2011年公開。フランスでは2010年公開。
実は、2014年公開版の『イヴ・サンローラン』を観てるつもりだったので、ドラマ調のものを想像してたらドキュメンタリー調だったのに驚いた。
長年連れ添った恋人のピエール・ベルジェが語る形で進んでいく。
ドキュメンタリーだと思っていなかったので、出ているピエール・ベルジェも俳優さんなのかと思っていた。

また、若かりし日のイヴ・サンローランの映像が流れるけれど、これも、わざとドキュメンタリー調に作ったものなのかと思っていた。
しかし、どう考えても、ドキュメンタリー調というわけではない、本物っぽい映像もある。
2014年公開版の『イヴ・サンローラン』のイヴ役の俳優さんもご本人に似てるとのことだったので、どこまでが俳優さんでどこからがご本人なのかなと思っていた。すべてご本人でした。

動いているイヴ・サンローランを見たのは初めてだったんですが、内気っぽくはにかんでいて、物腰がやわらかくて、デザイナーというよりは文学青年のように見えた。

最初の葬儀の映像で発砲音が聞こえたので、若くして殺されたのかとも思ってしまった。
ドラマだと思っていたので、発砲音の演出かと思った。礼砲でした。

ずっと勘違いしたまま観ていて、あとでイヴ・サンローランのプロフィールを見たら、亡くなったのが2008年だった。映画が公開されたのが2010年ということは亡くなった直後である。

ずっと連れ添った恋人が亡くなった直後に話していたのだと知っていたら、また違った気持ちで観られたと思う。

集めた美術品をオークションにかけていたが、長年の思い出とともに処分していたのだろうと思うとそれもまた違った感慨を持って観られただろう。

ただ、私のように、イヴ・サンローランのことを何も知らない人よりは、ブランド自体が好きで、ファッションに興味のある人が観た方が楽しめると思う。


2010年イギリスで公開。日本では去年DVDが発売されて劇場未公開。マイケル・ウィンターボトム監督。
原題が『THE TRIP』なんですが、同名のテレビシリーズを再編集して劇場版にしたものとのこと。来月公開の『イタリアは呼んでいる』(原題『THE TRIP TO ITARY』)はそのイタリア版らしい。話が続いているのかどうかはわかりません。

スティーヴ・クーガンとロブ・ブライトンが実名で出演。それぞれ、出身地のマンチェスターやウェールズの話をしたり、実生活でも友達らしいけれど、ドキュメンタリーではない。
スティーヴが恋人と一緒に行くはずだったグルメ取材旅があったが、断られてしまったために親友のロブを連れて行く。

グルメ取材旅とはいっても、実は料理についてはほとんど語られない。二人はイングランド北部へ車で出かけるので、その地域のうまいもの紹介みたいなのをやると思ったら大間違い。
料理を作っている風景やテーブルに運ばれて来るところ、二人の食べる様子なども映ることは映るけれど、特に料理について話をするでもなく、ただガツガツ食べる。おいしい/まずいについても話していなかったかもしれない。

じゃあ何をしているのかと言ったら、気心の知れた者同士の雑談です。どこまでがアドリブでどこまでが台本通りなのかわからない。有名人の名前がどんどんでてきて、モノマネをしてどっちが似てるかをわーわー話している。内輪受けといってもいいかもしれない。
だから、料理映画と思って観ると拍子抜けをすると思う。普通だったら料理のうんちくが語られるところだろうが、語られるのは有名人のうんちくである。

けれど、私はスティーヴ・クーガンが好きなのと、中年男性たちがだらだらしているのが好きなため、楽しく観られました。ガツガツと食べるだけでも、その様子が妙に色っぽかったりもする。

モノマネも最初のマイケル・ケインからして両方とも似ていて笑ってしまった。このようなモノマネや、車の中で歌うシーンで「3オクターブ出るぞ!」とかどこまで声が出るか対決なども繰り広げられるため、吹替は入ってません。
途中、人の名前がどんどん出てきて、知らない人も多かったのでぼんやり観ていたら急に、アレックス・ジェームスという名前が出てきた。たぶん、ブラーのベースのアレックスのことだと思う。“20歳の誕生日を酒で祝い、30歳はドラッグ、40歳は食べ物で祝った”としか言われていなかったため、確認はできてません。

その他、「年を取ると歯と歯の間にモノがつまる」「歯茎が下がってくるからだ」みたいなおっさんならではの話も。
また、スティーヴは離婚歴ありで、彼女ともうまくいっておらず、他の女性とも遊びまくり、仕事もあまり来なくなっている…と、飄々としてるように見えながらも、年齢ならではとも言えるいろいろな悩みを抱えていた。
ロブは家族と幸せに暮らしていて、旅行中の悩みは奥さんと離れていることがつらいくらいなもののようだった。

最初は、スティーヴも仕方なくロブを誘ったようだった。最初のホテルがダブルのワンルームしかとれていなかったときにも(「あいにく満室で…」というお約束もあり)、ロブは別に同室でもいいとノリノリだったけれど、スティーヴはうんざりしていた。
けれど、悪夢を見た翌朝も二人でくだらないことを話していたり、モノマネをすればすぐに調子が元に戻る。悩みはあっても、笑顔になっていたし、一時ではあっても現実を忘れられたようだった。本来、旅とはそういうものである。

二人で、ABBAの“The Winner Takes It All”を歌うシーンも泣ける。“勝者はすべてを持っていってしまう”という、敗者の気持ちを歌った曲。
また、墓場に行って、「葬儀に来てくれる?」と話すシーンも、中年ならではで良かった。「葬儀のスピーチをやってみてくれ」というのは恥ずかしい。だって、葬儀のスピーチというのは、相手がすでにこの世に居ない状態で、相手に対するありったけの想いや普段はどう思っていたかを話すものだから。それを、本人を目の前にして話すのは酷である。けれど、お互いに葬儀スピーチをやることで絆は深まっていたようだった。

ただ、旅には終わりがある。
ロブは家に帰って家族と食事をして、妻に「何日間も離れてられないよ〜」みたいに甘え、幸せそうだった。
一方、スティーヴはというと、部屋に一人である。洗練された家だけれど、暗い。
旅行中にロブに「息子が虫垂炎になるのと、自分がアカデミー賞で主演男優賞とるの、どっちをとる?」と聞かれ、それでも息子をとると自分の気持ちを再確認したため、新ドラマのアメリカでの撮影を断る。これで、アメリカにいる彼女とも完全に切れた形になるのだろう。

旅行中は、はしゃぐロブを鬱陶しげに思い、そのうちロブのペースに引き込まれたスティーヴだけが旅のロスに陥っている。おそらくロブは家に帰れた嬉しさすら感じている。旅も楽しかったとは思っているだろうけれど、現実に戻されたとかさみしいと思っているのは、飄々としているように見えたスティーヴだけなのだ。しかも、映画は部屋で一人、所在無さげにしているスティーヴの姿を映して終わってしまう。

『イタリアは呼んでいる』を早く観たくなった。スティーヴのためにも、次の旅を早く見届けたい。

カメオでベン・スティラーが出てくる。スティーヴに仕事を斡旋するエージェント役。「リドリー・スコット/トニー・スコット兄弟、コーエン兄弟、ウォシャウスキー姉弟と、あらゆる兄弟が君と仕事をしたがっているぞ!」という夢。無くても良さそうなシーンだけど笑ってしまった。

あと、スティーヴがエージェントにまわされる仕事で、ドクター・フ−の悪役というのがあるんですが、なんとなく、この仕事がまわってくる俳優がどのようなポジションなのかわかった気がした。『エキストラ』でもリッキー・ジャーヴェイスがエイリアン役をやってましたが、ドクター・フー自体は国民的テレビ番組でも、悪役ということは結局、以前の有名人いまは二流という人の仕事なのかもしれない。

料理はそれほど出てきませんが、旅ならではの景色もそれほど出てこない。でもちらっと出てきた限り、イギリス北部の丘陵地帯は羊などの牧場も多そうで、携帯電話の電波が入らない描写も出てきていたのでかなり田舎のよう。
また、ダウンを着ていたり、車が凍っていたりと寒そうだった。

スティーヴがカメラマンに撮影されるシーンがあるが、『嵐が丘』のモデルとなった土地の近くだったらしく、「ヒースクリフみたいに撮ります」と言われていた。
車内でも二人でケイト・ブッシュの『嵐が丘』を歌うシーンも出てきます。





『Mommy/マミー』


グザヴィエ・ドラン監督作。去年のカンヌ国際映画祭にて審査員特別賞を受賞した作品。83歳のジャン=リュック・ゴダールと25歳のドランがW受賞したことでも話題になった。

以下、ネタバレです。





ADHDの息子と母の関係が描かれている。
グザヴィエ・ドランの作品は『わたしはロランス』と『トム・アット・ザ・ファーム』しか観ていないんですが、登場人物の気持ちをごく近くで描写するのが特徴的だと思う。
気持ちを近くで描写するというと、ジェイソン・ライトマン監督を思い出した(ちなみに二人ともカナダのモントリオール出身)。
ただ、ジェイソン・ライトマンの場合、優しくそばに寄り添うような描写をし、気持ちのゆっくりとした流れをとらえていくような手法だけれど、グザヴィエ・ドランの場合はやや暴力的なまでの近寄り方で、罵倒罵声など汚い部分もすべて描いている。時には目を背けたくなる部分も描くが、安心しろそれでも愛してるというような力強さを感じる。

今作は特に、変わったアスペクト比で撮られているせいもある。1:1という、まるでinstagramのように正方形だ。監督インタビューを見ていると、CDのジャケットを例に出していた。
『グランド・ブダペスト・ホテル』や『インヒアレント・ヴァイス』もスクリーンのアスペクト比が違ったが、昔のシーンを昔のアスペクト比で、といった使われ方だった。本作の舞台は現代である。しかも、昔のアスペクト比よりも更に狭い1:1だ。
通常の映画のスクリーンサイズよりだいぶ小さく感じた。人の顔をアップで映すにもせいぜい一人である。あまり遠くの景色も映せない。しかし、スティーヴはADHDのため、母ダイアンが常にすぐ近くで見守っている。そのため、それほど広い視野は必要ない。
気持ちだけでなく、身体的にも密着している二人を、更にカメラが密着して追いかける。
スティーヴが癇癪を起こして暴力を振るおうとするシーンは怖かったし、抑圧されたような窮屈さを感じもした。

途中、OASISの“Wonderwall”が流れるシーンがある。そのまんまといえばそのまんま、守ってくれるワンダーウォールは母親のことという使われ方をしていた。ただ、今回、映画で使われていた曲は、亡くなった父親のオールタイムベストという選曲だったらしいので、父親の母親に対する想いだったのかもしれない。
スティーヴが風をあびながら、ロングスケートボードで道路を気持ち良さそうに走っている。“Wonderwall”はフルコーラスで流れるのだが、その間奏部分でスティーヴが画面を広げるような動作をすると、なんと正方形だった画面が通常のスクリーンサイズまで広がるのだ。
このシーンの開放感が素晴らしい。正方形の画面は閉塞感のようなものも表現していたのがわかった。また、このような使い方をするのは、若い監督ならではのセンスだとも思った。ミュージックビデオのようでもあった。

後半もう一度だけ、スクリーンサイズが広がるシーンがある。ダイアンがスティーヴに「母親の愛はいつまでも変わらないけれど、息子の愛はいずれ他の人へ向けられるのよ」と言う。なんとなく、『6歳のボクが、大人になるまで。』を思い出した。どこの親子にも当てはまる、普遍的なものなのだろう。
画面は広がって、スティーヴが学校を卒業し、彼女を連れてきてダイアンも一緒に食事をし、結婚式ではダイアンがビデオをかまえ、子供が産まれ…。セリフもなく、一気に走馬灯のように浮かんでくる。カメラも先程までとは違い、いきいきとダイナミックに動き回る。でも、いやに駆け足だなと思ったら、画面が真四角に戻っていってしまう。ダイアンが思い描く、こうだったらいいのにという未来だった。
その後で、ピクニックへ行くと騙して病院へ入院させることになるのもつらい。

ダイアンは希望を選択したと言った。
『博士と彼女のセオリー』もそうだったけれど、ここでも愛し合っているというだけではどうしようもないパターンが出てきた。
相手のことを愛しているのはもう大前提であり、当然のことなのだ。離ればなれになりたいわけではない。けれど、やはり後半の、スーパーマーケット内での自殺未遂が一番の要因だったのだろう。死んでしまってはどうしようもないのだ。

父親が亡くなったことで、母子の関係はより濃密になったけれど、母にとっては負担も増えた。
そんな中で、隣りの家の女性、カイラの存在はかなり大きかった。
精神的なショックによる吃音で会話がまともにできないという彼女と、スティーヴを二人で留守番させるのは、最初どうなのかと思った。ダイアンは母親だからスティーヴの癇癪にも耐えられているのだろう。それを、ただの隣人で、しかも心に傷をかかえた女性に任せるなんて。
留守番といっても、ダイアンも遊びに行っているわけではなく仕事を探しに行っていたので、家を空けてしまうのも仕方が無い。はらはらしながら二人の留守番の様子を見ていたが、やはり一触即発のところまで行ってしまった。

けれど、スティーヴは結局ただの子供だということをカイラも理解して、二人は打ち解ける。
これ以降、カイラはダイアンとスティーヴと一緒に行動することが多くなる。
三人でいる姿は、まるで家族のようだった。ダイアンとカイラに恋愛感情は無いにしても、パートナーのように見えた。三人が三人とも、一緒に居るのが幸せそうだった。

けれど、スティーヴが自殺未遂をし、結局、無理矢理入院させることになったとき、おそらくカイラはまた不安定になってしまったのだと思う。夫の仕事の都合で、と言っていたけれど、夫がダイアンと離そうとしたのではないかと思うが、引っ越すことになってしまう。

カイラがどもりながらダイアンに別れを告げに来たときに、「家族を捨てられない」と言っていた。おそらく、彼女の人生の転機となる数ヶ月だったのだと思うし、家族と過ごすよりも幸せで刺激的な日々だったのだと思う。
ここでもやはり、愛しているだけではどうにもならない事態が起きている。

カイラを演じたのがスザンヌ・クレマン。映画を観ている間はまったく気づかなかったのですが、『わたしはロランス』のロランスのパートナー役の方だった。まったく違う役なのでびっくりした。タイプ的にはダイアンのほうがロランスのパートナーっぽかった。

カイラが引っ越すことを好意的に受け止めているように気丈に振る舞って、カイラが家を去ったあとで、号泣しそうになるがこらえるダイアンの演技が素晴らしかった。
カイラに向かって行かないでと引き留めることは簡単だ。気丈に振る舞ったとしても、帰ったあとで声をあげて泣くこともできたはずだ。けれど、必死に、体全体を使って泣くのをこらえていた。
たぶん、ダイアンは今までもこうしていろんなことを我慢して来たのだろう。そうでないと、世の中で戦っていけない。

癇癪を起こし首を絞めても、暴れ出しても、殺意や悪気があるわけではないのだ、というのがわかるスティーヴの演技も良かった。
濃く、密着して描かれる中、三人の演技に圧倒される。

スティーヴ目線というよりはどちらかというとダイアン目線の作品である。母親が子供を慈しむ気持ちをどうして25歳のグザヴィエ・ドランに描くことができるのだろうか。撮影したときにはもっと若かったかもしれない。
明るい色づかいや、ミュージックビデオ的にも見えるおしゃれな映像表現からは若手っぽさも垣間見えるけれど、人間の気持ちの描き方からは円熟味すら感じる。人一倍、気持ちの揺れ動きや、傷つけること/傷つけられることなどに敏感なのかもしれない。


『メイジーの瞳』


2014年公開。アメリカでは2012年公開。1897年の小説が原作になっているらしい。だいぶ前の小説ですが、映画は舞台も現代になっていて、それを感じさせない。むしろ、設定などは今風に感じた。

ポスターなどから、若い二人が両親なのかと思っていた。そのため、最初に役者名が表示されてジュリアン・ムーアが出ていることを知ったし、まさか、二作連続でスティーヴ・クーガンの出演作を観ることになるとは思わなかった。この二人が本当の両親役だった。

『スティーヴとロブのグルメトリップ』の独身貴族というか、遊び人っぽいスティーヴ・クーガンが良かったので、妻と喧嘩の末に離婚し、子守の若い女性と再婚というなかなか酷い役柄がまた良かった。

最初、演技というよりドキュメンタリーなのかと思った。両親役の二人を大喧嘩させて、その様子を子供役の子に見せ、不安げな表情を撮影しているのかと思った。でも、すべて演技でした。

原題は『What Maisie Knew』。“メイジーの知ったこと”ですが、『メイジーの瞳』もいいタイトルだと思う。そのタイトル通り、6歳のメイジー視点で話が進んでいく。だから、次第にメイジーに感情移入してしまう。

メイジーが母のバンド仲間か音楽仲間の中に連れて行かれるシーンがある。ちなみに母のバンドはホールのような感じで、ジュリアン・ムーアはコートニー・ラブ のように見えた。そんな音楽性なので、少し怖い目の人たちなんですが、そういえば子供の頃に、よくわからない大人の集まりに連れて行かれるのって怖かった なと思い出した。

また、母の新しい夫が働く店の前で一人置き去りにされて、店に入っても誰も知ってる人がいなくて…というシーンは本当に怖かった。幼い頃、迷子になったことを思い出した。
この場合は迷子とは違うけれど、結局バーテンダーも非番で、知らない大人の中にぽつんという状態は同じである。しかも、夜で不安は倍増する。

だから、前の子守のマーゴが来てくれたときには、やっと知ってる人が来た!というメイジーの気持ちがよくわかって泣きそうになってしまった。

小さい頃、とはいえ6歳も十分小さいけど、ここまでもずっと両親の喧嘩を見てきたせいなのか、メイジーは喧嘩を見ても、癇癪は起こさない。無表情になってしまっている。

でも、バーテンダーのリンカーンや子守のマーゴと遊んでるときは、笑顔だし、子供の表情だった。

母も父も、結局新しいパートナーともうまくやれなかったということで、きっと子供はかわいかったとしても、それとこれとは別な人間なのだろう。
両親の喧嘩と両親と新パートナーとの喧嘩をつぶさに見てきたメイジーが、バーテンダーと子守が仲良さそうにしているのを見て、一緒に幸せな気持ちになっているのが伝わってきた。
仲の良い男女を間近で見たのは、初めてだったのかもしれない。

そこでそんなにうまいこと若い二人が恋人同士になるのかなとも思うけれど、二人ともパートナーにひどい仕打ちを受けて別れ、二人ともメイジーのことをかわい がっていて、おそらく実の両親に対する思いも同じだったということで意気投合したのかもしれない。年齢も近そうだったし。

バーテンダーと子守とメイジーという疑似家族は幸せそうだった。でも、きっとあの母親は黙ってないだろうと思った。
後半でメイジーの元へ来て、自分のツアーに同行させようとしていて、この人は本当に何もわかってないんだなと思った。
でも、メイジーの怯えた態度ですぐに気づいたようだった。
別にメイジーが憎いわけじゃない。メイジーのことはかわいくて仕方ない。だから、娘強奪とかもっともめるのかとも思ったけれど、ここではちゃんと娘の幸せを一番に考えてあげることはできていて、ほっとした。

両親が離婚して、居所のなくなった子供が若い恋人の養女になるというと、かなり辛辣な感じだけれど、それが優しく自然なタッチで描かれていて、こんなことも現実にあるのかもしれないと思わされた。




2009年ドイツで公開。原題『Hexe Lilli:Der Drache and das magische Buch』。直訳すると、“魔法使いリリー:ドラゴンと魔術書”みたいな感じ。テオ・トレブスが出ていたので気になっていたけれど、まさか、日本版が出るとは思わなかった。

童話を原作とするキッズムービー。年を取った魔女が、自分の後継者候補の女の子に魔術書を託す。彼女が適しているのかをドラゴンがテストする中、その魔術書を狙う悪い魔法使いが襲ってくる。

話自体はまあまあ。すごくおもしろい!というわけでもなければ、つまらなくもない。CGなどの特殊はあまりお金がかかってなさそう。とはいえ、ドイツの子供向け映画を観たことがないため、その辺のクオリティもそんなものなのかもしれないし、よくわからない。

主人公リリーが可愛らしかった。好きな男の子(これがテオ・トレブス)の前でちょっと大人っぽく振る舞ってみたり、魔法を使えるようになったら調子に乗ってくだらないことに使ってしまったり。アニメ版の映画『時をかける少女』でも出てきたけれど、不思議なパワーを些細なことに使ってしまうのっていいですよね。
リリーはライバルの女の子たちに動物の尻尾を生やしたり、勉強せずにテストでいい点を取ろうとしたり、好きな男の子の気持ちを自分に向けさせたり。
テスト関連では“先生の言うことが実際に起こる”という呪文を唱えるんですが、「みなさんがいい点をとるよう信じています」までは良かったけれど、算数の授業で「教室に何リットルの水を…」みたいな話をして、教室がプールのようになってしまう。それでも、劇中で子供たちはパニックにならずに、楽しんでいた。順応性の高さに違和感があったけれど、これも細かいことを気にしてもどうしようもないことなのかもしれない。大体細かいことを気にしたら、教室の扉などから水が漏れて、プールのように溜まることはないだろうし。

後半、敵の施設に乗り込むときも、「好きな人、愚鈍な牛、インテリ、ドラゴン」とキーワードを元に仲間を見つけるが、ならば、それぞれが役割をもって行動して欲しかった。
ドラゴンとインテリは活躍するけれど、好きな人と愚鈍な牛はなんのために付いてきたのかもわからなかった。

悪い魔法使いがまったく魔法使いそうに見えないのは、狙ったのかどうかわからないけどおもしろかった。細身で無精髭、肩くらいまで髪が長く、顔は松本人志とジョニー・デップを足したような感じの小汚めのおじさんです。
最初、女性に変身していて、魔法が中途半端に解けてしまったので、女装姿になってしまっていた。
最後の方で、電波ジャックをして全世界の人々を操ろうとしたときのテレビに映っている姿は、バンドマンのようだった。

この全世界の中に日本も入ってるんですが、畳の上で正座をして着物姿でうどんを食べていて、障子のような外観ながら中程が折れて開閉しそうな扉で、テレビにはチャンバラの様子が映っているという、トンデモニッポンだった。

ともあれ、とにかく良かったのはテオ・トレブス。2009年だとたぶん15歳ですね。長編映画出演はこれが初めてだと思う。
学校のモテる男の子アンドレアス役。朝、リリーに声をかけるときに、「厩舎行く?」と言うんですが、何かと思ったらその後でポニーで乗馬をするシーンが出てくる。ドイツでは授業で乗馬をするのが一般的なんだろうか。
その声をかけられて去って行ったあとで、リリーがドラゴンに「アンドレアスよ!かわいいでしょ!」と紹介する。ドイツでは、男の子に向かっても、“かわいい”というのは褒め言葉になるのだろうか。それとも、最後の方で、アンドレアスがリリーのことを、「学校で一番かっこいいよ」と言うので、そのセリフと対比させるための“かわいい”だったのだろうか。
わからないけれど、間違いなくかわいかったです。
教室に水が溜まるシーンでは、後ろの方にちょこっとしか映らないけれど、水浸しになっていた。

おまじないのような感じで、魔法を使って、リリーがアンドレアスの気持ちを自分に向けるシーン。何事も起こらないかと思いきや、花がすっと差し出される。横にアンドレアスが膝をついて座っていて、手を前で組んで、もう目はハートになっている。好きというよりも、どちらかというと崇拝に近い気持ちを向けられる。わざとらしいくらいに恋しているテオくんが可愛かったし、魔法が解けたあとの自分は何をやってるんだというようなそっけない態度もかっこいい。

最終決戦に向かう前のメンバー集めで、アンドレアスは“好きな人”として招集される。その時に、前方の席に座っているアンドレアスが、ちらっとこちらを振り向いて肩をすくめるんですが、それがすごく良かった。学校で、好きな、かっこいい人が自分のほうを、わざわざ振り向いて見る。たまらないシチュエーション。

最終決戦はアンドレアスはついてきているだけで、特に何をするでもない。ただ、柵から下を見ているときに、リリーのすぐ後ろにいて、両者はまったく意識してないだろうけど、見ている私がその近さにドキドキしてしまった。

最後は「あとで二人で会える?」みたいなことを言われてめでたしめでたしなんですけども、この『リリーと空飛ぶドラゴン』、Episode 2もあるんですが、そこにはテオくんは出ていないようで。出番はここで終了なんですね、残念。

テオ・トレブスですが、2012年の『コーヒーをめぐる冒険』(原題『Oh Boy』)以降、久々の長編映画出演があるようです。
ドイツでは5/21公開の『Abschussfahrt』。日本語でたぶん、“ハジけた旅行”みたいな意味。予告編を見る限り、モテない童貞四人組のコメディっぽい。旅行だからおそらく、童貞喪失目的じゃないかと思われます。テオくんはその四人組には入っておらず、たぶん、彼らに意地悪をする厭味なイケメン役かな。
どちらにしても、ドイツ映画でコメディとなると、日本公開は難しいと思う。DVDスルーでもいいのでなんとか観られるといいなと思ってます。『俺たち〜』みたいな適当な邦題でも文句言わないので…。





ポール・トーマス・アンダーソン監督。トマス・ピンチョンの『LAヴァイス』原作。
主演は『ザ・マスター』に続き、ホアキン・フェニックス。その他にも、ジョシュ・ブローリン、リース・ウィザースプーン、オーウェン・ウィルソンなどがちょこちょこ出てきます。

以下、ネタバレです。





舞台が1970年代ということで、スクリーンもスタンダードサイズ、画面もガサガサしている。電話も携帯電話などなく、ダイヤル式。ファッション、ヘアスタイル、メイクもレトロで可愛かった。
ただ、可愛いだけでなく、独特でもあり、出演キャラクターの多い本作、全員がアニメ化できそうだった。全員個性が強く、普通の人が出てこない。

主人公のドックですら、もみあげとひげが繋がったような一目見たら忘れられない強烈な風貌。しかもマリファナ漬けである。でも、これでも一応主人公だし、映画の中では一番まともかもしれない。それぐらい、他の人々が濃い。

元が小説のせいか、会話が多く感じた。特に前半は、人に会って話を聞き、しばらく会話をして物事が少し明らかになり、場所を移動して違う人に会ってまた会話をして…といった具合なので、話運びがはやい。
更に、会う人会う人がリアリティが無いほど濃いキャラクターなのである。話される内容を頭の中で整理しようとしていると、画面からの情報量も多く、すべてを処理しようとするとパンクしそうになってしまう。それで、観ているとだんだんぼんやりしてくる。
なんとなく夢の中のことのような気分になってしまう。それも悪夢。ドックがマリファナ中毒であることがそれに拍車をかける。

また、ドック目線というのとは少し違うけれど、常にドックを中心にして、ドックにカメラが付いていく形式なので、観ている側も一緒に物事に巻き込まれ、彼が混乱する様子を見て一緒に混乱する。

ドックが訪ね歩く場所や施設の世界観も、ウェス・アンダーソンのような独特の作り込まれ方をしていた。
受付嬢がエロい歯医者も面白かったけれど、特に精神病院の異様さが目をひいた。建物は真っ白で医者も白衣で白い。患者も白いフードを被っている。その中に、黒いスーツとサンダルで乗り込んでいくドックは一人だけ異質だった。けれど、病院が異常に見えたので、異質なドックだけがまともに見えた。

終始出ていたホアキン・フェニックスも良かったけれど、ビッグフットを演じたジョシュ・ブローリンも良かった。あれは怪演と言えるのではないかと思う。
チョコバナナをまさにあの感じで舐めるように食べる様子は長く撮られてたのが笑った。その後で、“彼なりの相棒を追悼する意味が含まれていたのだ”みたいなセリフが出てきたのにも笑ってしまった。
Sukiyakiが流れる店で、「モット!パンケイク!」と叫ぶ様子もおもしろかった。このセリフ自体は台本にあったらしいけれど、あんなに何度も叫ぶようには書いてなかったらしい。ずるい。
最後にドックの部屋に来て、大麻を葉っぱのままむっしゃむっしゃ食べる様子も迫力があった。劇中では衝突もするドックとビッグフットが同時に謝る様子からは、仲が悪そうだけれど相性は良さそうな、面白い関係が見て取れた。

この二人の関係は面白いし、インヒアレントヴァイスというのが結局なんだったのか、わかりづらくもあったので続編が観たいと思ってしまったけれど、原作があるものなのでありえないと思うし、わかりづらかっただけで多分解決したのだろうと思う。

俳優陣の演技はいいし、登場人物や世界観の濃さや小道具などの美術面での楽しさもある。ちょっとした笑いがふんだんに取り入れられているのもいい。ジョニー・グリーンウッドによる、なにか不安な気持ちをかきたてられる音楽も健在。
でも、謎解きものなのに終わり方があまりすっきりしなかった。原作を読んでみた方がいいのかもしれない。


ワイルド・スピードシリーズ7作目。
私は1作目と前作しか観ていませんが楽しめました。前作『EURO MISSION』の直接的な続きというか、前後編的な意味合いでもあるような気がするので、前作は観ておいた方が良さそう。もちろん、全部観ていたほうが登場キャラクターに愛着がわくし、より楽しめると思う。

4DXで観賞。4DXを観る前の宣伝映像が車に乗っているものだったため、車ものとの相性は悪いわけはないと思った。確かに車に乗っている感じというか、微妙なエンジンの揺れなども味わえた。しかし、本作は上映時間が138分と長丁場なため、少し疲れてしまった。

ユナイテッド・シネマ豊洲の4DXに初めて行った。中川コロナシネマワールドやシネマサンシャイン平和島にあった真ん中の通路がないため、かなりこじんまりした印象。隣りの人とも近い。
でも、席が密集しているせいもあるのか、スクリーンは4DXにしては大きく感じた。3列目で観ましたがちょうど目線の高さくらいだった。

以下、ネタバレです。






前作の悪玉、オーウェン・ショウ(ルーク・エヴァンス)の兄デッカード・ショウ(ジェイソン・ステイサム)が今回の悪役。ルーク・エヴァンスとジェイソン・ステイサムは似ても似つかぬ俳優で兄弟ってどうなのとは思うけれど、両方とも好きな俳優なので別にいいです。
話はわかりやすく、デッカード・ショウが復讐のためにドミニクたちを襲い、対抗するというだけ。

まず、デッカードの場所を探るために、ゴッド・アイという公共のカメラなどに忍び込んで捜索するパーソン・オブ・インタレストあたりに出てきそうなシステムを開発したハッカーの奪還作戦を敢行する。
細い山道を移動していて、山なので気づかれずに乗り込むことは不可能、さあどうする?となったときに、空から参上していた。
飛行機から生身の人間が飛び出して、潜入が困難な場所に行く分にはわかる。よくあるシーンだと思う。
でもそこはワイルド・スピード。車でやっちゃうのがすごい。飛行機から車が数台ぽんぽん飛び出して、地上が近くなるとパラシュートが開く。
『特攻野郎Aチーム THE MOVIE』で飛行機から戦車が落ちながら、大砲を撃って場所を定めるみたいなシーンがあった。あれも好きだったけれど、今作は複数台なのでよりパワーアップしている。
しかも、山道に入ってからも狭い道を走りながら、護衛の車やハッカーの乗ったバスとの攻防が面白かった。
常に動いているし、山岳なので道が狭く、ミスをすると落ちてしまうという緊張感。最後のバスのシーンなども含めて、計算され尽くされたアクションシーンが見ごたえありました。
ドミニクの乗った車の周りを複数台の敵の車で囲まれ、後ろが崖で…というのも、生身の人間ではよくあるけれど、車でやっているのは他では見られない。しかも、崖の方へ飛んじゃう。

今作は邦題からしてSKY MISSIONなんですが、SKYというか上から車ごと落ちるシーンというのが何度かある。特にドミニク(ヴィン・ディーゼル)とルーク・ホブス(ドウェイン・ジョンソン)については、めちゃくちゃになった車からなんとか外へ出てくるという、不死身かと思われる描写もあった。

ハッカーの奪還には成功したものの、ゴッド・アイを売ってしまったあとだったため、アブダビへ向かう。
王子のパーティーへ潜入するために、ドミニクたちが正装する。横一列になって歩くショットがスローになったりとたまらない。ドミニクがレティのドレス姿を見て、「見違えた…」とぽーっとしちゃうのもいいですね。
荒くれたちがめかしこんで金持ちの集まりに潜入するというのは他の映画でもよく出てきますが、どれも好きです。

山岳パートでも、仲間たちそれぞれがそれぞれの役割で動いていたけれど、アブダビパートも役割分担をしながら進んでいく。
レティに気づいた女用心棒が『エクスペンダブルズ3』の新メンバーでもあったロンダ・ラウジーだった。ミシェル・ロドリゲスとのドレスを着た女性同士の肉弾戦が恰好良かった。
ドミニクとブライアンが高級スポーツカーでビルとビルの間を飛ぶシーンは予告で見せないで欲しかった。美術観賞しているところに車で突っ込み、兵馬俑か何かがめちゃくちゃに壊れるシーンは爽快感すらあった。

一応ここでゴッド・アイを手に入れるんですが、山岳パートでもアブダビパートでも、デッカードは捜すまでもなく向こうから乗り込んでくるんですよね。別にゴッド・アイなど無くても待っていれば向こうから現れそう。不意打ち阻止のために、こちらから乗り込みたいということだったのだろうか。どちらにしても、たぶん深く考える部分ではないのだろう。
めちゃくちゃにした王子のパーティ−とビルから落とした高級車はどうなったとか、後始末も気になったけどきっと考える部分ではないのだと思う。

デッカードとの最終決戦はロサンゼルスでのストリートファイト。ドミニクとデッカードが武器はあれども生身で殴り合いを始めたので驚いた。車で決着をつけるわけではないんだ。
外野でハッカーの護衛のために車が使われていたり、最後の最後では車も出てくるけれど、基本的には殴り合いだった。
ジェイソン・ステイサムはヴィン・ディーゼルやドウェイン・ジョンソンに比べれば筋肉量は少ないけれど、すっかりアクション俳優になったのだなと思った。『エクスペンダブルズ』でも欠かせない存在である。

前作で記憶を失っていたレティが最後にすべてを思い出す。本当だったらここを一番の盛り上がりにしたかったのかなとも思うけれど、案外あっさりとしていた。

おそらくその理由は、不慮の事故でなくなったポール・ウォーカーの件があったのだと思う。
本作の撮影が終わる前だったようなので、映画内でどうなるのかとも思っていたけれど、最初から最後までちゃんと出ていた。途中は彼の弟が演じていたらしい。

最初に、「今回の任務が終わったら引退する」みたいなことを言っていたため、なんとなく退場するのかと思っていた。
けれど、ラストにしっかりと映像が加えられていた。
この直前まで、ド派手に盛り上がるだけ盛り上がって、ワイスピ最高!みたいにこぶしを振り上げんばかりの状態になっていたのに。

波打ち際で子供と遊ぶブライアンは、厳しい戦いの世界とは無縁の、穏やかで優しい雰囲気だった。
声をかけずにすっと立ち上がり、一人、車を走らせるドミニク。横に並ぶ車があり、ブライアンが声をかける。「さよならも言わずに、行っちまうのか?」
もうそこで、涙が止まらなくなってしまう。
二言三言、二人は言葉を交わし、道が二股に分かれたところで、それぞれが違う方向へ走っていく。二人の道は違ってしまう。でも、車はそれぞれ走り続けている。
しんみりさせるわけではない。これほど優しい映像があるだろうか。
ちゃんとこのような映像を残してくれたことに、ありがとうと言いたい。

『セッション』


アカデミー賞5部門ノミネート。助演男優賞や録音賞など三部門受賞。
ジャズをやっている人から見たらもしかしたら気になるところもあるのかもしれないけれど、私は楽しく観ることができた。
30歳と若い、監督のデミアン・チャゼルは『グランド・ピアノ 狙われた黒鍵』の脚本の方という情報を入れていたのも良かったのかもしれない。要は音楽映画ではないです。

以下、ネタバレです。






鬼教授に学生がしごかれるという、内容はこれだけのとてもシンプルなストーリー。この指導方法が正しいかどうかという点はさておき、高校野球の強豪校などにもそのまま置き換えられそうな話。スポ根です。
『グランド・ピアノ』も、演奏会で一度も間違えちゃいけない(間違えたら殺される)とか、演奏会中に演奏者が立ち上がって席を外してしまうとか、つっこみどころ満載だったので、『セッション』についても、音楽映画としてのリアリティみたいなものは求めないほうがいいのだろうと思った。どちらにしても、ジャズについて知らないので求められないけど。

J・K・シモンズ演じるフレッチャー教授の、生徒たちの罵り方のバリエーションの多さにもニヤニヤした。とにかく罵倒する。当事者だったらものすごく怖いけれど、端から見ているとユニークに見えた。最初の方を見ていると、贔屓というか、単に気に食わないから追い出すということもしていたようだった。

生徒のアンドリューは、怖いけれど伝説的な指導者に好かれようと必死になる。この、天才の寵愛を受けようとする一般人の関係はどこかで見たことがあるなと思ったんですが、アンドリューが主奏者になって少しして、フレッチャーが新人を連れてきたシーンを見てわかった。『恋するリベラーチェ』である。

『恋するリベラーチェ』でも、リベラーチェがスコットを連れて来たときに元の恋人が隅に追いやられる。しばらく経って、リベラーチェが新しい恋人を連れてきたときに同じようにスコットが隅に追いやられる。
このシーンとまるで一緒である。
特に、ドラムの後ろにしょんぼりと前の前の主奏者とアンドリューが座り、何も考えてなさそうなあっけらかんとした様子の新しい主奏者がワクワクした様子でドラムの椅子に座っている様子は、捨てられた恋人たちにしか見えなかった。

スコットやアンドリューはリベラーチェやフレッチャーの一番になった時のことが忘れられないのだ。おそらく、とても気分が良かったのだろう。
アンドリューも、主奏者になったことを人に話す時も得意げだった。他の人は全く理解ができていないようだったけれど、その状況すら、自分だけがわかっていればいいという感情に変換される。
そのような意識があったのかわからないけど、天才たちは飴と鞭のさじ加減が上手なんですね。だからどんどん夢中になってしまう。
そして、天才に好かれるためならなんでもする。スコットは整形までしていた。アンドリューは恋人を捨てた。手にタコを作り、そのタコを潰し、痛みを感じなくさせるために氷水に手をつけてスティックを握っていた。
そこまで必死になった彼らには、天才が全てである。天才に捨てられたらどうなるか。何も残らないのである。

恋人と指導者という違いはあっても、関係性はほとんど一緒だった。洗脳とも言えるかもしれない。

『恋するリベラーチェ』は実話であるが、『セッション』は違うので、よりエンターテイメントに特化している。
ラスト付近でここで終わりなのだろうなというところから、ふた盛り上がりくらいするのが面白かった。

アンドリューがフレッチャーに「お前は終わりだ」と捨てられて、何も残らないまま放り出されて、それで映画も終わりだと思っていた。

アンドリューはジャズバーで演奏しているフレッチャーを見つけ、こっそり覗いて、演奏する様子を見ながらやっぱり目と耳を奪われる。そのあとで、見つかってテーブルを囲んで二人きりで話して学校を辞めたことを知る。向かい合って話している時点で、そんなこと学校で教わっている間には無かっただろうし、フレッチャーは怒鳴らないし、なんとなく今までのことを許そうという気持ちになったと思うんですね。そこで、新しく指揮をしているバンドが出るフェスのドラムをやらないかと誘われる。
迷っているフリをしながらも二つ返事です。

ここで得意げになっているのがわかるのは、元彼女に「久しぶり」なんて言いながら電話をしちゃうんですね。「見に来ないか」って。ひどい振り方をしたのを忘れてしまったのだろうか。やっぱりジャズのドラマーとしての活躍がすべてで、こいつは変わっていないと思った。もちろん元彼女はあまり乗り気ではないし、新しい彼氏もできたようだった。

そしてフェス当日、ステージに上がって、得意げのままドラムを叩こうとしたら、フレッチャーが告げたのは別の曲という…。フレッチャーは、ステージ上でアンドリューに近づき、学校を辞める原因になった密告はお前だな、知っていたぞと、いつもの怖い顔で言う。
復讐だったのだ。ステージ上でまったくドラムを叩けないアンドリューを見ながらこちらもいたたまれない気持ちになる。
その曲は最後まで演奏したものの、立ち上がって舞台袖に消えていく。舞台袖で見ていた父親に抱きしめられる。もう帰ろう…という感じに。

いたたまれないながらも、得意げになった罰なのだということでこれで映画が終わるのだと思っていた。

しかし、アンドリューはステージに戻っていく。そして、ドラムを叩き出して、自分が良く知っていて、バンドでも演奏できる曲の演奏を始める。
よくドラムがバンマスをつとめている場合がありますが、指揮者無視で演奏が進行していく。初めて、一般人が天才に反抗したのだ。
当然、フレッチャーはおもしろくないから、ステージ上なので取り繕いつつも、アンドリューに向かって悪態をつく。
それでも動じずにドラムを叩き続け、最後までやりきったとき、フレッチャーの、というかJ・K・シモンズの顔が映る。口元が映らないんですが、皺の動きから笑ったのがわかるカメラワークが素敵だった。
そして、それを見て、アンドリューも笑う。


ここで映画が終わるという、このカタルシスが最高。これ以上の終わり方はないと思う。いたたまれなさも解消。

アンドリューが辞めさせられるまでの追いつめられ方もすごかった。
交通事故を起こし、ひっくり返った車から何とか飛び出し、走って発表会場をめざし、血だらけのままステージに立ったときの、そんな馬鹿な感は、まさに『グランド・ピアノ』から受けた印象だったけれど。
最後のフェスのステージでのごたごたも『グランド・ピアノ』っぽい。ホールの客席で観てる側のことをあんまり考えていない作り方。ステージ上だけが世界というか。
叩けるまで帰れないのあたりから、どんどん追いつめられて、苦労して得た地位を死守しようとして神経が衰弱していくような様は狂気すら感じた。アンドリューを演じたマイルズ・テラーもうまかった。

 ステージに立つ前に、フレッチャーは「スカウトも観に来ているだろうからいい演奏をしろ。しくじると永久に道は断たれる」というようなことを言う。 アンドリューの心にこのことがどれくらい残っていたのかはわからないけれど、最後のドラム主導で演奏をしたときには、おそらくスカウトのことは考えていなかったと思う。ステージ上だけが世界という作られ方をしているからだ。
アンドリューはスカウト向けではなく、フレッチャーに向けてドラムを叩いたのだ。そして、正確にはどんな笑い方なのかはわからないけれど、フレッチャーに想いは通じたと思う。認められたというのとはまた違うかもしれないけれど、フレッチャーからだけでなく、アンドリューからの想いが相手に伝わったのはこれが初めてなのだと思う。

映画が始まって、どんどん追いつめられて、ぷつっと途切れ、平穏(または退屈)な日々が訪れて、再びぐわっと盛り上がって、一気にずどんと落とされ、そこから這い上がるようにして盛り上がって、その盛り上がりが最高潮に達して終わる。
グラフを書けそうな感じに流れが重要視されている映画だと思った。途中でCMやトイレ休憩をはさまずに一気に観たい。


二回目。一回目より落ち着いて観られました。
以下、二回目で気づいたことなど少し。ネタバレです。








一回目の時は、どんな話なのかもわからなかったし、リーガンが常に不安定で何をやらかすかわからなかったのでひやひやしながら緊張感を持って観てたんですが、今回は流れがわかっていたのでリラックスしながら観られました。
何をやらかすかというのは、人に危害を加えるのではないかということと、自殺するのではないかということだったんですが、最後付近になるまでそれは起きないのはわかっていた。
要は、この人はただ単に、初舞台を前にナイーヴになっているだけなのだ。

飛行シーンも、もしかしたらビルから飛び降りるのではないかと思っていた。あのシーンも二日酔いで街を歩き、屋上へ行き、自分で(もしくは屋上で声をかけてくれた人に付き添われながら)下へ降りて、タクシーで劇場へ向かったということなのだと思う。タクシーも人に呼んでもらったのかもしれない。お金も、あれは他の人、マネージャーのジェイクあたりが払ってそう。

それで、元妻が「ナイフを投げた一時間後に愛してると言った」と言っていたことと、マイクを「コーヒーを飲みにいこう」と誘うところなどから、もしかしたらアルコール中毒なのかなとも思った。はっきり描かれているわけではないのでわかりませんが、酒を飲むのに躊躇するシーンが何度か出てきていた。

サムですが、おそらく死ぬ気はなかったと思うけれど、あまり楽しい気分ではなく屋上に居て、そこでのマイクとの出会いが彼女の気持ちを生きる方へ変えたのだと思う。
「インポじゃなかったら私に何をしたい?」と聞かれたときにマイクが「目をくりぬく」と言ったときにはぎょっとしたけれど、そのあとすぐに「その若い目で街を見てみたい」という素敵なセリフが続くのが粋。
間接的に、そんなに若いんだから死ぬなよと言っているようにも思える。
サムもなんとなくそれを感じ取ったのかもしれないし、人を好きになることで、前向きな気持ちになったのかもしれない。

ラストの解釈ですが、開いてる窓を見て、当たり前ですが、サムは飛び降りたと思って、下を先に見るんですよね。その時に、一瞬、絶望の表情を浮かべているように見えた。よくわからないという怪訝な表情なのかもしれない。
おそらく、自殺はしているのだと思う。
その後で上を見上げて晴れやかな表情をするので、たぶん、これで良かったという、肯定的にはとらえてそうだけれど…。
それとも、本当に窓を開けて飛んでいってしまったのか。あまり深く考えるところではないのかもしれない。

映画内で演じられるレイモンド・カーヴァーの『愛について語るときに我々の語ること』も読みました。
特に盛り上がりがないというか、淡々とした話で、テーブルを囲んで、二組の夫婦が“愛について”話しているだけの短編である。
少なくとも、トナカイは出てこないし、どこで出したのかもわからないので、どんな使われ方をしていたのか確認したい。
銃のシーンはストーカーのような感じなのだけれど、殺されそうになった元パートナーの女性が「そんな愛し方もあることがわかる」と話している。他の三人からは同意されない。
映画の中の劇は、リーガンが脚色したことになっていたし、そのストーカーもリーガンが演じ、しかも、クライマックスに持ってきているということは、リーガンもその男に同意していたのかもしれない。

『Life After Beth』



2014年アメリカで公開。デイン・デハーン主演。日本で公開する様子がなかったのでアメリカ版のBlu-rayを買いました。5月よりシネマカリテのカリコレ2015での上映が決まっています(邦題もそのまま『ライフ・アフター・ベス』)。
英語字幕で観たので完全に理解出来たわけではないのですが、一応ネタバレを含んだ感想。5月に答え合わせをしようと思います。







『ウォーム・ボディーズ』はゾンビが人間の女の子に恋してしまうZombie meets Girlムービーだったんですが、こちらはゾンビになってから出会ったわけではなくて、彼女が死んでしまい、なぜか蘇ったという話。

コメディだったらもっと徹底してコメディにしてくれて良かった。もしかしたら英語字幕のせいでおもしろさが理解出来ない部分も多かったのかもしれないけれど。

ベスだけでなく他の人たちも続々と蘇ってきてしまうんですが、その理由がよくわからなかった。これも英語字幕なのでよくわからなかったのかもしれない。
序盤で、怒ってベスの家を出て行ったメイドさん(?)のPearlineという女性がいるんですが、彼女がハイチ人のため、ハイチ人→ブードゥー教→ゾンビという短絡的な考えで、ザック(デイン・デハーン)が彼女の家に押し入る。もうPearlineはどこかへ出て行ったあとだったんですが、家族から「ハイチ人が全員ブードゥー教徒だと思うな」ということと、彼女はベスの父(ジョン・C・ライリー)にセクハラを受けたから辞めたのだと知らされる。

ここでの会話で“his penis”という言葉が出てくるんですが、今まで観てた外国のコメディ…例えば、『22ジャンプストリート』やセス・ローゲン系の映画だと、penisなんてセリフが出てきたら明らかに笑うところなんですね。Pearlineの家族は捲し立てていたので、字幕が追えず、ここもギャグなのかなと思っていたけれど、あとで個別に訳してみたら違った。

そのあと、ベスの父はザックに向かって銃を構えている。そこまで怒ることなのかわからないけれど、ここで「ゾンビのベスに永遠に愛すと誓ってやってくれ」というようなことを言う。ここまで必死になるということは、どこでだかわからなかったけれど、もしかしてベスの父がベスを蘇らせて、ザックのその言葉でもって、蘇りが完了するということだったのだろうか。

はっきりとはわからなかったけれど、父親の裏の顔などは別に無くて良かったと思う。もっと、ベスとザック、二人だけに焦点を当てた青春ムービーにしてほしかった。
蘇った理由だって、「あなたが好きだから、死んだけど蘇ってきちゃった」みたいな、キュートで軽いもので良かったと思う。それか、言い残したことがあるとかやり残したことがあるみたいな切ない理由。それで、目的が遂行されたら消える…だとゾンビというよりはゴーストといった感じになってしまうか。

ゾンビでラブコメなら、服を脱いだら内臓が飛び出てたくらいのことがあっても良かった。年齢制限考慮なのか、ゴア表現はほとんどない。ゾンビものだけれど、内臓も出なければ人を食らう描写もない。血もほとんど出てこない。食べたというセリフは出てくるので食べないタイプのゾンビでは無いらしい。それでも、ホラーの要素は削られている。だから、生身の人間側にはそれほど緊迫感がない。けれど、ギャグではなくシリアスなのが中途半端だと思う。緊迫感をなくするならギャグに、シリアスにしたいならもっとホラーに寄ったほうが良かった。

途中でザックの幼馴染みの生身の女の子が出てくるんですが、これがアナ・ケンドリック。ベスを演じているのはオーブリー・プラザという女優さんなんですが、個人的な知名度ではアナ・ケンドリックのほうが上だし、幼馴染みと喋っているザックがとても楽しそうだったので、なんとなく、この生身二人を邪魔しにきたゾンビの元カノみたいな雰囲気になってしまっていたのもどうかなと思った。
ザックは何があってもベスのことを好きでいてほしかった。ゾンビと人間のカルチャー(?)ギャップはありつつも、好きで好きでたまらない、それくらの強い気持ちがないと、ゾンビと人間のラブストーリーなんて成立しない。

ザックは気持ちがぶれぶれで、最初もベスから気持ちが離れてた。でも、死んでぼんやりと後悔していたところで、ベスが蘇って喜ぶ。まるで付き合い始めのように好きだ好きだと言っている。でも、ベスが人間の理性を飛ばし始め、幼馴染みと再会すると、やっぱり気持ちが離れてしまう。
何の理由があったのかはわからないけど、最初別れようとしていたのは仕方ないかもしれない。でも、蘇ってからは、ベスだけを愛して欲しかった。

最後もザックと幼馴染みが今後いい関係になることを示唆する描写が入るんですが、別にそれはいらなかった。だって、ザックがベスを撃ったことで、もうこのお話はおしまいじゃないか。そりゃあ、おそらくザックはそのあとそうなるのはわかるけれど、それはわざわざ映画本編に入れるものではない。
ゾンビを倒して平和が訪れたその後の人間たち…というところまで描くのは、あくまでもゾンビが敵の位置にいる映画だけでいい。この映画も途中からそんな雰囲気になってしまうけれど、最初はゾンビは恋人だけだったし、敵ではなかった。
だから、ベス以外の人間を蘇らせるのもやめたほうが良かった。ベスだけが蘇って、ベスとザック、二人の関係だけを描いて欲しかった。

完全に話が理解出来ているわけではないので、もしかしたら日本語字幕付きで観たら、納得する部分もあるのかもしれない。

あと、一番致命的なところは、デイン・デハーンである意味がないところ。なんで、彼がキャスティングされたのかわからない。
こじらせ童貞臭もしないし、影も背負ってなさそう。彼女といちゃつく、一般的な男の子です。もっと、一般的な役の似合う役者さんがいると思う。

ほんのワンフレーズですが、アコースティックギターを弾きながら歌うシーンがあって、それは初めて見る姿だったし、歌声を聴いたのも初めてだったので興味深かった。そんなに上手ではないです。素朴。

ベスのマフラーの匂いをかいでいたらムラムラして、股間に手を伸ばしかけたところで部屋にお兄さんが入ってきて、「ノックしろよ!」みたいなところは良かった。お兄さん役は、マシュー・グレイ・ギュブラー。脳筋警察官っぷりがおもしろかった。



『サラの鍵』



2011年公開。フランスでは2010年公開。
2006年に出版された小説を原作にしている。

ユダヤ人の迫害というとドイツのイメージだけれど、フランスでも行われていたのを知らなかった。1940年のドイツ軍フランス侵攻で負け、フランスはナチスドイツに占領されていた。

その時代、1942年に行われたフランス在住のユダヤ人が大量に検挙されたヴェル・ディヴ事件と、そこから逃げ出した少女サラと、そのサラの行方を追うジャーナリストジュリアの話である。
ヴェル・デイヴ事件というのも知らなかったのですが、ユダヤ人が競輪場に大量に集められ、そこから、強制収容所へ送られていったらしい。女子供問わずだったとのこと。

ホロコーストが題材ではあるけれど、政治色が強すぎたり、変に説教臭かったり、ガチガチにかた苦しくはならない。1920年代だけではなく、現代も平行して描かれているからかもしれないし、ジュリアによるサラの素性調査という形をとっているからかもしれない。
パリ、ブルックリン、イタリアと飛び回り、縁のある人に話を聞いて、徐々にサラの人生が明らかになっていく様子は探偵ものの謎解きミステリのようだった。

一体、サラの身に何が起こったのか、そして、今どこにいるのか…など、先が気になって仕方なくなる。これは、映画がそういう風な作りになっているせいもあるが、実話ではなく原作が小説だからかもしれない。ちゃんと、次々読み進められるように、ページを捲る手がはやくなるように書かれている。

サラが逃げた時に匿った老夫婦とその孫、サラが以前住んでいたマンションのオーナー(夫の祖父)、サラの夫、サラの息子…。話を聞くたびに、サラが形になっていく。
しかし、同じマンションに住むというだけで、そこまで入念に調べる必要があったのだろうか。気になるのはわかるし、ジャーナリスト魂みたいなものが疼いたのかもしれない。でも、墓をあばくようなことにはなっていなかったのだろうか。

ジュリアは調べていけばサラご本人に会えるのではないか、と考えていたのかもしれない。しかし、サラは若くして自殺をしていた。
両親が強制収容所へ送られたこと、そして、弟を納屋に閉じ込めたまま、結局は殺したような形になってしまったことをずっと考えていたのだと思う。
そんな辛い現実を知る必要があったのだろうか。サラの息子も何も知らないようだった。

息子に関しては、自らのアイデンティティーが揺らぐような事柄を、まったく自分と関係のない、初めて会う人から聞かされたわけである。家庭内で解決すべき問題だった。言うタイミングなども、父親は考えていただろうし。
ただ、父親ももう施設に入るような年齢だし、息子も「50年間知らないままだった!なんで教えてくれなかったんだ!」と怒っていたようだったので、きっかけを作ったのは良かったのかもしれない。

ジュリアは高齢出産を決意し、産まれた子供にサラと名付ける。元々、同じマンションだったというだけで、縁もゆかりもなかったけれど、詳しく調べることによってもう他人とは思えなくなったのだろう。平行して描かれていたサラとジュリアの人生が、初めて交わったのを感じた。

観ているのが苦にならないようなミステリ風の語り口で、重要な歴史を白日の下にさらす。それは映画の役割の一つでもあると思う。




原題『PRIDE』。プライドでパレードという文字りは…とも思ったのですが、観てみるとこの邦題もいいです。
ゲイ映画かと思いきや、どちらかというと、『リトル・ダンサー』や『ブラス!』のような炭鉱閉鎖もの。
ビル・ナイ、アンドリュー・スコット、パディ・コンシダイン、ジョージ・マッケイと、イギリス映画好きにはたまらないキャストが揃えられています。

以下、ネタバレです。






1980年代、ゲイやレズビアンにとっては警察や国家は敵であったが、炭鉱夫たちにとってもそれは同じだった。だったら、ということで、同性愛者たちが炭鉱夫ストを応援するために募金活動をする。
同じく少数派であり、戦う相手も同じならば協力しちゃおうよ、というのはものすごく良くできた脚本だなあと思いながら観ていたら、なんと実話だった。しかも、ラストを観ていると、いかに実在の人物について描かれていたかがわかる。

『リトル・ダンサー』にしても『ブラス!』にしても、炭鉱の村というのは労働者階級の村で、しかもサッチャー政権から抑圧されているから雰囲気が暗い。色も無い。
今回はウェールズの南部のディライスという場所が炭鉱の村として描かれているが、やはり、地味な印象である。そこへド派手な恰好をした連中が来るだけでも大騒ぎなのに、さらに同性愛者だというから、保守的な村の人々は警戒する。当たり前である。

結局、差別というのは自分と違うものに対しての恐怖なのではないかと思う。得体が知れないから怖いという、それだけなのだろう。
でも、性的指向が違うというだけで、根本は同じである。それをてっとり早く示したのが、この映画の中ではダンスだった。

セクシーに腰をくねらせながら、ダンスを踊ると村の女性たちは大喜びで一緒に踊り出す。言葉で説明しても伝わらないなら、もっと直感的にわかってもらおうという作戦で、観ているだけでもニコニコしてしまうハッピーなシーンになっている。
更に、つんけんしていた村の男たちも、モテたいからダンスを教えてほしいと申し出る。後半の募金の資金集めパーティーのシーンでしっかりモテていたのも良かった。

群像劇というか、登場人物が多く、一人一人に違うストーリーがあるけれど、同性愛者たちと炭鉱夫たちの募金活動を通じての交流が大きな筋になっているため、散らかった印象は受けない。多数の登場人物に寄り添って描写していくため、すべてのキャラクターに愛着が沸いてしまう。

ダンスを踊っていた奔放な性格のジョナサン(ドミニク・ウェスト)の恋人がゲシン(アンドリュー・スコット)。勘当同然の状態で家を飛び出したけれど、母親のもとを再度訪ねるシーンが良かった。ベルを鳴らして、落ち着かなそうに体を貧乏ゆすりしていたのが細かい。ジョナサンが開けっぴろげな性格なので、自分がしっかりしなくては、と思ってそうなのもいい。アンドリュー・スコットは『SHERLOCK』のジム・モリアーティのキレキレ演技というか瞳孔開きっぱなしのインテリみたいなのしか観たことがなかったんですが、今作では神経質そうな、でもすごく優しいんだろうなという、渋さすら感じる演技が観られる。007の次作『Spectre』も楽しみ。

個人的に一番楽しみだったジョージ・マッケイは本作でも素晴らしかった。親にもカミングアウトしておらず、ゲイコミュニティにも入りたて。“ブロムリー”と住んでいる場所の名前で呼ばれちゃう。ハッピーバースデーの缶バッジを胸に付けたままにしちゃったり、ポロシャツをズボンにインしてたり、アグリークリスマスセーターを着ちゃったりとさえない。
でも、いままでおそらく隠れて過ごしていたのだろう、初めての経験が多そうで何もかもを吸収していってるようだった。良く言えば純朴である。
新しい日々はきらきらと輝いていて、楽しくてたまらない。特に、炭鉱夫の村に行って、家に帰ってきたときに、部屋で一人、こらえられなさそうに顔を元に戻そうとしても笑顔になっちゃうという表情が良かった。
好きなカメラを持って、カムデンでのフェスで写真を撮っているさまもいきいきしていた。そこで、おそらく初めてのキスをするシーンもロマンティック。
ただ、両親にバレてしまい、猛反対される。鼻を真っ赤にして泣いていたのは可哀想なシーンではあるけれど、少し可愛かった。
結局、縁を切るような形で家を飛び出す。まるで過去のゲシンのよう。ゲシンのエピソードが前に出ていることで、おそらくブロムリーも何年後か何十年後かわからないけれど、両親とちゃんと向かい合うことになるのだろうとわかる。今はその時ではない。

炭鉱組合の書記であるクリフ(ビル・ナイ)はつかず離れずというか、あまり口を出して来ないので、募金をしてもらうことについて賛成なのか反対なのかわからなかったけれど、結局は賛成派だった。直接彼らとやりとりはしなくても、感謝をしているのが伝わってきた。
後半、委員長のヘフィーナと並んで大量のサンドイッチを作っているシーンで、「僕もゲイなんだ」と驚くべき告白をするシーンもあった。ヘフィーナは動じず、「知ってた」と。ヘフィーナがパンにバターを塗って、クリフがカットするベルトコンベア式で作業をしてるんですが、切り方の間違いを正したりと、作業を止めもしない。別にいつも通りという、この優しさがいい。
最初、真ん中に縦にナイフを入れて、「そうじゃなくて斜めに三角に切って」と注意されるんですが、告白に自分が動揺しちゃったのか、何枚か正しく切ったあと、斜めに二方向、クロスさせるような感じで小さい三角に切っちゃってたのが可愛かった。
ラスト付近で新聞記者から「ゲイの人たちと最初に会った時に奇妙な感じがしましたか?」という質問に「奇妙な感じがするかね?」と茶目っ気たっぷりに返す様子がとてもビル・ナイっぽかった。出番はそれほど多くないけどいい役。

炭鉱夫の村の代表というか、唯一最初から理解を示していた住民がダイ(パディ・コンシダイン)。いくらダンスで打ち解けたとは言え、彼のような両者の橋渡し役の人物がいなかったら協力はなしえなかっただろう。温厚なしっかり者の役柄がよく合っていた。

同じく、ゲイコミュニティー側の代表のマーク(ベン・シュネッツァー)がいなかったら、物語は動かなかっただろう。募金の発起人であり、正義の人である。ただ、常に正しさを求めるが故に、一人で頑張りすぎるところがあり、「君も少しは休みなさい」とダイが言葉をかけるシーンが泣けた。二つのグループの似た立場だからこそ言えるセリフなのだろう。
マークの元恋人役でカメオ的にほんの少しだけれど、ラッセル・トビーも出てきます。少ししか出てこないわりに強烈な印象を残す。

あと、『ブラス!』でもそうだったんですが、炭鉱の村の男共よりもおばちゃん最高。もちろん、実際に炭鉱で働いているわけじゃないというのもあるとは思うのですが、細けえことはいいんだよ的なガハハ感がある。募金集めのフェスのためにカムデンにやってきたおばちゃんたちの夜の描写が本当に楽しかった。
ゲイバーだって、「遠くから来たんだからいいじゃないの」って言いながらずいずい入っていく。
ゲシンたちの家の二階に泊めてもらうことになったようで、エロ本やおとなのおもちゃを見つけてキャーキャーバカ騒ぎしているのが可愛いやらおもしろいやら。
一階で、「寝ないつもりかな」とゲシンが言うのが可愛かった。ジョナサンがちゃんと抱きしめてあげるのも良かった。

歴史的に、炭鉱側が負け、サッチャーの勝利に終わることもわかっている。けれど、頑張ったところで報われないというような暗い結末にはならない。
映画のラストでは、ゲイパレードに多数の炭鉱組合が駆け付ける。募金への感謝を表明するため、直接やり取りしていた村以外の人々も現れた。
誠意を持って接すれば、ちゃんと想いは通じるのだ。元々は少数だって、行動を起こせば何かが動かせるかもしれない。
まず一歩踏み出すことが大切なのだという勇気を与えてくれて、爽やかな気分で映画館を出ることができる作品だった。


夜になると博物館の展示物が動き出すということだけでも楽しいナイトミュージアムのシリーズ第三弾。最終章とのこと。
いままで出てきたキャラクターが続けて出て来るため、1は観ておいたほうが楽しめると思う。時間があったら2も。
私は一応、前二作品とも観ていたのですが、1が2007年、2が2009年と公開からだいぶ経っているため、内容をほとんど忘れてしまっていて、観直さなかったことを後悔しました。

以下、ネタバレです。








お馴染みのキャラクターがわちゃわちゃやることには変わりないので、キャラクターに親しみを持っていたほうがより楽しめると思う。私の場合、久しぶりすぎて、ああ、居たな…という感想しか抱けなかったのが残念。
最終章ということで、最後に別れが描かれるけれど、良く知ったキャラとなんとなく憶えているキャラとでは、そこでのさみしさもまったく違っただろう。
なので、1と2を観た上で3…という、もう一周したいような気持ちになった。

あと、2007年も2009年もその時点ではリッキー・ジャーヴェイスを意識せずに観ていた。今回『The Office』や『エキストラ』などを観た上で観てみると、博物館の館長というキャラクターと俳優自身が初めて重なった。この点でも、1と2をもう一度観たい。

前作から6年も経ってしまって、主人公ラリーの息子が大きくなっていたので子供の成長の早さに驚いたのだけれど、違う俳優さんが演じていた。
でも、役柄とはいえ、子供の成長により、本作は2の後、それなりに時間が経っているのがわかる。

今回は、展示物が動く元である石版に異変が起こり、その謎を解くためにロンドンの大英博物館へ向かう。
舞台がロンドンに移った時にThe Clashの『London Calling』が流れた。ジャジャジャジャジャジャの部分に合わせて、ビッグ・ベンとかのロンドン名所がパパパパパパと出るのって、他の映画でもよく見かける演出だと思うけれど、何で観たのかわからない。もうそろそろそれはやめようよ…とも思ったけれど、パロディだったのかもしれない。

最初にパルテノン神殿の部屋に入る。パルテノン神殿からの展示物は古いので首が無かったり、腕が折れてたりするんですが、それが動く様は少し不気味。横のレリーフも動いていたのも細かい。
展示物の部屋を移っていく様子や、中央ロビーの様子など、行ったことある博物館の展示物が動くのを見るのは楽しさが違う。ニューヨークの自然史博物館は行ったことがない。
上野の国立科学博物館版のナイトミュージアムも見てみたい。

ランスロットが石版を持ち出したため、トラファルガースクエアのライオンも動いていた。2でリンカーンも動いてたし、銅像系は何でも動くようだ。

ランスロットを演じたのがダン・スティーヴンス。『ダウントン・アビー』のマシュー役で有名ですが、馬に乗った鎧を着たマシューがトラファルガースクエアに…と考えながら観てしまった。実際に、広場を封鎖して撮影したらしい。

ランスロットとの攻防戦で、エッシャーの騙し絵の中に入ってしまうのがおもしろかった。映像的にも騙し絵=二次元なので、登場人物が漫画調になる。
そして、騙し絵なので、落ちたと思ったら上から落ちてきたりという仕組みも面白かった。『インセプション』の「パラドックス!」を思い出す。

ランスロットはロンドンバスの広告の“Camelot”という文字を見つけ、劇場へ侵入する。
そこでアーサー王を演じていたのが、ヒュー・ジャックマン。一瞬だけど、歌声も披露。また、首を傾げているランスロットに向かって、「僕はアーサー王じゃなくて、ヒュー・ジャックマンだよ」と言って、ウルヴァリンの真似もやるサービスっぷり。
去り際にラリーが「あなたは顔も性格もいい」と言うけれど、ヒュー・ジャックマンの数々の聖人エピソードに加えて、カメオを引き受けてくれたことも含まれていると思う。実際に、私の中でもヒュー・ジャックマンの株が上がった。
『Camelot』というミュージカルは1960年代から上演されているものらしい。けれど、ヒュー・ジャックマンは演じてません。
初代アーサー王役はリチャード・バートン、グィネヴィア役はジュリー・アンドリュース。

大英博物館の警備員とのやりとりや、ランスロットとラリーの最初のやりとり、ネアンデルタール人ラーとラリーの一人二役のやりとりなどは、多少クドく、動きが停滞するため、だれてしまうところがあった。ゆったりかまえていれば気にならないと思う。

ジェデダイアとオクタヴィウスがエアコンダクトに吸い込まれてしまうシーンは、ミニチュアの二人には深刻だけれど、普通の大きさの人間にとっては些細なこと、という映像が交互に流れていて面白かった。
ポンペイで二人にとっては巨大な猿、実際にはむしろ小さいくらいのデクスターが救うシーンも良かった。

ギャグも健在ですが、最終章らしいエピソードもしっかりと組み込まれていた。
結局、石版を大英博物館に置いていくことになった時に、警備員に「いまは退屈だろうけど、明日から楽しい日々が待ってるぜ」とラリーが言うシーンがあった。
それは、自らの楽しいばかりではないけれど刺激的な日々をそのまま明け渡す作業である。自分は、“退屈な”日常へ戻っていくのだ。
もしかしたら主人公が代替わりして続けるのかとも思ったけれど、ベン・スティラーじゃないナイトミュージアムなんてナイトミュージアムじゃないので、これで終わりなのだろう。

自然史博物館で大英博物館展をやることによって、一時的に石版が戻ってくる。
1のラストではEarth,Wind&Fireの『September』が流れて、みんなが踊るシーンがとても楽しいのですが、それと同様に大英博物館と自然史博物館の展示物両方が入り乱れて踊るシーンで最高にハッピーになった。
けれど、そこにラリーはいない。

ラリーは、自然史博物館の外から、窓がライトでピカピカ光っているのを見ている。楽しげな様子を見ているだけで、中には入らない。
でも、おそらく、愛しいものを切り離すことが本作のテーマなのだと思う。だから、切なくほろ苦いけれど、この結末でいいのだ。

今回、大英博物館と自然史博物館で離ればなれになったエジプトの親子、ルーズベルトとラリーの関係、またラリーとラーの関係、それにラリーと本物の息子の関係と、実際の親子と親子モチーフの事柄が多く出てくる。
ラリーの息子は、高校を卒業し、その先の進路は自分で決めたいとのことだった。ちゃんとは描かれていないが、おそらく、ラリーが外から自然史博物館を見ている時点で近くにはいない。でも、大人になるためにはいつまでも一緒というわけにもいかない。

少しさみしいけれど、一歩前に進むためには仕方のないことなのだ。三部作を締めくくりとしては、楽しいだけで、はい!おしまい!みたいな感じじゃないくて良かったと思う。
多分、ルーズベルトを演じたロビン・ウィリアムズとの別れについても、直接的ではなくても描いているのではないだろうか。

『ジュピター』


ウォシャウスキー姉弟監督。ミラ・クニス主演で、チャニング・テイタムやエディ・レッドメインも出てます。
予告編を観た感じだと、チャニング・テイタムがソー、エディ・レッドメインがロキっぽいなと思っていたのですが、そんな話ではなかった。
以下、ネタバレです。







冴えない生活を送っていた女性が、実は、宇宙を束ねる女王陛下の生まれ変わりだということがわかり日常が変わる。普通の女性が女王陛下に!?というのは、少女漫画のような設定だと思った。もちろん男性との出会いもあります。ピンチになると、必ず同じ男の人が間一髪のところで助けてくれる。

普通の地球人の女性、遺伝子操作された兵士、宇宙を牛耳るエリート兄弟と、登場人物も漫画っぽい。兵士と女性がエリート兄弟に立ち向かう。
なんとなく、話の進み方が想像できるというか、真新しさはそれほどなかった。

ただ、その遺伝子操作された兵士ケインを演じているチャニング・テイタムが良かった。これは、この前観た『22ジャンプストリート』でチャニング・テイタムのことが好きになってしまったせいもあるけれども。
オオカミと人間の配合、王族のアブラサクス家にたてついて羽根をもがれてしまった。ちゃんと上半身裸姿になるし、その時間も長い。羽根をもがれた背中が出てきて、その羽根を取り戻すためにも戦っているっぽかったので、これは最後に羽根のはえたチャニング・テイタムが見られるかなと思ったら、最後の最後に出てきて満足。

あと、アブラサクス兄弟のタイタスを演じていたダグラス・ブースという俳優さんも良かった。優男というか、甘い顔立ち。未見ですが、『ノア 約束の舟』にも出てたらしい。イギリスの俳優さんのようなので、この先どこかで見かける事もありそう。

アブラサクス兄弟の長男バレムを演じていたのがエディ・レッドメイン。一見物腰が柔らかそうだけど、突然激昂したりと、精神的には不安定そう。王っぽいローブなども似合ってた。トカゲ人間のような部下を連れていて、いかにも悪役という感じ。

チャニング・テイタムとエディ・レッドメインという今をときめく俳優さんが二人揃えられていたら、当然絡みを期待するんですが、なんと、一回も無かった。言葉をかわさないどころか、同じ画面にすら一回も映らない。スケジュールの調整ができなかったのだろうか。

後半で、バレムがジュピター(ミラ・クニス)を殺そうとする場面があるんですが、愛する女性が襲われてて、しかもそれが自分の敵でもあったら、当然ケインが駆け付ける展開だと思うんですよね。しかし、ジュピターは自分でバレムと戦っちゃう。王子様は現れない。

でも、よく考えたらバレムは魔法が使えるわけでもないし、ケインと戦うことなんてできなかったのかもしれない。でも、肉弾戦は無理でも、剣を使うとか、銃みたいなものを持たせれば遠くからも攻撃できるしなんとでも…。

少女漫画っぽいならその通りに、二人の男性が主人公のために戦うような展開があっても良さそうなものだ。けれど、自分で戦う強い女性を描きたかったのかもしれない。ただ、個人的には二人の戦いが無いのはものすごく残念だったし、クライマックスに持って来てもいいくらい盛り上がると思うので、それが省かれているとなると消化不良でした。

もう一つの不満点は地球での市街戦。宇宙人や宇宙船がアメリカの街並にまったく溶け込んでいなかった。ビルの間を抜けていく宇宙船が浮いてしまっていたのは、合成の問題なのだろうか。
それだけではなく、ビルや車などを吹っ飛ばしているわりに、一般市民はほとんど動揺している様子が無い。こんなに宇宙人にめちゃくちゃにされて、アメリカのみならず地球はどうなってしまうんだろうと思っていたら、ビルが修復されていく。直せるし、短期間なら人の記憶も消せるのだそうだ。市街戦の傷跡は無かった事にされた。ちょっとご都合主義すぎる気がした。そこまでやってくれる宇宙人なんなんだ。だったら、始めから地球でバトルはやめれば良かったのに。

宇宙に行ってからのほうが好きでした。いろんな星人がいて楽しい。象のパイロットみたいなのも気になった。ケインがオオカミと人間の配合なので、あの人は象と人間の配合なのかもしれない。いろんな人が映るけれど、個々には言及されないのが残念。

宇宙弁護士も良かった。見た目は人間のようだったけれど、ロボットかサイボーグみたいな感じだと思う。ジュピターが女王陛下になるための手続きをするために、役所の部署をたらい回しにされるんですが、張り付いた笑顔がだんだん引き攣っていくのがおもしろかった。後ろで付き添いのケインがうんざりした顔をしているのも可愛かった。
ただ、その手続きは女王陛下自らがしなきゃいけないの?という疑問も残った。

ジュピターと弟タイタスの結婚式は目を見張るほど豪華だった。ドレスも綺麗で、会場も未来的でスタイリッシュ。大人数の客がいるけれど、「これは全員シムなんだよ。見栄えを良くするためにね」なんて、説明があってなるほどと思った。ただ、ストーリーに直接関係ないところだし、そんな詳しい説明はあってもなくてもどちらでも良い場面だった。個人的には深く知る事ができて、よりおもしろくなったシーンだけども。
設定や映像、全てに対してだと思うけれど、こだわるところと適当にしちゃうところの差が激しかった。

最初、家に強盗が押し入って父親が殺されてしまうのですが、あれはただの強盗だったのだろうか。父親はただの星好きの男だったのだろうか。いかにも訳ありっぽかったけれど、別に語られなかったから、何も謎はない普通の地球人なのだろうけど。

ジュピターは助けてもらったからケインを好きになるというのはわからなくもないけれど、ケインはなぜジュピターにひかれたのだろうか。それほど、運命の出会いってほどでも無かった。恋に落ちる瞬間も何も無かったので、どの瞬間にそうなったのかまったくわからない。

つめこみすぎて話運びが雑になっている部分もあるし、無くても良かったのではというシーンもあるし、丁寧でもっと細かく見たいと思う部分もあった。ペース配分やバランスがもったいなかった。