『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』


アカデミー賞作品賞、監督賞、脚本賞、撮影賞の4部門受賞。ノミネートも多数。

観終わった後で、反射的に、うっわー!おもしろーい!みたいになる映画ではない。けれど、じんわりと良かったな…と思う気持ちは残っている。最初の方は、どんな映画なのかわからずに、カメラに誘導されるがままについていったけど、徐々に全貌が見えてきて、最後まで観て納得する。別にどんでん返しがあるわけじゃないけど、最後まで観た上でもう一回最初から観たほうがおもしろそう。
ただ、すべてが明確に描かれているわけじゃないので、人それぞれ受け取り方が違いそうだし、好みも分かれるのではないだろうか。
エンターテイメントといえばエンターテイメントだとは思うけれど、少なくとも私は予告編だけ見ていた時の方が呑気だった。

予告編ではGnstls Barkleyの『CRAZY』が使われているんですが、テンポを落としたさみしいアレンジだったので、かつてヒーローを演じた俳優が老いたせいなのだと思っていた。そして、曲は元のテンポのノリノリに戻る。それはすなわち、ヒーローに戻るという意味だと思っていた。

この曲は『キック・アス』でも使われている。キック・アスがレッド・ミストに誘われて高そうな車で悪者退治に行くシーン。友人に誘われ、一緒に悪者を退治しにいくなんて、デイヴ(キック・アス)にしたら夢みたいで、おそらく気持ち的にも一番盛り上がっている部分だ。
そこでこの歌詞である。
“俺のヒーローは危険をおかして悪者の命を奪う勇気があったんだ/全部おぼえてるよ、彼らのようになりたかったんだ/小さい頃からずっと楽しそうに見えた/だから今、俺がこうなったのは偶然じゃない/そうなった時、俺は死ぬ事もこわくない”

『キック・アス』はまさにこの感じなので『バードマン』もそうかと思っていた。(ちなみに『キック・アス』では音楽は途中で切られ、デイヴも酷い目に遭う)

『ゼロ・グラビティ』でどうやって撮ってるのかわからなくて、口をあんぐりさせたのが記憶に新しいけど、本作もどうなってるのか全然わからない。1カットみたいに、長回しのように、カメラがずっとついていく。
カメラが人の周りをぐるんぐるんまわったり、もういいじゃないかってところにも執拗に追いかけていく。手持ちのようなブレはないけれど、最初はスクリーンに集中するあまり、ちょっと酔いました。内容そっちのけで、映像に夢中になってしまう。

それで、撮影が『ゼロ・グラビティ』と同じエマニュエル・ルベツキというのが、すごすぎてなんだか納得してしまった。二年連続でアカデミー賞撮影賞受賞です。

この映画でも、カメラが特殊な動きをするから、俳優さんは顔の角度や動きなど、いっさいアドリブなしで完璧に寸分の狂いもなく演じているらしい。舞台は違うけれど、これも『ゼロ・グラビティ』と同じだった。

以下、内容に触れます。ネタバレです。








『バードマン』は、ヒーロー映画を引退した俳優が、もう一度ヒーロー映画に挑戦するというような話ではなかった。予告を見たときや、なんとなくのあらすじを聞いていたときには『レスラー』みたいな感じを想像していたけれど違った。

主人公のリーガンは過去にとらわれていた、というより、過去がリーガンをとらえていたのだ。過去=バードマンを演じていた俳優。町中でも「バードマンだ!」と役名で呼ばれてしまう。
そこから脱却するためなのか、本当にやりたかったことなのか、ブロードウェイミュージカルに挑戦しようとしている。

なんとなく、ロバート・ダウニーJr.のことを思い出してしまった。『アイアンマン』と『ジャッジ』とか。でも、RDJはアイアンマンをまだ演じ続けているので意味合いが違う。ダニエル・ラドクリフのほうが似ているか。彼もハリーポッターで染み付いたイメージからの脱却をはかるために、舞台に挑戦してました。

リーガンがつきまとってくる過去=バードマンに冷たくあたるのは、アンチヒーロー映画的な気持ちもあるのだと思う。

実際のところ、ハリウッドではヒーロー映画はどんな扱いなのだろう。興行収入はたたき出しているはずだが、アカデミー賞にはノミネートすらされない。
アカデミー会員の好みでないだけなのか、それか、どこか馬鹿にされているのかもしれない。

アカデミー賞のオープニングで、ジャック・ブラックが水をさすように乱入し、“ウケるのはヒーロー映画だけ”というようなことを歌い出すけれど、これは、『バードマン』の内容を示唆していただったのだ。
また、ローブがドアに引っかかって、仕方なくブリーフ一枚で出てくるニール・パトリック・ハリスもそのまんまのパロディだった。
映画公開前だったからわからなかったけれど、アカデミー賞には『バードマン』の小ネタが散りばめられていたのだ。

「観客は会話ばっかりの映画よりも、アクションが観たいんだよ」というセリフが出てくる。
会話ばっかりの映画とは、劇中劇で演じられるレイモンド・カーヴァーの『愛について語るときに我々の語ること』であり、まさにこの『バードマン』のことであろう。この二重構造がおもしろい。やりたいものと客から求められているものの乖離が皮肉とともに描かれている。

『バードマン』の場合は、ヒーロー映画に対する揶揄もあると思うが、リーガンは、その過去を嫌いすぎていて、それだけ過去が賞賛されているということはそのヒーロー映画はすごかったということで、逆にヒーロー映画讃歌にも見えてくる。

それだけ固執しているものというのは、ただ憎いだけではなく、おそらくとても愛しいものである。
劇中でリーガンは“超能力”を使うけれど、もちろんそれは妄想であろう。その“超能力”はおそらくバードマンが映画で使っていたもので、バードマンを憎んでいながらも、“超能力”を使う自分かっこいいみたいなのは常に心にあったのだと思う。

そして、アレハンドロ・G・イニャリトゥ監督だって、別にヒーロー映画憎しということだけを思って作ったわけではないと思うのだ。その証拠にほんの数秒間撮られた、爆発やら鳥の怪物やらのヒーロー映画シーンがめちゃくちゃ恰好良い。そういうところで本気を見せてくるのずるい。ヒーロー映画撮って欲しい。

憎いものは同時に愛しいものでもある。過去の自分まで嫌ってしまったら可哀想。自殺をしようとして、結局鼻をふっとばし、病院で目覚めた時の包帯姿がどう見てもバードマンのマスクをかぶっているようになってしまい、どうしたって離れられないのがわかったはずだ。お前と離れたくて撃ったのに、死ねもしないし、結局同じ姿になってしまった。だから、決別するよりは受け入れたのだと思う。下手にもがくのをやめて、大人になった。

それでも、新しい一歩を踏み出すために何かをなくしたような切なさが残る。ただ、その切なさは嫌なものではなく、胸がきゅんとするような甘酸っぱいものだ。そして、晴れ晴れしさと清々しさも感じて…。
映画が終わった後、そんな気持ちになった。これはなんだろうと思ったけれど、青春映画を観た後の気持ちに似ているのだ。
主人公がおっさんだけど、青春に年齢は関係ない。

主演のマイケル・キートンはかつてバットマンを演じた俳優という配役がおもしろい。エドワード・ノートンもハルクを演じていたし、エマ・ストーンも『アメイジング・スパイダーマン』のヒロイン役だ。

エドワード・ノートンがすごく良かったです。自分勝手で自由奔放で奇抜な役者役で、実際に近くにいたら大変な迷惑を被りそうだけど、魅力的だった。かっこいいエドワード・ノートンを見たのは、久しぶりかもしれない。
特に、エマ・ストーンとの屋上のシーンが良かった。

エマ・ストーンは屋上の柵というか、いまにも下に落ちそうなところに外向きで座っている。エドワード・ノートンはその横に、柵に寄りかかるようにして立っている。だから、エマ・ストーンのほうを向くと体が半分ねじれるのですが、その姿がセクシーでした。
たぶん、撮り方があれだけ凝っていたので、エドワード・ノートンが一番セクシーに見える角度が追究されていたのだと思う。

カメラは飛行シーンでは一層ダイナミックな動きをしていた。マイケル・キートンを追いかけるように後ろから、そして飛んでいるので、下に回ってあおるように撮ったりする。
最初、カメラはバードマンの目線なのかなとも思ったけれど、バードマンはバードマンで出てくるので違いそう。

あと、最初のタイトルなどが出る時、ABCとアルファベット順に文字がぱらぱらぱらと揃っていくのも恰好良かった。緊迫感のあるドラムに合っていた。

口八丁手八丁、適当なことを言って役者を持ち上げ、その気にさせるやり手のマネージャー役でザック・ガリフィアナキスが出ていた。痩せただけでなく、まるで別人で、最初気づかなかった。トッド・フィリップス系とは違う演技を初めて観たけれど良かった。『デュー・デート』でヒーロー俳優RDJと共演してるというのに意味はあるのだろうか。
ちょっとひねりの利いた事を言いながら、しっかりと気もきかせているというマネージャーの鑑。映画がシリアス過ぎないのは彼のおかげもあったような気がする。くすっと笑えるシーンがところどころに組み込まれています。

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