『わたしはロランス』


2013年公開。カナダ・フランスでは2012年公開。グザヴィエ・ドラン監督作。
タイトルから、男性として生まれたロランスが女性になる話かと思っていたけれど、そんな単純な話ではなかった。

もともと、ロランスには女性の恋人フレッドがいたけれど、ロランスが女性になりたいと打ち明けたあとも、ロランスはフレッドを変わらず愛そうとしていた。
私はどうしてもフレッド目線になりながら観ていたし、「求めるのは何?」と聞かれたときにフレッドが「男になって」と答えてしまう気持ちもわかった。

お互い愛し合っていながらも、カミングアウト後は相手に対して求めているものが微妙に違っていくのがわかった。好きでたまらなくても、男だから女だから好きなのか、その人だから好きなのかというのもある。片方は同性同士の恋愛に抵抗がなくても、片方はあるかもしれない。しかも、同性とはいっても、好きになった時には異性だった。

ただ一つ言えるのは、こうだからこう、というような決まった形はないのだということだ。二人の関係はパターンに当てはめることなんてできないもので、それは、この映画の二人に限ったことではない。どんなケースでも、多分、当事者同士にしかわからないことがあるし、当事者同士だって、相手のことがすべて理解出来るはずもない。
当事者同士ですらわからないのに、周囲がとやかく言うことなんてできないのだ。

『わたしはロランス』というタイトルだけれど、映画内ではロランスだけではなく、フレッドのことも同じくらい描かれている。二人が一緒に居るシーンと離れているシーン、両方とも人物に密着するように撮られていて、まるでドキュメンタリーのように感じた。些細な気持ちの揺れ動きも逃さずにとらえようとするような執拗さを感じた。

ただ、映画全体的には決してドキュメンタリーではなく、アート寄りの手法も多数取り入れられていた。シンメトリーだったり、中盤でフレッドがロランスの詩集を読むシーンでは大量の水が押し寄せるなど、感情表現の仕方も抽象的な部分もあった。
アート系だとわかりづらかったりするけれど、そんなことはなく、映像作りにこだわりながらも、かなり人間臭いという、この融合が特殊だと思う。

再会したあと逃避行的な旅行に出るシーンは、映画内でも一際幸せな気持ちになる。色とりどりの洗濯物が空を舞うのも、実際に舞っていたわけではなく、感情表現なのかもしれない。
後半、別れたあとに枯れ葉が舞っているのは、そのシーンとの対比のようだった。枯れ葉なので当たり前だけれど、色も枯れた一色だけ。歩いているのも一人きり。洗濯物のシーンでは、二人が密着するようにして歩いていた。

最初に化粧をして女物の服を着てロランスが学校へ行くシーンは、ロランス目線になっているのが面白い。それはグザヴィエ・ドランが経験したことなのかもしれないし、こんな好奇の目にさらされるんだ、耐えられるか?とでも問いかけてきているようだった。

ただ、好奇の目であっても、冷ややかな視線の他に、生徒たちの間には「先生やるじゃん」みたいな賞賛と、負けてられないというような挑発するような視線も含まれていた。授業のシーンでも、少しの驚いたような静寂のあと、いつもと変わらぬ授業内容についての質問が飛び出した。
そのあとに喫茶店の従業員(責任者)のおばさんが、ロランスを質問ぜめにするシーンがある。悪気はないのかもしれないけれど、いい気分はしないし、フレッドも爆発してしまう。これは学校でのシーンの対比のようだったし、年を取った人のほうが若者よりも保守的であるというのもグザヴィエ・ドラン自身の経験なのかもしれない。


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