『海街diary』



是枝裕和監督のカンヌ国際映画祭、コンペティション部門出品作品。
原作のコミックスは読んでいません。

以下、ネタバレです。







是枝監督は家族モノと相性がいいと思うので期待していたんですが、あまりしっくり来なかった。
いままでも、何気ない会話が続くような映画やドラマは撮っていたと思うけれど、今回はそれが冗長に感じられてしまった。映画によっては、何気ない会話やこれ意味あるの?と思われるような無駄な会話にリアリティが生まれる場合もあるけれど、今作ではそれが退屈に感じられたのはなぜなのか。
はっきりした理由はわからないけれど、四姉妹が全員美人なせいかもしれない。ずっと妙に小綺麗で、家の中でのシーンが多いのに生活感がない。服装が無防備な薄着になったりはするけれど、そうしたらそうしたで、綾瀬はるかと長澤まさみのおっぱいが目立ちすぎる。
あと、季節が変わっても、全員髪型などが変わらないので時が過ぎたのを感じない。一年間だしそれほど変わらないかもしれないけれど…。

登場人物自体にリアリティがないと、その人らが何気なく会話をしてもちぐはぐに感じてしまう。父親が不倫の末出て行ったとか、その不倫相手の子供を引き取るとか、男に騙されるとか、ヘヴィーな状況はあるにしても、基本的にそれはそれほど問題視されていない。これはもしかしたら、原作のコミックスの良さなのかもしれない。
ただ、古民家に住む四姉妹がだらだらと話しながら問題から目を背け生活するというのは、一時期流行った、中身の無いスローライフムービーのようにも見えてしまう。
フードスタイリストが飯島奈美さんだったせいではないです。『ゴーイング マイ ホーム』も飯島奈美さんだったけど、そんな印象は受けなかった。
また、古民家とはいっても実家だし、それにまつわるエピソードも出てくるから、なんとなくのおしゃれアイテムとしてそこに暮らしているわけではないのもわかる。問題だって、目を背け続けているわけではなく、ちゃんと向き合うシーンも出てくる。
だから、スローライフムービーのように、見終わって結局なんだったの?みたいな感じにはならない。ならないまでも、観ていてなんとなく退屈な感じを受けたことも事実だ。

四姉妹は見た目も綺麗で、時々喧嘩はしても致命的な仲違いにはならず、基本的には仲良しで、観ていて素敵ねーとは思ったけれど、私が是枝監督に求めているのは憧れではないのだ。
うわーキツい…(でもわかる)みたいな感覚が欲しかった。もう少し泥臭さが欲しい。

本作は原作があるものなので原作の通りなのかもしれないけれど、四姉妹それぞれの生活が描かれていて、群像劇のようになっている。けれど、四人について贔屓無く描こうとしているのか、それぞれのエピソードについての描写が雑というか駆け足な感じがした。
一人一人に割り当てられている時間が少ないからなのか、詰め込み過ぎていて、セリフがやけに多く思えた。

身長を測った家の柱が数秒映るカットがあるけれど、このような、静物を無音でぽつんと映して、ここから何かを感じ取れというようなキメのカットは是枝監督独特のものだと思うので、もっとあると良かった。

また、エピソードというか主人公が変わるときに、流れがぶちぶち切れてしまっていたのも気になった。

原作とは違ってしまうと思うけれど、いっそのことすずのエピソードだけで良かったのにと思う。すず目線、すず主人公でやってほしかった。一人に焦点を当てるようにすれば、是枝監督特有の丁寧な描写がもっと見られたと思う。

ここ最近の是枝監督の作品、『奇跡』『ゴーイング マイ ホーム』『そして父になる』を観ていると、子供を撮るのがうまい人なのではないかと思うのだ。
今作も、すずの友達役として出てきた前田旺志郎くんが良かった。彼は『奇跡』も良かったけれど、今回も出番はそれほどなくても、四姉妹以上に良くて、もっと見たかった。

桜のトンネルを二人乗りの自転車で走るシーン、お祭りの帰り道ですずを慰めるように「俺、男ばっかりの三人兄弟の末っ子で、本当は女の子が良かったみたいなんだけど男で、俺だけ写真が少ないんだ」と話すシーン、どちらも良かった。
すずのことが好きなのかどうかは自分でもわからないけれど、悲しんでるところは見たくないと思っている様子がよく伝わってきた。一生懸命さが健気で眩しい。

演技というよりは監督との相性なのかもしれないけれど、美女たちよりも明らかに前田旺志郎くんのほうが輝いて見えた。



過去作のリメイクではなく四作目とのこと。でも、過去作を観ていなくても楽しめた。
もちろん観ていたほうが世界観に入り込みやすいかもしれないし、オマージュも多くあるそうなので、気づいてにやにやできそう。

ストーリーはあってないようなもの。セリフもほとんどありません。
はっきり言って、文章で感想を書くような映画ではなくて、とにかく観て楽しむものだと思う。

4DXが好評らしいですが、『ワイルド・スピード SKY MISSION』がとてもおもしろかったので、同じ車モノであることを考えると、相性が良いのも頷ける。

私はIMAXで観賞しました。初めてTOHOシネマズ新宿のIMAXに行ったんですが、画面の大きさはまあまあ。音は良かった。
前に通路がある席にしたんですが、そこだとスクリーンに前の人の頭はかからないものの、少し前過ぎる感じがした。字幕などは見づらいかも。
今作はセリフがほぼないので字幕を読むこともそれほどなかったため、映画に没頭できて良かった。ストーリーが単純なこともあるけれど、上映の二時間があっという間でした。

また、大画面ならではの特徴として、それぞれの車のディテールや、イモータン・ジョーの砦の施設や、キャラクターの服装など、特に映画内ではセリフによっての説明の無い部分まで細かく見ることができたのも良かった。どれもとても凝っていて、そこからバックグラウンドが想像できるものになっている。多分、また観たら違うことに気づきそう。それくらい情報量が多い。
今作のパンフレットは900円と通常の映画より少し高いけれど、その辺の資料としてもかなり充実していて読み応えがある。そして読むと、車がどう改造されたかとか、一つ一つのストーリーがちゃんとあって、細かく作り込まれているからこそ、世界観が揺るぎないものになっているのだと感じた。

以下、ネタバレというほどのものでもないですが、少し内容に触れます。






マックスを演じたのはトム・ハーディ。トム・ハーディは映画によってまったく違う印象になりますが、今回はなんとなくマッチョ路線で来るのかと思っていたけれど、そうではなかった。『マッドマックス』のことをあまりよくわかっていなかった。『ブロンソン』っぽい感じかと思った。どちらかというと、今回は綺麗なトム・ハーディだった。

娘を助けられなかったことを亡霊に苦しめられるほど悔やんでいるせいか、影を背負っているし寡黙。
フェリオサ大隊長と5人の妻たちと一緒に逃亡するけれど、女性6人の中にマックスが一人混じっているせいで、少し萎縮しているようにも見えた。
笑顔はないけれど、よくやったというようにサムズアップしたり、目を合わせて頷いてみせたりと、女性たちに好意的。でも別に誰とも恋愛関係にはならない。

イモータン・ジョーの親衛隊のようなウォー・ボーイズの一人、ニュークス役にニコラス・ホルト。痩せていて白塗りで坊主、目の周りが黒く骸骨のような外見だったし、予告で観た時にもなんでニコラス・ホルトなの…と思ったけれど、ニコラス・ホルトで良かった。
彼は5人の妻のうちの一人と恋愛関係っぽいものになる。それでも別に、甘い言葉だとかキスシーンなんてものはありません。ただ、どんどん元々のニコラス・ホルトというか、イケメンがおさえきれなくなってくるのがたまらなかった。

ニュークスは輸血を必要としていて、マックスは健康体なので血液のために誘拐されたのですが、二人が血液のチューブで繋がれているのは見た目がとても良かった。マックスのことを「輸血袋」と呼ぶのもいい。
出撃するときにも輸血しながらなので、トム・ハーディが前面に縛り付けられた車をニコラス・ホルトが運転していて、二人が血液のチューブで繋がれていて…というのも、いいものでした。なかなか見られない。ニコラス・ホルトの体内にトム・ハーディの血液が混ざる…。

『マッドマックス』は暴力が支配する世界なんですが、グロテスクな残虐描写がほとんど出てこない。凄惨さですごさを見せようとすることが多いけれど、この映画は純粋なカーアクションだけで驚かされる。
カーアクションというと今年は『ワイルド・スピード SKY MISSION』でおなかいっぱいになったばっかりだけど、世界観が違うとはいえ、こちらも満腹になる。
それに、今作はほとんどのシーンが、お互い走っている状態でのカーチェイスなのである。大きく分けたら往路と復路というか、少し休憩はあるものの、大半がアクションだ。

車の性能の違いが面白い。岩をのぼるものもあれば、長い棒が付いていてその先にウォー・ボーイズがしがみつき、びよんびよんなりながら襲ってくる。

あと、なんといっても、スピーカーがたくさんついていて、後ろに太鼓をドコドコドコドコ叩いている人がいて、前ではバンジージャンプのヒモで括り付けられたギタリストが弾きまくる。火も吹く。
見た目的にはこの車がものすごいインパクトが強いし恰好良い。最後も3Dでこちらにギターが飛んでくる。
弾くことをなんらかのエネルギー変換して車が進んでいるのかと思ったら違った。ウォー・ボーイズたちを鼓舞していたらしい。
アクションシーンでは音楽はずっと続いているのですが、あの車が来たときには、ギターと太鼓の音が加わるのも楽しい。

音楽はジャンキーXL。最近、映画で名前をよく見かける気がする。
『300<スリーハンドレッド>〜帝国の逆襲〜』も彼なんですが、ネタバレなので詳しくは書きませんが、一番盛り上がるシーンの曲が好きだったんですが、今作ではその盛り上がりがずっと継続している感じです。






『Mr.インクレディブル』、『トイ・ストーリー3』『ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル』のブラッド・バード監督。
予告編を見て想像していたのとはだいぶ内容が違ったんですが、これはこれでおもしろかったです。
以下、ネタバレです。








予告編を見た感じだと、少年が家の納屋から探してきたとか父の形見とか、何らかのバッジをつけてディズニーランドへ行って、イッツ・ア・スモール・ワールドに乗ったら、バッジが反応してどこかちがう場所へ連れて行かれ、冒険を通じて成長して帰ってくるという、所謂“行きて帰りし物語”形式なのかと思った。

じゃあ、主役っぽいジョージ・クルーニーはなんなの?とか、“イッツ・ア・スモール・ワールド”はトゥモローランドじゃなくてファンタジーランドだけど?とかいろいろ疑問は残しつつ見始めたら、ちゃんと解決しました。

最初のディズニーのロゴは今回も遊ばれてました。お城ですらない。

それで、最初っからジョージ・クルーニーが出てくる。しかも、想像していた話と違って、夢も希望もなく、すべてをあきらめてしまっている様子だった。

舞台が1964年に移る。フランク・ウォーカーという予告編に出てきた少年が、ニューヨーク万博で発明コンテストに参加する。この子がこのままディズニーランドに行くのかと思ったら、謎の少女アテナにバッジを渡されて、「“イッツ・ア・スモール・ワールド”に乗って」と言われる。バッジは少年が何かしら昔から大切にしているものだと思っていたのに、違う世界に移動する直前に渡されるとは思わなかった。
また、ニューヨーク万博にイッツ・ア・スモール・ワールドがあるとは思わなかった。元々は、ニューヨーク万博に出品していたものをディズニーランドに移築したらしい。

フランクは発明と夢見る心を買われ、異世界であるトゥモローランドで研究をしている。前途は明るそうだし、ここから、このトゥモローランドを舞台に冒険が始まるのかと思っていた。

そこで、またジョージ・クルーニーに戻る。ジョージ・クルーニーはぶつぶつ言っていて、それと正反対のポジティブな女の子が語りを変わる。

ケイシー・ニュートンというこの子がかなりいいキャラクターだった。何があってもへこたれない。最初の方の、授業で質問をしようと一人だけ挙手し先生に無視され、次の授業でも挙手しまた無視され、やっと当てられたと思ったら終業のチャイムが鳴るという流れが、アニメーションっぽくておもしろかった。
また、立ち入り禁止と書いてある札を見もせずに柵を飛び越えたり、ロケットで飛んだ後、大変な目に遭って気絶をしていたのに、起きた瞬間からにやーっとして好奇心が勝ってしまっていたりと、端々に性格が出ていたのも良かった。

ケイシー側の話はおもしろいけれど、トゥモローランドに行ったフランク少年はどうなったのか、向こうの世界には話は戻らないのかと思っていたら、ケイシーとフランクが出会った。ジョージ・クルーニーが大人になったフランクだった。少年フランクメインではなく、大人フランクメインだった。また、トゥモローランドが舞台の話というより、地球でのシーンのほうが多かった。

ケイシーとフランクの年齢も性格も違うでこぼこコンビの相性の合わなさもおもしろいんですが、一緒に行動するアテナもまたいい。最初にフランクにバッジを渡したときには、1964年の万博ということで、レトロフューチャーというか、昔の人が想像する未来みたいな服装がとても可愛かった。ワンピースのスカートがふんわり広がっていて、ポニーテール。対して、ケイシーをスカウトしにくるときには現代的でボーイッシュな服装だった。
昔と姿が変わらないんですが、それが実はオーディオアニマトロニクスだから、ということなんですが、オーディオアニマトロニクスがディズニー固有のものだと知らなかった。ただ単に人間っぽいロボットの総称かと思っていた。この映画に関しては、後から知って驚くことが多い。

エッフェル塔からロケットが飛ぶのも、そういう都市伝説を生かしたものなのかと思ったら、そんなものはなかった。この映画だけの創作らしい。ただ、エジソンなどの蝋人形はあるらしい。

エッフェル塔の警備員が人間かオーディオアニマトロニクスなのか調べるやりとりも面白かった。フランクが音叉みたいな金属の棒を持って、ケイシーに「この棒であの警備員を叩け。人間なら気絶する」と言う。「オーディオアニマトロニクスなら?」と聞くと、フランクはアテナのおでこをカーンと叩く。「なにすんのよ!」と怒るアテナ。「こうゆう風に怒る」とフランク。ケイシーが音叉を受け取って、警備員のほうへ歩き出す。影に隠れてるフランクとアテナが「あいつ、根性あるな」みたいなことを話してる。
このような軽快なぽんぽんとした会話のやりとりをするシーンがいくつかあって、どれも印象に残っている。

アクションのみどころだと、大人フランクの家で襲撃を受けているときに、フランクの不思議発明品の数々を使って切り抜けるのがとても楽しかった。それと同時に、説明はされないけれど、一人で襲撃に備えてシェルターを作っていたのだろうとか、家族の写真が飾ってあったけれどもう子どもの頃から会っていないのだろうとか、彼の孤独も感じることができた。

終盤はメタ目線というか、ディザスタームービーばかりが作られるせいで人々は破滅へ知らず知らずのうちに向かって行っているという話だった。
だから、夢を持っている人たちを集めて、新しい世界を作って行こうよ、そうしたら、きっと明るい未来が待っている。
そんな結論で、夢を持って生活している人にバッジを配るんですが、ちょっと理想主義過ぎないかな…とは思った。

でも、調べてみたら、トゥモローランドって、ディズニーランドのトゥモローランドなんですね。最初は、ディズニーランド映画だと思って臨んだものの、“イッツ・ア・スモール・ワールド”は万博だし、ほぼ地球だし、もう関係ないものだと思っていた。
トゥモローランドが映ったときに、なんの説明も無く“スペース・マウンテン”があったのが気になったけれど、まさにそこだった。
トゥモローランドからの追っ手が持っていた武器も、“バズ・ライトイヤーのアストロブラスター”で使う武器だった。
ロボットではなく、わざわざオーディオアニマトロニクスと言っていたのも頷ける。

そして、ウォルト・ディズニーこそが、理想主義者だったらしい。彼の遺志を元に作られているのだ。
そう考えると、入り口が世界平和をテーマとした“イッツ・ア・スモール・ワールド”であったこともなるほどと思う。

よくよく考えてみて、あとから気づくことの多い映画でしたが、観ているときには『ドクター・フー』のエピソードにありそうな話だと思った。
アテナがドクターで、フランクとケイシーがコンパニオン的な存在。
地球の未来をいいものに変えるべく、異世界(ドクター・フーの場合は他の星)を旅する。
異世界から追放される。
人間の形をしたのが実はオーディオアニマトロニクス(ドクター・フーの場合はエイリアン)で、襲ってくる。
自己犠牲によって、地球の未来を救う。
などなどと同時に、ドクターも究極の理想主義者だと思う。

あと、姿の変わらないアテナ(ドクター)と人間の時がずれてしまうのもありそうだと思ったし、何度か書いているけれど、個人的に好きなエピソード。
今回の場合は、少年フランクはとっくにおっさんになってしまっているのに、アテナは少女のまま。フランクはアテナがおそらく初恋の相手で、彼女からオーディオアニマトロニクスだと聞かされていなかったため、裏切られたと思っている。だから、大人フランクはアテナに冷たくあたって、その様子は見ていてコミカルでもあったけれど、アテナ最期のシーンは切なかった。

見た目がおっさんと少女だし、キスシーンや「好きだ」なんてセリフもない。でも、中身はずっと変わっていないことがわかるし、容赦なく時は経ってしまっているのが切なかった。


セレクションにもよることはあるかとは思いますが、難解な作品が多かったのはカンヌならではという感じがした。
オチがちゃんとあるわけではなく、事実を見せられ問題が提起されて、それで終わり。あなたはどう思う?と問われているようだった。
映画の中では解決しないのだ。それは、実際に映画の中で描かれている問題は解決していないから。

以下、すべての作品についてネタバレです。



『The Last One/最後の一人』
アゼルバイジャンの作品。アゼルバイジャンの映画は初めて観た。
4章くらいに分かれていたけれど、全体で15分くらいなので1章自体も短いし、カットが割られることもなく映像が流れているそのままのところに、章とタイトルがバンと出たりしていた。
老人が人里離れた家に一人で住んでいる。家の冷蔵庫が壊れかけていて、動いたり止まったりするのをノートに記録するのがほぼ生き甲斐のようになっているようだった。
老人が冷蔵庫に向かい合ってぶつぶつ言っている様は、まるで冷蔵庫が生きているかのようだった。作品の質がわからないまま観ていたので、「うんざりだよ」と冷蔵庫が喋ったのかと思ったけれど、老人の独り言だった。冷蔵庫が喋るタイプの、少し不思議映画とは違った。

しかし、完全に壊れた冷蔵庫の下から水が出てくる様子はまるで血を流しているようにも見えて、冷蔵庫擬人化もあながち間違っていなかったのかもしれない。

老人の家のテレビで、「世界大戦の最後の生存者が死去しました」と流れているんですが、老人の家に食べ物を届ける若者が、壊れた冷蔵庫から勲章をたくさん発見して、「あなたが真の生存者なの?」みたいなことを聞くんですが、それが冷蔵庫擬人化の話と何かつながりがあったのかなかったのかがいまいちよくわからなかった。


『Tuesday/火曜日』
ある少女の一日みたいな感じなのですが、これも結局のところ何が言いたいのかがわかりづらい。
けれど、撮影の仕方がやけに性的というか、男性とふとしたことで妙な空気が流れてしまう瞬間がとらえられている。
バスケの練習をすれば、男子生徒はボールをとろうとしつつ彼女の背中に密着する。バスの中では、揺れに任せておじいさんが必要以上に体に触って来る。
本人にその気がなくても知らずに男性が近寄って来る、そのことに本人はいらいらしているように見えたけれど、瑞々しく魅力的だった。

舞台はイスタンブールだったんですが、トルコのことがわかればもっと理解できたのかもしれない。映画自体もトルコとフランスの合作。


『Foreign Bodies/リハビリ』
職業が戦場カメラマンで、おそらく戦場での事故で足を失った男性がリハビリをしている。おそらくまだ失ってそれほど時間が経っていないようで、片足を失った生活にも、人の目にも慣れていないようだった。
今は写真を撮る意味も、生きる気力も失っているようだった。

プールでリハビリをしているシーン、その後にシャワーを浴びているシーンが多いけれど、カメラは必要以上に人の背中やうなじに近寄っていた。肌の質がよく見えるくらいまで。

最後の方で、プールの端のほうにいた主人公が、少し離れた場所から、プールのコースを仕切っているヒモをはずしてくれと頼まれる。主人公は何かを悟ったような、びっくりしたような顔をしながらヒモをはずすんですが、あれはなんであんな顔をしていたのだろう。
水に入っていれば片足が無いのは見えないし、見えなければ、他の人も遠慮せずに接してくると感じたのだろうか。



『Sunday Lunch/サンデー・ランチ』

フランスのアニメーション作品。版画をアニメーションにしたような、少し変わった作りだった。主人公ジェイムスは父母とおば二人と日曜日のランチをする。
まだカミングアウトしたてなのかもしれないけれど、彼がゲイだということを家族全員は知っている。それに触れられるのが嫌で、ジェイムスはなんとなく憂鬱な気分になっている。

それに気を遣っているのかいないのか、母は自分の性生活のいままでの武勇伝めいたものをあけっぴろげに話す。たぶんジェイムスが心から聞きたくねえよと思っているのか、とても悪意のあるアニメーションだった。ひたすら明るい。遊園地の遊具が母の裸体で、その乗り物に男性が乗っていたりする。

おばたちも気を遣っているのかいないのか、野次馬根性まるだしの悪意のある質問をする。夜の公園のトイレでセックスするんでしょ?それって不衛生じゃない?とか。これもかなり悪意のあるアニメーションだった。

父も気を遣っているのかいないのか、すべてわかっているというように、女連中の助太刀には入らず、黙って酒を飲んでいる。だからかなり酔っぱらう。こちらのアニメーションは悪意はなく、女たちがアッパー系だったのに対し、だいぶダウナー系だった。

父がまた来週もちゃんと息子に声をかけないとな、あいつはすぐに忘れるからというところで終わる。また声がかかるということは、別に許容されているのだ。そして、結局、気を遣われてはいないのだと思う。彼らは大して気にしてないのかもしれない。気にしていたら、家族会議になるだろう。

ナレーションが良かった。フランス語というと流れるような優雅な印象だけれど、この映画ではいらいらしていて、ささくれ立っていた。少し掠れた声で叫ぶフランス語、いいですね。
ナレーションはヴァンサン・マケーニュ。『女っ気なし』などの主演の方。
悪意のあるシーンでかかる、人を馬鹿にしたような音楽が良かったけれど、Flavien Bergerという方でした。 サンプルを聴くとピコピコな宅録系の曲が多い。


『Love is Blind/愛は盲目』

今回のカンヌプログラム唯一の娯楽作。
女性が家に男性を連れ込んで、ベッドになだれ込んだところで、夫なのか同棲しているのか、パートナーが帰ってくる。
よくある修羅場ものっぽいけれど、帰ってきた男性は耳が聞こえない。そのため、大声を上げつつ連れ込んだ男性に指示をする。服を着て出てってとか、そっちに行くから隠れてとか。

洋服が見つからずに女性の下着をとりあえず着たり、口元をうまく隠したりする様子がコミカル。

本当は聞こえてるんじゃないかとかオチを想像したが、パートナーが『忙しくて誕生日も祝ってあげられなかった』とサプライズとして、友達を呼んでいた。もちろん彼ら彼女らは全部聞いていて気まずそうな顔をしている。極めつけに、二階の窓から女装男が落ちてくるという二段オチ。


『Invisible Spaces/見えない場所』

ジョージア(グルジア)の映画。カンヌ国際映画祭2014 短編コンペティション部門に選ばれた9作品のうちの一つ。ジョージアからは初選出だったらしい。
女性が夫に「働こうと思って」と言うと、そんな必要はないと言われてしまう。「そんなことより、向こうに行って少し寝よう」と言っていたけれど、ぼかして言っているだけで、たぶんセックスをしなければならないのだと思う。
そのあと、女性は子どもにコーランの詠唱を練習させているが、何度もやり直しをさせるなど、八つ当たりをしているように見えた。

これは、この家庭でのことなのか、宗教上でのことなのか、国ならではのことなのかわからない。でも、女性の地位の低さが描かれているのだと思う。ほとんど奴隷である。
そして、八つ当たりをしているように見えたけれど、もしかしたら、子どもは女の子だったので、女に生まれたことでの将来を憂いていたのかもしれない。


『Leidi/レイディ』

コロンビアの映画。カンヌ国際映画祭2014 短編部門のパルムドール受賞作。
レイディはまだ十代か二十代にしても前半に見える。赤ちゃんを沐浴させているが、最初はレイディの子だとは思わなかった。母親から「バナナを買ってきて」と頼まれ、赤ちゃんを連れて外出する。途中で、アレクシス(結婚しているのかどうかはわからないけど赤ちゃんの父親)が他の女の子と踊っているのを見たという話を聞いて、彼をさがしに出かける。

村で会う若い女の子のほとんどが、おなかが大きいか赤ちゃんを抱えていて、男の子はみんな親の自覚が無さそうな遊び人ばっかりのようだった。その内、ギャングにでもなりそうな風貌だった。

舞台になっているのはコロンビア第二の都市メデジンの北部の共同集落。監督自身もメデジンの出身らしい。実際に、シングルマザーが多いらしい。貧富の差も激しいらしいが、映画の舞台は明らかに貧困層の集落だった。

アレクシスをさがしている途中でバナナはどんどん黒くなる。やっと会えても、いつ帰ってくるのかと聞いてもそのうちというようなことしか言わない。バスなどの車を清掃する仕事に就いているようだけれど収入はそんなになさそう。

結局、レイディはバスで家に帰されてしまう。そのバスの後部座席から外を見ると、アレクシスが同年代の男の子と楽しげに話しているのが見える。おそらく、遊びの計画でも立てているのだろう。バスが走り出し、アレクシスの姿がどんどん遠ざかって行く。

レイディがアレクシスに凭れかかるシーンが印象的。私にはあなたしかいないのよとでもいうような感じだった。たまには甘えさせてという感情と、その裏に、甘えさせてくれるくらいしっかりしてよという感情が見てとれた。



いろいろな国の短編を集めたプログラム。
全部で26カ国/地域、45作品とのことだけれど、その内の6作品+特別上映1作品を観ました。

以下、全作品について、ネタバレを含みます。







『Help Point/音声案内』

すごくイギリスっぽい皮肉満載の作品。
ロンドンに行くと言ってたのでたぶんヒースロー空港ではないかと思うけれど、巨大な駐車場で自分の車の位置がわからなくなってしまう。そこで、車の位置を忘れた男性と同じく忘れた女性が出会うので、単純に恋の予感を感じる。
ヘルプポイントというお助けボタンのようなものを押すと、一応応対はしてくれるけれど、なぜか嫌味を言われ、感じが悪い。
車が発見されるまで、二人は少しおしゃべりでもしましょうかということになって、いい雰囲気にもなるが、それを許すまじと案内の向こうの人も話に加わってくる。
水を飲んでる間に車を見つけたよとか、男性のほうが嘘をついていたのをばらしたりとか、本来のヘルプポイントならありえない感じなのは、ほのかにSFというか、AIっぽいという感じで、細かいことをつっこまなくてもいいと思う。コメディだし。
とにかく、女性とうまくいくのが気にくわなくて徹底的に邪魔をする様子がおもしろかったし、感情を持った機械に恋愛を邪魔される話は好みです。もちろん今回は、厳密には機械ではなく、音声のみであっても向こうにいるのは生身の人間かもしれないけれど。

最初にタイトルが出るときに、*を点々にしたようなマークみたいなものが出て何かと思ったら、声の聞こえてくる穴だった。おしゃれ。


『Caravan/キャラバン』

オーストラリアの映画。
キャンピングカーの中、電話が鳴っているが誰も出ない。
奥の部屋には人が寝ているのか死んでいるのか。足元しか映らない。
子どもが「起きてよ」と言っているので父親なのだろうか。子ども二人が飛び跳ねたりと自由に遊んでいる。キャンピングカーの外に繋がれている馬に話しかけたりしている。

風景の切り取りというか、特にストーリーがあるわけではない。
あとで説明を読んでみると、“子どもたちは乗り捨てられたキャンピングカーの内部を散策する”と書いてあったので、ただただ無邪気に遊んでたようだ。死んでいるのか寝ているのかわからなかった男性との関係も結局わからない。

少し解釈が難しかったが、Keiran Watson-Bonnice監督がゲストに来ていて、話を聞くことができた。
ストーリーや台本があるわけではなく、子どもたちは自由に感情のままに動いていたそうだ。3歳と6歳だったらしいが、その行動の差などを見てほしいとのこと。
白い馬が出てくるけれど、その意味も自由に考えてほしいし、子どもが劇中で唄う歌も元は子守唄だけれど歌詞が間違っているらしい。何種類か唄っていた中でたまたまこれを選んだだけなので、深い意味はあるようでない。
撮影した敷地自体も監督のものだし、馬も近所の方から借りたもの、3歳の子が自分の息子さんで6歳が甥っ子さんとのことなので、ほとんどホームビデオ感覚だったとの笑い話も。

監督にとってのショートフィルムは?という質問には、短編の方が予算なども少なくていいし、いろんなことに挑戦しやすいとのことだった。
今までCMなどを手がけてきた監督だけど、今後のことを聞かれると、ドキュメンタリーを撮ってみたいとのことでした。また、自分が観て楽しめるような作品をと言っていました。



『REVULSHK!/拳を上げて』

もこもこした帽子と総花柄のワンピースというファッションから、ロシアの映画なのかと思っていたけれどフランスでした。そういえば、途中でサッカーをするシーンが出てくる。

新聞を見て、みんながいっせいに片方の拳を上げる。軽快な音楽に合わせて、不自由ながらもそのまま生活をする。怒りなのか、共闘しようというような気持ちなのかと思っていたが、フランス人歌手アメル・ベント(1985年生まれとのこと。若い)“穏やかな気持ちで行動しているが、拳は常に上に挙げたままである”という言葉が解説に引用されていたので、どうやら怒りなのかもしれない。
最後には新聞を見て、もう片方の拳も上げる。両手が挙がってしまうから、新聞は下に落ち、二人が足で新聞を運ぶ。
コミカルだっただけにわからなかったけれど、強いメッセージ性が含まれていそうだ。2分弱と短い。


『DISSONANCE/不協和音』

アニメと実写が融合されたような、変わった映像だった。
最初は、限りなく実写に近い形のCGだった。でも、顔が大きくなっていたり、手足が細くなっていたりと、実写とは違う。円柱型のような変わった形の回転するピアノを見事に弾く。ステージの下では目の大きい謎の動物(たぶんアイアイ)がピアノを回している。観客はいない。
世界もビルが敷き詰められた地球よりずっと小さい球で、崩れ落ちていて世界の終わりが近そうな雰囲気が漂っている。全体的に薄暗くもある。

それはどうやら主人公の妄想で、現実世界はすべて実写になっていた。
町の片隅で手回しオルゴールみたいなもので演奏をしている大道芸人みたいなもので、さっきの謎の生き物のぬいぐるみが回しているような仕掛けも付いている。収入もあまりない様子で、妻からも捨てられ、娘とも離れていて、ほぼホームレスのような生活を送っているようだった。
ぬいぐるみであり、妄想の中では彼のパートナーでもある謎の生き物がなくなってしまったときの取り乱しようは、実写(現実世界)で見ると中々厳しいものがあった。ぬいぐるみを失って、タキシードを着た白髪長髪の男性が取り乱しているのはどうみてもおかしい。CGの、妄想の世界では、パートナーがいなくなったのだから、さしておかしくない。
風貌も妄想の中と現実との間でずいぶんとギャップがあった。妄想の中では悩める音楽家みたいだったけれど、現実にはホームレスにしか見えない。妄想と現実の混ざり具合も気味が悪く、面白かった。

最後は主人公自身が謎の生き物そのものになってしまったのか、生き物が役目を引き継いだのか。生き物が子どもたちに丸い世界について語っていた。


『21-87/21-87』

今回の特別上映作品。カナダのケベック州出身のアーサー・リプセットの手がけた1963年の作品。
『スター・ウォーズ』に影響を与えたと言われている映像で、確かにフォースという言葉も出てきた。『スター・ウォーズ4』でレイア姫が監禁された部屋の番号が“2187”なのは、このタイトルからとったとのこと。
しかし、さすが実験映画というか、わかりにくい。古い映画のコラージュにコメンタリーが付いている。
この前のケベック特集で観た『アーサー・リプセットの日記』でもサーカスの映像が出ていたけれど、今回もサーカスが出てきていて、何か彼の映像のキーとなるものなのかもしれない。

解説には“機械に支配された男の皮肉なコメンタリー”と書いてあったけれど、読んでもいまいちわからなかった。


『Lost in Wandlitz/ヴァンドリッツで日が暮れて』

ロシアの作品だけど、ヴァンドリッツというのはドイツの地名なので、舞台はドイツなのかな。

ベルリンからの列車だかベルリン行きの列車だかが遅れているホームに男性が立っている。
ほぼセリフがないためわかりにくいけれど、男性は旅行者で、列車が遅れている間に駅のホームでお弁当を食べたはいいけれど、ゴミ箱が四つ設置されており、その分別がわからない。辞書を熟読していたので、たぶんそういうことだと思う。

途中で、起床後シャワーを浴び、ランニングをする若者が意味ありげに出てきて、この人とホームの男性はきっと関係があるのだろうと思った。
年齢的には親子なのかと思ったけれど、人種が違いそう。
ランニングの若者は、途中でホットドッグを二つ買ったので一つあげるのかなとも予想した。

ホームで旅行者の男性はホームレスと会話をする。その同じホームレスとランニングの男性がすれ違ったので、位置を考えると、どうやら若者も駅に向かうらしい。男性は駅からどこかへ向かおうとしているということは、二人はすれ違うようだし、特につながりはないのか?

旅行者がどこに捨てようか迷っていたチキンの骨を、ランニングの男性が連れていた犬が持ち去っていく。どうやら、ランニングの男性も駅に着いたらしい。

そう思っていたら、ランニングの男性の仕事はゴミ収集業者だった。ゴミ収集車にゴミ箱の中身をどんどん捨てて行く。ゴミ箱は四つに分かれていたのに、結局、一つに収集されていく…。

なるほど、二人はそのつながりでそのオチか。最後に納得するパターンのショートフィルム。


『Work Mate/同僚』

20分弱の作品なんですが、これは長編にもできそうなくらい良かった。

主人公のブルースは喘息持ちなのか、何か病気を患っていて、自分のデスクを神経質なまでに清潔に保つ。
職場で新しい席になり、自分の近くの人は誰なんだろう?仲良くなれるかな?と少しわくわくしたような心持ちで待っていたら、同僚は全盲のハーミッシュだった。
ブルースの神経質さは性格にも現れていて、最初はあからさまに障害者を差別というか気を遣うのは嫌だと避けようとする。

軽い雑談のつもりで自転車の話をしたら、ハーミッシュに自転車のレースに出るつもりなので、休日に一緒に乗らないかと誘われる。ブルースは病的なまでに内向的だけれど、ハーミッシュはまったく違ってポジティブシンキングのできる人物のように見える。
流されるようにして休日に会うことになるけれど、実はブルースは自転車に乗れなかった。
練習をしつつ、くじけそうになるけれど、そこで、ハーミッシュの言葉を聞く。
「会社に行くのに車にひかれずに道を渡れたらラッキー、紅茶を入れてこぼさないで自分の席まで戻れたらラッキー」
ポジティブに見えても、そんなことの繰り返しだと言う。
ブルースも体が弱いようだったけれど、ハーミッシュに比べたらそんなのとるに足らないことだ。悩みがちっぽけに思える。

二人は自転車レースで貰ったメダルを自慢げに首から下げて、コーヒー店の女の子に得意げな態度をとる。結局、それは参加賞だったけれど、二人は楽しそうだった。
ブルースは二人で一緒に写っているレースでの写真をデスクに飾る。

ブルースの変わりようも良かったし、単純に勇気をもらった。
ブルース役はBrendan Donoghueというオーストラリアの俳優さんなんですが、ポール・ダノとエディ・マーサンを足して2で割ったような、気弱なんだけれど、根は悪い奴じゃないんだろうなという感じで良かった。

オーストラリアのThe Real Stories Projectというところが関わっているみたいだったので、実話なのかもしれない。この映画が実際に職場での障害者就労を促すのに使われていたりもするらしい。



グザヴィエ・ドラン出演。監督は違います。
過去の映画だと勘違いしていたけれど、2014年の作品だった。続々とドラン関連の作品が公開されるけど、どんなスケジュールなんだろうと思っていたら、『Mommy/マミー』の撮影が終わった三日後からこの作品に携わることになったらしい。

以下、ネタバレです。







予告編を見る限りだと、本当か嘘かわからないけれど「母を殺した」と言う精神病の患者と話を聞く医者の密室劇なのかと思っていた。おそらく、その事実関係の調査みたいなことになるのかなと思っていた。
でも、実際に映画が始まると、医者と思っていた人は病院の院長で、彼は警察の取り調べのようなものを受けている。別の女性も同じく取り調べを受けている。この時点では何の話をしているか、まったくわからない。
合間に、患者と院長が部屋の中で話している様子も入って来る。これもいまいち何の話をしているのか、どうして二人が話しているのかわからないし、それが警察の取り調べと何の関係があるのかわからない。
ただ、院長は二つの別の部屋の中で二人の別の人物と話していて、その構造がおもしろかった。話を聞いていくうちに、どうやら、取り調べは患者とのことを聞かれているのがわかって来る。時系列がわからないまま見ていたときには、謎解きが難しかったらどうしようとも思ったけれど、普通に見ていけば、謎はほどけるように解けていった。
そして、別に母殺しが主題ではなく、ある医者の失踪事件についての話のようだった。

グリーン院長役にブルース・グリーンウッド。J・J・エイブラムス監督版『スター・トレック』のパイク船長役の方。この方もケベック州出身。初老で厳しそうなんですが、少し抜けているところもあり、だんだんマイケルに心を寄せていく優しさも持っていた。

患者マイケル役がグザヴィエ・ドラン。マイケルは人をおちょくりながら挑発するようなところがある困った人物。多少過剰だけれど、グザヴィエ・ドラン、演技もうまかった。
『トム・アット・ザ・ファーム』で、女友達が半ば助けるように牧場に乗り込んできたときに「俺が居ないと、あの人は駄目になっちゃうんだよ」とストックホルム症候群気味なことを言い出したときに目がぐるぐるになってたんですが、終始あの顔です。
あと、変に悪意を交えた馬鹿にしてるとしか思えないコミカルさ加減は、少しジョーカーを演じた際のヒース・レジャーを思い出した。

部屋の中での二人のやりとりが話の中心になっていて、話をしながらどんどん心の距離が縮まっていく感じが舞台っぽかった。最初はどちらかというと、マイケルの得体の知れなさに怯えに近いような感情を抱いていそうだったグリーン院長も、彼がただの子供だということがわかる。本心を全く話さないマイケルも次第に真実を語り始める。

マイケルは、恋人であった医者がまったく自分に触れて来ないことに対しての不満をぶちまけていた。好きなのに、まったく触れないということがあるのか!?と言っている様子からは、彼が愛を渇望しているのが伝わってきた。それは、両親、特に母親から愛されていなかったことを発端としているのは間違いない。
院長は代わりに恋人になるなんてことはしない。けれど、頭をぽんと叩いてあげるシーンがあって、それは彼なりの優しさなのだと思う。

マイケルのおちょくりの一種の下ネタで、象のぬいぐるみの鼻を口にくわえていたけれど、触れてこないことをあれだけ苦痛に思うということは、そんな事実も無かったのだろう。むしろ、あったほうがいいと思っていたくらいではないのか。
もう一つ、自分のジーンズの股間にあたりに手を突っ込んで…というシーンは、そこから重要なメモを取り出すなど、悪趣味。でも、これもそのあとの展開を考えると、こんな演技をしなくてはいけなくなることが、むなしいというか切なくなる。

カルテを読むな、(事情を知ってる)看護師長には相談するな、チョコレートを多く食べさせろ。最初に出てくるこの三つの約束からして、もう最初から自殺はしようと思っていたってことですよね。
それでも、院長と話すことで、何か救われることはなかったのだろうか。匂いを嗅いでいたし、アレルギーのあるナッツ入りのをわざと選んだのだろうし、避けることもできたはずなのに、敢えて食べたのだ。
それか、院長のことが好きになっても、また裏切られるつらさを考えたら、もう好きでわかってくれる人のそばで死ぬのが一番いいと思ったのかもしれない。

元々は2004年に初演された戯曲らしい。密室劇風なのも納得がいったが、映画用にだいぶ変わっているとのこと。原作も映画用に書き換えたのもニコラス・ビヨン。カナダ出身で、その2004年の初演当時は26歳だというから若い。彼の父とグザヴィエ・ドランが友人で、脚本を読むことになったのが発端らしい。
院長と看護師が元夫婦という設定もなく、マイケルの恋人の医者も追加されたらしい。
元夫婦設定がないということは、娘さんを死なせてしまった話もなかったのだろうか。その後悔がずっと心の奥底にあって、院長の人格が作られていると感じたので、ないとまったく違う話になりそう。娘さんのことがあるからこそ、マイケルに接しているうちに疑似親子とまではいかなくても、寄り添うことができたのだと思う。
恋人の医者が出て来ないということは、元の戯曲は母殺しのほうに焦点があてられているのかもしれない。

監督はケベック州出身のシャルル・ビナメ。
奥行きというか、層になり方というか、物の配置の仕方が凝っていて、画面の作り方がうまかった。飛び出す絵本のようだった。作品のジャンル的にも絶対にないんだけど、3Dではえそうだと思った。
例えば、マイケルの好きな象のぬいぐるみが手前に置いてあって、それに焦点が当たっていて少し遠くにいて座っているマイケルがボケている。その状態で、テーブルに足を乗せると、遠近感がよく生かされていると同時に靴の裏がよく見えた。
手前で院長と看護師が言い合いをしていて、後ろでマイケルがふらふらしていて、カメラがゆっくり動いて二人の言い合いだけを映したシーンでは、カメラが戻ったらマイケルがいなくなってしまうのではないかと思った。けれど、そのまま立っていて、この人は逃げる気はないのだと思った。
最後のシーンでも、ベンチで二人が寄り添っているシーンも、カメラが後ろに引いていくと、近くにある赤い実を付けた木の枝が手前側に来て、後ろの二人が枝の向こうでぼやける。

奥行きとは別だけれど、院長が象の写真を持っているシーンでは、顔のあたりに写真をかざしたときに、院長の顔の部分がちょうど象の顔に重なっていた。あれも多分わざとだと思う。

わざとと言えば、色合いにも相当気が配られていたように思う。特に最後の心臓マッサージのシーン。マイケルが白いタンクトップを来ていたのも、アドレナリンを探しに行くのが院長だったのも、薬の棚が空かないのも、全部計算ずくだったのだ。院長は必死にガラスを割り、手を怪我し、マイケルを心臓マッサージすると、白いタンクトップに血が付く。悲しくはあるけれど、美しくも見えてしまうシーンだった。

最初に母がオペラを歌っているのがキューバの劇場で、父に一度だけ会ったのがアフリカなのだけれど、エンドロールを見ていたら、CUBAN CREW、AFRICA CREWという文字があって驚いた。両方とも重要なシーンではあるけれど、ちゃんとキューバにもアフリカにもロケに行っていた。
密室劇というか、W密室劇(取り調べと病院の一室)と思わせておきながら、回想シーンでここまでしっかりと撮影してくるのは珍しいと思う。


2009年公開。『21ジャンプストリート』、『LEGO(R)ムービー』のフィル・ロード&クリストファー・ミラー監督の第一作目。

一応、1978年出版の絵本を元にしているみたいだけれど、細かい設定などは違いそう。

食べ物がない? じゃあ、水を食べ物に変えちゃおう! 得意の発明でね!
ちょっと失敗しちゃったけど、雨の代わりに食べ物が降って来るよ! わーい!

といった短絡的な発想とスピード感で、話が進んで行く。
ガリ勉と呼ばれていて、少し変わり者の主人公フリントが、少し失敗をしたものの発明を成し遂げ、市長や目をつけられていた警官にも喜ばれ、ハッピーエンドかと思われた。もちろんここまで開始30分も経ってないので、こんなところで終わるわけは無いのはわかっている。

食べ物が降ってくるのは単純に見せ場的というか、クライマックスっぽいが、これを発端として話が始まる。

空から降ってくる食べ物を食べてみんなハッピー。単純にこれだけの話ではないところが良かった。
一番最初のハンバーガーが降って来るシーンから、キャッチしたハンバーガーにおいしそうにかぶりつくのはいいにしても、その画面の端で、キャッチできなかったハンバーガーが地面にぐちゃっと叩き付けられているのが気になった。しかも、ハンバーガーなので、バンズと中身が分かれてめちゃくちゃになってくる。

あのハンバーガーはどうなるんだろう…と思っていたら、そのうち、掃除しに来る車が村を通り、地面の食べ物を吸い込んで、遠くへぽいと投げていた。え、それ解決してるの…? どちらにしても嫌な予感が消えない。

そして、空から食べ物が降って来るようになったせいで、自分の父親のお店が潰れかける。父親はフリントに店を手伝ってもらいたくて看板に、『ティム“と息子”の店』と付け足したのに、騒動で“と息子”だけ落ちてしまう。親子関係も悪くなっていることも示唆されて、ますます嫌な予感がする。

それでも、警官の息子の誕生日にアイスクリームの雪を降らせたシーンは楽しかった。子供が家から出てきて、ぼふっと倒れ込み、手足をばたばたさせてスノーエンジェルを作っていた。

ヒロインがお天気お姉さんというのもよくできている。空から食べ物が降って来るのが気象情報として伝えられる。二人のゼリーの中でのランテブーも良かった。

基本的に、食べ物のシーンはどれもいいし、お腹も空いてくるのに、明るさの一方で、嫌な予感も消えない。

そして、小柄だった市長が、どんどん太ってきて、嫌な予感の正体はこれかと思った。底なしの欲望である。市長はそれがあからさまにおぞましい姿形になって現れていたけれど、他の人たちだって一緒だ。食べたいものを、食べたいだけ食べる。食べられないものはいらない。こんなことを続けていたら破綻する。
たくさんの食べ物が降ってきて楽しいね!だけではなく、ちゃんと別の方面からも描かれているのが素晴らしいと思う。

そして、ここからはスペクタクル。食べ物が降ってくるのは気象だから、それが原因の災害も起こる。
FLDSMDFR(Flint Lockwood Diatomic Super Mutating Dynamic Food Replicator 略して。略しても読み難いというシーンで笑った)が暴走し、フリントは責任を感じ、止めに雲の中へ飛び込んで行く。
もちろん、ピンチに陥るけれど、そこからの怒濤の伏線の回収がすごかった。
前半に出てきたものが畳み掛けるように登場し、あー猫の動画、あーくまさんグミ、あーあのスプレー、あーネズミドリ(繁殖してる!)みたいに、一々なるほど、なるほどと思ってしまった。

最後は、本心を話す機械をつけた父がフリントに言葉をかける。無骨で、漁師のことわざみたいなものでしか気持ちを伝えられなかった(結果、伝わらなかった)父の、本当の気持ちが聞けて、涙も出た。

この映画も本当によくできていると思った。明るいだけではなく、ちゃんと苦さも用意されている。もう彼らが監督した作品、全部が好きです。


『家族の波紋』



2010年イギリスで公開。日本では未公開。原題は『Archipelago』で“群島”みたいな意味らしい。
舞台はイギリス南西部のシリー諸島。アフリカにボランティアのために旅立つエドワードと家族が別荘で過ごす。

トム・ヒドルストン初主演作と書いてあったけれど、彼だけが主役というわけではないように思われた。家族全員の話です。

別荘にはエドワードと姉のシンシア、母パトリシア、パトリシアの絵画教室の先生クリストファー、雇われコックのローズが集まる。父は来ない。

カメラはほとんど動かず、音楽もない。セリフも常にあるわけではない。ワンカットも長いため、もしかしたらアドリブもふんだんに含まれているのかもしれない。

会話自体も特に事件に向けての前触れとか、ドラマチックだったりするわけではなくて、本当に家族が話しているのをこっそり撮影させてもらったような感じだ。何気なくて、どうでも良さそうなものが多い。そして、遠慮がない。
そんなだから、何日間か一緒に過ごすうちに少しずつ関係にほころびが見え始める。

姉は最初からイライラしているようだった。「アフリカにボランティアに行くのなんか、若い頃に済ませておけば良かったのよ」と言い、将来のことをまったく考えていないエドワードを批判した。でもそれは、姉特有の弟に対する強気な態度で、それほど気にすることでもないのかなと思っていた。

でも、そのあとのレストランでの店員に対する態度などを見ていると、家族と一緒に過ごすうちに不満がどんどんたまってきているのがわかった。

はっきりとは描かれないので、どうして姉がイライラしていたのかはわからない。でも、エドワードのアフリカ行きには反対しているようだった。これは、母も同じ気持ちのようだった。
やはりいい年の男が、仕事を辞めてアフリカへ行くという身勝手さが頭に来たのかもしれないし、心配でもあったのかもしれない。

どちらにしても、母も姉も、一向に現れる気配のない父親に電話で助けを求めていた。もう限界だ、耐えられない、はやく来て。家長に治めてもらわなくてはもう埒があかないというところまで来ていたのだ。
一方、エドワードは特に父親とも話してないし、来ないことに不満もないようだった。あまりにも鈍感で、鈍感故に二人の神経を逆撫でしていたのではないか。
そして、そんな様子は父親に似ているのかもしれない。

結局、父親は現れず、その理由は明らかにはならなかったが、母の怒りの矛先はエドワードではなく父親へ向かっていた。

ラスト付近で、エドワードはアナグマのぬいぐるみを使って姉に謝っていた。おそらく、母と姉は、エドワードが何も考えずに夢見がちにアフリカ行きのことなどを真っ直ぐな目で語るからイライラしていたのだと思う。でも、ちゃんと気づいたのだ。エドワードが気づいたことを、姉も察した。

エドワード役のトム・ヒドルストンが肩が抜けていて、自然体でとてもいい。いや、肩が抜けた演技をしていたのかもしれない。コックの女性に好意を持って、親しげに話す様子が良かった。顔の小ささ、手足の長さなど、スタイルの良さも目立った。

絵画の先生クリストファーはクリストファー・ベイカーという実際の画家が演じていたようだ。彼は映画の中で、「青をあまり使わないようにしている。すると、他の色が青の役割を果たす」というようなことを言っていた。映画の中でも青空は出てこないし、最後に出てきた海を描いた絵も波が黒で描かれていた。

音楽がほとんどなく、音と言えば生活音や外の自然な音、特に鳥の声がよく聞こえてきた。エンドロールもアカペラということで、こだわりがあったのかもしれない。





ケベック特集は今年から登場とのこと。このイベントとカナダのサグネ国際短編映画祭が提携して実現したらしい。
サグネ国際短編映画祭からMarie-Élaine Riouさんがゲストでいらしていて、上映前にトークの時間があった。
サグネ国際短編映画祭は今年で20回目だそうで、モントリオールから5、6時間くらいかかる場所で行われているけれど、この映画祭の期間の3月には大変な賑わいを見せるらしい。ほぼケベックの作品で占められているとか。

UK特集と同じ日に見ましたが、比べてみると、少し難解な作品が多いように思われた。セレクションにもよるかもしれないけれど。

以下、全作品について、ネタバレなど含みます。






『PAS/ステップ』
最初にピナ・バウシュの“話すのが怖いから私は踊る”といった意味の言葉が引用される。
その通り、会話はなく、ダンスによって人と人が触れ合い、次第に心を開いていく。
屈強な警官や、路上生活者が、急にちゃんとしたダンスをし始めて、さっきまでのは演技だったのか!と思った。
公園で滑り台などを使いながら友達と踊る女の子。車に大人数の若い女性が乗っていて、パトカーにつかまり、路上でのダンス。路上生活者に手を差し伸べて、そこからの二人の色っぽさすら感じるダンス。その三つが交互に出てくる。
会話はなくても、感情が伝わって来るようだった。
そして、エンドロールでは、横断歩道を渡っていたおばあさんが傘を持ったまま踊りだし、最初は車に乗っていた人もいらいらしていたけれど、降りてきて一緒に踊ったりとハッピーな映像が流れた。
あとで解説を見たら、“ローズは生涯をかけてダンスで周囲とコミュニケーションを図ろうとする”と書いてあった。じゃあ、すべてローズだったのか。
そこまで読み取れなかったが、最後には横断歩道でパーティーが始まるほどなので、ハッピーエンドで良かった。

『Miroirs d'été/鏡』
グザヴィエ・ドラン主演。2006年の作品。今回はこちらの監督のEtienne Desrosiersさんもゲストで来ていた。
90ページくらいのベトナムの短編小説を原作にしているらしい。ケベック州に資金援助をしてもらい、撮影期間は2日間。スタッフやキャストにも恵まれ、撮影監督も有名な方らしい。
グザヴィエ・ドランはオーディションをして、70人くらいの中から選ばれた。子役で7、8歳くらいからドラマに出ていたのでその時にはまあまあ有名だったとのこと。
撮影時15歳だったが、それくらいの年齢の男の子はふらふらしているがそんなところがなく、仕事に対してプロ意識を持っていた。監督曰く、「彼はギリシャ系だからじゃないかな」とのこと。

この映画の紹介の写真では、二人の男の子が裸で寝ているものが使われていたが、それはただ、兄弟と寝ているだけで、何か直接的なことは起こるわけではない。
家族でコテージに休暇をとりに来ていても、あまり楽しいことも起こらなくて常に表情は暗い。両親のセックスを目撃したり、弟と喧嘩したり。友達も彼女と遊んでいて、そこに加えようとするが、彼は断る。
何かを求めながら眉間に皺を寄せつつ一人で散歩をする。
あれは親戚なのか、知り合いなのか、家族ぐるみで付き合いのある家の息子と追いかけっこのようなことをしたシーンだけ、心からの笑顔を見ることができた。体の下でカンカン帽がぺちゃんこになっても気にしないくらい夢中になっていた。

木漏れ日などの光や、水など、風景とともに、グザヴィエ・ドランの瑞々しい姿がしっかりと閉じ込められている。比べてみると、15歳のドランはだいぶふわふわとしていて、今のほうがもっと目つきなどがソリッドな印象。過去の姿が映像に残っているのは貴重だと思う。


『Del Ciego Desert/盲目の砂漠で』
これ、コメディだとは思うんですが、不謹慎すぎて笑っていいのかどうか迷った。
タイトルでは盲目になっているけれど、盲目ではなくて斜視です。しかも両目の斜視で、西部劇風に砂漠で二人の男が向かい合っているけれど、片方が両目外斜視、片方が両目内斜視のため、狙いが定まらない。
この決闘が起こることになったきっかけが過去の映像として決闘の合間に流れる。外斜視の人は一家全員外斜視、内斜視の人もまた然り。お互いの一家は隣りに住んでいるけれど、争いが絶えない。そんな中、娘と息子が許されない恋に落ちてしまう。
お互いの家族はカンカンで、家に火をつけたり、爆破したりと過激な手段に出る。死者すら出る始末で、その仇討ちとしての決闘だったのだ。
一方、産まれた子供は斜視ではなかった。
結局、決闘では一発も当たらないまま弾切れになり、はずれた弾に驚いた馬も逃げてしまったため、二人はそのまま、砂漠の真ん中で朽ち果てる。
数年後に白骨化した姿で発見され、あの時に産まれた子供が大きくなって騒動で生き残ったおばあさんと一緒に砂漠を訪れる。
「これはあなたのおじいちゃんたちよ。お互いの見え方が違ったから許せなかったの」とおばあさんが言うと、子供は朽ち果てた骨の目元の砂を払う。「こうなってしまえば同じなのにね」

不謹慎ギャグをやっておきながら、最後にはドキッとさせられた。哲学的な締め方だった。


『Les journaux de Lipsett/アーサー・リプセットの日記』
60年代に活躍した実験映画の巨匠アーサー・リプセットの最期の日々を綴った日記をアニメーション映像化した作品。49歳で自殺されているらしい。
アニメーションとはいっても、セピア色調で、鉛筆でささっと描いたものが動いているといった感じ。また、実際には日記は存在せず、創作らしい。
アーサー・リプセット自体がケベック出身だということで、ナレーションはグザヴィエ・ドラン。
アーサー・リプセットが母に捨てられたくだりを、母に執着しているドランが読むのはどきどきした。


『Y2O/Y2O』
水の中にいる二人の男女の映像。水の中なのでセリフは一切無い。口からは空気が漏れることはあっても。
水中での洋服の布や髪の毛の動きは綺麗だし、重力がある状態とは違って予測がつかないのでおもしろい。
CMやミュージックビデオのように、映像を観賞するものだと思っていたけれど、これも、解説を読むとちゃんとした意味もあるようだった。男女の内面の感情の衝突などを表していたらしい。


『Jeu d'enfant/子供の遊び』
何の事情があったのかは説明されないけれど、父と娘姉妹二人の父子家庭。父親は林業をしていて、娘の姉の方に跡を継いでもらいたいので仕事へ連れて行く。幼い女の子は当然林業に興味は持てない。
女の子は自宅から少し離れた家に忍び込む。自宅では朝食のシリアルすら充分に用意されていなかったけれど、その家ではお菓子が置いてあって、冷蔵庫の炭酸飲料とともにむしゃむしゃ食べて、テレビを見て、家の人が帰って来ない隙に、好き放題遊ぶ。
やがて遊び疲れて寝てしまい、外は真っ暗。家の人が帰って来る気配を感じて外へ飛び出す。
外は真っ暗で、森を抜けるのには苦労する。何か動物の遠吠えのようなものも聞こえて来る。おまけに、雪も積もっている。

この雪の積もった夜の森というのがカナダ特有の風景なのだろうなと思った。行きは辿り着いたのだから、家にもすぐに帰れるはずだ。けれど、夜の森は行く手を阻み、懐中電灯の電池も切れてしまう。
途中で転び、気力も尽き果てて、その場に倒れ込んでしまう。
朝になって、父親が助けに来る。

多分、長女は妹に比べて自分は嫌われているのではないかと考えてもいたのではないか。でも、ちゃんと助けに来てくれたことで、愛情の確認が出来たのだと思う。


『Toutes des connes/人生はサイアクだ』
英語でのタイトルは『Life's a bitch』。
一人の男性が彼女に振られるところから始まる。そこからの冴えない日常。ショックを受けて落ちこんで、泡風呂に入って、クラブに行ってナンパし、また振られてお別れ…。
まるでルーチンワークのように、細かいシーンがパッパパッパと移り変わり繰り返される。
そうだ、体を鍛えようと思い、公園を走って、自宅で宅配ピザを注文し、走って、チキンを注文し、走って、中華を注文する。本当に駄目な、でも思わずにっこりとしてしまう、そしてありふれた日常。

細かいシーンの積み重ねで進んでいき、とにかくテンポがいい。95シーンが5分強の中にまるでパッチワークのようにおさめられている。



去年も書きましたが、ショートフィルムはDVDなどにもなりにくいし、なかなか観る機会がないので、こうしてまとめてスクリーンで見せてくれるのは嬉しい。今年も入場無料。今年で17回目とのこと。
イギリス特集なら好きな俳優の一人や二人出るだろうということで、行ってきました。

以下、全作品について、ネタバレなど含みます。






『Hollywood Portfolio/ハリウッド・ポートフォリオ』
ヴァニティ・フェアの特集のために作られたショートフィルムとのこと。VF.comと出ていたけれど、もう今は観られない様子。3パートに分かれていたものをまとめて上映。
イギリスの俳優たちがハリウッドに乗り込んでいく様子が第二次世界大戦風に描かれている。

イギリス有名俳優が、特に俳優同士の絡みはなくパッパッと映る。
存在感たっぷりのマイケル・ケイン。ジェームズ・マカヴォイはタキシードでキメていた。もみあげも凛々しい。
ベネディクト・カンバーバッチはアメリカに「渡る方法? 海を渡って」というナレーションの時に背中から池に倒れ込み、「無事に上陸したら、次は枕営業です」というナレーションの時にはシャツを脱ごうとするサービスっぷり。セリフは無かった。
一番セリフがあったのはジェームズ・コーデン。ハリウッドで役を獲得できても結局イギリス人の役かよ!というオチも担当。

登場人物は豪華だけれど、個人差はあっても少しずつしか映らないので、何度か観ないと確認ができない。最後に名前が一覧で出たけれど、それも短い時間しか表示されないため、わからなかった。
あと、当たり前だけれど、ヴァニティ・フェアの宣伝用に作られたものなので、実際の雑誌ありきなのだと思う。その特集を雑誌で見たかった。


『On Loop/ループする部屋』
多分、眠れない時ってこんな感じなのだろうなと思う。ベッドに寝ている目線だけれど、画面が六分割されていてそれぞれで違うことがおこっていて、同じことを何度も考えてしまう。
でも、エンドロールでは無事に寝息が聞こえてくるのでほっとした。


『The Secret World of Foley/フォーリーアーティストの不思議な世界』
フォーリーアーティストとは、映画にポストプロダクションの段階で音を付ける人のことらしい。要は音響効果の人たちの話。
釣りをしている人たちの映像を真剣な目で見ながら、屋内で石を踏みしめたり、バケツの水を上から流したり、水を手で掻き回したり。奇想天外な道具を使って、それっぽい音を付けていく音効さん二人。チームワークもかなりのものだ。
映像の中の漁師たちも真剣、まったく別の場所にいる音効さんたちも真剣。みんなが真剣に一つの作品を作り上げようとしている。なんとなくその様子だけで涙が出そうになってしまった。

音効さんたちの動きや道具は一風変わっていて、どこか笑いすら誘うようなものだから、てっきり創作なのかと思っていたけれど、なんとドキュメンタリーだった。あの二人は本業の方々だった。恐れ入りました。


『me & you/カレとカノジョ』
天井から一つの部屋を映す定点カメラでの作品。男の人の部屋に彼女が遊びに来る。その前のいい加減な掃除からして、ああ、あるあるなんだけれど、一緒に映画観ててなんとなくその気になって、付き合い始め、その内彼女の服装もリラックスしたものに変わったり、ハロウィーンなのかマリオとルイージのコスプレで帰ってきたり、クリスマスの飾り付けをしたり…。リアリティがあるというか、普通のカップルの様子を覗き見しているようで少しドキドキしながらも、頷かずにはいられない内容だった。
そして、次第に扱いがぞんざいになり、会話が減り、大声で喧嘩をし、ベッドでも背を向けて寝て、彼女は出て行く。
おそらく、本当に短い、期間にしたら一年間くらいなのだろう。初めて部屋に呼んでから、彼女が出て行くまでの長いようであっという間の期間がとらえられている。


『Emotional Fusebox/エモーショナル・ヒューズボックス』
今回、1作目のヴァニティ・フェアのものはCMっぽかったのですが、2、3、4作目はどちらかというと、映像の作りがおもしろいアイディア賞のような感じだった。それもショートフィルムの特性だと思うけれど、もう一つ、この作品のように、最後にどんでん返しがあるものもある。

周りにも家があまりなく、携帯すら繋がり難いような場所に住んでいる家族がいる。祖母と母、そして娘は離れの倉庫のようなところで動画を作ることだけに夢中になっていて、ひきこもりのように見えた。自分の親指二つに顔を書いて、二人が会話しているような映像だった。
そこへ車が壊れた青年がやってくる。母は無理矢理娘を外へ出すべく、青年の弟が助けにくるまで会話をしていろと言いつける。
娘は嫌々外へ出て、彼とあまり噛み合ない会話をする。そして、現れる弟。同じ顔である。
娘は逃げるように家に入り、母に「彼も双子だった!」と怒る。
彼も?と思っていたら、どうやら、娘も双子で、そのもう一人が亡くなったという過去があったようだ。彼女が制作していた動画の意味も、倉庫にこもっていた理由もわかった。
祖母が娘に、「ろくでもないことして、って(母に)言ってやったわ」と冗談めかして言い、終わるという優しくも、悲しい作品だった。

主人公アナを演じたのがジョディ・ウィテカー。見たことがあるし、何か不安な気持ちをかき立てられると思ったら、『ブロードチャーチ』の被害者の母親役の人だった。あと、『アタック・ザ・ブロック』の最初に出てくる女性。
車を壊した青年役の人が恰好良くて調べたらEdward Hoggという人だったんですが、この人、去年のショートショートフィルムフェスティバルで観た『The Phone Call』にも出ていて、その時も私はかっこいいと書いていた。
ちなみに、『The Phone Call』はこの前のアカデミー賞で短編実写部門を受賞しているため、今年もアカデミー賞プログラムにて上映されるようです。

あと、娘を気遣うように女友達が遊びに来ているのだけれど、その時に気の置けないガールズトークをしていて、「ジャーヴィス・コッカーなんてどう?」「彼は小汚いとは違うでしょ?」みたいな会話があって、ジャーヴィス・コッカーはイギリスの女子の間では普通に出てくる人物なのだと知りました。


『The Showreel/ショーリール』
シリアからの移民のナスリーンはオフィスの清掃業をしているけれど、本当は映画女優になりたい。お金がないので夢をかなえることはできないけれど、空想の中では何にでもなることができる。
序盤の、掃除用具を武器にしてのアクションからただ者じゃなさを漂わせていた。そのうち、服装やヘアスタイル、化粧などを変えて、様々な人になりきって、現実世界に紛れ込んで演技をしていく。
でも、日常は清掃員で…というところで、これも最後にどんでん返し系。
急にセットが取り払われ、ナスリーンがスクリーンのこちら側の私たちに話しかけて来る。
「私はプエルトリコの女優です。あなたが私をナスリーンと思うことで、私の夢は叶ったのです」
なるほど。二重三重にもなっていておもしろかった。


『Orbit Ever After/軌道上の恋』
2014年のBAFTAのショートフィルム部門ノミネート作。
主演は今話題のトーマス・サングスター。父親役でマッケンジー・クルックが出てきてびっくりした。

SFです。何の事情があってのことかわからないけれど、家が宇宙船で、地球の軌道を回っている。ナイジェル(トーマス・サングスター)は外で、猟のようにして宇宙ゴミみたいなのを拾って、それを宇宙船の中で母親が加工するように料理をして、ドブみたいなどう見てもおいしくなさそうなものを作り、食べている。
宇宙船の重力装置は壊れかけ、全員の服装も汚い。この先の生活に希望が感じられない。
宇宙空間が舞台で小汚いSFってなかなか見たことがないのでおもしろい。

その中で、ナイジェルは猟の途中で一瞬だけ見かける女の子に恋をしている。ただ、ナイジェルの家とは逆回りに地球を周回しているため、両親からは反対を受ける。

ある日、彼女がナイジェルに何かを投げる。それを受け取ろうとしたナイジェルが、命綱はあるけれど、宇宙船に宙ぶらりんになる様子は『ゼロ・グラビティ』を思い出してひんやりした。似た感じの状況にはなるけれど、2013年10月と同じ時期に公開されているようなので、別に影響を受けたりはしていないようです。

ナイジェルは彼女からの手紙の意味を勘違いして宇宙船からジャンプする。彼女も同じく、彼女の宇宙船からジャンプして、二人は地球の重力へ引き寄せられるように落下していく。
それでも、ナイジェルが言う、「十秒でもいいから彼女と一緒にいたい」という願いはかなったのだから、きっとハッピーエンドなのだ。

地球上で、二人が火に包まれて落ちて来る様子を「あら、流れ星」「きれい」などと言って見ている様子も、少し『アニンガ』を思い出した。


『あん』


河瀨直美監督作品。河瀨直美監督といえばカンヌ映画祭ですが、今作もある視点部門のオープニング作品として上映された。
ドリアン助川の同名小説を原作としている。

以下、ネタバレです。






ある小さなどら焼き屋に高齢の女性がバイトをしたいと申し出る。最初のこのシーンの樹木希林と永瀬正敏のやりとりからもう心をつかまれる。
アドリブかとも思うような樹木希林のおばあちゃん演技と、それに戸惑う永瀬正敏。馴れ馴れしくて、少し素っ頓狂だけど根本的には正しい徳江さんと、どこか社会から孤立している感じすらして、人から長くそんな風に接せられていないであろう店長さんの様子はまるでコントのようになってしまっていた。おもしろおかしく見せようというのではなく、自然とそうなってしまうおかしさ。

また、序盤、小豆をくつくつと煮たり、木べらで返したり、丁寧に餡を作るシーンは、スクリーンから匂いが漂ってくるかのような撮影の仕方だった。それは徳江さんが小豆を愛おしく思うのと同じような気持ちで撮影されているように見えた。おなかが空くというのもあるけれど、それ以上に大切に撮られているのがわかる。

他にも、季節ごとに花を咲かせ、葉を付け、散らせる、移り変わるソメイヨシノの様子や月なども、丁寧に撮影されていた。

人と人の何気ない会話が醸し出すやりとりの面白さ、風景、食べ物などというと、昨今(少し前?)流行りのゆるふわスロームービーみたいなものかと思われるかもしれないけれど、全く違う。河瀨直美監督だし、予告編に“らい”という言葉が出て来るので事前にわかることではあるけれど、事態が変わっていく。

店長に関しても、“慰謝料”などという言葉が出てきてぎょっとする。序盤で、甘いものが苦手なのにどら焼き屋をやっていることや、業務用の既製品の餡を使っていることなどから、あんまりどら焼き屋に執着していないことがわかる。でも、“慰謝料”のせいで続けなければならないこともわかる。
背負っているものはその時点では何かはわからないけれど、なんとなく店長さんの目が死んでいたのはそのせいだったのかと思う。

永瀬正敏のキャスティングがとてもいい。最初はやる気が無さそうな雰囲気だったけれど、徳江さんがやめることになってしまってからは、髪の毛が伸びて来ているせいもあったけれど、まるでちんぴらのような目つきになっていた。

徳江さんが実はハンセン病患者の療養所に暮らしていることがわかると、序盤のすべての動作に意味があったことがわかる。
桜の花を見上げてきょろきょろしていたこと、葉っぱが手を振っていると言って振り返していたこと。植物を心から慈しんでいたのだ。
そして、小豆の声に耳を傾けるとか、小豆に対するおもてなしとか言っていたのも、序盤には微笑ましい事柄としか思えなかったが、様々な所を旅して来ている小豆に景色を見せてもらっているというセリフが出てきたときにハッとした。
彼女たちには自由がないのだ。

事情は違うけれど、店長が店にとらわれているのも同じことだろう。
もっと、やりたいことをやりたいようにやったらいい、あなたにはできるんだから、というメッセージが込められていたように思う。

店はお好み焼きもできるように改装するだの、オーナーの甥っ子の駄目そうな青年と一緒に働けだの、どう考えてもいい方向へ進みそうもなかった。
その顛末についての詳しい説明はないけれど、ラストは店長さんが公園にどら焼きの屋台をかまえるところで終わる。
そこで、「どら焼き、いかがですか」と晴れやかに声を張り上げるのがいい。今まで、お店に遊びに来ていた女子学生とも特に口をきかなかった。今は、やっと自分のやっていることに自信が持てたのだろう。
そこでエンドロールに入って画面は暗くなるが、音声だけは続いていて、子供の声で「10個ください」と入り、買いに来ているのがわかる。おまけ的な要素だけれど、最後にふわっと、いい気持ちが残るのだ。

『チャッピー』


ニール・ブロムカンプ監督。チャッピーの声とモーションキャプチャーはシャールト・コプリー。動きもシャールト・コプリーだというのは後で知ったので、あの動きもあの動きも…と思い出すと興味深い。

話題のカット箇所ですが、一箇所ここが切られてるなというところはわかった。もう一箇所、繋ぎがおかしいところが気になったけれど、それはカットかどうかわかりません。

以下、ネタバレです。








最初、CNNの本物のアナウンサーであるアンダーソン・クーパーがテレビ画面で喋っていたり、有識者みたいな人がインタビューに答えていたりとドキュメンタリーっぽい作りになっていて、『第9地区』を思い出した。
近未来のヨハネスブルグが舞台だけれど、まさに世紀末都市というか、犯罪が多発していて、警官が殺されてしまうので代わりに警官をロボットにしましたというどれだけ荒廃しているんだという極端な世界である。

最初の薬物売買の現場にロボット警官が押し寄せてくるシーンからして、映像が恰好良かった。ギャングたちが持っている銃もピンクや黄色に塗られているのも可愛い。
その時点でわかるけれど、そういう細かい小道具や背景のちょっとしたところが凝っていて、できれば一時停止しながらじっくり見たくなる映画であり、ストーリーよりも映像的な恰好良さに重きが置かれていると思った。

小道具関連だと、ロボット警官を作っている会社の個人のデスクの上が気になった。活躍しているAI搭載のロボット警官を開発したディオンの机の上にはそのロボットのフィギュアが置いてあり、AIが搭載されていない人の脳波で操る大型のロボットを開発したヴィンセントの机の上にはそのロボットのフィギュアが置いてある。それぞれが自分の開発したロボットを愛しているのがわかる。
別の、セリフすら無い人の机には、子供が描いたと思われる絵が飾ってあった。

また、会社のパソコンで私用の検索をするときに、画面の横に会社の広告が出ているのも細かいと思った。おそらく、前に見たサイトを広告で出す行動ターゲティング広告だと思う。

パソコン関連だと、ヴィンセントが使っていたからか、その大型のロボットが置いてある場所だからなのか、大型ロボット・ムースの壁紙が使われているパソコンがあったのもおもしろかった。

チャッピーを開発したのはディオンだが、中盤あたり、ディオンとチャッピーの触れ合いはほぼ無い。チャッピーはギャング団と一緒に生活をする。チャッピーと名付けたのもギャングのヨーランディだし、チャッピーもヨーランディをマミー、ギャング団のリーダー・ニンジャをパピーと呼んでいる。

ヨーランディとニンジャは、ケープタウン出身のラップグループのダイ・アントワードのメンバーである。名前も役名というより、音楽活動をしているときと同じものみたい。
“ダイ・アントワード”で画像検索をすると、少し変わった写真がたくさん出てくる。

この二人にアメリカ(というあだ名っぽい。アメリカ出身のようだった)を加えた三人組のギャング団は最初は嫌な感じでも、映画が終わると結局愛しくなってしまう。

電源が入りたてのチャッピーは小動物のようで可愛かった。左右に付いている角のような形状のものが耳の役割を果たしているようで、興味を持ったときにはピンと立つし、怯えているときにはしょんぼりしたように寝てしまう。

そんなチャッピーを、他のギャングの中に置いてくるシーンは怖かった。普通、映画では夕焼けはいいシーンで使われることが多いけれど、このシーンの夕焼けは、すぐに来る闇を連想させて怖かった。何も出来ないと知るやいなや、石を投げたり火をつけたりと、ロボットなのに残酷すぎて涙が出た。

次第にギャングっぽい動きをするけれど、それをモーション・キャプチャーでシャールト・コプリーがやったのだと思うと楽しい。

決戦に赴く前にメンバーが横一列になって勇ましく歩く様子がスローでとらえられる、チームものでよくあるあれがパロディ的に取り入れられていた。あれは笑うところだと思う。だって、強盗に向かうのだから、本当は勇ましくなっていてはいけないシーンだ。でも、あったほうが盛り上がるシーンでもある。

このように、観たいシーンは逃さずにちゃんと入れてきているのを感じた。

一番個人的に盛り上がったのは、ムースの起動シーンだ。
ムースはその名の通り、動物のムースを連想させるような形をしている。四角っぽくて、スター・ウォーズのAT-ATの後ろ足だけみたいな形状だ。
でも、その重量感のある体で悠々と飛んでしまうのである。
そういえば前半で対空云々と言っていたけれど、自分が飛ぶとは思わなかった。飛び立ったときには、変な笑いがもれるくらいワクワクした。

ヴィンセントはディオンのAIロボットのせいで自分のロボットが追いやられていることに納得がいかない。強く憤りを感じているのは、自分のロボットの方が絶対にいいのにという自負があるからだ。そのせいで、少しずつ道を外れていく。
ヴィンセントを演じているのが、ヒュー・ジャックマン。このクソ真面目ゆえの暴走は少し『プリズナーズ』を思い出した。あれだって、最初は悪気がなかったけれど、どんどん道をそれていってしまった。
それでも、今回のムースを使うシーン、遠隔操作なので、実際に殺している感覚がないのか、ゲーム気分でニッコニコ笑いながら殺戮しているのを見ると、それはただの悪役でしたけども。

ディオンを演じたのは、デーヴ・パテール。『スラムドッグ$ミリオネア』の主役のあの人です。想像出来ると思いますが、ヒュー・ジャックマンとデーヴ・パテールが同じ会社のライバル開発者というのは少し違和感がある。

ヴィンセント(ヒュー)はディオン(デーヴ)の倍くらい体が大きい。ロボット開発者としてはディオンくらいの体つきでちょうどでは…と思ってたけど、ヴィンセントは元兵士という設定だった。元兵士らしく、作り上げたロボットもマッチョなのだとも思うけれど、元兵士でロボットまで開発できてしまうのは、かなりのスーパーマンではないかと思う。

最後のほうの展開はもしかしたら賛否両論なのかもしれない。だって、意識を移してロボットとして生きていく、なんてことをやったら、もう死すら怖くなくなるからだ。なんでもありになってしまう。ストーリー的にも倫理観的にも、大丈夫なのかなと思ってしまう。
でも、私はこのあまりにもSFー!という展開が好きだし、ニール・ブロムカンプっぽさも感じた。
『第9地区』では主人公は最後にエビ型宇宙人に変容してしまう。『エリジウム』も半分機械の体を手に入れる。それと同じである。

また、主人公だけでなくヨーランディもロボットになるということで、ニンジャ一人だけが人間という、この先の生活も大いに気になる。
ヨーランディだけロボットの形がチャッピー型ではない。ビョークの『All is Full of Love』のPVに出てくるロボットに似ている。別に同じ形でいいのに、一人だけ変えてきて、しかも、目をばっと開くシーンで終わる。
その辺も映像のかっこよさの追求なのかなと思います。

そもそも、PS4大活用してのそんな方法で人の意識が取り出せるの?とか、USBフラッシュメモリ(にしか見えなかったけど違うのかも)におさめられるの?とかいろいろと考えてしまうけれど、そこは近未来とかチャッピーが天才であるとか、いろんな逃げ道もあるので細かいことはいい。実際、後半のストーリー展開はパッパッパッとかなり早いので、あんまり深く構うなということなんでしょう。

エンドロールで知ったのですが、音楽がハンス・ジマーで、それがとても納得した。いやでも気持ちが盛り上がるブォーンという音がまさにハンス・ジマーでした。


『リピーテッド』


ニコール・キッドマン主演。コリン・ファースとマーク・ストロングが出ています。
原作は英国推理作家協会(The Crime Writers' Association)によって選ばれるCWA賞にて、2011年に最優秀新人賞を受賞した『わたしが眠りにつく前に』。原題が『Before I Go To Sleep』なので、このタイトルでも良かったのではないかと思う。
リドリー・スコットがさも監督かのような書かれ方をしているけれど、製作総指揮。監督・脚本はローワン・ジョフィ。有名どころだと『28週後…』の脚本などに参加している。

以下、ネタバレです。








9/11公開予定の『キングスマン』の予習というか、『裏切りのサーカス』のビルとジムというか、好きな俳優さん二人が揃っていたので観た。
二人は恰好良かったけれど、肝心のストーリーに不満が残った。原作は賞を受賞したとのことですが、映像化しているせいか、登場人物が少ないせいか、犯人は最初から察しがついてしまう。

朝、目覚めると昨日の記憶が消えているという記憶障害というものが実際にあるのかどうかわからない。事故のショック性のものらしかったので、精神的なものならばなんでもありなのかもしれない。

記憶を失っている主人公クリスティーンと一緒に彼女の記憶と、過去に何が起こったのかをさぐっていくわけですが、目が覚めたときに近くに居た人物が最初から怪しすぎる。記憶の無い人には何を言われても、それが真実と思わざるをえないだろう。なんでもできてしまう。
その夫だという人物と一緒に写っている写真が壁に飾ってある。近くには、“君の夫、ビル”というふせんまでご丁寧に貼ってある。あとになって実は写真が切り貼りだったことがわかるんですが、この写真しか手がかりがないならば、主人公は念入りに写真を見るのではないだろうか。それが、真ん中でハサミを入れてあるという、良く見たら気づく細工がしてあるのはお粗末すぎる。写真を慎重に観察しない主人公と、そんなことで信用させられると思っていたビル(を名乗る人物)に不自然さを感じた。

また、顔に殴られた痕や手にも傷が残っていたのを主人公本人は訝しんでいたようだったけれど、夫からの説明は無かった。そこは一番不気味なところだし、普通だったら傷について聞いたりもすると思う。どんな気持ちでその傷跡について放置したのかわからない。原作ではそのあたりの内面についても書かれているのだろうか。

イギリスではこの映画は2014年公開、その前の2013年に『レイルウェイ』が公開されており、そこでもニコール・キッドマンとコリン・ファースは夫婦役なのですが、狙ったキャスティングなのかどうかわからない。

コリン・ファース演じるビル(マイク)は、すぐにかっとする人物のため、クリスティーンのことを何度か殴るシーンがある。個人的な好みですけれど、あまりにも殴られすぎるのも気になった。原作の通りなのだとは思うけれど、あんまり女性が何回も殴られるのは見たくない。

あと、これも個人的な好みなのですが、マーク・ストロング演じる医師のナッシュが可哀想。親身になってクリスティーンに寄り添ってあげていた。キスをしようとしていたから、もちろん医者としてというだけではなく、私情もはさんでいたのだとは思う。でも、その場面ですら、混乱したクリスティーンに犯人と勘違いされてしまう。この時点で泣きそうである。

しかも、ラストはクリスティーンは元夫とあっさりとよりを戻してしまう。四年間、一度も会っていないということは、夫はクリスティーンのことを四年間放っておいたのである。その期間、親身になってクリスティーンのケアをし、彼女のことを一番に考えていたのはナッシュなのだ。
元夫にはクリスティーンの子供という切り札もあるし、ストーリー上のことを考えてもそれがきっかけで記憶を取り戻すから仕方ないのかもしれない。でも、ナッシュの立場は。

そもそもの話なのですが、コリン・ファースとマーク・ストロングというキャストが配されていたら、両方に迫られてその二人の間でニコール・キッドマンが揺れ動けばいいと思うのだ。そういう話ではないと言われてしまえばそれまでだけれども、私が見たかったのはそれだった。

だから、最後に事件があったホテルでマイクに襲われているときに、ナッシュが助けにきたら良かったと思う。病院ですれ違い様に「夫のベンだ。妻には手を出すな」みたいなことを言われたときに、何か彼女に危険が迫っているのは察知したはずだ。ここまでご都合主義だったのだし、理由なんて適当につけたらいい。
そうしたら、クリスティーンだって、ナッシュが自分のことを一番に考えていてくれたことに気づくだろう。記憶障害により忘れてしまったのかもしれないが、クリスティーンはナッシュのことを犯人だと勘違いした件について、謝ることもしていない。
何より私は、コリン・ファースとマーク・ストロングが殴り合う姿が見たかったのです。