『セッション』


アカデミー賞5部門ノミネート。助演男優賞や録音賞など三部門受賞。
ジャズをやっている人から見たらもしかしたら気になるところもあるのかもしれないけれど、私は楽しく観ることができた。
30歳と若い、監督のデミアン・チャゼルは『グランド・ピアノ 狙われた黒鍵』の脚本の方という情報を入れていたのも良かったのかもしれない。要は音楽映画ではないです。

以下、ネタバレです。






鬼教授に学生がしごかれるという、内容はこれだけのとてもシンプルなストーリー。この指導方法が正しいかどうかという点はさておき、高校野球の強豪校などにもそのまま置き換えられそうな話。スポ根です。
『グランド・ピアノ』も、演奏会で一度も間違えちゃいけない(間違えたら殺される)とか、演奏会中に演奏者が立ち上がって席を外してしまうとか、つっこみどころ満載だったので、『セッション』についても、音楽映画としてのリアリティみたいなものは求めないほうがいいのだろうと思った。どちらにしても、ジャズについて知らないので求められないけど。

J・K・シモンズ演じるフレッチャー教授の、生徒たちの罵り方のバリエーションの多さにもニヤニヤした。とにかく罵倒する。当事者だったらものすごく怖いけれど、端から見ているとユニークに見えた。最初の方を見ていると、贔屓というか、単に気に食わないから追い出すということもしていたようだった。

生徒のアンドリューは、怖いけれど伝説的な指導者に好かれようと必死になる。この、天才の寵愛を受けようとする一般人の関係はどこかで見たことがあるなと思ったんですが、アンドリューが主奏者になって少しして、フレッチャーが新人を連れてきたシーンを見てわかった。『恋するリベラーチェ』である。

『恋するリベラーチェ』でも、リベラーチェがスコットを連れて来たときに元の恋人が隅に追いやられる。しばらく経って、リベラーチェが新しい恋人を連れてきたときに同じようにスコットが隅に追いやられる。
このシーンとまるで一緒である。
特に、ドラムの後ろにしょんぼりと前の前の主奏者とアンドリューが座り、何も考えてなさそうなあっけらかんとした様子の新しい主奏者がワクワクした様子でドラムの椅子に座っている様子は、捨てられた恋人たちにしか見えなかった。

スコットやアンドリューはリベラーチェやフレッチャーの一番になった時のことが忘れられないのだ。おそらく、とても気分が良かったのだろう。
アンドリューも、主奏者になったことを人に話す時も得意げだった。他の人は全く理解ができていないようだったけれど、その状況すら、自分だけがわかっていればいいという感情に変換される。
そのような意識があったのかわからないけど、天才たちは飴と鞭のさじ加減が上手なんですね。だからどんどん夢中になってしまう。
そして、天才に好かれるためならなんでもする。スコットは整形までしていた。アンドリューは恋人を捨てた。手にタコを作り、そのタコを潰し、痛みを感じなくさせるために氷水に手をつけてスティックを握っていた。
そこまで必死になった彼らには、天才が全てである。天才に捨てられたらどうなるか。何も残らないのである。

恋人と指導者という違いはあっても、関係性はほとんど一緒だった。洗脳とも言えるかもしれない。

『恋するリベラーチェ』は実話であるが、『セッション』は違うので、よりエンターテイメントに特化している。
ラスト付近でここで終わりなのだろうなというところから、ふた盛り上がりくらいするのが面白かった。

アンドリューがフレッチャーに「お前は終わりだ」と捨てられて、何も残らないまま放り出されて、それで映画も終わりだと思っていた。

アンドリューはジャズバーで演奏しているフレッチャーを見つけ、こっそり覗いて、演奏する様子を見ながらやっぱり目と耳を奪われる。そのあとで、見つかってテーブルを囲んで二人きりで話して学校を辞めたことを知る。向かい合って話している時点で、そんなこと学校で教わっている間には無かっただろうし、フレッチャーは怒鳴らないし、なんとなく今までのことを許そうという気持ちになったと思うんですね。そこで、新しく指揮をしているバンドが出るフェスのドラムをやらないかと誘われる。
迷っているフリをしながらも二つ返事です。

ここで得意げになっているのがわかるのは、元彼女に「久しぶり」なんて言いながら電話をしちゃうんですね。「見に来ないか」って。ひどい振り方をしたのを忘れてしまったのだろうか。やっぱりジャズのドラマーとしての活躍がすべてで、こいつは変わっていないと思った。もちろん元彼女はあまり乗り気ではないし、新しい彼氏もできたようだった。

そしてフェス当日、ステージに上がって、得意げのままドラムを叩こうとしたら、フレッチャーが告げたのは別の曲という…。フレッチャーは、ステージ上でアンドリューに近づき、学校を辞める原因になった密告はお前だな、知っていたぞと、いつもの怖い顔で言う。
復讐だったのだ。ステージ上でまったくドラムを叩けないアンドリューを見ながらこちらもいたたまれない気持ちになる。
その曲は最後まで演奏したものの、立ち上がって舞台袖に消えていく。舞台袖で見ていた父親に抱きしめられる。もう帰ろう…という感じに。

いたたまれないながらも、得意げになった罰なのだということでこれで映画が終わるのだと思っていた。

しかし、アンドリューはステージに戻っていく。そして、ドラムを叩き出して、自分が良く知っていて、バンドでも演奏できる曲の演奏を始める。
よくドラムがバンマスをつとめている場合がありますが、指揮者無視で演奏が進行していく。初めて、一般人が天才に反抗したのだ。
当然、フレッチャーはおもしろくないから、ステージ上なので取り繕いつつも、アンドリューに向かって悪態をつく。
それでも動じずにドラムを叩き続け、最後までやりきったとき、フレッチャーの、というかJ・K・シモンズの顔が映る。口元が映らないんですが、皺の動きから笑ったのがわかるカメラワークが素敵だった。
そして、それを見て、アンドリューも笑う。


ここで映画が終わるという、このカタルシスが最高。これ以上の終わり方はないと思う。いたたまれなさも解消。

アンドリューが辞めさせられるまでの追いつめられ方もすごかった。
交通事故を起こし、ひっくり返った車から何とか飛び出し、走って発表会場をめざし、血だらけのままステージに立ったときの、そんな馬鹿な感は、まさに『グランド・ピアノ』から受けた印象だったけれど。
最後のフェスのステージでのごたごたも『グランド・ピアノ』っぽい。ホールの客席で観てる側のことをあんまり考えていない作り方。ステージ上だけが世界というか。
叩けるまで帰れないのあたりから、どんどん追いつめられて、苦労して得た地位を死守しようとして神経が衰弱していくような様は狂気すら感じた。アンドリューを演じたマイルズ・テラーもうまかった。

 ステージに立つ前に、フレッチャーは「スカウトも観に来ているだろうからいい演奏をしろ。しくじると永久に道は断たれる」というようなことを言う。 アンドリューの心にこのことがどれくらい残っていたのかはわからないけれど、最後のドラム主導で演奏をしたときには、おそらくスカウトのことは考えていなかったと思う。ステージ上だけが世界という作られ方をしているからだ。
アンドリューはスカウト向けではなく、フレッチャーに向けてドラムを叩いたのだ。そして、正確にはどんな笑い方なのかはわからないけれど、フレッチャーに想いは通じたと思う。認められたというのとはまた違うかもしれないけれど、フレッチャーからだけでなく、アンドリューからの想いが相手に伝わったのはこれが初めてなのだと思う。

映画が始まって、どんどん追いつめられて、ぷつっと途切れ、平穏(または退屈)な日々が訪れて、再びぐわっと盛り上がって、一気にずどんと落とされ、そこから這い上がるようにして盛り上がって、その盛り上がりが最高潮に達して終わる。
グラフを書けそうな感じに流れが重要視されている映画だと思った。途中でCMやトイレ休憩をはさまずに一気に観たい。

0 comments:

Post a Comment