『リプリー』


2000年公開。アメリカでは1999年公開。
原題『The Talented Mr.Ripley』で、同名の原作小説の映画化。アラン・ドロンの『太陽がいっぱい』も同じ小説を原作にしているけれど、こちらの映画の方がより、小説版に忠実とのこと。
小説は未読ですが、アラン・ドロンがトム・リプリーを演じていたのが印象的だったため、同じ役をマット・デイモンが演じるという話を聞いただけでも、それは比べてしまいそうな気がすると思ってしまった。

この映画では、出だしからして、トム・リプリーは冴えない奴という設定だったので、そもそものキャラクターが違っていた。
色が白く、とてもおしゃれには見えない大きな眼鏡をかけている。海に行くシーンではヘソまである大きな海パンでしかも色が蛍光色という、がっかりしてしまういでたちだった。

また、『太陽がいっぱい』では、友人というか騙すターゲットの服を着て、鏡に向かって「愛してるよ」と言うシーンがあって、それがすごく良かったんですが、今作でも似たシーンはあった。彼の腕時計をして鏡に向かって真似事をするシーンがあったけれど、アラン・ドロンが見せたセクシーな背徳感みたいなものはなかった。あと、持ち主にも見つからない。

殺すシーンも、一応ボートの上というか海上だけれど、ボートでの逃げ場の無い緊迫感みたいなものは無かった。なじられて、カッとなって殺したようにしか見えなかった。『太陽がいっぱい』だとここも、チェスに興じながら会話をして、次第に流れがおかしくなっていくんですよね。あと、彼女が一緒に乗ってて下ろす、ということもなく、最初から殺すターゲットと二人で乗っていた。

殺した後、その殺した人になりきったり、トム・リプリーのままでいたり、一人二役のようになるけれど、ダサい眼鏡をはずしてきちっとした身なりにするだけで、それなりに恰好良く見えてしまったのは、マット・デイモンの演技力のせいなのかもしれない。

でも、これは元々のストーリーの話ですが、各方面に嘘をついて、その整合性をとらずにどんどんドツボにはまっていくので、別に頭が良くはないと思うし、念入りに下調べなどをしていたわりにはかなり穴が多いように見える。
『太陽がいっぱい』の場合、そこはアラン・ドロンの美貌とすました感じで許される部分があると思うんですが、『リプリー』の場合、単にこずるい奴にしか見えない。

そんなだから、『太陽がいっぱい』では殺した男の彼女まで自分のものにしてしまうけれど、『リプリー』では彼女は終始、トム・リプリーのことを疑っていた。

そして、最後も時間の問題っぽい感じではあったけれど、逮捕はされていなかった。なるほど、これなら続編が作れそうだった。原作は三部作らしいです。
映画版は『リプリーズ・ゲーム』、『リプリー 暴かれた贋作』という続編が作られていますが、キャストは毎回一新されているみたい。

殺されるターゲット役は『太陽がいっぱい』ではフィリップという名前だったけれど、『リプリー』ではディッキーという男でジュード・ロウが演じていた。
『ガタカ』でもそうだったけれど、若いジュード・ロウが本当に美しい。綺麗だけれど、女性のような綺麗さではなくて、まるで彫刻のようだった。

こんなことなら、彼がトム・リプリー役だったら良かったのでは、とも思ったけれど、この放蕩息子で遊び人のディッキーという役も合っていた。遊んでいるのはわかっていてもついていきたくなるカリスマ性もあったし、魅力的な男だった。
ジャズバーにトム・リプリーを連れていくシーンでは、接点のなかった二人が仲良くなるという点と、不良がどんくさめの男を知らなかった世界に引き込んでいく点が『キル・ユア・ダーリン』のワンシーンを思い出した。

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