前作『ムーンライト』がアカデミー賞を受賞したバリー・ジェンキンス監督。
1974年の『ビール・ストリートに口あらば』が原作。
レジーナ・キングがほとんどの映画賞の助演女優賞を受賞していて、アカデミー賞の助演女優賞も確実では?と言われていたけれど、その通り受賞した。

以下、ネタバレです。







ティシュは幼馴染のファニーと恋人同士になり、幸せな日々を過ごしていたが、突如、無実の罪でファニーが刑務所に収監されてしまう。その状態で妊娠していることが発覚する。
ストーリーは刑務所へ面会をしに行くティシュと、彼女が思い出す過去が中心になって描かれていく。

過去のシーンは黄色のあたたかなライティングが印象的。『ムーンライト』は青で、冴え渡るような美しさでしたが、今回の美しさはふんわりと優しい。音楽も同じ印象だった。
それは、ティシュがファニーと一緒にいた過去の柔らかくてあたたかくて優しい思い出のカラーなのだと思う。
過去の思い出が優しいほど、その日常が突如奪われたという事実が重くのしかかってくる。

最近刑務所から出てきたファニーの友達が、いかに刑務所が酷いところだったかというのを話すシーンでは、なんとも言えず、音楽が歪む。とても不気味で怖かった。映画は全体的にあたたかな印象なのに、そこだけがひんやりしている。
このシーンに限らず、映画全体がティシュの心中を表しているのだそうだ。そう考えると、あのシーンも不安感が表れているのだろう。

ファニーは白人警官によって誤認逮捕され、収監される。レイプされた側も証言をしている。
『デトロイト』もそうでしたが、『フルートベール駅で』にしても、誤認逮捕というよりははめられたのだろう。
この映画は70年代が舞台であり、悪徳白人警官なんていうものはさすがに現代には…と思っていたが、『デトロイト』にしても『フルートベール駅で』にしても、わりと最近の話だし、黒人に対する白人警官の暴力はニュースでもちょくちょく取り上げられる。現在でもまったくなくなっていない。珍しい事件ではないのだ。

ただ、特に『デトロイト』が怒りをおぼえ、憤る作品だったのに対し、本作はもちろん許せないのは許せないが、アプローチの仕方がまったく違うせいか、そこまで怒りの感情は湧き上がってこない。
悲惨である。許せない事件である。けれど、映画のタッチはひたすら優しい。
これは、怒りをぶつけるのではなく、僕らは僕らで正しいことをしようよというメッセージに思えた。まさにDo the right thingなのだ。アカデミー賞でのスパイク・リー監督もスピーチの最後にこの言葉を残していた(『Do the right thing』自体も未見なので近いうちに観たい)。
そう考えると、白人警官に啖呵を切った売店のおばちゃんは正しいことをしたと思う。
また、ティシュの視線で描かれるので、刑務所の中で実際に何が起こっているのか、そんなえぐい描写もない。だから、強烈に憤るということもなかった。ただ、明らかに殴られた痕がある顔で登場するシーンはあった。

母役がレジーナ・キングで彼女はレイプ被害者に会いにプエルトリコへ出かけて行く。レジーナ・キングが助演女優賞に選ばれたのは、このプエルトリコ・パートだと思う。そこまで長くはない。
そこで被害者の夫(ギャングのボス?)と会食をするが、その前に鏡に向かって精一杯のおしゃれをする姿は相手になめられないようにと外見をしっかり作ったのだろう。鏡に向かっている姿が不安そうではあっても勇ましくも見えた。
ここまでも薄氷の上を歩くように大変だったのだろう。夫も情に流されたのか、会わせる手はずを整える。
しかし、ここで母は言ってはいけないことを言ってしまい、本当はファニーにレイプされたわけではないという証言を引き出すことはできなかった。
「しくじった…!」と言って、頭を抱え込む。決定的に間違った選択をすることでもう元には戻れないことがわかる。場所をつきとめ、プエルトリコまで来て、会う算段を立ててもらったのに台無しにしてしまった。偽証でしたと証言してもらわなければ、ファニーは釈放されない。自分のせいだ。
ここまで、ティシュの前では優しく頼れるお母さん然としていたのに、一気に崩れてしまう。
失敗を悔やむこの演技が助演女優賞だったのだと明確にわかった。

邦題は原作『If Beale Street Could Talk』の直訳の邦題『ビール・ストリートに口あらば』のほうがよかったと思うけれど、映画向けに少しキャッチーに変えたのだろう。でも、観終わってから、口あらば…と思う。口あらば、偽証と認めてもらわなくても釈放されるのに。ビール・ストリートは見ていたはずだ。

レジーナ・キングの演技はずば抜けていましたが、主役の二人も良かったです。ティシュの純粋さとファニーの優しさがよくわかった。
また、脇役が、え?この人も?と思うような豪華さだった。それぞれ、そんなに出番はありません。
ディエゴ・ルナは二人がよく行くレストランの店員さん。ファニーによくしてくれていて、いつもニコニコしていて感じがいい。とてもかわいい。
悪徳警官役にエド・スクレイン。70年代なので厚手のヒゲ。帽子のひさしの奥から、少しでも綻びを見つけて逮捕してやるぞとじっと見てくる爬虫類のような瞳が怖い。
バリー・ジェンキンス作品の特徴として、登場人物が映画の中の人物ではなく、スクリーンのこちら側、私たちを見てくるというカメラワークが使われるのだけれど、主人公の二人の他にもこの悪徳警官が執拗にこちらへ目線を向けてくるショットがあり、こんな目で見られたらびくついてしまい、挙動がおかしくなりそうだし、やっていないこともやったと証言してしまいそうだと思った。これについて、監督は、「登場人物が登場人物を見ているシーンは彼らの中での気持ちの受け渡しだけれど、カメラに向かっているということは映画を観ている人との気持ちの受け渡し」だと言っていた。撮影は『アメリカン・スリープ・オーバー』のジェームズ・ラクストン。
プエルトリコのボス役にペドロ・パスカル。ガラが悪そうながらも、情に厚く、ちゃんとした人のようだった。
デイヴ・フランコ演じる不動産屋は、何の説明もないが、キッパーをかぶっていたので、おそらくユダヤ人なのだと思う。白人だけれど、ティシュとファニーに優しく、なんで優しくしてくれるんですか?と聞いたら、幸せな人を見るのが好きだからと答えていた。白人が黒人に優しいのが不思議なことであるという状況がまずおかしいが、周囲には優しい人たちもちゃんといた。
若手弁護士役にフィン・ウィットロック。実は彼目当てでこの映画を観た部分もあります。心からファニーを救ってやりたいとは思っていたようだが、コネも何もなく、情熱だけでは力不足という役だった。やり手一歩手前という感じです。あと眼鏡をかけていた。久しぶりにフィン・ウィットロックを見たなあと思ったが、製作会社がプランBでなるほどと思った。彼はまだブラッド・ピットに気に入られているようだ。

衣装がまさに70年代で、シャツの柄などが可愛かったのですが、『ペーパーボーイ真夏の引力』、『アンダー・ザ・シルバーレイク』のキャロライン・エスリン=シェイファーが担当というのがすごく腑に落ちた。どちらも可愛かった。





デンマークの国立映画学校の卒業生たちが20日足らずで作り上げたとのこと。ノミネートまではいかなかったが、アカデミー賞外国語映画賞のデンマーク代表になった。
緊急通報ダイヤルで働く男が、かかってきた電話を頼りに誘拐事件を解決しようとする。
出演者はほぼ一人。他は電話の音声のみなのに景色が見えてくる。

以下、ネタバレです。









ワンシチュエーションでリアルタイムに進んでいき、主人公以外が電話での出演ということで、『オン・ザ・ハイウェイ その夜86分』に似ていた。あれは主人公は車を運転しながら動くことはなく、いろんな箇所に電話をかけまくって周囲を動かすという映画だった。それでも、やはり本作と同じく電話口の向こうの景色も生き生きとしていた。向こうも別撮りではなく、出演者が控えていて一斉に演技していたという手法も面白かった。本作の撮影方法も気になる。トム・ホランドやオリヴィア・コールマンが出てました。感想はこちら

本作の主人公アスガーは、自分から積極的に動いていた。場所は部屋移動くらいですが、もっと自分の意志が感じられた。なんとしても、自分で事件を解決したい。
しかも、アスガー自身、何か失態をやらかして電話番にまわされているだけで、本当は現場で働く刑事のようだった。刑事としてのプライドと、おそらく本件が最後の緊急通報ダイヤルを受けての事件なのもあっただろうが、もっと何か問題を抱えているようだった。
話が進むうちに少しずつ明らかになるが、その失態の裁判が明日で、多少ナーバスにもなっている。

誘拐事件側も刻々と事態が変わっていくけれど、それにつれて、アスガーの自分自身の出来事に対しての心も変化していくのが面白かった。

緊急通報ダイヤルの奥で男の声が聞こえていて、女性ははっきりとは喋れない。
この先もアスガーと共に、いろんな電話の向こう側に想いを馳せることになる。
情報が追加されるにつれ、自分の想像の中も変わっていくという経験が面白かった。車種が明らかにされるまでは、想像していた誘拐されてる様子は車内の中だけだった。白いワゴンと言われると、高速道路を走る白いワゴンも見えてくる。

自宅には子供が二人残されている。6歳のマチルダは頭が良く、しっかり者のようだった。これも伏線でもあったかもしれない。
でもこの娘によると、離婚した父が母を誘拐したらしい。そこで、アスガーも私たちもDVの可能性を疑う。アスガーは母を無事に返すと約束して使命に燃える。

一方、明日行われるアスガーの何らかの裁判の証言を友人なのか同僚なのか、頼んでいたラシッドは、最初はごまかすが周囲が騒がしいことが電話でわかり、酒を飲んでいると白状する。そんなことで証言は大丈夫なのか?供述書通りにやってくれとアスガーは怒っていた。この時点でははっきりとはわからないが、何かしらの失態に対して、真実ではないことを証言させようとしているようだった。そのプレッシャーで酒を飲んでいたのではないか。また、その失態が原因なのかは不明だが、妻は家を出たらしい。

アスガー側と誘拐事件とが少しずつ明らかになっていく。アスガーは、おそらく願掛けのような気持ちで誘拐事件解決に臨んでいたのではないだろうか。この事件が解決したら、自分の裁判もうまくいくし、妻も帰ってくる。単なる正義感とも思えなかった。

残された子供達のいる家へ向かった警察からの電話では、マチルダが血だらけであることがわかる。情報が追加され、想像の中の子供が血だらけになる。そして、赤ちゃんは死んでいる。その報告を受けて、アスガーが「息があるか確認しろ!」と言っていたが、私もそう思った。その時点では眠るように横たわる赤子を想像していたから。しかし、腹をズタズタに切り裂かれているという情報が追加されて、確かにそれは確かめるまでもない…と思った。

一気に猟奇殺人事件になってくる。アスガーもそんな男といる女性が危険だと思う。だから、ワゴン車の後ろに閉じこめられている女性は危険だと思ったし、レンガで男を攻撃しろと命令するのもわかる。わかったのだが、この時の会話で、怯えている時は怯えている声なんですが、楽しい会話をしている時にも落ち着いた声色には聞こえなかった。何か変だ…と声だけでなんとなく嫌な予感がしていたら、「赤ちゃんの腹からヘビを出してあげたら泣き止んだ」と…。
そうすると、最初から全てが逆転してしまう。アスガーも同じ気持ちで頭を抱えていて、しかもレンガで殴れなどと言ってしまった。女性は言われた通りにレンガで殴って逃げ出す。

誘拐事件ではなく、夫は妻を精神病院に連れて行こうとしてたんですね。北部はどうやら雨が降っているらしく、電話越しにずっとしとしとと雨音が聞こえていて、寒々しさと物悲しさが伝わってきた。電話のかかってきた場所が、ピンポイントでないまでも広範囲で示されるので地図で大体の場所がわかるのも想像の手助けになった。

逃げ出した女性はアスガーに電話をかけてくる。どうやら陸橋の上らしい。自殺をする気なのだ。
女性も自分が赤ちゃんを殺したことに気づく。今見たら手が血まみれだったと言っていた。情報追加。
ここで誘拐事件とアスガー自身の話が絡み合うのがおもしろい。
アスガーは自分の事件について告白する。若者を撃ち殺したと。確かに悪党だったが殺さなくてもいいのに殺した。明日はその裁判で、同僚にはその偽証を頼もうとしていたんですね。でも、もう緊急通報ダイヤルのほかの電話番の人たちがいる前で堂々と真実を告げていた。そうしないと伝わらないからだ。
自分は故意で殺したけど、あなたは故意じゃなかったのだ。仕方ないではないか。

電話の向こうでは、女性を保護するパトカーのサイレンの音が近づいてきている。女性は「あなた、いい人ね」と言い残して、飛び降りてしまった。
と思ったら、無事に保護されていました。陸橋から飛び降りるだの自殺だのはアスガーが言ってただけで、完全に騙されてしまった。飛び降りたにしては電話が留守電に繋がるんだなとは少し思っていたのに。

ミスリードを誘う作りになっているとはいえ、耳から伝わる情報で想像をすることのいい加減さがよくわかった。でも、想像するのが楽しかったし、映像が頭の中で書き換わっていく感覚が新鮮だった。

アスガーは最後、部屋を出て、誰かに電話をしていた。それは誰かは明らかにされないし、音声もつかない。その状態で私は妻にかけているのかなと想像したが、偽証を頼んだ同僚にかけていると読む人もいるらしい。誰とでもとれるように、わざと音声をつけなかったのだと思う。ラストまでにくい演出。観終わってズシンとくるタイトル含め、おもしろかったです。


渡辺謙とケリー・オハラ主演の『The King and I 王様と私』の映画館上映。
2015年4月にブロードウェイにて19年ぶりにリバイバル上演され、第69回トニー賞では4部門に輝いた(ミュージカル部門リバイバル作品賞、主演女優賞ケリー・オハラ、助演女優賞ルーシー・アン・マイルズ、衣装デザイン賞)。渡辺謙も主演男優賞にノミネートされた。
今年夏には来日公演も控えている。
映画館上映は2018年8月のロンドン公演版。

以下、ネタバレです。






『王様と私』自体は原作が1944年、海外でのミュージカルの初演が1951年、日本でも1965年に日本人キャストにより初演、その後何度も上演されており、映画版もある。
しかし、今までまったく触れてきておらず、『Shall we dance?』くらいしかわからないため、ストーリーも何も把握しないまま観ました。他のバージョンを観ていないため、違いなどもわかりません。今回も渡辺謙目当てです。

舞台は1860年代。タイの王様にイギリス人の女性アンナが子供達の教育係として雇われる。王様に見初められる一般女性の話なのかと思っていたらとんでもない。二人の間にロマンスらしいロマンスはなく、どちらかというと戦友のようだった。

ロマンス成分はタプティムとルン・タという二人が担っているのですが、タプティムが王に気に入られたために、もともと恋人なのに許されぬ二人になってしまう。
タプティム役のナヨン・チョンが歌がとてもうまかった。個人的にはケリー・オハラよりナヨン・チョンが好きでした。夏の公演にも彼女がくるのだろうか。

1860年代のタイは専制君主制がとられていて、誰も王には逆らえない。特に女性の身分は低い。王には多数の妻がいて、子供も70何人と言っていた。
そんな中でもアンナは別の国から来ていることもあり、不平不満をどんどん王へぶつけていく。
傲慢でプライドが高いし、嫌な王だな…と思っていたけれど、観ているうちに彼のことがどんどん好きになってしまう。

70何人かの子供のうちの数人の紹介をするんですが、子供が一人一人わーっと出て来て、最後にアンナに向かって手のひらを上に向けるのですが、アンナが王を見ると、「あなたの両手をその上に乗せて挨拶してあげなさい」とジェスチャーで教えてあげる。あれ?もしや優しい?と思っていたら、子供のうち数人が王に絡んでいき、それへの王の対応がいちいち素敵だった。足にしがみついた子ははがしてあげてたし、反対向きにおじぎをした子は両手で持って向きを変えてあげていた。仁王立ちをする王の足の間を通る子もいた。
子供に好かれているし、王も子供たちのことが好きなのだ。もしかして、いい王様なのでは…。

また、国を一人で治める上での孤独感や苦労、恐怖心などを苦悩しながら歌うシーンもあった。渡辺謙は歌が上手いというわけではないんですが、半分くらい語りのような歌だったし、それより何より、表情が豊かだった。舞台だと大袈裟なくらいに表情を作った方が映えるのだなと思った。また、渡辺謙は日本人の中でも目鼻立ちがくっきりしているのがあらためてわかった。
比べてしまうと、大沢たかおは元の顔のせいもあるが、表情に乏しかったし、演技も大仰なものではなかった。もちろん、そういう役だったからかもしれない。でもでっぷりとした重量感のある体つきは見事でした。

王はプライドの高さゆえなんですが、アンナに聞きたいことがあっても「教えてください」とは死んでも言えないんですね。でも、異文化に興味があって、本当は取り入れたい。勉強熱心で先生(アンナ)がそこにいるのに、プライドの高さが邪魔をする。それで、遠回しになんとかアンナ自身が、聞きたいことを喋るように仕向ける。けれど、その仕向け方が下手すぎて、アンナもこの人、プライド高いから聞きたいのに聞けないんだな…というのがわかる。わかった上で意地悪をせずに教えてあげる。畏れてはいないけれど、王として敬意は払っているから意地悪はしない。王はめちゃくちゃ言っているようで、アンナに甘えてしまっている。なんていい関係なんだろう。

自分よりも頭を高くするなと言っていて、アンナも仕方なく従っていたけれど、そこは意地悪をするように、変に頭を低い位置にしたり、面白いポーズをとったりしていた。アンナはいちいちポーズまで同じようにする。本当に微笑ましい二人だった。
夏の日本公演用のポスターが寝転んでニコニコしている二人なんですが、これも、王様が不意に寝転んだことで、同じポーズをとって図を低くするアンナなんですね。ここで一幕が終わりです。好きにならずにいられない二人だった。

特にやはり、私が渡辺謙目当てで行っていたせいもあるかもしれないけど、彼が出てくると完全に舞台を支配してしまい、観客の心を掴んで離さない。困った王様なんですけど、チャーミングで人間くさい。

二幕はイギリスからの客人を迎え入れるために芝居をするんですが、これがタイの古典舞踊風でメイクや衣装、動き、声の出し方など、かなり見ごたえがあった。要は劇中劇なんですが、違う芝居を二つ観たような気持ちになった。内容自体はとても悲しいものだった。

この後にお待ちかねの『Shall we dance?』があるんですが、これもロマンティックに優雅に踊るのかと思っていたけれど、結構ドタドタしていた。ポルカなので、ステップが弾んでいてダイナミック。でも、ここまで観て来た二人、アンナと王に合っている。
王は異文化だけでなく愛も知るんですが、アンナを愛するというよりは、愛そのものを知った感じだった。もちろん、アンナのことも好きにはなっているけれど、それは妻にしたいという気持ちではない。最初は異国の、しかも女性という訳のわからない存在だった彼女を受け入れたのだ。
この辺りから、多様性や女性の地位向上など、今風のテーマだと思うけれど、これはさすがに原作の通りなのだろうし、そうなると、1944年にこの原作が誕生していたことに驚く。
文化の違いについて、恐れずに受け入れてみると世界を見つめる視野が広くなる。いろんな見方ができると、楽しいことがもっと増える。

また、二幕最初のタイ古典舞踊はさすがに今回特別に加えられたのだろうなと思ったけれど、作品そのものの解説にも、“シャム・バレエ風のダンスによる上演”と書いてあるので、もしかしたら他の上演でもやっていたのかもしれない。でも、さすがに日本人版ではやっていないと思うのだけれど…。
これだけたくさんのバージョンがあるので、何か他にも見て比べてみたい。




『ダンケルク』でピーターを演じたトム・グリン=カーニーのブロードウェイ公演の出演が17日終わった(キャストが変わるが上演は続く)。トミーを演じたフィン・ホワイトヘッドのドラマ出演の情報も出たことで、整理できなくなってきたので、このタイミングで出演者、トム・グリン=カーニー、ジャック・ロウデン、アナイリン・バーナード、フィン・ホワイトヘッド、バリー・コーガンの五人の今後の予定をまとめておく(自分用)。



【トム・グリン=カーニー】

『Tolkien』
『指輪物語』の原作者J・R・R・トールキンの伝記映画。のちに妻となるエディスとの出会いと学生時代、陸軍時代のことが中心に描かれていそう。トム・グリン=カーニーはオックスフォード大学のご学友のクリストファー・ワイズマン役。
イギリスで5/3、アメリカ5/10、ポルトガル6/20、リトアニア6/21で公開が決まっている。
日本のFOXサーチライトのTwitterアカウントもこの映画の宣伝をしていたが、現在公開は決まっていない。(追記:2019年夏公開とのこと)
しかし、有名な人物の映画だし、『指輪物語』を意識したポスターだし、主演がニコラス・ホルトなので公開されるのではないかと思う。


『The King』
Netflix映画。『奪還者』『アニマル・キングダム』のデヴィッド・ミショッド監督。撮影は去年八月にすでに終了してます。
ティモシー・シャラメがヘンリー五世、ベン・メンデルスゾーンがヘンリー四世。シェイクスピアの戯曲を元にしているとのこと。他にも、ジョエル・エガートン、ロバート・パティンソン、ショーン・ハリスなどが出ている。トムはヘンリー“ホットスパー”パーシー役。
秋配信との噂があるけれど不明。年内には配信される予定。Netflixなので、日本も同時に配信されるのではないかと思われます。

『Rialto』
あらすじを見る限りだといざこざが描かれる家族ものっぽい。これも年内には公開される模様。去年の夏くらいに撮影していたようなのでおそらく終わっている。
主人公コルム役にトム・ヴォーン=ローラー。10代の息子を持つ父親で、自分の父の死をきっかけに人生を見つめ直す。トムはジェイという役名がついていて、息子役かと思ったらそうではなく、コルムと関係を持つ男娼役とのこと。


【ジャック・ロウデン】

『ふたりの女王 メアリーとエリザベス』(原題『Mary Queen of Scots』)
去年の11月のいくつかの映画祭で公開され、アメリカでは去年12/21、イギリス1/18、日本でも3/15に公開されます。
スコットランド女王メアリーとエリザベス一世の書簡を通じた争いが描かれている。ジャックはメアリーの夫、ダーンリー卿役。

『Fighting with My Family』
スティーヴン・マーチャント監督。2012年のドキュメンタリーを基にしたコメディ。WWEに入りたい兄妹が元プロレスラーの父と母と一緒に興行をしながら夢を叶えるべく頑張る…という話だと思われます。
ジャックは兄のザック(Zak)役。
アメリカ2/14、イギリス2/27公開。ドウェイン・ジョンソンがご本人役で出ているし、なかなか好評のようなので、日本でも公開されるといいなと思います。


『Fonzo』
ジョシュ・トランク監督。懲役10年の刑期を終えた47歳のアル・カポネは、痴呆を患って過去の暴力的な日々に取り憑かれている…というあらすじ。ヘヴィーそう。
アル・カポネ役にトム・ハーディ。再び共演。他に、マット・ディロンやカイル・マクラクランも出ます。ジャックはFBIのクロフォード捜査官役。
まだ公開日は決まってませんが、撮影は終わっている。ビッグバジェットっぽいし、キャストからも日本公開もあると思う。

『Corvidae』
4月からスコットランドで撮影されるサイコスリラー。ジャックは制作も兼ねるらしい。スコットランドに拠点を置く新しいプロダクションを作ったとのこと。
詳しいことはわからないけれど、トーマス役。ポスターに名前が出ている三人のうちの一人なので、主要人物だと思われる。タイトルはカラス科の意味。

他、エロティックスリラーみたいな作品が控えていると思ったけれど、タイトルが消えているのでなくなってしまったかもしれない。


【アナイリン・バーナード】

『Dead in a Week:Or Your Money Back』
自殺したいけどなかなか死ねない男が自分の殺害を殺し屋に依頼する。多分コメディ。
殺し屋役にトム・ウィルキンソン。どんな役か不明ですが、ハーヴィーという役でクリストファー・エクルストン。アナイリンは死ねない男、ウィリアム役です。
去年11/16にイギリスで公開、アメリカは11/30。日本でも今年夏の公開が決まっている。ヒューマントラストシネマ有楽町他とのこと(配給ショウゲート)。


 『SHERWOOD』
YouTube制作のアニメーション。ロビンフッドからのインスパイアとのことで、ハッカー女の子、ロビンが主人公。見た目は忍者っぽい。
その悪役と思われる人物のCVがアナイリン。少し見た目も似ています。
3/6にYouTubeプレミアムで公開とのこと。月額1180円(無料トライアル三ヶ月)とのことですが、日本でも観られるのかは不明。
(追記:日本語字幕付きで観られるようです。3/16現在、1話のみ無料公開中)


『Bigger』
ボディビルの創始者、ジョー・ウイダーの伝記映画。サプリメントやトレーニング器具の販売でも有名…とのことだけど聞いたことがないと思ったけれど、あのウイダーinゼリーのウイダー氏だった。
アナイリンはその弟のベン・ウイダー役。
去年の秋にアメリカで公開されているようですが、今年の1月にiTunesやAmazonプライムでネット配信が始まっている。日本での配信があるかは不明。

『The Goldfinch』
『ブルックリン』のジョン・クローリー監督。ワーナーとAmazonスタジオ製作。
主人公テオにアンセル・エルゴート、友人ボリス役にアナイリン・バーナード(子供時代のボリス役がフィン・ヴォルフハルト)。
オランダ、ポルトガル、ロシアで10/10、アメリカ、イギリスで10/11、イタリアで10/17の公開が決まっている。
二コール・キッドマン、サラ・ポールソンなど有名どころが出るし、原作も有名なので、日本でも公開されるのではないかと思うが、製作費を出す代わりにAmazonプライムでのストリーミングの放送権を得るらしいので配信スルーの可能性もある。(追記:2020年公開予定とのこと)

『Radioactive』
『チキンとプラム』のマルジャン・サトラピ監督。
キュリー夫人と夫のピエールの話。マリ・キュリー役にロザムンド・パイク、ピエール役にサム・ライリー。娘イレーヌ役にアニャ・テイラー=ジョイ。
アナイリンが演じるはポール・ランジュバンは、ピエールの教え子であり、ピエールの死後、マリと恋人同士になるが、ポールにも妻がいて…という人物。その他にも秘書との間に子をもうけたりと女癖は悪そうですが、研究者としては優秀で、ソナーを開発したのもこの方。フランス人(!)。
こちらはキノフィルムズがすでに購入済みということで、劇場公開があるかどうかは不明だし、本国公開の日付もまだ決まっていないようですが、いつか日本語字幕付きで観られる。

『The Personal History of David Copperfield』
『スターリンの葬送狂騒曲』のアーマンド・イアヌッチ監督。監督というよりは、元々はオックスフォードで放送メディアの教授をやっていて、スタンダップコメディや風刺作家でもあるらしい。
チャールズ・ディケンズ『デイヴィッド・コパフィールド』(カッパーフィールド表記のところも)の映画化。
デヴィッド・コパフィールド役にデヴ・パテル、大叔母役にティルダ・スィントン、貧乏でひょうきんなミコーバー役にピーター・カパルディ、大悪人ユライア・ヒープ役にベン・ウィショー。
アナイリンはデイヴィッドの旧友であり理想像、ジェームズ・スティアフォース役。しかし、傲慢で誇り高い性格、上層思考が強い、下層の人々を蔑視、純朴な人々の生活を破壊など、散々な言われよう。撮影の写真を見ると、特殊メイクなのか本物なのかわからないが、だいぶふくよか。まん丸です。
こちらもギャガが購入済み。本国では年内公開予定。ポルトガルは12/5とのこと。来年のアカデミー賞レース狙い?(追記:2020年早春公開予定)


【フィン・ホワイトヘッド】

『The Children Act』
原作はイアン・マキューアン『未成年』。
信仰により輸血を拒む少年アダムと裁判官フィオナの交流。フィオナ役にエマ・トンプソン。アダム役にフィン。輸入DVDで視聴済み。感想はこちら。原作を読んだ感じだとアダムはもっと幼い感じがしたけれど、何も疑わない純粋さがよく合っていた。人生を変えてくれそうなフィオナに執着する様子は、雛が生まれて初めて見たものを親と思ってついて行くのに似ている。
フランスやイギリスで2018/8月、アメリカで9月に公開された。
キノフィルムズが購入済みなので、日本の情報ももうそろそろ出るのではないかと思う。公開されるのか、DVDスルーになるのか。


『Roads』
監督は140分ワンカットという変わった映画『ヴィクトリア』のセバスチャン・シッパー。
『ルートヴィヒ』や『ラン・ローラ・ラン』に俳優として出演。
フィンは、兄弟を探すコンゴからの青年ウィリアムと出会うギレン役。ギレンは継父に嫌気がさして、モロッコでの休暇中にキャンピングカーを盗んで逃げ出すということで、普通の若者っぽい。二人はヨーロッパ国境付近で会って一緒に旅をする。予告を観ると楽しくもほろ苦い青春ロードムービーかなとも思うけれど、想像よりも辛い目に遭いそう。
ドイツ・フランス共同製作とのことで、ドイツで2/21公開(追記:5/30に延期になったようです。4月のトライベッカ映画祭にも出される予定)。
予告もドイツ語吹き替え。

『Don't Tell A Soul』
ジャンルとしては、ドラマティックスリラーとのこと。ガンを患った母と泥棒によって生計をたてる兄弟の話らしい。兄弟の弟ジョーイ役にジャック・ディラン・グレイザー(『IT』のエディ、『シャザム!』の主人公の友人)、兄マット役がフィン。兄弟が貯水池から出られない警備員と知恵比べ(たぶんもっと悪いこと)をする。
年内アメリカ公開予定。
他にもそこそこ有名なキャストが出ているので公開してほしいけれどどうなるか。

『Port Authority』
20歳のポールは路上でダンスをしていたワイを好きになって恋に落ちるが、ワイがトランスジェンダーだということがわかり戸惑うというラブストーリー。ポール役にフィン。
kiki Ballroomというダンスシーンを題材にした話。

kiki Ballroomはヴォーギング(マドンナの『Vogue』のPVで踊られているあれ)と呼ばれるダンスで対決するイベント。セクシャルマイノリティのコミュニティ形成の場でもあるらしい。1920年代のドラァグカルチャーに端を発するとのこと。ニューヨークの文化でもあるが、日本でも行われたことがあるようだ。
2017年のレインボー・リール東京にて、kikiを扱ったドキュメンタリー『キキ -夜明けはまだ遠く-』(2016年)が上映された。
ワイを演じるレイナ・ブルームはトランスジェンダーのモデルでkikiにも参加していたということで自伝的な作品なのかなとも思うけれど、主人公はあくまでもポールらしい。ポールの目から見たムーブメントということだろうか。

まったくのインディーズ作品で、日本公開は望めないと思っていたけれど、エグゼクティブ・プロデューサーにマーティン・スコセッシの名前もあるらしいのでちょっと期待。
ロドリゴ・テイクセラ(『ウィッチ』の製作)のRT Featuresと、マーティン・スコセッシのSikelia Prods.が新しい才能を発掘するべく2014年に合併したらしい。
ただ、本国でも公開の予定が出ていない。撮影は終了している。

『Inside No.9』Series5
ドラマシリーズのシーズン5にゲスト出演とのこと。他にもジェナ・コールマン、マキシン・ピーク、ジル・ハーフペニー、デヴィッド・モリッシーもゲスト出演するらしいので、一話完結ドラマで一話だけに出ると思われます。
BBC Twoにて放送。海外のNetflixでは配信があるようですが日本ではありません。
コメディとのことだけれど、コメディするのはレギュラー組だけでゲストはシリアスをやらされるのではないかとも思う。でも本当にコメディだったらとても観たい。
S1から全て6エピソードずつ。S1が2014年2月、S2が2015年3月、S3が2016年12月、S4が2018年1月と放映時期が一定ではないのでいつなのか不明。


【バリー・コーガン】

『アメリカン・アニマルズ』
大学生たちが図書館からヴィンテージの画集を盗んだ実話。バリーは犯人グループの一人スペンサーを演じる。他、メンバー役としてエヴァン・ピーターズ。実際の犯人たちも出ているらしい。
日本でも5/17に公開が決まっている。
去年の6月7月くらいからシンガポール、タイなどで上映が始まり、アメリカは8月、イギリスは9月に上映された。

『Black'47』
1945年〜1849年にアイルランドで起こったジャガイモ飢饉の話。タイトルから1847年の話だと思われる。イングランドの政策が要因だったらしい。
バリーは理想主義の若い英国兵のホブソン役。
去年9月にアイルランド、イギリス、アメリカで公開。
日本では公開されなさそう…と思っていたけれど、ジム・ブロードベントやフレディ・フォックスが出ている。

『Chernobyl』
タイトル通り、1986年のチェルノブイリ原発の事故の話。テレビドラマで全5回。バリーはそのうち一話に出演。
アメリカで今年5月に放送されるとのこと。

『Calm with Horses』
こちらもアイルランドが舞台。製作国はイギリス。
元ボクサーが麻薬ディーラーのディバーズ家の用心棒になるが…という話らしい。バリーはボクシングをやっているのでボクサー役なのかと思ったけれど、それは違う方。写真を見る限り、髪を金色に染めてガラが悪そうなので、ディバーズ家の一員ではないかと思われます。

『Y』
2020年アメリカで放送予定の全8話のドラマ。バリーはそのうちのどれか1話に出るようですが、名前など不明。パイロット役とのこと。
ブライアン・K・ヴォーンの『Y:The Last Man』というアメコミが原作。ヨリックという主人公とアンパサンドという猿以外、世界中からオス(y染色体。それがタイトルらしい)がいなくなってしまう…という話。
けれど、出演者を見ると男性が何人かいる。消える事件が起きる前のことだろうか。だとすると、出るのは最初の1話もしくは最後の1話だろうか。




ヨルゴス・ランティモス監督。
アカデミー賞は作品賞を含む10部門にノミネートされています。
アン王女とその侍女サラの元に没落貴族のアビゲイルが現れる。
アン王女にオリヴィア・コールマン、サラにレイチェル・ワイズ、アビゲイルにエマ・ストーン。三人とも素晴らしかったですが、やはり主演のオリヴィア・コールマンが素晴らしかった。アカデミー賞は主演と助演2人で3人ともノミネートされています。納得。

以下、ネタバレです。






アビゲイルが存在したのかどうかわかりませんが、アン王女は実在のあのアン王女で、17回妊娠したけれど子が育たなかったのも本当らしい。
サラはラストネームが出てこなかったと思いますが、サラ・チャーチル。チャーチルの先祖。
ニコラス・ホルトが演じたハーリーも実在の人物。ハーリーは小狡く立ち回る憎々しい役で、ニコラス・ホルトの白塗りも表情も本当に憎らしかったので、サラが途中で「あいつのホクロを引きちぎってやりたい」と言っていたのもそうだそうだと同意したし、実在の人物はアン王女に見限られて失脚するというのも溜飲が下がった。

サラはアン王女のわがままを聞きつつも、長年側近をやっているようだったし、病気がちのアン王女の座を乗っ取ろうとしているのかと思った。
対するアビゲイルは最初は女中だし、庶民的でなんとなく観ている私に近い存在に感じられ、彼女に感情移入しながら観ていた。

王女の痛風の足に牛肉を貼るという効くんだか効かないんだかわからない治療方法の代わりに薬草を摘んできて王女の足に塗る。しかも、私が取って来ましたよというアピールも欠かさない。
結構ずる賢いなと思っていたら、あれよあれよという間にのし上がっていく。
アビゲイルは優しい無邪気な子なのかと思ったら、裏表があった。エマ・ストーンの可愛さがあざとい。
すべて策略なのだ。今回、ハーリー含め、男はまったく役に立たないというか、話に絡んでこない。アビゲイルと結婚するメイシャムものし上がる道具で、結婚して以降は見向きもされない。初夜にベッドで股間を膨らませていても、アビゲイルは手でこするだけ。しかも、メイシャムのほうを見ることもなく、アビゲイルはサラのことを考えている。

一方、サラはキリッとしていて知的。ハンティングの時のパンツ姿の正装も美しい。ふわふわしている(ように見える)アビゲイルとは対照的。
でも、アン王女は、肉体的にも精神的にも簡単に快楽を与えてくれるアビゲイルを優遇するようになる。そのようなものに飢えていたのかもしれないし、サラとは長い付き合いで新しい刺激が欲しかったのかもしれない。

そうなると、アビゲイルは更に調子に乗って、サラに毒を盛って追い出す。落馬して顔に傷を負って戻ってきたサラは、本格的にアン王女に避けられる。
ここで、サラがアンに嫌われないように傷を隠すために顔半分を黒いリボンで覆うんですが、それがとても恰好良かった。アビゲイルに毒を盛られたこともわかっていて、表情も怖くなっているから、ゴスっぽくなっていた。今まで、私はエマ・ストーンのほうが好きでしたが、今回、レイチェル・ワイズが大好きになってしまった。

サラは本格的に追放されるんですが、その時に「鍵を返しなさい」と言われて出す鍵がすごく大きくぎらぎらしてて笑ってしまった。小道具も凝っていた。女王の部屋の壁紙もゴテゴテしていた。魚眼レンズみたいなので撮られているシーンが多くて、内装をたくさん映すためかなと思ったんですが、アビゲイルの詰所のような質素な部屋も魚眼レンズで撮られていたので違いそう。

サラは去り際に、私は正直な意見を言っていてそれが愛だとアンに言っていた。王女としてではなく、ちゃんとアンとして愛していた。アビゲイルとは違う。
追放してからアンはサラの存在の大きさに気づく。そばにいなくなって、失って初めて愛を知ったのだと思う。ここからのオリヴィア・コールマンが疲弊したように気力がないながらもすごく綺麗で、これはどんな演技なんだろうと舌を巻いた。素晴らしかった。
アビゲイルはサラを追放して目標を達成、放蕩三昧だったが、アン王女の寵愛を受けられていないことに気づく。結局、アビゲイルはサラになりたかったんですよね。サラのようには愛されないままだった。全てを手に入れたと思ったら、愛は手に入れられていなかった。サラからの手紙を燃やしてましたけど、そんな姑息な手段をとってももうなんの意味もない。
普通なら国外追放までしたら大勝利で高笑いしていてもいいはずなのに、完全敗北。女王を通して、アビゲイルもサラを失った大きさに気づく。

後悔するアンの表情と、虚しさを感じるアビゲイルの表情が重なって、暗転し、THE FAVOURITEというタイトルがバシッと出て終わる。すべてが台無しになってから、“お気に入り”と出されてもと失笑が漏れるとともに、なぜか清々しいラストだった。

『ROMA/ローマ』



Netflixオリジナル映画で、配信のみにもかかわらず(一部劇場公開もされたらしい)、様々な賞を受賞したりノミネートされたりしていて、アカデミー賞も作品賞など主要部門含め10部門ノミネート。
アルフォンソ・キュアロン監督。監督の半自伝的な物語とのこと。

以下、ネタバレです。





ネタバレとは言え、完全に理解できたわけではない。内容が難しいわけではなく、背景がわかりにくかった上に、説明はほぼない。
時代は1970年と1971年(これは1971年の年明けが描かれるのでわかる)。
解説には中流家庭と書かれているけれど、金持ちの家なのかと思いながら観ていた。そこで家政婦として働くクレオが主人公。同じメキシコではあるようだけれど、クレオの故郷は遠いようだった。もしかしたら人種も違うのかもしれない。
その辺の、家政婦を仕事とする人と雇う側の関係もよくわからなかった。
住んでいる家がメキシコシティ近郊のコロニア・ローマということで、タイトルの『ROMA』らしい。これも場所の説明などはないので、観る前や観ている間も、イタリアのローマのことかと思っていて、何が関係あるのかと思いながら観ていた。関係ありませんでした。

全編モノクロ。過剰に動かないカメラが長回しのように生活を映し出す。淡々としているけれど、非常に美しい。ただ、途中まではあまり物語の動きもないので、集中力を要する。これが映画館なら…と思ってしまった。
また、本当に画が綺麗なのと、モノクロなので、黒い色を真っ黒で観たいので、そのあたりも映画館向けだと思う。一応電気を消して観ましたが、物足りない。日本でも映画館で公開してほしい。

年明けのシーンで乾杯のカップが、乾杯できずに割れてしまうのが示唆的だった。
そのあとの夜の山火事も、大変なことが起こっているのに美しい。男が燃える炎をバックに歌っているシーンも宗教的で美しかった。背後ではバケツリレーで必死の消火活動が行われている。

雇い主の家の夫は不倫をしているのが確実になる。妊娠したクレオは父親である男性に会いに行くけれど、逆に脅される。
この辺りから、雇い主の家の妻はクレオへの親近感が強くなったように思えた。この家には子供が四人いるのですが、子供たちは元々クレオのことが大好きだったようだ。

家具屋にクレオの子供のベビーベッドを見に行った時に、学生のデモ行進と思われる集団に遭遇するが、デモ行進ほど穏やかなものではなく、銃も扱っていた。これはロス・アルコネスという政府軍の支援組織らしく、映画内に出てきたのも“血の木曜日事件”というものらしい。
ここで、父親である男性もこれに参加をしていることがわかり、クレオに銃を突きつけるのがつらい。クレオは破水し、死産してしまう。

雇い主の家の妻もつらくないわけはないのだろうが、家には大きすぎる夫の車を売っぱらったことで、何かが吹っ切れたようだった。すっかり表情が無くなってしまったクレオの気分転換のために、クレオと子供達と一緒に海へ旅行に出かける。モノクロの海の景色がまた素晴らしく綺麗。

子供たちが海で溺れそうになっているところを助けに行くクレオが印象的だった。泳げないクレオが波の中へ入って行く。押し寄せる波をかき分けて海へ入って行くクレオは、今まで困難を乗り越えてきた姿と重なるようで涙が出てきた。強くあらねばならないという今までの苦労が見えるようだった。
そのあと、キービジュアルにもなっている、家族と抱き合うシーンがあるんですが、クレオが家族に愛されているのもわかった。また、妻も夫と別れて傷ついているし、子供たちも父親と別れるのがつらい。全員それぞれが傷ついているけれど、身を寄せ合って、みんな一緒なら生きていけるという希望が見えた。

最後に映された空を飛行機がゆっくりと飛んでいるショットも本当に綺麗だった。もうどのシーンを切り取っても美しい。だからこそ、大きなスクリーンで観たかったとも思う。
Netflix配信も一長一短だと感じた。
映画館での上映だと今まだ観られなかったかもしれないと思うと、全世界同時配信はありがたい。特に、アカデミー賞受賞有力だと思うので、アカデミー賞前に観られるのは本当に嬉しい。契約していれば何度でも観られる。しかし、こんなちゃんとした作品が家のテレビでしか観られないのはもったいない気もした。




デイミアン・チャゼル監督、音楽ジャスティン・ハーウィッツ、ライアン・ゴズリング主演の『ラ・ラ・ランド』メンバーによる新作。
月面着陸50周年記念作で、人類で初めて月面に降り立ったニール・アームストロングについて描かれている。

以下、ネタバレです。





ニール・アームストロングについて描かれているのは知っていても、月面着陸のプロジェクト全体についての映画かと思ったけれど、本当にニール・アームストロング個人について描かれていた。
月面着陸成功することはわかっているのだし、それに向けて、各所でベストを尽くすお仕事映画、言うなれば『オデッセイ』のような、力が集結してラストで成功!やったー!という華々しさがあるのかと思ったけれど、どちらかというと地味な映画。月面着陸についての暗部が描かれていたと思う。

これは今までも言われていたことだけれど、月面着陸初成功にはアメリカの国の威信がかかっていた。ソ連に先を越されるわけにはいかなかったのだ。それによる焦りのためなのか、パイロットが次々事故で死んでいってもプロジェクトは強引に進んで行く。ニール自体についても途中何度も生命の危機を感じた。月面着陸を成功させることはわかってるから、途中で死ぬことはないのもわかっているのに。
時代のせいもあり、最初の船内は狭く、それも恐怖感を煽る。カメラが宇宙飛行士目線にもなるのでかなり揺れるし酔うけれど、4DXで観たらアトラクション感覚になるかもしれない。
狭い船内はまるで潜水艦のようだし、仲間の宇宙飛行士たちが次々死んでいく様子はまるで戦地のようだった。前線に出る兵士が宇宙飛行士で、その気持ちなど鑑みずに政治家は勝利だけを目指すのも戦争に似ている。
直接のドンパチは無くても、冷戦下なのだし、宇宙開発も戦争だと思い知らされた。
仲間が事故に巻き込まれた後、葬儀などは映さず、2年後に飛ばして、ニールが訓練中の事故で危機一髪という目に遭っていたのはうまい演出だと思った。省略しつつ、常に危険と隣り合わせなのがわかる。
また、ニールがアポロ11号の乗組員に選ばれてるのも別に経緯などは詳しく描かない。だって、みんな知ってるから。

また、ニールの家族にもスポットが当てられている。妻であるジャネットはただ待つだけである。通信を聞いて見守っていても、息子たちは暴れ放題だし、重大な危機が近くなると通信が切られる。苛立ちを募らせていた。序盤には娘も亡くしていた(娘のアクセサリーを月のクレーターに投げ入れていたが、これも実話なのだろうか)。
宇宙飛行士を夫に持つ妻同士で仲良くなった女性もいたが、その夫は途中で死んでしまった。自分もいつ夫を亡くすかわからないと思い、ますますストレスがたまったはずだ。
ジャネットを演じたのがクレア・フォイ。そんな役どころではないから当たり前ですが、ほぼ笑顔がない。自分を強く持とうと、つぶされないようと考えているようだった。
特に、黙って出て行こうとするニールを叱責する姿が良かった。戻れないかもしれないと、ちゃんと息子たちに話していけと。また、息子のうちのお兄ちゃんのほうはある程度ここまで見てきて聞いてきたからなのか、事情を察して厳しい顔をしていた。こんな小さな子まで、無理を強いている。宇宙飛行士の華々しさしか今まで知らなかった。

いざ月面に着陸するという時にも、アラームがなって、NASAに連絡をとっても「そのエラーコードは平気だから続けて」などと言われていてひやひやした。自分が乗組員になら、大丈夫だとしても説明してほしい。そんな時間もなかったんでしょうが。
下が岩で着陸できないとか、燃料がどんどん減っていくとか、ここも、着陸できることはあらかじめわかってるのに緊張感があった。ここのジャスティン・ハーウィッツの音楽が素晴らしかった。音楽的には一番盛り上がるシーンだと思う。

緩急の付け方がうまいと思ったのは、いざ着陸してからニールたちが上陸しようとする時にはまったくの無音になるところである。これは映画館で観てよかった。もちろん、映画館で観ても他の観客に邪魔されることもあるのでなんとも言えないけれど、家で観ていたらまったくの無音ということはありえないだろうから。ここの無音シーンは耳に痛いくらいで、身じろぎできなくなってしまった。

なるべくCGを使わず、宇宙船の外の景色もブルーバッグではなくLEDで流してしたらしいが、このCG廃絶主義はちょっとクリストファー・ノーランを思い出した。舞台美術(プロダクション・デザイン)も『インターステラー』『ダンケルク』『ダークナイト』のネイサン・クロウリー。ちなみに、ノーランは本作を絶賛しているとのこと。話の流れというか、人間の描き方もちょっと似てると思いました。


Netflixオリジナルドラマ。
童貞の息子とセックス・セラピストの母親の話と聞いた時にはエロメインのキワモノ枠かなとも思ったんですが、母子の関係がメインではなく、そちらを描きつつも、学校生活がメインになっていた。

ドラマ開始から学生同士のセックスシーンだし、どうだろうとも思ったんですが、キャラクターの性格が一辺倒ではなく、みんながそれぞれ悩んでいる。学園青春群像劇だった。
一話見ただけで、キャラクター全員が好きになってしまい、あっという間に数話続けて見てしまったけれど、全8話だと途中で知って、終わってしまう=キャラクターたちと別れるのが寂しくなってしまい、後半はちびちび見た。けれど、シーズン2の制作が発表されたため、安心して最後まで見ました。

主人公オーティスを演じるのはエイサ・バターフィールド。童貞であり、勃起もできないためオナニーすらできない。
友人のエリックはゲイなんですが、別に二人がどうこうなるわけではないのもいい。あくまでも、友人。あやしくなる部分もない。
学園のはぐれものメイヴはヤリマンという噂を立てられていて、実際経験は豊富そうだけれど、頭がよく、ちゃんと彼氏としかセックスしない。
彼氏は水泳の選手で生徒会長候補。母親二人に育てられているが、厳しさに息苦しさも感じている。エリックはゲイですが、母親たちはレズビアン。他にも学園にゲイの子がいる(この子も別にエリックと付き合うことはない)(エリックは仲良くなりたそうだった)、レズビアンカップルもいる。カミングアウトの難しさなどは描かれず、隠すこともせず、別に、普通にそこにいる。やはり最近のドラマという感じ。特にNetflixは多様性の要素を積極的に取り入れていると思う。

ストーリーはオーティスとメイヴが学園の子たちの性の悩みを聞いて解決するというもの。大きな流れはあるけれど、基本的に一話完結。

一話で乱暴者に見えて巨根を気にしていたアダムは、父親が校長先生であり、自分は落ちこぼれなので関係がうまくいっていない。その影の姿というのは、視聴者しか見ていない。学園では乱暴者のお山の大将だし、ゲイであるエリックには特にいじめを働く。これが寂しさゆえだというのは、テレビを見ている人はわかるんですけどね…。だから、アダムのことも嫌いになれない。

エリックの誕生日にオーティスは一緒に映画を観に行こうとしていて、それが、『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』なのも良かった。しかも、二人ともヘドウィグのコスプレをしていて可愛い。
きっと今までなら二人でコスプレで映画を観て、キャーキャー楽しく過ごして帰ってきたのだろう。でも、オーティスはメイヴとの予定を優先してしまう。
二人なら楽しいコスプレも一人だとバカみたいに見える。しかも、カバンを盗まれるなど踏んだり蹴ったり。そこでオーティスと喧嘩をするんですが、学校主催のダンスパーティーで仲直りをする。その曲が、『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』内の屈指の名曲であり代表曲の、『The Origin Of Love』なのも泣いた。大人になった時にこの時を振り返った二人の中で占める『ヘドウィグ』の役割はきっと大きいものなのだろう。

エリックも別にオーティスのことは男性として好きというわけではないけれど、メイヴと仲良くなってしまったし、友達が離れて行ってしまったように感じていた。
もう、これは序盤からなんですが、アダムとエリックが付き合えばいいのではないかと思っていた。孤独な魂同士が惹かれ合い寄り添うのが好きなのもあるからだ。アダムはホモフォビアっぽかったけれど、ホモフォビアとホモセクシャルって表裏一体だというし…。妙に意識してるし…。
と思っていたら、最終話でやっと、待ってました。居残り二人組で結ばれた。関係を持ってしまった後で、アダムは「誰にも言うな」と言っていたので衝動的なものだったのかなと思ったけど、その後、授業で隣りの席に座った時に、膝と膝、指と指をかすかに触れ合わせていて、ぼろぼろに泣きました。やっと孤独な魂たちが救われた!
それなのに、アダムは軍隊に入れられてしまい、学校は辞めさせられてしまう。父(校長)が業を煮やしたのだ。そりゃないよ…と思ったが、二人がハッピーになるなら、わざわざ最終話までじらさないもんな…とも思った。「遠くに行きたくない」とアダムは学校への未練を示していたが、それはエリックのことも考えていたと思う。それに、連れて行かれるアダムをエリックは目撃してしまうし、目撃されたのをアダムも認識していた。辛すぎる。お願いだからシーズン2でもう一度出会わせてほしい。でもシーズン1で少しの間だけでも心を通わせるシーンがあって良かった。

オーティスはオーティスで複雑なんですが、メイヴのことを好きになるけれど、メイヴ側は心許せる友達だと思っている。でも一話の最初では勃起ができなかったのが、メイヴを好きになって夢精する。
処女だけどセックスに興味津々の女の子がオーティスに言い寄って、いざセックスという時に、オーティスはパニック症状に陥る。これは後半なんですが、勃起できないのはどうやら、幼少期に父親が母ではない女性とセックスするのを見てしまったせいもありそうだった。
そんな中で母がちょっかいをかけている男性の娘からアプローチを受ける。オーティスがやっとその子の想いに答えようとしたところで、メイヴがオーティスへの想いへ気づく。メイヴはオーティスがキスしているのを見てしまい、何も言わずに去るところでS1が終わる。
もしかしたら、オーティスがメイヴとセックスをして終わるのかと思ったが、そうではなかった。そこまでは進まない。でも、オーティスはキスを思い出して、勃起することができた。一話のオープニングが勃起できずに悩んでいるところだった。つまり、オーティスが勃起できるようになるまでの話だったのだ。
これは下ネタではなくて、問題があって勃起できなかったのだから、8話を通して問題が解決したりオーティスが成長した結果、勃起できるようになったのである。問題解決や成長というのは普通のドラマでよく描かれることで、本作はたまたまそれが勃起になぞらえられていただけだ。よくできている。
ただ、射精するところまでいったかどうかは描かれないんですよね。射精できて初めて問題が完全に解決するのだ。だから、まだ中途半端である。あくまでもS2へ続く、なのだ。楽しみ。




のむコレから二ヶ月、配給会社がついて、晴れて正式公開となりました。ご祝儀としてクリアファイル付きパンフレットも購入。クリアファイルは抱き合うジョニーとゲオルゲが表と裏になっていて、とても良いデザイン。
二回目の感想を簡単に。(一回目の感想はこちら

以下、ネタバレです。





少し前までの同性愛を取り扱った作品では、愛し合う二人は結ばれないものだった。死んでしまったり、酷い迫害を受けたり、それ故に片方が相手のことを思って身を引いたり、世間体を気にして別れたり。とにかくアンハッピーエンドになるパターンが多かった。

実は、何の情報も入れずに観た一回目は、序盤の荒涼とした風景とジョニーの堕落っぷりと逃げ場の無さっぷりからハッピーエンドになるのかはわからなかったし、またいつものパターンに当てはまるのではないか…と思いながらひやひやして観ていた。

二回目はある程度流れがわかっているので安心しながら観ました。誰も死なないというのがわかっているのもいい。
ジョニーの表情が何も望みがなくやる気も感じられないところから、ゲオルゲに会って警戒感丸出しになり、それからでれでれの締まりがないものになり、ゲオルゲに出て行かれてからは家族を守る強さが見える表情になり、最後はとても優しい表情になる。
その移り変わりは彼の成長そのままである。

人が一生懸命何かをする姿というのは見ていて応援したくなるし、成就した時には良かった!と思うし、何をかはわからないけど、私も頑張ろうという気持ちになる。見終わった後に自分の中に前向きだったり優しい気持ちが広がる。

こういう映画を自分の中に作っておくと、気持ちが落ち込んだ時などにこれを観れば、観終わった後には自分が優しい気持ちになることができる。映画によって自分の機嫌をとることができるのはすごいことだと思う。だから是非、ソフト化されてほしい。

同性愛者であることでの問題はそれほどないと思ったけれど、牧場の後継ぎができないというのは問題といえば問題なのかもしれないし、ゲオルゲも結局それを一番気にしていたようだった。けれど、女性をパートナーにしたところで、跡継ぎができるとも限らない。

それよりも、具体的にどうするのかはわからないけれど、ジョニーは建設的な意見を持ち、それを自分の父親に提案することができるようになったのが素晴らしい。序盤だとジョニーは父に畏れと苛立ちしか感じていなかったと思う。発作の影響もあると思うけれど、父を気遣う心を持つことができたのも、ゲオルゲのことを好きになったからだろう。ジョニーが父を気遣えば、父もジョニーに感謝をし、今まで叱責しかしていなかったのに礼を言うようになる。恐らく初めてなのではないかと思う。

すべてが良い方向へと進んで行く稀な映画だと思う。扉が閉まるエンディングなので、この先のことはわからない。神のみぞ知る。大変なことも多いと思うけれど、きっと良い方向へ進んで行く。扉の向こうは新たな始まりなのだ。だから、観終わった後に、ああ、観て良かった…と心から思う。

『Pro9-治験』



2012年公開。日本で劇場公開されたのかは不明ですが、DVDは2014年にリリースされたようです。DVDには特典として予告編が入っているようなので、公開されたのかも。
アナイリン・バーナードが出ていたので観ました。

原題はシンプルに『The Facility』。タイトル通り、プロナインという薬の治験のために7人の男女が施設に集められる。
アナイリン・バーナードは一応主役かと思う。その七人の男女は、男性が50歳間近の治験のプロ、筋肉、インド系の学生、アナイリン・バーナード(アダム・大学院生)、女性が記者、普通の派遣社員、ブロンドの学生と個性豊かだったので、何かしら彼らの間にドラマが生まれるのかと思った。
投薬は時間差で、一人一人の自己紹介をかねているのかと思った。しかし、彼らの様々な属性は生かされることはない。筋肉も、看護師の女性を落とすみたいなことを言っていたが、そんな恋愛的なものや人間ドラマもなかった。もちろんアダムの大学院生らしい部分というのも特に出てこない。施設に向かう途中で同じ目的の女性を乗せてあげていたので何かしらあるのかと思ったけれどなかった。

治験は14日間という期間が定められていた。その14日間をフルに使えばもしかしたら人間関係が描かれたのかもしれない。けれど、最初の晩に、最初に投薬された男性が異常行動を起こす。薬の副作用で暴力的になり、顔の皮膚がただれる。
皮膚がただれた人が襲ってくるのでホラー的ではあるのだけれど、投薬をされただけだし、怖いというよりは可哀想だった。そして、時間差で次々と発症していく。

けれど、記者の女性は偽薬で、なぜかアダムもプラシーボとのことだった。記者は理由はわかるけれど、アダムが偽薬だった理由があまりよくわからなかった。薬を投与した場合、しなかった場合の違いを見ていたのだろうか。

殺しあったり殺したりしながら、結果的には6人が死亡。終わり方が淡々としていて、もしかして実話だったのかな、だからわざわざ記者の女性を出して写真を撮らせていたのかな、その写真により明るみに出た事件についての映画だったのかな…と思い、プロシントレックス製薬という会社名で検索してみましたが、この映画についての感想しか出てこないので実話ではなさそう。

ただ、監督のイアン・クラークはこの映画の後、何本かテレビ向けのドキュメンタリーを撮っているようなので、実話的な撮り方がうまいのかもしれない。
ただ、登場人物(治験のプロ)に「人類のために治験をしているつもりだったけど、会社のためだったんだよ!」という怒りのセリフがあったので、治験自体に対しての問題提起だったのかもしれない。または、何か別の治験についての告発だったのかもしれないとも思ったけれど、不明。

アナイリン・バーナードは『シタデル』でもそうでしたが、目が大きいので、恐怖に慄く表情が似合うと思った。ただ、投薬前、注意を聞いている時のへらへらした様子や他の治験者と話す様子が良かったので、もう少し、治験者たちとの人間ドラマ的な繋がりなども観たかった。ホラーパートに入るのが早すぎた。





DCヒーロー物というと、少しほの暗い部分を求めてしまうんですが、本作は細けえことはいいんだよ!系だった。でも、監督が『ワイルド・スピード SKY MISSION』のジェームズ・ワンだと聞いて納得した。
思っていたのと違ったのと、要素を詰め込みすぎだとは思ったけれど、その荒唐無稽さがコミックっぽくはある。衣装がぱっと変わったりもしてたけど、着替えたのいつ?などとは考えなくていいんだなと思う。

以下、ネタバレです。








オープニングの、海に流れ着いた見知らぬ女性を助けるシーンで、もう細かいことはいいのだなと思った。水槽の金魚を手づかみで食べたり、ウロコ柄のウェットスーツのような服装で只事ではないのに、名前を聞いたら言葉は通じるらしく、英語で答えていた。コミュニケーションはとれるのだ。そこまでカルチャーギャップもなさそうだった。

大人になったアーサーが潜水艦で海賊を倒して大暴れするシーンは、狭い船内なのにキメのポーズ満載で、ジェイソン・モモアが恰好良かった。海賊が未来っぽい機械のようなスーツを着ていたのも気になったけれど、彼が恰好いい限り、この映画は成功だろうと思った。
そこで、海賊親子の父親が死んで、恨みを募らせた息子が残されるので、今回のヴィランはこいつなのだろうと思った。

けれど、この映画はヴィランがいてそれを倒すという映画でもなかった。続編があるのかはわかりませんが、一作目なのでメタルかハードロックなんかをバックに(ジェイソン・モモアの見た目から)、単純に悪者をバッタバッタと倒すストーリーで良かった気もする。

しかし、序盤で海底に連れていかれて、異父兄弟と王座をかけて戦うことになる。この映画は海底パートと陸パートが半分ずつくらいなんですが、海底の色の鮮やかさが綺麗だし、武装したサメやタツノオトシゴなどに乗っていたりして映像が楽しい。海洋SFです。メラ王女のクラゲのドレスも美しかった。これはIMAX向けだと思う。細かいところまで観たいし、鮮やかさをもっと堪能したかった。しかし、IMAXでの上映がほとんど無いという…。
アーサーもなんですが、髪が長く、水の中なのでふわっと広がるのが独特。メラの赤い髪も綺麗だった。

この後の陸パートが、CGバリバリの海底パートとはまったく違っていて、個人的にはこちらがとても好きでした。メラとアーサーは、伝説の武器、トライデントを探しに行く。最初が砂漠なせいもあるけれど、まるで『インディ・ジョーンズ』のようだった。
砂漠で手がかりを得て、二人はイタリアに行く。陸を嫌っていたメラだが、アーサーの案内の元、陸の素晴らしさにも気づいていく…。もうこうして、宝探しをしながらメラが陸の良さに気づいて行く話でもいいのではないかと思ってしまった。そのつもりで観ていたら、また未来の機械のスーツのような人物が出てきてぎょっとする。普通のイタリアの風景に溶け込まないSF…。
しかし、この追手たちとアーサー、メラのバトルシーンがとても見応えがあった。カメラだけが動く長回し風のショットで、違う場所にいる二人の戦いを立体的にとらえるのがおもしろかった。
また、このシーンはアーサーよりもメラの活躍が目立ったんですが、ワインを使っての攻撃がそのアイデアも含めて新鮮だった。赤い髪の女性が赤ワインをナイフのように尖らせて放つことで攻撃をする。
この陸の中でもイタリアパートが本当におもしろかったので、ずっとこの調子ならいいのにと思ったけれど、こればっかりやってるとまったく海要素がなくなってしまい、『アクアマン』じゃなくてもいいのでは…いうことになってしまうのが悩ましい。

海溝で生贄となったはずの母と再会をするのも、2作目か3作目くらいでやってほしいエピソードだと思った。まさか、そのスーツの中身が母だとは!というのももっとためてほしかったし、トライデントの守護者とも、戦いではなく結局対話によりあっさりと問題を解決していた。アーサーだから、ということかもしれないけれど、トライデントもあっさり抜ける。このあたりからメラの活躍があまりなくなってしまい悲しい。

ここで、メラもアーサーも最終形態の服装にぱっと変わっていた。
最終決戦の場は多数対多数が戦っていて、最近のものだと『レディ・プレイヤー1』を思い出した。人間たち(正確には人間ではなく海底人とかそうものなのだろうけど)がわちゃわちゃしている後ろに、でかい蟹(のロボットに見える。SF風なので)がいる画が否応にも盛り上がる。
そこに、すべてを蹴散らすような、もっと巨大な何かが現れる。見た目の邪悪さから、大ボスが現れた!と思ったら、これを操っているのがアーサーだったので驚いた。この巨大さも、きっとIMAXのほうが楽しかったろうなと思う。残念。
『インディ・ジョーンズ』と『レディ・プレイヤー1』は普通なら一本の映画には同居しない。しかも二作を足して2では割らない。足しっぱなしなので、散らかっている。でも、もうそれでいいのだと思う。

最後のキメキメの構図とポーズとキンキラの色合いも、本当にコミックとしか思えなかった。だいたい、ジェイソン・モモアが漫画っぽいもの。きっとこれはこれで正解なのだ。
教訓とか説教臭さがなく、ただただ、恰好良く、楽しい作品だった。要素の多さやとっ散らかり具合も、この映画だからもう細かいことはいいのだと思う。お祭り映画。





原作は2003年に出版された『The Wife』。
グレン・クローズがゴールデン・グローブ賞で主演女優賞を受賞した際にはサプライズなどと言われていたが、他の賞も受賞しているし、アカデミー賞の主演女優賞にもノミネートされている。
監督はスウェーデンのビョルン・ルンゲ。
作家の夫がノーベル文学賞をとったことで変わる関係と心情を描いている。

グレン・クローズが演じるジョーンの夫ジョゼフ役にジョナサン・プライス。夫婦を追うジャーナリスト役にクリスチャン・スレーター。若き日のジョーン役のアニー・スタークはグレン・クローズの実の娘らしい。また、若き日のジョゼフ役がハリー・ロイド。

以下、ネタバレです。








予告で見たのか、どこかで聞いたのかは忘れましたが、長年、夫のゴースライターをしていた妻が、真実を話すのか、愛をとって隠したままにするのか…というのが焦点だと思っていた。
しかし、途中までゴーストライターであることが明かされないまま話が進んでいくので、もしかして最後に示される事柄だったらどうしようと思ってしまった。

それくらい、ノーベル文学賞を受賞した夫のジョゼフは喜んでいるのだ。少し怖いくらいである。私は知った上で観ていたけれど、知らない人が観ていても、本当にジョゼフが書いていると思うだろう。
罪悪感のかけらもない。むしろはしゃいでいる。普通、妻に書かせていたならば、自分が受賞したことで多少気まずい思いはするはずなのに。

しかし、観ていくうちにこれは彼の性格なのだろうと気づく。浮気性で女性に甘えっぱなし。また、甘やかされてもきたのだと思う。
この映画はジョゼフにノーベル文学賞受賞の知らせが来て、ストックホルムの授賞式とその後の晩餐会に出席する部分だけなのだが、その合間に過去の回想も含まれる。
過去編でジョゼフを演じているのがハリー・ロイド。彼は美形ではあるのだけれど、少し小悪人顔というか、もっと言えばゲスな役が似合う顔なのだ。若い頃から浮気癖があったようだし、ジョーン自体も既婚者で教授という立場のジョゼフと略奪する形で結婚したのだ。
ジョーンがゴーストライターになったのには時代背景もあったようだ。1950年代、60年代は、まだ女流作家が世間的に認められづらかった時代なのだ。作者が女性というだけで読んでもらえない。だから、夫の名前を冠してでも読んでもらえる、影ででも認めてもらえるという道を選んだのかもしれない。

実際、執筆にどの程度ジョゼフが関わっていたのかは明らかにはされないけれど、彼自身は共作だと言っていたし、心からそう思っていそうだった。そもそもジョーンが書くきっかけになったときも、弱々しくなっていたし、ジョゼフは全体的にずるい。でも、仕方ないなと思わせる説得力が若いジョゼフ=ハリー・ロイドにはあった。ハマり役だった。
過去のジョゼフを見させられたら、今の老いたジョゼフがその頃からまったく何も変わっていないのが見てとれるので、過去ジョゼフの重要さがわかる。喜ぶ時に、ベッドの上でジョーンの手を取ってジャンプをするのも変わっていない。
ジョーンが怒った時に車からノーベル賞のメダルをぽいと投げ捨てていて、映画館内の観客から笑い起こっていて私も笑った。これがジョゼフなのである。あまりにも子供っぽい。ずるいけれど、憎めない。

ただ、晩餐会のスピーチでは、「妻に感謝を」というようなことを言っていて、知っている人が見たら妻に書かせていたことがわかるような内容でありながら、知らない人が聞いたら本当にただの身近な人に対する感謝を述べているだけに聞こえて、ずるさ極まりないと思って腹が立った。ジョゼフは言ったことで自分が救われる。もしかして意識してのずるさではなく、単に馬鹿なのかもしれない。しかし、ジョーンは余計にストレスがたまる。

公式サイトなどだと、ジョゼフがノーベル文学賞を受賞したことで夫婦間の関係が一変と書かれていたが、そんなことはないと思う。ジョーンは言えなかっただけで、もう最初からずっと、恨みのようなものは抱えていたのだろう。でも、それと同時に長く続いてしまうと、恒常的な恨みはぼやけていく。ずっと一緒にいることで、愛情も芽生えてくる。

映画内でゴーストライターということが明かされる前から、カメラはジョーンの表情ばかりを映していた。そして、そのどれもが複雑なものだった。微笑んではいても、心の底から嬉しそうではなく、何かに耐えている。
ジョゼフがジョーンの隣りでスピーチをしていても、ジョゼフの額のあたりから上が切れてしまっていて、ジョーンが中心に据えられていた。実はジョーンが書いていたということを知らない人が観ても、ちょっと違和感のある気持ちの悪いカメラワークだと思う。普通ならもっと引いて、ジョゼフの頭まで映すと思う。

今までずっと影で書いてきて、ストックホルムでも「妻は書かないんですよ」などと紹介されて、もちろんジョーン目線で見ていたので、本当に腹が立った。そんな時に、助け舟のように現れるのがクリスチャン・スレーター演じるジャーナリストのナサニエル。ぐいぐい割り込んでくるし、昔に書いた文章までつきとめて、ジョーンが実はゴーストライターなのではないかということをつきとめる。
二人がバーなのかレストランなのか、向かい合って話すシーンが最高だった。ナサニエルに進められるがまま、ジョーンはタバコを吸い、酒を飲むが、肝心なことは明かさない。ジョーンのほうが一枚上手だった。グレン・クローズとクリスチャン・スレーターの演技合戦でもあるのだけれど、スリリングで見ごたえがあった。会話シーンのうまさは、監督が芝居の演出を手がけているせいもあるのだと思う。

ジョゼフに対するイライラをジョーンと一緒にため続け、もういい、言ってしまえ!世間にバラしてしまえ!という気持ちになったけれど、結局、ジョゼフが心臓発作を起こしてホテルで亡くなってしまう。しょうもなさを引きずったままでも、もう老人なのだなとその時に思い知らされた。もしかしたら、当事者であるジョーンもそう思ったかもしれない。怒りや溜め込んできたもの、プライド…様々な不満点があっても、別に殺したいほど憎んでいたわけではない。プレゼントされた時計も身につけていた。夜も同じベッドで、体に手をまわして寝ていた。心底嫌いなら、別々の部屋で寝るだろう。腐れ縁のような形でも、酷いなと思うことはたくさんあっても、離婚もせずに一緒にいた。愛情がすべてを上回っていたのだと最後にわかる。

我慢して我慢して、最後にバーン!と暴露する話ではなかった。いわゆる『ビッグ・アイズ』方式を想像していたけれど、そんな単純な話ではなかった。夫が悪い奴なら恨めたのに。

帰りの飛行機の中、ナサニエルに「あなたの推測(ゴーストライター)は全部まちがっている」と告げるジョーンの色気すら感じられる迫力がすごかった。これ以上、私たち家族に関わるなという警告に感じた。このシーンも飛行機に座っているジョーンを真ん中にとらえていた。CAさんは声だけで首から上が切れている。ナサニエルはだいぶ屈むので映るが、あくまでも画面を支配しているのはジョーンだ。ナサニエルが去った後、カメラがわずかに横に振れ、隣りに座っている息子を映す。寝たふりで話を聞いていたのだ。
息子はナサニエルからゴーストライターである話を聞かされて怒っていた。「そう言えば子供の頃から思い当たることがたくさんある!」と言っていたけれど、息子は弟なんですよね。もっと大きかった姉は、きっと全てに気づいていたにちがいない。けれど何も言わない。父のノーベル文学賞を祝う授賞式にも来ていたけれど、臨月だったため、一歩引いていたように見えた。思えば、「お祝いの品を何も持ってこなかった。私ったらうっかりしていて」みたいなことを言っていたのは、全て知った上で、父を祝う気などないという気持ちの表れだったのかもしれない。

ジョーンは「戻ったらあなたたちにはすべてを話すわ」と言っていた。きっと、嘘偽りないことを明かすのだろう。けれど、世間には公表はしないと思う。もうそっとしておいて。




1965年公開(アメリカでは1964年)『メリー・ポピンズ』の続編。なんの情報も入れずに観たので、メリー・ポピンズだけが前作に出てくる登場人物で、彼女が違う家庭に家庭教師として現れて…という内容だと思い込んでいたが、同じバンクス家が舞台だった。前作との繋がりがかなり深いので、観ておいたほうが楽しめそう。
私は観ないで臨んだので、たぶんこうなんだろうな…と予想するしかないシーンもたくさんあった。前作を観て復習したい。
ただ、2014年公開(アメリカでは2013年公開)の『ウォルト・ディズニーの約束』を観ていたためにわかる部分も多かった。原作者のP.L.トラヴァーズと前作の『メリー・ポピンズ』の製作裏話のようなストーリーで、彼女の家庭の問題についても描かれている。原題は『Saving Mr. Banks』だったが、本作もまさにそのような内容だった。

以下、ネタバレです。







オープニングは男性ジャックが歌いながら町中の街灯を消している。前作の25年後という設定らしいのだけど、前作では煙突掃除をしていた子供らしい。しかし、『チム・チム・チェリー』は歌わない。『スーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャス 』も出てこない。前作の有名曲は潔く使われない。でもエンドロールでワンフレーズ出てきました。
大恐慌時代ということでロンドンは曇っていて暗い。その中でジャックはとても楽しそうに働いているし、一気にミュージカル色に染める。
ミュージカルに無知なので知らなかったのですが、ジャック役のこの男性が『ハミルトン』で脚本・作曲・作詞・主演を務めているリン=マニュエル・ミランダだった。そんな有名な方だったのか!と観終わってから知りました。
最初の歌も長く、オープニングのインスト曲も長くてなかなか話が動き始めない。最初のシーンからもわかるんですが、かなり本格的なミュージカルだった。話が始まっても、俳優さんたちは少し大げさな舞台演技である。でも、衣装も奇抜だし、歌も多いし、普通の演技では温度差が出そうなのでこれでいいと思う。
途中、ジャックと同じ仕事をしている人たちの夜のダンスシーンなどはカメラワークからも舞台が意識されているように思えた。ナショナル・シアター・ライブのようでした。

バンクス家の父親役にベン・ウィショー。彼にしては珍しい役かなとも思うけれど、歌のシーンも多くて満足。
前作での姉弟が成長していた。子供時代の思い出などもふんだんに取り入れられているために、前作を観ておいたほうがいいと思った。
『ウォルト・ディズニーの約束』では、トラヴァーズ家の父がバンクスのモデルになっていて…とのことだったけれど、本作の父バンクスも妻を亡くしていて、心に傷を抱えている。そんな中で、金を返さないと家を差し押さえられそうになっていて、株券があればそれが逃れられるが…というのが大人パートのストーリー。
大人たちが株券を探す中、子供たちの面倒を見るためにメリー・ポピンズが現れる。演じるエミリー・ブラントはメイクもばっちり、衣装は奇抜、話し方は平坦と、他の役を演じている時とはまったく違っていて、メリー・ポピンズという人間離れしたキャラがよく合っていた。

ただ、最初のお風呂の海洋パートは良かったのですが、割った陶器の中に入っていくパートはメリー・ポピンズが舞台で踊っているあたりから、脳が拒絶するというか、あまりにも奇抜すぎて受け入れられなくなってしまった。はやく現実パートを見せてくれと思ってしまった。もっと柔軟にならないといけないと思う。前作のあのアニメのペンギンも出てきていました。

バンクスのイライラが最高潮に達して子供たちを怒鳴りつけるあたりからは、ああ、本作もメリー・ポピンズは子供たちに夢を与えるだけではなく、大人も救っているのだな…と思った。やはり、大人側からの目線で観てしまう。

凧の修理をしていたのが株券だったとか、あれだけハシゴを駆使して必死に登ったのに結局メリー・ポピンズが傘でふわっと浮かんで時計を戻すとか、2ペンスが運用で膨れ上がったとかの終盤付近のエピソードは御都合主義だと思ってしまった。けれど、現実離れしたミュージカルなのだし、これはこれできっといいのだと思う。

すべて解決した後の春の祭りのシーンは服装も背景も色合いが優しくて、わくわくした。風船で上がって行きながら歌うのも幸せな気持ちになったので、もう細かいことはいいかなと思ったし、いい映画を観たなという印象で終われたので良かった。ここのベン・ウィショーは服装も春めいていて、風船で浮かびながらハッピーに歌っていて、まさにディズニー映画に組み込まれていて、こんな役ができるのだと少し驚いた。

単純だし、悪役っぽい悪役が出てくるストーリーで、少し『パディントン』を思い出したが(ベン・ウィショーだし)、『パディントン2』の悪役に向けられる視線の優しさが好きだっただけに、本作は悪役にまったく救いがなくて可哀想に思ってしまった。何かあの場所で改心するか何かして、風船で浮かばせてほしかった。悪役がコリン・ファースだから余計にそう思った。
また、コリン・ファースが出ると聞いた時に、歌うのか?踊るのか?と思ったけれどそんなシーンはなく、その点では『マンマ・ミーア!』が上。

また、『マンマ・ミーア!』から、メリル・ストリープも出てます。彼女もビビッドなオレンジ色のウィッグにおかしな訛りで、元の俳優っぽさをまったく出さないキャラクターになりきっていた。歌も踊りもあって、もちろんうまい。

原作は8部作で続編構想も出ているらしいが、本作もですが、トラヴァーズさんはどう思うかね…と『ウォルト・ディズニーの約束』を思い出して考えてしまった。