にベイマックスが6体出てくるのかなと思ったら違った。
予告編を見る限り、死んだ兄の残したふわふわのロボットと弟の心温まるほっこりヒューマンドラマというイメージですが、実際は、痛快!ヒーロー活劇!といった具合でした。
ほっこり要素もないわけではない。それは主に予告で使われているのですが、ベイマックスに穴があいて、奇妙な音を出しながら空気が抜けていてセロハンテープでとめるシーンとか。

もちろんそれもこの映画の肝だとも思う。兄タダシも「思わず抱きしめたくなるフォルム」としてベイマックスを作ったのだし。
激情したヒロが悪者を殺そうとしたときに、それを止めるのはベイマックスなのだ。ベイマックスには、ベイマックスを作ったタダシの心が引き継がれている。タダシはいなくても、心は残っている。この辺は予告がしめしている通りなのだと思う。

けれど、予告にはまったく出てこなかったバトルの要素もふんだんに取り入れられているのだ。
まず最初から、ロボットファイトである。自作したロボット同士を戦わせている様子は、『リアル・スティール』や『ガンダムビルドファイターズ』のようだった。
屈強な男のあやつる見た目も怖いロボットを、小さいヒロの小さいロボットが見事倒すシーンのあとで、後ろの席に座っていた子供が「すごい…」と言っていて、予告があれでもちゃんと伝わっているのが感じられてほっとした。

そして、BIG HERO 6の6、この話の主役たちはタダシの同級生の科学おたくたちだった。ヒロを加えた5人+ベイマックスで6である。ベイマックスは“=タダシ”でもあると思う。
彼らが自分たちの特技を生かして戦う。スーツも自作する。一般人がヒーローに?というのは『キック・アス』っぽい感じでもあったけれど、それぞれの特技を生かしたスーツなのでそれよりは『アイアンマン』っぽいのかもしれない。スーツを着たベイマックスの飛び方もアイアンマンっぽかった。

ヒロとベイマックスを抜かした4人のキャラクターは、魅力的なのにまったく予告やポスターなどには出てこない。GO・GOの円盤が車輪になっていて足に付いているスーツ、両手がレーザーの刀になっているワサビのスーツ、ポシェットが付いていて日本の女児向けヒロインのようなハニー・レモンのスーツ、フレッドは着ぐるみの怪獣で口から火を吐く! もうどれもこれも恰好良いので、いまからでも遅くないので新しいCMでも作って欲しい。きっと、彼らのことが気になって映画を観たい!と思う人もいるはずなので。
でも、いままで予告で流れなかったおかげで、ネタバレを回避できて、映画を観た時に初見で興奮したので、逆に良かったのかもしれない。

予告で出てきた、スーツを着たベイマックスが力こぶを作るとスーツが全部飛んでっちゃうというシーンは本編では出てこなかった気がするけどどうなんだろう。予告だと、ケアロボットだからスーツは着られなかったみたいなオチに思えるけれど、実際はかなり恰好良く着るし、スーツを脱着できるベイマックスのおもちゃもロビーで売っていた。
スーツを着れば、ベイマックスは空も飛べるし、改造されたスーツではロボットパンチも搭載されている。

スーツを着たベイマックスにスーツを着たヒロが乗って飛ぶシーンは本当にワクワクした。
東京とサンフランシスコを混ぜたというサンフランソウキョウの町並み自体も見応えがあるけれど、それが空を飛びながら見られるのだ。鯉のぼりを模したものが浮いているのもおもしろい。
サンフランソウキョウというから東京なのだろうけれど、ヒロの家の近くの坂の様子と路面電車は、少し函館にも似ていた。

最後に、人間のためにロボットが犠牲になるのは、『インセプション』のTARSを思い出した。人工知能のようなものを持ったロボット共通の切なさ。
ロボットパンチを攻撃のためではなく救うために使うというのが泣ける。また、ロボットパンチの拳の中に、実はチップを隠し持っていたという結末も粋でした。

同じメンバーが活躍する続編も見てみたい。その時には是非、予告に全員登場させてあげてほしい。

デヴィッド・クローネンバーグ監督作品。ジュリアン・ムーア、ミア・ワシコウスカ、ジョン・キューザック、ロバート・パティンソンなど、豪華俳優陣が集められている。

以下、ネタバレです。




予告では、ジュリアン・ムーアが自信過剰でプライドが高く厚顔無恥な、とにかくめちゃくちゃな人物を演じているようだったが、予告の通りだった。本編は勿論予告より長いのでそれ以上の強い印象を残す。
老いて贅肉の付いた体をゆさゆさしながらのスキップと、少し息の切れた♪ラララ〜ラ、ラララ〜ラ、ヘイヘイヘ〜イという歌声から受けるのは狂気でしかない。
トイレでふんばりながら話しかけてくるシーンも酷い。力んでいるから、ブーブーと放屁だけはしてしまう。それで、「あんた彼とヤったの?」などという下世話な質問をしてくるのだから、もう最低。
観る人に不快感を与えるあたり、やはりジュリアン・ムーアの演技がうまいのだろう。カンヌ国際映画祭の女優賞も納得である。

ジョン・キューザックも大概不気味だったが、こちらは『ペーパーボーイ』のほうが不気味さでは上だった。でも今回も胡散臭く、怖い役です。

何を考えているかわからない感じはミア・ワシコウスカも同じだった。明るい表情もあったにはあったけれど、裏に常に暗さを纏っていた。後半になるにつれて空元気も消えて、眉をひそめ、怖い顔になっていた。
彼女はなんとなく体温を感じないというか、儚いというか、人ならざる者というか、人間を食いそうな感じというか、独特な雰囲気のある女優だと思うので今回の役も合っていた。
だから、『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』の吸血鬼役も合っていたと思う。ただ、あの鬼っ子は陽の部分だったが、今回は陰の部分だった。あの役は実は幽霊で…と言われても納得してしまいそう。

今作の脚本家が実際にハリウッドでリムジンの運転手をしていた経験を元にしているらしいので、運転手役であるロバート・パティンソンが主役なのかと思っていたがそんなことはなかった。
彼のナレーションでストーリーが進んでいくとか、傍観者として全体をまとめる役割であったりもしない。どちらかというと、出番はそれほどなかった。
デヴィッド・クローネンバーグ監督と組んだ前作『コズモポリス』のラストでロバート・パティンソンが気になったのでもっと見たかった。

これはもしかしたら監督の特徴なのかもしれないけれど、セリフが多くて、カメラは喋っている人を撮りながら話が進んでいっていた。
うんちくのようなうんちくでないような、ストーリーに関わっているような関わっていないような、伏線のような伏線でないような。
タランティーノのように無駄話を延々とさせるということではないけれど、とにかく一度喋り始めたらずっと喋っているので、そのうち字幕を追う目が滑るというか、集中力が削がれるというか、単調に思えるシーンが多々あった。

喋るけれどそれが彼らの本心かどうかはわかりかねるし、登場人物の誰もが誰かに寄り添うこともない。アガサは運転手と寄り添いかけるが結局めちゃくちゃに壊される。ストーリー上のまとめ役もいないので、一人一人が別のことを考え、違った方向を向いているように感じた。そして、誰にも共感も感情移入も出来ない。
ラストも本当にこれで良かったのかわからない。解決したようでしていないと思うし、なんとなく不完全燃焼感が残った。

ただ、映画は必ずすっきり終わらなくてはいけないとも思わないし、この全体を流れる奇妙な不気味さはちょっと他の映画では味わえないと思う。

今年の年末で閉館になる新宿ミラノ座のさよなら興行、「新宿ミラノ座より愛をこめて〜LAST SHOW」での上映。
IMAXでなくても大きなスクリーンで観たい、という時によく利用していた劇場だったので、閉館は本当に残念です。
いつも座る席を決めていたんですが、今回はほぼ満席で座れなかった。

映画上映前に、支配人の方から作品の簡単な紹介があった。劇中に出てくる童謡は大林宣彦監督のオリジナルとのこと。てっきり尾道か広島の地元の童謡だと思ってた。
また、ロビーでラベンダーの香りを焚くという粋な演出も。それに対しての「お客様がタイムリープの能力を身につけても、責任は負いかねます」という、これもまた粋な言葉には、会場から拍手が起こっていた。

1983年公開。ビデオやテレビでは何度も観ているけれど、映画館では初だった。フィルム上映。

タイトルが出た後、尾道の街並の中を制服姿の高校生が登校していて、桜が満開で…というシーンがまず美しい。特に説明は入らないけれど、その前のシーンがスキー旅行で、帰る時に「山は冬だけど降りるともう春なんですね」みたいなセリフがあって、大体の季節がわかる。

子供の頃に観た時には、日本人形の首が伸びるシーンよりも時計屋の主人が店の奥で不気味に笑っているのが怖かった。時計の針が飛んでくるのの後だと憶えていたので、顔を伏せていたんだけれど、大人になってから観ると、それほど怖くなかった。

三角関係ものというのはもともと好きな要素なんですが、それに加えて、タイムリープでも記憶喪失でも前世の記憶でもなんでもいいんですが、知らない相手を何か知っているような気がしてしまう、気になってしまうというロマンティックさという、二つの要素が入っているところも『時をかける少女』が好きな要因です。

あと、今回久しぶりに観て気づいたのは、どうやら三角関係以上だったということです。はっきりとセリフでは出てこないけれど、委員長(とも言われてないけれど、クラスの代表っぽい女子)はごろちゃんのこと好きっぽかった。和子とごろちゃんが話してるときに、複雑な顔をしてるシーンがあった。たぶん、ごろちゃんのこと好きでありながら、ごろちゃんが和子のことが好きなのもわかってたんだろう。

今回、私は深町くんより、断然ごろちゃん派でした。飄々としているようで、和子のことをずっと守ってる。返してもらったハンカチを顔に当てるシーンは、素直になれなさを表しているようでいじらしかった。
最後に実験室で倒れている和子を発見した時には、いつもは「芳山くん」って呼んでるのに咄嗟に「和子ちゃん!」って、昔の呼び方が出ちゃってた。たぶん、高校生になったし、なんとなく恥ずかしくて、気取って「芳山くん」なんて呼び名にしてたんですよね。和子は「ごろちゃん」って呼ぶのに。なのに、幼馴染みらしい呼び方が、咄嗟の時には出てしまう隠しきれなさ。意地を張り通せない。
10年後になっても、和子を遊びに誘おうと電話をかけてくるあたりも本当に好きなんだと思う。和子はあの調子だし、おそらくほとんど断り続けてるんですよね。そのめげない姿勢も、報われて欲しいと思った。

でも、ラストで深町くんがもう一度出てきてしまう。お互い憶えていなくても、何かが気になるのか、タイミングがずれても二人で振り向く。和子がこの先、何かあるとしたら、ごろちゃんより、このニュー深町くんのほうなんですよね。
幼い頃から大人になるまで、ずっと和子のことを気にかけているのはごろちゃんなのに…。
つらいけれど、ただ、この切なさも三角関係の醍醐味でもある。

主題歌の歌詞もほぼ深町くんのことのようですし、たぶん、深町くんとのラブストーリーがメインなんですよね。それもわかってるんですけどね…。

あと、いままでメロンのくだりは普通に観てたんですけど、あれって父のゴルフのブービー賞の景品なんですね。日曜日に貰って来て、月曜日は「まだ熟してない」と言われ、火曜日に一日置いて「食べごろ」と言われる。

和子は日にちを行ったり戻ったりするけれど、日めくりカレンダーや黒板の日付やメロンなどで日にちがわかるようになっている。周囲の人物に加えてメロンも時間と一緒に正常に進んでいるけれど、和子だけがちょこちょこ移動しているのがわかりやすい。

あとは、改めて見て、30年前としてはSF表現がかなり斬新だと思った。
特に最後の時の旅人になったときの映像はおもしろい。和子が昔の姿を窺おうとすると、子供和子がその場からすっと姿を消す、同じ人が一緒に存在出来ないルールもここですでに採用されている。
ここで、深町くんは和子をお姫様抱っこするんですが、これって最初の和子が実験室で倒れているシーンでごろちゃんが和子を持ち上げられないのと対になっているのかもしれない。結局、足の方をごろちゃんが持って、頭側を深町くんが持って、二人で保健室に連れて行くんですが、深町くんは一人でも和子をお姫様抱っこできる。ここでも深町くんに軍配が上がってた。

この映画はエンドロールも最高でたぶん誰も席を立てないと思う。実験室で倒れている和子が、おもむろにむくりと起き上がって、主題歌を歌い出す。MVとNG集が一緒になった感じのもの。ここでは不気味な笑みを浮かべていた時計屋の主人ものりのりで、幼い頃に観たときにもほっとしたものです。
そして、最後の原田知世のまったく汚れの無いはにかんだ笑顔が本当に可愛い。いい映画を観たという想いがじんわりと浮かんできて、爽やかな気持ちで席を立てるのだ。




2009年公開。ピクサー・アニメーションスタジオ製作。ピート・ドクター&ボブ・ピーターソン監督。二人とも中で声の出演もしています。

映画はカールじいさんの幼少期から始まる。エリーと出会い、結婚をして、困難を乗り越えて、二人で仲良く暮らし、やがて年老いてエリーが亡くなる。ここまでのカールじいさんの半生を10分間でやる。最初の幼少期はセリフなどもあるけれど、結婚以降は音楽のみで、でも何があったかがしっかりとわかる作りになっている。たった10分とは思えない濃さだし、ずっと連れ添った(と思えてしまう。10分なのに!)エリーが亡くなったところでは、泣いてしまった。
この冒頭10分があるとないとでは全く違う。主人公カールじいさんの歩んで来た道がわかる。ふまえた上で映画本編の冒険なのだ。
もともとはエリーが冒険に積極的だったし、エリーがカールを引っ張るようにして、若い二人が冒険に出てもよかったはずだ。しかしそうすると、ありきたりな話になりがちかもしれない。

ずっと連れ添った妻が亡くなり、家も立ち退きを迫られて、もう後先なくなったところで、引っ込み思案だったじいさんが、一念発起して一人で冒険へと旅立つ。
じいさんがじいさんになっていても旅立つ理由が、冒頭10分を見るだけですべて伝わってくる。そこに説明臭さは一切無い。

そして、大量の風船で家ごと飛び立たせるという斬新さもいい。いろとりどりの風船によって浮かび上がるシーンは、映画館で観たかった。

目的地のパラダイスの滝へは、わりと序盤で辿り着いてしまう。パラダイスの滝が見える場所から歩いて目指す。家は浮いたまま、じいさんと相棒の少年が引っ張っていく。タイトルに“空飛ぶ家”とついているから、家を乗り物としての空の旅だと思っていたのに、そうくるとは思わなかった。
でも、最初の10分といい、目的地にすぐについてしまうところといい、時間配分がおもしろい。
また、見えている目的地を歩いて目指すというのもじいさんだしちょうどいいのではないかと思った。

途中、ずっと憧れていた人に会うことができて、その人が悪い人になっていたのはショックだった。意外性を持たせるためだと思うし、悪役が必要だったのもわかるけれど、じいさんの憧れがやぶれるのはとてもさみしい。じいさんになるまで憧れていたし、じいさんになっての 冒険の先で出会う現実としては厳しいと思う。しかも、亡くなった妻の想いとともに行っている冒険なのに。二人を結びつけたのもその憧れの人だったのに。
しかも、最後は上空から落下して終了というさみしさ。落下したところまでしか出ていないけれど、おそらく死んでしまったのだろうと思う。
もっと、途中で改心するとか、どうにか憧れを保てるような何かを残して欲しかった。

家も落下してしまうけれど、それがパラダイスの滝の横に降り立つのは良かった。じいさんは辿り着けないけれど、二人の想いが宿る家はちゃんと目的地にたどり着いたし、エリーが少女の頃に描いた絵の通りになった。
映像では出ないけれど、残っていた少しの風船の力を借りて、そこにふわりと降りた様子が見えるようだった。優しく静かな終わり方でした。

原題は“Up”というシンプルなもの。そのままでは公開しにくそうなので、邦題が別に付くのはわかる。ただ、本編でも、カールじいさんとは呼ばれていないんですよね。彼のことを呼ぶのはほとんどが一緒に冒険をするラッセルで、呼び方は「フリドリクセンさん」だった(吹替の場合)。じいさんの冒険というのがこの映画の珍しいところなので、じいさんという言葉は残したい。けれど、フリドリクセンじいさんではゴロも悪いし、○○じいさんならばファーストネームのほうがしっくりくる…。なので、カールじいさんでも仕方がないのかなと思う。



2014年公開。アメリカでは2013年公開。
ジェイソン・サダイキス主演。ジェニファー・アニストン共演。主人公の友達で麻薬組織の元締めの人、どこかで見たことがあると思ったら、『ハングオーバー!』シリーズのスチュ役のエド・ヘルムズだった。

バラバラの人たちが旅の道中で結束するというと、『リトル・ミス・サンシャイン』を思い出すけれど、あちらは一応本当の家族だったけれど、こちらは違う。
メキシコの国境を通るために、一人の独身男性よりも家族旅行を装った方があやしくないだろうというひらめきのもと、集められただけだ。しかも、麻薬の売人、場末のストリッパー、親が留守しがちの子供、ホームレス娘(っていわれてたけど、家出娘みたいなニュアンスなのかも)という、ハンパもの。これを考えると『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』的でもあるのかもしれない。

旅がメインのロードムービーなのかと思ったら、わりと簡単に目的地にはたどり着く。帰路で出会った家族とのすったもんだと、実は元締めから騙されてたというアクシデントはあれども、道すがらというわけではない。
大きく何が起こるというよりは、細かく起こることで笑わせていくコメディだった。

セリフも細かくて、“不幸な身の上話は嫌いなんだよ。だから『プレシャス』のDVDも観てない”とか、パーカーの帽子をかぶっている子に対して“お前は『8マイル』のエミネムか”とか、いちいちおもしろい。また、“俺がマーキー・マークで、お前らはファンキー・バンチだ。わかったか?”みたいなセリフがあったけれど、これは日本語訳では“俺がジュリーでお前らがタイガース”になっていた。確かにマーキー・マーク&ザ・ファンキー・バンチ(マーク・ウォールバーグが過去に組んでいたヒップホップグループ)はわかりにくいけれど、ジュリー&タイガースじゃないし、意味合いとしては、原語のほうがもっと“俺”の立場が上な感じがする。ちなみにこの場面、劇場では“俺がフミヤでお前らがチェッカーズ”だったらしい。私はWOWOW視聴だったんですが、DVDはどうなんだろう。
でも、他にもコメディならではの細かいセリフがあったし、字幕が大変だったと思う。近年よくある町山さん監修かと思ったけれど、これは違うようです。
ちなみに、WOWOWだと“ブラック・コック・ダウン(ブラック・ホーク・ダウン)”はそのままカタカナだったけれど、劇場だと“黒い巨塔”だったらしい。

花火を買ってくれと子供役たちが騒いで、妻役が「買ってあげたら?」と言うシーンや、子供役が好きな女の子にうまくキスできなくて、それに対して父親役がアドバイスを送るシーンは、それだけ見れば本当の親子のようだった。

車のラジオから流れるTLCの『Waterfalls』に合わせて妻役と子供役二人が歌うシーン。夫役が「この曲好きじゃない。当時からピンと来なかったし」と言っていても、三人は好きで歌い続けている。ラップの場面で息子役のどちらかといえば冴えない坊主が完璧にやってのけるんですよね。そこで、絆は深まったし、あとで夫役が一人で車に乗っているシーンでも、この曲が流れてきて切なくなっている。完全に、“家族”の思い出の曲になったのだ。

ラストシーンでは郊外の一軒家に、四人が暮らしていて、そのいかにも幸せそうな様子から、旅を通じて本当の家族になったんだな…と思ったら違った。裁判までの間の証人保護プログラムのため、集められていただけだった。おまけに庭ではマリファナが栽培されていて、まったく懲りた様子がない。
家族というより、共犯者が増えただけですね。このハズし方が最高だった。

だから、原題の“僕たちミラー家です(WE’RE THE MILLERS)”のわざとらしさも好きです。でもやっぱり、人の名前が入っている原題は変えられてしまうようで。

エンドロールの前にNG集が入っているのも楽しい。共演者同士が仲良くやっているところを観ていると、こちらまでにこにこしてしまう。
特に、『Waterfalls』が流れるべき場面で、フレンズのテーマ曲が流れるドッキリはおもしろかった。ジェニファー・アニストンのやられたーって顔が可愛かった。



ホビット三部作の三作目であり、『ロード・オブ・ザ・リング』の一作目に繋がるらしい。
サブタイトルは“行きて帰りし物語”のほうがいいのではないかと思っていたけれど、“決戦のゆくえ”で良かったと思う。
いま調べたら、原題も“There and Back Again”ではなくて“The Battle of the Five Armies”に変更されていたらしい。

以下、ネタバレです。



面白かったことは面白かったけれど、ホビットの三作目と言われるとどうなんだろうと思った。一作目でビルボが「冒険に行くんだ!」と意気揚々と駆け出したシーンの印象が強かったので、冒険で三部作観たかった。今作はほとんどが戦闘シーンだった。

前作は竜のスマウグが「村を襲ってやる」と言って、飛んで行くところで終わった。一体どうなってしまうのか、ひやひやする終わり方だった。今作は前作のあらすじも何もなく、いきなりスマウグが村の上空に来るシーンから始まる。
前作のあらすじは別になくてもいいと思う。でも、スマウグのシーンはあっさり終わってしまう。

前作で、バルドが黒い矢を放てば…みたいな話が出てたけれど、まさにそれでスマウグが倒される。今回出てくる新しい案は特にない。ピンチらしいピンチと言えば、弓が折れて息子の肩を使って矢を放つというところくらいで、わりと短時間で事態は収束する。村は焼き払われてしまうが、スマウグは討伐される。

こんな短い時間で片付くなら、『ホビット3』までひっぱる必要はあったのかなと思ってしまった。2の最後に入れられたのではないか。
前作の最高潮の盛り上がりに続けて観たかった。いきなり最高潮から始まっても、気持ちがついていかない。
そう考えるとやはり、あらすじを入れてもらって、その間でちょっと気持ちを盛り上げたほうが良かったのだろうか。

その後は、トーリンがスマウグの金貨にとりつかれてしまうことはあっても、ほぼ戦闘です。人間、エルフ、ドワーフ、オーク軍が入り乱れる。サブタイトルの“The Battle of the Five Armies”のとおりなんですが、もうホビットをはずして、“The Battle of the Five Armies”というタイトルの映画のようなだった。
Fiveのもう一つはなんだろう。魔法使いかホビットかなと思うけど、ガンダルフは魔力を失ってるからホビットかな。

わくわくするような冒険を期待してたんですが、今回は場所はほとんど動かない。ただ、はなれ山を目指していてそこに辿り着いたのだから、どうするのだろうとは前作の時に思った気がする。
行きて帰りし物語だったなら、ビルボがホビット庄に帰る冒険が観たかった。でも原作がある映画だし、勝手にそんなこともできないのだろう(原作未読)。
それか、今回の戦闘を短くして、前二作をもう少し短くして、少しずつずらせば三作目の途中ではなれ山に辿り着いたのではないか。

今回、ビルボはほとんど活躍しない。あまり戦闘に向かなそうだし、戦闘が主の本作では仕方が無いのかもしれないけれど、補助的な役割だった。
どちらかというと、トーリンが主人公のようだった。ただ、金貨に惑わされたトーリンが、自分自身の声で正気に戻るのはもったいないと思う。自分の中の“祖父とは違う”という言葉を反芻してのものだった。あんなに仲間がたくさんいるのに、仲間の言葉には聞く耳持たずだったのは残念。

映画のほとんどを占めるのは戦闘というか戦争で、それぞれの軍の人数の多さにまず圧倒される。楯をがっと並べてその隙間から槍を出した守りの部隊と、それを乗り越えて戦闘部隊が飛び出してくるシーンも恰好良かった。

人間は馬に乗っているのは、まあよくある風景である。その中でもバルドが白馬に乗っているのは、周囲にも村の代表と認められたようでかっこいい。他の種族が他の乗り物に乗っているのが面白い。
エルフの王スランドゥイルはムースのような大きな角をつけた動物に乗っている。左右の角で三匹ずつオークをとらえて首を刎ねるのが恰好良かった。また、動物の大きな角とスランドゥイルの太い眉毛がなんとなく合っていたのもおもしろい。
ドワーフ軍の代表、トーリンのいとこのダインはイノシシのような大きな豚のような動物に乗っていた。ドワーフは体が小さくごつっとしているが、動物も同じようなイメージだった。
それぞれの種族がそれぞれの体に合った動物に乗っていた。また、その動物たちが装飾品や鎧を身につけているのも見ていて楽しかった。ちょうど『300』の象のように。
動物の装飾だけではなく、武器などの造型のこだわりや一つの画面の中での情報量の多い戦闘、大人数が入り乱れているあたりなど、ところどころで『300』を思い出すシーンはあった。

トロールが出てきた時のその大きさにも驚いた。ここも引いて撮っているので、人間大に比べての巨大さがわかる。その攻撃方法もおもしろく、背中に二、三人オークを背負っていて、トロールが屈んで後ろのオークたちがパチンコの容量で石を飛ばし、壁を破壊していた。
このような、ストーリーとはまったく関係のない細かいところに凝っている様子も『300』っぽい。逆に言えば、今作はそのほとんどが戦闘シーンで占められているので、凝ってはいるけれど、内容はほぼないです。

前二作を観ているときもゲームっぽいなと思っていたのですが、それはファンタジーRPGっぽかった。今回は、ゲームはゲームでもジャンルは違う。大人数の戦闘は戦国BASARAのようだったし、後半のトーリンやキーリがアゾク達と戦う一対一の戦闘は格闘ゲームのようだった。どちらにしてもアクションです。

倒れた塔を橋代わりにして、壊れるところをひょいひょいジャンプして渡るレゴラスは、エルフの軽やかさがよくわかった。華麗でした。ゲームだったらあんなにタイミングよくジャンプするのは難しそうと思ってしまった。

その次のアゾクとトーリンの戦闘は更に難しいステージといった感じだった。まず、足場が氷になっているため立っているのもやっとで戦いづらい。そして、鉄球のようなものを打ちつけてくるので、避けても足場が壊れる。これは難易度が高い。

戦闘は戦闘で、これ単体で見れば非常に見応えはあって面白い。ただ、140分のほとんどが一つの戦闘で、しかも、これがホビットの最終章というのはどうなのだろうと思う。別の映画だったら最高でした。

戦闘が終わったあとには、きっとこれは『ロード・オブ・ザ・リング』に繋がるのだろうなと思うエピソードも出てきた。
レゴラスの向かう先のことも出てくるのだろうし、ガンダルフがビルボの家を訪ねてくるシーンで終わったけれどそこから始まるくらいなのではないかと思う。また、序盤だけれど、森の奥方が追い払ったネクロマンサーたちのことも出て来るのだろう。

毎度お馴染みのHFRで観ましたが、相変わらず明るいシーンでは色がはっきりしすぎてコントのようになっていた。
ただ、今回は村が焦土にされるのも夜だし、戦闘シーンも雪が積もっていて空も曇りのため、あまり日中のシーンはなかった。
また、瞳の色がいつも綺麗な色になるのが目をひいていたけれど、アゾクの小さな瞳まで綺麗な澄んだ色になってしまっていた。

前二作と雰囲気は違っても、画面につめこまれた情報量という面では同じなので、高画質のほうが細かいところまでよく観られたとは思う。

あと、HFRは関係ないかもしれないですが、今回もカメラが後ろにぐわーっとひくことで全体の広さを示す撮り方をしていて、これが毎回酔う。

あとこれも、別にHFRとは関係がないかもしれないけれど、スマウグが上空後方から来るシーンで、本当に映画館の後ろのほうから飛んできたように錯覚した。

原作は600万部売り上げた小説であり、作者のギリアン・フリンは脚本として携わっている。デヴィッド・フィンチャー監督作品。音楽はすでに常連になったトレント・レズナーとアッティカス・ロスで、この辺も楽しみにしていました。

以下、ネタバレです。






何度か映画館で予告を観ていたんですが、その印象とはまったく違うものとなった。
妻エイミーが失踪したポスターの横で偽っぽい笑顔を浮かべる夫ニック。水に沈んで行くエイミーの映像から、誰かに殺されたか自殺したか、とにかくもう死体は上がったのだと思っていた。
そして、次第に周りから疑われるニック。「殺していない」というセリフから、何か陰謀に巻き込まれようとしているのか、或いは本当に殺したけれど偽っているのかと思っていた。
妻が殺され、夫が疑われながらも犯人を捜し出すという話だと思っていたのだ。要は『Prey』と同じ感じですね。

また、最初に見た特報では『SHE』が使われていたのもずるい。いかにも恋愛映画でござい、といった風だった。

現に序盤の回想シーン、出会いのシーンやプロポーズのシーンは、ロマンティックムービーのようだった。ベーカリーの裏で、雪のように舞う粉砂糖が口唇に付いていたのを指で払ってキスをするシーンも素敵だった。
ここで使われている曲が、ふわっとしていて幻想的なものなんですが、どこか不安感をあおるもので、このさじ加減がやはりあの二人の仕事なのだと感じさせた。手放しで幸福感に浸れない。

序盤ではニックの浮気がバレたり、実は二人とも失業して、金の切れ目が縁の切れ目かと思うようなギスギス具合だったりと夫婦間がうまくいっていなかったことがわかる。これはもしかして本当にニックが殺しちゃったのかもしれないと思いながら観ていたら、どうやら罠にはめられたようで、しかも罠をしかけたのがエイミーではないか、という疑いが出てくる。

ニックと彼の味方でいたいと思う妹、彼を疑う警察官の視点で進んでいき、失踪しているエイミーは失踪しているので当然ですが、回想シーン以外には出てこない。エイミーに関しては予測しか出来ない。ここまではなんとなく普通のミステリーのようだった。

しかしその後、話がエイミー視点になるのだ。事件を探る側が真実に辿り着くわけではなく、“犯人”自らの視点で、手口をばらすのがおもしろい。
しかも、ラストではなく映画の中盤過ぎくらいで出てくるのは珍しい。

それは思っていたよりもずっとおぞましい真実で、しかもそれがなんてことのないことのように、駆け足で説明される。
自分の血を抜きながら本を読んでいる姿も、妊婦の尿をこっそりと採取する姿も、なんとも思ってなさそうに見えた。
用意周到、長い間かけて練られた計画で、慌てること無くてきぱきと犯罪現場を作り上げる様子はコミカルで痛快にも見えた。
ここでは、少しNINを思わせる曲が使われていた。

ここまでの回想シーンででてきたエミリーとはえらく違っていた。おそらく、警察や夫のニックでさえも見たことの無い姿だと思う。
前半とここ以降、エミリーを演じるロザムンド・パイクがまったく違う人に見えるのがすごい。豹変している。前半だと聡明で明るくて美人で…という感じだったけれど、ここからは聡明なのは聡明なのだろうが、違った方向にその才能を生かしている。表情も強かで冷たい。
逃亡しているからノーメイクだったり、パートナーに暴力を振るわれたように見せるために自分で自分をかなづちで殴ったりと、なんでもする感じだった。

ニックは友達はいなかったんじゃないか、妊娠しているはずは無いと言っていた。浮気をしていて、気持ちは離れていても、ある程度正しいところを見ていたことになる。
また、妹がエイミーのことを好きなれないと言っていたのも、女の勘というか、正しかったことになる。

しかも、話が進んでいくと、エイミーの昔の彼もレイプ犯に仕立て上げられたという話が出てくる。今回が初犯ではなかった。前からのことだと考えると、結婚記念日の宝探しについても同じなのかもしれない。緻密な計画を立てて、人を引っ張り回す。
このように歪んでしまったのは、おそらく母親の書いた絵本が原因なのだろうと思う。『完璧なエイミー』という同じ名前のキャラクターで、明らかにモデルにされているのに、現実のほうが劣っている。人間なのだから当たり前だ。でも、母親はおそらく、理想を押し付けたのだろう。だから、エイミーも相手に完璧な理想を求めた。

逃亡中に金を盗まれたエイミーが縋ったのは、昔ストーカーじみたことをされたデジーだった。ニール・パトリック・ハリスが演じてます。ここでなんでデジーに連絡したのだろう。本当に頼れる友人なんていないのだというのもわかる。気が動転していて忘れてしまっていたのかもしれない。少し考えればわかりそうだけれど、エイミーはデジーの別荘で軟禁状態にされてしまう。

ニック側ではエイミーの死体は出ないし、マスコミや世間の声が次第にニックを犯人にしようとしていて、警察もそのように動き出していた。絶体絶命の中、テレビで良い夫を演じることで一旦は収まるけれど、それを見たエイミーは帰りたいと思う。
理想の夫は演じられていたものでも、それを見て惚れ直す。結構、惚れっぽい面もあるのだと思う。
ただ、軟禁状態でどうするかといったら、また計画を立てて、偽装して、逃げてくる。いままでと一緒のことだ。

血だらけで帰って来たエイミーをニックは抱きしめるが、あくまでもテレビ向けのこと。頬にキスなども、見えない角度で口唇をパッとやるだけ。

マスコミや世間は勝手で、その様子を見て理想の夫婦などとまつりあげるが、ニックはたまったものではない。でもエイミーは繋ぎ止めておきたい。
そこでどうするかといったら、また計画を立てて実行する。
不妊治療中だったため、ニックの精子が病院にあったので、それを使って勝手に子供を作ってしまう。

子供のことを出されたら、もうニックも別れられないんですよね。エイミーの望みが全部叶えられたところでおしまい。
エンドロールに使われているのは、後味の悪さを示すような曲でした。なんともいえないもやもやした気持ちが胸の奥にずんと残っているのに、重さを更に追加するような曲だった。不安感が増す。
そんなところで終わって、その先を私たちに委ねられても。
刑事と妹がどうにかしてくれるのに期待するしかない。

本当だったら、エイミーが逮捕されたり、エイミーがこうなってしまった原因と思われる母親とのなんらかの和解などがあると、見終えてすっきりするんですが、そんな甘い終わり方ではなかった。

最初と最後に使われているのが同じ感じのショットなんですが、セリフは一緒だけれど、エイミーも同じ顔だったのだろうか。明らかに、最後のエイミーのほうが怖いことを考えているように見えた。映画が始まる前と最後とでこれほど印象が変わるとは。

ベン・アフレックの良い夫に見えるけれど、実は流されやすく弱い部分があるという演技も良かった。カメラを向けられて笑ってしまう部分はつられすぎだろうと思う。そういえば、顎を指で隠して話すシーンがあったけれど、これは原作だとどうなっているのだろう。ベン・アフレックだから顎なのだろうか。

それでも、やはりこの映画はロザムンド・パイクなのだと思う。『ワールズ・エンド』で観た時には、さばさばしていて好感は持てるけれどちょっと田舎っぽい印象だった。今作では、ちゃんとしているときには気丈で洗練された美人に見えるし、裏の顔は血の気がないというか硬い表情で、本当に怖い。
ただ、憎らしいけれど、なぜかもっと観ていたいような、不思議な魅力があった。

“4人の俳優が12年間家族を演じた”という宣伝文句の“家族”の部分を読みもらしていたので、主人公の男の子の12年間を4人の俳優が演じているのかなと思っていたのですが違った。
撮影期間が12年間で、演じているのは同じ俳優さんたちだった。

以下、ネタバレです。




『いとしきエブリデイ』も実際の4人兄妹を5年間かけて撮影しているため、よく引き合いに出されるのですが、『いとしきエブリデイ』のほうが歯磨きや朝起きて学校へ行くなどというルーチンワークを描いていて、よりドキュメンタリーっぽかった。
この映画も淡々とはしているけれど、ドラマティックな時々が入っているし、より演技している感じはする。
5年と12年という歳月の違いもあるけれど、6才から18才という時期は髭も生えれば声変わりもする。わかりやすく変わってくる時期なのかもしれない。
姉の12年でもあるんですが、この子は小さい頃からそれほど変わらない。髪を赤く染めたり、化粧をしたりはもちろんします。この子はリチャード・リンクレイター監督の娘さんらしい。

子供だけでなく、当たり前だけれど、親たちも12年間経っている。時の流れは誰にとっても等しいものだ。なんとなく、子供の成長だけを描いた映画だと思っていた。

母親は見た目にも少し太ってくるし、胸も垂れてくる。体つきから加齢が感じられた。
父親に関しては、見た目は髭が生えたくらいでそれほど変わらない。中年太りもしていない。これは、演じているのがイーサン・ホークだからというのもあるのかもしれない。

ただ、内面は随分と変わった。若くして親になったときには逃げ出したけれど、息子が15才の誕生日には、新しい奥さんとの間に赤ちゃんが生まれていた。昔から大事に乗っていた趣味の車(GTO)を売り、ファミリータイプに買い替え、ミュージシャンになることもあきらめて、会社勤めを始めていた。やっと親になる決心がついたのだろう。

母親も最初は子供を大事にしながらもフラフラしている様子だったが、大学で学び、そのうちに教授になって教鞭をとるようになるとまるで別人のようだった。恰幅が良くなっているせいもあるかもしれないけれど、頼りがいがある。

『6才のボクが、大人になるまで。』というタイトルですが、大学に入り家を出ただけで大人なったわけではないので、原題の『BOYHOOD』か直訳の“少年時代”でいいのではないかと思う。少年時代は、確かに終わる。大人にはなっておらず、大人への階段をのぼり始めたところだと思う。
大人になったのは6才のボクではなく、むしろ、両親のほうだ。

いちいち、何年という表示は出ないけれど、車の中や店内で流れている音楽や映画の話、使っているゲーム機などで大体の年代がわかるのがおもしろかった。

最初の方でドラゴンボールを見ているシーンがあるんですが、これはアメリカでの放送がどれくらいずれているのかわからないのでなんとも言えない。魔神ブウのあたりでした。寝ている布団のカバーもドラゴンボールだったので相当好きなようだった。

父親の家に遊びに行った時に「妖精はいるの?」という話をしているのですが、次の日に送ってもらう車の中で流れていたのがThe Flaming Lipsの『Do You Realize??』(2002年)。
アル中の継父に車で連れ回され、酒屋で換金させられてるときに流れていたのがGnarls Barkleyの『Crazy』(2006年)。
二番目の夫のところから逃げて来た後だったか、母親が学校まで送って来たときに車の中で流れていたのがPhoenixの『1901』(2009年)。

あと、父親と二人でキャンプをしたシーンで、「あの子(好きな女の子)は『ダークナイト』や『トロピック・サンダー』の魅力が全然わかってないんだ」と話すシーンがあって、両方とも公開は2008年なのでそのあたりのようです。
それより、『ダークナイト』は名作として名高いのでいいんですが、それと『トロピック・サンダー』を並べてくるこの子のセンスがとてもいい。将来が有望だと思った。

それもそうなんですが、高校卒業あたりで「人間がさらわれてロボットにされる」と陰謀説を彼女に話したり、アート写真を撮って現像していて授業にでなかったりと、幼い頃に離婚をしていても、少なからず実父の影響があると思った。

主人公の高校卒業の日に、父親の友達だかバンド仲間のライブに行くシーンがある。その人は「あの時小さかった子がこんなに大きくなって」みたいなことを言っていたけれど、その人が変わらずにバンドというか音楽活動を続けていたのも驚いた。
その時に、お祝い代わりに歌を捧げてくれるんですが、ここ、歌詞が出てきたら絶対に泣いていたシーンだと思うんですが、イントロでシーンが変わってしまう。
なんとなく、泣かす要素を排除しているようにも思えた。

感動というよりは、感慨深い映画だった。監督にしても、キャストにしても、スタッフにしても、よく撮ったなと思う。
物語というよりは、生活や人生そのもの。母親は二回離婚をしているけれど、決して特別変わった家族ではない。12年間をこっそり覗き見させてもらったような感じだ。

日本で2001年に公開された映画『リトル・ダンサー』をミュージカル化したもの。ロンドンでは2005年から上演されている。監督は映画と同じスティーブン・ダルドリー、音楽はエルトン・ジョン。
今回の映像は、9/28にロンドンのヴィクトリア・パレスで行われたもので、ライブ配信された国もある。
最初に監督が客席に挨拶をするのですが、そこでちゃんと「日本でも少し遅れて公開されます」と言っていて、最初から日本公開も想定されていたのが嬉しい。そのせいか、NTLよりも日本語字幕がしっかりしていた感じがした。
どちらにしても、現地で見のがしたのでNTLに続き、こうして日本でも映画館で観られるのはありがたい企画です。

NTLと同じく、最初にメイキングや楽屋紹介などの短い映像がついていた。楽屋紹介は今回主役を演じるエリオット・ハンナくんによるもの。今期でもビリー役が4人いるらしいけれど、そのうちの一人。大体、北東部の子が選ばれることが多いらしいけれど、彼はリバプール出身とのこと。夢はミュージカル俳優になることらしい。

「11時間も練習してるんだ!」と言っていたけれど、スタッフの方が実際は7時間と訂正していた。それでも大変だ。でも、実際に内容を見ると、常に出ているし、ダンスシーンも多いので納得。

舞台上の椅子は同じ大きさに見えるけれど、少しずつ大きさが違っていて、ステージの奥行きを感じさせ広く見えるようにしている、という裏話も公開されていた。本編を見ても、まったくわからなかった。

観られて良かったことには変わりないけれど、歌やダンスはやはり生で観たいと思わせた。NTLの『フランケンシュタイン』を観た時よりもそれは強く感じた。

映画と大筋では同じだけれど、映画がストで負けて以降、だいぶ話が重く暗くなってくるのに対して、ミュージカル版はもちろん重くはなるけれど、どこかコミカルな部分が残した作りになっている。
特にオーディションを受けにロンドンに出てくるシーンの父子ともどものおのぼりさん具合はおもしろかった。その前の、町をあげてビリーを送り出すシーンが泣けただけに余計に。
ステージの幕を下ろして、父子だけが幕の前に出て「ここがロンドンかー」などと話すシーンは、キャストがこちら側に来たようでおもしろかった。

家のシーンでは螺旋階段が下から来て、上がるとビリーの部屋が二階のようになっていた。セットも凝っていたけれど、インターミッション後のクリスマスパーティは、労働者階級の人たちが不満はあれども楽しそうだった。最初、全員がサッチャーのマスクをかぶっているのもおもしろい。現在の状況をしめす人形劇をやりながら、上からすごく大きなサッチャー人形が出てきて、それも当時の状況をしめしているのだと思った。
ここでの父親のカラオケが泣ける。無骨ながらも、亡くなった妻に対する想いが歌われていた。
気持ちがそのまま歌われるシーンはどれも泣いてしまうけれど、18才になったら読んでと母から託された手紙や、最後の母親との別れの歌が特に泣きました。

エルトン・ジョンの曲もどれも良くて、2005年から変わっていないのかどうかはわかりませんが、長く愛される魅力はここにもあると思った。
ミュージカルにおいて、曲が混じるシーンが好きなのですが、今回もあった。お前らのおかげで給料が上がったと炭坑夫たちを挑発する警察官とあくまでも戦う姿勢を崩さない炭坑夫たち。この言い合いのような勇ましく攻撃的な曲と、バレエを習っている子供たちの自由に踊ろうという華やかで力強い曲が混じる。
大人たちの争いと子供たちは無関係であってほしいと思う。それでも否応無く取り込まれてしまう様子がこの二つの曲が混じるシーンでうまく表されていた。

自由にやりたいことをやろうよというのは、バレエだけでなく、ビリーの友達のマイケルにも言えることだ。マイケルがお姉さんのワンピースを着ていて、ビリーにも女物の服を着るように促してコーディネイトしてあげる。色とりどりの洋服を二人の少年が着ながら、踊るシーンは楽しかった。途中で大きなドレスが出てきて一緒に踊るんですが、おじさんのズボンみたいな服だけ、男物はいらない、とマイケルに追い返されていた。

マイケルは女物の服が好きなことを隠そうとはせずに、いいじゃないか好きなんだから、と開き直るような姿勢も見せていた。途中でゲイであることも告白。もちろん悩んでいないわけはないだろうが、それよりもあっけらかんとした様子が印象的だった。最後にビリーがマイケルの頬にキスをするのも泣ける。

マイケルのことだけではなく、途中途中でゲイネタが織り交ぜられていた。客いじりもそうだったし、男がバレエをやるなんて!というのも何度も出てきた。
また、ロンドンのバレエ学校からの手紙にBilly Elliot,Esquireと書いてあるのを、Billy Elliot,Queerと読み間違えるシーンも。

ビリーはうっかり習うことになってしまったバレエに興味を持つけれど、中で踊るダンスはバレエだけではなかった。
タップダンスも多かったし、縄跳びをしながらのタップダンスは曲芸のようだった。
ほぼ親の事情と意見によりバレエ学校の試験を受けられなくなってしまった時の怒りのダンスは、バレエを基調としてるのかもしれないけれど、より激しいものだった。
オーディション後に「踊っている時にどんなことを考えますか?」という質問を受けて、自由になるんだと歌いながらのダンスもバレエでありながらより全身を使っていて、体操の床種目のようなものも取り入れられていた。ここの曲もとても良くて泣けるのですが、ダンスからも生命力のようなものを感じた。歌いながら必死に踊るので、少し息切れもしているのがまたいい。

大人になったビリーと現在のビリーが一緒に踊るシーンがあるけれど、今回はその大人ビリー役として初代ビリーのリアム・ムーアが特別に演じている。現在はバレエダンサーとして活躍しているらしい。
白鳥の湖に合わせて、二人並んで椅子を使って同じように踊っているけれど、途中からペアを組んで踊る。大人と子供が組んで踊るのを初めて見ました。また、同じ役の二人というのがいい。

また、今回のみの特別な企画として、歴代のビリーを演じた27名が揃って踊るカーテンコールも楽しい。現在のビリー以外はBILLYと書かれたTシャツを着ていた。当たり前ですが、全員青年になっていた。

カーテンコールは出演者がチュチュを付けて出て来て、笑いながらもいい舞台を観たとしみじみ思って涙が出てきた。特に、おばあさん役の方はチュチュ姿で椅子に座って足を開くなど、サービス精神旺盛でした。


試写会にて。
タイトルから『おくりびと』を想像するかもしれない。死者を送り出す仕事という点では同じですが、内容は全く違います。
身寄りの無い死者の家族を捜したり、葬式を執り行う民政係の話。地味だけど律儀な主人公、ジョン・メイ役にエディ・マーサン。今作が初主演。

以下、ネタバレです。





椅子を引いて座る、左右を見て横断歩道を渡る、ご飯はパンと缶詰とリンゴ。主人公のジョン・メイは、ルーチンの中で生きているようなきっちりきっちりした毎日を送っていた。
映画を観る前は、孤独死した方の家へ赴いて、生きていた痕跡から人柄を探り、遺族を捜し、連絡するが葬式への出席を断られ…という仕事について、ジョン・メイ自身はどう思っているのだろうと思っていたけれど、決して嫌いではなかったようだ。
まったく知らない亡くなった方の家へ行き、ハンドクリームに残る指の跡や、寝ていたことを示す枕のへこみなど、彼女がここにいた証をじっと見つめる。そこから、生前どんな方だったかを推測し、葬式で読み上げる文章を作る。
本当は生前関わりがあった人がやれれば一番いいのだ。でも、いないのだから仕方が無い。死んでから知り合いになる…いや、一方的に知り、一人きりで葬式をあげていたジョン・メイは、優しい男だと思う。

でも、やはりというか、上司は仕事の効率化を優先して、ジョン・メイのそんな作業を簡略化するために、彼を解雇し、別の人を雇おうとする。
死んだ人に想いを馳せてどうなる、その場にいないのだからどんな宗派だったかなんてどうでもいいだろう、そんな風に言ってしまうことは簡単だ。けれど、それではあまりにもさみしいだろう。

解雇されたジョン・メイが最後の仕事をするために、実際に死者に縁のあった人に会いに行くべく会社を飛び出すシーンは、少し『LIFE!』を思い出した。
自宅と会社の往復だった毎日が変わる。ルーチンからはずれる。一気に世界が広がる。
中盤の人探しミステリ展開は、イギリス各地の風景や電車の中の様子が見られて、その面でもワクワクした。

亡くなったビリーはだいぶ破天荒な人生を歩んでいたらしく、周囲の人物も破天荒な人が多い。おそらく、ジョン・メイといままで関わりのなかったタイプの人たちだ。

通常の業務でも、死者のことを調べるうちに、なんとなく友達になったような、近しい人物になったような気持ちになっていたのだと思う。調査が終わった後も、アルバムに亡くなった方の写真を貼付けていた。
しかし、今回のように自分で足を使って、まるで探偵のように死者の近辺をさぐるのは初めてだったはずなので、より親近感が沸いたのだと思う。
貰った魚を焼いて食べていたが、他人から魚を貰うという経験も初めてだったと思う。いつも缶詰ばかりだったので、少し焦がしていたのも細かい。
人との出会いや経験によって、ほぼ無表情だったジョン・メイの顔に光がさしてくる様子が、さすがエディ・マーサンの演技はうまいと思わされた。
特に、ケリーと話してからは、ケリーと話してから頬に朱がさしたようになって、表情がキラキラ輝き始めた。誰が見ても恋している表情を作り出していた。

これからだと思っていた。このまま、ケリーとお付き合いして…が本当のハッピーエンドなのかもしれない。
横断歩道を左右見て渡るという伏線をこんなところで回収しなくてもいいのに。

映画の途中でも思っていた。他の身寄りの無い人が死んだ時にはジョン・メイがいる。けれど、身寄りのないジョン・メイが亡くなったときにはどうなってしまうのか。

同時期にビリーの埋葬が行われていて、そこにはジョン・メイが引きあわせた人々が集っている。最後の仕事で役目をまっとうしたのだから、それでいいというラストなのかと思っていた。少しさみしいけれど、彼としては本望だろう、と。

それでもいいんですが、ケリーがちらちらとジョン・メイの姿をさがしていて、でもお墓から去ってしまったので、気づいてあげないのかと落胆していたら。

違った。彼は孤独なんかではない。一人じゃなかった。

わざわざ目に見える形で、直接的な描写するとファンタジーになってしまうし、もしかしたらこのラストには賛否両論あるのかもしれない。けれど、このわざわざ感が監督の優しさなのだと思う。暗に示すというわけではなく、しっかりとわかりやすく描くことで、誰の心にも伝わる。

この映画に限ったことではなくて、地味だけれど影で一生懸命にやっている人が報われる話が大好きなので納得のラストだったし、最後の最後でそうくると思わなかったので不意打ちもあってボロボロ泣いてしまった。報われないように見えても大丈夫なのだ。
心から良かったと思ったし、後味もとても心地よい。静かだけれど、いい作品を観たというあたたかい気持ちがじわじわと胸に広がる。

ケリーを演じたのがジョアンヌ・フロガット。『ダウントン・アビー』のメイド長アンナ役で有名。『フィルス』にも出ていたのでここでもエディ・マーサンと共演している。
まるまる明るい役というよりは、どこか影を背負った、けれど芯の強い女性役が多いのかもしれない。

嫌な上司役のアンドリュー・バカンはどこかで見たことがあると思ったら、『ブロードチャーチ』の被害者の少年の父親役でした。

エディ・マーサンがとにかくはまり役。『フィルス』や『ワールズ・エンド』でも演じていたような、地味で真面目でいい人だけどわりを食う役。でも今回、わりを食っているようでも特に気にしている様子はなかった。解雇されたあと、机を整えて、窓の柵にベルトを結びつけていたのでまさか自殺をするのかとも思ったんですが、ビリーの真似をして歯でぶらさがることができるのか試してみようとしているだけのようだった。この頃になると、おかしなことに好奇心まで持ち始めているのもおもしろい。とにかく、悲観をしている様子はなかった。
きっちりきっちり生活をしている男とその最期。まさに、原題である『STILL LIFE』というタイトル通りだった。


丸の内ピカデリーで行われている35mmフィルム上映を観てきました。
フィルムの感想と今回観ての感想。
以下、ネタバレです。






映画館の設備のせいもあるのかもしれないけれど、最初のマーフが部屋にくるシーンなど、屋内のシーンがかなり暗かった。
屋外のシーンでは、色が太陽光にかなり左右されているように見えた。特に、マシュー・マコノヒーの肌の色が赤黒かった。
やはり、フィルム特有というか、昔の映画っぽくなっていたのは雰囲気が良かったです。がさがさした感じというか。どこまでも畑が広がっていて、その上を小さい無人機が飛んでいて、それを車で追いかけて…というシーンはよりノスタルジックに見えた。
地球が朽ち果てようとしている物悲しさもよく伝わって来た。

ではSFシーン、宇宙に行ってからはどうかというと、こちらはこちらで昔の映画っぽくなっていた。
もちろん、撮影裏話みたいなものを読んだせいもあるけれど、最初に観た時には宇宙船はCGかと思っていたが、今回は良い意味で模型っぽさが際立って見えた。

2014年のSF映画がフィルム撮影されて、それをフィルム上映で観るという機会は中々ないのではないかと思う。

今回、気づいたことですが、無人機を追いかけるシーン、太陽電池を抜こうとするクーパーにマーフが「壊さなきゃ駄目なの?悪いことはしてないのに」と言いますが、機械を擬人化してるんですよね。これで子供の頃からマーフには素質があるのがわかるという説明と、そのあとのクーパーのセリフ、「適応して生き延びるんだ、俺たちのように」。これを言わせたかったためのシーンなのかもしれない。

マン博士が出てくるともう映画の終盤な気がしていたんですが、ここから45分あるらしい。まだ三分の一残ってた。
ここからの展開が怒濤なせいもあると思うんですが、突き落とされたあたりからドッキングまで曲がずっと同じせいもあると思う。
ここから地球側と宇宙側とが交互に出て来るんですが、その時にも音楽がずっと続いている。普通、地球と宇宙が出てきたら、一方その頃…?的な感じでガラッと雰囲気を変えるために音楽も変えると思う。でも、この映画では、変わらない。宇宙から地球にシーンが移っても雰囲気までは変わらないので、より繋がっている感じがする。そして、後半の本当に宇宙と地球が繋がっているシーン、マーフの部屋の本棚の裏にクーパーがいるシーンが出てきてなるほどと思う。

突き落とされたところからドッキングまで同じ曲なんですが、最初はオルガンのみで不安感をあおる音になっているけれど、徐々に音数が増えていき、ドッキングのシーンでは勇気や力強さを感じるものになっている。この変貌の仕方がドラマティックでいい。サントラ買わなくては。




『フューリー』



戦車アクションと聞いて、ドンパチのある爽快感溢れる作品かと思っていたら、そんな雰囲気ではなかった。犯罪多発地域ロスの警察官の日常をファウンド・フッテージ方式でリアリティのある映像で仕上げた『エンド・オブ・ウォッチ』のデヴィッド・エアー監督と聞いて納得した。
以下、ネタバレです。







戦争ものではあるけれど、開戦や終戦は描かれていない。大抵の戦争ものはそれらを描くことでドラマティックに、時には過剰に感動的になっていたりもするが、今作はその要素は一切ない。
戦時中の、よりによって一番過酷な時期が描かれている。それも、大河的に描くわけではなく、24時間だけである。しかし、過酷な時期の24時間のため、より過酷さが凝縮されている。
上映時間は二時間を超えていても、描かれているのは主に四つの戦いと、制圧した町での家の出来事だけだ。一つ一つが入念に細かい。

戦車対戦車はこの四つの戦いのうちの一つだけでした。戦車同士の戦いがメインかと思っていたので、もっと見たかった。
ただ、この戦いについてもかなり濃厚。正面からではまったくダメージが与えられないあたりも、ドイツ軍のティーガーのすごさが窺えた。
この戦車、イギリスの戦車博物館から唯一動くものを借りてきた本物を使っているらしい。アメリカ軍側の戦車も本物だとか。

戦車同士の戦いについては、手に汗握るものだし、弾が当たればやった!と思いながら観ていたりしたんですが、戦車からドイツ兵たちが逃げ出して、その人たちは当然撃たれる。そこでは、やった!とは思えないんですよね。
もちろん人間が中にいるから戦車は動いているのはわかっていたはずだ。それでも、そこまで描かれると、少なくともエンターテイメントとしては楽しめない。

だから、戦車どっかんどっかんとか、5人のアメリカ兵が300人のドイツ兵相手に戦うとかで、『300<スリーハンドレッド>』と同じと思われるかもしれないけれど、まったく違う。あちらは、一応史実を元にしているけれど、ファンタジーめいているからエンターテイメントで済まされるのだと思った。

この映画はもっと殺伐としている。最後の戦いにおいても、少数で戦に臨んでも、結局は敗れてしまう。これが現実で、助けてくれるスパルタ兵はいないのだ。
なんであのシーンで逃げなかったのだろうとも思うけれど、いままで一緒だったフューリーを残して行くわけにはいかなかったのだろう。観ているだけでも、途中からはただの戦車ではなく、仲間のように見えた。
だから、最後、動かなくなった満身創痍のフューリーの周りで多数のドイツ兵の死体が転がる様子を上からのショットはさみしいし、やはり何も残るものはないのだと思う。

主演はブラッド・ピット。感情が適度に死んでいる、歴戦の兵士の顔をしていた。戦車の中の仲間たちを引っぱる、頼りがいのある軍曹役だったけれど、序盤に一度だけ、人に見られないように影に隠れて弱さを見せるシーンがあったのも印象的。それ以降、最後まで決して弱さは見せなかった。

新人役にローガン・ラーマン。『ウォールフラワー』にも出ていたがぼっちゃんっぽい風貌だし、兵士という感じはしない。配属されたときには、一人だけ色が白いし小綺麗だったので、とても戦場では通用せず、序盤で死ぬのではないかと思った。だけど、最初は頼りないながらも、段々顔つきが変わっていくのが良かった。

『ニンフォマニアック』が良かったシャイア・ラブーフも出ていた。信仰心が厚く、通り名はバイブル。冷静で、何を考えているかわからない感じだったが、腕は確か。首を傾けて、潜望鏡から外を窺う様子がセクシーだった。あと、睫毛の長さも気になった。
シャイア・ラブーフ、『ニンフォマニアック』の前まではどちらかというと好きではない俳優だったけれど、今回も良かった。たぶん、肝がすわった役が合うのだと思う。前まではふわふわした、子供っぽい役しかやっていなかったような感じがする。この先も期待してます。