コリン・ファースがマジシャン役、エマ・ストーンが霊能力者役で共演のロマコメ。両方とも好きな俳優さんなのですが、ウディ・アレン監督作品が個人的にあまり合わないため、どうかなとも思ったのですが楽しめました。

以下、ネタバレです。








二人の職業が特殊なのと予告を見た印象では、騙し騙されのラブストーリーになるのではないかと予想していた。それでも、コリン・ファースはとほほ役が似合うので、最後にはエマ・ストーンに騙されて、お金でもとられてしまうのではないかと思っていた。
でも、想像よりもだいぶハッピーな内容の映画でした。

これは監督の特徴かなとも思うのですが、南仏が舞台だけれど、景色を生かした撮り方はあまりされていなくて、人物がとにかくうわーっと喋りまくったと思えば、カットが変わり、またうわーっと喋る。そのお喋りの内容は楽しいものではあるのだけれど、とにかく会話が続くのと、画面的には人が喋っているところを映しているだけなので単調であるため、少し疲れてしまう。

そして、これはわざとかもしれないけれど、表情などをじっくり映すというよりも、とにかく喋らせるので、それが本心なのかがよくわからない。気持ちの変化が読み取りづらい。

コリン・ファース演じるスタンリーがおばの家に行って、エマ・ストーン演じるソフィーが過去を言い当てるのですが、今まで絶対に信じない、いかさまだと疑っていた男がここでコロッと信じるほうへ方向転換する。
敬愛するおばだからなのか、頭が固い男は崩れるときもあっけないのか。

あと、もしかしたらここで、スタンリーは、ソフィーの霊能力を信じる=恋をしたのかなと思っていた。それか、少し先の天文台のシーンで恋に落ちたのかと思っていたけれど、後半のパーティーのシーンでソフィーに好意を告白された時に混乱していた様子なので、別に恋なんてしていなかったのかもしれない。

ただ、それ以降は確実に恋をしていたので、パーティーのシーンが落ちたタイミングなのかもしれない。または、気づいたタイミング。

恋をしてからは、やけに横暴で、結婚してやってもいいとか、嫌いじゃないとか、どうにも素直になれない。スタンリーという男が頭がかたいせいもあるのかもしれない。
でも、もしかしたら、『高慢と偏見』のパロディというか、コリン・ファースは昔からずっとこのイメージなのかもしれない。ロマンティックに「愛してる」とか言って抱きしめることなどできない、不器用で偏屈で、ちょっと意地悪で、でも中身はピュアな男性。今回の映画でも、まさにそんなイメージの役柄でした。
ダーシーを意識しているのかどうかわかりませんが、水から上がってくるショットもあり。水着ですが。

最後に霊能力というか、偽心霊で返答するというのも粋だったし、心がうきうきして思わずにっこりしてしまうようなハッピーエンドだった。お金を取られて騙される皮肉などなかった。
言葉では説明出来ない力、恋愛こそ本当のマジック、みたいなのは古典的ではあると思うけど、王道だし別にいいと思う。可愛らしい。

けれど、最後のキスシーンでどうしても生々しくなってしまうコリン・ファース。『ブリジット・ジョーンズの日記』でも、最後にキスをしたときに、この人偏屈だし固そうだけど、キスはうまそうというかいやらしいというか、生々しくなっちゃってた。それは不満点ではなくて、どぎまぎしてしまう点というか、どちらかというと魅力的な点ですが。

コリン・ファース関連では、序盤のマジックのシーン、あの仰々しいものもご本人が演じてたらとても愛しい。けれど、メイクをしているし、マジックだし、さすがにスタントなのかな。

映画のトリックというか、ネタばらしが某映画に似てたのですが、それは他では何も言われていないのだろうか。
映画のタイトルを書くとその映画のネタバレになってしまうので書きませんが、実は友達の企てだった、友達は主人公の才能を妬んでいた、若い女性が荷担というのが同じ。
ただ、その映画では主人公は木っ端みじんにされてしまうのですが、こちらは若い女性=ソフィーは罪悪感を感じる。悪い女ではなく、可愛いだけだった。
とにかく、エマ・ストーンが可愛い。

舞台を1920年代にする必要があったのかどうかはわかりませんが、エマ・ストーンのフラッパーガールなファッションがとても可愛い。帽子も似合ってたし、ドレスも素敵でした。

もしかしたら、エマ・ストーンを可愛く見せるためだけの映画だったのかもしれない。ウディ・アレン監督の次回作にも出演が決まっているらしいし、お気に入りなのがぐんぐん伝わってきます。

2013年公開。リュック・ベッソン監督作品。
アメリカ版だと『The Family』というタイトルらしい。フランス版は同じく『マラヴィータ』。イタリア語で“暗黒街での生涯”とかの意味らしいですが、主人公家族の飼っている犬の名前がマラヴィータなのでそれだと思う。別に犬は活躍しません。
『隣りのマフィア』という小説を原作にしているとのこと。
そのタイトルだとわかりやすいけれど、FBIの証人保護プログラムを適用された元マフィアの家族が、マフィアであることを隠しながら普通の人々と触れ合いつつ、普通に暮らしていこうとする話。
こちらは本物の家族ですが、身分を偽っているところで少し『なんちゃって家族』を思い出した。

一般人のようにおとなしくひっそりと暮らしていこうと思うけれど、保守的な住民にスーパーで悪口を言われた妻は店を爆破し、学校でナンパをされた娘は男子生徒をボコボコにし、濁った水道の相談をちゃんと聞いてもらえなかった夫は役員を車に縛り付けて走らせる。どうしても、目立ってしまう。

そして、元マフィアの家族の家長をロバート・デ・ニーロが演じているのがずるいというか、それだけでおもしろいというか、他に誰が演じるんだという感じがする。これほど似合うキャストもいない。

引っ越してきた彼との交流するための映画上映会で、間違って届いてしまった映画が『グッドフェローズ』。ロバート・デ・ニーロがマフィアを演じている。
主人公は映画を観た後で映画についての講釈をする役割で呼ばれているんですが、この時に、「お前は自分のファミリービデオについてコメントするのか」と一緒にいるFBI職員が言うのですが、普通のマフィア映画ではなくこの作品を持って来る事で、メタ的な意味合いも持たせていて面白い。
ちなみに『グッドフェローズ』の監督、マーティン・スコセッシはこの映画でも製作総指揮をつとめている。

“風が吹けば桶屋が儲かる”というか、ピタゴラスイッチというか、不思議な縁の重なりで、彼らの住処がライバルのマフィアにバレてしまう。
そのバレ方はまさにギャグのようだったし、マフィアが住んでいる町に電車で来て、降り立つ時にはGorillazの『Clint Eastwood』が流れて、とてもスタイリッシュでかっこいい映像になっている。

けれど、その様子を見た息子や妻は、涙を流して怖がる。
警察や、家族を監視していて次第に仲良くなっていたFBIもあっけなくどんどん殺されていく。家族とも死闘が繰り広げられる。

今までがコメディ色が強かったため、ここで急に普通のマフィア抗争ものになってしまう。どんな気持ちで観たらいいかわからなくなる。
どうせなら、家族四人、それぞれの力を発揮するとかして、楽しく恰好良く倒してほしかった。
能ある鷹は爪を隠す。ここまで爪を隠して、時には暴れたけれど、基本的には大人しく暮らしてきた家族の本領発揮の部分ではないのか。

銃などもないだろうし、おとなしく暮らしていたから戦い方もわからなくなっているのかもしれないけれど、なんとか勝ったという感じだった。

ここまで楽しく観て来たから、同じトーンで最後の戦いもやってほしかった。コメディとして徹底してくれても良かった。
原作があるものだから原作通りなのかもしれないけれど、なんとなく水を差されたような気持ちになってしまった。

『21ジャンプストリート』の続編。『LEGO(R)ムービー』のフィル・ロード&クリス・ミラー監督。ジョナ・ヒル、チャニング・テイタム主演。
前作も劇場公開はなくDVDスルーだったけれど、今回も同様です。
以下、ネタバレです。









最初の方はわりと普通の刑事アクションっぽいつくりになっていてびっくりした。でも、すぐにのらりくらりとしたノリに戻る。
最初の作戦は結局失敗してしまうのですが、「失敗しないためには? 前と同じように、学校に潜入して捜査しよう!」ということになる。失敗しないというのは捜査であり、この映画のことでもある。シュミットとジェンコの二人が学生のふりをして学校に潜入し、麻薬についての捜査をするという、大まかな内容はまるで同じ。これについてはメタ発言もあるし、意図されたものです。

他にも中盤で「予算が無い」という話が出てきて、それは物語の中で、捜査をする予算がないというのと、「最初のカーチェイスでお金を使い過ぎた」と言っていたので映画自体の予算がないというのがかかっていて、ここでもメタ発言が出ている。
その後で、悪者がこれみよがしに学校の建築物にぶちあたって壊しながら車を運転するシーンがあるのもおもしろい。本当に悪者だ。

舞台が高校から大学に変わったくらいで、起こる事件と捜査する事柄はほぼ同じ。続編もすでに企画されているらしいが、次作も同じだとどうなるかわからないけれど、今回はそれでもとてもおもしろかった。これは、事件そのものがこの映画の大事なところではないからだと思う。二人の刑事が主人公でも、刑事ものというよりは学生もののようになっているのだ。これは、前作も同じでしたが。

特に、今作では二人は警官の服をほとんど着ない。チャニング・テイタムにいたっては、一回も着ていなかったかもしれない。
捜査もしているけれど、二人ともキャンパスライフを満喫していた。

前作同様、女生徒とねんごろになるのはシュミット(ジョナ・ヒル)の方です。
ただ、今作ではジェンコ(チャニング・テイタム)に気の合う友達ができてしまう。

二人は正反対のタイプである。シュミットはどちらかといえばおとなしく人付き合いが苦手で、容姿が冴えなくて運動はできないが頭はいい。ジェンコは運動ができて活発で、友達も多くて、中心になれる人物だけど、馬鹿。
この二人は、普通に学校に通っていたら絶対に友達にならないタイプなんですよね。グループが違う。
それで、ジェンコは本来、属すであろうグループの仲間と親しくする。特にアメフト部員のズークとは、まるで双子のように気が合う。好みも考えている事も一緒で、言葉を発しなくても通じ合える。
シュミットとは何もかもが違うし、話しても通じないこともある。ジェンコは馬鹿だし、安易に一緒にいて気持ちいい関係のほうへ流れてしまう。本当に自分の事を想っていてくれる人に背を向けて。

「少し距離をおかないか」と言われた時のシュミットのさみしそうな顔ったらなかった。捨てられた子犬のようだった。シュミットの方は、いくら違ったタイプでもジェンコのことを鬱陶しがることはなかったんですよね。

結局、ジェンコは、ズークは自分に似ていて気が合うけれど、馬鹿で機転がきかない部分も同じだということに気づいてしまう。いや、気づいてないかもしれない。ただ単に、何かこいつつまらないと思ったのかもしれない。

似ている人との関係も楽でいいけれど、真逆の人でも友情はきずけるのだ。
人付き合いの基本というか、道徳の教科書に載っていそうというか、教育テレビ(今はEテレですね…)で放送していそうというか。下ネタを省けば、学校の授業にも使える。

今回も潜入捜査中に捜査対象のドラッグを体内に入れてしまうシーンがある。集中力を高めて仕事をしたあとで、ジェンコはアッパーに、シュミットはダウナーになる。こんなところでも違いが出てしまう。馬鹿は得である。真ん中で二分割されていて、シュミットは地獄のような世界で頭を抱えているけれど、対するジェンコはアメフトのボールの着ぐるみなどと踊り狂う。そのうち、ふわーっと浮かび上がるんですが、シュミットはそれをおそらくあまり良いことではないと考えたのか、救うために引きずり降ろす。けれど、ジェンコとしては気持ちが良かったのに、(文字通り)足を引っ張られたと思うんですね。

最後の方のシーンで、ヘリから落ちそうになってたジェンコの腕をシュミットが掴んであげるシーンがある。対になっているのがうまい。両方とも、シュミットがその腕でジェンコを救っている。

シュミットはとにかく健気なのだ。後半で、撃たれそうになっているジェンコを身を挺して庇おうとするシーンもある。
ただ、こうゆうシーンが後半に出てきたら、普通ならシュミットがジェンコの代わりに撃たれて、「シュミットー!よくも…!」みたいな感じになりますけれど、この映画では身を挺する側の運動神経が悪すぎた。ジェンコの前に身を乗り出すタイミングが早すぎて、結局ジェンコに当たっていた。こんなの見たことないです。
「気持ちが大事だろ」と言っていたけれど、まあ確かに。

いつからか、観ている側は…というより、私はシュミットに感情移入してしまったために、健気なシュミットの気持ちにやっと馬鹿が気づいたときに、本当に良かったと思ったし、最後に「愛してる」のハグが出た時には拍手をしそうになった。

それと同時に、ジェンコを恋い焦がれるシュミットに自分を重ねるあまり、私もジェンコ、というか、チャニング・テイタムのことが好きになってしまった。
潜入捜査をしているのにアドリブができない。空気も読めない。「見せ場だから、かっこいい事言え!」と言われて、「かっこいい事!」と叫ぶ。
基本的に馬鹿だけれども、正義感の強い馬鹿なので曲がった事はしない。できない。
そして、スーパーヒーロー並みの身体能力の高さ。
後半の浜辺でのDJパーティみたいなシーンで、女性を肩車しながら、その女性の足を使って敵をやっつける。そのあと、スムーズにあくまでもさりげなく、でも熱烈にお礼のキスをするんですが、決めるところは決めるみたいなのがもう本当にずるすぎる。

チャニング・テイタムは『ジュピター』の公開も控えているので楽しみ。こういった内容ではないし、馬鹿でもないとは思うけど。
あと、序盤で「ホワイトハウスを守りたい」というセリフがありますが、それって『ホワイトハウス・ダウン』の話ですよね…。観てないので観たい。

エンドロールでは続編『23ジャンプストリート』の(おそらく偽の)予告から、その次その次と『(数字)ジャンプストリート』のいくつもの予告。基本的に潜入捜査ものらしい。
あの二人のいろんな姿が見る事ができて楽しいのと、きっと今回のような危機は何度もあるのだろうけれど二人がずっと一緒に活動しているのがわかって嬉しい。一回だけ、ジョナ・ヒルの代わりにセス・ローゲンですけども。
いくつまで出るのかわからないけれど、末永くお幸せに。

『イーダ』


アカデミー賞外国語映画賞受賞のポーランド映画。
去年の夏に公開していたようなのですが観ておらず、受賞したことにより再上映が決まって良かった。

以下、ネタバレです。





映画が始まる前にスクリーン両側が狭まって、スタンダードサイズになったのに驚いた。けれど、モノクロだし、このサイズが合うのかもしれない。
背景はシンメトリーなのに、人物が下の方の右寄りにいたりと、構図が少し変わっていた。まるで絵や写真のように、切り抜いてみても美しいと思う。

序盤は、セリフが少なく、雪が静かに降っていて、修道院と中で粛々と働く人が出てきて…ということで、『大いなる沈黙へ』を思い出した。

修道誓願という、清貧、貞操、従順の誓いをたてる前に、唯一の肉親であるおばに会って来てはどうかと言われ、一人の少女が修道院を出るところから始まる。
ストーリーを調べてはいなかったのですが、少女はおばと一緒に自分の出生の秘密をさぐる旅に出る。
結局、ホロコーストの犠牲者であることがわかるなど、事実はつらいものではあったが、旅自体は楽しそうにも見えた。煙草を吸い、酒を飲む、修道院の中のシスターなどとはかけ離れた人物であるおばと行動を共にし、修道院の外の世界に触れ、おそらく初めて男性と語らう。それは少女にとって、すべてが新鮮な体験であり、冒険でもあったのだろう。
少女とおばは、正反対ゆえに最初はお互いに気に食わなそうだったけれど、一緒に冒険をして二人の絆も深まったように見えた。

少女は修道誓願のために修道院へ戻り、おばは日常へかえっていく。
少女の無垢な心に触れたせいかもしれない、息子の行方がわかったせいかもしれない。おばは急に思い立ったかのように窓から、軽やかといってもいいしぐさで跳躍する。
もうそれはずっと考えていたことなのかもしれないし、息子の頭の骨を抱えながら歩いたときに思ったことなのかもしれない。
唐突にも見えたけれど、おそらく、悲壮感なんてものはその前からずっとあったのだろう。

少女がおばの部屋に来て、おばの靴を履き、服を着て、真似をするような仕草で煙草を吸い、酒を飲む。『太陽がいっぱい』や『フィルス』にも出てきたけれど、その人に自分がなってしまいたいほど相手のことを想うという描写が好きなんですが、ここもそれだと思った。

だから、このあとで、旅の最中に会った男性ともう一度会って、デートのようなことをするのも、結局はおばを真似ているだけだったのかもしれない。好きではあったのだろうけれど、恋愛とはまた別だったのではないか。

海辺に家を建てて、結婚して、犬を飼って…なんて夢物語、信じられなかったのだろう。
生まれてからずっと修道院にいたら、価値観のようなものを変えるのも相当難しいと思う。それに、急に外の世界に出たって、肉親が誰もいないのだ。そんなに甘くはないと考えていたと思う。

デート中はベールをはずしていた。ベールをつけていると自分のままだけれども、はずせば、別人に…おばにもなれる。
部屋を一人出る時にベールを被ったのは、もともとの自分に戻るためだろう。そして、その恰好をしているということは、修道院に帰るということで、おそらく、今度こそ修道誓願をたてるのだろう。

映画の最初の方では少女は無表情で、黒目がちな瞳は何を考えているかわからない。まるでブラックホールのようなそれに吸い込まれそうになる。けれど、後半では、表情はやわらいでいるように感じた。
少しの間だったけれど、おばとの触れ合いと二人の冒険が及ぼした影響は大きかったのではないだろうか。数日間の大きな経験で、彼女は確かに成長した。
この思い出を胸に、おそらく修道誓願をするという決断を自らしたのも、大人になった証拠だと思う。

ただ、それが幸せなのかというのはわからない。少なくともおばは、少女がベールを脱ぐ=俗世で生きることを望んでいたようだった。でも、幼い頃から修道院で生活せざるをえなかった事情もわかっているし、自分のせいでもあるのもわかっていた。それが彼女の生活を荒廃させたのかもしれない。



アカデミー賞作品賞、監督賞、脚本賞、撮影賞の4部門受賞。ノミネートも多数。

観終わった後で、反射的に、うっわー!おもしろーい!みたいになる映画ではない。けれど、じんわりと良かったな…と思う気持ちは残っている。最初の方は、どんな映画なのかわからずに、カメラに誘導されるがままについていったけど、徐々に全貌が見えてきて、最後まで観て納得する。別にどんでん返しがあるわけじゃないけど、最後まで観た上でもう一回最初から観たほうがおもしろそう。
ただ、すべてが明確に描かれているわけじゃないので、人それぞれ受け取り方が違いそうだし、好みも分かれるのではないだろうか。
エンターテイメントといえばエンターテイメントだとは思うけれど、少なくとも私は予告編だけ見ていた時の方が呑気だった。

予告編ではGnstls Barkleyの『CRAZY』が使われているんですが、テンポを落としたさみしいアレンジだったので、かつてヒーローを演じた俳優が老いたせいなのだと思っていた。そして、曲は元のテンポのノリノリに戻る。それはすなわち、ヒーローに戻るという意味だと思っていた。

この曲は『キック・アス』でも使われている。キック・アスがレッド・ミストに誘われて高そうな車で悪者退治に行くシーン。友人に誘われ、一緒に悪者を退治しにいくなんて、デイヴ(キック・アス)にしたら夢みたいで、おそらく気持ち的にも一番盛り上がっている部分だ。
そこでこの歌詞である。
“俺のヒーローは危険をおかして悪者の命を奪う勇気があったんだ/全部おぼえてるよ、彼らのようになりたかったんだ/小さい頃からずっと楽しそうに見えた/だから今、俺がこうなったのは偶然じゃない/そうなった時、俺は死ぬ事もこわくない”

『キック・アス』はまさにこの感じなので『バードマン』もそうかと思っていた。(ちなみに『キック・アス』では音楽は途中で切られ、デイヴも酷い目に遭う)

『ゼロ・グラビティ』でどうやって撮ってるのかわからなくて、口をあんぐりさせたのが記憶に新しいけど、本作もどうなってるのか全然わからない。1カットみたいに、長回しのように、カメラがずっとついていく。
カメラが人の周りをぐるんぐるんまわったり、もういいじゃないかってところにも執拗に追いかけていく。手持ちのようなブレはないけれど、最初はスクリーンに集中するあまり、ちょっと酔いました。内容そっちのけで、映像に夢中になってしまう。

それで、撮影が『ゼロ・グラビティ』と同じエマニュエル・ルベツキというのが、すごすぎてなんだか納得してしまった。二年連続でアカデミー賞撮影賞受賞です。

この映画でも、カメラが特殊な動きをするから、俳優さんは顔の角度や動きなど、いっさいアドリブなしで完璧に寸分の狂いもなく演じているらしい。舞台は違うけれど、これも『ゼロ・グラビティ』と同じだった。

以下、内容に触れます。ネタバレです。








『バードマン』は、ヒーロー映画を引退した俳優が、もう一度ヒーロー映画に挑戦するというような話ではなかった。予告を見たときや、なんとなくのあらすじを聞いていたときには『レスラー』みたいな感じを想像していたけれど違った。

主人公のリーガンは過去にとらわれていた、というより、過去がリーガンをとらえていたのだ。過去=バードマンを演じていた俳優。町中でも「バードマンだ!」と役名で呼ばれてしまう。
そこから脱却するためなのか、本当にやりたかったことなのか、ブロードウェイミュージカルに挑戦しようとしている。

なんとなく、ロバート・ダウニーJr.のことを思い出してしまった。『アイアンマン』と『ジャッジ』とか。でも、RDJはアイアンマンをまだ演じ続けているので意味合いが違う。ダニエル・ラドクリフのほうが似ているか。彼もハリーポッターで染み付いたイメージからの脱却をはかるために、舞台に挑戦してました。

リーガンがつきまとってくる過去=バードマンに冷たくあたるのは、アンチヒーロー映画的な気持ちもあるのだと思う。

実際のところ、ハリウッドではヒーロー映画はどんな扱いなのだろう。興行収入はたたき出しているはずだが、アカデミー賞にはノミネートすらされない。
アカデミー会員の好みでないだけなのか、それか、どこか馬鹿にされているのかもしれない。

アカデミー賞のオープニングで、ジャック・ブラックが水をさすように乱入し、“ウケるのはヒーロー映画だけ”というようなことを歌い出すけれど、これは、『バードマン』の内容を示唆していただったのだ。
また、ローブがドアに引っかかって、仕方なくブリーフ一枚で出てくるニール・パトリック・ハリスもそのまんまのパロディだった。
映画公開前だったからわからなかったけれど、アカデミー賞には『バードマン』の小ネタが散りばめられていたのだ。

「観客は会話ばっかりの映画よりも、アクションが観たいんだよ」というセリフが出てくる。
会話ばっかりの映画とは、劇中劇で演じられるレイモンド・カーヴァーの『愛について語るときに我々の語ること』であり、まさにこの『バードマン』のことであろう。この二重構造がおもしろい。やりたいものと客から求められているものの乖離が皮肉とともに描かれている。

『バードマン』の場合は、ヒーロー映画に対する揶揄もあると思うが、リーガンは、その過去を嫌いすぎていて、それだけ過去が賞賛されているということはそのヒーロー映画はすごかったということで、逆にヒーロー映画讃歌にも見えてくる。

それだけ固執しているものというのは、ただ憎いだけではなく、おそらくとても愛しいものである。
劇中でリーガンは“超能力”を使うけれど、もちろんそれは妄想であろう。その“超能力”はおそらくバードマンが映画で使っていたもので、バードマンを憎んでいながらも、“超能力”を使う自分かっこいいみたいなのは常に心にあったのだと思う。

そして、アレハンドロ・G・イニャリトゥ監督だって、別にヒーロー映画憎しということだけを思って作ったわけではないと思うのだ。その証拠にほんの数秒間撮られた、爆発やら鳥の怪物やらのヒーロー映画シーンがめちゃくちゃ恰好良い。そういうところで本気を見せてくるのずるい。ヒーロー映画撮って欲しい。

憎いものは同時に愛しいものでもある。過去の自分まで嫌ってしまったら可哀想。自殺をしようとして、結局鼻をふっとばし、病院で目覚めた時の包帯姿がどう見てもバードマンのマスクをかぶっているようになってしまい、どうしたって離れられないのがわかったはずだ。お前と離れたくて撃ったのに、死ねもしないし、結局同じ姿になってしまった。だから、決別するよりは受け入れたのだと思う。下手にもがくのをやめて、大人になった。

それでも、新しい一歩を踏み出すために何かをなくしたような切なさが残る。ただ、その切なさは嫌なものではなく、胸がきゅんとするような甘酸っぱいものだ。そして、晴れ晴れしさと清々しさも感じて…。
映画が終わった後、そんな気持ちになった。これはなんだろうと思ったけれど、青春映画を観た後の気持ちに似ているのだ。
主人公がおっさんだけど、青春に年齢は関係ない。

主演のマイケル・キートンはかつてバットマンを演じた俳優という配役がおもしろい。エドワード・ノートンもハルクを演じていたし、エマ・ストーンも『アメイジング・スパイダーマン』のヒロイン役だ。

エドワード・ノートンがすごく良かったです。自分勝手で自由奔放で奇抜な役者役で、実際に近くにいたら大変な迷惑を被りそうだけど、魅力的だった。かっこいいエドワード・ノートンを見たのは、久しぶりかもしれない。
特に、エマ・ストーンとの屋上のシーンが良かった。

エマ・ストーンは屋上の柵というか、いまにも下に落ちそうなところに外向きで座っている。エドワード・ノートンはその横に、柵に寄りかかるようにして立っている。だから、エマ・ストーンのほうを向くと体が半分ねじれるのですが、その姿がセクシーでした。
たぶん、撮り方があれだけ凝っていたので、エドワード・ノートンが一番セクシーに見える角度が追究されていたのだと思う。

カメラは飛行シーンでは一層ダイナミックな動きをしていた。マイケル・キートンを追いかけるように後ろから、そして飛んでいるので、下に回ってあおるように撮ったりする。
最初、カメラはバードマンの目線なのかなとも思ったけれど、バードマンはバードマンで出てくるので違いそう。

あと、最初のタイトルなどが出る時、ABCとアルファベット順に文字がぱらぱらぱらと揃っていくのも恰好良かった。緊迫感のあるドラムに合っていた。

口八丁手八丁、適当なことを言って役者を持ち上げ、その気にさせるやり手のマネージャー役でザック・ガリフィアナキスが出ていた。痩せただけでなく、まるで別人で、最初気づかなかった。トッド・フィリップス系とは違う演技を初めて観たけれど良かった。『デュー・デート』でヒーロー俳優RDJと共演してるというのに意味はあるのだろうか。
ちょっとひねりの利いた事を言いながら、しっかりと気もきかせているというマネージャーの鑑。映画がシリアス過ぎないのは彼のおかげもあったような気がする。くすっと笑えるシーンがところどころに組み込まれています。

世界37カ国で劇場No.1ヒットを記録してるし、アニー賞では作品賞を受賞、ゴールデングローブ賞でもアニメ映画賞を受賞、アカデミー賞長編アニメーション部門でもノミネートされていた本作が日本では公開されないのである。
つくづく、特殊な土壌なのだと思うし、残念でならない。前作はちゃんと映画館で上映されていたけれど、よっぽどお客さんが入らなかったのだろうか。
そんな本作が東京アニメアワードフェスティバル2015にて一回限り上映されることになり、運良く当選したので観てきました。

結果、なんで公開されないのかがますますわからなくなった。深読みしようと思えばいくらでもできるけれど、基本的なテーマは友情とか平和とか冒険とか、誰が見てもわかるシンプルなものである。前作と同じです。
その中にほろ苦さが加わっていて、大人でもめいっぱい楽しめる。
変に複雑に凝ってないのがTHE王道という感じで恰好いい。

時々、なんで公開されないんだ!とか、こんな小さなスクリーンで!とか怒ったあとで、実際に本編を観て納得してしまうような作品もあるけれど、『ヒックとドラゴン2』の場合は余計に憤った。

今回、ブルーレイかDVDでの上映だったようで、画面がスクリーンより一回り小さかった。あと、本物だともっと色も鮮やかだったのだろう。
ジェイ・バルチェル、ジョナ・ヒル、クリストファー・ミンツ=プラッセ、クリステン・ウィグなど、セス・ローゲンとジェームズ・フランコでも出てきそうなメンツとジェラルド・バトラー、クレイグ・ファーガソンなどの声優陣も魅力的だったけれど、吹替でした。別に日本語でもおかしなところはなかったけれど、オリジナルでも観てみたい。
そして、もう最初から、びゅんびゅん空を飛び回るのがすごく気持ちがいいので、飛行と相性のいい3Dでも観てみたいと思ってしまった。

でもそれは贅沢な話で、映画館の音響で、大きなスクリーンで観られただけでも大満足である。特に、今回はたくさんの種類のドラゴンが出てくるので、それらの形や動きや色などを堪能するためにも大きなスクリーンのほうが見やすい。

最初の飛行シーンから、まるで自分もドラゴンに乗って、ヒックたちと一緒にいろんな場所へ行っているかのようにスクリーンに没頭、飲み物に手を付けるのも忘れるあっという間の102分だった。
気を抜いていられる時間が無い。

この没頭具合も、TVでも味わえるとは思うけれど、映画館のほうが上ではないかと思う。
どうか、一週間限定などの超短期間でもいいので、上映されますように。

以下、内容に触れます。ネタバレありです。










テーマは前作と同じで、わかりあえない異種との共存だと思う。前作での異種であるドラゴンとはわかりあえたので、今回はまた違った異種が出てくる。
ドラゴンを悪と考えているドラゴンハンターです。当然、ドラゴンと共存をしているバーク島の人々は敵視される。

前までならば、バーク島の人々だって、ドラゴンと戦っていたから、ハンター側だっただろう。けれど、今作は主人公のヒックも明らかに成長しているし、数年経っていそうだ。その間に、人々とドラゴンとの絆も深まったのだ。未見だけれど、TVシリーズでこの辺の事は描かれているのではないかと思う。多分、試行錯誤もあったのだろう。でも、映画が始まる時点では、島の人々はドラゴンと仲良しなのだ。平和そのものである。

途中で、“善良なドラゴンもボスが悪ならそれに従ってしまう”という言葉が出てくる。だいぶ、野性的なようでいて、これも人間にも当てはまるようだとも思った。なんとなく、戦争が始まる構図を観ているようにも思えた。

それでも、暴力ではなく、対話で解決することだってできる。友情が最強というのは理想論かもしれないけれど、やっぱり観ていて感動するし、物語的にも盛り上がる。

前回失ったものがヒックの足なら、今回は父親を失うことになってしまう。しかも、父を殺してしまうのは操られているとはいえトゥースなのだ。
ただ、ここでヒックは少しトゥースを避ける描写はあるものの、操られていたのだから仕方ないと許す。ヒックがトゥースを攻撃してしまったら、結局逆戻りすることになってしまう。悲しくても許す。ドラゴンというのはそうゆうものなのだと、特性を考慮して、友情を持続させる。母の助言のおかげでもあるけれど、ヒックの行動も勇気があると思う。

ただ、もうそんな理屈っぽいことは考えずに、ただただぼんやり観ていても、飛行シーンは視覚的に本当に気持ちがいい。自分も一緒に飛んでいるようだし、「自由なんだ!」とヒックが叫ぶ時に、私も心からドラゴンに乗ってみたいと思ってしまう。人間には羽根がないけれど、ドラゴンに乗れば空が飛べるんだ。なんて素敵な事なんだろう。そんなことを考えさせてくれるだけで、もう大満足の映画なのだ。

今回、巨大なドラゴンも出てきて、巨大なドラゴン同士が下あごの骨をぶつけ合って戦う様は、まるででかいカブトムシ同士の戦いというか、とにかくとても恰好良い。
ゴジラのときもそうだったけれど、大きいものは大きいスクリーンで観ると、でけー!とぼけっと口を開いてしまうような迫力を味わえる。

あと、たくさんのドラゴンのいるシーンでは、その広さを出すためにカメラがぐっとひく。そんなときに、細かいところまで余すところ無く観るためにもスクリーンは大きいほうがいい。

遠くにたくさんのドラゴンたちが飛んでいる映像は、カラフルなものがひらひらしていてまるで蝶のようで綺麗だった。
他にもドラゴンはいろんな動物に見える。
顔をペロペロなめるのは犬のよう。懐いているのがよくわかる。
前作のときに猫っぽいと言われていたけれど、顔を拭う様子はまさに猫でした。あと、ボスに従っているときの、黒目が縦に細くなるのはまさに猫の目でした。

今回、人間よりもいろんな種類のドラゴンが多く出てくるけれど、前作で出てきた人間のキャラクターも成長して出てきます。アスティ、かなり美人で魅力的になっていた。前作だと結構いじわるな子だった印象だけど。たぶん、それぞれの専属ドラゴンと仲良くなる様子はTVシリーズで描かれていると思うので見たい。

あと、ヒックの鎧というか、ドラゴンに乗る時のコスチュームのギミックが恰好良い。降下する時のグライダーのような羽根! 今回では特に出てこないけれど、前作では器用なところを見せていた。両面使えるライトセーバー状の武器にも驚かされた。

本当に、次々と驚くシーンが出てきて、目を見開いてしまったり、ぽかんとしてしまったり、笑ったり泣いたり、こちらの表情も忙しくなってしまう。
こんな、わくわくする気持ちが最初から最後まで、ずっと持続する映画はなかなかない。
もうDVDのリリースも決まっている作品なので、映画館での上映は難しいのかもしれないけれど、どうにか実現してほしいです。



エディ・レッドメインがアカデミー賞で主演男優賞を受賞。スティーヴン・ホーキング博士を描く伝記映画だけれど、そのパートナーであるジェーン・ホーキングについてもしっかり描かれていて、ジェーン役のフェリシティ・ジョーンズも主演と言えると思う。
こちらも、『イミテーション・ゲーム』と同じく、脚色賞、作品賞、作曲賞など全5部門ノミネート。
以下、ネタバレです。







タイトルや予告から、ホーキング博士の病気発症の影でパートナーが献身的に支え続け、影ながら博士を成功に導く話なのかと思っていた。
しかし、そんなに単純な話ではなかった。

序盤はラブストーリー。博士とジェーンの出会いと、私が好きな恋に落ちる瞬間が描かれていた。
メイボール(May ball)はプロムの5月版みたいな感じでしょうか。字幕では舞踏会となっていた。
二人は皆が踊っている輪には入らないんですが、少し離れた場所の橋の上で抱き合う。カメラが上に移動していくと、橋の下をゴンドラが通っていく…。画面作りが丁寧で美しい。ロマンティックで完璧。他の騒がしい人たちや楽しんでいる人たちがモブに見える二人だけの世界。

でも、病気の進行とともに、次第に相手を好きとか大事に思うだけではどうにもならなくなってくる。
子供二人(途中で三人になる)とただの病気ではないALSという難病の夫の世話を一人でするなんて到底無理なんですよね。
フェリシティ・ジョーンズは『Cemetery Junction』で初めて見て、お人形さんみたいで可愛いと思っていて、今回も序盤は本当に可愛らしい。ワンピースも良く似合います。
でも、その表情がどんどん曇り、歳もとっていくから当たり前だけれど、覇気がなくなっていく。常にイライラしているし、追いつめられている様子だった。鬱病気味でもあったのかもしれない。

途中でジョナサンというジェーンの賛美歌の先生にお手伝いに来てもらうけれど、もしかしたらこの時点で、博士はいずれはジェーンのことも頼みますといった気持ちもあったのかもしれない。

肺炎を起こして、医者に安楽死をすすめられたけれど、結局声と引き換えに人工呼吸器を付けるという選択を、博士は最初は恨んだのかもしれない。
文字が表示されたボードを持ったジェーンと博士が対峙するシーンが泣ける。ジェーンだって声を奪おうとしたわけじゃない。必死でコミュニケーションをとろうとしても、いじけたかのように見える態度で拒否する博士の行動もわかる。ショックだったのだろう。

そんな博士も看護士とはちゃんとコミュニケーションがとれるんですよね。当たり前だけど、これはプロだから。
でもじゃあ、ジェーンはどうしたらいいのか。

もう、愛してるだけではどうにもならないのだ。好きでも、どんなに相手を思っていても、それだけではこえられない問題がでてきてしまう。
自分が相手にできることの限界まで尽くしても、相手の希望にはそえない。
自分は相手ではないから、相手の望むものすべてを与える事はできない。
これは、ラース・フォン・トリアー監督の『ニンフォマニアック』でも同じようなことが描かれていた。「虎のエサをあげるのを手伝ってもらおうと思うんだ」と言った後で、ジェロームが泣くシーンを思い出した。
別に嫌いになったわけじゃなくても、一緒のいることで相手を苦しめてしまう関係というのが存在する。

最後のセミナーのシーンで、博士は落としたペンを拾ってあげる想像をする。自分がもし立ち上がれたら…と考えて、でも、命があることに感謝をするスピーチをするのだ。あの時に、医者にすすめられるがままの措置をしていたら、博士はいなかった。だから、その場にジェーンはいないけれど、いまの自分があるのは彼女のおかげだとはっきりわかっているのだ。
その上で、結婚生活には終わりを告げるという選択は、切なくもあり、それでも最良と信じての行動だったと思う。

最後まで観た後で、そのメイボールのシーンは最後に撮影されたというのを読んで、驚いた。主演の二人はすべて演じた上で、あの抱擁をしたのだと考えると、あのシーンから伝わってくる想いの深さのようなものの理由が改めてわかった。

最後に文章で、ジェーンも博士号を取得したと書かれていた。劇中でも、勉強をしているけれど、他の用事で中断されるというシーンがあった。あのまま結婚生活を続けていたら、ジェーンは自分の夢は諦める事になっただろう。あくまでも、影に隠れたままだったと思うのだ。

恋愛特化のラブストーリーというよりは、人間関係の話だと思う。人と人の気持ちは複雑で、綺麗ごとだけではない。
だけれども、それをどろどろと描きはせずに、丁寧に美しい映像でエレガントに作ってあるのがこの映画のいいところだと思う。ヨハン・ヨハンソンのピアノのメロディーも切なくうっとりするものだった。

エディ・レッドメインは主演男優賞も受賞しているし、予告などで少し観ただけでも、他では見られない演技をしているのがわかると思う。でも、それと同じくらい、フェリシティ・ジョーンズも素晴らしかったです。

前半の博士の学生時代の友人役でハリー・ロイド。恰好良いけれど意地悪そうなのがいい。この人もマシュー・グードと同じく厭味なインテリが似合う。
後半、看護士エレイン役にマキシン・ピーク。それほど出てこないけれど強い印象が残った。BBCのドラマ、The Villageでジョン・シムの奥さん役の方。

イギリス映画らしく(?)、ドクター・フーネタが盛り込まれていた。
一箇所は気づかなかったんですが、「Doctor…Who?」というセリフがあったらしく、私はたぶん字幕を読んでいたので、「医者?誰?」くらいの印象だったのだと思う。
もう一箇所は、声を出せなくなった博士が指を動かしてカスタマイズPCに文字を入力し電子の音声を手に入れたシーン。電動車いすをびゅんびゅん走らせながら、段ボールを頭から被り、「Exterminate!」とダーレクの真似をする。
本当にやったのか、映画だけの話なのかはわかりませんが、博士はSF好きらしいので、本当の事なのかもしれない。
機械の音声を手に入れたらたぶん私もやるだろうなと思うし、親近感を憶えた。
それと同時に、ドクター・フーがイギリスの国民的TV番組なのが実感できました。


1987年初演のブロードウェイミュージカルの映画化。
監督は『シカゴ』や『NINE』などミュージカル映画お手の物のロブ・マーシャル、衣装はコリーン・アトウッド、予告編での雰囲気も良さそうだったので期待していました。

以下、ネタバレです。








ポスターなどに“おとぎ話のその後”と書いてありますが、その後が描かれるのは後半で、前半はおとぎ話が組合わさった群像劇です。赤ずきん、シンデレラ、ジャックと豆の木、ラプンツェルと、それを繋ぐのがパン屋の夫妻と魔女。
元々のミュージカルを見てないからわからないんですが、つめこみすぎてすべての物語がちゃかちゃかしてて、でも対して盛り上がらないままフェードアウトしていく。でも、元のミュージカルと脚本は同じ方らしいので、ミュージカル準拠なのかもしれない。もしかしたら、ミュージカル版はもっと長くてちゃんと描かれていたのだろうか。

どれも元の話は知っているから、大体どうなるのかはわかるんですよね。赤ずきんとおばあさんはオオカミに食べられても助けられる、シンデレラは靴を忘れ、でもそのサイズにより誰がシンデレラだったのかがわかって王子と結婚する。
それを改めてしかもさわりだけざっと見せられても、よっぽどおもしろい見せ方でないかぎり退屈なのだ。

そして、中盤でシンデレラの結婚式を観てる途中でジャックが倒した巨人の妻が襲って来て、一気に話のトーンが変わる。明るかった世界も巨人にめちゃくちゃにされてしまう。
一応ここからが“その後”なのだと思う。
それならいっそ、“その後”だけでも良かったのではないかとも思ったけれど、前半の内容が少し関わってくるからそれでも駄目なのだ。

後半は巨人を探索して倒すという話なんですが、森の中なのでずっと暗い。シンデレラもドレスではない。赤ずきんもずきんをあげてしまってオオカミの皮をかぶっているから灰色い。
地味だし、登場人物はその中を右往左往しているだけで退屈になってしまう。

そんな中で、メリル・ストリープ演じる魔女がやけくそになったように『Last Midnight』を歌うシーンは派手で迫力があった。
“また豆を無くしたわ、私を罰して”とか“最後の夜よ”とか“豆の木から大量の巨人が来るわ”などとまるで呪いをかけるかのように嬉々として歌い、他のみんなが怯えているのが最高だった。
なので、いっそのこと、その通りに巨人がたくさんきて、みんなめちゃくちゃにして終わるのなら良かった。
結局、歌ったあとで魔女が退場するだけで、特になにも起こらない。

もう一つ良かったのは、前半でシンデレラの王子とラプンツェルの王子という兄弟が水辺で歌っているところです。自信過剰な歌詞と、何故か歌いながら胸をはだけていておもしろかった。二人ともあほうだった。

シンデレラの王子役のクリス・パインはやっぱり王子役が似合っていた。けれど、「僕がチャーミングすぎるから?」という予告にあった字幕は、魅力が云々という違ったものに変わっていた。チャーミングが魅力に訳されるのはいいんですが、チャーミングっていう言葉が持つニュアンスって日本語だと魅力とはまたちょっと違っていて、でもクリス・パインはまさしくチャーミングだったのでそのままが良かった。ただ、そのセリフが出て来るのが、妻(シンデレラ)ではない女性を口説いているシーンなんですね。チャーミングというと、若干ふざけたニュアンスが加わるけれど、ふざけている場合ではないのかもしれなかった。

ただ、ここで王子に口説かれてきゅんきゅんしているパン屋の妻はとても可愛かったので、もう後半はパロディならいっそのこと、王子とパン屋の妻、パン屋の夫とシンデレラでくっつけるとか、細かい事はいいんだよの『魔法にかけられて』形式にでもしてほしかった。
でも、前半でパン屋の妻は赤ちゃんを望んだわけだし、無事にその願いが叶えられた今、そんなことはできないのだろう。

だからといって、そのまま崖に落ちて死ぬというのはどうゆうことなのだろうか。罰なのだろうか。
罰だというなら、前半で牛を騙して買うとかラプンツェルの髪を勝手に切るなどは罰せられないのだろうか。自分たちの欲望だけのために動き過ぎではないか。それとも、それも含めての罰だったのだろうか。

見回りに行っていたジャックがパン屋の妻のスカーフをつけて帰って来て、パン屋の夫が「それをどこで?」と聞くのも不自然に感じた。
普通なら、知っている人が死んでいたらまずそのことを報告するだろう。ましてや、いいもの手に入れた♪というような感じで、死人の首からスカーフを奪って自分でつけているとかどうかしている。貧乏という設定をここで生かしたのだろうか? それとも、劇中でバカだと言われていたけれど、本当にバカなのだろうか。

ラプンツェルも途中でフェードアウトしていたけれど、パン屋の夫の妹らしいんですが、そのことを本人たちは知らないままだった。回収されない伏線はいらない。無理矢理絡めたかっただけに思える。

一応、複数の童話が混じっているので群像劇なのだとは思う。群像劇はそれぞれの人間がいろいろなことを考えていて、その結果起こる化学反応みたいなのが醍醐味だと思っているけれど、この映画の場合、逆に、起こる出来事に対してキャラクターが動いているように感じた。都合がいいだけだから、行動に一貫性がなくちぐはぐ。ただ、話の進行に合わせて動く駒のようだった。だから、行動が唐突に感じたし、誰にも感情移入出来ない。

普段、群像劇が好きなので、余計にその雑さが気になってしまった。
『イントゥ・ザ・ウッズ』の感想で、“批判をしている人はこれが『スウィーニー・トッド』と同じソンドハイムが作った事を知らないのでしょう”と書かれていたけれど、ソンドハイムは作詞作曲である。『Last Midnight』なんかはまさに『スウィーニー・トッド』風だと思うけれど、それは好きでした。脚本は違う人です。

シンデレラとか赤ずきんとかそもそも童話の登場人物に一貫した行動とか人間性を求めるのがいけないのかもしれないけれど、人間性を感じさせる人物=パン屋夫妻と絡む時点で、唐突に動いていたら不自然になる。

でも、最後のほうで、「赤ちゃんに物語を読んであげて」という死んだ妻の声が聞こえて、パン屋夫はこの映画の冒頭部分を読み始めるんですね。まさかとは思うけれど、すべて、パン屋夫の創作なのだろうか。

呪いを解く形ではなく、現実でやっと子供を授かった夫妻の妻がなんらかの事故か病気で死んでしまい、一人で子育てをするために生み出したのが今回の『イントゥ・ザ・ウッズ』なのだとしたら。
そしたら、雑で稚拙な群像劇にも納得がいく。伏線未回収も納得だ。
だってほら、パン屋夫妻だけ童話の人物ではない。これはあやしい。

途中でジャックが金貨を持ってくるのですが、抱えるくらい大きいけれど、まったく重そうではないという学芸会の小道具みたいな安っぽさでそれも気になっていたのですが、創作ならば嘘っぽくてもいい。

それくらいしか、いい理由が見つからなかった。有名なミュージカルらしいのできっとおもしろいのだと思うけれど、映画を観た限りでは、雑さばかりが目立った。

ジョニー・デップが予告で大きく出てくるけれど、彼は友情出演のような感じで出番はそれほど多くない。一人だけキャッツみたいな感じで人間がオオカミメイクをしているので、赤ずきんの話以外では誰とも絡めないような浮きっぷり。ジャックの連れている牛は人間ではなかったし。一人だけ映画ではなく演劇の人のようだった。
でも、赤ずきんを食べちゃいたい歌は低音の掠れたような声でセクシーでした。

コリーン・アトウッドの衣装も相変わらず良かったです。赤ずきんのずきんがケープと言うよりはノースリーブのようになっていてちょっと変わっていた。若返った魔女のぼわんぼわんした派手衣装も彼女ならでは。




2014年公開。スペインでは2013年公開。
イライジャ・ウッド主演なのでアメリカ映画だと思っていたけれど、スペインのエウヘニオ・ミラ監督作品。

映画は、ほとんど一つの演奏会が舞台になっていて、作りがおもしろい。おそらく低予算映画だと思うんですが、これもアイディアだと思う。そして、ほぼノンストップで進んでいくので緊張感が持続する。

最初は久しぶりの演奏会という緊張感だけだった。しかし、ステージが始まると、何者からか脅迫されながらの演奏となって、さらに緊張感が増す。
何者なのか、その目的は…などの謎解きも加わっていく。

ただ、演奏者本人が脅迫されながら謎解きをしていくので、どうしても、一人だけがせわしなくなってしまう。
不安そうな顔をするのはもちろん、きょろきょろしたり、影でメールを打ったり、自分の出番ではないときに立ち上がってステージから立ったりする。

明らかに不審だし、客席も気づくだろうし、何より同じステージにいる指揮者やオーケストラの人たちは普通に演奏を続けているのが不自然に見えた。

後半、アンコールのときに、客席にいる自分の妻に歌わせて、自分はステージから離脱し、犯人を追いかけ、結局ステージ上部から落下してくるというシーンがあった。思わず笑ってしまったんですが、会場のお客さんたちは騒然、急いで逃げ出していた。

確かに、私もその場にいたらそういう行動をとると思うのだ。
では、なぜ爆笑してしまったのだろう。どうも途中から、あんまりシリアスに見る事ができていなかったのだと思う。

今から思えば、他の人たちは平然としている中で、主人公一人だけあわあわしている様子もコントでよく見る風景に似ている。
人も殺されるけれど、凄惨なシーンをわざと避けるようにして撮られている。首を切るシーンが、コントラバスの弦を引くシーンに入れ替わったり、死体が出てきても血塗れとか目を背けたくなるようなショッキングなものではなかった。だから、映画内で思っている事の重大さが実感出来なかったのかもしれない。
ちなみに殺される主人公の友達役にアレン・リーチ。『ダウントン・アビー』の運転手ブランソンですね。『イミテーション・ゲーム』に続きここにも出ていた。彼は三枚目役をよくやっている俳優さんなのかもしれない。

彼の行動も常軌を逸していた。ステージ上で演奏している主人公から携帯に電話が入り、おなしいなステージ中なのに、と思いながらかけ直していた。ここまではわかるけれど、そこで主人公が出た時に、普通に話を続けようとしていた。ステージ上で演奏している人と、携帯で話そうとしていた。

演奏会が続いているという手法はおもしろいものの、ところどころで普通はそんな行動をとらないのではというのが出てきてしまい、うまく入り込めず、一歩引いたところから観賞していた。

難曲の最後のフレーズを間違えずに弾くと、それがキーになってピアノの中に隠されたスイス銀行の鍵が取り出せる、という仕掛けもオートマタのようでおもしろかった。まったく悪くはなかったけれど、何かが少し足りないと思ってしまった。

映画内で出てくる難曲“ラ・シンケッテ”は、ピアノをやっている人なら知っている幻の曲だったりするのかと思っていたけれど、監督のエウヘニオ・ミラが作曲したらしい。多才である。



ベネディクト・カンバーバッチ主演。アカデミー賞主演男優賞にもノミネートされていました。
他にも、美術賞や作曲賞など、8部門ノミネート。脚色賞を受賞したグレアム・ムーアのスピーチも話題になった。

以下、ネタバレです。






これも実話なので、ネタバレも何もない。ただ、予告編を観た時に、タイトルの“秘密”が示しているのが、この映画の主役のアラン・チューリングが同性愛者であるという事実だったら嫌だなと思った。
結果的には、それも含まれつつ、暗号機エニグマの解読後も解読ができたことや、ソ連のスパイが誰か知ってしまったことなど、いろいろな秘密が出てきたので複合的な意味だとも思う。
でも、邦題のサブタイトルの通り、“天才数学者の秘密”としてしまうと、同性愛者のことしか指していないようになってしまう。
『シェフ』もそうでしたが、おそらく検索しやすいようにだと思うけれど、サブタイトルで首をひねってしまった。
また、同性愛者であるということは知っていたので、それが最後にバーンと明かされて驚愕のまま終わるみたいな展開だったら嫌だと思っていたけれど、ほぼ序盤で明かされたので良かった。

実話でシリアスなものだし、アラン・チューリングは過酷な運命を歩んで来ているけれど、決して映画が真面目で説教臭いものになっていないのがいい。
暗号解読にいたるまでも、ミステリー仕立てになっているのも良かった。また、コミカルなシーンもあるし、ドラマティックに切なく仕上げられている。

おそらく、脚色賞を受賞した小説家グレアム・ムーアの脚本がいいのだと思う。
彼のアカデミー賞でのスピーチも良かった。

“自分は変わり者で居場所が無いと感じている若者たちへ。あなたたちには居場所があります。だから、そのままで大丈夫。いつか輝く時が来る”

彼自身もオープンリーゲイだそうで、16才のときに自殺未遂をしたらしい。だから、自分と重ねているところもあると思うし、彼が壇上でこのスピーチをしたことで、勇気をもらった人も多いはずだ。

このスピーチが素晴らしすぎて、映画中に何度も思い出してしまった。映画で述べられているテーマはまさにこのことなのだ。
変わっているからといって、自分を卑下することはない。そして、みんなに合わせようとしなくてもいい。あなたにだけできることが必ずある。

アラン・チューリングを演じたベネディクト・カンバーバッチの演技は良かったけれど、彼を追いすぎるあまり、ベネディクト・カンバーバッチアイドル映画のようにもなっていた。いろいろなベネディクト・カンバーバッチが見られる。アップも多かったと思う。彼の良いところとか魅力を余すところ無く伝えようとしているのがわかった。
おそらく、現時点での代表作になると思う。

言われた事をそのまま受け取って、周囲を呆れさせるような返しをしてしまう素っ頓狂な様子。興奮して吃りながら矢継ぎ早に話す様子。警察の取調室での表情は、感情をすべて殺しているようで、無表情、目は青いビー玉のようだった。でも、個人的にはこのシーンのベネディクト・カンバーバッチが一番好きでした。そして、薬物治療により、やつれてしまった様子…。家に置いてあるコンピュータを過去に好きだった人と同じクリストファーと名付け、まるで人のように扱っている様が切なかった。

映画内では、アラン・チューリングが学生時代のエピソードも出て来るのだが、演じている役者さんは違っても、同じ人物なのだというのが伝わって来たのだ。違う人が演じていると、同じ人間としては見られないこともある。しかし、この映画の場合、部屋のクリストファーと離れたくないと悲痛な声をあげて泣く終盤のシーンで、彼は学生の頃から気持ちは変わっていない、一人の人間なのだというのが伝わって来た。
映画内で観た、学校でいじめられたシーンやクリストファーが助けてくれたシーン、暗号解読などで親交を深めたシーンなどが一気に思い出された。それが積み重なって、エニグマを解読したアラン・チューリングになったのだ。一人の人間の一生。
学生時代を演じたわけでもないのに過去すら感じさせるのは、やはりベネディクト・カンバーバッチの演技がうまいということなのだろうと思う。

ジョーン・クラークを演じたキーラ・ナイトレイも良かった。部屋で「あなたがいたおかげで世界は少し素晴らしくなった」と伝える場面も良かったのだが、クロスワードパズルが得意な女性というのが良かった。暗号解読チームに抜擢されるくらいなので、ずば抜けて得意なのだ。ジョーン・クラークも女性としては変わっているのだと思う。
アラン・チューリングが彼女の指導役みたいな感じになっていたけれど、おそらく、自分の姿を見るようにして指導していたのではないか。

暗号解読チームでは他に、すごく見たことがあるけど誰だかわからなかったのが、アレン・リーチ、ダウントン・アビーの運転手ブランソンだった。少し太ってました。
あと、マシュー・グードは相変わらず厭味なインテリが良く似合う。ハンサムで顔が小さく、姿勢がいいからだろうか。
癖のある上司役にマーク・ストロング。彼も相変わらずだけど、声が素敵。電話をするシーンがあるけれど、彼の声を耳許で聞いてみたい。それほど出番は多くはないけれど、存在感は抜群だった。

アカデミー賞美術賞にもノミネートされていたけれど、エニグマを解読する機械が恰好良かった。暗号のパターンをためすために、ダイヤルが一斉にまわる様子が美しい。実際の機械をかなり忠実に再現しているとのこと。

アイアンマンの監督、ジョン・ファヴローが主演、監督。ジョン・ファブローということで、スカーレット・ヨハンソン、ロバート・ダウニーJr.も出演。ダスティン・ホフマンも出てます。
以下、ネタバレです。







“三ツ星フードトラックはじめました”と言うわりには、フードトラックが全く始まらない。わりと序盤で屋台の話は出てくるし、息子も夏休みがもうすぐだとかニューオリンズに行きたいなどと言っていたから、すぐにでも屋台興業が始まるのかと思った。
でも、考えてみたら、原題は『CHEF』だけであり、“三ツ星フードトラックはじめました”は勝手に付けられた邦題なのだ。別に、フードトラックが話の中心ではない。

“口出しするオーナーと対立し、店を辞めてしまう”と某所に書かれていたけれど、そんな簡単な理由ではない。そこに至るまでの色々もおもしろかったし、時間をはかっていたわけじゃないからわからないけれど、店を辞めるまでに映画の1/3は終わっていたのではないかと思う。

辞める理由になったのは、結果的にオーナーと対立しただけで、もともとの原因を作ったのは自分である。ああ、でも最初にカリスマブロガーが店に来る時に、新メニューを出したいと言ったのにオーナーが通常メニューで行けと言ったから、やはりオーナーのせいなのか。

とにかく、いやに現代的な理由なのですが、シェフの働く店にブロガーが訪れ、酷評する。それをTwitterで拡散される。シェフはTwitterをやっていなかったけれど、息子に教わりつつ、アカウントを取得する。
ここからは、Twitter初心者が陥りがちなことというか、Twitterを使う上での悪い例が立て続けに出てくる。その都度、息子が正しいやり方を教えてあげる様は、Twitter初心者向け、使い方講座のようになっていた。
初心者(シェフ)が何か典型的な間違った事をやらかして一時停止、ブッブー!という警告音とともに、画面に大きな×印が出てきてマスター(息子)が間違いを訂正するといったイメージ。こんなわかりやすい教則ビデオみたいなことにはもちろんなってません。

でも、シェフの行動がいちいち酷くて、自分の名前でエゴサーチする→ブロガーのアカウントを見つける→ブロガーに@をとばして汚い言葉で煽る→炎上といった具合。息子に、みんなに見られたくないことは@じゃなくてダイレクトメッセージにしないと!と怒られる。

その炎上がきっかけで店でシェフとブロガーが対決することになり、それを見ていたTwitter市民が感染するため店に来る。結局料理以外の事で対決する事になってしまうけれど、もちろん、インターネットの人たちだから、iPhoneなどでその様子を撮影する。そして、動画サイトにあげて、更に炎上。
結果、店にいられなくなる。なんというか、今どきっぽい理由。ならでは、ですね。

やりとりも面白かったし、セリフも粋だったけれど、ちょっとだらだらとはしていた。店を辞めたときに、やっとフードトラックか!と思った。
サブタイトルに“フードトラックはじめました”が付いてなければ、いままでの会話の中で何度か屋台の話が出ても、それほど気にしてなかったと思う。サブタイトルを意識して観てしまったために、どっちにしろ屋台をはじめるんでしょと思いながら観てしまった。付けないでほしかった。

後半というか、店を飛び出し、元妻に誘われてマイアミに行ってからは、急に話が動き出す。いままでほとんど会話劇のようになっていたのが嘘のよう。
マイアミのリトル・ハバナの異国情緒溢れる風景も良かった。妻の父のライブも楽しかったです。ラテン音楽の演奏されているバー、行ってみたい。
そして、屋台を入手し、マイアミからニューオリンズを経由してロサンゼルスまでの旅が始まる。急にロードムービーになる。
ニューオリンズのベニエも、その先の町で出てきた熟成肉みたいなのもおいしそうだった。

Twitterマスターである息子が、屋台のアカウントをとって、宣伝をしていて、シェフとかつての相棒がまったくそれを知らないまま人気者になっているというのは、『FRANK-フランク-』を思い出した。
動画はinstagramではなくvineなのはアメリカ人な感じがした。前半でのマスター具合が後半でも生かされているのは、ちょっとした伏線回収。というよりは、全体的にインターネットが関わってくるストーリーだということか。

ラストは、ちょっと丸くおさまりすぎというか。すべての問題が片付いてしまった。
ただ、最後もラテン音楽で踊っていたので、暗い要素が一つでも残ってしまうとこのハッピーさは出ないだろうと思った。それに、最近殺伐とした映画ばかり観ていたので、こうゆう終わり方もまあいいかと思ってしまった。
だいたい、シェフの元妻も現ガールフレンドも両方とも、美人でセクシーで完璧な女性だというところからして…。

料理の映画なので、すべての料理がおいしそうに撮られているけれど、これはもうタイトルが『CHEF』のため当たり前。
ただ、新しく食材を仕入れたり、料理が出来上がった時に、必ず自分でも試食するんですよね。その、食べ物を口にふくんだときの、感心するような、恍惚としているような表情がたまらない。食べてみたくなった。特に、キューバサンドは作ってみたくなった。

あと、料理を作るシーンで必ずラテン音楽が流れるのもいい。シェフなので、手際がいいのでラテン音楽が合う。まるで楽器を演奏しているようにも見えた。

『嵐が丘』


2009年、イギリスiTVで放送されたエミリー・ブロンテ原作の『嵐が丘』のドラマ化版。全二回。70分弱ずつなので、それほど長くはありません。主演のトム・ハーディ目当てで見ました。

原作は読んでいないのですが、最初と最後にヒースクリフやキャサリンの娘や息子の話が入っているのはドラマならではらしい。大枠はおそらく同じ。
原作が古典なので、ストーリーについて文句を付けるのは無粋かとも思うんですが、キャサリンが強い気持ちでヒースクリフと一緒になることを選べばこんなことにはならなかったのではないか。
普通のラブストーリーだと、家柄より先に、熱烈に愛した人がいるなら一緒になると思う。
結局、ヒースクリフを捨ててエドガーと結婚して、子供ができたあとも、ヒースクリフに対しての想いは変わらなかったみたいだし、一度結婚してしまったとしても、子供が出来る前にどうにかするとかできなかったのだろうか。
貴族でもないし、時代も国も違うので、事情もあるのだろうし何とも言えないですけども。なんとなく、キャサリンのずるさが際立って見えてしまった。
ラブストーリーではなくて、ヒースクリフの一生と考えればいいのかもしれないけれど、そうすると、ヒースクリフの悲惨さが際立ってしまう。

ヒースクリフを演じているのがトム・ハーディで、彼目当てに観たんですけれど、どうにもイギリス時代物のひらひらの衣装と長めの髪型が似合わない。別の映画の軍服姿は似合うので、コスプレ全般が合わないわけでは無さそう。

例えば、ベネディクト・カンバーバッチは現代劇でも時代劇でも合う。それは時代を問わない顔立ちだからかもしれない。でもジェームズ・マカヴォイは現代的な顔立ちだけれど、時代物の衣装も合う。

何故なのだろうと考えたけれど、もしかしたら申し訳ないけれど、生まれ持った気品みたいなものが備わっているか否かという点かもしれない。
あと、それと繋がってくる話でもあるんですが、トム・ハーディって何か存在が生々しいんですよね。手が届きそうというか。届かないですけど。その辺にいそうというか。いないですけど。
だから、時代物に出てくると、トム・ハーディがコスプレをしているようにしか見えないのだ。髪型もかつらに見えてしまった。本当のところはわかりませんが。
トム・ハーディはあくまでも現代の人なのだ。

それと、生々しい存在なのと、セクシーなくちびるなせいで、キスシーンが妙に性的になってしまうのも問題だと思う。普段だと問題ではないし、売りだとも思うけれど、時代物には必要がないし、気になってしまう要素だった。

最初に出演者のクレジットが出るんですが、そこにバーン・ゴーマンの名前が出ていて驚いた。キャサリンの兄役で、ヒースクリフに優しくしてくれた父親が亡くなったあとで、急に威張り出す、バーン・ゴーマンらしい役。先輩が卒業したら急に態度がでかくなる後輩みたいな感じ。ヒースクリフのことも痛めつけるけど、後半にはお約束通りやり返されます。
『ダークナイト・ライジング』におけるベインとダゲットの部下の関係とほぼ一緒。トム・ハーディとバーン・ゴーマンは『レイヤー・ケーキ』でも共演してました。案外何作品も共演してた。

リントン家のお兄さん役は、どこかで見たことあると思ったら、『ウォーキング・デッド』の主役、アンドリュー・リンカーンでした。
お父さん役はケヴィン・マクナリー。この人も見たことある…と思っていたら、ジョン・シムの『バンク・ジャック 襲撃の火曜日』に引退間近の刑事役で出ていた。
キャサリン役のシャーロット・ライリーは、画像検索したらほとんどトム・ハーディと一緒の写真が出てきて、何かと思ったら去年結婚していたらしい。



2010年公開。『プリデスティネーション』で気になったスピリエッグ兄弟監督作。
脚本も兄弟によるもの。『プリデスティネーション』は原作があったけれど、こちらはないのかもしれない。

レンタルでもホラーの棚に置いてあったし、ホラーといえばホラーだと思う。ヴァンパイア映画です。でも、夜道をヴァンパイアが徘徊し、人間が怯えて暮らす…というこのジャンルの普通の映画とは明らかに違っていた。
だから、ホラーだからと言って尻込みしてしまうのはもったいない。ただ、首は飛ぶし、血も大量に出てくる。襲い方はどちらかというとヴァンパイアよりもゾンビっぽい感じだった。内臓を食べるシーンもあります。
苦手度にもよりますが、ゴア表現はそんなに大したことはないので、普段ホラーは観なくても、『プリデスティネーション』をおもしろいと思ったらおもしろいと思えるはず。

舞台は今よりも少し未来。一匹のコウモリからウィルスが蔓延して、人類の9割がヴァンパイアになっていた。
まずこの設定からして他とは違っていて面白い。永遠の命などを求めて、自らヴァンパイアになるのである。ほとんど全員がヴァンパイアという、ヴァンパイアが普通の世界だから、尚更拒む人間も少ない。
ただ、ヴァンパイアの食料はご存知の通り、人間の血液なんですよね。ヴァンパイアが増え過ぎたせいで、食料不足に陥っている。なんとなく、現代社会にも通じるところがある。
駅のスタンドでは血液を混ぜたコーヒーを売っていて、通勤客が列を作ってるのですが、次第に混ぜる血液が減って来て暴動が起こったり。誕生日に、純度の高いボトル入りの血液がプレゼントされていたが、まるで、ワインのようだった。
だから、ヴァンパイア中心の世界とはいえ、ファンタジーというよりは、今の日常とそれほど変わらないため、すっと世界観が理解出来る。

主人公のエドワードは、その食料不足解消のために、代用血液の開発にいそしんでいる。このあたりも、途中で一緒に研究していた同僚が先に開発に成功して、上司が大もうけしようと目論むとか、現代の社会派ドラマにもありそうな感じになってた。

ヴァンパイアが飢えたり、ヴァンパイアの血を吸ったりすると、サブサイダーというモンスターのような存在になってしまう事実が途中でわかり、会社の会議などで話し合われているのですが、もうヴァンパイアがモンスターだという認識は本人たちにはないようだった。その辺の主観の変換も面白い。大多数が正義とは言えないけれど、きっと圧倒的な安心感はあるのだろう。

また、物語上、ヴァンパイアを悪としてしまうと悪が多すぎるので、更なる悪としてサブサイダーを出したのだと思う。『ウォーム・ボディーズ』でもゾンビの他に、ゾンビを襲うガイコツみたいなのが出てきていたけれど、それと同じような感じだろう。

血を吸うというのの他に、太陽の光に弱いというのもヴァンパイアの基本設定を踏襲している。電車は地下鉄であり、車も紫外線から保護するための改造がされている。
ナビではないけれど、「日中運転モード開始」とか「紫外線注意」などと喋る車でその辺がしっかり未来っぽい。その他にも、血液の研究施設や主人公の家など、日の光を遮っているせいもあるのかもしれないけれど、どことなく未来っぽい雰囲気を漂わせていた。

色合いも白っぽかったり、青や緑っぽかったりと無機質で冷たい感じのするものだった。また、ヴァンパイアのイメージというか、潔癖なまでの無菌状態のような清潔さも感じられた。不潔なヴァンパイアって中々見かけない。

対照的に、人間が出てくると日光の下だったり、室内であっても、照明が暖かみのあるもので統一されていた。

主人公エドワードを演じているのがイーサン・ホーク。エドワードは途中でヴァンパイアから人間に変わるのですが、イメージががらっと変わっていた。ヴァンパイアでは目の色が黄色だったり赤かったりする。髪型もオールバックで、服装ともにきっちりした印象だったけれど、人間になった途端、髪型も服装もラフなものに変わっていた。ヘアワックスも使わないし、ベストの前のボタンも開けたままなので、動いた時に乱れる。
ヴァンパイアのときは余裕というか、クール&スマートな印象だったけれど、人間になったらそのまんまですが人間味に溢れ、体温すら伝わってくるようだった。

『プリデスティネーション』でも、各時代によって印象がガラリと変わるような撮り方をしていて、今回も同じ印象を受けた。おそらく、独自の世界観を作り出すのがうまい方々なのではないかと思う。かっこいいです。

エドワードがヴァンパイア時代に、日中モードで走っていた車が後方から襲撃され、銃口から日の光が入ってくるシーンがある。まっすぐ走っていれば光から外れた場所に座っていればいいけれど、襲撃されているため、運転も荒くなる。カーブをすると、光の入り方が変わり、触れてしまうと火傷をしてしまうため、車内で必死で日光から逃げるというのが面白かった。普通に生活をしていたら、別に日の光が致命傷になることはないし、考えつかないことですよね。日光を遮った車が襲撃されたら? 日の光が差し込む車がカーブをしたら? そんなことまで考えているのが凝っていると思った。

キーマン役でウィレム・デフォーが出てくるのですが、いい場面をすべてかっさらっていく、ご都合主義的というか、ちょっとずるい役だった。でも合ってます。
エドワードの上司役にサム・ニール。さすがというか、どっしりと構えた悪役で、こちらも合っていた。

エドワードの弟、フランキー役にオーストラリアの俳優、マイケル・ドーマン。最初に兄の誕生日に特別な血液を持ってきたところから最後まで、ずっと、兄の事を考えて行動していた健気な役だった。目がくりっとしているルックスも魅力的。彼の出ている映画がもっと観てみたい。

やっぱりこの監督さんたち、配役もいいんですよね。この前の作品『アンデッド』も観てみたい。



イーサン・ホーク主演。
過去に戻って犯罪をくいとめる…と聞いていたので、『ミッション:8ミニッツ』みたいな感じかと思っていた。ポスターも似ていた。でも、『ミッション:8ミニッツ』は相当良くできた映画だったので、劣化版コピーのようになってしまうのではないかという心配をしていた。
結果的にはそれはとんでもない誤解でした。口コミやRotten TomatoesでのFresh 84%を信じて良かった。
タイムリープものではあるけれど、一癖も二癖もある。SFはSFなんだと思うけれど、CGなどはほとんど使われていない。予告編だとアクション映画のようだけれど、銃もほとんど撃たないし、アクション要素も少ない。

予想を覆された。ラストの衝撃度もものすごいので、ネタバレは絶対に知らずに観た方がいいと思う。

以下、ネタバレです。







オープニングは過去に戻って爆弾魔の犯行を食い止めようとするシーン。失敗するんですが、これから映画が始まるというところなので、まあ意外ではない。この爆弾魔との因縁ともいえる対決がこの映画の中心になるのだろうなと思っていた。

場面が変わって、イーサン・ホークがバーテンダーを演じる薄暗い場末のバーのような場所が舞台になる。そこへ訳ありっぽさぷんぷんの美青年が現れる。
レオナルド・ディカプリオ、エドワード・ファーロング、デイン・デハーン系の影のある顔だったけれど、声質からもしかして女性が男装してるのかなと思った。

そこから、その人が自分の数奇な半生についてバーテンダーに話し始める。「私が少女だった頃…、」という話し出しで、やっぱり思った通りだったと思った。幼い頃から喧嘩が強かったというようなことを話していたのと、この作品がWikipediaで“オーストラリアのLGBT関連の映画”というくくりになっていたことから、きっと性同一性障害なのだろうと思い込んでいた。

しかし、そんな方向へは話は進まなかった。しかも、二人の会話、というか、彼女がバーテンダーに話している時間がまったく終わる気配がない。
この映画は会話劇なのか? SFなはずではなかったのか? 爆弾魔を追ってるんじゃなかったっけ? これ、なんの話だっけ?

そう思いつつも、バーテンダーと同じく彼女の話に没頭する。孤児であり、気性の荒さのせいで友達もできず、養子にももらわれず、就職の面接で落とされ、出会ったある男性と恋に落ちるも、男性は消え、お腹には彼の赤ちゃんだけが残った。
もうここまでで悲惨なのですが、極めつけが帝王切開での出産時に命を落としそうになり、半陰陽(女性器も男性器もある)だった彼女は、男性化の手術をされてしまう。

命を救うためとはいえ、勝手な処置で取り返しのつかないことになった。望んで男性になったわけではなかった。
それでも、子供と一緒なら生きていける…と思っていた矢先、赤ちゃんが誘拐されてしまう。犯人はつかまらないけれど、おそらく消えた男、父親なのではないかと彼女は思ったし、私も思った。

腹には帝王切開の跡、おまけに胸に乳房切除の跡も残っていて、かなりショッキングな裸も映る。
一人きりで必死に男性の話し方をしようとするシーンがあるんですが、泣けてしまって仕方がなかった。
字幕だと男言葉になるだけですけれど、英語だと同じだけれど、話し方や声のトーンで男性っぽくするしかないんですよね。
最初は気丈に、男らしく自己紹介を繰り返している。けれど、何度か話すうちに、気丈な部分が剥がれ落ち、本来の自分の話し方に戻ってしまう。女性の話し方です。自分の心の性と体の性の不一致が起こっている。

バーテンダーに話してる時点では、もう男性的なふるまいにも慣れたと言っていた。それどころか、挑発するような目で、先日、射精ができるのがわかったとも言っていた。
カウンターからビリヤード台、テーブルと場所を変えながら話し込むうちに、心を開いたのかもしれない。二人が話している様子はまるでデートのようにも見えたし、彼(彼女)の表情は射精ができるようになったからためしてみるか?と誘っているようにも見えた。

でもセックスをするわけでもない。恋愛感情を抱いたわけでもなさそうだった。じゃあ、なんで、この人の半生を聞くシーンがこんなに長いのか。この人が爆弾魔で、これは因縁めいた会話なのか。

バーテンダーは彼女(彼)の話を聞き終えて、過去に戻ってお前の人生をめちゃくちゃにしたやつを殺せるとしたらどうするか?と問う。これは、最初にモノローグみたいな感じで出てきた言葉なので、ここから本編か!と思った。
そこで、ああこれは、笑ゥせぇるすまん的というか、世にも奇妙な物語的というか、不幸な目に遭った人が不思議な人に不思議な力を与えられるパターンか、と思った。話の中心は復讐だったのだ。
彼女(彼)を連れて過去へタイムスリップをする。物語が動き出す。二人の冒険が始まる! なんて、呑気な事を考えていた。間違っていた事がほんの数分後に明らかになる。

過去の彼女が好きになってしまったのは、紛れも無い彼本人だった。なんて残酷なんだろう。復讐すらも許されない。
本作のタイムリープルールでは、過去の遡って、本人に会う事もできるようだ。『時をかける少女』など、片方が現れるともう片方が消えるなど、同一人物が同時に存在できない場合が多いけれど。

バーテンダーは彼に選択肢はあると言って、自分は爆弾魔追跡へ戻っていく。
選択するのは自由だと言われたって、愛さずにはいられない。だって、一人きりなのだ。どれだけ孤独なのかは、自分のことだから自分が一番良くわかっている。誰からも愛されていないのに、自分までもが見捨てるわけにはいかない。

それでも、未来から来たのだからずっと一緒にいるわけにはいかない。バーテンダーが彼を連れて未来へ戻る。過去には彼女一人が残される。そして、お腹には赤ちゃんが…。

でもそれじゃあ、父親が彼だったということは、生まれた子供を誘拐したのは誰だったの?と思いながら観ていたら、バーテンダーが過去に戻って赤ちゃんを抱き、そのまま更に過去へ戻って、孤児院の前に置いていた。

そりゃ、両親なんていないだろう。全部自分なのだから。怒濤の如く明らかになっていく彼(彼女)の半生。前半に聞いた話の種明かしのようだった。
半生を聞いていた時点でも、悲惨だとかそりゃないよとか思っていたけれど、種明かしを見るとあっさりとそれを上回ってしまう悲惨さだった。
過去の彼女が愛したのも自分で、産んで愛しいと思い誘拐されて身を切られる想いをしたけれど、その子も自分だったのだ。
幼い頃に、家族に憧れて両親に想いを馳せた事もあるだろう。子供を産んで、やっと家族ができたとも思っただろう。すべて幻想だったのだ。永久に一人きりだったのだ。

タイムスリップで冒険なんて始まらない。時空をこえて、一人の人間が奇妙に繋がってしまっただけだった。

彼(彼女)はバーテンダーの“過去に戻って犯罪をくいとめる”仕事を引き継ぐことになる。バーテンダーは爆弾魔を捜すために、一人、最後の仕事へ出かけるためタイムスリップする。
ここでまた、そりゃないよ事象が上書きされる。爆弾魔は、度重なるタイムスリップで精神を病んでしまった彼自身だった。犯罪阻止のためによかれと思って任務を遂行していただろうに、結果的にこんなことになるとは。
バーテンダーは爆弾魔である自分自身を銃で撃ち殺すが、おそらく何年後かに彼も爆弾魔になってしまい、過去から来たバーテンダーに撃ち殺されるのだろう。

彼(彼女)だけでなく、バーテンダーもこんな因果に巻き込まれてしまった。ああ、やりきれないと思っていたら、憔悴しきったバーテンダーの裸に見覚えのある強烈でショッキングな手術跡が…。そういえば、序盤で任務失敗で顔焼かれて、整形手術してましたよね…。

最後の最後に、そりゃないよ事象が更に上書きされるとは思わなかった。層になったそりゃないよの一番外側だ。頭を抱えそうになった。

だから、バーで話を聞いていたときも、さも相談に乗っているような感じだったけれど、全部、経験してきたことだったのだ。経験してきたこと、つらい過去の記憶を自分の口から改めて聞くというのはどんな気持ちだったのだろう。
彼(彼女)がどんな気持ちで話していたかもわかるはずだ。つらい話でも、やっと人に聞いてもらえたというように、彼(彼女)の話は止まらなかった。バーテンダーはそれを黙って、すべて受け止めていた。
また、いくら誘われたって(誘っていたのかはわからないけれど)、セックスをするわけはない。子供はできないにしても、自分とのセックスで一度酷い目に遭ったのだから、もうしないだろう。

絡まった糸をほぐしてみたら、実は一本だったような感覚だ。結局、愛したもの、執念を燃やしていたものすべてが自分自身だった。一人きりだったのだ。タイムリープをこんな使い方するとは。やるせなさと絶望感が残ったが、最初に想像していたストーリーがまったく違う方向へ裏切られていくことでの新鮮な驚きがあった。

タイムリープものやどんでん返しもの特有ではあるけれど、すべて知った上で、もう一度最初から観たい。ただ、最初から最後まで苦しい想いをしながら観る事になりそう。

原作はロバート・A・ハインラインの『輪廻の蛇』。劇中で「自分自身の尻尾を追いかける蛇」というセリフも出てきた。このタイトルを知っていたら、ストーリーが予測できてしまったかもしれない。原題『All You Zombies』もなるほどといった感じ。
小説だと、登場人物などを頭の中で想像しながら読む分、最後の衝撃がより凄そう。
ただ、短編らしいので、映画は97分とはいえ、だいぶ要素が足されているのではないかと思う。

ラストの衝撃度勝負だけではなく、美術面や低予算ならではの工夫もおもしろい。

登場人物は、バーテンダー役のイーサン・ホークと彼/彼女役のサラ・スヌークとエージェント役のノア・テイラーのほぼ三人のみ。
特にオーストラリアの女優さんだというサラ・スヌークの男女の二役は素晴らしかった。無骨で勝ち気で尊大な女性と、影をたたえて皮肉っぽく笑う男性。女性の時は明るく、男性の時は暗く、と照明にも気をつけられていたらしい。

彼女が就職をしようとする会社、スペースコープの女性の制服のレトロ未来具合が絶妙だった。宇宙関連の会社なので洗練されてはいるけれど、舞台が60年代と昔だから、昔の人が考えた未来みたいなイメージ。現代から見るとレトロ。昔の万博のコンパニオンの制服のよう。

タイムマシンもギターケース型とちょっと変わっていた。タイムリープするからSFではあるんだろうけど、SFだとCGで作られた銀色で大振りな乗り物型のタイムマシンを想像してしまう。原作の通りなのかはわからないけれど、映画では携帯型のタイムマシンで、ぱっと見、流しのギタリストにしか見えない。
行き先の日付もデジタルではなくて、ダイヤル式で合わせたりする。80何年かに作られたというようなことを言っていたと思う。タイムマシンが未来ではなく今よりも30年くらい前に作られていたという設定も新しい。そのため、デザインが昔風なのだと思うけれど、おそらく予算にも合っているのだと思う。

アクションも極力控えめ。バーテンダーは犯罪阻止のやり手だったようだけれど、仕事をしているのは最初の失敗したシーンだけで、過去の活躍っぷりはわからない。
だから、カッコイイSFアクションみたいなものを想像して観に行くと拍子抜けするかもしれない。

監督・脚本・製作をこなしているのはピーター・スピエリッグ/マイケル・スピエリッグ兄弟。ピーターのほうは本作の音楽も担当している。この兄弟、一卵性の双子らしく、そんな二人が自分が自分に会うというストーリーを監督したのかと思うと、更にぐっとくる。