2013年公開。フランス・ベルギーでは2012年公開。原題は『De rouille et d'os』。“錆と骨”という意味であり、英語版のタイトル『Rust and bone』はその直訳といった感じ。邦題はだいぶロマンティックになっている。

マリオン・コティヤール演じるステファニーは、不慮の事故で両足を失ってしまう。
ポスターなどで使われている、男性がマリオン・コティアールを背負っているシーンが出て来るのは、映画のクライマックスなのかと思った。おそらく男性は恋人なんだろうと思った。心が通い合った上で、あの状態になるのかと思った。

でも、背負うシーンは映画のかなり序盤だった。その後はステファニーは義足を付けて、杖をついて一人で歩くこともあって、まさに邦題のとおり、君と“歩く”世界になっていた。

普通だったら、男性が両足を失った女性を背負うという行為は恋人同士のものだと思う。なぜ、恋人でもないのにアリはステファニーを背負っていたのかというと、この男の人が少し変わっているからに他ならない。

後半に出てくるけれど、ステファニーがクラブでナンパされるシーンがあって、そこで、軟派客はステファニーの義足を見て、急に態度を変える。怖じ気づいてしまう。
ところが、アリはステファニーと対して交流があったわけでもないのに、両足を無くした彼女を見ても、驚きはしても普通に接し、おまけに家で落ち込んでいた彼女を外へと連れ出す。

おそらくステファニーは、この時点からアリのことが好きになってしまったのだと思う。
もう少し経ってから、“ちゃんと機能しているか確かめるために”セックスをするけれど、ステファニーはそれで一層好きになってしまった。

アリは最初から、ステファニーに好意はあったにしても恋愛感情は無く接していたし、セックスについても言葉以上の意味はなく、本当に確認のためにしたようだった。セックスボランティアみたいなもののようだった。
そういう友達もいるし、スポーツジムでも一回きりの関係を持つし、ステファニーがいる前でもクラブでナンパをして初対面の女性と一緒に出て行っていた。
彼にとってはセックスをしたからといって何かが変わるわけではないようで、ステファニーとの気持ちのズレが生じる。

アリは警備員の仕事中に、路上での賭け格闘技へスカウトされる。アリと一緒に居たいためなのか、同じ世界に身を置きたいからなのか、ステファニーもその裏仕事を手伝うことになる。両足に入れ墨をしたことすら、健気に思えた。
ただ、この時点でもアリはステファニーの気持ちに答えていたのかどうかわからない。

更に、アリは警備員の仕事で違法スレスレのことをやったせいで、仕事を失い、家族からも愛想をつかされ逃亡する。
この時に、ステファニーに連絡をするとか、ステファニーと一緒に逃げるとかすればいいのに、一人で逃げる。
ステファニーは行方を知らないかと周囲の人に聞いたりもするけれど、これ以降、最後のワンシーンだけで、もうステファニーの出番はない。アリだけの話になってしまう。
なんとなく、マリオン・コティヤールが一番有名だし、名前も最初に出てきたから、ステファニーが主役なのかと思っていたけれど、ここで実はアリが主人公だったことを知る。

アリの逃亡先へ、姉の夫が、普段は姉の元にいる息子を連れてくる。一緒に遊んでいたけれど、急に息子が行方不明になってしまい、アリは凍った湖に落ちたのではないかと慌てる。
そうは言っても、きっと元気な様子で後ろからひょっこり現れるんだろうなと思ったら、氷の下に子供が流れていて、本当に落ちていたのでびっくりした。

間一髪助け出し、病院で子供が意識を取り戻してからは、急に話がトントン拍子に進み出す。
意識を取り戻して心底ホッとしているところに、ステファニーから電話がかかってきて、アリは「愛してる」と告げていた。え?いつから?と思うくらい唐突だった。

そして、何年後かに舞台が移る。アリは何かの格闘技でチャンピオンになったらしく、ベルトが映っていた。息子もそばにいる。ステファニーも義足に慣れたのか、杖を使っていない。
アリは何もかも手に入れていた。急にすべてがうまくいきすぎて、もしかしたら息子は冷たい湖で死んでいて、それ以降はショックのあまり、アリが描いた妄想なのかと思ってしまった。
それか、いままで、学校へ迎えにいかない、乱暴な言葉遣いで怒鳴るなど、アリは息子を邪険にしていたが、今回、必死で助けたことによって改心したとみなし、事態が好転したのかと思った。いわば、おとぎ話とか昔話みたいなものですね。心を改めて良いことをすれば、自身にも良いことが起こる。だから、悪いことをするのはやめようという説教じみたもの。
ステファニーに「愛してる」と告げたのも、良いことの一部なのかもしれない。

この映画がラブストーリーならば、病院にステファニーが駆け付けて、直接顔を合わせて「愛してる」と言わせただろうし、抱き寄せるくらいのことはしただろう。ステファニーは両足を失っていて駆け付けることが難しいかもしれないけれど、なぜかアリの場所もつきとめていたようだったし、誰かに車で連れてきてもらうことも可能だったのではないか。
なので、ラブストーリー的な盛り上がりはあまりない。どん底の状態だった一人の男が心を改めることにより成功を勝ち取ることができた、という話なのだと思う。一人の男の人生の話だ。

実は主役じゃなかったし、後半はほとんど出てこないけれど、マリオン・コティヤールの演技がうまかった。最初の、落ち込んでいるというかショックのあまりやつれている様子から、海に連れて行ってもらって気持ち良さそうに泳ぐ様子への変貌に驚いた。義足を付け、たどたどしいながらも、少しずつ歩けるようになっていくのも、きっとつらいリハビリを乗り越えているのだろうと感じられた。とても強い女性なのだと思う。

また、中盤、かつての職場であるシャチのトレーニング場へ行くシーンがある。もう水の中には入れないけれど、水槽越しにシャチがちゃんと動き、コミュニケーションがとれていた。シャチはステファニーの足が失われていることはわからない。ステファニーも自分の足を奪ったシャチを恨んではいないのが伝わってきた。
一面が青く、音も無い。小さなステファニーが手で合図をすると、巨大なシャチがゆっくりと動く。とても美しいシーンだった。




2011年公開。アメリカでは2010年公開。2014年公開の『GODZILLA ゴジラ』のギャレス・エドワーズ監督。

ギャレス・エドワーズ監督は元々ゴジラシリーズの大ファンだったらしく、この映画もタイトル通り、モンスター=謎の巨大生物が出てきます。けれど、謎の巨大生物と人間の戦いが主題ではないところが面白かった。

カメラマンのアンドリューと社長令嬢のサマンサ(サム)の、危険地帯から安全地帯への移動が描かれている。
こう書くとつまらなそうだし、ギャースギャース言うパニック映画を期待して観た人には物足りないと思う。
でも、もしも本当に謎の巨大生物が現れたら…と考えたときに、おそらくこの映画のような状況になるのではないかというリアリティを感じた。
常に襲ってくるわけではない。案外、遭遇することも少ない。遭遇しても、こちらが何もしない限りは攻撃してこない。
なんとなく、自然災害に近いというか、『インポッシブル』を思い出させる雰囲気があった。得体がしれない、急に遭遇する巨大な力。相手に悪意は無い。

川を渡るシーンで、どうやら何かいるらしいとぞわぞわした雰囲気になっても、空がかき曇ったりはしない。謎の生物がいても、夕日はきれいなままで、それが逆に怖かった。自然現象はそのままで、謎の生物だけがそこにいる。本当にありえそうと感じた。

アンドリューとサムは年頃の男女ですが、別に恋人同士ではない。だから、別部屋にして、アンドリューがつれこんだ地元の女性にパスポートを奪われて…みたいな事件も起こる。ここでパスポートがあれば、苦労して移動することもなく、あっという間に安全地帯に帰れてしまい、映画も終わってしまう。
二人の関係を恋人にしないことで起こった事件は、話をスムーズに進めない役割も担ったけれど、それ以外にも距離感が良かった。

アンドリューには妻がいたが別れている。子供にも会えない。サムはフィアンセがいるが、いまいちうまくいっていない様子だった。
お互いの悩みを話し、最初はまったくお互いに興味のなかった二人が、一緒に旅をするうちに少しずつ心の距離を縮めていく様子が良かった。ロードムービーっぽくもあるのだ。

後半、二体の謎生物を見ている二人の表情が良かった。ちっぽけな人間など相手をせずに、夜の暗闇の中、強烈な光を発しながら、触手のようなものを絡ませる二体。もしかしたら交尾だったのかもしれない。それを見上げている二人の表情に浮かぶのは、恐怖というよりも驚愕で、今までには見たことの無い、何かとても綺麗なものを目撃して、言葉が出ないといった様子だった。

それは多分、今までの意識や考え方をぐるっと変えてしまうようなもので、二人に帰りたくない、離れたくないと素直な気持ちを吐かせたのだろう。

このシーンの少し前に、二人は軍に救護要請を送る。助けにきた兵士の一人が、ワルキューレの騎行を口ずさんでるんですね。
あれ、これって、映画の一番最初のシーンで出てきた兵士も口ずさんでて、「これは俺のテーマ曲だから」って言ってたような…と思い出し、何か嫌な予感がしていたら、兵士たちが二人の元に到着し、謎生物たちを攻撃し、空爆まで仕掛ける。

そこで映画は終わる。
まさか、最初のシーンがこれだとは思わなかった。

映画は夜の謎生物と兵士の戦闘シーンから始まって、次のカットでは朝になる。倒壊した建物が映っていて、おそらくさっきの空爆で壊されたのだろうと思った。そこにアンドリューがサマンサを探しに現れる。サマンサは病院にいて、腕を少し怪我していたものの無事で、二人で安全地帯へ戻っていく…という流れだった。
時系列では、最初の空爆シーンが最後だった。アンドリューがサムを探しにくるのが一番過去だった。

もう一度最初のシーンを見てみたら、ぐったりしたサムを抱えて叫ぶアンドリューの姿が映っていた。おそらく容赦ない空爆によるものだろう。後半に誰もいない村が映るけれど、あれも、謎生物に破壊されたわけではなく、空爆で破壊されたのだと思う。

これはつらい。けれど、話の作り方がとてつもなくうまい。特に、ワルキューレの騎行を口ずさむ兵士が出てきたときの、もやっとした違和感と不安感がたまらない。
二人の気持ちが通じたし、謎生物も実は悪者ではないのではないかという希望のようなものが沸いてきて、ああ、ハッピーエンドだなと思ったところでの突き落とし。
どんでん返しの一種ではあると思うんですが、おもしろい手法だと思った。






2012年公開。アメリカでは2011年公開。
ジョージ・クルーニーが大統領候補役でライアン・ゴズリングがその選挙スタッフ…というのはなんとなく知っていた。二人を押し出したポスターなどを見ていたけれど、二人の映画というよりは、ライアン・ゴズリングが前面に出ているのに対して、ジョージ・クルーニーはあまり出ていない印象だった。

映画というよりも、政治スキャンダルを取り扱ったドラマのような、少し小粒な印象だった。政治が題材であっても、難しくならずに、裏切った裏切られたの人間関係のごたごたが描かれている。そのわりに、上記の二人の他に、フィリップ・シーモア・ホフマンやポール・ジアマッティ、ジェフリー・ライト、マリタ・トメイなど出演者がやたらと豪華。
なんとなくちぐはぐな感じがしたけれど、この映画の監督がジョージ・クルーニー自身だと知って納得した。

知らずに観ていたけれど、知ったあとだと、(こんなことを思われたくないだろうけれど)俳優が監督したものとしてはすごくよくできているし、そちらでの才能も感じた。
終盤の、暗闇の中で知事(ジョージ・クルーニー)とスティーブン(ライアン・ゴズリング)が対峙するシーンの緊迫感など好きでした。

また、この作品はもともと、実際の大統領選挙に立候補した方の選挙スタッフだった方が書いた戯曲が元になっているらしいけれど、その戯曲だと、不倫をするのはポール(フィリップ・シーモア・ホフマン)だったらしい。知事は出てこないとか。
それはそれで、裏方だけのごたごたというのもおもしろそうだけれど、映画にするためにはもう少し広げたほうがいいだろうし、不倫をするのが知事というのもより衝撃的になっていいと思う。
この辺の変更はジョージ・クルーニーが行ったみたいだし、アカデミー脚色賞へのノミネートもうなずける。

元々の戯曲は『Farragut North』というタイトルで、この芝居の映画化というのをわかりやすくするために同じタイトルにしたほうがいいのではないかという意見もあったらしいけれど、ジョージ・クルーニーは『The Ides of March』に変更したらしい。
Farragut Northは、南北戦争で北軍を指揮したファラガット提督…というよりは、単純にワシントンの地名でいいのかな。
The Ides of Marchは3/15の意味。「3/15にご用心」というのは、占い師からジュリアス・シーザーへの忠告であり、その後、「ブルータス、お前もか」になる。つまり、身近な者の裏切りというわけですね。

このタイトルもうまく付けたなと思うんですが、邦題ではジョージ・クルーニーのその苦労を無視されている。サブタイトルが付いているし、原題が『スーパー・チューズデー』なのかと思ったら違った。何より、映画を観てみると、選挙そのものよりも、その裏のどろどろしたやりとりが描かれているので、邦題は安直だと思う。
けれど、なんとなく選挙の映画という印象を植え付けることには成功しているし、苦肉の策でもあるのかもしれない。





映像の情報量が多い作品なので、二回目は吹替で観ました。

以下、ネタバレです。







もはやヒット作特有になっていますが、『アベンジャーズ』シリーズにも芸能人が吹替で参加している。『アベンジャーズ』がテレビ放映された際に初めて吹替で観たけれど、竹中直人のニック・フューリーは似合っていて違和感がなかった。ホークアイの宮迫も下手というほどではなかったけれど、今回はホークアイ自体のセリフが多いしどうだろうと思った。けれど、そこまで気になりませんでした。
ブラック・ウィドウの米倉涼子は棒読みではないけれど、米倉涼子の顔が見えてきてしまう。特に今回はナターシャの気持ちの変化やバナー博士に対しての行動などがいまいち納得がいかなかったため、吹替で観たら余計に気になってしまった。これは米倉涼子だけのせいというわけではないので申し訳ないけれど。
ナターシャは『キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』のガムくっちゃくっちゃやってるみたいなのが好きだったから、今回の女性っぽい部分を見せられても戸惑ってしまう。

その他、キャプテン・アメリカが言葉遣いについて注意したことをずっと引きずられるのとか、「あらかた片付いたな」「全然片付かないな!」みたいな掛け合い部分はなぜか英語のほうがわかりやすかった。観ていて、ああこれ、さっきのあのセリフから繋がってるのかという、お遊び部分というかストーリーを粋に見せるだけだから、直接話の進行には関係ない部分ではあるけれど。原語版のほうがそのようなニュアンスが伝わってきやすかった。

J.A.R.V.I.S.とヴィジョンについては、私はポール・ベタニーの声がおぼえられていなかったため、吹替のほうが、J.A.R.V.I.S.と同じ声というのに気づきやすかった。ただ、ヴィジョンは外見がポール・ベタニーなので、J.A.R.V.I.S.が体を手に入れたんだなというのはわかりますが。
二回目では、ヴィジョンの無敵っぷりが目立った。特に、ソーのハンマーを軽々持ち上げられた理由がわかった上だと、余計に神々しい。
最後、円になって戦うシーンでも、ヴィジョンを目で追ってしまった。飛び方も力みがなくて、ふわっと飛ぶ感じがかっこいい。敬語なのも、底知れなさが感じられてたまらない。

最初のほうのパーティの余興でみんながハンマーを持ち上げようとするシーン、バナー博士がどんなに力を入れても持ち上がらなくて、そのあとウガー!とハルクに変身しちゃうぞ!みたくやるのに笑った。周りのみんなが、え、笑えないよ、冗談と思えないよといった感じにひいているのが面白い。

吹替で観ると、二回目なせいもあるかもしれないけれど、確かに画面に集中もできるし、ストーリーの流れもわかりやすかった。
ただ、一番わかりやすかったのはウルトロンの歌う歌だった。♪自由ってやつは、楽しいもんだぜ…。
これは、ピノキオの『もう糸はいらない』という曲で、英語で歌っていてもいまいち何の曲かわからなかった。それは、ピノキオ自体を吹替で観ていたからで、この曲も日本語で歌われているものしか知らなかったからだ。トニーの手を離れて自由に暴れるウルトロンが楽しげにこの曲を歌うのは不気味である。

最初に、「避難せよ。これは訓練ではない」という放送が流れるんですが、これって、前作でもこれと同じ始まり方なんですよね。
前作では、四次元キューブのことを調べていて、ロキが襲ってきたところでこの放送が流れる。
今作ではこれはソコヴィアの研究施設内で流れる。避難せよというからには何か危機が迫っているんですが、今作ではその危機がアベンジャーズだというのが皮肉である。
初っ端から敵にされているんですが、ソコヴィア市民からも、アベンジャーズは嫌われている描写が入っていた。
また、ヨハネスブルグでもハルクとハルク・バスターで町中をめちゃめちゃに破壊して、もうアベンジャーズはヒーローとは言えないような存在になっていた。

前作ではニューヨークを宇宙からの侵略から救い、テレビでも報道されて、皆がアベンジャーズを讃えていた。その時点では正義の味方だった。
でも今作ではこのざまだ。ソコヴィア市民の避難は手伝っていたから、彼らからの信頼は勝ち取ったかもしれない。けれど、世界の他の人々はどうだろうか。
更に、今回の騒動の原因であるウルトロンをトニーが作ったということが知れたらどうなるのだろうか。今作では、最後のほうのことについて、マスコミがどの程度の報道をしているのかがわからなくて、一般市民の感情も、ヨハネスブルグのあたりまでしかわからない。その時点では、ハルク逮捕まではいかなくとも時間の問題というような感じだったらしいけれど。

今回、前作のような打ち上げがなかったのが残念だけれど、そもそも、原因がトニーなのだから、打ち上げもなにもない。ラストでバラバラになってしまうのも仕方ない。さみしいけれど。

でも、トニーが原因とはいっても、トニーはトニーでこれが最善策と思ってやったことでの結果だから仕方ない。みんなを死なせたくないから代わりに人工知能に戦ってもらおう、俺にはそれが作れるはずだ。発端は、アベンジャーズメンバーが傷つくのは耐えられないという優しい気持ちなのだ。
トニーは「学級会を開いたら反対されるから」という理由でバナー博士を味方につけてこっそりウルトロンの開発をしたが、学級会を開くのも、反対するのもスティーブだと考えていたのだろう。

破天荒で終わりよければすべて良しというようなトニーと、徹頭徹尾きっちりやっていきたいスティーブでは性格が合わない。
そうなると、今回何回か出てきたやりとり、キャップがアイアンマンの言葉遣いを注意したことすら伏線に思えてくる。
バートンの家での薪割りシーンや最後の会話など、なんとなく二人の確執めいた関係が見え隠れしていたようだった。

次のキャプテン・アメリカのサブタイトルがシビル・ウォーというのもいろいろと考えさせられる。

今作では、一番の聖人に思えていたキャプテン・アメリカがなんとなく普通の市民と同じように暮らすのに抵抗をおぼえ、住む家もないという裏の部分を見せてきた。
また、自分の過去について卑下するような発言もしていた(“進んで実験台になるなんて”)。
アベンジャーズのリーダーとしてキリッとしてはいたけれど、ヒーロー然としていない部分も見えてきたのは、ヒヤヒヤするけれどドキドキもしてしまう。

ともかく、これまでとこれからがあってこその本作だと思う。これ単体ではなかなか語りづらいというのは、一本の映画としてはもしかしたら正しくない姿なのかもしれないけれど、シリーズを楽しんできているファンからしたら、次のMCUが待ちきれない。

『スーパー!』



2011年公開。『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』のジェームズ・ガン監督。

日本では『キック・アス』の半年後くらいに公開された本作ですが、なんとなく似たような作品なのかと思っていた。私生活では冴えない男が自分を変えるために自警団じみたヒーローになるといった感じに。ざっくりとした、大筋はその通りなのだけれど、途中から進む方向が変わり、ラストも違う。
元も子もないことを書いてしまえば、『キック・アス』と同じで良かったのに…と思ってしまった。

オープニングはあまりうまいとは言えないイラストのアニメで、でも、悪役もヒーローも動物もみんな揃って楽しそうにしていて、なるほど、ギャグ混じりのこのノリかと思った。

『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』同様、マイケル・ルーカーとジェームズ・ガンの兄、ショーン・ガンが出てくる。この二人は『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』ではラヴェジャーズという主人公たちを襲いながらも、悪役ポジションではないところに位置するグループに属していた。邪魔されても、憎めない。
今回も二人は同じ“悪役”グループに属していて、今回もきっと、この二人は憎みきれない役柄なのだろうと思い込んでいた。リーダーもケヴィン・ベーコンである。
けれど、オチも何もなく、本当に悪いやつらだった。

序盤で主人公がヒーローになれという天命を受けるシーンがあるんですが、主人公の頭がぱっくり割れて、脳がむき出しになり、そこに触手みたいなのが直接何かを塗りこむという、グロテスクな映像だった。作り物感バリバリだし、イメージ映像としてはこのようなものを挟むのはB級っぽくていいかなとも思ったけれど、この先の主人公が攻撃するシーンなどももれなくグロテスクだった。

ヒーローとは言っても、自作のスーツ(縫い目がものすごく雑なのは笑った)を着ただけで、特殊能力を手に入れたわけではない。だから、武器(=レンチ)を手にして悪人をめった打ちにする。血が吹き飛ぶ。
ニュースでは主人公のほうが犯罪者扱いにされていて、このジレンマはおもしろいと思った。

また、アメコミショップの店員の女の子が、ヒーローの相棒をやろうとするのもおもしろい。アメコミショップで働いてるから、オタクというかアメコミヒーローに詳しくて、主人公の行為もかっこいいと思うし、バットマンにはロビンだろ、と相棒の存在も必須だと思っている。
この子がエレン・ペイジなんですが、自作のスーツに身を包んだ時の自慢げなセクシーポーズがとても可愛い。
主人公はあんまり歓迎していない様子だったけれど、いいコンビに思えた。

それで、二人は悪人のアジトに乗り込む。もうここから先は、ファンタジーにしてくれて良かったのに。
特殊能力を持っていない二人が悪人のアジトに乗り込んだらどうなるか。危険に決まっている。そして、死人も出る。
憎めない悪人だと思っていた二人は、むごたらしい方法で殺される。主人公の相棒ボルティは顔を半分破壊されて殺される。
主人公たちは死なないなんて漫画だけの話だ。死ぬにしても、綺麗な姿のままなんてことはないのだろう。

そんなことはわかっている。でも、そんなリアリティの追求はしなくても良かったのに。

主人公の妻の“コマとコマの間で起きていること”というセリフがすべてを表しているのだと思う。漫画では飛ばされている部分。人が目を背ける部分。映画では、それを敢えて描いたのだろう。

その試みはわかった。でも、漫画が何故それをコマとコマの間に落とし、わざわざ描かないのか考えてみたらわかるだろう。読者が楽しめないからである。
もうこれは好みの問題でもあると思うけれど、私は楽しめると思って観ていた。ましてや、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』のジェームズ・ガン監督である。痛快エンターテイメントみたいなものを期待していた。

しかし、ラストでは、すべてをかけて救い出した妻も家を出て行き、手元には新しく飼いはじめたうさぎしか残っていない。うさぎを撫でながら、完璧な瞬間を描いたイラストを見て、一人、涙を流しているのである。
完璧な瞬間が増えたのは良かったと思う。けれど、主人公は笑顔ではなく、涙を流している。悲しんでいるのだ。
イラストを見つつ、少しでも笑顔になっていたら、妻は出て行ってもヒーロー活動を通じて楽しい思い出がたくさんできたからいいと納得はしているのだろうと思う。
また、妻は出て行っても、ボルティが生きていたら、この先も二人で楽しくヒーロー活動できたと思う。
でも、妻もボルティもいない。うさぎはいても、主人公は泣いている。

じゃあ、主人公にとって、ヒーロー活動とはなんだったのだろうか。まったく関係のないアメコミショップの店員さんを巻き込んで死なせるという犠牲を払いながら、救い出した妻は出て行った。思い出も彼の心を癒せない。

できれば、ハッピーエンドの話が観たかった。ハッピーエンドじゃなかったとしても、後味が悪くなければ良かった。主人公のこの先のことを考えると不憫でならない。不憫にならない程度にファンタジーにしてほしかった。

ジェームズ・ガン監督自身も出演していた。テレビのヒーローに捕まっている悪魔、デーモンズウィル役。真っ赤に塗られていても、顔はそのままなのでわかる。ロープでぐるぐる巻きにされ、動けないけれど、抵抗するように長い舌を出し入れしていた。







2010年カナダで上映。日本ではWOWOWで放送された後、DVDがリリースされて劇場公開も少しずつ行っている。

グザヴィエ・ドラン監督、主演。『Mommy/マミー』で母親を演じたアンヌ・ドルヴァルも少し出てくる。

フランシス(グザヴィエ・ドラン)とマリー(モニカ・ショクリ)は友達で、同じタイミングで同じ男の子ニコラ(ニールス・シュナイダー)を好きになってしまう。少女漫画のような話だった。
二人とも別に好みじゃないけどねと言いながらも、最初からニコラのことが気になって仕方がない様子だった。この辺は、思わず顔が笑ってしまうのが抑えられない表情や鏡の前でおめかししている様子から察することができる。

二人は牽制をし合っているけれど、マリーはやはり異性という強みがあるからなのか積極的で、フランシスは偶然を装って会ったりと健気。異性/同性ではなく、単に二人の性格なのかもしれない。

たぶんニコラの誕生日会だと思うけれど、パーティに二人が呼ばれるけれど、ニコラはすでに酔っぱらっている。プレゼントも適当に置いておいてと言われ、開けてももらえない。二人とも、ニコラのことを考えて一生懸命プレゼントを選んでいたし、パーティに向かう最中もニコニコしていた。報われない。
それでどうするかというと、二人でお互いのプレゼントを褒め合うというよくわからないことになっていた。でもこれは、本当は二人とも、ニコラに褒めて欲しかったんだよね…と考えると悲しい。
それでも、パーティで踊るニコラを見て、二人とも一気に恋心を燃やしているのがわかった。目を見開き、彼の姿に釘付けになっていた。

次のシーンでニコラはちゃんと、フランシスがあげたタンジェリン色のセーターを着て、マリーのあげたカンカン帽をかぶっていて、律儀な態度をとっていた。パーティで相手できなかったことのアフターケアというか。
なんとなく、ニコラは全員に同じ態度をとっているのではないかとも思った。パーティでは女の子に人気があったようだし、女友達にパスタを作るという話も出てきていた。
二人が自分に好意を向けていることを知った上での態度なのではないだろうか。
ニコラの母親(アンウ・ドルヴァル)が結構強烈な人物で、きわどい衣装のダンサーを生業としていて、世界興行にニコラが小さい頃に連れて行っていたらしい。ニコラは周りのダンサーたちにちやほやされていたとか。そんな風にして育ったら、少し問題のある人物になりそうな気がする。

三人の仲は縮まって、別荘へ遊びに行く。
車の運転席にはニコラ、助手席に座ったマリーはうきうきだったけれど、夜に焼いたマシュマロをニコラがフランシスにあーんで食べさせる一連の行動を見て、機嫌を損ねる。
確かに、こいつやっぱり知っててやってるよな…と思うような感じに、食べさせ方がやけに性的だった。それとも、幼い頃に身につけた媚び癖みたいなものなのだろうか。
一人で部屋に戻って寝たマリーが朝起きても二人はいない。探すと、遠くへ散歩に出かけている。

映画を観終わった今となっては、これもマリーの性格なのかなと思うけれど、激しく嫉妬をしてしまう。一人で帰ると言い、二人は追ってくるけれど、フランシスに平手打ちをして結局取っ組み合いの喧嘩になってしまう。
遅かれ早かれ、こうなっていたかなとは思うけれど、フランシスはいくらマリーが助手席に座っても、別に周囲に迷惑をかけるような嫉妬はしなかった。もちろん心の中では自分も助手席がいいとは思っていたとは思うけれど、おそらく三人の関係を最優先にしているから、こんな行動はとらない。

この喧嘩をきっかけにして、三人はバラバラになってしまう。ここでの行動も、フランシスはあくまでも三人の関係を修復しようとし、マリーはどうにかして二人で会おうとしていた。
マリーはセックスフレンドにぐだぐだと文句を言っていたけれど、元はと言えば、自分のせいで調和が乱れたのだ。平穏に楽しく過ごしていたのに、独占できないと癇癪を起こす。でもきっと、三人の関係では物足りなくなってしまったのだろう。

フランシスは店で思い出の味マシュマロを買って、一口食べてニコラのことを思い出していた。なんて健気。

それで、結局ニコラにちゃんと告白するのもフランシスのほうなんですよね。結局、「僕はゲイじゃない」という、どうすることもできない理由で断られてしまうけれど。
マリーは偶然ニコラに会ったときにも、あの手紙は実はあなた宛じゃなくてねなどと言い訳めいたことしか言っていなかった。
振られてしまったのは悲しいけれど、虚勢をはらずにちゃんと告白したフランシスはえらいと思う。

マリーはニコラをお茶に誘う。そこでも関係ない話をしながら、「それで、あれからニコラには会ったの?」みたいな聞き方をしていて、始めからそれが聞きたくて呼んだんだろうに!と思ったけれど、たぶん、本当にこうゆう性格の女性なんだと思う。
店を出ると雨が降っていて、傘をさしたマリーと傘を持っていないフランシスが並んで歩いている後ろ姿が映される。マリーがすっと傘に入れてあげて、特にセリフはないけれど、仲直りしたのがわかる。

一年後に、何かのパーティで二人はニコラに会う。ニコラはたぶん、例の調子の良さで近寄ってきて、「会えて嬉しいよ」などと言おうとするけれど、言っている途中でフランシスが叫び声をあげて、言葉をかき消す。
当たり前だ。ふられてるんだ。そして、受け入れる気がないならもう、近寄って来るのはやめて。
この意見は、二人の間で一致したようで、マリーは気丈に、何も言わずにニコラを睨んで追い払う。ここでの態度も二人の性格の違い、そして、上っ面だけで行動するニコラの性格がよく出てておもしろかった。

そして、そのパーティにて。二人は新たな恋に落ちる。同じ人の元へ、すっと歩み寄っていくシーンでおしまい。
懲りない。また悪い男そう。二人は仲良しだから好みが似てるんだ。これ、きっとニコラの前にも同じようなことがあったんだろうなと思う。

このシーンとエンドロールにかけて、ダリダの『Bang Bang』という曲が流れる。本編中にも何度か流れて、映画内で同じ曲が何回も使われるのは珍しいのではないかと思った。たぶん、恋に落ちるシーンで流れていたようだった。
フランチ歌謡というか、日本の昔の歌謡曲っぽいというか、日本の昔の歌謡曲がフレンチ歌謡の影響を受けているんだろうけども、悲しげでメロドラマっぽくなっていた。

現在のように構図が凝っているというのはあまりよくわからなかったけれど、スローモーションが多用されているように感じた。

あと、マリーとフランシス、それぞれの恋人ではないパートナーとのセックスシーンがあるけれど、ニコラを好きなときはマリーが赤いライト、フランシスが青いライトだった。喧嘩後はマリーが黄色でフランシスが緑。きっと何か、色に意味がありそう。
ライトが全体的に当たっているので、裸だけれど肌色ではなく、行為そのものというより指の動きや抱きしめるしぐさなどで表されているので、いやらしくはなく美しい。ここもスローです。他の映画では見たことの無い表現だと思った。

あと、ちょっとしたことですが、かくれんぼをするシーンで、数を数えるときに「ワインが一本、ワインが二本…」と言っていたんですが、フランス語圏では当たり前のことなのだろうか? すごくフランスっぽく感じた。





主演はトム・ハーディ。先々週の『マッドマックス』、先週の『オン・ザ・ハイウェイ』に続いて三週連続公開、しかもそのすべてが主演だからすごい。海外では公開時期がこんな重なり方をしていないことを考えると、日本は『マッドマックス』に合わせたのかもしれない。
けれど、『マッドマックス』は結構いい評価を聞くけれど、トム・ハーディが良かったと言っている人は、もともとトム・ハーディが好きだったor知っていた人ばかりのようなので、あの映画をきっかけに人気が出たりはしていない模様。

2009年版『このミステリーがすごい!』の海外版第一位ということで、この作品は、たぶんどんでん返しがあるのではないかと思い、いつも以上に情報を入れないで臨んだ。原作も未読です。

追記:原作を読みました。文末に原作の感想を加えました。


以下、ネタバレです。






この小説の内容、例えばどこが舞台になっているか、どの時代の話なのかくらいは頭に入れておいたほうが良かったかもしれない。
トム・ハーディ、ゲイリー・オールドマン、パティ・コンシダインが出ているのに、舞台がイギリスではない。トム・ハーディ演じるレオはソ連にいるようだけれど、イギリスがソ連側についているときの話なのかと思いながら観ていたけれど、まるで自国のような態度をとっている。
そして、レオの上官役がヴァンサン・カッセル(フランス人)だったので更に混乱した。ただ、その時はヴァンサン・カッセルがイギリス人の役をやっているのかと思った。

ただ、軍服や髪型がイギリス兵っぽくない。しかも、なぜスターリンを崇め、恐れ、従おうとしているのかわからなかった。粛正と言っていたけれど、別の国の人も粛正されるのだろうか。

このイギリス人たちはソ連で何をやっているのだろうと思いながら観ていたけれど、途中から、この人たちはもしかしてロシア人なのではないかと思い立った。
劇中ではほとんどファーストネームで呼び合っているからわからなかったけれど、エンドロールで役名の部分を見ると“v”で終わっていることが多く、ロシア人の名前なのがわかった。
ちなみに、MGBというのが何なのか私は知らなかったんですが、KGBの前身だと知っていたら、もっとはやくわかったと思う。

イギリス人もフランス人も、ロシア人を演じている。監督のダニエル・スピノーサがスウェーデン出身らしく、ジョエル・キナマン、ノオミ・ラパスと、スウェーデンの俳優さんも出てくる。ジェイソン・クラーク(オーストラリア人)も少し出てきます。すべて、ロシア人(ウクライナ人)役です。とても妙な感じ。
もちろん全員ロシア語ではなく英語を話している。聞きづらいような、聞きやすいような、少し変わった発音だと思ったんですが、ロシア語訛りの英語にしたらしい。東京の人が関西弁で芝居をするののもっとひどい版。

新聞の紙面が映るシーンがあるんですが、それはロシア語で書かれていた。写真はトム・ハーディで、英雄と讃えられていた記事だったので、ロシアの新聞がイギリス人をあんなに大きく取り上げるのか…と思っていたら違った。

これ、ロシア人俳優を使うことはできなかったのだろうか。この前観た、『あの日の声を探して』のロシア兵役の青年のことを思い出していた。
ただ、この映画はロシア国内での上映が禁止になっているらしいので、それもできないのだろう。“第二次世界大戦に関する歴史的事実が歪曲されている”とのこと。

怒っているということは、原作者は?と思ったら、イギリス人らしい。イギリス人が書いたソ連を舞台にした小説を、スウェーデンの監督が映画化し、イギリス人とスウェーデン人とフランス人とオーストラリア人がロシア人役を英語で演じる。ソ連の話でありながら、ソ連の人は制作には一切関わっていない。妙な感じである。ちなみに原作本もロシアでは発禁らしい。

“このミス一位”=どんでん返しというのが安直すぎた。原作がどうなっているかはわかりませんが、劇中の犯人は中盤くらいで明らかになる。
最初に出演者の名前が出るタイプの作品ですが、その中でまだ出てきていない人が犯人だろうと思ったらその通りだった。

どんでん返しがあるとすれば犯人のいきさつですが、パティ・コンシダインが概要をわりと早口でべらべら喋って、結構早めに別の人に撃たれちゃうんですよね。これも原作通りなのかもしれないけれど、もっと、喋っているところが聞きたかった。彼も演技のうまい俳優さんだし、じっくり見たかったのだ。
そこでレオ(トム・ハーディ)が言い返すんでもいい。二人が話すところは、たぶん映画の中でも一番大事なシーンだと思うし、もっと丁寧に撮ってほしかった。

それが、急に現れたワーシリーにすぐに撃たれる。その前のシーンでも同僚を後ろから撃っていたし、その早急に撃つというのはもしかしたらワーシリーの性格なのかもしれない。

それでも、映画の中では“ため”みたいなものや緩急が大事だと思うし、なんというか、情緒が無い。連続殺人事件に不気味さが足りないのも、結局情緒の無さが原因だと思う。

ゲイリー・オールドマンとトム・ハーディのシーンを見ながら、もっとうまくやったら『裏切りのサーカス』のような雰囲気になれたのではないか。
いい俳優が集まってていい原作(読んでないけれど)があるのに、もったいない。

トム・ハーディは、最初のほうは「綺麗な女性に名前を聞いたら嘘の名前を教えられましてね、はははは。それが今の妻です」みたいな話をレストランでみんなの前で自慢げに話していた。スターリンの時代に、自分の仕事に疑問を持たないMGBというのは、仕事に熱心であっても良い人とも言いきれない気がする。
序盤はかっちりとした制服を着て、後ろに髪の毛を撫で付けて、顔の色も白かった。悪い奴に見えた。けれど、左遷され、ついには制服自体を脱いだりと、どんどん人間臭くなっていっていた。
最後の、妻と一緒に姉妹を養女に向かえようというシーンでは、すっかり弱い男というか、おどおどしてしまっていて可愛い感じすらした。

三週連続のトム・ハーディの比較ですが、アクションが見たいなら『マッドマックス』、演技が見たいなら『オン・ザ・ハイウェイ』、軍服が見たいなら『チャイルド44』といったところ。三作品でまったく違う印象なのはすごい。トム・ハーディ自体の印象ももちろん違うけれど、印象の違う三作品に呼ばれるトム・ハーディという俳優の幅広さに驚く。また、今回の三作品は主役ということもあって、結構かっこいいタイプのトム・ハーディでしたが、ブロンソンとかベインの時もあることを考えると…(ブロンソンも主役です)。

あ、あと、三作の共通点は車です。




以下、トム・ロブ・スミス『チャイルド44』原作の感想です。
映画は原作の一番大切なところを削っているようだった。
原作のネタバレあり感想です。





イギリス俳優が主役で、その妻役と同僚役がスウェーデン俳優で、上司がフランス俳優で…というロシアが舞台なのになぜ欧州俳優でかためているのか、それがこの映画が印象がよくなくなっている理由ではないかと思っていたけれど、俳優さんたちに罪はなかった。
そもそも、原作者のトム・ロブ・スミス自体がイギリスの作家で、母がスウェーデン人、父がイギリス人だそうなので、もしかしたら、キャストは作者のリクエストだったりするのかもしれない。それか、キャスティングした人が考慮しているのかも。

そもそも、この原作本自体が、ロシアで発禁になっているそうなので、ロシア俳優を使って映画化などできないのだ。

原作を読んでみると、映画では人物描写が薄いことがわかる。そのくせ上澄みを救うようにして、話の流れだけは原作通りなので、本を読んでいても話がわかってしまったのは残念だった。小説を先に読むべきだった。

映画では、ワーシリーのレオに対する執着心がまったく感じられなかった。原作では、家族はいても、それは国民として当然という義務のように妻をめとり子をもうけただけで、深く思っているのはレオのことだった。憎んではいても、愛しているようにも見えた。憎んでいても、他の人に殺されたり勝手に死ぬのは許さない。殺すのは自分だと思っていても、本当に死なれるのは困ると思っている。彼の生き甲斐のようだった。
死ぬ間際にレオの肩に手を置くという描写も素晴らしかった。

拷問シーンもなかったが、あそこでレオが朦朧としながら本名を吐き、それを聞いたワーシリーがレオの秘密に触れて興奮するのだ。原作は下巻の後半半分以降が特に良かった。

映像化するにあたってのことだし仕方がないのかもしれないけれど、残酷描写などがすべて省かれているようだった。
ライーサの過酷な過去についても、話だけでもいいから入れて欲しかった。あれがあるとないとで、彼女の味方がだいぶ変わる。

あと、もうこれは映画が一番駄目な部分だと思うんですけど、犯人の正体がしっかり描かれてなかったのではないかと思う。描かれていたとしても、観ても忘れてしまうくらいあっさりしたものだった。

まず、発端としての兄弟の猫の狩りの部分が無い。もしかしたらこれも、映像化するにあたっての残酷描写の排除なのかもしれない。猫が可哀想、みたいな感じに。
子供の殺され方も映画では描かれなかった。これも残酷描写だからかもしれないけれど、殺され方が本作のキモであり、一番重要な部分なのだ。

それで、そこが省かれてるものだから、犯人がぼんやりしたものになってしまった。車の工場に犯人をさがしにレオが潜入する。犯人はそれに気付き、逃げ出す。森の中でレオが犯人を捕まえる。ワーシリーもここでどさくさにまぎれて撃たれていた気がする。子供だけの連続殺人事件という凶悪犯罪を起こしておきながらあっさりしたものである。犯人にまったく個もない。

本を読んでびっくりした。犯人は最初に出てきた弟なのだ。
愚図でのろまな弟が、小さい頃から兄をずっと探していて、兄に教わった狩りの方法で子供を殺し、いつか自分をさがしてくれるのを待っていた…という部分が映画ではまるまる省かれていた。
兄に対する憧れがいつしか憎しみに変わってるんですよ。部屋にはレオの新聞記事の写真を切り抜いたものがたくさん貼られている。病的である。レオは愛憎に近い気持ちを二人から向けられているのだ。濃い。
最後の、対峙のシーン、二人で子供の頃のようにカードゲームをやるシーンはぞくぞくした。
実は一番近い人物が…というのは、どんでん返しとしても有効である。

映画ではレオの過去もほとんど描かれなかった。だから、主人公についても薄い。犯人もぼんやりしている。一体何を描きたかったのだろう?  本当に見所はトム・ハーディの軍服姿だけである。







2013年アメリカで公開。日本では劇場未公開DVDスルーの作品。
『ヒックとドラゴン2』にしてもそうだけれど、この作品も劇場で観たいと思わせる演出が多かった。ただの劇場公開だけではなく、3Dで観たいと思うシーンがたくさんあった。このような作品がDVDスルーになってしまうのは残念。
監督はクリス・サンダースとカーク・デミッコ。クリス・サンダースは『ヒックとドラゴン』シリーズの監督でもあります。

ただ、主人公たちが原始人一家なので、とっつきにくい雰囲気なのもわかる。おもしろいと噂は聞いていても、少し疑いながら見始めた。

けれどこれが、原始人である特徴を生かしたアクションと話運びで、わくわくする作品に仕上がっていた。

原始人である特徴とは言っても、本物の原始人がどんなものなのかはイメージでしかわからない。でも、最初の狩りのシーンからスピード感溢れていて最高でした。
狩りといっても卵を盗むんですが、家族でまるでラグビーのようにして、後ろから追いかけてくる他の動物を振り切りながら突っ走る。まるでスポーツもののようだった。この部分の音楽も恰好良かった。

他にも動物的な動きが多かった。家族の赤ちゃんのサンディは凶暴な子犬のようだったし、体にまとった毛皮の背中の部分に犬の足跡マークがついていた。
お姉さんのイープは虎の毛皮で、動きも野性的、中でも他の人から虎に例えられることが多かった。ちなみに吹替えているのはエマ・ストーン。ハスキーな声が男勝りなイープによく合っていた。

クルード一家の大黒柱である父のグラグは危険なことがありそうだと、事前に動き家族を洞窟へ押し込んだ。それは家族を思ってのことだし、そうして来なかった他の家族は事故でいなくなってしまった。家族が無事に過ごしていられるのは父の用心のためといえる。

それでも、イープはつまらない。そこに外からガイという少年がやってくる。

ガイは、クルード家、特にグラグとは考え方が違う。ガイが進歩的、グラグが保守的といった具合に。一人で外で過ごし、危険から身を守る術を学んでいるからなのか、いろいろなことを知っているし、クルード家よりも文化的な生活を送っているようだった。

外から火や靴、傘などの道具が持ち込まれ、クルード家の中で革命が起こる。全員が自分で考えるようになり、様々なアイディアを思いつき、行動をする。それは原始人から一歩進んだ、まさに人間の進化を見るようだった。原始人一家を主人公にした意味がここで見える。

そんな中で、グラグだけは考えを変えられない。皆が一家の父親である自分に従わないことに納得がいかなそうだった。
このままでは父の威厳が保てないと、ガイにならっていろいろとアイディアを出してみるが、どれもこれもイマイチ。でも、そこが憎めない。
ちなみにグラグの吹替えはニコラス・ケイジでそこを思うと余計に憎めない。

一家に新しく入ってきた文化(ガイ)には乗り損ねたグラグだけれど、力なら負けないと、自分の特色を出すのが良かった。
裂け目の向こうへ、家族を一人一人放り投げる。当然だけれど、グラグだけが、残ってしまう。

グラグは一人洞窟へ入る。暗い洞窟の中、ガイの見よう見真似で火を起こす。無事に着火して、「おい!ついたぞ!」と嬉しそうに言っても誰もいない。
そこでグラグは愛しい家族のことを思いながら、壁画に一人一人の姿を描くんですね。そして最後に、全員を両手で包み込むようにして自分の姿を描く。
裂け目の向こうへ放り投げる前に家族と一人一人話していて、そこも感動的だったんですが、私はこの壁画のシーンで泣いてしまった。
やっぱり、グラグは家族を救うのは自分しかいないと思っていたのだ。

洞窟の中で、微かにホラ貝の音が聞こえる。ホラ貝は助けを求めるサインと決めたから、グラグはなんとしても向こうへ行かねばと思う。自分のほうが危機的状況なのに、家族のことを一番に考えていた。

そして、ここでグラグも文字通りの進化を遂げる。考えて考えて、ガイ流ではなく自分流のアイデアを思いつく。

裂け目の向こうへ行った家族たちは家族たちで、父のことをまったくあきらめていない。一人でホラ貝を吹くイープに、おばあさんが「私が言ってくるから」と言いながら横に並び、結局、一緒にホラ貝を吹いたのにも泣けた。その後、家族とガイの全員でホラ貝を吹いていた。

自分の方法で空を飛んで向こう側を目指しながらも、途中途中で小動物たちを拾ってあげるシーンからもグラグの優しい面がよく表れていた。それは進化したグラグだからなのかもしれないし、元々のグラグのすべて助けるみたいな本質なのかもしれない。

様々な地形を通り、凶暴な動物に追いかけられ、裂け目に行方を阻まれて…というのは洞窟の中で怯えて暮らしていたら経験しなかったことだろう。まさにタイトルの“はじめての冒険”なのだ。
その果てに辿り着いた海辺は、水がある。魚も住んでいるだろう。少なくとも、以前住んでいた砂漠のような場所よりは恵まれていると思う。
それでもきっとグラグは、どこにいても家族全員を守ることだけを考えているんだろう。

クルード一家以外の動物は架空のものばかりで、特典映像を見ていると、パンチモンキー、キリンゾウ
  
などと名前もちゃんとついていたようだ(ガイが名付けたのかもしれない)。他の動物はクルード一家を襲ったりもするし、クルード一家も動物を食べたりする。
だから、敵という位置付けではないのだろう。

この映画で何かと戦っているとしたら、それは(地球なのかはわからないけれど)大地であり、自分自身のような感じがする。姿のはっきりとしたものが襲ってきて、それを倒してハッピーエンドではない。その辺の、単純そうに見えて実は凝っているのもおもしろかった。





ナショナル・シアター・ライブ2015にて上映。去年も上映していたらしい。
この前のトニー賞にて、リバイバル作品賞を受賞。三人芝居なのですが、ビル・ナイとキャリー・マリガンがそれぞれ主演男優賞/女優賞にノミネート、マシュー・ビアードも助演男優賞にノミネート。演出賞、装置デザイン賞、照明デザイン賞にノミネートされた話題の作品を、日本にいながらにして映画館で字幕付きで観られるなんて、本当にありがたい。

作者のデヴィッド・ヘアーも「ロンドンでは3〜4ヶ月やっているけれど、地方へは行けない。多くの人に見てもらいたいので、ナショナル・シアター・ライブでの上演を条件に再演することになった」と言っていた。

1995年初演。1995年初演でそれが18年前ということは、今回上映されたのは2013年の上演分だと思う。
ビル・ナイは初演時も同じ役を演じたらしい。その情報を聞いていたせいか、ビル・ナイだけ、役に合わない年齢ではないかと思ってしまった。けれど、見た目70歳くらいに見えたけど、63歳か62歳らしい。それなら、そんなものかなという気もする。
ただ、初演時は45歳なので、そうするとさすがに作品全体の印象が今回とは違うのではないかと思う。どちらがいいとかではなく。


三人芝居とはいっても、舞台に出て来るのは二人。キャリー・マリガン演じるキーラの部屋が舞台になっていて、そこにビル・ナイ演じるトムと、その息子エドワード役のマシュー・ビアードが訪ねてくる。

序盤はわりとコミカルで、ビル・ナイ演じるトムが飄々と部屋を動き回りながら話し、それをキャリー・マリガン演じるキーラが料理を作りながら(実際にステージ上で料理を作っていたので、劇場には料理の香りもしたらしい)相づちをうつという展開だった。観客からも笑いが漏れていたし、もしかしたらコメディだったかなとも思ってしまった。

しかし、途中から本心が出てくる。「チーズを削って」と頼まれて、「こんな使いかけのを? パルメザンを送らせるよ?」などのあたりからでしょうか。

二人の不倫が妻に見つかった話になる。妻は友人と夫に裏切られた。おまけに病に伏す。キーラが出て行ってしまったので、トムは妻の看病を一人でして、罪悪感と戦っていたと。
もちろん、ショックにより病気になったわけではなくても、そうなのではないかと考えていた。因果応報。

そこで彼が何をしたかというと、寝たきりの妻のために、天窓(SKYLIGHT)のある寝室を作って“あげた”。
そうすることで、何かをつぐなったつもりなのか。贖罪のつもりなのか。
妻の意見も聞かずに。
妻の心配をしていたわけではなく、結局自分が救われたかっただけだ。

妻は何故私を許さない?(私が)寝室を作ってあげたのに。君は何故私の元を去った?(私の)許可も無く。
そのようなことを言っていた。どれだけ傲慢なんだろう。自分が動けば相手が意図した通りになると思ったら大間違いだ。
途中で“女”と侮蔑的な意味で使ってしまい口を噤んでいたけれど、結局、男が上で女は下と思っているのだろう。
また、それは富裕層/貧困層にも同じことがあてはめられそうだった。貧困で女一人。それで幸せなのか?と聞いていた。そんな辛辣な言葉にも、悪気がないあたりがおそろしい。

トムは今までの暮らしや生活の中で、低所得層とは直接触れ合ってないのではないか。
あんまり年齢が上の役者さんだと、ここまで生きてきた途方も無い時間を感じてしまい、今更違った考えは受け入れられないのではないかと思ってしまう。私はビル・ナイが70歳くらいに見えたので、ここまでこれで生きてきた人が、この先の人生で考え方を変えるとは思えないと思ってしまった。でも、これが45歳だった初演時なら、まだ考えが変わる余地がありそうと思ったかもしれない。観ていないのでわかりませんが。

家を出て、外の世界に触れて、変わったのはキーラのほうなのかもしれない。トムがもっとも憎むべき存在の一部になってしまった。

不倫関係だった二人が…というあらすじから、もしかしたらラブストーリーなのかなと思っていたのだけれど、そうではなかった。特に二幕になってからは、イギリスの階級の話が強く出てくる。憎んでいるのも恋愛のせいではなく、もっと大きな理由からだ。

ただ、階級の闇の根深さはイギリス特有のもので、日本だといまいち実感がわかない。貧富の差が顕著になってきているとはいえ、もっとひどいものなのだと思う。

口ばかりの議員たちに向けて“Come and Join Us!”(一緒にやってみなさいよ!)と怒鳴る長台詞で、観客からは拍手が起こっていた。

敵になったわけではなく、元々敵で、それに気づいたのかもしれない。
キーラが全身全霊をかけて、想いをこめた手紙を、トムはキッチンに置き忘れた。夜に読んで忘れちゃったとは言っても、結局そういう人間だということではないか。それが悪いとか良いとかではない。根本的に違うのだろう。

そんな人間に、いくら何を言っても、トムには通じない。意見はすれ違い、わかり合えない。不毛な言い合いのようだった。
心底ぐったりする言い合いを終えて、ベッドに潜り込んで、呼び鈴で起こされる。

そこにはエドワードが居て、大きな荷物を持って「サプラーイズ!」と叫んでいた。朝食を持ってきてくれたのだ。
相手のことを考えるというのは、こういうことだろう。天窓を作ってあげたなどと言うことではない。

キーラだって、生活も仕事も楽なわけではない。孤独に戦っているのだ。それを、かつて愛した男はまったくわかってくれなかった。
やっと気が緩んだのか、優しさに涙を流していた。

エドワードが空気の読めない男で良かったと思う。まだ幼いというか、少し馬鹿というか。あまり賢いと、育った環境から考えて父親と同じようになりそうだから。

二人で向かい合って朝食を食べるシーンで終わる。本当だったら、このようにして、前の晩に作っていたパスタを、トムと二人で食べられれば良かった。
向かい合っての食事が持つ意味の大切さも感じた。

セットが恰好良い。ブロックと呼ばれる日本で言う団地のようなものだけれど、もっと巨大な建物とその一室。二幕からは雪が積もり、最後は雪が降っていた。
『アタック・ザ・ブロック』を観ると、建物の外観やどのような人物が住んでいるか、治安の悪さなど雰囲気が想像しやすい。
背面のセットはたぶん、同じ建物のコの字になってる向こう側なのではないかと思う。
『アタック・ザ・ブロック』ほどではないにしても、塀にスプレーで落書きもしてあったし、それなりに治安は悪そう。

夜中のシーンでは各部屋の電気が消えている。朝になると、電気がぱらぱらとつき始める。登場人物として出てこなくても、そこにはそれぞれ家庭や生活がある。
トムがけなした人々の生活。みんな必死で生きている。結局、キーラに部屋を貸した友人のこともけなしている。そしてその自覚は無さそうなのが手に負えない。

トム役がビル・ナイでなかったら、もっとただの嫌な奴になっていたのではないだろうか。
ひょろっとした体格で、長い手足を使った動きがスマート。姿勢の良さから育ちの良さもわかる。
軽快な口調、おじいちゃん演技が醸し出すお茶目さ。老人の頑固は仕方が無いというか、年上過ぎて自分の意見は通らなそうというか。
本当に悪気が無さそうなのがよくわかった。ただ、わかり合えないだけだ。
あと、私がビル・ナイが好きなせいもある。どうしても憎めない。




2002年公開、アメリカでは2001年公開。ウェス・アンダーソン作品。彼の初の日本公開作品らしい。
Theが付いているし、“ロイヤル”から、タイトルからは想像できなかったけど、ロイヤル・テネンバウムは人の名前だった。

10歳の頃に天才児だったロイヤルの子供たちの様子が序章で描かれる。『Hey Jude』がずっと流れている。少し感傷的な気持ちになる。リッチーが鷹のモルデカイを外に放し、空に飛び立つところで、サビのラーララララララーになるため、映像からは希望を感じて、明るい未来が待っていそうに思えた。

しかし、20年後にシーンが移ると、多くの天才児がそうであるように、全員が全員挫折している。家族もばらばらである。

それを知ってというわけではなく、元々は妻の再婚の邪魔をするためだったと思うが、父であるロイヤルが病気で死期が近いことを理由に家族を家に集める。
チャスの孫と思いっきり遊ぶロイヤルのはしゃぎっぷりが良かった。ちゃんと息子を連れて行った闘犬場にも連れて行っていた。ロイヤルを演じたのはジーン・ハックマンなんですが、こんなコミカルな演技もできるとは。

結局、病気ではなかったことがバレて愛想をつかされるんですが、普通ならバレるのは終盤なのではないかと思う。けれど、この映画の場合はここが折り返し地点でこのあとが本番だった。
みんなが、本当に父はしょうがないなという思いで一致したとは思うけれど、父が去り際に「人生で最高に楽しい6日間だった」と言ったように、久しぶりに家族に会った彼らも楽しくなかったわけはない。
子供の頃の栄光に縛られて、その後はなんとなくうつうつと過ごしてきただろうけれど、家族に会って、癒えたものもあるだろう。
嘘だとしても、病気を理由に家族を引き合わせるきっかけを作ったのは父だし、何より、しょうがない人でも父なのだ。

現代が舞台の作品なので、『グランド・ブダペスト・ホテル』ほど画面がびっちり作り込まれているわけではない。シンメトリーも控えめ。
と思っていたけれど、監督のオーディオコメンタリーを聞いていたら、すべてロケではあっても、作り込みやこだわりは細かい部分でものすごかった。
ステンドグラスが画面に映らないから下のほうに作り直したとか、一瞬しか映らないロイヤルの母の肖像画も実際にモデルに看護師の服を着せて描いたものだとか、物入れの中にはボードゲームが積み上がっていて電気紐に付いているのはモノポリーのコマだとか。
一番驚いたのは、ロイヤルとマーゴが話をするアイスクリームパーラーの客が全部父娘である点。ぞわっとした。
構図も○○って映画を参考にしたとか、マーゴの部屋のシマウマの壁紙は○○ってレストランを見て決めたとか、それぞれに元ネタがあるようだったけれど、半分もわからなかった。もちろんだけれど、音楽にもそれぞれ意味がある。
特に、探偵が調べてきたマーゴの破天荒な経歴が、映像によって明かされるシーンでラモーンズが流れるのは笑った。

すべてストーリーとは直接関係ないし、映画内でいっさい説明もされないのがすごい。でも、このこだわりがウェス・アンダーソンっぽさ、彼の世界観を作り出しているのだろう。

消防車かクレーン車のシーンが良かった。これはウェス・アンダーソン作品だとよくあるんですが、巨大な絵を端から端までカメラが横に移動して映している。クレーン車の上で座って話している救急隊員とロイヤルや家の前で混乱しつつも雑談している人々をただ映す。状況が俯瞰で見える。

最後のお葬式のシーンでずっと赤かったチャスのジャージが黒いのが泣ける。ちなみにアディダスの赤いジャージかと思ったら、これもぴんとくる赤い色がなかったので作ったらしい。
礼砲が孫たちによるBB弾なのも良かった。あれでチャスはだいぶ怒っていたけれど、完全に許したのだ。
映画の最後に墓の門を閉める、Thenenbaumという文字を見せるのもさすが。門を閉めるのが、おそらくロイヤルに一番近しい人物だったパゴダというのもいい。

墓標に刻まれた“ロイヤルは沈む軍艦から家族を救い、非業の死を遂げた”という一文を読んで牧師は首を傾げていたけれど、間違ってないと思う。
彼の葬儀にちゃんと全員集まったのだから。家族だけではなく、その周辺の仲の良い人物も集まった。それまで離散していた家族や仲間。彼は亡くなる前にちゃんと絆を繋いだのだ。
もちろん死は悲しいものだけれど、それだけではない。

死者に想いを馳せるというのは、ウェス・アンダーソン監督の『グランド・ブダペスト・ホテル』において個人的に好きな要素だけれど、10年以上も前の作品にも出てくるとは思わなかった。
また、“架空の小説を元としている”という設定も同じだった(だから、第一章みたいなのが出てくるらしい)。昔の作品でも、現在の好きな作品と同じ部分が出てくると嬉しくなる。







2012年公開の『アベンジャーズ』の続編というよりは、マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)全体を追っていないと話が把握しにくいかもしれない。特に、『アベンジャーズ』後の作品だと『キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』は直接話が繋がっているので観ておいたほうが流れがスムーズだと思う。ただ、『キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』には『キャプテン・アメリカ/ザ・ファースト・アベンジャー』を観ないとわかりにくい部分もあり…。

以下、ネタバレです。










全員の戦闘シーンをワンカットのように見せるやり方は前作で話題になりましたが、今作はそれを開始5分もしないうちに見せてしまう。森の中での何者かの戦闘との最中からいきなり始まるんですが、なかなかの太っ腹である。流れるような戦闘シーンはもとより、キャプテン・アメリカの盾をソーがハンマーで叩いてその衝撃で敵を倒したりと武器を組み合わせるのも恰好良い。横一列というか、斜めに並んで、ポスターのような構図になるのも良かった。

ただ、本当に贅沢な話なんですが、ヒーロー一人一人が違った恰好良い動きをしていて、一体どこを見たらいいのかわからない。もったいない。
後半にも総動員で戦うシーンがあり、そこは、背中合わせに円になって襲い来る敵を向かい討っているんですが、全員が視界に入っているのに追いきれない。一時停止したり、巻き戻したりして何度か観たい。
普通はメインになる人を決めて、その人をカメラが追っていくと思うんですが、全員がキメの動きをしていて、あわあわしていると、ヴィジョンがふわーっと飛んでくる。

それで、実は私はジョス・ウェドン製作・共同脚本の『キャビン』を思い出した。ネタバレ厳禁の作品なので詳しくは書きませんが、うわっと現れたものがそれぞれに違う動きをするシーンがありますよね。あれっぽい。どれにも焦点が当てられていないけれど、どれもが特徴的な動きをしていて、どれを観ていいかわからない。迫力は伝わってくる。

この情報量の多さは映像だけではない。アベンジャーズという企画自体がオールスターものだから仕方ないけれど、ヒーロー個々の映画も数作品作られていて、そのバックグラウンドなどは巨大なものになっていて、それを詰めこもうとするとぱんぱんになってしまう。
今回は、アイアンマンシリーズのウォーマシンやキャプテン・アメリカシリーズのファルコンも登場。ヒーローになる前の生身の姿(ジェームズ・ローズ、サム・ウィルソン)で初登場しても、特に説明などはないので、この辺は旧作(『アベンジャーズ』ではなく、『アイアンマン』や『キャプテン・アメリカ』)を観ておけとのことなのだろう。

更に、双子やヴィジョン、敵方だとウルトロンなど新キャラも加わって、展開もかなり駆け足。ずっと集中して観られて良かったけれど、少し頭の中や流れを整理して、もう一度観たいと思う。
ちなみに今、上映時間を確認したら2時間21分だったんですが、そんなに長いと思わなかった。1時間55分くらいの感覚だった。

双子の男の子のほう、動きが素早くて、あの子の動きが素早いばかりに周囲が止まって見えるって、まるでクイックシルバーみたいだなあと思っていたらクイックシルバーだった。『X-MEN:フューチャー&パスト』のエヴァン・ピーターズの印象が強かった。シルバーって銀髪だからなのかと思ってけど、今作のアーロン・テイラー=ジョンソンは金髪だったし、原作コミックスを全く読んでいないので、生身の時のピエトロ・マキシモフという名前がクイックシルバーだとは思わなかった。
しかし、『GODZILLA ゴジラ』の時に拍車をかけて、キック・アスというかあのギークとは別人に…。

双子の女の子のほう、スカーレット・ウィッチは、エリザベス・オルセン。『キル・ユア・ダーリン』でジャック・ケアルックの恋人役だった人。『GODZILLA ゴジラ』ではアーロン・テイラー=ジョンソンの妻役。

ヴィジョンという人造人間というかロボットが進化したような姿をしたヒーローが出てくるんですが、原作コミックスとは設定が違うらしい。原作ではウルトロンによって作られたものらしいけれど、映画では操られたチョ博士が作り、トニー・スタークがジャーヴィスのAIを仕込んだ。原作だとAIも違う人らしいけれど、映画だと、ジャーヴィスの声を演じていたポール・ベタニーがそのままヴィジョンを演じている。
ヴィジョンはヴィジョンでとても恰好良いし、ポール・ベタニーの姿が見られるのも嬉しいけれど、アイアンマンの参謀役というか、トニーの執事役というか、丁寧な感じのジャーヴィスも好きだったので、次作以降の『アイアンマン』でどのような扱いになるのか気になる。また出てきて欲しいけれど、もうAIは搭載しちゃったので無理そう。

ウルトロンも今作ではトニーが作っていたけれど、原作では9月公開の『アントマン』の主人公(?)ヘンリー・ピム博士が作ったらしい。今作では一応世界平和のために作られたけれど、原作ではお手伝いロボだったとか。そういえば、『ディスク・ウォーズ:アベンジャーズ』で観たような。

今回、本当に展開がはやく追うのが精一杯なので、クスッとしたギャグや粋な言い回しがいくつも混ぜられていたけれど、観たそばから忘れてしまいあまりおぼえていない。
キャップが序盤で、トニーに対して「口が悪い」と注意したことを最後のほうまで何度も引っ張られていたのが面白かった。それと、「(敵が)片付いた」/「片付いてない」が序盤と後半に出て来るのも良かった。
ギャグとは違うんですが、トニーが“DJをしているブルース・リー”にしか見えない写真のプリントされたTシャツを着てたんですが、まさに、DJをしているブルース・リーだったのがびっくりした。ブルース・リーの動きにDJセットを組み合わせるパロディTシャツが流行っている(いた?)らしい。

あと、序盤のパーティのシーンでソーのハンマーが持ち上がらないのもおもしろかった。みんなが代わる代わる、あの手この手で持ち上げようとするがびくともしない。それくらい重いのかと思っていたけれど、高潔な心の持ち主でなければ持ち上がらないそう。
これは事件前の休息ギャグシーンなのかと思っていたけれど、びくともしないハンマーという伏線が、クイックシルバーが持とうとして引っかかるシーンに生かされているし、ヴィジョンは持てたということは…というのを暗に示している。無駄なシーンではないのだ。

前作だと、生身の人間同士のごたごたがわりとだらだらしていて、でも、そのだらだらも良かったんですが、今作では気を抜くシーンはない。

今作で盛り上がったのは、S.H.I.E.L.D.のヘリキャリアの大復活と、アイアンマンのハルクバスターです。両方とも、出てきた瞬間に口あんぐりでした。
ハルクバスターは先程見たら予告編に出てきていた。あんな秘密兵器は本編までとっておいてほしい。アイアンマンを包むようにして、ハルクと同じ大きさになる。名前の通り、ハルクを止めるための道具です。
前作のときに、全員がバナー博士がハルクになるのを恐れていたが、その強大な力に頼らなくてはならない場面にも遭遇していた。
抑えがきかなくなったらどうしようかねということを、トニーが考えなかったわけはない。対抗するスーツをちゃんと作っていたのに納得した。
ハルクに対するのでほぼ肉弾戦なのだが、ハルクバスターが殴って歯が折れてしまったときに、「ごめん」と本当に申し訳なさそうにしていた。激しい戦いでも決して敵ではないからこその反応。

今作ではナターシャが積極的にバナー博士を口説きにかかるんですが、少し唐突な感じがしてしまった。いつ好きになったんだろう。ハルクの手に触れたときに、少しおとなしくなったからだろうか。
前作の様子だと、親友と言われていても、バートンと恋人同士なのかと思っていた。

バートンというか、ホークアイは今回はかなり出番が多かった。前作ではほとんどロキの操られていたし、テレビ放映時にも彼の出演シーンはカットされることが多かった。なんと、前作撮影時にはロバート・ダウニー・Jrに会ってないらしいです。見かけただけだとか。
今作では、前回ロキに操られた教訓を生かして操られない。
あと、前作の一番の決めのセリフがバナー博士の「いつも怒ってる」だと思うんですが、今作はホークアイが小屋の中で怯えているスカーレット・ウィッチに言う「扉の外に出たら、君もアベンジャーズだ」というセリフだと思う。
おそらく、ホークアイは今回でアベンジャーズを抜けるんですよね。それで、スカーレット・ウィッチが新メンバーになりそうなので、あのセリフはバトンタッチの意味が含まれているのかなとも思うと泣ける。

アベンジャーズとしての次作は2018年とのこと。スカーレット・ウィッチ、ヴィジョン、ファルコン、ウォーマシンが最後に集められていたので新メンバーになるのかな。その間にまたMCUとしてはいろいろ公開されると思う。かなり壮大になっていく。終わることはあるんだろうか。
とりあえず、本作は落ち着いてもう一度観たいと思います。

予告にもCMにもネタバレがあるようだったので、映画館で目をつぶったりテレビの音量をミュートしたりしてなんとか避けて臨んだ。でも、一つ、意図しないままに入れていた情報として、“ホークアイが農場で野菜育ててる”みたいなのがあって、なんだそれと思っていたんですが、良く考えたらあの隠れ家のことだったんですね。今回、映画を観ている最中にも自然すぎて気づかなかったんですが、ラストのほうで「お前も農場やったら」みたいなセリフが出てきて、あのことか!とふと思い立った。ネタバレ踏んでいた。



2000年公開。スペインでは1998年公開。
原題は『Los Amantes del Círculo Polar』。スペイン語で“北極圏の恋人たち”という意味らしいけれど、北極圏が出てくるのは最後のほうだけだし、二人の名前も意味のあるものなので、“ANA & OTTO”でもいいような気がするけれど、英語にしてみたら案外グループ名っぽかった。

不思議な縁と偶然と運命の話。
アナ視点とオットー視点で同じ事柄が描かれるのは裏表のようにも見える。二人とも名前が前からも後ろからも読めることも、同じように意味を感じた。
更に、二人だけの縁ではなく、家族や周囲の人物を巻き込んで、二重三重にも縁が重なっていて、二人の絆をがっちりとかためているように思えた。

だからこそ、いくらすれ違っても、最後の最後では出会って幸せになってほしかった。あれだけの運命の出会いをしても、結局幸せになれないのではやりきれない。誰に邪魔されたわけでもない。誰も悪くない。それに互いに想い合っていても、結ばれない。

ハッピーエンドでは安っぽくなってしまうかもしれないのもわかる。悲恋が持つ様式美もわかる。それでも、しみじみと、いろいろあったけど良かったなァ…で終わってほしかったのだ。ヨーロッパ映画っぽい終わり方でもあると思うけれど…。

運命があるとするならば、広場のシーンであんなに近くにいたのに出会えなかったせいなのかもしれない。あそこで何らかの選択肢を間違えて、もうあの先はどう足掻いても結ばれなかったのかもしれない。

ほぼ背中合わせのような場所にいて、オットーがタバコを吸ったときにアナは何かを感じとる。そこで、声ではなく匂いで相手を感じるとは、なんてロマンティックなんだろうと思ったけれど、結局、アナはタバコを吸っている違う人に話しかける。間違えたとしたらここだろう。
まさに映画の中に出てくるセリフの“偶然を使い果たした”という状態だったのかもしれない。

その後も、アナが出した手紙を運んだのはオットー自身だったり、飛行機が上空ですれ違うことはあった。それでも、白夜を水辺で過ごしてもオットーは来ないし、木を見上げても引っかかっているオットーを見つけられない。
完全に行き違いばかりだ。

映画を観ていてラストでびっくりしてしまったけれど、あとから良く考えてみたら、きっとあの広場のシーンですべては決まっていたのだ。

パイロットってやりたいと思ったらすぐになれるものなのか?とか、フィンランド語はいつ学んだんだろうとか、気になることはいくつかあったけれど、偶然や縁の話もかなり出来過ぎと言えば出来過ぎだったので、全体的におとぎ話として楽しむものなのだろう。リアリティを追求する作品ではないのだから、細かいことは気にしてはいけない。

音楽はアルベルト・イグレシアス。ペドロ・アルモドバル監督の作品や、『裏切りのサーカス』などの方。マイナートーンで哀しげながら、美しい。

オットーを演じたのがフェレ・マルティネス。彼目当てで観ました。吉井和哉、氷室京介、ISSAY、玉木宏あたりに似ている。『バッド・エデュケーション』の6年前なのに驚いた。『バッド・エデュケーション』のほうが若く見える。髪型のせいかもしれない。

十代前半くらいのオットーを演じたVíctor Hugo Oliveiraという子が若い頃のダニエル・ブリュールのような美少年だったのですが、IMDbを見ても、他に出演作の記載はないようです。




『イースタン・プロミス』の脚本家、スティーヴン・ナイトの長編監督二作目。
原題が『オン・ザ・ハイウェイ』なのかと思ったら違って、『Locke』。主人公アイヴァン・ロックの名前です。
主演はトム・ハーディ。というか、完全にトム・ハーディしか出てこない。だから、原題も納得。
車に乗っているトム・ハーディの一人芝居です。こう聞くと退屈なのではないかとか、これもタイトル通りですが、86分とはいえ場がもつのかと思ったけれど、これがとてもおもしろかった。

以下、ネタバレです。







トム・ハーディは仕事場からどこかに車を走らせている。合間合間に、電話がかかってきて、ハンズフリーで会話をしつつ話が進んで行く。たぶん、携帯電話とカーナビをBluetoothで繋いで転送するサービスがあるようなので、それではないかと思う。
状況説明などはないまま始まり、上司や部下、家族との通話から、何が起こっているのかがだんだん明らかになっていくので、サスペンスのような要素もあると思う。

途中で窓の外の車のヘッドライトなどが映るときに時間の経過があるのかどうかはわからないけれど、邦題の通りならリアルタイムで進んでいるのかもしれない。

一度の過ちで妊娠した相手の女性の出産のために病院へ向かう。もうそれだけは絶対に行動を変えない。明日朝に大事な工事が控えてようと、家族とサッカーを見る予定をやぶろうとも、妻に別れを切り出されようとも。
相手の女性のことは、特に愛しているわけではなさそうだった。本当だったら、贔屓チームのユニフォームを着て、ドイツビールを飲みながら、得点シーンでイエーイ!なんて言いながら、楽しみたかっただろう。また、大事な工事前夜で混乱している現場に駆け付けて指揮をとりたかっただろう。
でも、ぐっと堪えて、全部投げ出した。

車内は閉鎖的な空間だし、そこでアイヴァンがどんどん追いつめられて行くのがわかった。トラックが来る道路が封鎖されていない、真実を知った妻はショックのあまり二階のトイレに閉じこもっている、臍の緒が赤ちゃんの首に巻き付いている…。
問題が各所で噴出し、それを電話のみで対処していく。でも、いくら対処してもどんどん問題が出てきて、電話中に他の人から電話がかかってきたりもする。一人きりでてんてこまいである。

電話の相手すべてに誠実に対応していて、彼は仕事でも信頼を得ているようだったし、人柄なのかなと思った。でも、溜まりに溜まったものを吐き出す先も必要で、その相手は彼の父親のようだった。
何が起こったのかははっきりとは描かれない。けれど、誰も座っていない後部座席に向かって、もしかしたらもう亡くなっているのかもしれない、少なくとも疎遠ではあろう父親への恨み節を吐き出す。

私は車を運転したことが無いのでよくわからないけれど、何人もの人間を相手にし、いくつもの問題を電話のみで同時に解決しようとしながら、更に車を運転することなどできるのだろうか。運転の方の注意力が散漫になってしまうことはないのだろうか。

途中で横をパトカーが数台通ったときには、ハンズフリーであれ、通話を咎められるのかと思った。また、車のヘッドライトが滲んだ画が出てきたときには、もしかしたらこれはアイヴァンの目線で、疲れ目により事故が起こるのではないかと思った。大型のトラックが出てきたときにも衝突するのではないかと思ってしまった。
けれど、通話先では問題が起きていても、それ以外では特に事件は起こらなかった。『マッドマックス 怒りのデス・ロード』を観たあとなので、車に乗るトム・ハーディを見るとカーチェイスでも始まるのではないかと思ってしまうが始まらない。『マッドマックス』に比べてこちらのほうがよく喋るし、感情も露にしていた。

最初こそ、少し焦ってはいてもそれほど表情もなかったけれど、部下に仕事がなんとかうまくいきそうだとわかると笑うし、涙を流すシーンもあった。カメラはトム・ハーディ一人だけを映しているから、その表情の変化もつぶさにとらえられていた。

何か派手な大きな事故に遭うわけではなくても、とりまく状況が刻々と変わって行く様子はとても緊迫感があるし、展開が気になって夢中になって観ていた。

妻からは別れを切り出され、上司からは解雇を告げられる。けれど、最後に子供が無事に生まれたのがわかる。そのためにすべて投げ出して病院に向かっていたのだから、もうこれでオッケーなのでしょう。更に、泣き声を聞くだけで、何か今後への希望のようなものも感じられるラストになっていた。

トム・ハーディの演技も見事なんですが、電話の向こうの声だけの面々も演技が素晴らしかった。これは脚本のおかげなのかもしれないけれど、映像がなくても全員がどんな状態なのか伝わってきた。ラジオドラマ+トム・ハーディ一人芝居といったところか。だから、映像はトムハーディが車に乗っているだけでも、頭の中にはもっと豊かな景色が広がっていた。

この声だけ出演者がエンドロールで初めて知ったのですが豪華だった。
一度関係を持ってしまった女性役に『ブロードチャーチ』の女刑事を演じたオリヴィア・コールマン。妻役に『ローン・レンジャー』のレベッカ、『ウォルト・ディズニーの約束』の母親役のルース・ウィルソン。
部下役に『Sherlock』のジム・モリアーティ、『007 スペクター』も控えてるアンドリュー・スコット。息子役に『インポッシブル』のお兄ちゃん役、最近新スパイダーマンに決定したトム・ホランド。
特に、最後の方の息子の「サッカーの試合の録画を一緒に観よう。試合の結果を知らないふりして」という言葉が沁みた。『インポッシブル』で初めて見て、演技がうまさに驚いたけれど、今回も良かった。

この役者さんたちは、姿を現しても役にちゃんと合っていたことに驚く。正体がわかると、声だけの出演がとても贅沢な感じがする。

この声だけの人たちはホテルに集められて、トム・ハーディの乗る車に電話をして演技をしたらしい。まるで舞台のようだ。
トム・ハーディは低荷台のトラックに車ごと乗って、一日に通しで撮影をし、それを数日間繰り返して、50時間分をパッチワークのように切り貼りしたらしい。何日があったとはいえ一発勝負を繰り返したわけだから、本当に舞台と同じだ。

また、トム・ハーディは過密スケジュールの合間をぬって参加したらしく、二週間しか時間がとれなかったとか。更に前半はリハーサルに費やしたらしいので、撮影にはあまり時間が取れなかったと思われる。でも、だからこそ、緊迫感が生まれているし、撮影や画づくりの工夫もされているのだなと思った。
実験的でもあると思うけど、いい役者さん、いい脚本、撮影の工夫があれば、充分おもしろい作品になる。アイディア賞だけではない。