1997年公開。ウォン・カーウァイ監督。

ろくでなしのパートナーに振り回されるということで、まるで少女漫画のようだった。
「やり直そう」という言葉で結局もう一度付き合って別れて…を繰り返す恋人たちの話。

どうしようもなくなったときに頼られるというのが、一体どんなポジションなのか、たぶん、ファイ自身もよくわかってなかったのではないかと思う。ウィンからしたら、いつでもファイの元に帰ることができるという安心感の中で好き勝手やっていたのだろう。
たぶん、ウィンにとってもファイが一番大切だった。ファイの気持ちは映画の中で独白があるので大体わかるけれど、もういい加減にしたいと思いながらも、やはりウィンのことが好きなので、「やり直そう」と言われたらやり直してしまっていたのだろう。

両手を怪我したウィンはわがまま放題で、でも、食事を作ってあげたり、寒い中一緒に散歩に出かけたりと、振り回されて文句を言いながらもファイは幸せだったのだろう。だから、両手が治っても繋ぎ止めておくために、パスポートを隠した。
そうやって束縛するしか、一緒にいることができないのだ。

ウィンもファイのことが好きでも、やはり外で遊んだりする性癖は直らないと思う。きっとそれはファイもわかっていた。それを含めてのウィンなのもわかっていたのだと思う。

それで、どうするかと言ったら、束縛するか別れるかしかないんですよね。でも、パスポートを隠しても虚しくなって、結局、別れを決めたのだろう。

もともとは、二人でアルゼンチンに旅行に来て、滝を見に行く途中で道に迷って喧嘩別れしたところから映画は始まる。
映画の中盤でも、いつか一緒に行こうと思ってるんだとファイが他の人に話すシーンがあった。

映画の終盤で、結局その滝を、ファイは一人で見に行く。
できることなら、最後に二人で滝を見に行って、ハッピーエンドにして欲しかった。そうすれば、完全に関係が修復されるのではないかと思った。
でも、これは私が思うハッピーエンドで、たぶん、ファイにとってはハッピーエンドではないのだ。
どうせこの状態でも「やり直そう」と言われたらやり直すことになるのだろうし、そしてまた嫌な思いをして別れることになるのはわかっている。もう、ウィンに振り回されたくなかったのだろう。
ずるずる続く腐れ縁のような縁を断ち切るには、とっておきの場所に一人で行くのが一番いい。
これは、私が思っていたハッピーエンドよりも、ずっと健全だし、正しい。正しいとは思う。

けれど、その時に、ウィンは引き払ったファイの部屋で、滝のライトを見て、布団を抱きしめて泣いてるんですよ。ウィンはウィンであんな感じでも、ファイのことが好きだったのに。

好きあっていても、お互いがお互いのことを想っていても、想いの度合いのバランスや気持ちの種類が合わなかったのだ。片方が大好き大好きってなっているときに、相手は拒絶したり、片方がそばにいてほしいと思っているときに、相手は外へ出て行ってしまったり。
映画内で、二人の気持ちのバランスがとれているのが、アルゼンチンタンゴを踊るシーンだと思う。あの時だけは、二人ともがちょうど同じ気持ちだったのだった感じがする。ただ、映画内で唯一あのシーンだけだったかもしれない。だからあんなにも美しく、切ない。

最初モノクロなのですが、途中でカラーになると、ウォン・カーウァイ色調というか、黄色っぽく、赤が強烈な真っ赤だった。ファイの部屋は質素ではあったが、生地の柄や小物などがレトロでおしゃれ。

舞台が異国というのも良かった。たぶん、香港にいてもはぐれ者だっただろう二人が、異国にいる様子は更に他者と断絶されていながらも、他の人からの関心が無い分、紛れられている気もした。
香港はちょうど地球の裏側、というセリフのあとで、逆さまになった香港を映すのも粋な演出。

『青い春』でも出てきましたが、お互いのくわえ煙草の先端をくっつけて火を渡す描写が好きなんですが、この映画ではファイが拒絶しているシーンだったので、口からはずして煙草だけ渡していた。ウィンはファイの手をとって自分のくわえ煙草の先端につける。これだけで、ファイはつれない態度をとってもウィンはめげないという性格がわかるし、良いシーンだった。
煙草に関しては一本の煙草を二人で吸うというシチュエーションも好きなんですが、ウィンが両手を怪我していたときに、煙草を吸っているファイを物欲しげに見つめて一口二口吸わせてもらっていた。これも、性格がわかるし、良かった。

こう映画内のシーンを思い出すと、やはりこの二人が付き合うのが一番いいんじゃないかと思ってしまう。ファイはウィンをアルゼンチンに迎えに行って、もう浮気はしないと約束させてパスポートを返せば、いつまでも幸せに暮らしていける…はずはない気もしてきた。ウィンは直らないとは思う。ファイはそんなウィンについて、仕方ない、いつかは戻ってくると考えていればいいんだろうけれど、映画に出てこないだけでいままでそれを繰り返して来たんだろうし、それで何度もつらい想いをしたのだろうから、もう縁を切るしかないのだろう。




2013年公開。フランスでは2010年に公開され、アカデミー賞長編アニメ映画賞にもノミネートされた。
もともと、『パリ猫の生き方』というタイトルで、2011年のフランス映画祭で公開されたらしい。原題“Une vie de chat”は猫の生き方みたいな意味なので、そのままの翻訳のようですが、『パリ猫ディノの夜』という邦題は素敵なのでこちらのほうが好きです。

絵柄は外国の絵本のような独特なもの。色鉛筆で塗ったような色彩も独特。人間の体の動きもぐにゃんとなったりなめらかです。

ノートルダム大聖堂、エッフェル塔などの建物のデフォルメの仕方もいい。屋根の上から見たパリの街並も美しく、少し『レミーのおいしいレストラン』を思い出した。
ジャズ風の音楽もおしゃれで、大人が観ても充分に楽しめる。

絵柄や雰囲気だけではなく、70分と短い時間ながら、ストーリーも濃い。
タイトルから猫が主役ではないかと思っていたが、人間の描き方がうまい。また、登場人物がわりと多めで、しかもちゃんと絡まり合ってる。
夜の動物園に逃げ込むのもファンタジックでドキドキするし、酷い香水の伏線が回収されるのもよくできている。
アニメでの暗闇描写の仕方も、黒い画面に白い線で描かれた人物が動くという独特のもので面白かった。
最後に、夜の冒険について、失語症の治ったゾエが矢継ぎ早に母親に話すシーンは泣けた。

ディノの猫動きも可愛らしいし、ライバルというか相手に勝手にライバル視されている隣りの犬のオチも笑った。

日本のアニメ絵とはまったく違う。でも、ただのおフランスおしゃれアニメでもない。絵にもストーリーにも独特のこだわりが感じられた。




2013年シッチェス映画祭ファンタスティック・セレクションにて公開。イギリスでは2012年公開。
シッチェス映画祭はホラー映画よりのものを多く扱っているので、最初にこの情報を知っていたらなんとなく作品の進む方向もわかったと思うんですが、トビー・ジョーンズ主演ということしか知らなかったため、ジャンルすらわからないまま観ました。
特にトビー・ジョーンズということで、もしかしたらコメディーなのではないかと思ってしまった。

タイトルからもわかる通り、音効さんの話。トビー・ジョーンズはやり手の音効さんで、イタリアのスタジオに助っ人として呼ばれる。映画はこのスタジオ内のみで展開するので、舞台っぽくもある。
髪の毛を抜くシーンはエシャロットのような野菜の茎を抜き、スイカを床に叩き付け、キャベツにナイフを突き立て…。そのスイカをスタッフさんたちが食べていたりして、作っている映画の内容と裏腹に、妙なおかしさがあった。

やはりコメディーなのかなとも思っていたんですが、途中で何度も挿入される腐った野菜、蜘蛛、録音中なのでお静かにという看板の点滅が不気味。
その内、映画の展開も少しずつおかしくなっていく。

ナイフを突き立てているのがキャベツだとは言え、その後に女性の悲鳴が聞こえたらなんとなく嫌なものだし、繰り返していたら気分も悪くなってくる。
そのくせ、やめさせてくれ帰らせてくれと言っても、仕事をまっとうしろと言われる。
スタジオ内の出来事なので、余計に閉じ込められている感じがした。

そのうち、現実なのか、悪夢なのか、わからない展開が続いて来て、終わりのほうは映画内で作っている映画と現実が混ざってくる。

結局、実際にどうなったというのははっきりはされない。映像もアートっぽくもあるし、もしかしたら推測するのは野暮なのかもしれないけれど、主人公の精神が病んでしまったのか、部屋に来た女優に殺されたのかもしれない。

映画の説明みたいなものを見ると、“主人公が自らの残虐性に気づいていく”と書いてあるけれど、そうとはとらえられなかった。
作っている映画や、監督やスタッフ、女優など、周りの人物が最初は奇妙なだけだったけれど、少しずつ不気味に変容していくのがおもしろかったです。

トビー・ジョーンズの何を考えているかわからない部分や、悪人にも善人にも見える風貌がうまく生きていたと思う。



原題『PREY』。イギリスのITVで今年4月末より放送されたドラマ。全三話。ジョン・シム主演なので英語では観たんですが、半分くらいしか理解できなかったので、今回WOWOWにて放送があるということで観ました。吹替えのみだったのは残念。好きな俳優なので声も聞きたかった。

全三話なので、展開はかなり早い。ジョン・シムは妻と子殺しの罪を着せられて、逃げながら捜査をする刑事の役なんですが、一話の最後でもう身近な人物が裏切っていたことがわかってしまう。
二話の最後では更にあやしい人も出てくる。更にあやしい人もマーカスの身近な人物で、周辺の人二人に裏切られていたのは驚きというより哀しさが際立って、ここで流れ出すレディオヘッドの『カーマ・ポリス』がとてもよく合う。

英語版で観た時は重要機密と思われたフロッピーディスクの一枚はあやしい人一人に割られ、もう一枚はもう一人に油で揚げられて、結局なんだったのか、闇に葬られて終わりだったのかと思ったけれど違った。
最初に殺され埋められていた人物の犯罪歴で、フロッピーそのものは存在しなくなってしまったけれど、内容については登場人物が話していたので判明していた。

三話の中にぎゅうぎゅうつめこまれて展開は早いものの、重要人物と思われる人がまったく出てこなかったり、主人公が最終話の半分を過ぎても「あんたは何もわかってないな」と言われるのは不安になる。主人公の気持ちで観ているし、ドラマの残り時間を考えるとこの時点で何もわかっていないとなると、最後まで何もわからないのではないかと思ってしまう。
結局判明するのが、残り15分のあたりで、ここでそれを明かすのかとびっくりする。

マーカスを追いかける女刑事スーザンが完璧じゃないのがいい。ずんぐりむっくりで粗暴。別れた夫にはストーカー気味につきまとう。
クロワッサンを差し入れようとして、元夫に断られ、そのクロワッサンを職場に持ち込んでむしゃむしゃ食べて同僚に「こぼすなよー」と文句を言われていた。
しかも、食べながら元夫のFBを見ていた。見ているのを同僚に見つかって、そうゆうのはやめたほうがいいと注意されていた。
吹替えの人も乱暴で良かったです。合ってた。
一話目の序盤で自販機に対して喧嘩を売っていてマーカスが1ポンド貸すんですが、最後のほうに「1ポンド返せ」という粋なセリフがキーワードというか合い言葉というか暗号っぽくなっているのも良かった。
孤独感を抱えていて、だからこそ、チーフに抜擢されたこの事件にはムキになっていた。担当が変えられそうになっている場面はつらかった。

不法移民がオマール・ハッサンの身分と名前を買って…というあたりは、英語ではまったくわからなかった。

序盤のマーカスが子供に絵本を読んであげるシーンの「Kissy Kissy Kissy」の裏声ジョン・シムがすごく可愛かったんですが、ここは吹替では「チューして、チューして、チューして」になってた。裏声。
「サプラーイズ、サプラーイズ」は吹替では「どうだ、驚いたか」であの少しふざけたニュアンスがなくなってしまったのは残念。

このドラマのジョン・シムは出だしから体にペンが刺さってるし、車にはねられるし、歩道橋や電車から飛び降りるし、逃げているから仕方ないけれど、満身創痍で痛々しい。
これも逃げているからそりゃそうなんですが、人との触れ合いもあまりない。
そんな中で、序盤の鎮痛剤を貰った家の人と、不法移民のオマール・ハッサンは、名前をちゃんと呼んで、感謝の気持ちを表していた。

また親友のショーンとの仲の良いシーンがそれほどなかったのも残念。これも、早々に裏切られていたことがわかるので仕方がない。
この、友達との友情シーンの少なさは『ステート・オブ・プレイ』を思い出した。

前回英語で見た時には大きい謎は解けていないのではないかと思ったけれど、日本語で見てみると、おそらくすべて解決したのではないかと思われた。
二期があるような話を見たけれど、どうするんだろう。
オマール・ハッサンは相当な悪党だったようなので、そのあたりで新たな敵が出てくるのだろうか。
二期ではたぶん逃げない、という印象は変わらなかったし、原題のPREYは別に逃げるという意味ではないから、邦題の『逃亡者』というのをどうするんだろう。
まだ撮影にも入ってないだろうし、本当に二期があるかどうかわからないし、あったとしても日本でやるとは限らないけれど。

IMAX上映をユナイテッド・シネマとしまえんで、通常上映を新宿ミラノ座で観てきました。
あと、気づいたことと、前回書いたことで間違っていたこと。
以下、ネタバレです。






だいぶIMAXに慣れて来ているせいか、それとも劇場のせいなのかわからないですが、それほどIMAX最高!といった風でもなかった。それでも、IMAXカメラで撮影したシーンは多かったし、大波のシーンは迫力があった。ミラノ座もかなりスクリーンが大きいですが、映画館で、しかも大きいスクリーンで観た方が楽しいとは思う。
あと、新宿ミラノ座と比べると、IMAXはやはり圧倒的に明るくクリアで、マン博士の宇宙服の肩の部分にLAZARUSと書いてあるのはミラノ座では確認出来なかった。ラザロ計画の宇宙服なのがわかる。クーパーとか今回の人たちは肩にエンデュランス号のシルエットが付いている。

あと、これは両方ともなのですが、当たり前のことですが、試写会に比べると圧倒的に映画の世界に没頭できる。音の良さも際立ち、ハンス・ジマーの曲にもいちいち感動してしまった。
特に、最初のインドの太陽電池で動く無人機を追いかけるシーンの曲と、後半の回転しながら落ちて行くエンデュランスにドッキングするシーンの曲がいい。ドッキングシーンは何度観ても興奮しますが、映画館で観て、更に手に汗握った。曲もうまく作用していると思う。

新宿ミラノ座は今年末でなくなりますが、来月は特別上映などもあるし、今作がおそらく最後になるらしく、表紙に映画館名の入った特別パンフレットを売っていた。内容は同じです。最後のページにはミラノ座で上映された全作品のリストも付いている。通常のパンフレットも買ったけれど、この特別パンフレットも買ってしまった。

パンフレットに宇宙船について少し書いてあった。前回書いたことで間違っていたんですが、エンデュランスにランダーとレインジャーがそれぞれ二機ずつ付いていた。「ランダー、ワン」「レインジャー、ツー」と言ってるのはわかっていたんですが、ランダーを1号、レインジャーを2号とするだけかと思っていたのが違った。なので、後半の切り離しのシーンではランダー1号にTARS、2号にアメリア、レインジャー1号はマン博士と一緒に爆破、2号にクーパーが乗ってるんですね。最後のエドモンズの星のシーンで、アメリアの後ろにランダーが映っていた。

TARSは形もロボットとして新しいんですが、動きがややぎこちないのも気になっていた。どうやらあれは、装置を使って本当に動かしているらしい。クリストファー・ノーランといえば、極力CGを使わない監督として有名ですが、今回もそうだったらしい。SFなのに。しかも、装置を使って動かしていたのは、声を担当した俳優さんだったというからまたすごい。

水の惑星のシーンもカメラや機材を抱えて浅瀬に立って撮影したらしい。

どうでもいいけど気づいたこと。
序盤でワームホールの説明を図解で説明するシーンがあるんですが(これも『インセプション』にも似たシーンがあった)、そのメモ帳がNASAのメモ帳なのがちょっとおもしろかった。上部にNASAと書いてあった。通常の会社や団体だとよくメモ帳を作ったりするけれど、NASAがメモ帳なんて作るんだろうか。でも、宇宙船内に置いてあるメモ帳にNASAの名前を入れちゃうセンスが愛おしい。

あと、食べ物をおいしそうに撮らないノーラン監督ですが、今回、食糧難なので仕方が無いのかもしれないけれど、サラダと思われる大皿に乱暴にぶった切ったトウモロコシがごろっと入っていた。「スフレのおかわりは?」のシーンです。スフレは…トウモロコシ粉で作ったのかな…。

序盤の太陽電池で飛び続けるインドの無人機とかアポロ計画の捏造とかの話は、現在の地球の状況説明だけなのだろうか。空軍が無くなって10年とか、あの頃は物が溢れて争っていたとか、成層圏からの攻撃を断ったという話が出てきたけれど、もしかしたら、かなり大きい戦争があったのかもしれない。アポロ計画関連の話からすると、対ロシア? その結果として、地球が荒廃したのだろうか。

後半、地球パートと宇宙パートが交互に出てくるんですが、地球のマーフ側はほぼ部屋で悩んでいるだけで、時間は全然進んでいない。ご飯を食べて、兄の態度が許せなくて家を出て、やっぱり戻って畑に火を放って、自分の部屋で手がかりを探す。これだけです。
その間、クーパー側はマン博士を起こすあたりからかなり動きがある。なんとなく、地球と宇宙での時間の差が出ているようでおもしろい。





試写会にて。わかったことと、わからないこと。
以下、ネタバレです。





クーパーがどうやって助けられたのかがよくわからなかったんですが、あの時のアメリアの顔は幻じゃなかった。映画の序盤でワームホールを通る時に、アメリアが“彼ら”の姿を見てハンドシェイクをする。結局“彼ら”はクーパーだったというのが五次元空間でわかるので、アメリアが見たのは、クーパー。クーパーは五次元空間からワームホールを通って排出された。別の銀河へ行くアメリアと出るクーパーがハンドシェイクしたのだ。映画の序盤と輪になるようにして繋がっている。
ワームホールは土星の軌道上にあるということだったので、クーパーが太陽系に戻って来た時に遠くに見える明かりはおそらくクーパーステーションなのでしょう。時間のずれによって、方程式が解かれ、すでにステーションの打ち上げも済んだあとだったのだと思う。クーパーステーションの近くに排出されたから、たぶん発見も早かったのではないかなと思う。

宇宙船ですが、エンデュランスがなんで回っているのかわからなかったんですが、あれは遠心力によって重力を発生させているらしい。確かに序盤でゆっくり回転をかけながら「今、1Gになった」と話すシーンがあった。ドーナツ型の宇宙船は珍しいのかと思っていたけれど、ワープを実現できる形でもあるらしい。
それで、地球から打ち上げたレインジャーはドーナツ型の母船エンデュランスにドッキング出来るんですが、もう一つの四角を組み合わせたようなランダーは最初からドッキングされていたのだろうか。それとも、マン博士が乗ってきたのがランダーなのだろうか。「浄水設備を持ってくる」と言ってたので、持ってくるのは母船エンデュランスからだろうし、もともと母船についてたのかもしれない。

最後の方でガルガンチュアに行くときの分割の仕方も最初はいまいちわからなかったのですが、ランダーとレインジャーとエンデュランス、三機にそれぞれTARS、クーパー、アメリアとCASEが乗っている。それで、たぶんランダーかレインジャー…アメリアとCASEが乗った機体だけが重力ターンでエドモンズの星へと向かった。

序盤の、インドの無人機を追いかけるシーンがとてもいいんですが、これがのちの内容にまったく関わって来ないのが残念。荒涼とした大地に突如低空飛行の物体が現れて、父と子供二人で車で必死で追いかける。ハンス・ジマーのノスタルジックな曲もいいし、コーン畑の中を突っ切って行く映像が美しい。

TARS、CASE関連のシーンは全部好きなんですけれど、四角いだけなのに愛嬌があるように撮られているのがおもしろい。
ミラーの水の星で、大波から逃げるときに、CASEがアメリアをお姫様抱っこしているのが可愛らしい。

不本意ながらマン博士の星に行くことになって、生きているマン博士を見たアン・ハサウェイの表情が少しの時間しか映らないんですが、セリフが無くてもすべてを語っていて素晴らしい。
本当は恋人の星に行きたかったけれど、ほとんど生きている保証はなくて、だから行くの反対されたのは腹が立ったけれど、実際に生きているマン博士の姿を見たら、やっぱりこっちに来て良かったと思うと同時に、恋人に会うことは完全に諦めた顔。正解の選択をしたにも関わらず、やはり寂しい。それが全部表情に出ている。

大人になったマーフの泣きかたがいい。演じているのはジェシカ・チャステイン。ビデオレターで話しながら途中で泣いてしまうんですが、両手で顔を覆って豪快に拭う様子が子供がそのまま大人になったようで、彼女の性格がよくわかる。
マーフィーの法則=“起こるべきことが起こるべくして起こる”というセリフも二回出てきたし、もっと重要っぽいのだけど、よくわからない。

マン博士のシーンについては考えれば考えるほどわからなくなってしまうんですが、助けにきてもらうために嘘をついたのなら、助けに来た時点で「あれは嘘だった。実はこの星には何も無い」と告白してしまえば良かったのではないか。
わざわざクーパーを呼び出して嘘なのを告白した上で、クーパーを殺そうとしたのはどうしてなのだろう。
一人でレインジャーに乗って母船を乗っ取ろうとしていたけれど、最初に嘘だとみんなに知らせて、全員でエンデュランスへ戻るわけにはいかなかったのか。

マン博士は「人類を救うため役目をまっとうする」と言っていた。プランAが実現不可能なことを知っていたようだったし、プランBの実行とすると、母船でエドモンズの星へ向かうつもりだったのだろうか。ただ、行ったところで、受精卵から人類を生み出すには代理出産が必要だし、マン博士一人ではどうにもならないのではないだろうか。そもそも、プランBの場合、アメリアが代理出産をするつもりだったのだろうか。

マン博士も、教授が出発の時に読んだ詩を読んでいた。イギリスのディラン・トマスという方の詩らしい。“絶望をせずに怒りを原動力にして行動しろ”といった意味だと思うのですが、マン博士をあの行動へ走らせたのは正義感なのだろうか。手柄を横取りするつもりだった?

それぞれの星が階層のようだし、五次元というかガルガンチュアはLIMBOのようだし、やはり『インセプション』に似ていると思う。地球と宇宙との二元中継のようになるのも似ているし、互いに作用し合う点も似ている。
ただ、『インセプション』よりはわかりにくいと思うし、力技で乗り切るシーンも多いと思う。
それでも、事象事象の繋ぎ方や話の運び方の突拍子も無さはクリストファー・ノーランにしかできないと思うし、それを思いついたとしても、映像にするのはやはりすごいことだと思う。とんでもない頭の中を見せてくれてありがとうございます。





1993年にアメリカで実際に起きた殺人事件の映画化。
以下、ネタバレです。





実話となるともしかして…と思ったけれど、やはり、犯人は捕まっていないようです。そのため、映画で勝手にでっちあげるわけにもいかず、もやもやした感じが残る。

映画の進み方は淡々としていた。裁判シーンと警察の取り調べが大半である。
主役の調査員(探偵?)を演じているのがコリン・ファースなのだが、なぜコリン・ファースがこの事件に肩入れするのかがよくわからなかった。
死刑に反対する気持ちはわかる。けれど、被害者の少年三人とも、容疑者の少年三人とも関わりはないようだった。
最初、離婚協議書を持っていたので、リース・ウィザースプーン演じる容疑者の母親が元妻なのかと思った。妻と別れてはいても、被害者の父親なのかと思ったのだ。それにしては冷静だと思ったら違った。

いまいち立ち位置がわからないし、わりと冷静な人物のようだったので、彼の怒りはあまり伝わって来なかった。
裁判でも警察とのやりとりでも、これはどうしたって違うだろうという少年たちが犯人に仕立てあげられていって、観ているこちらが憤ってしまうけれど、主人公はそこまで怒ってもいないようだったし、映画内でも指摘されているけれど、弁護士でもないから弁護もできないし、結局、杜撰な捜査に対してどうすることもできないし、真犯人らしき人が捕まることもない。
観ているこちらの怒りを昇華させてくれる人がいないので、もやもやだけが溜まる。

これは実話なのだし、もやもやする事件だったというのも、みんなあらかじめわかっていることなのだろう。
嫌な事件だったので適当な人物を犯人にでっちあげて、この事件については終わらせたい。そんな警察や住民たちの集団心理は理解出来た。それに対して、親だけがもやもやした気持ちを引きずっているのもわかった。
母親はまだ犯人をさがそうとしているとのこと。
どう考えても継父があやしそうだったけれど、逮捕はされていない。
犯人にでっちあげられた少年たちは、裁判を続けないことを条件に釈放されたが18年間は刑務所の中にいた。
実際の現在の様子がこうでは、映画自体もすっきり終わるはずもない。

この冤罪事件については、研究されたドキュメンタリービデオもあるそうなので、事件自体が気になったらそちらを観た方がいいのかもしれない。『パラダイス・ロスト』というタイトルで3まで出ている。

この『パラダイス・ロスト』にも出てこない人物として、嘘発見器でクロが出たアイスクリーム売りがいるらしいんですが、それを今回演じたのがデイン・デハーン。
最初、3人の少年が冤罪で、デイン・デハーンが出るならば、キャストの知名度的にも絶対に彼が犯人なのだろうと思っていたのですが、これも実話ということで特定はされずに謎だけが残った。

出番はそう多くはなかったけれど、映画の雰囲気をガラッと変えるほどの力はあった。暗いけれど挑戦的な目。アイスクリーム売りの時のタンクトップ姿。後ろ向きにかぶったキャップ。監視カメラへの視線の投げ方と、ティッシュでカメラを隠すしぐさ。すべてが、ただならぬ空気と色気を纏っていた。
ただ、デイン・デハーンの色気は今回に限ったことではないし、彼目当てなら別の作品でもいいのではないかと思う。

コリン・ファースもデイン・デハーンも好きなので、この映画は共演を楽しみにしていたんですが、二人一緒のシーンは無かったのではないか。コリン・ファースが監視カメラの映像を見ていたくらいだったのが残念。

試写会にて。
何も情報を入れないまま観ました。
以下、ネタバレです。




本当に何もわからないまま観たので、もしかしたら地球は荒廃してもう住むところがない、地球を汚した私たちが悪い、みたいな説教まじりの環境映画なのかなとも思っていたんですが全く違った。地球は荒廃していたけれど、私たちが悪いという要素は全く出てこなかった。荒廃している原因については言及されていなかった。

トンデモ映画といえばトンデモ映画な気もする。でも、規模の大きいトンデモ映画です。

宇宙に出て行くんですが、私が宇宙のことを知らなすぎてなんとも言えないんですが、たぶん、本当の宇宙とはだいぶ違うところがあるのではないかと思う。
それを考えるとSFでもないような気もする。

だいたい、SF映画ならば、ロボットの形状にももっとこだわると思うんですよね。すごく簡素な、真四角のロボットが出てくる。もっとヒトガタとかにすればいいのに、四角い。でも、粋なことを喋るし、SF映画によく出てくるタイプの愛すべきAI。そのため、あの形状が謎。
最初に出て来た時は、エヴァンゲリオンのSound onlyのような、どこかで声を出している人が別にいるタイプの物体なのかと思った。あれで独立しているとは。
ちなみに、『アイアンマン』だとジャーヴィスがポール・ベタニーだったり、『月に囚われた男』だとガーティがケヴィン・スペイシーだったりしましたが、今回は特に有名な人というわけではなさそう。(ジョン・シム主演の『Life on Mars』のアメリカリメイク版に1エピソード出ているらしい)

あと、普通のSFだと考えられないのは、宇宙服同士での取っ組み合い。宇宙飛行士同士ってそういえば、あんまり喧嘩をすることってなかったような。それが、頭突きをかまして、相手のヘルメットの部分を割ったりする。「お前のほうが割れるかもしれないぞ!」「五分五分だ!」みたいな言い合いがありましたけど、そもそも、頭突きで割れちゃうものなのか。それほど、相手のヘルメットも強固ということなのか。

マン博士が手動でドッキングさせようとするときの映像も、あまり他のSFでは考えられないアナログなひやひや感。

何にしても、SFにあんまり慣れていない人が撮ってるなというのがわかっておもしろい。

あと、ブラックホールとか、ワームホール、次元なんかの説明も、この映画独自のものなのか、本当のところどうなのかがわからない。
私は詳しくないので、この映画のルールで考えて観ていたけれど、詳しい人は噛み付いたりするかもしれない。

この星での一時間が地球での○年間というルールは、少し『インセプション』を思い出した。また、宇宙と地球でそれぞれ持ち場は離れていても一つの目的に向かって活動している様子も『インセプション』と似ている。
また、サイトーとコブもそうでしたが、なんらかの事情によって、同じ時を歩んで来たもの同士の時がずれてしまうのが好きなので、ラストのシーンや、地球ではあっという間に23年間経ってしまった時のビデオレターの溜まり具合などは切なかった。ドクター・フーでもそんなエピソードがありました。

ただ、時の進み方にしても、星に降り立った瞬間から変わってくるのかどうかがよくわからなかった。あと、宇宙船も一体何分割できるのかとか、ドッキングしていたのは宇宙ステーションなのか、それにしては動いていたけれど…など謎が残った。もう一度観た時にちゃんと注意していようと思う。

最後、クーパーがどうやって助けられたのかがいまいちわからなかった。アメリアの顔が見えたけれど、アメリアは恋人の星へ行ったあとだったし、幻だったのだろう。
酸素が残り○分と言われていたけれど、どうやって、どこで、誰に助けられたのか。

アメリアの恋人が発見した星は空気があるようだったけれど、最終的には地球の人々はそこへ移住することになるのだろうか。

いくつか疑問も残っているので、もう一度しっかり観てみようと思う。

マット・デイモンが出てくるのはカメオ扱いなのかノンクレジットだったこともあり、まったく知らなかった。
ノンクレジットのわりに出演シーンが多く、しかも、すべてが嘘というちょっと悪役めいた役。すべて嘘だったので、はっきり言って彼にあんなに時間をさく必要があったのかなと思う。マット・デイモンは嫌いではないけれど、だったらもっと、ちゃんと意味のある役で観たかった。

クーパーの息子の成長した姿をケイシー・アフレックが演じているのですが、兄のベン・アフレックとマット・デイモンって大親友ですよね。まさかその繋がりで…とも思ってしまった。マット・デイモン、次回のノーラン映画にはもっとちゃんとした役で出て欲しい。

全体的には『インセプション』と似てるといえば似ているんですが、『インセプション』が前半にルール説明をして後半に実戦(実践)をしていたのに対して、この映画では合間合間にその都度ルール説明が入るので、まったく気が抜けない。一生懸命観ていると、知らぬ間に169分経っている。
『インセプション』では結局一人も欠けることはなかったけれど、今回は仲間がどんどん死んでいくのはつらい。でも『インセプション』は会社の跡取りの考え方を変えさせるのが目的だったのに対して、今回は地球の危機と話が大きくなっているので仕方がないのかもしれない。
それと、ルール説明にしても、『インセプション』は夢の話だし100%の創作として説明をそのまま聞いているけれど、『インターステラー』に関しては宇宙がまず実際にあるから、ルール説明を聞いても、でも本当のところはどうなんだろうと考えてしまう。
すべてノーランの創作、エンターテイメントと割り切ってしまえば楽しめる。




『美女と野獣』


クリストフ・ガンズ監督版、実写映画。
『美女と野獣』の原作は読んだことはないのですが、あらすじを見る限り、原作そのまんまでもないようだし、もちろんディズニーアニメ版とも違う。
ただ、『マレフィセント』のように『眠れる森の美女』がまったく変えられてしまったわけではないので良かった。
また、原作はフランス文学なのを知らなかったのですが、こうしてフランスの監督さんにフランス語で撮られるのは正しいと思う。

以下、ネタバレです。






ディズニーアニメ版と似ているところは、父の代わりにベルが野獣の城にとらわれるところと、野獣の城から一時帰宅したのが原因で村の人が野獣の城を襲撃するのと、ベルの愛で野獣が人間に戻るところくらい。登場人物の名前や職業もディズニーアニメ版とは違った。

また、ラブロマンス面を期待して観ると拍子抜けだと思う。最後にはベルは野獣に「愛してる」と言うが、いつそのように気持ちが動いたのかわかりにくかった。

そもそも、それほど野獣とベルが一緒にいるシーンがない。
野獣の内面というか生い立ちも、ベルはおそらく森の精が見せた夢で知るけれど、身を以て優しさを感じたようなシーンは無かったのではないかと思う。
本当に、そもそも触れ合い自体が無かった。

ダンスのシーンもあるけれど、ディズニーアニメ版のようなロマンティックなものではなく、緊迫感のあるものだった。ベルの顔が強張っていた。ただ、野獣は傷つけないようになのか、手袋をはめ、爪を隠していた。
そもそも、家に一時帰らせてもらうための、取引としてのダンスなのだ。ベルとしては身売りに近い。けれど、このひんやりしたダンスシーンが最高だった。
ドレスもベルがヴィヴィッドなブルーで、野獣がレッドなので、色合いも綺麗。

ベルが最後に「愛してる」と言うのも、本心からとは思えなかった。野獣を救いたいというよりは、家族を救うためにわざと言ったように思えた。

ベルは姉二人兄三人の六人兄弟という設定で、そこに父親も加えた家族の描写が前半に多かった。そのため、野獣よりも家族を大切にしているように思えたのだ。
これは原作でもディズニーアニメ版でもそうだけれど、もともと野獣の城へ行ったのも、父親の代わりだったし。

私はラブロマンス目当てではなかったので別にこれで良かった。ただ、童話を子供に話す形で映画が進んでいき、ラストで話していたのがベルで、子供と父親と人間に戻った野獣と一緒に暮らしているのがわかるんですが、その時の、野獣を演じたヴァンサン・カッセルの抱擁の仕方が素敵だったので、もっとラブロマンス面に力を入れてくれても良かったと思った。

何を目当てで観に行ったかというと、役者さんと衣装・美術などです。
ヴァンサン・カッセルも前述通り良かったです。過去に王女を後ろから抱きしめるのも良かった。横を向いた時の鼻のラインが人間の姿でも野獣に似ている。

エドゥアルド・ノリエガも出ていた。スペイン俳優ですが、フランス語も話せるとは。ただ、だいぶ歳をとった感じ。前作は『ラストスタンド』で、観ていないんですが、ここでも悪役だったようです。

ベルを演じたのがレア・セドゥ。所謂、女優顔というか美形というよりはモデル顔といった感じなんですが、だからこそなのか、どんな衣装も似合っていた。
家族と暮らしているときの質素な服装も似合っていたけれど、野獣の城へ行ってからの日替わりのドレスもどれも綺麗でした。
あれは野獣セレクションなんでしょうか。アクセサリーや髪飾りもそれぞれドレスに合わせてあった。ヘアスタイルも素敵でした。
どれもわりとバキバキした色合いだったため、その衣装のまま、もともとの家に行くと随分場違いに見えた。

それくらい、野獣の城自体もバラの蔦が絡まっていたり、食卓が豪華だったりと華美なものだった。

ベルの夢の中で出てくる過去の映像の、王女のヘアスタイルがだいぶ昔のものだと察せられて、王子が野獣に変えられてから時が経っているのが説明はなくともわかった。

また、野獣の城の屋外には、水中に半分沈みかけた巨像などがあるんですが、それが、村人の襲撃の際に動き出すのが恰好良かった。あれなんだろう、不気味だなと思っていたのが、まさか、襲撃に備えていると思わなかった。苔の生えた巨像の方の部分に野獣がいて、絡まった蔦を引っ張って操っているのもかっこ良かった。

あの巨像たちは、過去に一緒に狩りに行ってた人たちなのかな。その辺も説明がなかったけれど、狩りで連れていた大量のビーグルも、謎の生き物に変えられていた。
謎の生き物、可愛かったけれど、臆病なせいで、影に隠れてて結局最後までちゃんと出てこなかったの残念。ちなみに、ディズニーアニメのように、動くティーポットや燭台などは出てきません。

2012年アメリカで公開。日本ではDVDスルーでした。
原題がRise of the Guardiansで、もともと『不思議の国のガーディアン』という邦題まで決まっていたのに公開が見送られてしまった。

原因ですが、アメリカでの成績がふるわなかったせいもあるかもしれないのですが、出てくる人物があまり日本に馴染みがなかったからだと思う。

このストーリーはおとぎ話の主人公版アベンジャーズみたいな感じで、普段なら別々に活躍しているキャラクターが集められている。
サンタクロースは馴染みがあるだろう。イースターバニーも、時期に不二家でペコちゃんがウサギの着ぐるみを着ていたし、日本においても売り出されているイメージがある。
ただ、子供が抜けた歯を枕の下に置いておくとコインに変えてくれるトゥース・フェアリーや、睡魔ザントマン(英語読みでサンドマン)については馴染みがないだろう。

このストーリーは子供たちがサンタクロースや他のキャラクターや妖精を信じられなくなったら?というのが主題なので、日本の子供は信じる信じない以前に知らないので、どうしようもない。そう考えると、メルヘンチックな作品だけれども、かなりターゲットが絞られていると思う。

ただ、大人でも存分に楽しめる作品でもある。ジャックフロストは、子供に雪をぶつけて擬似的に一緒に雪合戦を楽しんでも、サンタクロースやイースターバニーほど有名ではないため、子供たちには認識されない。信じていなければ、いないことになってしまう。

子供たちの夢を守るのがガーディアンズの役割であるが、ガーディアンズは子供たちに信じてもらうことで存在できるので、逆に守られてもいる。
この関係の描き方が素晴らしかった。
どこか飄々とした悪餓鬼だった彼がガーディアンズの仲間になって、子供たちの夢を守ろうと思った時に、子供に認識されるんですね。やっと、姿が見える。一緒に遊んでいたのは僕だよと伝える。抱きしめる。
一人きりだったジャックフロストがちゃんとみんなの前で存在できた。単なる夢物語だけではなく、孤独感からの解放も描かれていて涙が出た。

ただ、悪役であるブギーマンも同じように信じてもらえないから見えないと言っていたんですね。結局彼は、最後にまた認識されなくなってしまう。いくら怪物とはいっても、ジャックフロストとも似ているところがあると思ったので、彼一人だけがかわいそうだった。

初見は飛行機内で、今回は映像配信をパソコンで観たため、両方とも小さい画面になってしまったが、細かいところも作り込まれているので大きいスクリーンで観たかった。
最初のジャックフロストの雪祭りのシーン、そりでみんなで歯を集めにいくシーンなど、空を飛ぶシーンも多く、迫力がありそう。
また、サンタクロースのおもちゃを作っているシーンや、イースターバニーのたまごを塗っているシーンも大画面で観たい。
ジャックフロストがガラスなどを凍らせるのは、『アナと雪の女王』と同じくらい氷表現として美しい。

キャラクター造型も独特なんですが、この作品のように戦うサンタクロースは初めて観た。二刀流です。太ってはいるけれど、ちゃんと動けてかっこいい。
子供に信じてもらえなくなったために、途中でもふもふの普通のウサギの姿に変わってしまうイースターバニーは、普段は2メートルで、ブーメランを二つ持っていて、これまたかっこいい。

そして、ジャックフロストの容貌は、私がこの映画を観るきっかけになった。氷の妖精だからですが、銀髪で肌が白い。でもパーカーを着ているなど、ほぼ普通の少年の姿です。旅行中にこの少年の姿を観て、美少年っぷりに驚いて、帰りの飛行機の中で映画を観ることにしました。それで、飛行機の中なのにも関わらず号泣。

声の出演は、ジャックフロストがクリス・パイン、サンタクロースがアレック・ボールドウィン、イースターバニーがヒュー・ジャックマン、トゥース・フェアリーがアイラ・フィッシャー、ブギーマンがジュード・ロウと、主要キャラクターがかなり豪華な面々になっています。



イギリスの舞台を映画館で上映する企画の日本上陸版。イギリスの舞台など、観たいものがあっても簡単には観に行けるものでもないし、とても嬉しい企画。
ロイヤル・ナショナル・シアターで上映されたものだけなのかと思っていたが、他の舞台も取り上げられているらしいのと、ロイヤル・ナショナル・シアター自体が映画館上映のためにカメラワークなどにもこだわって作ったものらしい。

何作品か上映されているのですが、今回、『フランケンシュタイン』のアンコール上映を見ました。
ダニー・ボイル監督、音楽はアンダーワールドといつものコンビ。
ベネディクト・カンバーバッチとジョニー・リー・ミラーのダブルキャストというかダブル主演というか、博士役と怪物役を交互に演じている。
見た目を重視してしまってカンバーバッチが博士役をやったバージョンを観たんですが、これは両方観て初めて完成するのかもしれない。

舞台は怪物が生まれるシーンから始まる。原作だと、その前にフランケンシュタイン博士の生い立ちや、人間を作り出すことにとらわれていく狂気や苦悩が描かれるのですが、その辺はすべてカットされていた。そのため、怪物視点からのシーンが多い。
あと、フランケンシュタインと結婚することになるエリザベスについても、急に出てきてしまった感じ。

フランケンシュタインというと、『怪物くん』に出てくるあの姿が想像されるのですが、あれは1931年の映画『フランケンシュタイン』のイメージであり、「フンガー!」しか言わないのもたぶん同じところからの引用なのですが、もともとのフランケンシュタインはどんどん頭がよくなっていく。

上部に無数の豆電球がつり下げられていて、それが雷のように光る。舞台上には丸い、もしかしたら子宮のようなものがあり、そこから文字通り、怪物が生まれ出てくる。このシーンから舞台版は始まっていた。
原作だと、怪物を作り出したフランケンシュタインが、自分のしたことの重大さに気づいたのか、怪物の容姿を恐れたのか、とにかく怖くなって逃げ出したあとである。
生まれ出てきた怪物は最初立ち上がることすら出来ないのですが、着実に成長していく。這うように舞台上を動いていたのに、少しずつ立ち上がっていく。意味のない叫び声を上げる。
この、着実に、でもすごいスピードで成長していく様が見事だった。舞台上にはジョニー・リー・ミラー一人だけで、内容を知らなかったら前衛劇のように見えるかもしれない。鬼気迫る演技が迫力のあるシーンだった。

醜い容姿のため、人間からは叫び声を上げられ、石を投げられる。そこで傷ついている怪物には、明らかに人間としての感情が芽生えていた。
盲目のおじいさんだけが優しくしてくれて、本を貸してくれたり言葉を教えてくれたり。
このシーンは原作だと遠くで見守っている時間が長かったと思う。そして、本も怪物の独白によって書かれていたが、舞台なので、おじいさんと怪物の心の触れ合いが多く描かれていた。
ここで、醜い容姿のために蔑まれているが、怪物は実は優しい心を持っているとわかる。博士に作り出されたのに心を持っているのだ。
ここの二人のやりとりは、ほのぼのとするものが多くコミカルで、劇場からも笑いが漏れていた。

しかし、怪物が懸念していた通り、一緒に住んでいた息子夫婦は外見の醜さを忌み嫌い、怪物を棒で叩いて追い出そうとする。
畑の石を退けてあげたり、影で手助けをしていてこの仕打ちは、少し『ごんぎつね』を思い出す。

皮肉なことに、怪物は読んでいた本から復讐という感情も学んでいて、一家が住んでいる家に火をつけて逃げる。そして、自分をこんな姿で作ったフランケンシュタイン博士にも会おうとする。

原作だと博士の気をひくために、怪物はもっと何人も殺しているんですが、舞台版だと弟のみだった。
自分が作り上げた怪物と対面して、その知能の高さに感動しているさまは、やはりどこか狂っているように見える。

また、怪物に脅されたからといって、花嫁を作ろうとするのもやはり、一体作り上げた自負があるのだろうし、まともとは思えない。
結局、弟の亡霊に、花嫁が子供を産んで怪物が増えたらどうするのかと問われ、完成間近で拒否することになる。

怪物の気持ちをわかる。父母ともいえるかもしれない創造主に拒否され、他の人間にも拒否されて一人きり。愛やさびしいという気持ちを知らなければわからなかったろうが、すべての気持ちを知ってしまった今となっては、感じるのは孤独感なのだ。

見た目的には怪物のほうが醜くても、本当の悪魔は博士のほうに見えた。舞台版だと、特に序盤の苦悩が描かれていないため、怪物のほうの気持ちがわかってしまう作りとなっていた。

博士が倒れたときに、怪物が「本当に一人きりになってしまう! お前は俺なのに!」と言うシーンもあるが、それを考えると、やはり逆キャストバージョンを観て、この舞台は完成するのかもしれないと思った。ダニー・ボイルもそこまで意図して作ったのだろうし。

原作を読んでいたときにも、実は怪物など存在しなくて、博士の妄想上の生き物で、殺人も博士が行っているのかと思った。実際、疑いもかけられたりする。しかし、後半で、(怪物の独白ではなく)第三者も怪物と対面するシーンが出てくるので、存在はしていたらしい。
でも、二人で一つという面はあったのではないかと思う。

このナショナル・シアター・ライブ、40カ国以上で公開されているらしいけれど、日本に来たのが今年初めて、ということもあるのかもしれないけれど、字幕が少しいい加減だった気がする。セリフに対してやけに短かったり。
あと、最初にロイヤル・ナショナル・シアターの歴史やナショナル・シアター・ライブについてのCMみたいなのが流れるのですが、そこには字幕がついていなかった。外国で観ているようでわくわくはしたけれど、宣伝効果はないと思う。
それでも、本編が字幕付きで観られただけでも、有り難い話ではある。
ソフト化の予定はないそうです。

『高慢と偏見』


ジェーン・オースティンによる1813年の小説は、何度か映像化されていますが、今回観たのは1995年のコリン・ファースがダーシーをやったドラマです。全六話。

20年くらい前のドラマだし、ドラマの舞台になっているのは更に前なので、かなり時代を感じる作りになっている。髪型や服装も昔っぽい。コリン・ファースもお姿は麗しいながら、変なもみあげです。
イギリスの時代物といえば、最近だと『ダウントン・アビー』が人気ですが、あれは1912年。この話の100年も後ということで、まったく違った。

最初はあまり世界観がわかっていなかったんですが、あまり裕福ではない家の五人姉妹のお婿さん探しのてんやわんやだった。中でも二女のエリザベスとダーシーのロマンスが中心になっている。

五人姉妹なので、母親が特にお嫁に出そうと躍起になっていて、もちろん娘のことを思ってのことでもあるのだろうけれど、自己中心的にも見える。
二話目の最後のほうで出てきた従兄弟で牧師のコリンズが、いい人そうに見えるけれど上にへこへこしすぎるというか、恰好もそれほど良くなくて、このキャラはどうなのかと思っていたら、エリザベスに結婚を申し込んでいた。エリザベスは断るんですが、そのことについても、お母さんがまあうるさかった。何についても口を出してくる。娘が大事なのか、世間体が大事なのか、自分の家が大事なのかよくわからない。

後半の末っ子リディアの駆け落ち関連についても、褒められた話ではないのに娘が一人片付いたことに大喜びし、リディア本人も幼さから状況がわからず誇らしげになっているあたりが、観ながらもあまりいい気分にはならなかった。
リディア以外の四姉妹も長女のジェーンは大人なので作り笑いでにこやかにしているけれど、四女は明らかに渋い顔をしていて、長女から下にいくにつれて、順に顔が険しくなっていくのがおもしろかった。

現在のドラマだと、主人公サイドや視聴者に対して不快な態度をとる人物は最後のほうで天罰的に悪い目に遭ったりしますが、このドラマでは他の登場人物をより幸せにするという方法がとられていたのが良かった。

他の姉妹の恋愛模様も一話から同時進行していくのが面白かった。
長女のジェーンも、あっさりうまくいくのかと思いきや、外野からの邪魔や勘違いが入り、結局最終話までもめていた。でも、誰もが認める良い人物だったし、幸せになってよかった。

主人公エリザベスとダーシーについてですが、最初の印象は最悪なんですね。ダーシーは最初からエリザベスのことが気になっていたようだったけど、とにかくプライドが高くてつんけんしている。
告白するときも真顔な様子から、なんとなく『ブリジット・ジョーンズの日記』でコリン・ファースが演じていた役に似ているなと思っていたら、この作者自体が、『高慢と偏見』に影響を受けていたらしい。
この話があったあとで、映画版でもコリン・ファースが演じているとは、かなり粋だと思う。すべて知った上で、原作から映画化する際に、コリン・ファースが演じることになったという流れを聞きたかった。相当驚いたと思う。

最初はエリザベスと同じで、ダーシーのことをいけすかない奴と思っていたんですが、屋敷の見学に行くあたりからだんだん好きになってくる。

この屋敷がとても立派なのですが、チェシャーのライム・パークというところらしい。マンチェスターの南東あたりみたい。なかなか行きづらそうだけど、行ってみたい。ロケ地として有名らしいので、ツアーか何か組まれているかもしれない。

ダーシーが泳ぐ池も実際にあるらしい。服を着たまま池で泳いでそのまま上がるんですが、水に濡れた姿でエリザベスと対面するんですね。まさか、いるとは思っていないので、とんでもない姿で、でもプライドが高いからそれほど大慌てもせずに。でも確実に動揺がわかる姿が良かった。その後、必要以上にびしっとした恰好で出て来るのも可愛い。

最後はジェーンとビングリーの結婚式と、エリザベスとダーシーの結婚式が一緒に行われる。その時はダーシーも真顔ではなく、ちゃんとにこやかでした。

ヒロイン、エリザベスを演じたのはジェニファー・イーリー。調べてみたら、『コンテイジョン』で薬を発明して得意げに鼻を膨らませてた方ですね。あの役、好きでした。このドラマの頃には実際にコリン・ファースと交際をしていたらしい。



1も2もおもしろかったけれど、今回もおもしろかった。このタイプの映画で毎回おもしろいのは稀だと思うけれど、そもそも、“このタイプ”の定義が間違っていたのだと、映画を観ながら気づいた。
過去のアクションスターたちが大暴れして、スカッとして何も残らない系の映画だと思われがちだし、私も観る前までそう思っていたけれど、観たら、そういえばこの映画はそれだけではなかったのだと思い出した。

以下、ネタバレです。







このシリーズはアクションよりも、出てくるキャラクターたちがわいわいやっているのが楽しいのだった。
前作からの引き続きのキャラクターも出てきます。バーニー(シルベスター・スタローン)はもちろん、飛行機で隣りの席にはクリスマス(ジェイソン・ステイサム)、後ろにはガンナー(ドルフ・ラングレン)、トール・ロード(ランディ・クートゥア)、シーザー(テリー・クルーズ)が座っている。
彼らがかつての仲間であるドク(ウェズリー・スナイプス)を助けにいくところから始まる。この新キャラがまた良くて、映画内では新キャラだけれど、バーニーとは昔なじみだから、偉そうだし、いつものメンバーは気に食わない。
そのごたごたと、バーニーに言われてしぶしぶ、けれど素直に「助けてくれてありがとう」というシーンににやにやした。
これは本当に序盤も序盤で、この先もにやにやするシーンは多々出てくる。ちょっとしたセリフまわしや何気ない一言がすべて可愛い。

このあとで、シーザーを怪我させたバーニーは、いままでのメンバーを解雇する。俺たちはもう歳だし未来がない、というのはメタ発言でもあると思った。
タイトルやコンセプトからして、もう旬の過ぎたアクションスターたちが消耗品として暴れまくるということでメタ的ではある。
今回は、ブルース・ウィリスの降板によりハリソン・フォードが代わりに出ているんですが、「奴の出番はない」というセリフのときに、全部は聞き取れなかったんですが、Pictureという単語が使われていたのが気になった。
また、最後にバーニーがドラマー(ハリソン・フォード)に「たまにはこうゆうのも若返るだろ?」というのもメタ的。

解雇後に新たなメンバー探しをするんですが、バーニーと一緒に斡旋業のボナパルト(ケイシー・グラマー)がさながら旅行のように各地をまわるのが楽しい。新人たちに合った曲が流れるのもおしゃれだし、二人の旅の間のおしゃべりも楽しい。灰に影が見つかった話もにやにやした。
もうこの二人の新人発掘の旅だけで、映画を一本作ってもらいたいくらい楽しかった。実際には10分ちょっとだったらしい。

ここでは少ししか出てこないんですが、アントニオ・バンデラス演じるガルゴが84年生まれと履歴書に嘘を書いていた話も笑った。スカウトしに行って、なんだおっさんかみたいな空気になるのがおもしろかった。

バーニーが若者たちを引き連れて仕事をするときに、「ドアを蹴破るのは80年代まででしょ」と言われるのもメタでした。
若者たちはコンピューターを駆使して侵入扉をロックしたりと、単純に力勝負ではない方法を使っていた。これはこれでいいけれど、これでは近頃のアクション映画と同じになってしまうのでは。そもそも、消耗品軍団には変わらないけれど、若者にそれをやらせるのはどうなのか。コンセプト自体が変わってしまうのでは。
そんなことも考えてしまったんですが、心配は無用でした。

解雇されたあと、クリスマスは切れ味の良いナイフの通販番組を見ていたり、ガンナーは実弾射撃場で的がぼろぼろになるまで撃ち続けたり。日常に満足できない男たちが映されているBGMには切ない曲が流れていて、撮影方法も他のシーンとは違ってゆったりとしたカメラワーク。完全に恋人に捨てられた男たちになっていた。悲しいシーンだけれど、ここもにやにやしました。

結局若者たちは軒並み捕まってしまい、消耗品と言いながらもバーニーは助けに向かうんですが、ここで出て来るのが、つかず離れずのような状態になっていたアーノルド・シュワルツェネッガー演じるトレンチ。やはりこうゆう場面では助けてくれるというところに、盟友の証を感じて嬉しい。

そして、年齢詐称のガルゴ(アントニオ・バンデラス)もここで出てくる。
めちゃくちゃ喋りまくる。相手にされていなくても一人で喋りまくる。でも、過去の話で実は仲間をすべて亡くしていて自分だけが生き残ったと明かしたときに、バーニーがその退院の名前を出して、実は話をちゃんと聞いていたことがわかるシーンは泣けた。これはバーニー、モテるに決まってると思った。
また、アントニオ・バンデラスは出演者の中で、断トツで演技がうまいのもよくわかった。他の出演者たちは、やりとりはおもしろくても、どちらかというと朴訥というか、長いセリフはそんなにないし、演技らしい演技はない。けれど、ガルゴについては、実は哀しい過去があったり、愉快なだけじゃない面を見せて泣かせたりと、いままでにないキャラクターだし、話に幅も出たと思う。

そのあと、ガルゴとバーニーだけで出発しようとしたときに、飛行機の前で通せんぼするように立つかつての面々がかっこいい。戦闘態勢に入った恰好で立ちふさがる。いくら解雇されても、彼らの覚悟は変わらない。絆の深さにここも泣けた。
そして、バーニーも隣りに座っていたガルゴに「そこにはクリスマスが座るからどけ」と言うのも良かった。憎まれ口ばかりだけど、やはり大事な仲間だったのだ。
そして、後ろでは、ガルゴの喋りにうんざりした様子の他の面々…。
ハリソン・フォード演じるドラマーから援軍の連絡が入るんですが、そのときに、ジェイソン・ステイサムがイギリス訛りで喋るのを「何?聞こえない」みたいに煽られるのもおもしろかった。こういった余計なぽつぽつしたところが全部好きなのです。

ガンナーが腕に何かの端末を付けているんですが、「あの若造の影響か?」と聞かれて否定していたけれど、明らかに若造の影響です。俺も何か新しいものを取り入れねば、と考えたんだろうと思うと可愛すぎる。
しかも、若者たちを助けたあとで、若者がその端末を使おうとすると、充電が切れそうになっている。「天気予報くらいしか見ないから」って言い訳も可愛い。腕に付けてはみたものの、まったく使いこなせてなかった。これ、ドルフ・ラングレンってところが一層可愛いんですよね。

そして、ここからは最終決戦、アクションシーンが続く。若者メンバーと大人メンバーが揃ったことで、さきほどのありきたりなアクション映画になってしまうのでは…という懸念は払拭された。単純にアクションの幅が広がって見応えがあった。
銃や手投げ弾はもちろん、バイクも使う、敵の戦車にも乗り込む。空からはヘリをドラマーが運転し、後部座席ではトレンチとかつてのメンバー、イン・ヤン(ジェット・リー)がマシンガンのようなものをぶっ放している。
廃ビルが舞台なので、おそらく最後には壊れるんだろうなと思いながら見てましたが、各階や屋外、空といろんな場所でいろんな攻撃が繰り広げられているのが、贅沢だった。
そして、最後はやはりお約束というか、バーニーとストーンバンクスの殴り合い。肉弾戦です。

ストーンバンクスを演じたのがメル・ギブソン。あんまりいい印象がなかったんですが、彼の悪役が本当に憎々しいキャラクターでこの配役も豪華だし、よく合っていた。

たぶん、ジャンル的にはアクション映画なのだろうし、アクションだけを楽しみにくる人もいると思う。もちろんアクションも素晴らしかった。アクションシーンとのギャップもあって、日常パートがより楽しめるのかもしれない。

そして、今回も打ち上げシーンがあった! 飲み屋だし同じところかなと思ったけれど、前回までのメンバーだったタトゥー屋のツールがいないので、今回は違う場所になっているらしい。
ドクとクリスマスがダーツ盤を使ってナイフ投げ勝負をしていたけれど、ナイフの使い手としてどちらが上かという勝負ももちろんあるでしょうが、バーニーの取り合いにも見えた。

若者たちが全員でKARAOKEでニール・ヤングの『OLD MAN』を歌っているのも良かった。“爺さん、俺の人生を見てくれ/まだ24歳、なんでもできる” 生意気ながらも、しっかりしてる。でも、完全な世代交代がなくて良かった。
ただ、若者メンバーを今回出すならば、前回出てきたリアム・ヘムズワーズも仲間に入れて欲しかったとも思う。今回は一人も欠けることがなくて、それも良かった。

最後にバーニーがクリスマスの肩を抱いてあげていたのも感動した。
解雇したのだって、もちろん、大切なメンバーのことを考えてのことである。でも、現場から退かせることが、必ずしも最良ではないのだ。たぶん、この先はずっと一緒に戦っていくのだろう。

そういえば、トレンチとイン・ヤン、まさかの交際発覚。身長差、体格差の面でもお似合いでした。
ところで、脚本にシルベスター・スタローンも参加してるんですけど、数々の萌えシチュエーション&セリフももしや全部わかってやっているのでは…。
『エクスペンダブルズ4』も楽しみにしています。

この映画、パンフレットも満足できる作りでした。ストーリーやキャラ・出演者・スタッフの紹介、インタビュー、プロダクションノートはもちろん、使われた武器の説明、今回行った場所、作戦の図解など盛りだくさんすぎる。怒髪天の増子直純兄ィと杉作J太郎の対談もあり。
細かい字だけどたぶん、エンドロールで流れた文字を全部載せてる。あと、出演者の全作品リスト。これもかなり細かい文字。
一番気に入ったのは、欄外のはみキン情報!(はみ出しキンニク情報!)で、なんてことないトリビアが載ってるんだけど、この愛の込め方がたまらない。パンフレットの作り手も本当にこの作品が好きなのが伝わってくる。『ハングオーバー3』のパンフレットで受けた以来の感動です。
最近、映画の公式サイトがプロダクションノートをPDFで公開していたりして、決して安くはないし、もうわざわざパンフレットを買うことはないかもと思っていたけれど、これはとても嬉しかった。

主演のルーク・エヴァンスと衣装などはかっこよかったです。

以下、ネタバレです。






トランシルヴァニアのドラキュラのモデルとなった実在の人物ヴラドが主人公となっている。でも、伝記というわけではありません。
息子を守るために、洞窟の中の魔物と契約をして力を手にするんですが、その契約というのが、三日間は人間の血を欲すると思うけれどそれを我慢すれば人間に戻れる、血を飲めば魔物が洞窟の束縛から解かれるというものだった。
普通であれば、困難を乗り越えて、血を飲まずに我慢をし、魔物の誘惑にも負けずに、敵も倒してめでたしだと思う。

しかし、この映画では、あっさり誘惑に負けてしまう。
ルールがわかりにくかったんですが、妻が死にそうなときに「私の血を吸って」と言うんですね。たぶん、魔物に操られているんですが、ヴラドは吸ってしまう。
おそらく、これで完璧な吸血鬼になったのだと思う。でも、ここで、魔物が洞窟から解き放たれて、代わりにヴラドが閉じ込められるわけじゃなかったのか。そして、完璧な吸血鬼になることで、力が倍増するのはわかるんですが、少し前に「血を飲んでいないから十字架を怖がらない」と牧師が言っていたけれど、飲んだ後も別に怖がっていなかった。
ただのいいことづくめである。

その力というのも、自らを吸血鬼の姿にして瞬間移動とか、超能力のように無数の吸血鬼を遠隔操作して敵を蹴散らすといったもので、そもそも吸血鬼である必要があったのかどうかわからない。
吸血鬼といえば、人間の首もとを噛んで血を吸うイメージなんですけれど、この映画では獣が噛んで獲物を仕留めるイメージ。噛んでもたぶん血を吸っていなかった。殺す手段でしかない。吸血鬼の牙の使い方を間違っている。
吸血鬼映画は血を吸われている側の快楽まみれの顔が見所だと思う。もうすぐ死ぬのに気持ち良くなってしまう背徳感。そんなのはまったくないアクション映画だった。

噛んで血を吸ってるわけじゃないから、噛まれた側が吸血鬼になるわけではない。どうやって吸血鬼になるかというと、血を飲ませるんですね。
この辺のルールもよくわからなかったんですが、ヴラドは洞窟の中の魔物の血を飲んで力を手にし、血を飲んで完全な吸血鬼となった。
ここでヴラドが洞窟に閉じ込められなかったからもうここでルールは崩壊してるんですが、ヴラドが他の人に血を飲ませても、ただ吸血鬼を量産するだけだった。そもそもの洞窟ルールはどこかへ行ってしまった。

それで、とても許せなかったのは、吸血鬼にしたのは自分のところの民衆なんですよね。死にかけの人間に、生きたいかと聞いたら生きたいと言うに決まっている。それで、吸血鬼に変えて、敵軍と戦っていた。
民衆はまさに魔物のようになっていて、ヴラドだけなぜ人間の心を持ったまま吸血鬼になったのかわからない。吸血鬼になった民衆たちは、助け出したヴラドの息子を襲おうとして、挙げ句、退治されてしまった。日光を浴びて灰になってしまったのだ。まるで、息子はもう助けたから用済みとばかりに。
これで民衆を守ったと言えるのだろうか。自分の子供を守っただけではないのだろうか。

残忍な殺し方で串刺しヴラドなどと呼ばれていた人物が、近年は故国を救った英雄としての見方もあるらしいんですが、そこでぴんとくるものがあったのかもしれないけれど、いくらなんでも他の設定がいい加減すぎる。

吸血鬼だから死ぬことはなくて、現代にもヴラドが出てきて奥さんの生まれ変わりに話しかけたりするんですが、生まれ変わりなのかずっと生きてたのかわからないけど、魔物も出てきていた。スーツを着て、普通のおじさんっぽくしていた。
これは続編があると考えていいのかどうかわからないけれど、この現代の話は興味があるので、こっちをメインにしてほしかった。誕生の話は冒頭10分くらいにまとめてくれて良かった。
続編にもおそらくドミニク・クーパーが宿敵みたいに出てくると思うし、因縁を抱えたまま輪廻転生していたら楽しい。
現代版魔物が「さあ、ゲームをはじめよう」と言っていたので、もしかしたら何か見のがしているルールがまだあったのかもしれない。

これだけ文句をつけつつも、続編があるならば、たぶん観ると思う。

ほぼ半月あけて後編が公開。(前編の感想はこちら

以下、ネタバレです。







流れ自体は前編と同じ。ジョーがこれまであったことを話し、それに対して、セリグマン(今回はちゃんと名前が出てきた。ステラン・スカルガルドが演じている男性)が素っ頓狂なあいづちをうつ、というのは一緒です。

序盤で、なんでセリグマンがジョーの話で欲情しないのかと問いつめられるシーンがあって、前編を観た時に疑問に思ったことは解決した。経験がないから、とのことだった。

できることなら、ジェロームと幸せに暮らしていって欲しかったけれど、そうはならなかった。ジョーの満たされない心をジェロームが埋めることができず、涙を流しながら、他の人とも関係を持ってこいというシーンは切なかった。虎にエサをあげるのを他の人にも手伝ってもらいたいという言い方もなかなかポエティックではあるけれど、どうしようもなさに苦しむジェロームを見て、この二人はうまくいかないのがわかった。

この二人に限った話ではない。ジョーは誰といても満たされないだろうし、相手も満たせないことで苦しむのだろう。ニンフォマニアが治らない限り、孤独感はどうしたって解消されない。

そういえば、ジェロームと子供と別れるシーンで、出かけている間に子供がベランダへ一人で出て、外は雪が降っていて…というのは、『アンチクライスト』の序盤に同じシーンが出てきた。あれは、出かけていたわけではなくセックス中だったけれど。子供は転落してしまうので、嫌な連想をしてしまった。この映画ではジェロームが帰ってきて、子供は救われたので、ラース・フォン・トリアーはこの作品はその方面へは持っていかないつもりなのだなと思った。

今回もやはり過激とかハードコアポルノというのとは少し違っている。映画の宣伝で使われているスチルでは、裸のジョーが裸の黒人男性二人に囲まれていたけれど、このシーンもほぼコントのようだった。言葉のわからない黒人男性が目の前で言い合いをしていてまったく行為が進まず、ジョーがそそくさと服を持ってホテルの部屋を出て行っちゃう。

SMの章は過激というか、尻を叩かれているので痛々しい。かなり執拗だし、他の技(?)も出てくる。セリグマン曰く、「多才で愉快な男」。
この尻を叩く男、Kを演じたのがジェイミー・ベル。体が小さく色白でどちらかというとひょろっとしているけれど、冷淡な表情で鞭をふるう姿がよく似合っていた。顔も整っているし、女性たちが彼に付き従うのもなんとなくわかってしまう。

ジェローム役のシャイア・ラブーフもそうなんですが、父親役のクリスチャン・スレーターや、聞き手のステラン・スカルスガルド、ミセスH役が最高におもしろかったユマ・サーマンと、豪華な俳優だからというのもあるかもしれないけれど、配役が完璧だと思う。全員よく似合っていた。もちろん、シャルロット・ゲンズブールと若いジョーを演じたステイシー・マーティンも良かった。
あと、最後に出てくるP役のミア・ゴスも、若さ故の生意気さと綺麗すぎない容姿が合っていたと思う。

前編の最後が一番盛り上がり、後編は盛り上がり最高潮から下がっていくので、出来れば続けてみた方がいいのかもしれない。おもしろくなくなっていくというわけではなくて、感情や性欲のピークが前編の最後で、そこからはどんどん静かになっていくような感じがした。

あと、前編のほうが何も考えずにセックス三昧だったけれど、後編はジェロームとのこともあるし、最後は体調面というか傷を負っていて、行為ができなくなっている。

なので、もしかしたら、後半はニンフォマニアではなくなっているのかもしれないとも思った。特に、一人で山に登って、山頂に立っている木を見るシーン。過酷な環境に負けそうになりながら、風で形は歪められているけれど、一本だけで立っている木を見て、自分のようだと思っただろうし、何かに開眼したのではないかとも思う。

セリグマンに話しているときに、セリグマンが襲って来なかったのもそうだけれど、話しているジョー自体も欲情はしていなかったと思う。静かな口調だった。話終えたあとも、一人で寝てしまう。
そして、最後でセリグマンが襲ってきたときにも、驚いたのもあるんでしょうが、受け入れなかった。

その少し前にセリグマンが、ジェロームを撃たなかったのは心のどこかで撃ってはいけないと思っていたからだと言っていたけれど、最後のシーンではジョーは心の底から撃ちたいと思ってるから撃ったんですね。
画面が暗転して、安全装置を解除するカチャッという音が聞こえるのも粋。

ただ、このオチは、ちょっと残念だなとも思った。
その前にしていた、壁に映る太陽光の話や、ジョーが初めての友人と呼んだことなど、すべてが消えてしまう。ジョーの孤独感は解消されないし、結局、誰にも理解してもらえないままだ。
前編後編とここまで一緒に話を聞いてきたのに。
脈絡無く車が燃えるシーンが急に出てきて、え?え?と思っていたら、セリグマンが「え? いまの車なに?」って聞いてくれるなど、観客の代弁者的なポジションでもあったと思う(「先を急ぎ過ぎて次の章の話が紛れた」とのこと。笑った)。
結局、セリグマンも他の男と同じだった。性欲が絡むと男女の友情は成り立たないというのを示したかったのかもしれないし、このオチがあるからこそ、ラース・フォン・トリアーなのかもしれない。

エンディング曲は、シャルロット・ゲンズブールとBECKのデュエット。そうだった。シャルロット・ゲンズブール、お父さんともよくデュエットしてましたよね。可愛らしい声でした。