『ゴーン・ガール』


原作は600万部売り上げた小説であり、作者のギリアン・フリンは脚本として携わっている。デヴィッド・フィンチャー監督作品。音楽はすでに常連になったトレント・レズナーとアッティカス・ロスで、この辺も楽しみにしていました。

以下、ネタバレです。






何度か映画館で予告を観ていたんですが、その印象とはまったく違うものとなった。
妻エイミーが失踪したポスターの横で偽っぽい笑顔を浮かべる夫ニック。水に沈んで行くエイミーの映像から、誰かに殺されたか自殺したか、とにかくもう死体は上がったのだと思っていた。
そして、次第に周りから疑われるニック。「殺していない」というセリフから、何か陰謀に巻き込まれようとしているのか、或いは本当に殺したけれど偽っているのかと思っていた。
妻が殺され、夫が疑われながらも犯人を捜し出すという話だと思っていたのだ。要は『Prey』と同じ感じですね。

また、最初に見た特報では『SHE』が使われていたのもずるい。いかにも恋愛映画でござい、といった風だった。

現に序盤の回想シーン、出会いのシーンやプロポーズのシーンは、ロマンティックムービーのようだった。ベーカリーの裏で、雪のように舞う粉砂糖が口唇に付いていたのを指で払ってキスをするシーンも素敵だった。
ここで使われている曲が、ふわっとしていて幻想的なものなんですが、どこか不安感をあおるもので、このさじ加減がやはりあの二人の仕事なのだと感じさせた。手放しで幸福感に浸れない。

序盤ではニックの浮気がバレたり、実は二人とも失業して、金の切れ目が縁の切れ目かと思うようなギスギス具合だったりと夫婦間がうまくいっていなかったことがわかる。これはもしかして本当にニックが殺しちゃったのかもしれないと思いながら観ていたら、どうやら罠にはめられたようで、しかも罠をしかけたのがエイミーではないか、という疑いが出てくる。

ニックと彼の味方でいたいと思う妹、彼を疑う警察官の視点で進んでいき、失踪しているエイミーは失踪しているので当然ですが、回想シーン以外には出てこない。エイミーに関しては予測しか出来ない。ここまではなんとなく普通のミステリーのようだった。

しかしその後、話がエイミー視点になるのだ。事件を探る側が真実に辿り着くわけではなく、“犯人”自らの視点で、手口をばらすのがおもしろい。
しかも、ラストではなく映画の中盤過ぎくらいで出てくるのは珍しい。

それは思っていたよりもずっとおぞましい真実で、しかもそれがなんてことのないことのように、駆け足で説明される。
自分の血を抜きながら本を読んでいる姿も、妊婦の尿をこっそりと採取する姿も、なんとも思ってなさそうに見えた。
用意周到、長い間かけて練られた計画で、慌てること無くてきぱきと犯罪現場を作り上げる様子はコミカルで痛快にも見えた。
ここでは、少しNINを思わせる曲が使われていた。

ここまでの回想シーンででてきたエミリーとはえらく違っていた。おそらく、警察や夫のニックでさえも見たことの無い姿だと思う。
前半とここ以降、エミリーを演じるロザムンド・パイクがまったく違う人に見えるのがすごい。豹変している。前半だと聡明で明るくて美人で…という感じだったけれど、ここからは聡明なのは聡明なのだろうが、違った方向にその才能を生かしている。表情も強かで冷たい。
逃亡しているからノーメイクだったり、パートナーに暴力を振るわれたように見せるために自分で自分をかなづちで殴ったりと、なんでもする感じだった。

ニックは友達はいなかったんじゃないか、妊娠しているはずは無いと言っていた。浮気をしていて、気持ちは離れていても、ある程度正しいところを見ていたことになる。
また、妹がエイミーのことを好きなれないと言っていたのも、女の勘というか、正しかったことになる。

しかも、話が進んでいくと、エイミーの昔の彼もレイプ犯に仕立て上げられたという話が出てくる。今回が初犯ではなかった。前からのことだと考えると、結婚記念日の宝探しについても同じなのかもしれない。緻密な計画を立てて、人を引っ張り回す。
このように歪んでしまったのは、おそらく母親の書いた絵本が原因なのだろうと思う。『完璧なエイミー』という同じ名前のキャラクターで、明らかにモデルにされているのに、現実のほうが劣っている。人間なのだから当たり前だ。でも、母親はおそらく、理想を押し付けたのだろう。だから、エイミーも相手に完璧な理想を求めた。

逃亡中に金を盗まれたエイミーが縋ったのは、昔ストーカーじみたことをされたデジーだった。ニール・パトリック・ハリスが演じてます。ここでなんでデジーに連絡したのだろう。本当に頼れる友人なんていないのだというのもわかる。気が動転していて忘れてしまっていたのかもしれない。少し考えればわかりそうだけれど、エイミーはデジーの別荘で軟禁状態にされてしまう。

ニック側ではエイミーの死体は出ないし、マスコミや世間の声が次第にニックを犯人にしようとしていて、警察もそのように動き出していた。絶体絶命の中、テレビで良い夫を演じることで一旦は収まるけれど、それを見たエイミーは帰りたいと思う。
理想の夫は演じられていたものでも、それを見て惚れ直す。結構、惚れっぽい面もあるのだと思う。
ただ、軟禁状態でどうするかといったら、また計画を立てて、偽装して、逃げてくる。いままでと一緒のことだ。

血だらけで帰って来たエイミーをニックは抱きしめるが、あくまでもテレビ向けのこと。頬にキスなども、見えない角度で口唇をパッとやるだけ。

マスコミや世間は勝手で、その様子を見て理想の夫婦などとまつりあげるが、ニックはたまったものではない。でもエイミーは繋ぎ止めておきたい。
そこでどうするかといったら、また計画を立てて実行する。
不妊治療中だったため、ニックの精子が病院にあったので、それを使って勝手に子供を作ってしまう。

子供のことを出されたら、もうニックも別れられないんですよね。エイミーの望みが全部叶えられたところでおしまい。
エンドロールに使われているのは、後味の悪さを示すような曲でした。なんともいえないもやもやした気持ちが胸の奥にずんと残っているのに、重さを更に追加するような曲だった。不安感が増す。
そんなところで終わって、その先を私たちに委ねられても。
刑事と妹がどうにかしてくれるのに期待するしかない。

本当だったら、エイミーが逮捕されたり、エイミーがこうなってしまった原因と思われる母親とのなんらかの和解などがあると、見終えてすっきりするんですが、そんな甘い終わり方ではなかった。

最初と最後に使われているのが同じ感じのショットなんですが、セリフは一緒だけれど、エイミーも同じ顔だったのだろうか。明らかに、最後のエイミーのほうが怖いことを考えているように見えた。映画が始まる前と最後とでこれほど印象が変わるとは。

ベン・アフレックの良い夫に見えるけれど、実は流されやすく弱い部分があるという演技も良かった。カメラを向けられて笑ってしまう部分はつられすぎだろうと思う。そういえば、顎を指で隠して話すシーンがあったけれど、これは原作だとどうなっているのだろう。ベン・アフレックだから顎なのだろうか。

それでも、やはりこの映画はロザムンド・パイクなのだと思う。『ワールズ・エンド』で観た時には、さばさばしていて好感は持てるけれどちょっと田舎っぽい印象だった。今作では、ちゃんとしているときには気丈で洗練された美人に見えるし、裏の顔は血の気がないというか硬い表情で、本当に怖い。
ただ、憎らしいけれど、なぜかもっと観ていたいような、不思議な魅力があった。

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