2013年公開。ドイツでは2012年公開。バイエルン国王、ルートヴィヒ二世を描いた映画。
ルートヴィヒの弟、オットー役でトム・シリングも出ています。

“ワーグナー生誕200周年に贈る…”と公式サイトには書いてあるけれど、ワーグナーはそこまで重要な役でもなかったと思う。他の人が嫌う中、ルートヴィヒには寵愛されていた。ルートヴィヒは戦争よりも芸術を好む、心優しい王として描かれていた。
けれど、心優しくても情勢は戦争へ向かっていき、彼も巻き込まれてしまう。最初から戦闘へ乗り気だったオットーも、後半で発狂してしまう。

王室が舞台とあって、とにかく豪華絢爛。城の中の内装、衣装、黄金の馬車など、目をみはる。
また主役のルートヴィヒを演じたザビン・タンブレアがとにかく魅力的。美貌という言われかたもしていますが、美しいというよりは個性的な顔立ちだと思う。ドクター・フーの11代目ドクター、マット・スミスに似ていた。
また190センチ以上とかなりの高身長。これはキャストを決める上での条件としても出されていたらしい。身長の低いトム・シリングと並ぶと結構な身長差があって、まるで親子のように見える。けれど、ザビン・タンブレアが1984年生まれ、トム・シリングは1982年生まれなので、トム・シリングのほうが年上だった。

身長が高いだけでなく、バレエダンサーのように手足も長い。王に就任したときにマントを着けて踊るシーンがあって、とても美しかった。そのまま、鏡の前に行って、王の身なりをした自分にうっとりした表情で口づけるのがセクシーでした。

ちょっとこの俳優さんが魅力的すぎるので、年数が経ったシーンで別の俳優に変わってしまったのはショックだった。似ても似つかぬ方だったので、その人がルートヴィヒなのだとは思わなかった。
40歳で亡くなったそうだけれど、演じていた俳優さんは50歳にも60歳にも見えた。周りに信用できる者など誰もいないといった感じに、頑固で人の意見を聞かなくなっていた。しかも、それが間違った方向へ進んでいき、ついには幽閉されてしまう。
画面全体も暗い。華やかさもない。
伝記映画だから晩年も描かなくてはいけないのもわかるけれど、少し長く感じてしまった。143分と上映時間が長い映画なので、晩年を短くしてほしかった。それか、長いなら長いでザビン・タンブレアをもっと見たかった。

『リプリー』


2000年公開。アメリカでは1999年公開。
原題『The Talented Mr.Ripley』で、同名の原作小説の映画化。アラン・ドロンの『太陽がいっぱい』も同じ小説を原作にしているけれど、こちらの映画の方がより、小説版に忠実とのこと。
小説は未読ですが、アラン・ドロンがトム・リプリーを演じていたのが印象的だったため、同じ役をマット・デイモンが演じるという話を聞いただけでも、それは比べてしまいそうな気がすると思ってしまった。

この映画では、出だしからして、トム・リプリーは冴えない奴という設定だったので、そもそものキャラクターが違っていた。
色が白く、とてもおしゃれには見えない大きな眼鏡をかけている。海に行くシーンではヘソまである大きな海パンでしかも色が蛍光色という、がっかりしてしまういでたちだった。

また、『太陽がいっぱい』では、友人というか騙すターゲットの服を着て、鏡に向かって「愛してるよ」と言うシーンがあって、それがすごく良かったんですが、今作でも似たシーンはあった。彼の腕時計をして鏡に向かって真似事をするシーンがあったけれど、アラン・ドロンが見せたセクシーな背徳感みたいなものはなかった。あと、持ち主にも見つからない。

殺すシーンも、一応ボートの上というか海上だけれど、ボートでの逃げ場の無い緊迫感みたいなものは無かった。なじられて、カッとなって殺したようにしか見えなかった。『太陽がいっぱい』だとここも、チェスに興じながら会話をして、次第に流れがおかしくなっていくんですよね。あと、彼女が一緒に乗ってて下ろす、ということもなく、最初から殺すターゲットと二人で乗っていた。

殺した後、その殺した人になりきったり、トム・リプリーのままでいたり、一人二役のようになるけれど、ダサい眼鏡をはずしてきちっとした身なりにするだけで、それなりに恰好良く見えてしまったのは、マット・デイモンの演技力のせいなのかもしれない。

でも、これは元々のストーリーの話ですが、各方面に嘘をついて、その整合性をとらずにどんどんドツボにはまっていくので、別に頭が良くはないと思うし、念入りに下調べなどをしていたわりにはかなり穴が多いように見える。
『太陽がいっぱい』の場合、そこはアラン・ドロンの美貌とすました感じで許される部分があると思うんですが、『リプリー』の場合、単にこずるい奴にしか見えない。

そんなだから、『太陽がいっぱい』では殺した男の彼女まで自分のものにしてしまうけれど、『リプリー』では彼女は終始、トム・リプリーのことを疑っていた。

そして、最後も時間の問題っぽい感じではあったけれど、逮捕はされていなかった。なるほど、これなら続編が作れそうだった。原作は三部作らしいです。
映画版は『リプリーズ・ゲーム』、『リプリー 暴かれた贋作』という続編が作られていますが、キャストは毎回一新されているみたい。

殺されるターゲット役は『太陽がいっぱい』ではフィリップという名前だったけれど、『リプリー』ではディッキーという男でジュード・ロウが演じていた。
『ガタカ』でもそうだったけれど、若いジュード・ロウが本当に美しい。綺麗だけれど、女性のような綺麗さではなくて、まるで彫刻のようだった。

こんなことなら、彼がトム・リプリー役だったら良かったのでは、とも思ったけれど、この放蕩息子で遊び人のディッキーという役も合っていた。遊んでいるのはわかっていてもついていきたくなるカリスマ性もあったし、魅力的な男だった。
ジャズバーにトム・リプリーを連れていくシーンでは、接点のなかった二人が仲良くなるという点と、不良がどんくさめの男を知らなかった世界に引き込んでいく点が『キル・ユア・ダーリン』のワンシーンを思い出した。


ティム・バートン監督作で実話というのは珍しい。『エド・ウッド』も実話でしたが、今作も脚本が同じ方らしい。

以下、ネタバレです。






60年代アメリカでブームになった“ビッグ・アイズ”シリーズ。その絵を描いていたのは、作者として出ていた男性ではなく、実は妻だったという話。
その詐欺師まがいの男性ウォルター・キーン役がクリストフ・ヴァルツ、妻マーガレット・キーン役にエイミー・アダムス。この濃いキャストからもわかる通り、ほぼこの二人の二人芝居のようになっていた。舞台っぽいので、なんとなく『おとなのけんか』を思い出した。

エイミー・アダムスは髪型、服装ともに可愛かったし、演技の見ごたえもあったけれど、やはりクリストフ・ヴァルツがとにかくすごかった。

最初から最後まで胡散臭い。そして、この詐欺師まがいの役柄がとても合っていた。

最初は休日の露店でフランスの路地の絵を売っていたけれど、その時にボーダーのTシャツを着ているんですよね。こんな姿のヴァルツは見たことがない。でも、フランスだからたぶんその恰好をしているんだと思う。はっきり言って似合ってないし、登場の仕方からしてまず胡散臭かった。

マーガレットに目をつけて、結婚し、彼女の描いた絵を売り出す。実際はどうなのかわかりませんが、映画だと最初から自分が描いたことにしようとは思っていないようだった。他の人が勘違いをしたのでしめしめといった感じに見えた。
ただ、元々のフランスの絵も他の人のものだったようだし、どうなのかはわからない。

口八丁手八丁、うまいことを言いながら、どんどん絵を売り、のし上がっていく様子を見ると、自分が作者のフリをするのはどうかと思うけれど、彼の売り出しがなければここまで有名になることも無かったのではないかと思う。プロデュース能力は高そうなのだ。だから、プロデューサーに徹していれば良かったのに。

調子の良くべらべら喋るヴァルツの他に、酒に酔って逆ギレする様子も見られます。逃げ込んだ部屋の鍵穴から、火をつけたマッチを投げ込む様は怖かった。

一番の見せ場は、後半の裁判のシーンだと思う。弁護士を呼ばずに、弁護士と証人の一人二役を裁判所でやってのける。映画の中の裁判所内の人々も、映画館の観客たちも、後半なのでヴァルツの所業はわかっており、もうほとんどさめた目で、慌ただしく二役こなす様子を見守った。一人だけが動き回っていて、まさにヴァルツ劇場。

結局、どちらが描いた絵かを証明するために、裁判所で絵を描かせるのですが、最初から描かせれば話ははやかったんですよね。でも、それをやらなかったのは、ヴァルツ劇場のためでしょう。

「一時間で描いて」と言われても、当然、ヴァルツ演じるウォルターは描くことができない。「ひらめかない」などと言って、椅子に座り直したりしつつ、時間が迫って来たところで、いざ描こうと腕を上げて「痛たたたた」みたいなのはもうほとんどコントで、いらつきを通り越して笑ってしまった。

往生際が悪すぎるんですが、実際のウォルターもかなり往生際が悪かったようです。ただ、2000年まで自分が描いたと訴え続けて、無一文で亡くなったというのは、少しみじめで笑えない部分もある。引っ込みがつなかなくなってしまったのだろうか。

監督はティム・バートンでも、いわゆるティム・バートンとしてイメージされるものではないかもしれない。
ファンタジー路線だったり、ゴテゴテしてたりはないけれど、ちょうどいい薄まり具合だった。
しっかりとテイストは残っていた。絵のお金で建てた豪邸は、外観が山小屋風なのがなんとも可愛い。他の映画に出てくる豪邸とは少し違う。

ティム・バートン映画ということでコリーン・アトウッドが衣装を担当していますが、映画の種類のせいもあるけれど、これもいつものコスプレ調のものではない。けれど、50年代60年代アメリカの洋服のキュート度をさらに上げた感じでとても可愛いものだった。こちらも、ちゃんとテイストが残ってました。


2013年公開。カナダ・フランスでは2012年公開。グザヴィエ・ドラン監督作。
タイトルから、男性として生まれたロランスが女性になる話かと思っていたけれど、そんな単純な話ではなかった。

もともと、ロランスには女性の恋人フレッドがいたけれど、ロランスが女性になりたいと打ち明けたあとも、ロランスはフレッドを変わらず愛そうとしていた。
私はどうしてもフレッド目線になりながら観ていたし、「求めるのは何?」と聞かれたときにフレッドが「男になって」と答えてしまう気持ちもわかった。

お互い愛し合っていながらも、カミングアウト後は相手に対して求めているものが微妙に違っていくのがわかった。好きでたまらなくても、男だから女だから好きなのか、その人だから好きなのかというのもある。片方は同性同士の恋愛に抵抗がなくても、片方はあるかもしれない。しかも、同性とはいっても、好きになった時には異性だった。

ただ一つ言えるのは、こうだからこう、というような決まった形はないのだということだ。二人の関係はパターンに当てはめることなんてできないもので、それは、この映画の二人に限ったことではない。どんなケースでも、多分、当事者同士にしかわからないことがあるし、当事者同士だって、相手のことがすべて理解出来るはずもない。
当事者同士ですらわからないのに、周囲がとやかく言うことなんてできないのだ。

『わたしはロランス』というタイトルだけれど、映画内ではロランスだけではなく、フレッドのことも同じくらい描かれている。二人が一緒に居るシーンと離れているシーン、両方とも人物に密着するように撮られていて、まるでドキュメンタリーのように感じた。些細な気持ちの揺れ動きも逃さずにとらえようとするような執拗さを感じた。

ただ、映画全体的には決してドキュメンタリーではなく、アート寄りの手法も多数取り入れられていた。シンメトリーだったり、中盤でフレッドがロランスの詩集を読むシーンでは大量の水が押し寄せるなど、感情表現の仕方も抽象的な部分もあった。
アート系だとわかりづらかったりするけれど、そんなことはなく、映像作りにこだわりながらも、かなり人間臭いという、この融合が特殊だと思う。

再会したあと逃避行的な旅行に出るシーンは、映画内でも一際幸せな気持ちになる。色とりどりの洗濯物が空を舞うのも、実際に舞っていたわけではなく、感情表現なのかもしれない。
後半、別れたあとに枯れ葉が舞っているのは、そのシーンとの対比のようだった。枯れ葉なので当たり前だけれど、色も枯れた一色だけ。歩いているのも一人きり。洗濯物のシーンでは、二人が密着するようにして歩いていた。

最初に化粧をして女物の服を着てロランスが学校へ行くシーンは、ロランス目線になっているのが面白い。それはグザヴィエ・ドランが経験したことなのかもしれないし、こんな好奇の目にさらされるんだ、耐えられるか?とでも問いかけてきているようだった。

ただ、好奇の目であっても、冷ややかな視線の他に、生徒たちの間には「先生やるじゃん」みたいな賞賛と、負けてられないというような挑発するような視線も含まれていた。授業のシーンでも、少しの驚いたような静寂のあと、いつもと変わらぬ授業内容についての質問が飛び出した。
そのあとに喫茶店の従業員(責任者)のおばさんが、ロランスを質問ぜめにするシーンがある。悪気はないのかもしれないけれど、いい気分はしないし、フレッドも爆発してしまう。これは学校でのシーンの対比のようだったし、年を取った人のほうが若者よりも保守的であるというのもグザヴィエ・ドラン自身の経験なのかもしれない。



2012年公開。アニメ作品のため意外な気がするけれど、『髪結いの亭主』、『橋の上の娘』のパトリス・ルコント監督。

物々しいタイトルですが、絵柄も暗め。少し、ティム・バートンの描くキャラクターにも似てる。首つりの縄やナイフ、銃、毒など、確実に自殺ができるアイテムを取り揃えた店が舞台で、『ようこそ、自殺用品専門店へ』という原作小説があるらしい。
序盤に歌が入ってミュージカル仕立てなことを知る。曲調も暗めでお化け屋敷を思わせる。
最初に出てきた人も、もしかしたら主人公なのかもしれないとも思って観ていたけれど、店で毒薬を買い、あっさり自殺してしまった。
相当ブラックだけれど、一体どんな話なのだろうと思っていたら、店の夫妻に子供が生まれ、状況が変わっていく。

店にはすでに子供が二人いて、その子たちはすでに店の雰囲気に染まっているというか、成長してもドクロが好きだったり、表情が暗かったり、猫背だったりなのですが、新しく生まれた子供アランはまっさらで、表情や考え方が明るい。アランに感化されて、家族や店に来た客が変わっていく。

特にお姉さんの変わり方が劇的だった。たいしてキャラクターのデザインは変わっていないはずなのに、どんどん可愛く、セクシーになっていくのがわかった。アランから貰ったシースルー生地のスカーフで踊るシーンは印象的。

また、ラストに向かうにしたがって、あれよあれよという間に最初のおどろおどろしい雰囲気が払拭されていき、結局自殺用品店が大繁盛クレープ屋に変貌するというまさかの結末を迎えていて驚いた。

父親の名前がミシマだった。三島由紀夫と関係があるのかな、でもフランス語を喋っているしな…と思いながら観ていたら、途中で日の丸の付いたはちまきをして「セップク」と言い出したので、三島由紀夫から取ったミシマで間違いないと思う。日本刀で追いかけるシーンもあった。



2000年公開。最近、ミュージカル版を観たので久しぶりに映画を鑑賞。ミュージカルでも映画と同じスティーブン・ダルドリーが監督をしているため、流れや全体を通したテーマや抱く感想は大体同じものだった。

ただ、上映(上演)時間がミュージカル版のほうが長いため、一つ一つのエピソードが長く、掘り下げられていて、コメディ要素はより笑えるように、感動するシーンもより泣けるような作りになっていたと思う。舞台という性質上かもしれない。

マイケルがワンピースを着ているシーンはクリスマスパーティーのシーンは映画ではそれほど時間が割かれていなかった。ワンピースのシーンはマイケルがビリーにお化粧をしてあげている。クリスマスパーディーは家族全員が紙でできた王冠をかぶっているイギリス特有の文化が垣間見えた。
ただ、両方ともそれほど印象に残るシーンというわけではなかったけれど、ミュージカル版では巨大な色とりどりのワンピースが出てきてワンピース姿のマイケルとビリーと踊ったり、クリスマスパーティーは二幕のオープニングということもあったけれど、人形劇で巨大なサッチャーが出てきたりととにかく派手で楽しい気分になった。
楽しい気分とはいっても、マイケルについては女物の服を着るのが好きだと告白するシーンだし、人形劇も政治的なものだし歌われるのはサッチャー批判であるから、本当は深刻な問題なのである。でも、両方とも、曲もセットもとにかくわくわくしたし、目を奪われた。
あと、クリスマスパーティーではお父さんが死んだ妻を思ってカラオケを歌うシーンがあるんですが、その無骨だけれど愛情がこもった歌声にほろりとしたんですが、そのシーンは映画にはまるまる無かった。あと、最後のお母さんの手紙のシーンも映画にはなくて、感動要素はミュージカルで足されているようだった。

映画ではサッチャーの名前は出てこないのですが、それは今から14年前という時代のせいなのかもしれない。
あともう一つ、時代のせいかなと思ったのは、映画ではマイケルがゲイであることをビリーに告げるシーンで、「誰にも言わないで」と言うのが深刻な感じだったのだ。ミュージカルだと「バレちゃった?」みたいな感じで、とても明るかった。これも時代の変化なのかもしれない。
ただ、映画公開の5年後にはもうミュージカルが作られているので、当初からあった演出ならば、単に映画とミュージカルの違いなのだろう。

ビリーを演じていた少年のジェイミー・ベルが可愛かった。家の事情、というか町の事情で試験に行けないときの怒りのダンスは映画版にもあった。狭いトイレの中でのタップダンス、耐えられないとばかりに扉を蹴破る姿からはセリフはなくてもビリーの思いが伝わって来た。

また、この子に『ニンフォマニアック』であの役をやらせたラース・フォン・トリアーにも想いを馳せてしまった。


なんでサブタイトルが付いているのかと思ったら、去年、“!”が付きますが同じタイトルの邦画が公開されていたからかもしれない。また、“ジャッジ”だけだと検索もしにくい。原題は“The Judge”です。

ロバート・ダウニー・Jr主演。タイトルやポスターから法廷モノかと思っていたけれど、どちらかというと家族モノだった。

以下、ネタバレです。





都会に出て行った息子が、母の葬式のために田舎に帰ってくる。そこで疎遠になっていた父といざこざがあったり、昔の彼女とももめたりしながら、自分のルーツや過去と向き合う…という、よくあるといえばよくある話。ただ、私はこの形式の話がとても好きです。
主人公が30代とか40代とか、ある程度、年を取っていて、その兄弟が出てきたり、年老いた両親がでてきたり、主人公の子供も出てくると、より好きなジャンルになる。
最近だと、『ヤング≒アダルト』や『ネブラスカ』や『8月の家族たち』あたりも私の中では同じ雰囲気で好きです。
自分の生まれ育った場所や家族との切っても切れない、離れたつもりでも離れられていない、面倒くささすら感じる絆が描かれている。

都会に出て行ったということは、田舎になんらかの不満があったのだと思う。母の葬式がなければきっと戻ることもなかったのだろう。戻ったところで、当然居心地が悪い。周囲からも浮いている。
多分、本人としては“出て行った”つもりなのだろうが、終盤で兄に「お前はすぐに逃げるから」と言われていた。他の人からは“逃げた”と思われていたのも、戻ってみなければわからなかったことだろう。

父との関係が悪いのだが、父と息子、お互いに頑固で片方が譲歩しても片方が折れないということが続いて、関係がなかなか良い方向へ進まなかった。
ドラ息子の帰還系の家族モノでありながら、法廷サスペンスの面もある本作では、父が殺人の容疑者になってしまい、弁護士である息子がその弁護を引き受ける。ただ、その引き受けるまでも一苦労。引き受けてからも真実を話してくれなくて一苦労、と普通の家族ならば、子供が弁護を引き受けてくれるならこれほどスムーズに物事が進むこともないのだろうが、関係が良好ではないせいで、より複雑になり、事件の真相も映画が進んでもなかなか明らかにならなかった。面白くはあるけれど、まわりくどすぎる気もしました。

関係は修復はされるのですが、過剰にドラマティックにしようとしているのは少し気になった。「普段は犯人に温情をかけることがないのになんでだ」「お前に似ていたからだ!」というやりとりは確かに盛り上がるし、本当は愛されていたことがわかるけれど、それは法廷でやらなくてもいいのではないかと思ってしまった。
最後の方のボートに乗っているシーンでも、「お前は最高の弁護士だ」と今まで聞いたことのなかった言葉のあとで亡くなってしまう。そのタイミングで亡くなるのは少しできすぎというか、ご都合主義的な感じがしてしまった。

父が殺人犯になってしまうかもしれないという話だとシリアスになってしまいそうなものだけれど、ロバート・ダウニー・Jrの飄々としたキャラクターとその父役のロバート・デュバルの頑固さは独特で、笑いを誘うシーンも何度もあり、暗くはならない。
特にRDJはRDJっぽい役で、のらりくらりとしてそうだけれど、やるときゃやる男で、仕事ができてお金を持っていて、女性関係はだらしない。毒舌で人を馬鹿にすることもある。
要はトニー・スタークのような男だった。こちらはAC/DCではなくメタリカ好きとのことでした。
こんなキャラだから、昔の彼女の子供の件は完全に騙されました。

この映画はRDJと奥さんであるスーザン・ダウニーが設立した制作会社チーム・ダウニーの第一作目らしいので、もしかしたらあて書きなのかもしれない。チーム・ダウニー、エンドロールに出てきて気になってました。


2005年に公開された映画の続編。コミック『A Dame to Kill For』が原作になっている。
前作が公開されたのがだいぶ前のため、内容をほとんど忘れていましたが、最初に前作の簡単なあらすじがまとめられている。観直さなくても楽しめるとは思うけれど、観直した方がより楽しめると思う。

以下、ネタバレです。





ミッキー・ローク演じるマーヴを中心とした群像劇形式になっている。中心といっても主人公とは違って、短編短編の案内係という感じ。
犯罪が横行する街オールド・シティと、前作のヒロインともいえるナンシーがダンサーとして働く場末の酒場が舞台になっている。

タイトルの“復讐の女神”はおそらくナンシーがロアーク上院議員に対して復讐する話のことを指しているのだろう。これはオリジナルらしい。
原題の“A Dame to Kill For”はエヴァとドワイトの話を指している。こちらもドワイトがかつての恋人エヴァに復讐する話であり、これがこの映画の中心になっている。
もう一つ、ギャンブラーのジョニーが自分の父親であり捨てられたロアーク議員に復讐する話があった。これもオリジナルらしい。群像劇である三つすべてで復讐がテーマになっていた。

エヴァ・グリーンが吸血鬼っぽく見えるのはたぶん『ダーク・シャドウ』の影響だと思う。『300〜帝国の進撃〜』でも魔性の女役だったけれど、今回も似た感じの役です。あれもフランク・ミラー原作。
普通の服を着た普通の役はできなさそうというか、日常が似合わない女優さんだと思う。
ジュノー・テンプルも出てましたが、彼女も猫をかぶったキンキン声から本性を表した低い声に変わる様が漫画っぽかった。

ジョセフ・ゴードン=レヴィットが『シン・シティ』の続編に出ると聞いた時には驚いたけれど、ハマっていた。もっとたくさん見たかったくらい。飄々としたギャンブラー役。
最初は猫を思わせるすました表情で、手際よくカードを配り、見事勝って得意げな顔をしていた。
けれど、相手は負けて黙って引き下がる相手ではなく、こっぴどくやられる。
足に銃弾が撃ち込まれ、指は色んな方向に曲げられ…とここまで散々な目に遭うJGLは他では見られないと思う。
最後、カードでは勝つけれど、結局は父親を組み伏せることができないのがわかる。その描写が面白かった。ポーカーをやるテーブルの上に小さくなったジョニーが乗っていて、ロアーク議員のカードがジョニーの体をスライスする。これは比喩だけれど、相手にしているもののあまりの大きさに気づいた表現なのだと思う。
ポーカーで勝って、「ほら、負けない」というジョニーは前半と同じ得意げな顔をしているけれど、目に涙が溜まっている。精一杯の意地とぎりぎりの強がりを感じる。映画はほぼモノクロなのですが、その涙がいやに目立つ撮り方をされている。
そして結局、ジョニーは額を撃たれて殺される。床に倒れたジョニーの目から涙がこぼれるのが切なかった。

そのあと、ナンシーがジョン・ハーティガンの仇をとりにいく最終章に移るので、心から応援してしまった。ジョニーの仇もとってくれと思いながら観ていた。

オールド・シティのアマゾネスというか、女性戦闘部隊も強くてセクシーで最高だった。特に日本刀を扱うミホがかっこよかった。回転をして四人の首を一気にはねる。
また、一本の矢で二人を串刺しにして同時に倒す様子は『300』や『ホビット3』を思い出した。

原作がコミックなせいもあるし、映像の作り方のせいもあるけれど、すべてがやりすぎなのがおもしろい。

映像は前作と同じトーンです。基本はモノクロだけれど、血や口紅などが赤かったり、エヴァ・グリーン登場時の服装が真っ青だったり、酒で狂気を帯びた目が赤くなっていたり、本性を表した目はグリーンだったりと、時々着色されていて、印象的な使われ方をしている。また、二人だけ全身がカラーの人物もいた。
あと、前作のイライジャ・ウッドのように眼鏡が白く光っているシーンがあったのは嬉しかった。

2012年公開。イギリスでは2011年公開。
監督は『ギルバート・グレイプ』のラッセ・ハルストレム。
変な邦題だなと思っていたけど、原題が“Salmon Fishing in the Yemen”でわりとそのままだった。原作も日本で翻訳されていて、こちらは『イエメンで鮭釣りを』と原題通り。
イエメンの富豪が自国での鮭釣りを望み、イギリスの政府まで巻き込んですったもんだする。

なぜか実話だと思い込んでいた。国同士の友好関係の問題や、イエメンの環境の問題などが扱われている、どちらかというと政治的な映画なのかと思っていた。

途中でイエメンの富豪が、ヨーロッパ化が気に食わない輩に撃たれそうになった時に、アルフレッドが釣りのキャスティングで救うシーンがある。職場で毎朝気に食わない上司の顔めがけてキャスティングしてフライを当ててたんですが、その伏線がここで生かされる。
伏線回収はいいけれど、これはさすがに実話じゃないだろう、ここだけ脚色されたのかなと思っていたら、全部が実話ではなかった。

確かに砂漠で鮭を釣るなんて、無謀なのだ。その無謀を実際に成し遂げた人たちの話なのかなと思っていたら、フィクションだった。
ダムから水を供給して…とか、鮭を釣る上でのロケーションのような問題は、富豪の財力でなんとかなるかもしれない。しかし、途中で出てくる養殖の鮭でもDNAに記憶された本能で遡上するとかも本当なのか、全体におとぎ話なのかがよくわからない。

一旦は成功し、けれど心ない者のせいで破壊される。でも希望は残った。
夢物語ではあるけれど、国同士の関係も良くなったようだしめでたしである。このプロジェクト関連のことについてはこれでいいと思う。

案外この映画はラブストーリー寄りです。
イギリス側の中心人物が水産学者のユアン・マクレガー演じるアルフレッドと投資会社コンサルタントのエミリー・ブラント演じるハリエットなんですが、プロジェクトを通じて恋が芽生えることもあるでしょう。
それはいいんですけど、最初はアルフレッドは既婚者だし、ハリエットには新しい恋人ができたばかりだし、まさか二人がそんな仲になるとは思わなかった。なんで二人ともシングルにしなかったんだろう。フィクションならこの辺をどうにかしてほしかった。

アルフレッドは既婚者とはいえ夫婦仲があまりうまくいっていない。だから、一緒に過ごしていたハリエットにひかれるのもなんとなくわかる。でも、ハリエットの新しい彼は軍人で、戦地に赴いて行方不明になり、途中でもかなり動揺をしていた。ハリエットにはアルフレッドの入る隙は無かったと思う。

しかも、アルフレッドからの告白を受けたあとで、死んだと思った彼が帰ってくる。アルフレッドには無情な展開だなと思って観ていたんですが、あっさりと強引に、戦地から帰って来た彼をハリエットが振る。

アルフレッドは「お前なんて戦場で死んでしまえば良かったのに」といったことをオブラートに包んでその彼に言うんですが、プロジェクトは失敗し、意中の女性も失ったとなれば、こう言ってしまう気持ちもわかった。けれどそれは、ハリエットがアルフレッドのほうに来なかった場合の話です。
戦場でもハリエットのことを考えていたと言っていた。それなのに、帰ってきたら近くにいた男と付き合うことになっていた。おまけにそいつに酷いことを言われた。もうこの軍人の彼の気持ちになると落ち込んでしまう。

戦場に行く前も、ハリエットといちゃいちゃするシーンが結構あったし、仕事中も彼のことを考えているようだった。それなのに、なんでラストで急にアルフレッドの元に来るのか。アルフレッドがユアン・マクレガーで主人公だからとしか言いようがないような強引さを感じた。こんなことなら、ラブストーリー要素はないほうが良かった。


1960年公開。アラン・ドロン主演という情報しかないままに観ました。

序盤、イタリアで遊んでいるシーンで、ナンパした女性のピアスをアラン・ドロン演じるトム・リプリーはこっそりと大事に持っていた。おそらく、「お嬢さん、落としましたよ」という感じに、次回会うための口実にするのだと思っていた。一緒にいたフィリップを出し抜いてやろうという考えがあったのだろうと思っていた。

しかし、理由はもっとおぞましいものだった。
フィリップとその恋人のマージュとトムは三人でヨットで出かける。恋人同士+曲者一人がヨットの上で一緒になる様子は、『水の中のナイフ』(1962年)と同じ状況だと思った。
恋人同士でヨットに乗る分には二人きりの時間がより濃密なものになるだけだろう。しかし、そこに、曲者が加わった場合どうなるか。
海上で逃げ場はなく、閉鎖された空間である。おまけに、船内は狭い。否応にも緊迫感が生まれる。

そこで、件のピアスが登場するんですね。フィリップが持っていたように見せかけて、恋人のマージュは怒り、ヨットを降りる。これで、トムとフィリップが二人きりになる。まさか、そんな使い方だとは思わなかった。

ヨットで出かけるよりも前に、フィリップの家で、トムがフィリップの服を着て、鏡に向かって、「マージュ、愛してるよ」とフィリップの真似をして鏡に口づけるシーンが出てきた。
このシーンをふまえて、ヨットで二人きりとなると、もしかしてこの映画は同性愛ものなのかなとも思ったけれど直接的にそんな表現やセリフはなかった。

フィリップの服を着て、言った言葉を真似するなんて、好きな人と同化したい願望なのかと思った。でもそれよりは、鏡の中の自分にキスをすると言う行為は自己愛的なものなのかもしれない。

トムとフィリップが閉鎖空間で二人きりになり、会話も冗談だかなんだかわからない、ひやひやするものになった。結局、冗談めかして話していても、トムはフィリップを殺してしまう。

その後、陸に上がってからのフィリップが生きているかのような振る舞いや、肩に腕をかけて死体を運んでいるときに、バレそうになって死体の口に煙草をねじ込むなど、トムのしたたかさがよく見えた。人を二人殺していても、慌てること無く平然と誤魔化していた。

この役は、アラン・ドロンで無くてはできなかったと思う。ものすごい美貌で、まるで毒婦のようだった。男だけれど。でも、どちらかというと、ファム・ファタールといった印象だった。魔性である。美貌をたたえながらも、同時に影を背負っている。この映画の場合、人を殺しているので当たり前なのだけれども。そして、誰のことも本気で愛さないような、人の前で自分自身を一切さらけ出さないような、一定の距離を保ち、人を寄せ付けないような、近寄り難いような雰囲気があった。現代だったら、デイン・デハーンあたりに演じてもらいたい。

最後、自らの完全犯罪に満足し、「太陽がいっぱいだ」と言いながらきつい日差しの中で酒を飲むシーンがある。ここでも、彼は自己陶酔しているようなので、やはり自己愛の強い人物なのだと思う。

結局、警察に事実も知れて、逮捕されることはわかってはいても、実際に逮捕されるシーンは映されない。
いままでこの映画を観てきて、手錠をかけられ、しょんぼりと俯く、そんなトム(=アラン・ドロン)の姿は見たくないのだ。
だから、電話がかかってきたことはトムに知らされても、それが、どこからか/何の用事かというのは明らかにされない。
トムは悠々と、強い日差しの中で、酒を飲んで至福の時を過ごしているのだ。


2007年公開。アメリカでは2006年。
香港映画『インファナル・アフェア』のリメイクですが、そちらも未見のため、ストーリーを知らないまま見ました。オリジナルとの違いもわかりません。

ポスターなどから、レオナルド・ディカプリオとマット・デイモンのバディものなのかと思っていたけれど違った。
片方がギャングの内部に入って囮捜査をし、もう片方がギャングのスパイとして警察官になる。
お互いが正反対の立場ながら同じ状況にいるというのが面白い。ばれるの?ばれないの?も二倍である。特にポルノ映画館でのシーンと廃ビルへの襲撃シーンはスリリングだった。

レオナルド・ディカプリオは映画の中での演技とはいえ、人を殴るのは勿論、棒で思いっきり顔を叩いたりとかなり凶暴だった。眉をひそめ、常に苦悩した表情を見せていた。

一見、清廉潔白そうに見えて、実は…というのがマット・デイモンだった。彼の立派な人物に見える雰囲気はなんなのだろう。マン博士も同じですね。
マット・デイモン演じるはサリバンもマン博士も、根っからの悪人ではない。どちらもどうしようもない事情があって、少し悪側へ足を踏み入れたが最後、ずぶずぶと抜けられないところへ落ちていった感じがする。

囮捜査とスパイ、それぞれがそれぞれの場所で身分を偽っているため、二人が一緒に出てくることはほとんどないけれど、初めて電話で話すシーンは満を持してという感じがして盛り上がった。
結局は双方とも打倒フランクとなるけれど、片方は警察官として、片方は個人的な事情でということなので、共闘することはなかったのは残念。呉越同舟ものではなかった。

また、二人は顔を合わせないけれど、片方と同棲している女性がもう片方の担当医であり、何も知らないまま一人の女性が二人の間にいたのも面白かった。脚本がうまい。二人とも、その女性の前では本心をさらけ出していた。普段身分を偽っている二人が唯一自分に戻れる場所だったのだろう。

ラスト付近で唐突に始まる銃撃戦と、そして誰もいなくなった感はまさに香港映画。オリジナルでどうなっているのかわからないけれど。
緊迫した状況の中、あっさりとまさかのタイミングで急に撃たれ、驚くべき事実が明かされたかと思ったらそいつも撃たれ、結局最後には生き残るかと思われた人物も言い訳する間もなく撃たれた。主要人物が撃たれてからの展開のはやさは、目がさめるかのようだった。あのまま静かに終わるかと思ったら大間違いだった。

最後に銃をぶっぱなすのがマーク・ウォールバーグ。序盤はレオナルド・ディカプリオ演じるビリーのことを下品な言葉で罵るだけ罵っていて感じが悪かった。けれど、最後は上司の仇か囮捜査部の生き残りとしてのプライドか、きっちりカタをつけていたのが良かった。



『ブラス!』


1997年公開。イギリスでは1996年。
1984年のサッチャー政権下の炭鉱閉鎖とそれに反対するストライキ、炭鉱夫たちの失業などがテーマになっている。
タイトルからもわかる通り、炭鉱の町の炭鉱夫たちのブラスバンドの話。

炭鉱閉鎖と芸術ということで、『リトル・ダンサー』に似ている。
ただ、『リトル・ダンサー』はバレエに傾倒するのが少年で、炭鉱で働いているわけではない。そのため、周囲の大人たちが団結して彼を送り出す。あたかも自分たちの夢を託すように。

しかし、この映画の場合は炭鉱夫たちのブラスバンドなため、より直接的な芸術との関わり方の難しさが描かれていると思う。
音楽を奏でることが嫌になったわけではない。しかし、自分たちの生活あってのことだし、どうしたって炭鉱閉鎖の問題と切り離して考えるわけにはいかない。
良い楽器が欲しい、でも失業を目の前にしてそんな余裕はあるわけがない。揺れ動いて、悩んだ末にピエロのバイトを始めるメンバーが出てくるが、このピエロという職の選択が絶妙。足が奇妙に大きい姿で電話をとりに行ったり、ピエロの姿のまま自殺未遂をするシーンが、その姿故に余計に哀しくなる。

ブラスバンドなので、一人ではなくバンドメンバーそれぞれの事情も出てきて、少し群像劇のようにもなっている。

20年近く前の若造なユアン・マクレガーはかつて好きだった女性との再会をして甘酸っぱい思いをしたり、若造故に諦め半分で自分の楽器で賭けをして負けたりしていた。

お相手の女性はトランペットの腕は確かだったり、バンドの指揮者ダニーの友人の孫だったりしたが、実は経営者側の人間で、炭鉱夫たちのいわば敵のような立場だった。

ダニーはバンドが何よりも大事だったけれど、結局、ブラスバンドが大会で優勝しても、トロフィーの受け取りを拒否し、その場で自分たちのおかれている状況について演説した。あんなにバンドのことを思っていたダニーでさえ、自分たちの生活を優先した。その深刻さとやりきれなさがよく伝わって来た。

原題は『Brassed off』。“be brassed off with 〜”で“〜にうんざりする”というイギリス英語のスラングらしいので、二重の意味になっているみたい。

『リトル・ダンサー』を観ている時にはビリーの味方だから、前半の大人たちの態度を見ていると許すまじと思うけれど、大人には大人の事情があるのだ。ただ、頭ごなしに反対しているわけではない。でも、子供にまで事情を察するのを求めるのは間違っていると思う。だから、揉めたにしても結局バレエ学校の入学試験を受けることが許されたのは本当に良かったと思う。この映画の中のように、大人は生活のために芸術活動を諦めなくてはならなくなったけれど、子供は夢を諦めることはないのだ。

バンドの中心であり指揮者のダニーを演じたのは、ピート・ポスルスウェイト。名前ではぴんと来なかったのですが、『インセプション』のモーリス・フィッシャー役の方。20年近く前でだいぶ若いのでわからなかった。

そして、ダニーが倒れた後、代理の指揮者をつとめるハリー役はジム・カーター。『ダウントンン・アビー』の執事カーソンさん役。面影があったのでもしかしてと思った。激しく指揮をしていた。