『太陽がいっぱい』


1960年公開。アラン・ドロン主演という情報しかないままに観ました。

序盤、イタリアで遊んでいるシーンで、ナンパした女性のピアスをアラン・ドロン演じるトム・リプリーはこっそりと大事に持っていた。おそらく、「お嬢さん、落としましたよ」という感じに、次回会うための口実にするのだと思っていた。一緒にいたフィリップを出し抜いてやろうという考えがあったのだろうと思っていた。

しかし、理由はもっとおぞましいものだった。
フィリップとその恋人のマージュとトムは三人でヨットで出かける。恋人同士+曲者一人がヨットの上で一緒になる様子は、『水の中のナイフ』(1962年)と同じ状況だと思った。
恋人同士でヨットに乗る分には二人きりの時間がより濃密なものになるだけだろう。しかし、そこに、曲者が加わった場合どうなるか。
海上で逃げ場はなく、閉鎖された空間である。おまけに、船内は狭い。否応にも緊迫感が生まれる。

そこで、件のピアスが登場するんですね。フィリップが持っていたように見せかけて、恋人のマージュは怒り、ヨットを降りる。これで、トムとフィリップが二人きりになる。まさか、そんな使い方だとは思わなかった。

ヨットで出かけるよりも前に、フィリップの家で、トムがフィリップの服を着て、鏡に向かって、「マージュ、愛してるよ」とフィリップの真似をして鏡に口づけるシーンが出てきた。
このシーンをふまえて、ヨットで二人きりとなると、もしかしてこの映画は同性愛ものなのかなとも思ったけれど直接的にそんな表現やセリフはなかった。

フィリップの服を着て、言った言葉を真似するなんて、好きな人と同化したい願望なのかと思った。でもそれよりは、鏡の中の自分にキスをすると言う行為は自己愛的なものなのかもしれない。

トムとフィリップが閉鎖空間で二人きりになり、会話も冗談だかなんだかわからない、ひやひやするものになった。結局、冗談めかして話していても、トムはフィリップを殺してしまう。

その後、陸に上がってからのフィリップが生きているかのような振る舞いや、肩に腕をかけて死体を運んでいるときに、バレそうになって死体の口に煙草をねじ込むなど、トムのしたたかさがよく見えた。人を二人殺していても、慌てること無く平然と誤魔化していた。

この役は、アラン・ドロンで無くてはできなかったと思う。ものすごい美貌で、まるで毒婦のようだった。男だけれど。でも、どちらかというと、ファム・ファタールといった印象だった。魔性である。美貌をたたえながらも、同時に影を背負っている。この映画の場合、人を殺しているので当たり前なのだけれども。そして、誰のことも本気で愛さないような、人の前で自分自身を一切さらけ出さないような、一定の距離を保ち、人を寄せ付けないような、近寄り難いような雰囲気があった。現代だったら、デイン・デハーンあたりに演じてもらいたい。

最後、自らの完全犯罪に満足し、「太陽がいっぱいだ」と言いながらきつい日差しの中で酒を飲むシーンがある。ここでも、彼は自己陶酔しているようなので、やはり自己愛の強い人物なのだと思う。

結局、警察に事実も知れて、逮捕されることはわかってはいても、実際に逮捕されるシーンは映されない。
いままでこの映画を観てきて、手錠をかけられ、しょんぼりと俯く、そんなトム(=アラン・ドロン)の姿は見たくないのだ。
だから、電話がかかってきたことはトムに知らされても、それが、どこからか/何の用事かというのは明らかにされない。
トムは悠々と、強い日差しの中で、酒を飲んで至福の時を過ごしているのだ。

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