『イントゥ・ザ・ウッズ』


1987年初演のブロードウェイミュージカルの映画化。
監督は『シカゴ』や『NINE』などミュージカル映画お手の物のロブ・マーシャル、衣装はコリーン・アトウッド、予告編での雰囲気も良さそうだったので期待していました。

以下、ネタバレです。








ポスターなどに“おとぎ話のその後”と書いてありますが、その後が描かれるのは後半で、前半はおとぎ話が組合わさった群像劇です。赤ずきん、シンデレラ、ジャックと豆の木、ラプンツェルと、それを繋ぐのがパン屋の夫妻と魔女。
元々のミュージカルを見てないからわからないんですが、つめこみすぎてすべての物語がちゃかちゃかしてて、でも対して盛り上がらないままフェードアウトしていく。でも、元のミュージカルと脚本は同じ方らしいので、ミュージカル準拠なのかもしれない。もしかしたら、ミュージカル版はもっと長くてちゃんと描かれていたのだろうか。

どれも元の話は知っているから、大体どうなるのかはわかるんですよね。赤ずきんとおばあさんはオオカミに食べられても助けられる、シンデレラは靴を忘れ、でもそのサイズにより誰がシンデレラだったのかがわかって王子と結婚する。
それを改めてしかもさわりだけざっと見せられても、よっぽどおもしろい見せ方でないかぎり退屈なのだ。

そして、中盤でシンデレラの結婚式を観てる途中でジャックが倒した巨人の妻が襲って来て、一気に話のトーンが変わる。明るかった世界も巨人にめちゃくちゃにされてしまう。
一応ここからが“その後”なのだと思う。
それならいっそ、“その後”だけでも良かったのではないかとも思ったけれど、前半の内容が少し関わってくるからそれでも駄目なのだ。

後半は巨人を探索して倒すという話なんですが、森の中なのでずっと暗い。シンデレラもドレスではない。赤ずきんもずきんをあげてしまってオオカミの皮をかぶっているから灰色い。
地味だし、登場人物はその中を右往左往しているだけで退屈になってしまう。

そんな中で、メリル・ストリープ演じる魔女がやけくそになったように『Last Midnight』を歌うシーンは派手で迫力があった。
“また豆を無くしたわ、私を罰して”とか“最後の夜よ”とか“豆の木から大量の巨人が来るわ”などとまるで呪いをかけるかのように嬉々として歌い、他のみんなが怯えているのが最高だった。
なので、いっそのこと、その通りに巨人がたくさんきて、みんなめちゃくちゃにして終わるのなら良かった。
結局、歌ったあとで魔女が退場するだけで、特になにも起こらない。

もう一つ良かったのは、前半でシンデレラの王子とラプンツェルの王子という兄弟が水辺で歌っているところです。自信過剰な歌詞と、何故か歌いながら胸をはだけていておもしろかった。二人ともあほうだった。

シンデレラの王子役のクリス・パインはやっぱり王子役が似合っていた。けれど、「僕がチャーミングすぎるから?」という予告にあった字幕は、魅力が云々という違ったものに変わっていた。チャーミングが魅力に訳されるのはいいんですが、チャーミングっていう言葉が持つニュアンスって日本語だと魅力とはまたちょっと違っていて、でもクリス・パインはまさしくチャーミングだったのでそのままが良かった。ただ、そのセリフが出て来るのが、妻(シンデレラ)ではない女性を口説いているシーンなんですね。チャーミングというと、若干ふざけたニュアンスが加わるけれど、ふざけている場合ではないのかもしれなかった。

ただ、ここで王子に口説かれてきゅんきゅんしているパン屋の妻はとても可愛かったので、もう後半はパロディならいっそのこと、王子とパン屋の妻、パン屋の夫とシンデレラでくっつけるとか、細かい事はいいんだよの『魔法にかけられて』形式にでもしてほしかった。
でも、前半でパン屋の妻は赤ちゃんを望んだわけだし、無事にその願いが叶えられた今、そんなことはできないのだろう。

だからといって、そのまま崖に落ちて死ぬというのはどうゆうことなのだろうか。罰なのだろうか。
罰だというなら、前半で牛を騙して買うとかラプンツェルの髪を勝手に切るなどは罰せられないのだろうか。自分たちの欲望だけのために動き過ぎではないか。それとも、それも含めての罰だったのだろうか。

見回りに行っていたジャックがパン屋の妻のスカーフをつけて帰って来て、パン屋の夫が「それをどこで?」と聞くのも不自然に感じた。
普通なら、知っている人が死んでいたらまずそのことを報告するだろう。ましてや、いいもの手に入れた♪というような感じで、死人の首からスカーフを奪って自分でつけているとかどうかしている。貧乏という設定をここで生かしたのだろうか? それとも、劇中でバカだと言われていたけれど、本当にバカなのだろうか。

ラプンツェルも途中でフェードアウトしていたけれど、パン屋の夫の妹らしいんですが、そのことを本人たちは知らないままだった。回収されない伏線はいらない。無理矢理絡めたかっただけに思える。

一応、複数の童話が混じっているので群像劇なのだとは思う。群像劇はそれぞれの人間がいろいろなことを考えていて、その結果起こる化学反応みたいなのが醍醐味だと思っているけれど、この映画の場合、逆に、起こる出来事に対してキャラクターが動いているように感じた。都合がいいだけだから、行動に一貫性がなくちぐはぐ。ただ、話の進行に合わせて動く駒のようだった。だから、行動が唐突に感じたし、誰にも感情移入出来ない。

普段、群像劇が好きなので、余計にその雑さが気になってしまった。
『イントゥ・ザ・ウッズ』の感想で、“批判をしている人はこれが『スウィーニー・トッド』と同じソンドハイムが作った事を知らないのでしょう”と書かれていたけれど、ソンドハイムは作詞作曲である。『Last Midnight』なんかはまさに『スウィーニー・トッド』風だと思うけれど、それは好きでした。脚本は違う人です。

シンデレラとか赤ずきんとかそもそも童話の登場人物に一貫した行動とか人間性を求めるのがいけないのかもしれないけれど、人間性を感じさせる人物=パン屋夫妻と絡む時点で、唐突に動いていたら不自然になる。

でも、最後のほうで、「赤ちゃんに物語を読んであげて」という死んだ妻の声が聞こえて、パン屋夫はこの映画の冒頭部分を読み始めるんですね。まさかとは思うけれど、すべて、パン屋夫の創作なのだろうか。

呪いを解く形ではなく、現実でやっと子供を授かった夫妻の妻がなんらかの事故か病気で死んでしまい、一人で子育てをするために生み出したのが今回の『イントゥ・ザ・ウッズ』なのだとしたら。
そしたら、雑で稚拙な群像劇にも納得がいく。伏線未回収も納得だ。
だってほら、パン屋夫妻だけ童話の人物ではない。これはあやしい。

途中でジャックが金貨を持ってくるのですが、抱えるくらい大きいけれど、まったく重そうではないという学芸会の小道具みたいな安っぽさでそれも気になっていたのですが、創作ならば嘘っぽくてもいい。

それくらいしか、いい理由が見つからなかった。有名なミュージカルらしいのできっとおもしろいのだと思うけれど、映画を観た限りでは、雑さばかりが目立った。

ジョニー・デップが予告で大きく出てくるけれど、彼は友情出演のような感じで出番はそれほど多くない。一人だけキャッツみたいな感じで人間がオオカミメイクをしているので、赤ずきんの話以外では誰とも絡めないような浮きっぷり。ジャックの連れている牛は人間ではなかったし。一人だけ映画ではなく演劇の人のようだった。
でも、赤ずきんを食べちゃいたい歌は低音の掠れたような声でセクシーでした。

コリーン・アトウッドの衣装も相変わらず良かったです。赤ずきんのずきんがケープと言うよりはノースリーブのようになっていてちょっと変わっていた。若返った魔女のぼわんぼわんした派手衣装も彼女ならでは。



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