2012年のイギリスBBCとアメリカHBO制作のドラマ。ベネディクト・カンバーバッチ主演。
全三話ですが、一話が90分くらい。
この前見た『スモール・アイランド』は第二次世界大戦少し前でしたが、こちらは1908年スタートで第一次世界大戦少し前から始まる。ベネディクト・カンバーバッチが戦争へ行くという面では一緒。ただ、『スモール・アイランド』のほうがテーマが深く、重く、根深い問題が扱われている気がした。こちらはどちらかというと、戦争そのものよりも、戦争で味付けしたラブストーリーといった感じ。見て、考えさせられるようなものではなかった。

敬虔なキリスト教徒であるクリストファー(ベネディクト・カンバーバッチ)が半ば騙されたような形でシルヴィアという女性と結婚することになる。風貌も派手で、他の男と駆け落ちなどをしても、クリストファーは悲しそうにはするものの、怒らない。
クリストファーは女性活動家のヴァレンタインに出会い、彼女に恋をし、惹かれ合う。しかし、キリスト教徒のためか、時代背景なのか、クリストファーは離婚はできないという。
クリストファーの心が他の女性に移ったのを知ると、シルヴィアも本気になって夫の心を繋ぎ止めようとし…というように、二人の女性の間で揺れ動くカンバーバッチといった内容。

タイトルの『パレーズ・エンド』のパレードというのは、最初に“信じる者と果たすべき義務を止めるわけにはいかない”というナレーションから、結婚生活や子供との生活のことかと思った。エンドということは離婚をしてヴァレンタインを選ぶのだろうと思っていた。
途中で戦争の話になり、兵士の行進している姿が映ることから、“パレーズ・エンド”は戦争が終わることもさしているのかもしれない。

シルヴィアを演じるレベッカ・ホールが最初に上半身のヌードを見せて少しぎょっとしてしまった。どんな時間帯で放映されたドラマなのかわからないけれど、イギリスやアメリカはオッケーなんですね。
最後の方でヴァレンタインを演じるアデレイド・クレメンスの裸も出てきた。しかも、クリストファーと結ばれる夢を見ているシーンで、夢のシーンの裸なんてあってもなくてもいいようなものだと思うけどなんなんだろうと思っていたら、そのあとで、夢が現実になるシーンがあった。
現実シーンはわりとしっかりした絡みというか、ベネディクト・カンバーバッチがおっぱいに直に触っていた。これはかなり最後のほうのシーンなのですが、それを見て、すべて合点がいったというか、納得してしまった。
これってハーレクインだ…。

女性の裸も、男性向けのサービスシーンではなくて、女性向けだったのだ。ヴァレンタインを自分と重ねて見て、自分に触れるベネディクト・カンバーバッチを想像するためのドラマだった。綺麗な奥さんがいても、諦めなければ最後には自分の元に彼は来てくれる。そんな夢を見させてくれる作品なのだ。

ベネディクト・カンバーバッチは日本でもベネ様などと言われていたけれど、イギリスでも王子様なのだ。しかも本作では金髪である。軍服姿も凛々しい。

二人の女性と戦争に翻弄されるベネディクト・カンバーバッチを見よというドラマだった。気弱だけれど、どこまでもいい人で、描かれ方がまるでアイドルのようだった。

その一方で、戦争の描き方はやや薄く感じた。
被弾するシーンではカンバーバッチが宙に舞い、笑わせるために作ったシーンではないことはわかるけれど、どこか滑稽に見えてしまった。もしかしたら、去年のアカデミー賞のフォトボムを思い出したのかもしれない。ドラマの作り方のせいではないのかも。

ヴァレンタイン目線で見れば確かにハッピーエンドだけれど、個人的にはシルヴィアのほうが好きだった。最初の方の男遊び具合はひどいけれど、途中から焦って必死になってしまう様子や、意地っ張りで嘘つきな性格も可愛く見えてきた。けれど、振り向いてもらうために、強硬すぎる手段に出たのが別れを決定的にしてしまったと思う。
大切にしていた木を勝手に切られたら、それは怒る。取り返しがつかない事をしてしまったら、取り返しのつかない事態を招くのは当たり前のことなのだ。
怒ったクリストファーが切られた木を新居へ持って帰るが、もうすべて忘れるためなのか、それを暖炉にくべるラストは良かった。過去を断ち切って、新しい日々が始まる。清々しい気持ちになった。




クリント・イーストウッド監督作品。実在の伝説的な狙撃手を描く実話。どの程度実話なのかわからなかったんですが、ご本人の回顧録を原作にしているので、おそらくほとんど実話なのだと思う。

以下、ネタバレです。







4回のイラクへの派遣と戦闘の様子が映画の中心になっていながらも、その合間の日常に帰って来た時の様子も描かれている。
狙撃兵のクリス・カイルは伝説とか英雄などと呼ばれていて、腕は確かなこともあるのかもしれないが、次第に日常との齟齬を感じているように見え、戦闘地域のほうが生き生きとしていたようだった。また、友人や他の兵士を自分が救わなくては、という使命感にも燃えていたようだった。

兵士がむしろ戦争にひかれてしまう様子は少し前だと『ハート・ロッカー』でも描かれていた。あの映画も優秀な爆弾処理班の班長が主人公で、スーパーマーケットのシリアル売り場で呆然とするシーンが印象的だった。
映画は主人公が戦場へ戻っていくシーンで終わる。俺の生きる場所はここだとでもいうべき背中が印象的だった。流れるミニストリーも合っていた。

『アメリカン・スナイパー』では、クリス・カイルの弟も戦地へかり出されている。ちゃんとは描かれないけれど、小さい頃に弱虫だったことから考えてもあまり戦闘が得意ではないはずだ。彼は戦争なんてくそくらえというようなことを言っていたし、正常な立場の人間として描かれていたのだと思う。やはり、戦場に惹かれてしまうというのは間違っている、“戦争は麻薬である”といっても断ち切らなければならないという監督からのメッセージにも思えた。

『ハート・ロッカー』は戦争に向かうシーンで終わるので、映画を観終わっても自分もなかなか日常へ帰って来られなかった。
『アメリカン・スナイパー』での戦闘シーンでは臨場感のある突入シーンも多くて、キャスリン・ビグロー作品ばかりですが、『ゼロ・ダーク・サーティ』の最後の突入シーンも思い出した。あの映画も観終わっても、なかなか感覚が戻って来ないようだった。

しかし、『アメリカン・スナイパー』では観終わってもふわふわした感じにならなかったのは、クリス・カイルがちゃんと戦争から帰って来たからだと思う。もう戦争は嫌だという気持ちになり、妻子と一緒の日常生活の中へ戻って来たシーンもわりと長めに入っていた。

戦闘はリアリティのあるものだったけれど、後半は少しドラマティックというかお話っぽく、エンターテイメント寄りになっていた。友人の敵討ちをするシーンでは遠く離れた相手に弾が当たるか当たらないかというところでスローになったり、撤退シーンで砂嵐が来たり。砂嵐のせいで画面がよく見えず、撤退できたのかできてないのかがわからなくてハラハラした。

実話なのでネタバレも何もないんですが、ABCニュースやCNNだと行われていた裁判の模様も流していて、せっかく映画を観るし結果を知りたくなかったので、この話題が始まったらTVを消すようにしていた。
ただ、裁判はどうやら妻がおこしたものだということと、クリス・カイル自身は出ていなかったので、死んでしまったか逮捕されているかどちらかだとは思っていた。戦地で亡くなったか、帰って来てもPTSDで自殺をしてしまったか、PTSDで不安定になり誰かを殺してしまったか。

結局は逆で、PTSDの退役軍人に射殺されてしまうという一番やりきれない結果になってしまった。戦場から戻って来た兵士の多数がPTSDになってしまうというが、クリス・カイルも映画を観る限りだと少し正常ではなくなっていた部分もあったようだった。でも、そこから回復していたのに。そして、同じ退役軍人の助けをしていたというのは、精神力の強さがうかがえるし、尊敬すらしてしまう。

もちろん、撃った犯人が悪いことには違いない。ただ、戦争に行ってなかったらどうなっていただろうと考えると、本当にやりきれない気持ちになる。
ちょうど映画を観た日に、終身刑の判決が出た。陪審員7人中3人は死刑でもいいのではないかと言っていた。アメリカではこの映画が裁判の行方に影響を与えたのではとの意見もあるらしい。

私はこの事件を知らなかったけれど、たぶん、アメリカでは相当有名な事件だったはずで、アメリカの人たちは結果を知った上で観ていたのだと思う。
射殺されてしまう日が描かれる時、スクリーンに日付のテロップが出るため、知っていたらここでまず気づくのだろう。
そしてクリス・カイルが兵士と射撃場に出かけるシーンまでしか映画では描かれない。その後、画面が暗転して、文字のみで射殺の事実が知らされるだけだったのがより衝撃的だった。
撃たれるシーンを入れないのは、みんな知っていることだろうし、英雄が殺される姿をわざわざラストに入れることはないということかと思ったが、お子さんに配慮してのことらしい。また、事件が起きたのが2013年2月と最近なので、詳しいこともわからなかったのではないかと思う。
亡くなる前に映画化の話が出ていたというのも更にやりきれない。

映画ではそのあと、追悼パレードの様子がおそらく実際の映像で流される。彼がいかに愛されていたかがよくわかった。
そして、そのあとのエンドロールが無音というのもまた、どうしてこうなってしまったのだろうと考える時間を与えてもらったようにも思えた。

クリス・カイルを演じたのはブラッドリー・クーパー。鍛えたせいなのか首がだいぶ太くなり、顔も太って見えた。軍人の体を作ったのだろう。いつものイケメンとは少し違っていた。

クリス・カイルの妻、タヤを演じたのはシエナ・ミラーなんですが、実際のタヤさんのアカデミー賞参列時のドレス姿が女優さんかと思うくらい綺麗だったのも印象的。
あと、エンドロールを見ていたら、TAYA'S THEMAという曲があって、作ったのがクリント・イーストウッド監督だったようです。

予告で、「間違えたらコトだぞ」というセリフがあって、字幕が戸田奈津子さんでは?と話題になっていたけれど、本編だと「間違えたら軍刑務所行きだぞ」になっていた。字幕は松浦美奈さんでした。予告編だと字幕の文字数制限がより厳しくなるんだろうか。
あと、予告の緊迫した場面が本当に序盤にでてきたのはびっくりした。クライマックスにも見えるけれど、最初の射撃のシーンだった。最初からクライマックスである。

2009年、BBC製作のテレビドラマ。93分ずつの前後編。
ベネディクト・カンバーバッチ特集として放映されていたけれど、ベネティクト・カンバーバッチの出番はそれほど多くありません。でも、ナオミ・ハリスやデヴィッド・オイェロウォなど、映画で活躍している俳優さんが出演している。
マイケルを演じたアシュリー・ウォルターズは『Tu£sday(邦題:バンクジャック 襲撃の火曜日)』で、ジョン・シムと共演していた。

どこか因縁めいた群像劇のような作品だったので、主役を一人には決めづらいけれど、一番中心となっているクイーニーを演じているのはルース・ウィルソン。あまり名前は聞いた事がなかったのですが、『ウォルト・ディズニーの約束』のお母さん役の方だった。2007年のドラマ版『ジェーン・エア』のジェーン・エア役や、『ローン・レンジャー』にも出演していた。

元々小説があって、それを原作としたドラマらしい。
舞台は1940年代のロンドン。クイーニーの夫のバーナード(ベネディクト・カンバーバッチ)は戦争に行って帰って来ない。クイーニーは義父と暮らす家を下宿としてあけていて、そこにジャマイカからイギリスの空軍に入ったマイケル(アシュリー・ウォルターズ)がやってくる。マイケルにひかれたクイーニーは関係を持ってしまう。

空襲が激しくなり、クイーニーは義父と一緒にヨークシャーへ疎開する。そこでマイケルに似たギルバート(デヴィッド・オイェロウォ)に会う。二人は親しくなるが、ギルバートが人種差別により攻撃された時に、義父が巻き添えになり、殺されてしまう。

戦争後、ギルバートはジャマイカに戻るが、仕事を求めて再びイギリスに行きたいと願う。恋人に一緒に行くのを誘うが、彼女には病気の母親がいた。
彼女の友人、ホーテンス(ナオミ・ハリス)は、元々マイケルと一緒にイギリスに行く事を夢見ていたが、戦争から帰って来ないため、せめてイギリスに行く夢だけでも叶えたいと思い、ギルバートと結婚をすることを望む。

ここまでが前半で、人物関係が少し複雑。ホーテンスとクイーニーは二人ともマイケルのことが好きなんですが、お互いのことは知らない。クイーニーには夫がいるけれど、生きているか死んでいるか、戻ってくるかわからない。また、クイーニーとマイケルは人種の問題もある。
時代が時代なだけに、二人が歩いているだけで悪い事を言われる。後半でも、イギリスに来たギルバートとホーテンスが仕事の面で苦労をしていた。
「こちらが母国を思っていても、母国は知らん顔だ」というイギリス批判が印象的だった。人種差別というとアメリカの映画やドラマのイメージだったけれど、イギリスでもこんなことがあったのだ。憧れの地と思って渡って来た移民の方々はさぞショックだったろう。このドラマでも、特にホーテンスが国に失望していく様子は悲しかった。

後半、イギリスに来たギルバートとホーテンスはクイーニーの下宿で暮らす事になる。最初はホーテンスもギルバートをイギリスに来るために利用して、政略的に結婚しただけだったけれど、仕事面などで白人のイギリス人から迫害されるうち、ギルバートの優しさに気づいていく。
そんな中、戦争から突然夫のバーナードが帰ってくる。クイーニーにとってはもう忘れた人だし、おなかにはマイケルとの間の子供がいた。バーナードは帰還兵特有のPTSD気味になっていて、かわいそうといえばかわいそうである。家に下宿している二人も追い出そうとしていた。他の白人イギリス人がそうであるように、彼も人種差別主義者だった。

クイーニーに赤ちゃんが産まれ、妊娠していることすら知らなかったバーナードはその肌の色を見て驚く。それでも、「君の子だから育てたい」と言っていたが、クイーニーは世間の状況や夫の子ではないことが見た目でもわかってしまうことなどを鑑みて、苦渋の決断をして、子供をギルバートとホーテンスに渡し、育ててもらう事にする。

戦争や人種差別など、その時代ならではの事象が反映されて、より重厚で複雑な人間ドラマになっていた。ただ単に、あなたが好きというだけでは済まされない。

最後、ナレーターがマイケルであることが明らかになり、マイケルの元にクイーニーの子供が渡っていたようだけれど、わかりづらかった。マイケルはクイーニーとの間に子供ができたことを知らないまま、カナダへと行ってしまったようだった。
それでも、ギルバートとホーテンスとは知り合いだし、クイーニーの写真もあったから、マイケルが気づいたのだろうか。その上で、マイケルはクイーニーにはもう連絡はとらなかったのだろう。
カナダに行くときにマイケルが誘うか、クイーニーが私も連れて行ってと言うかすればうまくいったのかもしれない。けれど、マイケルの性格的に一人で行きたそうだったし、クイーニーも故郷と家を捨てるのに躊躇したのだろう。おそらく、バーナードのことも気にはかかっていたのだろうし。そう思うと、どうしたってうまくはいかなかったのかもしれない。

ベネディクト・カンバーバッチは、もしかしたら『つぐない』以来の酷い男の役だったりするのかとも思った。明らかに自分の子ではない赤ちゃんに手を触れた時に、精神的に不安定なようだったので、どうにかするのではないかと思ってしまったけれど、優しくさみしそうに笑っただけだった。帰って来られなかった理由も、一度の過ちで梅毒をうつされたと恥じただけだった。結局は弱くて、優しい男だった。


映画の感想ではありません。

トーキョー女子映画部様の新宿ピカデリー・アンバサダー企画に参加させていただきました。コンセッション“PICCADILLY CAFÉ”がリニューアルオープンということで、新メニューを試食してきました。

チョコブラウニーピッツァ 400円
ピッツァといっても、見た目はクレープに近いです。生地はクレープよりは厚く歯ごたえがあった。中にブラウニーとマシュマロが包まれています。頂いたものは切ってあるものだったので、中身と生地を一緒に食べるのが少し大変だったのですが、切ってなければ片手で食べられるかもしれない。

トリプルチョコディップチュリトス 450円
ココアシュガーをまぶしたチョコチュリトスをチョコソースに付けて食べるということでトリプル。フランスのMONINというシロップを出している会社のダークチョコレートソースが、濃いけれどそれほど甘くないのがいい。ココアシュガーが指に付くので、お手拭きを付けてもらうか、紙で巻いて食べるかしたい。

国産チキンナゲット 350円
ケチャップとマスタードが付いている。5個350円だと某ファーストフードと比べてしまうと少し高く感じるけれど、そこは国産ということで。粗挽きなので、より鶏っぽくもある。今回試食させていただいた中でこれだけが甘くないものだったので、全体的なメニューを見てももしかしたら少ないのかもしれない。甘いものは食べたくないけど何かつまみたい時に。

黒豆ぐらっせ 350円
北海道産黒豆使用とのこと。今回いただいた中で、個人的にはこれが一番おすすめ。映画館で食べる時に大事なのは、手元を見ずに食べられること、暗い中でも食べやすいこと、音やにおいがしないことなどだと思うけれど、それらすべてを満たしていると思った。味も甘すぎず、豆だけれどぱさぱさせずしっとりしていた。ラム酒の香り付きとのことでしたが、お酒っぽいわけではなくほのかでそれも上品でおいしかった。

カフェモカ 450円
こちらにもフランスMONIN社のダークチョコレートソース使用。ディップで食べても思ったけれど、甘過ぎないのがいい。甘い食べ物と一緒に飲んでもしつこくならない。


映画館というと、ポップコーンやホットドックくらいなものかと思っていたけれど、こんなにオリジナル商品をたくさん出しているとは思わなかった(黒豆ぐらっせはパッケージ商品なのでオリジナルではないのかも?)。普段、映画館のコンセッションをあまり利用していないのですが、どれもこれもおいしかったので、今度自分でも買ってみたいです。

1996年に起きた事件を題材にした作品。監督は『マネーボール』『カポーティ』のベネット・ミラー。二作品とも実話を元にしているし、ドキュメンタリーの監督もしているので得意な分野なのかもしれない。

以下、ネタバレです。







要は三角関係のもつれから起こった殺人事件のようだった。
できた兄とそれを羨む弟。弟に目を付けた富豪。富豪は弟に飽きて、兄にも手を出す。兄はなびかず弟一筋。富豪は気に食わず兄を殺す。
簡単に言ってしまえばそんなストーリーだった。富豪のワガママと面倒でやっかいな歪んだ性格ゆえに起こった殺人事件だと思うけれど、これがひたすら濃厚に、濃密に、ドロドロと描かれている。
その辺は題材がレスリングであるところと、兄のデイヴ・シュルツを演じるマーク・ラファロの容貌を見てもわかると思う。
少し前に『はじまりのうた』を観たばかりですが、あまりにも違う。マーク・ラファロが出ていると知らなかったら気づかなかったかもしれない。ただ、滲み出る色気は隠しきれていなかった。

序盤でチャニング・テイタム演じる弟のマーク・シュルツと兄のデイヴがレスリングのトレーニングをするシーンがあるんですが、組み伏せているだけでどうしても性的に見えてしまう。

この時に組み伏せられたマークが苦悶の表情を浮かべていたのは、どうしても兄に勝てないのを感じてのことだと思う。講演会でも、どうやらデイヴのほうが名前が知られているらしかった。兄には妻子がいるのに、マークは一人きり。
しかも、貧しい生活をしているのがセリフは無いけれど描写でわかった。講演会で小銭を得てもハンバーガー、普段はインスタント麺にケチャップか何かを足して食べているようだった。また、ジャージのズボンがちゃんと腰まで履けていなくて、パンツが少し見えてしまっていた。おそらく彼女すら長い間いない。一人きりの孤独な生活が、長期間続いていそうだった。
多分、幼い頃に親を亡くしていて兄が親代わりだと言っていたから、普通の兄弟以上の愛情を持っていて、けれど、すべてを持っているデイヴが憎らしくもあったのではないかと思う。
最初の方の、あまり喋らず、一見朴訥にも見えるけれど、奥底で愛憎渦巻いているマークの様子を演じたチャニング・テイタムがうまい。ぬぼーっとしているだけですべてが伝わってきた。

そんな行き詰まりを感じる日々の中で、急に大富豪であるジョン・デュポンに声をかけられたら、あやしいと思ってもついていってしまうのは仕方が無い。今より悪くなる事はないだろうと思うし、何より兄ではなく自分を選んでくれたというのが嬉しかったのだろう。

デイヴは止めていたし、観ている私も何か酷い目に遭う予感はしていた。そんなうまい話があるものかと思った。けれど、マークの立場になったら、そうせざるを得ないだろう。まるで、拾われた野良犬のようだった。

この先しばらくはマークとデュポンの蜜月というか、すべてがうまくいっていた。良い状態でトレーニングをすれば、マークも試合に勝てる。勝てばデュポンは喜ぶし、デュポンに褒められたらマークも嬉しい。
ただ、いい関係に見えたが、パーティーでのマークの演説原稿をすべてデュポンが書くなど、どうやらデュポンは自分の思い通りになる人間が欲しいだけのようだった。

デュポンは金持ちだから性格が歪んでしまったのかと思ったけれど、どうも親子関係に問題があってのことのようだった。結局は母親に褒めてもらいたいという、ただそれだけのように見えた。
マークをレスリングで勝たせる事でアメリカ国家を云々と言っていたが、そんな大それたことではなく、ただ、身近な人物に「偉いわね」と言ってもらいたかっただけなのではないだろうか。きっと、ただ、それだけなのだ。さみしかっただけなのだ。
だから、マークに「デュポンさんはまるで父親のようで」などという原稿を読ませたし、マークがどう思っていたのかはわからないけれど、デュポンは疑似親子だと思っていたのだろう。

ただ、デュポンに影響されたのか、マークが放蕩三昧になってしまい、勝てなくなってしまう。ここで、チャニング・テイタムが髪を染めるのですが、そうするとそれなりに恰好良く見えてしまったのもさすがだと思った。
勝てなければ、デュポンも功績をあげられない。功績をあげなければ、母親に褒められない。勝てるためにはどうしたらいいかと考えたデュポンは、兄のデイヴに声をかける。もう、マークの気持ちは何も考えていない。

マークはもちろんおもしろくない。結局、また兄の方が認められて、自分は捨てられる。こうなると、デュポンもデイヴも信じられなくなって、再び一人の殻に閉じこもるんですが、デイヴだけはずっと、最初からずっとマークのことを信じてるんですよね。なので、この場面でも、必死でマークの心を開こうと、マークを試合で勝たせようとする。だから、マークも兄のデイヴの方を向いていく。

もうデュポンは本当におもしろくない。デイヴを手元に置いても、休みの日にはデイヴは家族を大切にするから遊んでくれない。マークは夜中におしかけても、絵画室でのトレーニングという少し異常な行為にも応じてくれた。
おそらくここで、デュポンの中では、大事だったマークを連れ去ったデイヴは悪みたいな自分勝手な変換も行われていたと思うんですよね。だったら、マークをもっと大事にすれば良かったのに、そうもしなかったのは自分なのに。
マークがデュポンを尊敬していた時間も確かにあったとは思うのだ。そこから捨てられたから、恨みもまた倍増だったのだと思う。デュポンはマークの気持ちの変化がわからなかった。
そして、自分に従わないデイヴの気持ちもわからなかった。マークがたまたま孤独だったからついてきただけなのに。誰でもが自分の思い通りになるわけではない。

けれど、やっぱり自分の思い通りにしたかったので、撃った。

現実の話はわからないけれど、映画を観る限り、三人の心の動きはよくわかった。何故マークがデュポンについていったのか、何故デイヴはデュポンに従わなかったのか、何故デュポンはデイヴを撃ったのか。
密着するようにして、心の動きを生々しくとらえていく。そして、レスリングのトレーニングシーンと試合シーンの撮影の仕方も、近いせいか、汗や裸体のとらえかたが生々しい。

最後、マークがレスラーとして歓声を浴びているシーンで、何故か涙が出てしまった。やっぱり一人きりになってしまったからだろうか。好きでやっているようには見えなかったからだろうか。やっと脚光を浴びられたからだろうか。

デュポンは全体的に憎々しく不穏なんですが、演じているのはスティーヴ・カレル。コメディ寄りの役ばかり見ていたので、この役は驚いた。横向きのショットが多く、そうすると鼻の大きさが目立つ。権力や自己顕示欲の象徴のようにも見えた。



『ラブストーリーズ コナーの涙』『ラブストーリーズ エリナーの愛情』という、一つの出来事をコナー側エリナー側、それぞれから見た二本の映画。監督やスタッフなどは二本とも同じ。
コナー役にジェームズ・マカヴォイ、エリナー役にジェシカ・チャステイン。

以下、ネタバレです。







『ラブストーリーズ』というくらいだから…と思ったけれど、共演シーンはほとんどありません。二人とも好きな俳優なので残念。
でも考えてみたら、共演シーンが多いならわざわざ二本に分ける必要はない。分けるということはそうする必要があったわけで、二人が別れるところから始まっている。それぞれ別々の生活を送る上で見えてきたこと考えていることが描かれている。
なので、“ラブストーリー”というよりは、それぞれの家族とか仲間との触れ合いの多い、人間ドラマになっている。

原題も『The Disappearance of Eleanor Rigby』のHimとHerとなっている。Loveなんて言葉は使われていない。“エリナー・リグビーの消失”といったところです。

私は“コナーの涙”(Him)、ジェームズ・マカヴォイ演じる夫側の作品から観たんですが、なんだかわからないけれど妻に愛想をつかれ、出て行ってしまい、でも関係を修復したくて、ストーカーまがいのことをしながら彼女を追いかけ…ということで、『ゴーン・ガール』にも似ていると思った。あの映画ほどエンターテイメントに特化してはいない、現実味のあるものになっているけれど。エグいのはエグいです。また違った感じのエグさですが。

コナーは、うまくいっていたはずなのに、別れを切り出された理由がわからない。だから、躍起になって、エリナーを捜そうとして、後をつける、実家に押しかける、大学の授業へ忍び込む。
同じ時期に、経営している店も赤字になり、閉店することになってしまう。従業員と喧嘩しつつも、結局すぐに仲直りしたりして、兄弟のような存在なのだと思った。一番何でも話せる友達のようだったし、エリナーと別れている時期にも支えになっていたようだった。
従業員の一人、カフェのシェフ役にビル・ヘイダー。軽口をたたきながら、一度は殴り合いの喧嘩もしていたけれど、最後も一緒に働いていたし、なんだかんだで仲が良さそうだった。
父親とも、少しの間一緒に暮らすことで、関係が修復されたように思えた。夫婦は結局は他人だけれど、父親とは血が繋がっているのだ。
コナーが「君と別れてから自分が何者なのかわからなくなった」とエリナーに言っていたけれど、周囲の人と話すことによって、より自分と向き合い、何者かが浮き彫りになっていく感じもした。
父親役にキーラン・ハインズ。マカボイともども、親子をイングランド系統でまとめてきたのは、ニューヨークに住んでいるイギリス人という設定でもあったのだろうか。

夫側から見たら急に愛想をつかれたようでも、きっと気づいていないうちに何かしらやらかしてるんですよね。その辺がコナー視点の“コナーの涙”を観ただけだとわからなかった。コナーは何もわかってなかった。
なんとなく続きがありそうなもやもやした終わり方だったので、種明かしを期待して、続けて“エリナーの愛情”(Her)も観てしまった。

“コナーの涙”は、幸せだった二人の過去からスタートし、いかにもラブストーリーがこれから始まる、という感じだったけれど、こちらはおもむろに海に飛び込む、自殺未遂のシーンから始まる。
コナーの方でも、病院に駆け付けると手を吊ったエリナーがいる、というシーンはあったけれど、それがまさか自殺未遂で負った怪我だとは思わなかった。序盤で、事の重みの違いに気づかされる。思っていたよりも深刻な事態だった。

両作品ともで詳しくは描かれないけれど、どうやら二人の子供が幼いうちに亡くなったみたいで、それが原因でぎくしゃくしたようだった。エリナーにいたっては、精神を病み気味だった。

コナーを助けたのが店の従業員と父親なら、エリナーを助けたのは家族と大学の教授である。家族、特に妹と教授と話す事でだいぶ楽になったのではないか。詳しくは語られないけれど、妹も息子はいるけれど夫となんらかの事情があって別れているようだった。教授も息子と長い間連絡をとっていないとのことだった。全員、何かしら悩みはある。
また、母親は昼間でもずっとワインを飲んでいることから、アル中気味なのかもしれないのと、娘に向かって「子供を産むつもりはなかった」と言ってしまったり、多少、問題のある人物に思えた。それでも、言葉に悪気はなさそうだったし、心配はしていそうだった。
こちらの作品を観ても、やはり血の繋がりは強いのだと思ってしまった。

二作品を観てみてわかる事もあった。二人にとって、一番楽しかった幸せな記憶が共通しているということだ。
それは“コナーの涙”の最初に出てくる過去のシーン。レストランから食い逃げをして、うまく逃げ切って、公園かどこかの草むらに笑いながら寝転び、そこで見た蛍が綺麗で…という美しい記憶だ。
コナーは自分の店から食い逃げした客を追いかけてそのことを思い出し、エリナーは甥っ子と蛍を見てそのことを思い出していた。

ただ、その後で約束した楽しいドライブについてはコナーは忘れてしまったのだろうか。
エリナーが唐突にドライブに誘うシーンがあるけれど、あれは、エリナーが過去のドライブを思い出していたのだと思う。行き先を決めずに、ラジオの音楽に合わせて歌って…。過去と現在と、同じお菓子を買っていた。けれど、ラジオをつけたら、コナーは「この曲好きなの?消していい?」と言っていた。おまけに嵐まで来てしまい、最悪である。

この後、立ち往生した車の中での出来事は両方の作品で同じシーンが描かれるけれど、少しだけ、けれど大きく違っていた。
コナー視点では、コナーがエリナーにのしかかり、でも「昨日、別の人と寝た」と告白していた。エリナー視点では、エリナーがコナーの上に乗り、エリナーが「誰かと寝たの?」と尋ねていた。
この違いは、監督によると記憶の差異らしい。

亡くなった子供のことを話しているシーンでも、コナー視点でコナーは「あの子の顔は鼻と口は君に似ていた。目元は僕に似ていた」と言っていたが、エリナー視点ではすべてがエリナーに似ていることになっていた。
どうも、自分に都合のいいように記憶が書き換えられているようなので、それをふまえると、車の中での出来事も少しおもしろい。

コナーが救急車で運ばれていくシーンでは、コナー視点では、コナーが「また追いかけていい?」と尋ねると、エリナーはそれには答えずに「さよなら、コナー」と言って扉が閉じられる。エリナー視点では「さよなら、コナー」というセリフが先に来ていた。

セリフだけではなく、他にも照明や服装も違ったらしい。二人が一緒のシーン=同じシーンは一回撮って終わりにしそうなものなのに、わざわざ少し違えて撮り直しているのはおもしろいし、こんなことをされると、一本だけ観て終わりとはできなくなってしまう。それに、監督としても二本観て初めて完結といった感じなのだろう。

ただやはり、映画を二本観るのはなかなか時間もとれないし、毎週観たい映画が公開されるし、本当なら多少上映時間が長くなっても仕方ないので一本にまとめてほしかった。『ゴーン・ガール』だって、途中から視点が変わるけれど、一本にまとめられている。

公式サイトなどには、“時を経て、再び愛に気づくまで”と書いてあるけれど、関係が戻ったのだろうか。“コナーの涙”の最後はエリナーらしき人物がコナーの後ろを歩いているシーンで終わり、“エリナーの愛情”ではそれが少し時間が経ったあと(髪が伸びている)のエリナーなのがわかり、コナーに「ねえ」と声をかける。
何を言ったかはわからないし、コナーがどう反応したのかはわからない。
でも、関係を絶つつもりなら、パリに行って帰って来なかっただろうし、帰って来た上で声をかけるということは、そういうことなのだろう。

わりと評価が散々な感じみたいなのですが、私はそこまで嫌いではなかったです。
以下、ネタバレです。







演技のコミカルなジョニー・デップはもういいよという声も散見される本作ですが、確かに、いつも通りというか、いつもより過剰なジョニー・デップでした。眉を上げたびっくり顔、いたずらがばれそうだけどすました知らん顔、ひょこひょこと走る姿…。でもどれも、もういいよと言われるのをわかっていてやっていそうな気がした。
『ローン・レンジャー』のトントさんの時も思ったのですが、ジョニー・デップは自分の体型をうまく生かしているのではないかと思う。背が低くて、顔が大きく足の短い昔の人っぽいスタイル。隣に隣りにポール・ベタニーのような、背が高くて顔が小さいイケメン体型の人が並ぶと、普通よりコミカルに動いたほうが画面映えする。
前はジョニー・デップだって、イケメン俳優だったかもしれない。でも、もう違うのだということが自分でわかっているのだと思う。

そのせいで、ノリもギャグも古くさいんですよね。でもそれは、ジョニー・デップの動きには合っているし、音楽やエンドロールの文字フォントから考えても、狙ってのことだと思う。パントマイムのような動きもしつつ、古き良き喜劇を目指したのではないだろうか。

あと、全体的にカートゥーンとかルーニー・テューンズっぽくもある。そうでないと、ポール・ベタニーは劇中で何度も死んでいただろう。何回も撃たれるんですが、死なないし、一回なんて吹っ飛んでいて、笑いに転化されていた。

ポール・ベタニー演じるジョックはかなりいいキャラクターだった。モルデカイの用心棒というのは、ベタニーの強面な見た目からしてもわかる。腕っ節も強そうに見える。実際に、闘っても強い役だった。
召使いを兼ねているというのもギャップがあっていい。無骨な見た目でも、神経は細やかだし、モルデカイの洋服をアイロンがけしてあげているのは可愛かった。一家に一台と言われていたけれど、これは欲しい。
更に絶倫ということで、設定が盛りだくさんなんですが、この設定は必要あったのかわからない。手癖が悪いからといって、問題が起こったり解決したりは特になかったと思う。淫乱娘(そう呼ばれていた)は出てきたのに、彼女とも特にトラブルは無かった。原作ではどうなっているのだろうか。

ジョックはモルデカイとの関係も良かった。常に振り回されているけれど、どこがいいのか、一生懸命仕えていた。
飛行機で酔っぱらったモルデカイをお姫様抱っこしてあげているのもかわいい。ちなみにこのシーンでは、「授賞式で酔っぱらう俳優よりマシ」というジョニー・デップ自虐ギャグもあり。
オークション会場では、モルデカイは逃げようとしながらも、結局危険を冒してジョックを救ってあげていた。主従関係だとそういうシーンもあるといいですよね。
あそこまで大袈裟ではないとは思うけど、普段からジョニー・デップとポール・ベタニーってあんな感じなのかなと考えると楽しい 。

もう一人、学生時代の友人で、モルデカイの奥さんのことを慕っていたというMI5の警部補マートランド役のユアン・マクレガーも良かった。モルデカイやジョックに比べると地味だけれど、下心によって振り回されて割りを食う役。

キャラクターは良かった。おちゃらけた雰囲気も悪くない。でも、さっきのジョックの絶倫設定の続きですが、少し下ネタが多すぎる気はした。
「髭の男性とキスをするのは、私のアソコに口をつけてるようで嫌」とか、「TOYOTAのクリちゃん」とか。字幕だと若干マイルドになっているけれど、英語では直接的なワードになっていた。また、エロ系だけではなく、汚い系というか、ゲロネタも多かった。もらいゲロ体質と言いながらえづくまではいいけれど、実際に…というのはちょっと。

前に、『スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師』を観に行った時に、ジョニー・デップ目当てなのかわかりませんが、観客の女性が血が出るシーンで顔を覆っていた。今回、ジョニー・デップだから…ということで観に来たファンの人は、このお下劣ギャグの応酬に耐えられるのかなとも思った。

また、“華麗なる名画の秘密”という大層なサブタイトルが付いているし、序盤の展開からして謎解きものか?とも思うんですが、特に大きなどんでん返しがあるわけでもなく。ラストもまあ想像通りというか、驚くようなことはなかった。
ロンドン、オックスフォード、モスクワ、カリフォルニアといろんな場所に飛ぶくせに、大したことが起こらない。
最初、絵が盗まれたときに「モルデカイが…」と言っていたので、すべては奥さんの仕業なのかと思っていたけれど、そんなこともなかった。首謀者が近くにいたら面白かったけれど。

濃厚な下ネタのわりにストーリーがやけにあっさりしていると思ったけれど、この辺も原作通りなのかもしれないし、なんとも言えません。
ただ、下ネタに注いだ情熱をもう少しストーリーのひねりに注いでくれればいいのに…とは思った。

ジョニー・デップの演技からの頭ごなしな否定はしないけれど、もう少しなんとかなったのではないかとも思ってしまった。










2009年アメリカで公開。日本では劇場公開はなく、2010年にDVDスルー。発売はされず、レンタルのみだそうです。そうゆうリリース方法もあるんですね。
監督、脚本はリッキー・ジャーヴェイス&マシュー・ロビンソン。組んでいるのがスティーブン・マーチャントではないですが、本編中にほんのちょっとした役で登場してた。演じ方は濃かったです。

主演もリッキー・ジャーヴェイス。人々が正直なことしか言わないという世界が舞台となっている。いわば、心の声がそのまま聞こえてくるというような世界。リッキー演じるマークは外見も良くはないので、初めてデートする相手から、「太っていてぶた鼻」とか「寝るつもりはない」とか、散々なことをズバズバ言われる。
会社に行ってもやり手のハンサムや秘書から、「お前のことが嫌いだ」と言われ、他人よりも劣ったところのある人間は傷つきながら生きて行くしかない世界になっている。
ジョナ・ヒルも出てくるが、今よりも更に太っていて、髪型も小さいパーマをかけていて、見た目が冴えない。ファッションも最悪。おそらく彼も、周囲から色々言われているようで、暗い顔をしていて、常に自殺を考えているという役だった。
リッキーが描くのは順風満帆とはいかない人生を歩んでいる人物であることが多いが、今作では順風満帆な人物との差がかなり激しくなっているし、正直なことしか言わないことによってうまくいかないことがかなり多いのがわかった。お世辞もないし、物語も生まれない。

そんな中、ちょっとしたことから、マークだけが嘘をつけるようになる。
他の人間は嘘という概念自体がわからないから、マークの言った嘘が他の人には真実になっていく。思うがままである。物事は円滑に進むようになって、人生も好転する。
ためしにギャンブルなど自分のためにも使ってみるけれどそれだけではなく、周囲の人たちを幸せにしてあげていた。
嘘を耳打ちすることで問題が解決させるなんて、魔法使いのようにも見えた。

嘘をつくという、当たり前のことを特殊能力としているのがおもしろい。普通、出てくる特殊能力は、超能力めいたものが多いが、この映画の場合は世界の側が歪ませてあり、主人公に親しみが持てるようになっている。

病床につく母親を怯えさせないように、「死んでも消えてしまうわけではない」と天国について説くという行為は、息子として当然のことのように見える。本当に天国があるのかなんてもちろんわからない。でも、そう声をかけてあげることは優しさである。それでもそれは、嘘だったり創作であることは間違いない。

そして、そのせいで、他の人々に死後の世界を説くようになってしまう。本当のことしか言わない世界にはキリストもいない。マークが話したあとに作られたとおぼしき教会めいた建物のステンドグラスには、マークが最初に人々に死後の世界を説いた時の様子が描かれていた。
もう、ほとんど神様扱いなのだ。
髪の毛と髭が伸びたマークがシーツにくるまった姿がまるでキリストのようだった。あれも意識していたのかもしれない。

嘘で世界が変えられるから、悪い方向へもどんどん使えたはずだけれど、大切な場面では正直に話してしまうあたり、マークの人間性が滲み出ていた。
学校などでは嘘をついてはいけない、と一辺倒に教えられるかもしれない。けれど、嘘がなくなったら、それはそれで困った世界になってしまう。
例えば、最後に奥さんの作ったどうにもまずそうな料理を「おいしい」というシーンが出てくる。そこで、「まずい!」と言ったら、奥さんは傷つくし、毎日それが続いたら人間関係もうまくいかなくなる。ここでも優しい嘘をついたのだ。
正直なだけでは殺伐としてしまう。物語などもそうだけれど、適度に、そして円滑に進めるためには多少の嘘は悪ではないのではないか。

とてもつまらなそうな邦題がついてしまっているけれど、原題は“The Invention of Lying”である。マークが嘘を発明したというお話。

「太めでぶた鼻の遺伝子が子供に引き継がれるから結婚したくない」などと、本当にひどいことを言われてしまうけれど、子供に引き継がれた遺伝子はそれだけではなかった。嘘をつく能力もしっかり引き継がれていた。
おそらく子孫にどんどん引き継がれて、何百年後かには嘘の横行する世の中に変わっているのだろう。

特典映像として、出演者が原始人に扮しているコントのようなものが入っていた。嘘の始まりが描かれている。原始人の一人が嘘をついたので現在のようになりました、といった内容で、本当は映画の最初に入れるはずだったらしい。
家が小さいとか貧乏の象徴が、洞窟が小さいとなっているのが面白かった。嘘をつかない原始人たちは酷いことをどんどん言って、石を投げていた。原始人姿だと、正直になんでも言う姿にそれほど違和感がない。
まったく嘘をつかない現在の人間が滑稽に見えたのは、服装などは現在でも、中身は原始人と同じということか。

特典映像は他にも、原始人コントのためにイギリスからアメリカに呼ばれた俳優のどっきりめいた日記形式をとったメイキング“カール・ピルキントンの日記”や、裏話かと思いきや、他の出演者やスタッフがリッキーについて語り、彼がいかに愛されているかがわかる映像などが入っていた。結構豪華だけれど、リッキーの魅力が満載といった内容のものが多かった。

例えば、『The Office』がまったく嘘のつけない世界だったらどうなっていただろうと考えてしまった。
デヴィッドは空気が読めない男である。周りの冷たい目に動じず、というか気づかず、おちゃらけ続ける。しかも信頼されていると思い込んでいる。
これが、冷たい目だけでなく直接言われたらどうなってしまうのだろう。
リッキー自体は周囲の目に気づかないデヴィッドを演じながらも、脚本を書いているわけだから、周囲の人の心の内がわかっている。すべてわかった上で演じているのだと思うと、なんとなく恐ろしいような気持ちになった。










キーラ・ナイトレイ、マーク・ラファロ主演のニューヨークが舞台の音楽映画。
以下、ネタバレです。





キーラ・ナイトレイ演じるグレタがライブハウスで無理矢理ステージに上げられて演奏し、マーク・ラファロ演じるダンがそれを見ているというシーンから始まるが、そこに至るまでのそれぞれの話を別々に見せるのがおもしろかった。過去に少し戻ることで、事情があとからわかる。そうすると、最初に見たシーンがまったく違って見える。
それぞれが別の場所でどうしようもない目に遭っていて、そんな二人が偶然に出会う。まるで魔法のようだった。

でも考えてみれば、この映画全体で起こることが魔法のようだった。
レコーディングスタジオを借りずに、ニューヨークの町中で演奏をして録音する。偶然出会った子供にコーラスをやらせる。娘にギターを弾かせる。その場のアイディアでアレンジが加えられる。
もちろんもともとある曲ではあるけれど、ジャムセッションのようにして、バンドメンバーがアイディアを出しつつ曲が出来上がっていく様子は、きらきらしていてまさに魔法だったのだ。

また、グレタとダン、お互いが過去のもやもやを打ち明けた後のシーンも良かった。イヤホンが二組に分かれるコードを一つのiPhoneに挿して、同じ曲を聞きながら夜の街へと繰り出す。
確かに、イヤホンで曲を聴いていると街が違ったように見えるのだ。それを共有するのはとても楽しいと思う。しかも、コードはそれほど長くないし、真ん中に何かが引っかからないように、二人の距離も縮まる。

二人の夜遊びシーンはいい雰囲気だったし、この二人は恋人になるのかもしれないとも思ったけれど、ダンは既婚者で子供もいる。奥さんとの親しさを示すように、一本の煙草を二人で吸うシーンもあった。
グレタにも、音楽で売れたことで捨てられた恋人がいた。後半でその恋人は復縁を迫ってくるが、グレタはもっと大切なことが見つかったようなことを言っていた。恋人の出したCDで、グレタの作った曲にアレンジが加えられていて、「ライブでは君が作ったままの曲調で演奏するから来てくれ」と言われ、実際にライブでアレンジ前の曲を聴いたグレタが流した涙の意味があまりよくわからなかった。
グレタの恋人、デイヴ役はMAROON5のアダム。やっていることは酷いのだけど、ライブでの歌声は素敵だった。さすがプロなのだけれど、どんなに酷くても許せてしまう。なかなかずるい配役だと思った。ちなみに、アダムはノーギャラらしい。

デイヴがグレタの作ったままのアレンジで曲を披露している最中で、グレタはライブ会場を出てしまう。復縁を考えたなら、たぶん曲を最後まで聴いていたと思う。
しかも、会場を出たグレタが向かうのは、ダンの家である。聴いていて、ダンのことを思い出して、想いを告げに行ったわけではないのだろうか。
ダンは家族と暮らす家に戻るための引っ越し準備中で、グレタはそこで、行かないでだの好きなのだのということは言わない。それが、事情を察した上で何も言わなかったのか、それとも、本当に特に恋愛感情は持っていなかったのかというのがわからなかった。

「レコード会社とは契約せず、インターネットのダウンロード販売をする」という決断を告げていたが、本当にそれだけを言いにダンの家に行ったのだろうか? アレンジ前の曲を聴いて、こんなに素晴らしいのにレコード会社の言いなりでアレンジを加えてたデイヴの変わりように涙をしていたのだろうか。自分はそんな商業主義とは違うという思いに至ったのだろうか。
それとも、家に戻るダンと本当に関係を断ち切るために、レコード会社(=ダンの会社)の世話にはならないということだろうか。

わかりづらくはあったけれど、ダンの家に行ったシーンで、グレタが泣きわめいたりしなくて良かった。しかも、男前な思い切った決断をして良かった。映画を観終わって、爽やかな気持ちになった。

キーラ・ナイトレイは今作で歌声初披露とのことだけれど、可愛らしい声でこれからもいろんな場面で使われそう。映画内で使われている曲もどれも良かったです。
あと、バンドメンバーもそれほど出番はないながらも、全員特徴があって好きになりました。




2010年イギリスで公開。日本では公開されていません。DVDなども日本語字幕版が付いているものは出ていません。
『The Office』『エキストラ』のリッキー・ジャーヴェイスとスティーブン・マーチャントが監督。
両ドラマよりはコメディー色が弱く、主人公たちはリッキーではない若い俳優のため、青春ドラマになっている。
リッキーは主人公の父親役で出演。やけに老けて見えたけれど、『エキストラ』の三年後らしいので、それほど時間は経っていない。タンクトップ姿のせいかもしれないし、アル中気味の太ったというよりむくんだ体型を作っていたのかもしれない。どちらにしても、田舎町の工場で働いている労働者階級の父親役なので、パッとはしない。スティーブン・マーチャントも主人公の入社パーティーでちょこっとだけ出てきました。

一応、イギリス、レディングのセメタリー・ジャンクションという場所が舞台になっている。リッキーはレディング出身らしいけれど、別に自分の子供の頃の話というわけではなく、ここが舞台と決めつけて撮ったわけではないそうだ。どこにでもある小さな町にあてはめてくれとのこと。

おそらく、ロンドンからはだいぶ離れている田舎町のようである。主人公たち三人は、たぶん町の問題児だったのではないだろうか。わいわいきゃーきゃーと小さな町で遊びまくっていたけれど、その内の一人、フレディが保険会社に就職し営業をやることになって、将来について考え始めた。
将来のことなんて考えてないブルースとケンカになったのは、考え方の違いもあったのだろうけど、ブルースが勤めているのが自分の父親と同じ工場だからというのもあるだろう。フレディはなんとなく、父親のようにはなりたくないと思っていたようだったし、そこで勤めているブルースのことも、本当になんとなく軽蔑していたのではないかと思う。
この二人の間に入って緩衝剤のような役割をしていたのがポール。体型もぽっちゃりしていたし、胸に女ヴァンパイアの入れ墨をいれてしまうちょっとマヌケな面もあり、でも憎めない人物だった。フレディの入社パーティーで、酔っぱらってステージに上がって歌ってしまうのも愉快だった。駅にある喫茶店の女の子に好意を寄せられて…というシーンも可愛らしかった。

フレディはちゃんとした会社に入社できたけれど、密かに想いを寄せていた幼馴染みは上司の娘なことと会社の先輩と婚約していることが同時に発覚してしまうし、最初はやる気を持って取り組んでいた仕事にも疑問を感じ始める。八方ふさがりでどうにもならない。
そこで、町を出てやり直そうと考えるのは若さゆえかもしれないし、若いからこそ出来ることだと思う。

それでも、フレディのぐちゃぐちゃした悩みは爽やかですらあるが、ブルースのこじれ具合はそんなものではないようだった。おそらく無職の父親が家にいて、死んだ目をしてTVを見てる。母親は出て行ってしまった。
その日のみのような刹那的な生き方をしていて、喧嘩をしては捕まって収監される。将来のことを考えて悩むフレディが健康的に見えた。
父親の古い知り合いの警官に説教をされ、真実を聞かされて、いままで自分は何をしていたのだろうというように、呆然と座るシーンが印象的だった。重い扉が閉じられ、四角い窓ごしに、ブルースの姿が見える。カメラがどんどん遠ざかって行く。
そこで流れて来るのが、『すべての若き野郎ども』。選曲が素晴らしくて涙が出てくる。このシーンにとても合います。
その後のシーンで、いつものようにTVを見ている父の隣りに初めて座り、ビールを手渡すのがまたいい。何も言わず、手を少し握るのも、精一杯のごめんなさいとありがとうなのだろう。

フレディが幼馴染みのジュリーに、「君のお母さんがお父さんにお茶を出しても、お父さんは“ありがとう”も言わなくて、お母さんはとても悲しそうだった。マイク(会社の先輩。ジュリーの婚約者)もお父さんと同じようになって、君が悲しい想いをすることになる」と言うシーン。そこではジュリーはフレディのことをはねのけていた。話を聞いていた母親に何を言われても聞く耳を持っていなかったけれど、部屋を出る母親が「そうそう、あの人が最後に“ありがとう”って言ってくれたのは1964年よ」(映画の設定は1973年)と言うのも、その一言にすべてが詰め込まれている気がして泣けた。
今まで言っていなかったけれど、憶えているということはそのことをずっと気にしていたということだし、今でも気にしているということだ。そして、それを娘に告げたということは、暗に「私のようにはならないで」と言っているのだ。
その後で、母と娘でお茶を出してみる実験をして、実際にマイクからも“ありがとう”という言葉が聞けないのを確かめて、ジュリーはフレディの元へ行くために家を出た。

ちなみに、会社の先輩で婚約者役がマシュー・グード、上司がレイフ・ファインズと豪華なキャスト。

自分を好いてくれる女の子がいるから町に残るポール、父のそばにいたいブルース、町を出るフレディとジュリー。楽しく遊んでいただけの青春時代の終わりと大人への第一歩。町に必要なものがある者は残り、外の世界に出て行きたい者は旅立つ。それぞれが最良の選択をしたと思う。
日本語字幕が付いていない映画やドラマに、英語字幕で何作かチャレンジしてみましたが、今回が一番わかりやすかった。『The Office』や『エキストラ』のようなスラングみたいなのもないし、あったとしても、TVの内容などを家族でべらべら喋っているシーンで、物語の大筋にはあまり関わって来ない。また、殺人事件や謎解きなどがあると、真相究明の場面で大体わからなくなるのですが、今作は日常ものなので、それほど複雑な現象は起きない。そっくりそのまま同じではないのは当たり前だけれど、映画の中で彼らが体験すること/思うことは、かつての私が経験したこと、今の私が経験することなので、気持ちが伝わってくる。そこに原語や国は関係ない。普遍的な出来事が描かれている。
ただ、コメディーではないとしても、必ずしも人生順調とは言えない人々の悲喜こもごもといった点では、二作のドラマと描かれていることは一緒なのだと思う。
時に厳しく、でも最後には優しく寄り添う姿勢に泣けてしまう。





『ANNIE/アニー』


もともとのミュージカル版や映画版などの『アニー』は観ていません。けれど、おそらく、設定がだいぶ変わってるのではないかと思います。

以下、ネタバレです。





ざっとあらすじを読んだだけなんですが、まず、最初にブロードウェイで上演されたのが1977年、1933年を描いた話らしい。ニューヨークが舞台なのは同じですが、今回、ジェイミー・フォックス演じるウィルは携帯電話会社の社長でしたが、元々の大富豪オリバーは特に職業が設定されてはいないようです。
しかも、携帯電話会社の意地悪社長が市長選に出るためのイメージアップとしてアニーを引き取るというのも、もとの設定からしたら考えられない。

観ていないのでちゃんとはわからないんですが、もとの話では大富豪はアニーのことを最初からまあまあ好意的に見ていたのではないかと思う。この映画だと、富豪のウィルは、選挙が終わったら捨てるというようなことも言っていたし、子供が嫌いで孤独を好む人物だった。

それが、なぜだか急に好意を持ち始める。
ウィルが実はかつらだというシーンはいらないのではないかと思ったけれど、今から思えば、かつらなのを見られたところから秘密の共有をして、好意を持って行ったのだろうか。ドレス姿が案外似合ってたから、というわけでもないだろう。
アニーが文字が読めないことを告白したときに、家庭教師をつけようと言い出して、どうしてそこまで気をかけるようになったのかわからなかった。父親が働いてた高架を見せに連れて行ったのもよくわからない。

この他にも、秘書が急にウィルのことを好きだと言い始めるのもとってつけたようだった。ずっと好きではあったんだろうけど、もう少し彼女の気持ちがわかるような描写が最初からないと、唐突に思えてしまう。もとの話でも大富豪と秘書の恋愛が描かれているようなので、無理矢理ねじこんだ感じがしてしまった。

キャメロン・ディアス演じる里親も急にアニーに好意的になっていた。歌がうまいと言っていたという話を聞かされてのことだったけれど、その前まで金に意地汚く、アニーを売り払おうとしていた人物だとは思えなかった。
歌手だった栄光を捨てきれずにしがみついている人物だから、歌のことを言われてあっさり改心したのかもしれないけれど、今まで顔の表情すべてを使って意地悪おばさんを演じていたのに急だった。

アニーもお父さんお母さんをあんなに捜していたのに、見つからないままあっさりウィルと親子になっていたのもわからない。もとの話だと死亡しているというのが明かされるらしいですが、それもなかった。何をきっかけに本当の両親に会うことをあきらめたのかわからない。

どうせみんな話や展開を知ってるんだろうし、人物をちゃんと描かなくてもいいだろうという適当さを感じてしまった。

あと、キャメロン・ディアスの『101匹わんちゃん』のヴィラン、クルエラにも見えた顔芸と、ウィルがかつらをはずしているところを見られたというシーンだけでなく、大袈裟なギャグが多くてコントっぽくなっている部分がたくさんあった。
ホームレスへの炊き出しで噴き出して、それがインターネットの動画サイトにアップされる、しかもパロディ多数など、一個一個のギャグが濃くて、しかも必要ではない濃さだったので、胸焼けがしそうだった。
福祉課の女性が、ウィルの家を訪問したときに一緒に踊っているのも余計に感じてしまった。秘書とアニー、二人でいいのに。

後半、偽の両親がアニーを車に乗せて走っていて、それをウィルたちがヘリコプターで追いかけるシーンも、さも見せ場のように撮られていたが、いらなかったのではないかと思う。偽の両親はウィルに依頼されたと思っていて、追っているのもウィルでというシーンをあんなにスペクタクルな撮り方をする必要はないと思う。単なる誤解、話の行き違いではないか。

ミュージカルとしては、最初の教室のシーンと、自転車のベルなど日常のものがリズムを刻むオープニング、部屋で一緒に暮らす養女たちと歌うシーン、養女たちと家の掃除をするシーンは良かった。掃除のシーンはホビットの食事のシーンを思い出した。軽快に皿を投げたり、上から捨てたゴミを、ゴミ箱の蓋を楯みたいに使って分別したり、見ていて楽しかった。
でも、それ以降は違和感があった。ジェイミー・フォックスもキャメロン・ディアスもクヮヴェンジャネ・ウォレスも、歌はうまいけれど所謂ミュージカルというか舞台っぽい歌いかたではないので、ミュージックビデオのように見えてしまった。

偽両親のオーディションで寸劇の途中で歌わせていて、なんで急に歌わせるんだと聞かれた時に、「ミュージカルみたいでしょ。歌で魔法がかかる」というセリフがあって、ミュージカル映画内でミュージカルが出てきて混乱した。じゃあ、他の歌っているシーンはなんだったのか。
最後の方でウィルとアニーが歌っていたときに、ハニガンも歌い出し、「二人が歌ってるんだから邪魔しちゃだめだよ!」と怒られるのも、メタ的というか、どの視点で観たらいいのかよくわからなくなってしまった。

あと、犬のサンディは白いむく犬であって欲しかった。両親がいない境遇に共感して飼うことになるので、白いむく犬が捨てられているのはおかしいから仕方ないのかもしれないけれど。
でも、アニーと言えば、アフロの女の子と白いむく犬ってくらい重要なアイコンだと思うので、変えてほしくなかった。

エンドロールでアウトテイク集があったんですが、子供たちとメガネのジェイミー・フォックスが踊っているのは可愛かったです。

『ランゴ』


2011年公開。ジョニー・デップの西部劇というだけでなく、なんとなく『ローン・レンジャー』を思い出すと思ったら、同じゴア・ヴァービンスキー監督の作品だった。脚本は『007 スカイフォール』などのジョン・ローガン。

アニメというかCG映画で、声優がジョニー・デップなのですが、メイキングを見ると、声優というよりは実写映画の出演と同じようだった。マイクの前でセリフを喋る、よくあるアフレコ風景とはまったく違っていて驚いた。俳優さんがキャラクターの衣装を着ていて、体の動きもつけながら演技をしていた。アフレコの時に怒っているシーンではつい顔も怒ってしまうというような話があるけれど、それのもっと大袈裟版です。でも、あの実写だけの本編も観てみたいくらいだった。

舞台はアメリカ南西部。人に水槽の中で飼われていたカメレオンのランゴが車の荷台から落ちてしまうことから始まる冒険。
最初に出会うアルマジロやカエルは南部訛りなのか、字幕では関西弁になっていた。

西部劇なのですが、キャラクターがカメレオンなど小型の動物なので、馬の代わりに走る鳥に跨がっていた。辿り着いた村も、建物が人間の捨てたゴミで作られていたりと、こだわりがある。
敵との追いかけっこは西部劇の一番盛り上がるところですが、そこでワーグナーの『ワルキューレの騎行』が使われているのが一層盛り上がる。『ローン・レンジャー』では『ウィリアム・テル序曲』が使われていましたが同じような使い方。
この前にランゴが女装をしてお芝居をするシーンがあるのですが、この追いかけっこアクションはその続きで女物のドレスを着ていて、その衣装が生かされたものになっているのもうまい。
ここで、空からの追っ手が鳥ではなくコウモリに乗っているのもおもしろい。追っ手たちはプレーリードッグ。今回、悪役のようなポジションなので、土から続々と顔を出す様子がゾンビが地中から蘇るのと同じように撮られていた。こんなに可愛くないプレーリードッグ初めて見ました。

プレーリードッグは悪意を持った描かれ方をしているけれど、他の動物も特別可愛いわけではない。アイアイがモチーフの女の子が可愛いくらいで、他は砂漠の生き物がモチーフなので、他の映画ではキャラクターになりにくい生き物が揃っている。は虫類、両生類も盛りだくさん。毛が生えたほ乳類もいるけれど、肌触りがごわごわしていそうというか、汚そう。でも、それは彼らが暮らす環境の厳しさを物語っているようでもあった。
大体、主人公がカメレオンである。目玉がぎょろぎょろ動くし、肌は鱗でびっしり。でも、見ているうちに不思議と愛着が沸いてくるし、人形などが売っていたら欲しいと思ってしまった。おそらく、自分探し=何にでもなれる=カメレオンということなのではないかと思うけれど、どうなんだろう。


最大の敵はヘビの死神ジェイクなのですが、演じているのがビル・ナイ。メイキングで「鱗があるキャラがあれば私が呼ばれる」と言っていたけれど、『魔術師マーリン』のドラゴンのことを思い出した。このジェイクが、ヘビなので手は無いのですが凄腕のガンマン。尻尾の先が銃口になっているというキャラクターデザインがかっこいい。

物語の進行役兼音楽係のフクロウたちは可愛かった。場面転換で楽器を演奏したり、ナレーションもしていたけれど、他のキャラから「ちょっと音楽止めてよ!」と言われていたので、メタ的な存在でもあった。
彼らが最初に「これは死んだヒーローの話です」というようなことを言ったので、ハッピーエンドに近づいて来ていそうなのに、ああでも死ぬのか…と思いながら観ていたら、フクロウの一人が同じ質問を投げかけてくれて、「死ぬよ、いつかはね!」みたいな答えでした。良かった!

途中でも一回、ギターソロを弾くシーンがあったけれど、エンドロールでもフクロウたちはバンド形式で演奏していた。ランゴの鱗の肌がモザイクのようになっていて、少しお洒落なアニメーションになっている。

後半、嘘がバレて村を追い出されたランゴが倒れてからのシーンはファンタジックだった。多数のダンゴムシが連れて行った先で見たもの、会った人、聞いたこと。歩くサボテンがゆっくりと動く様子と白っぽい画面が綺麗でした。
その前までの、村の埃っぽさも表現がうまいと思った。特に水を貰うための儀式のような踊りのときに、動くたびに砂が舞うのが本当に乾燥しているのが伝わって来た。水のおいしそうな感じも素晴らしく、喉が渇いてくる。

最後、再び村の仲間に迎え入れてもらった時に、かつてのもの言わぬお友達も一緒に仲間に入っていたのも良かった。水槽で飼われていたときに、ランゴは一緒に水槽に入っていたおもちゃたちを相手に一人芝居をしていた。いま、他に友達ができたからといって、彼らのことを見捨てたわけではないのがわかって嬉しかった。