『Mommy/マミー』


グザヴィエ・ドラン監督作。去年のカンヌ国際映画祭にて審査員特別賞を受賞した作品。83歳のジャン=リュック・ゴダールと25歳のドランがW受賞したことでも話題になった。

以下、ネタバレです。





ADHDの息子と母の関係が描かれている。
グザヴィエ・ドランの作品は『わたしはロランス』と『トム・アット・ザ・ファーム』しか観ていないんですが、登場人物の気持ちをごく近くで描写するのが特徴的だと思う。
気持ちを近くで描写するというと、ジェイソン・ライトマン監督を思い出した(ちなみに二人ともカナダのモントリオール出身)。
ただ、ジェイソン・ライトマンの場合、優しくそばに寄り添うような描写をし、気持ちのゆっくりとした流れをとらえていくような手法だけれど、グザヴィエ・ドランの場合はやや暴力的なまでの近寄り方で、罵倒罵声など汚い部分もすべて描いている。時には目を背けたくなる部分も描くが、安心しろそれでも愛してるというような力強さを感じる。

今作は特に、変わったアスペクト比で撮られているせいもある。1:1という、まるでinstagramのように正方形だ。監督インタビューを見ていると、CDのジャケットを例に出していた。
『グランド・ブダペスト・ホテル』や『インヒアレント・ヴァイス』もスクリーンのアスペクト比が違ったが、昔のシーンを昔のアスペクト比で、といった使われ方だった。本作の舞台は現代である。しかも、昔のアスペクト比よりも更に狭い1:1だ。
通常の映画のスクリーンサイズよりだいぶ小さく感じた。人の顔をアップで映すにもせいぜい一人である。あまり遠くの景色も映せない。しかし、スティーヴはADHDのため、母ダイアンが常にすぐ近くで見守っている。そのため、それほど広い視野は必要ない。
気持ちだけでなく、身体的にも密着している二人を、更にカメラが密着して追いかける。
スティーヴが癇癪を起こして暴力を振るおうとするシーンは怖かったし、抑圧されたような窮屈さを感じもした。

途中、OASISの“Wonderwall”が流れるシーンがある。そのまんまといえばそのまんま、守ってくれるワンダーウォールは母親のことという使われ方をしていた。ただ、今回、映画で使われていた曲は、亡くなった父親のオールタイムベストという選曲だったらしいので、父親の母親に対する想いだったのかもしれない。
スティーヴが風をあびながら、ロングスケートボードで道路を気持ち良さそうに走っている。“Wonderwall”はフルコーラスで流れるのだが、その間奏部分でスティーヴが画面を広げるような動作をすると、なんと正方形だった画面が通常のスクリーンサイズまで広がるのだ。
このシーンの開放感が素晴らしい。正方形の画面は閉塞感のようなものも表現していたのがわかった。また、このような使い方をするのは、若い監督ならではのセンスだとも思った。ミュージックビデオのようでもあった。

後半もう一度だけ、スクリーンサイズが広がるシーンがある。ダイアンがスティーヴに「母親の愛はいつまでも変わらないけれど、息子の愛はいずれ他の人へ向けられるのよ」と言う。なんとなく、『6歳のボクが、大人になるまで。』を思い出した。どこの親子にも当てはまる、普遍的なものなのだろう。
画面は広がって、スティーヴが学校を卒業し、彼女を連れてきてダイアンも一緒に食事をし、結婚式ではダイアンがビデオをかまえ、子供が産まれ…。セリフもなく、一気に走馬灯のように浮かんでくる。カメラも先程までとは違い、いきいきとダイナミックに動き回る。でも、いやに駆け足だなと思ったら、画面が真四角に戻っていってしまう。ダイアンが思い描く、こうだったらいいのにという未来だった。
その後で、ピクニックへ行くと騙して病院へ入院させることになるのもつらい。

ダイアンは希望を選択したと言った。
『博士と彼女のセオリー』もそうだったけれど、ここでも愛し合っているというだけではどうしようもないパターンが出てきた。
相手のことを愛しているのはもう大前提であり、当然のことなのだ。離ればなれになりたいわけではない。けれど、やはり後半の、スーパーマーケット内での自殺未遂が一番の要因だったのだろう。死んでしまってはどうしようもないのだ。

父親が亡くなったことで、母子の関係はより濃密になったけれど、母にとっては負担も増えた。
そんな中で、隣りの家の女性、カイラの存在はかなり大きかった。
精神的なショックによる吃音で会話がまともにできないという彼女と、スティーヴを二人で留守番させるのは、最初どうなのかと思った。ダイアンは母親だからスティーヴの癇癪にも耐えられているのだろう。それを、ただの隣人で、しかも心に傷をかかえた女性に任せるなんて。
留守番といっても、ダイアンも遊びに行っているわけではなく仕事を探しに行っていたので、家を空けてしまうのも仕方が無い。はらはらしながら二人の留守番の様子を見ていたが、やはり一触即発のところまで行ってしまった。

けれど、スティーヴは結局ただの子供だということをカイラも理解して、二人は打ち解ける。
これ以降、カイラはダイアンとスティーヴと一緒に行動することが多くなる。
三人でいる姿は、まるで家族のようだった。ダイアンとカイラに恋愛感情は無いにしても、パートナーのように見えた。三人が三人とも、一緒に居るのが幸せそうだった。

けれど、スティーヴが自殺未遂をし、結局、無理矢理入院させることになったとき、おそらくカイラはまた不安定になってしまったのだと思う。夫の仕事の都合で、と言っていたけれど、夫がダイアンと離そうとしたのではないかと思うが、引っ越すことになってしまう。

カイラがどもりながらダイアンに別れを告げに来たときに、「家族を捨てられない」と言っていた。おそらく、彼女の人生の転機となる数ヶ月だったのだと思うし、家族と過ごすよりも幸せで刺激的な日々だったのだと思う。
ここでもやはり、愛しているだけではどうにもならない事態が起きている。

カイラを演じたのがスザンヌ・クレマン。映画を観ている間はまったく気づかなかったのですが、『わたしはロランス』のロランスのパートナー役の方だった。まったく違う役なのでびっくりした。タイプ的にはダイアンのほうがロランスのパートナーっぽかった。

カイラが引っ越すことを好意的に受け止めているように気丈に振る舞って、カイラが家を去ったあとで、号泣しそうになるがこらえるダイアンの演技が素晴らしかった。
カイラに向かって行かないでと引き留めることは簡単だ。気丈に振る舞ったとしても、帰ったあとで声をあげて泣くこともできたはずだ。けれど、必死に、体全体を使って泣くのをこらえていた。
たぶん、ダイアンは今までもこうしていろんなことを我慢して来たのだろう。そうでないと、世の中で戦っていけない。

癇癪を起こし首を絞めても、暴れ出しても、殺意や悪気があるわけではないのだ、というのがわかるスティーヴの演技も良かった。
濃く、密着して描かれる中、三人の演技に圧倒される。

スティーヴ目線というよりはどちらかというとダイアン目線の作品である。母親が子供を慈しむ気持ちをどうして25歳のグザヴィエ・ドランに描くことができるのだろうか。撮影したときにはもっと若かったかもしれない。
明るい色づかいや、ミュージックビデオ的にも見えるおしゃれな映像表現からは若手っぽさも垣間見えるけれど、人間の気持ちの描き方からは円熟味すら感じる。人一倍、気持ちの揺れ動きや、傷つけること/傷つけられることなどに敏感なのかもしれない。


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