2014年公開。フランスでは2013年公開。
ロマン・ポランスキー監督。『おとなのけんか』を思い出すような舞台調の作品だった。こちらも元々は舞台とのこと。主人公トマはヒュー・ダンシーが演じたらしい。
一発撮りなのか、すべて長回しなのか…と思うほど、場面の転換がない。映画内の時間経過がそのまま現実の時間経過になっている。
映画を観ているのに、観劇体験が味わえる。
ある劇場内の出来事だけで、登場人物も二人のみ。途切れないので目が離せず、緊張感があってスリリング。

ある台本作家の男トマ(マチュー・アマルリック)の元に、オーディション希望の女性(エマニュエル・セニエ。監督の妻だそう)が現れる。
トマは一日主演女優のオーディションをしていて、質の低さに悪態をつく電話をしていた。現れた女性は他の人のオーディションが終わった頃に現れたし、外の雨でずぶぬれだし、どこか娼婦のような下品な服装で演技なんてできそうもない。トマも馬鹿にしていたようだった。

けれど、ためしに読み合わせをしてみると、台本はしっかりおぼえているし、主演の女性の気持ちも理解できているようだった。
ここで演じられる劇中劇がレーオポルト・フォン・ザッハー=マゾッホの小説『毛皮を着たヴィーナス』。SMのM(マゾヒズム)の語源となったマゾッホである。

読み合わせをする俳優が帰ってしまったために、男性役をトマ自身が読むが、さっきまで普通に話していたのに、役に入ると急に空気が変わる。
彼女は演じているだけなのか、もしかしたら、演技ではなく本心なのではないか。女性の名前が役名と同じワンダなのも手伝って、境目が曖昧になって余計にドキドキする。どこまでがセリフなのかわからない。けれど、役から素に戻れば、やっぱりさっきと同じような感じで…。落差に驚いているが、やっぱり読み合わせを再開したら、また二人きりの濃密な時間が流れる。翻弄されながらも、ワンダにのめりこんでいくのがわかる。

観ている私もトマと同じ気持ちになっていた。
最初こそこいつなんなの?と思っていたし、警戒もしていた。けれど、途中からこの謎の女性のたくらみなんて考えなくなっていた。
きっとこの女性は本当にこの役が欲しかったのだろう。そして、演じているうちに自分と同じように演じることに夢中になってしまい、芝居と現実の区別がつかなくなって…。一緒に堕ちて行くような幸福な終わり方を想像していた。

劇中劇は服従に関する話なので、「シルブプレ(お願いします)」というセリフがよく出てきた。二人のやりとりがフランス語なのがセクシーでいい。

ただ、劇中劇にわざとらしい効果音がつくのがおもしろい。多少コミカルなので、没頭している姿を嘲笑うかのようにも思えた。それか、踏みとどまれという警告か。

後半でトマ自身がワンダを演じ始める。最序盤で、「いい女優がいないから、俺が網タイツ履いて演じてやろうかな!ガハハ」みたいなことを冗談めかして言っていたけれど、深層心理では本心だったのだ。
ワンダにレザーのブーツを履かせてもらう。女言葉を使い出す。恋い焦がれる人物に自分自身がなってしまうパターンだ。それだけではなく、さっきまでMだった人間が一転してSになる。SM紙一重である。どっちもいい。

ワンダに言葉巧みに乗せられて、女性の恰好になり、舞台セットに縛り付けられ、真っ赤な口紅を塗られる。ああ、どうなってしまうの…というところで。

ガーンと下に落とされる。そんな上手い話はねーよと言わんばかりに、上げて上げて落とされる。
ワンダが行ったのは、女性蔑視への復讐である。
最初の電話のシーンでは、「俺が演じてやろうかな」というセリフの他にも、しっかりとオーディションに来た女優たちを馬鹿にする発言をするトマがとらえられていた。
そして、ワンダがアンビギュアス(Ambiguous=曖昧)とアンビバレンス(Ambivalence=両面価値)と間違えるのが何度か出てくるけれど、それも示唆だったのだ。
好きだけど嫌いというふたつの感情が渦巻いていたのだろう。

最後、ワンダは悪魔のような顔をして踊っていた。上半身をはだけていても、まったくセクシーではない。先程までの、服を着ている姿のほうがよっぽどセクシーな雰囲気だった。

あまりのことに拍子抜けしてしまうけれど、拍子抜けさせるための作りなので仕方がないだろう。急に夢から覚めたようになる。

女装をして、舞台のセットに縛り付けられて、口紅を塗りたくられて、トマは一人残されぽかんとしている。
馬鹿みたいに見える。トマだけじゃなく、私も取り残された感じがするので、たぶん同じ顔をしていただろう。






監督は『マン・オブ・スティール』に続き、ザック・スナイダー。ブルース・ウェイン役にベン・アフレック、レックス・ルーサー役にジェシー・アイゼンバーグ。

わからない部分が多数あったので、まともな感想が書けない。それは、そもそも原作であるアメコミを読んでいないからわからないものなのか、読んでいる人でもわからないのかすらわからない。

一応ですが、
原作であるアメコミはまったく読んでいない。
バットマン映画はノーラン三部作しか観ていない。
スーパーマン映画は『マン・オブ・スティール』しか観ていない。
SNSで漏れ聞こえてくる俳優関連の知識だけは入っている。

こんな状態だけで観ました。

以下、ネタバレです(でもネタバレのようなこともできていないかと思う)。








ブルース・ウェインの過去、両親が殺されるシーンから始まるが、本作でクラーク・ケントの過去については特に語られない。それは、『マン・オブ・スティール』を観てねということなのだろう。途中で、地球での父親であるケビン・コスナーも出てくるし、明らかに続編である。ただ、『マン・オブ・スティール』というタイトルでスーパーマンだとは思わない人もいるかもしれないし、この映画を最初に観ている人も多そう。
クラーク・ケントの恋人であるロイス(エイミー・アダムス)もいきなり出てくるし、本作から見始めたらわからない部分もありそう。

『マン・オブ・スティール』の最後のバトルでは町を壊しまくっていて、本当に守ろうとしているのか、住んでいる人、働いている人などは大丈夫なのかと思っていたが、それはただ派手さを追求しようとした描写ではなく、伏線だったようです。このことが問題になっていた。
ただ、これで人々がスーパーマンに対し、畏怖の念をいだいて、バットマンをあのライトで呼んで倒してもらう、みたいな話なのかと思っていたけれど、そうではなかった。
それだけなら、とてもシンプルだし、わかりやすかったと思う。でも、レックス・ルーサーがいらなくなってしまう。

バットマンがどう思うかはおいておいて、世間の人々はスーパーマンのことをずっと怖がっているのかと思っていたらそうでもないようだった。
メキシコの死者の日にはスーパーマンが事態を救っていて、そこでは皆が感謝をしているようだった。スーパーマンを真ん中に置いて、骸骨(メイクの人たち)が手を伸ばしているのは、少し不吉さも漂って絵が恰好良かった。ポスターにしてほしい。

結局、レックス・ルーサーの暗躍で二人は戦うことになるのだが、そこにたどり着くまでがとても長い。予告編や、もちろんタイトルでも二人が戦うのはわかっていることだ。ちょっとひっぱりすぎな感じもした。ザック・スナイダーなこともあって、画面もずっと暗いです。

レックス・ルーサーがロイスを屋上に呼び出すあたりからがわくわくしました。かなり後半だけど。
レックス・ルーサー役のジェシー・アイゼンバーグ、彼らしい早口は今回も健在。けれど、いつからか童貞臭がしなくなってしまった。髪型かもしれない。でも、彼女がミア・ワシコウスカだもんな…。垢抜けるに決まっている。
キレモノというか、危ない部分はあるけれど、恰好良い天才のようになっていた。

ただ、結局、レックス・ルーサーがなんで二人を戦わせたのかもよくわからなかった。最初は、自分は父親から愛されなかったけれど、養父にさえ愛されたクラーク・ケントに対する恨みなのかとも思ったけれど、そんな人間味のある面を出してくるとも思えない。
バットマンとスーパーマンの共倒れを謀ったのだろうか。二人が同時に消えたら自分の計画がやりやすくなるとか。

たぶん名前があるのだと思いますが、バットマンがスーパーマンと戦うときに着てくるゴツゴツしたスーツが恰好良い。重くて動きづらそうだけど、ただの悪党ではなく神様と戦うにはあれくらい必要なのだろう。

それにしたって、普通の人間では無理なのではないだろうか?と思っていたが、エメラルドの物体(クリプトナイトというらしい)が弱点らしく、それで倒すことができそうだった(ちなみに、倒れたスーパーマンの足を持って引きずるシーンで、赤いマントが床に大きく広がっているのも恰好良かった。ここもポスターで欲しい)。
しかし、映画を観ている側はスーパーマンが悪ではないことを知っているし、戦いたくて戦っているわけではないことを知っている。だから、バットマンがんばれ!という気持ちにはなれない。

大ピンチだけどどうするのだろう?と思っていたら、スーパーマンは「マーサ」という名前を口にする。それはクラーク・ケントの養母の名前なんですが、ブルース・ウェインの母も同じ名前のため、手が緩む。
一瞬、え?兄弟?と思ってしまったが、ブルースの母は撃たれて死んでしまっているし、もちろんそんなわけはない。ただの偶然である。そんなご都合主義でピンチを脱出するなんて許されるの?と思ってしまった。けれど、それは私がここまで両母親の名前を意識してなかったから、そんなこと急に言われてもと思っただけで、元々アメコミを読んで、常識として母の名前が同じというのを知っている人からしたら、伏線回収とかうまく生かしたなと思うのかもしれない。

そして、わりとあっさり共闘することになる。二人が戦っている時間はほんの少しだった。もう一回くらい、映画の前半にバトルがあったら良かったのに。一回目では引き分けのまま帰って、もう一回対戦、それで共闘するくらいが良かった。
共闘ものや呉越同舟ものは好きだけれど、もっと争ってからタッグを組んでほしい。

そして、共通の敵、ドゥームズデイと戦うんですが、この敵も知ってたら盛り上がったんだろうな…という感じがした。名前はなんとなく知っていた。

二人で戦っていたところに駆け付けるのがワンダーウーマン。彼女についても、昔テレビで観たことはあったけれど詳細わからず。
でも、各所で彼女が出てくる時の音楽がめちゃくちゃ盛り上がると聴いていて、映画で実際に観たときにこれか!と思って顔がにやけてしまった。“Is She with You?”というタイトルです。
今回、音楽はハンス・ジマーとJunkie XLなんですが、この曲はJunkie XL色が強いと思う。『300<スリーハンドレット> 〜帝国の進撃〜』の後半の、ネタバレになるので詳しくは書きませんがすごく盛り上がるところがあっって、そこの音楽に似ている。この映画の音楽もJunkie XLです。

そして、最後もあっさりとスーパーマンが死んでしまって驚いた。この先、ヒーローがいっぱい出てくるみたいだし、スーパーマンはここで退場なのかもしれないな…と思っていたが、最後の最後に…。

本当に、話はよくわからない部分も多かった。けれど、そこで匙を投げたくなるわけではない。これから何かが始まるワクワク感は確かに残った。

ワンダーウーマンがフォルダを確認しているシーンでは、他のヒーローの姿も少しだけ見ることができる。エズラ・ミラーが一瞬映ったときに、そういえば、結構前に彼がDCのヒーローをやるという話を聞いたことを思い出した。あの稲妻のアイコンはザ・フラッシュというヒーローらしい。他の二人、海の中にいたのはアクアマン(ジェイソン・モモア)、サイボーグ(レイ・フィッシャー)とのこと。

“ジャスティスの誕生”というサブタイトルから、ただ単にスーパーマンとバットマンのどっちかが勝つか、二人で何かに勝つかして、そのまま、正義の味方見参というような意味かと思っていた。けれど、このジャスティスって、ジャスティス・リーグのジャスティスだったのか。
物語の動き出す瞬間が確かに目撃できる。

マーベルのヒーローチーム、アベンジャーズと比べると(比べたら怒られるかもしれない。DCファンとマーベルファンは、スタートレックファンとスターウォーズファンみたいなものかもしれないし、原作ではジャスティス・リーグのほうが前らしいので。でも、原作未読のため、映画の話として、敢えて比べると)粋なセリフが少ないかなと感じた。トニー・スタークのようなお調子者がいないからだろうか。

それでも、ドゥームズデイとのバトルでワンダーウーマンが出てきた時、スーパーマンとバットマンが「君の知り合いだろ?」「いや、お前のだろ?」って二人で「誰?」ってなっているのはおもしろかった。

あと、執事のアルフレッドは、『ダークナイト』のマイケル・ケインも皮肉っぽいことを言いながら、ぼっちゃんに対する愛はかかさないとてもいい役だったんですが、今回もとてもいい。今回はジャレミー・アイアンズです。『ブライズヘッドふたたび』のチャールズも良くて、もちろんだいぶ年はとっているけれど、いい年の取り方をしている。無精髭、シャツ腕まくり、なのに上品。眼鏡も似合っています。

レックス・ルーサーは原作では坊主なのに、ジェシー・アイゼンバーグの髪の毛はそのまま…という不満も某SNSで見かけたのですが、ラスト付近で、捕まって髪剃られていた。なるほど! なんとなく、『007 スペクター』のブロフェルドの近くに毛の長い白い猫が歩いていたシーンを思い出した。がっつりでなくても、ちょこっとした原作オマージュ。それに、レックス・ルーサーは死んでいないので、次作以降はもしかしたら坊主で出てくるのかもしれない。

レックス・ルーサーは自分の部屋にある、下から悪魔が這い出てこようとしている絵画を見て、「この絵は上下逆だと思わない? 悪魔は本当は空から来るのに」と言う。もちろん、スーパーマンのことを示しているのだと思うけれど、映画のラスト付近で、部屋の絵が逆になっているのが映る。レックス・ルーサーはまだスーパーマンに対する恨みというか悪意というか、想いを抱えたままなのだろう。このままで終わるとは思えない。

思い出していると、何故だかもう一度観たくなってしまう…。よくわからなかったのに不思議な映画。




2010年出版の“Unbroken”という同タイトルのノンフィクション小説がもとになっているとのこと。
アンジェリーナ・ジョリー監督、コーエン兄弟脚本と日本でも話題になりそうな布陣なのに、公開規模がとても小さい。
それは、週刊誌によって、反日映画というレッテルが貼られたせいなのかもしれない。はっきりいって、これが反日映画として公開しないのなら、『レイルウェイ 運命の旅路』や『戦場のメリークリスマス』も公開できない。
また、人肉を食べる描写があるというようなことも言われていたようですが、出てきません。「日本人は魚を生で食べる」というセリフとの勘違いかと思っていたけれど、原作では少し触れられているらしい。
こんなことで公開規模が小さくなってしまうのは惜しい映画だった。それでも、公開してくれただけでも良かったけれど。

タイトルですが、“アンブロークン”を前にして『アンブロークン 不屈の男』にしたほうが探しやすいのではないかとも思ったけれど、少しでも、あの反日映画、カニバリズム描写がある…といった情報を忘れさせるために逆にしたのかもしれない。

以下、ネタバレです。






映画は大きく前半と後半に分かれている。オリンピックの陸上選手であるルイ・ザンペリーニが戦争で戦いながら、過去の選手生活を思い出していると、乗っている飛行機が撃墜されてしまう。海上に不時着したものの、生き残ったのは三名。
ここから『ライフ・オブ・パイ』や『白鯨との戦い』のような海上漂流ものになる。もっとゴリゴリの戦争映画だと思っていたので意外だった。
ここからしばらくは、ルイを演じるジャック・オコンネルとフィルを演じるドーナル・グリーソン、マックを演じるフィン・ウィットロックの三人芝居です。
食料や水は尽きそうになる、照りつける太陽、下には鮫、助けは来ない…。どんどん痩せていくが、特にドーナル・グリーソンは大丈夫なの?と心配になるくらいあばらが浮き出ていた。
本作、キャストも豪華ですが、この前見た『マネー・ショート』で気になったフィン・ウィットロックはここでも恰好良かったです(ちなみに、『マネー・ショート』でコンビを組んでいるジョン・マガロはどこに出てきたのかわからなかった)。ただ、マックは海上で途中で息絶えてしまう。ここで出番が終わりかと思うと残念でした。

そして、待望の助けが来る。が、近づいて来たのは日本軍の船だったため、二人は捕虜にされてしまう。
ここからが後半。海上漂流ものは終わり、作品のカラーがガラッと変わる。

ここで、収容所の所長、渡辺伍長を演じるのがMIYAVI。名前は聞いたことがあったものの、あまり詳しくは知らない人でした。ミュージシャンで俳優としては本作が初とのこと(インディーズ映画には出ている模様)。
渡辺は捕虜を痛めつけて従わせることで喜びを得ているような人物だった。これが、MIYAVIとよく合っていた。外見は若い頃の岡村靖幸とか鳥肌実のようだった。蛇などのは虫類を思わせるような、ぬめっとした陰湿な目つき。顔は整っていて、感情が欠落しているように見えた。“美しく創られた怪物”ともとの小説に書かれているらしい。
英語は特別うまいわけではないけれど、日本語より英語のほうが演技がうまく感じた。

捕虜の収容所の代表者みたいな役でルーク・トレッダウェイも出ていた。顔もですが、演技も際立って良かったのは知っている役者だからだろうか。

収容所の外の日本描写も少しあったのですが、よく外国人によって描かれるようなトンデモ日本じゃないのが好感が持てた。
町を歩く人の服装、モダンな建物などがしっかりしていたのは、監修が入っていたのだろうか。

収容所に送られるときに、ルイとフィンはばらばらにされるので、そこでドーナル・グリーソンも出てこなくなる。
渡辺が他の捕虜たちに、プロパガンダ放送を拒んだルイのをことを殴れと言うシーンで、捕虜たちは当然嫌がるのだが、そこで代わりにどこからか連れてこられたフィンが殴られる。ルイはそんなことは当然許せないから「俺のことを殴ってくれ」と捕虜たちに言う。後半ではここの少しのシーンだけだったかな…。頭を怪我していたし、労働はしていなかったのだろうか。
もしかしたら途中で死んでしまったのではないかと思っていたけれど、最後に生きていたという報告が文字だけで出る。それならもう少しドーナル・グリーソンが出てきたら良かったのにとも思うけれど、あくまでもルイを軸にした話なので、入れなかったのかもしれない。

後半、渡辺に命じられて、ルイが重い木材を持ち上げるシーンがある。木材は棒状だったし、ルイが痩せて髭もはえているせいか、キリストにも見える。
海上で漂流しているときに、助かったら神の道に入ると言い、戦争後に実際に入ったらしいのと、渡辺や日本軍のことも“赦す”というのがテーマになっているので、キリストのように見えたのも意図された映像なのかもしれない。

最後、実際のルイが日本に来てマラソンを走っている映像が流れた。1998年の菜がのオリンピックの聖火ランナーだったらしい。にこやかに沿道の日本人に手を振っていて、涙が出てきた。
『戦場のメリークリスマス』でセリアズがヨノイにキスをするシーンを思い出した。あれも“赦し”だろう。『レイルウェイ』の手紙の交換も同じだ。

戦争について考えさせられる面も存分にあるし、おもしろかったけれど、実在の人物に起こったことを辿っているだけにも思え、作りがやや単調にも感じた。
上映時間137分ということで、前半の海上漂流パートが長い気もした。捕虜パートだけでも良かったかもしれない。ただ、個人的にはフィン・ウィットロック目当てだったため、前半が削られると彼の出番が無くなってしまうのも困る。
あとやはり、二つの困難を乗り越えたということを描きたかったのだろうから、両方無くてはいけなかったのだろう。
ちなみに、原作では戦争後のルイの人生も描かれていて、これはこれでとてもおもしろいらしいので読んでみたい。

なんにしても、俳優が監督をしたとは思えない、良い出来だと思う。小規模上映になってしまったのは本当にもったいない。


『凶悪』



2013年公開。ノンフィクション小説『凶悪 -ある死刑囚の告発-』の映画化。
死刑囚の告発というサブタイトルの通り、死刑囚に面会に行くシーンが軸になっている。軸にはなっていても、そのシーンが長いわけではない。

序盤、死刑囚須藤(ピエール瀧)の面会に行った記者藤井(山田孝之)が、「事件の首謀者が娑婆にいるのが許せないから、記者の力で刑務所に入れることはできないか」と過去の事件の告発を受ける。

映画の最初に、捕まる前の須藤のシーンが少し入るんですが、ほんの少しだけでも酷い所業で、なんとなく、すべて仕組まれているのではないかと疑ってかかってしまった。須藤の証言は曖昧だし、調査もうまくいきすぎているように思えた。曖昧な証言の裏付けがとれるにつれ、もしかしたら娑婆にいるという首謀者と結託していて、首謀者が根回しをしているだけなのではないかと思ってしまった。
また、藤井は会社の上司からこの事件を追うのを止められている中、独自に取材をしていた。誰も知らないで単独行動をとって、ドツボにはまるタイプではないか。

藤井が調査するうちに様々なことが明らかになり“先生”と呼ばれる首謀者の姿が見えてくる。とはいえ、この必死で追っていて謎とされている“先生”がリリー・フランキーなんでしょ?と思っていた。リリー・フランキーが演じることを知らなければ出てきた時の衝撃度が違ったのに…と思った。メインキャストの一人だったので、知らないでいるのは不可能だけれど。

ただ、映画は“先生”の行方を追うものではなかった。
ある、古びた家の埃で曇った窓ガラスを拭き取り、藤井が中を覗いた時に、ベルトで首を絞めて人を殺す“先生”を目撃する。そこから過去パートに映る。
この時間の遡り方はおしゃれだしうまいと思った。

ここから先、須藤と“先生”による、タイトル通り、凶悪な悪行三昧が映し出される。長いし、映画を見終わってみると、この過去パートに裂かれている時間が長かった。
こう、映画の感想を書くときに、内容を思い出して反芻する作業をするのですが、それすらも嫌だし、文章に残してしまうと頭にもより鮮明に残ってしまうので書きたく無い。

弱い老人が虐待され、殺される姿だった。何人も、しかも残虐に。殺す側のピエール瀧とリリー・フランキーの演技は、もう本当に嫌だけれどうまい。この二人は他の作品だと少し浮世離れしてるけれど良い人みたいなのを演じていることが多い。けれど、何を考えているのか、心の奥底は見せない怖さも抱えている。二人は似たイメージである。そして、本業が俳優ではない。よくこの役にキャスティングしたと思う。
この中盤の長い過去パートには、良心となる記者藤井も出てこないし、もちろん警察も出てこない。悪い奴が長時間のさばる。見てられない、はやく終われ、きついと思っていた。

序盤に、須藤が舎弟を車の中で銃殺するシーンがある。序盤の時には部下の腹に銃を突きつける須藤の姿を映したあと、遠くから車を撮り、車がカッと光るのと銃声が聞こえる。これで、ああ、殺したんだなとわかる。わかるじゃないですか。
けれど、中盤の長い残虐過去パートでは、このシーンも車の中から撮っている。撃たれる舎弟、撃つ須藤の姿を至近距離でとらえる。
このシーンを見て、ああ、敢えて、だったかと気づいた。最近観た『サウルの息子』や『マジカル・ガール』は残虐な部分はわざとぼかし、観る者の想像力に任せた。この映画では、敢えて、これでもかというくらい残虐な部分を詳細に撮っている。どちらがいいとか悪いとかではなく、手法の違いです。

“先生”が外で電話をしていて、そこも過去パートだと思ったんですが、その様子を張り込んでいた藤井が撮影して、現在に戻ったのがわかる。この戻り方もなかなか粋。
そして、過去パートというよりは、藤井が取材し、知った真実なのだとわかる。ここで、藤井の頭の中と、観客の頭の中が同期された。藤井が取材した内容なのに、藤井視点でやらないのもまたうまい。

再び、刑務所で須藤と藤井は面会するが、藤井の顔つきが序盤と変わってしまっていた。序盤はただの使命に燃える記者といった感じだったけれど、ここではげっそりしていた。表情が死んでいる。家庭の事情もほったらし、とりつかれたように事件を取材していたこともあるだろう。真実があまりにも酷かったせいもあるだろう。疲弊しているのは観ている私たちも同じである。
序盤と同じ構図なのに、表情が違うだけで受ける印象がまったく違う。
「キリスト教に入信したんですよ」などと言いながら、表情がすっきりしている塀の中の須藤に比べて、藤井はどんよりしている。どちらが犯罪者なのかという顔をしていた。

藤井は事件の全貌を知るうちに、犯罪者のことが許せないという思いが強くなっていった。犯罪者たちがのうのうと生きていては、殺されて行った人がうかばれない。犯罪者たちを刑務所に入れるだけではなく、死刑にすること、それが藤井の目的になっていたようだった。

家で痴呆症の姑の世話をする妻に苦労を話されても、「このままでは死んでいった人の魂がうかばれない!」と怒鳴っていた。それはそうなんだけれど、妻も「私は生きてるんだよ!?」と言っていた。ここも少し『サウルの息子』を思い出した。周りが目に入らなくなっている点でも同じ。結局藤井も、この事件にとりつかれている。

難しい問題ですけど、話は死刑制度の是非に帰結する。
藤井が取材した結果により、“先生”も刑務所に入るが、立件できる殺人が一件のため、無期懲役がせいぜいではないかという。藤井はなんとしても死刑にしたいから、もっと取材を続けようとする。

藤井との面会に応じた“先生”が、「私を一番殺したいと思ってるのは被害者ではなくて…」と言って、ガラス越しににやっとしながら藤井を指差す。お前だと言わずに、指だけ差すのがまた怖い。対面していた“先生”が去った後で、藤井の強張った表情がガラスに映っているのを撮るのも味わい深い。いままで、面会シーンでは、話す人物の顔を正面から撮るシーンが多かったのだ。

最後には映画を観ているあなたはどう思いますか、という問いかけだけが残る。もちろん、そんなモノローグは出ないし、文章が出るわけでもない。
けれど、あなたも藤井と一緒に、おぞましい事件を見てきましたよね? 許せないのはもちろんとして、死刑になったほうがいいと思う? それとも、生きて罪を償わせたほうがいいと思う?と問いかけられているようだった。藤井の執念を理解させるために、中盤にこれでもかというほどの長くて残虐な過去パートを入れたのだ。

難しい。こちらを指差す“先生”は、気に食わないことがあったら死刑とは、結局お前(ら)も俺と一緒の人殺しだろとでも言いたいようだった。
藤井を突き動かしていたもの、それは最初は正義感(ともしかしたら雑誌の売り上げ)だけだったけれど、最後はなんとしても死刑にという思いだけだった。一つの思いにとらわれるのは危険なことには間違いない。けれど、無惨に殺された人がいる以上、刑務所の中とは言え、生きて些細な喜びを感じることがあるのが許せないという気持ちもわかる。私の答えはまだ出ない。




ちなみに、DVDにはキャストと監督によるオーディオ・コメンタリーが入っているらしい。たぶんそれは楽しいトークではないかと思うので、聞いて怖いピエール瀧とリリー・フランキーの印象を元に戻したい。



『英国王のスピーチ』、『レ・ミゼラブル』のトム・フーパー監督作品。
アカデミー賞ではアリシア・ヴィキャンデルが助演女優賞を受賞し、エディ・レッドメインが主演男優賞、衣装デザイン賞、美術賞にノミネートされた。

世界で初めて性別適合手術を受けたデンマーク人の実話。小説化された『世界で初めて女性に変身した男と、その妻の愛の物語』(デヴィッド・エバーショフ著)の映画化になるらしい。

以下、ネタバレです。







世界で初めて性別適合手術を受けた…というふれこみだったので、もう序盤で手術を受けるのかと思っていた。予告編だとエディ・レッドメインが女装をしているシーンが多かったので、それはもう手術後なのかと思っていたのだ。
だから、アイナーの妻であるゲルダは早々に女性になったリリーのことを受け入れるのかと思っていた。

序盤で、軽い感じで女性モデルが来ないから足下だけでも代役やってよーと頼んでいたし、脱がせた服の下に女性スリップを着ていても怒らないし、パーティに女装で行ったら?と提案していたし、もうとっくに理解をしたのかと思ってしまった。

けれど、パーティで女装したアイナーが男性とキスをしているのを見て、ショックを受けていた。まったく受け入れていたわけではなく、その後のセリフでも出てくるけれど、彼女としてはあくまでもゲームのつもりだったらしい。

ここでアイナーというかリリーにキスをする男性ヘンリク役にベン・ウィショー。あてがきではないかと思えるほど、彼のための役のようだった。それほど出番があるわけではないけれど、彼そのまんまというかぴったり合っていた。

好きな人が自分を対象にしなくなるというのはショックである。スタート地点にも立てない。嫌われたほうがまだマシという気もしてくる。しかも、少し前までは自分を愛してくれていたのだ。
もしかしたら、最初は別の男性をキスしているところを見て、浮気現場目撃みたいな気持ちになったかもしれない。けれど、もっと問題は根深いと途中で気づいたのではないだろうか。

女装をやめてほしい。リリーにはならないでアイナーに戻って自分を愛してほしい。その気持ちもわかる。
けれど、その努力をしたところでもう戻れないというリリーの気持ちもわかる。

観ていて、グザヴィエ・ロランの『わたしはロランス』のことを思い出した。けれど、ロランスはトランスジェンダーで異性愛者だったのかな。もしかしたら、恋愛は関わらないパートナーだったのかもしれない。

一回目の手術を終えてから、ベッドの真ん中にカーテンのような薄い布が引かれていたのが切なかった。結婚したいというようなことを言うリリーに「私たち結婚してたのよ?」とゲルダが言ったけれど、リリーはそれは違う人とだと言っていた。もうリリーの中では完全に決別できていても、ゲルダの中ではできていない。

友情、母娘、姉妹…二人の関係はいろいろなものに例えられると思う。母娘の場合、母がゲルダです。アイナーのことを愛したままリリーと一緒にいるという状態が一番苦しいと思う。映画のラスト付近では乗り越えられたのだろうか。少なくとも、一回目の手術が終わっても乗り越えられていない。
少し見方を変えてみると、同性愛者が異性愛者に恋をした時の気持ちはこんな感じなのだろうかと思ってしまった。

助演女優賞を受賞しただけあってアリシア・ヴィキャンデルの演技が素晴らしかった。観終わった後で『コードネーム U.N.C.L.E.』のギャビーだと気がついた。ギャビーの演技がまずかったというわけではなく、あの時は60年代ワンピースに睫毛バサバサメイクだったから小娘感が強かったのだ。今回は最後のほうなどは肝っ玉母さんのようになっていた。

ゲルダは気丈な女性で、アイナーがリリーでいる時間が長くなればなるほど、どんどん強くなっていったというか、サバサバしてきていたけれど、アイナーの幼馴染みのハンスの前では弱さを見せていた。彼女にも頼る人がいて良かったと思う。わっと何かが決壊するようにして抱きしめるシーンが良かった。

ハンス役のマティアス・スーナールツが抱きつきたくなるようながっちりした体型をしている。今回はびしっとキメた恰好の金持ち独身貴族みたいな役柄で、服装も髪型もかっちりしていたので気づかなかったが、『君と歩く世界』の主人公の男性役だった。あっちはそんなに綺麗とは言えない恰好だったし、雰囲気がまったく違う。

手術後、ヘンリクに、「じゃあ、医者が君を女性にしたってこと?」と聞かれ、「女性にしたのは医者じゃなくて神様よ」と答えるシーンがある。
幼い頃にハンスとキスをした時にリリーが一度出てきたと言っていたが、それ以降、目を背けていたのだろう。忘れていたわけではないはずだ。ただ、幼い時分でもいけないことだとわかって、おそらく蓋をしていたのだろう。

女性モデルの代役としてストッキングを履き、チュチュを合わせたときの表情がとても良かった。私は恋に落ちる映画が好きなのは、この表情が観られるからなのだ。
胸の中にぽっと小さな何かが生まれる。この映画の場合は生まれるというよりも、思い出したというのが正しいかもしれない。何かしらの発見があったようなはっとした表情から初々しさと艶かしさが混じるような表情にかわり、やがて恍惚とした表情や泣きそうな表情など、様々な感情が混じり合い、溢れ出しそうになる。
セリフはないんですが、このシーンのエディ・レッドメインの表情が素晴らしかった。

ポスターや予告編でも見ていたけれど、エディ・レッドメインの女装姿が本当に綺麗だった。
最初のパーティの時、女装がバレて、こいつ男だぞ!みたいにみんなの前で辱められるシーンがあるのかと思ったけれど、無くて良かった。気づいていたヘンリクが心遣ったおかげだろうか。

ドレスが派手なせいもあったかもしれない。赤っぽい髪(ウィッグ)の色かもしれない。リリーは一際目をひいていた。

手術後にデパートの女性店員の中に混じって一緒にきゃいきゃいしてましたが、この中にいるのは確かにエディ・レッドメインなのにまったく違和感が無かったのがすごかった。

さすがに身長はごまかせないけれど女性にしか見えない。それは、化粧やドレス髪型のせいだけではない。手つきなどのしぐさの研究と、自然に出てくる表情などすべてが合わさって、女性らしさが作られていた。

原題は『The Danish Girl』。そのまま『デニッシュガール』というタイトルでも良かったのではないかと今まで思っていたけれど、デンマークの女の子とか言葉の響きとかもポップすぎるのかもしれない。
というのも、また実話で事実を知らないパターンだったのですが、二度目の手術がうまくいなかくて結局亡くなってしまうという結末を知らなかった。
世界初の手術だからそんなリスクも承知していただろう。それでも、女性の体に、本来の体になりたかったのだ。

エンドロールを見ながら、デスプラの叙情的な音楽とともに余韻にひたりながら、これはタイトルは『リリーのすべて』で良かったのかもしれないと思った。

トム・フーパー監督、『レ・ミゼラブル』の時は歌っている人物のアップばっかりで少し気になったけれども、今回もやはり人物のアップは多い。しかし、エディ・レッドメインやアリシア・ヴィキャンデルが繊細な演技をしていて、表情で語られる部分が多い映画だったので、今回はこれで良かったと思う。

あと、家を中心として建物の中の映像が多かったけれど、シンメトリーや奥行きを生かした撮り方をしていた。
デンマークの家は同じあたりからのショットが多かったのもこだわりだろう。部屋の向こうにいる人物を扉の外から撮るのもおもしろかった。

ヘンリクの住宅は、両側に黄色い長屋のような建物が奥に伸びていて印象的だった。
また、デンマークの家が四角い部分が多かったのに対し、パリでの家やその建物は丸い部分が多かった。
何かしら、建物に対するフェチシズムも感じられた。




2011年公開『モンスター上司』の続編。アメリカでは2014年に公開されたが日本ではビデオスルー。
原題が『Horrible Bosses』なので別にいいんですが、“モンスターペアレント”という言葉自体が最近使われないので、通常の意味で怪物などととらえられてしまうかもしれない。

前作で酷い上司の元で酷い目に遭わされた三人が、今作では上司につかえないで済むように自分たちで会社を起こした。シャンプーと水が一緒に出てくるシャワーヘッドで、それを紹介するテレビに出演したところ、投資家から連絡がくる。けれど、まんまと騙されてしまい…?という内容。

三人組を演じるのは前作と同様、ジェイソン・ベイトマン、ジェイソン・サダイキス、チャーリー・デイ。投資家親子はクリストフ・ヴァルツとクリス・パインという豪華さ。

前作から引き続き、怖い上司役だったジェニファー・アニストンとケビン・スペイシーも出てくるが、ケビン・スペイシーはともかくとして、ジェニファー・アニストンはゲストという感じではなく、完全にメインキャラのような出方をしている。

セックス依存症役のジェニファー・アニストンは前作同様、きわどいセリフを吐きまくる。焦って逃げようとして、「トイレに行きたいんで…」と言うと「ここですればいいじゃない」、「大のほうなんで…」と言うと「何の問題が?」。三人組のほうがたじたじである。けれど、怖い上司ではなく、おもしろ性欲お姉さんといった感じで、投資家親子も上司ではないし、タイトル通りではないかなと思った。
また、前作で拒んだのはデール(チャーリー・デイ)だけということで、執着心で追い回す姿はほぼ恋愛のようにも見えてしまった。

ただ、ジェニファー・アニストンが出てくると、ストーリーの流れが止まってしまうのだ。彼女も大筋のストーリーに絡んでくれば良かったけれど、別のところで出てくる。彼女のシーンをばっさり抜いてもストーリーの意味は通るし、おそらく一時間くらいにおさまりそう。

上記のトイレ行きたいんでのシーンで「最後の一振りは残しておいてね」というセリフを言った後で、「こんなこと言えないわ!」と恥ずかしがるNGシーンがエンドロール付近に入っている。きっと、こんな感じで、スタッフはジェニファー・アニストンにいろんなセリフを言わせるのが楽しくなってきてしまったのではないだろうか。それで、歯止めが利かなくなって、彼女のシーンが多くなってしまったように思う。
ジェニファー・アニストンとクリス・パインを絡んだら良かったのに、二人の接触はないためバラバラの印象を受ける。

また、ジェニファー・アニストンが強烈すぎるため、ストーリー自体はあっさりした小粒のものに感じてしまった。
クリス・パインも良かった。むしろ、クリス・パインに頼りすぎではないかと感じるくらいたくさん出番があった。

海外版のポスターやDVDパッケージで悪い顔をして縛られているのを見て気になっていたけれど、本当に悪い役だった。ただ、あの顔を見たら、三人の仲間になったふりをしていても、最終的には裏切るんだろうなというのはなんとなく予想ができた。それにしても、父親を本当に殺すまで悪い奴だとは思っていなかった。父親の元へ帰って行って、三人のほうへ舌を出すくらいのものかと思っていた。

クリス・パイン、去年のアカデミー賞歌曲賞を受賞した『Glory.』のパフォーマンス(アフリカ系アメリカ人公民権運動関連。『グローリー/明日への行進』の主題歌)を見て涙を流していたんですよね。絶対にいい奴なんです。こんな人が悪い役をやるのがとてもいい。韓国人家政婦のことを「キムチ!」などと罵るシーンのあとでも、カットがかかった後で謝ったに違いない。

悪いクリス・パインはいいし、ジェニファー・アニストンも良かった。メインの三人の要素は少し薄い感じではあったけれど、わーきゃー騒いでいる様子はかわいいし楽しい。
どれも楽しいし、ちゃんと笑えた。しかし、それぞれの要素がうまく作用していないように思えた。組み立て方の問題なのだろうか。

ケヴィン・スペイシーが入っている刑務所に三人で面会に行き、「俺は上司だぞ! 話を聞け!」というような、前作のパワハラ上司らしさを出した一言が映画の締めとなる。
だったら、もっとストーリー自体にも関わってほしかった。受刑者となっているので仕方ないのかもしれないけど、塀の中からもっと“上司”として指示を出したりしたら、タイトル通りのモンスター上司っぽさも増したと思う。


 

『ロブスター』



カンヌ国際映画祭審査員賞も受賞作。
独り身の人は45日以内にパートナーを見つけないと動物にされるという荒唐無稽なストーリー。監督はギリシャ人のヨルゴス・ランティモス。『籠の中の乙女』という作品も相当変わっているようなので観てみたい。今回が初英語作品とのこと。

話の妙さとギリシャ人監督ということから、出演者も無名なのかと思ったら、コリン・ファレル、ベン・ウィショー、ジョン・C・ライリー、レア・セドゥ、レイチェル・ワイズと何故か豪華。

コメディといえば、コメディだけど、笑いにくいというか、笑いは全然起こっていなかった。

以下、ネタバレです。







まず、妻と別れた主人公のデヴィッドがホテルのような施設に連行される。犬を連れているけれど、それは兄で、パートナーが見つけられなかったため、動物に変えられたのだと言う。その時点で、犬を連れた男性ではなく、兄弟に見えてくるから不思議。荒唐無稽ではあるけれど、ルールもすんなり呑み込めた。動物に変えられた人間に、人間の時の記憶や感情が残っているのかどうかは結局最後までわからなかった。

この施設の施設長をオリヴィア・コールマンが演じていた。『ブロードチャーチ』の女刑事ですね。彼女がデヴィッドにどの動物になりたいか尋ねる。そこは選ばせてもらえるらしい。そこで、彼が希望したのがタイトルになっているロブスター。100年生きるとかずっと生殖能力があるとかいろいろ理由もあった。(けれど、レッド・ロブスターが映画のスポンサーになっているのは違うと思うぞ!)(監督による、この映画の元となった短編は、最後、デヴィッドの妻がロブスターを食べるシーンで終わるらしい。それが、デヴィッドかどうかは明らかにされないらしいけれど…)

施設側はたぶん悪気なく、本当に良かれと思って、カップルを作ろうとしているらしかった。ダンスパーティもちゃんとくっつけようときっかけ作りのためにやってくれてたんでしょう。施設長とパートナーがいい声で歌っていましたが。
男(女)が一人の場合、酷い目に遭うけれど、カップルの場合はそれが起こらないという寸劇も、ほぼコントだったけれど、啓蒙のためにやってたのだと思う。女一人で歩いているとレイプされるけど、カップルだとレイプ班も手を出せないという。
45日以内に見つけられないと動物にされるのも、なんとかカップルを作らせてあげようというありがたい配慮なのだろう。

歌や寸劇で思わず笑っちゃったけど、これに近いことが日本でも言われている気がする。悪気はないのだろうけれど、遊びがないというか、極端なのだ。0か100としか考えられないのか。

ベン・ウィショー演じる足の悪い男は、同じく足の悪い女と付き合っていて別れたためにこの施設に来た。施設の中でよく鼻血を出す女に狙いを絞って、自分で壁に鼻を打ちつけるなどして、「僕もよく鼻血出すんだ」なんて言って彼女を仕留めた。
今作のベン・ウィショーはわざとなのか変な角刈りみたいな髪型で、あまりおすすめできません。

相手との共通項を話しかけるきっかけにするというのはよくある手段かなとは思うんですが、デヴィッドはやや病的に似ている人を好きになる傾向がありそうだった。
デヴィッドも同じように情のない女に、自分も情がないふりをして近づいていく。だが、情がないというのは鼻血のような見た目と違って内面のことだからうまくいかない。
兄(犬)を残虐に殺されたことで嘘だということがバレてしまい、施設に戻されそうになる。

ここで、施設のメイドが逃げる手助けをするので、もしかしたら、彼女とどうにかなるのかと思った。けれど、純粋な手助けだった。

デヴィッドはうまく逃げて、独身者が集まっている場所に引き入れられる。映画は施設内での45日間の出来事を描いているのかと思った。期限ギリギリで誰かと恋に落ちるか、反乱をおこすかして免れるのかと。
しかし、ここで折り返しである。あの施設に比べたら、動物にされる必要はないし、誰かと焦ってカップルになる必要もない。ほっとした。
けれど、ここはここで極端で、逆に恋人を作ると罰せられるという。先程までの世界と間逆になる。また0か100だ。

口に血が滲んだガーゼをあてている人がいて、いちゃついたために“赤の接吻”という唇を切られる罰を与えられたらしい。“赤の性交”という罰もあるらしくて、詳しい説明や映像は出ないけれど想像はつく。

この厳しい集団のリーダーがレア・セドゥ。冷徹な目をしていて、どんな局面でも他人など信じないといった雰囲気だった。かっこよかった。

町に買い出しに出るシーンがあるのだが、本当にカップルだけしかいない。一人で歩いていようものなら、警官から職務質問を受ける。
生き難い。けれど、今はどうかわかりませんが、男性が一人で歩いていると繁華街で職質をよく受けるらしいですよね。同じ服装をしていても、女性といると声をかけてこないとか。やっぱり、何故か日本の状況と似通っている点がある。

デヴィッドはというと、この厳しい規律のある集団の中の女性を好きになってしまう。女性のほうもデヴィッドに一目惚れをする。
いつ人を好きになるかなんてわからないものだ。いつ出会うかもわからないし、タイミングもある。人を好きにならなくてはいけない世界、人を好きになってはいけない世界。世界が0か100で極端でも、人の気持ちはそんなにうまく割り切れるものではない。機械ではないのだ。

独身者たちの集団が施設に攻め入るシーンがある。デヴィッドは鼻血カップルの生活の場へ乗り込んで行く。二人と養女、三人でお揃いの服を着ていた(施設からあてがわれたのかもしれない)。デヴィッドは彼の鼻血は嘘だとバラすが、今更なんなのだといった風だった。
最初はふりだったかもしれないけれど、生活はそれなりにうまくいっているようだった。幸せとまではいかなくても、少なくとも不幸せじゃないように見えた。ベン・ウィショーの表情は諦めにも似ていたけれど、現状を受け入れているようでもあった。何より彼は、動物になるのが嫌だったのだ。

独身者の集団のリーダーたちは施設長とパートナーの寝室に押し入る。リーダーがパートナーに施設長のことを15段階だとどれくらい愛しているか?と聞いたら「14かな」と言っていた。
0か100の極端ではない、曖昧な本心が、銃を突きつけられてやっと出た。
寸劇やダンスの歌を唄っているときには得体の知れなさを感じていたけれど、普通の人間なのだというのがわかってなんとなくほっとしたような気持ちだった。

施設内の撹乱がうまくいったことを祝って、独身者たちの集団でもダンスパーティーが開かれる。ヘッドフォンをしてエレクトロミュージックで一人で踊る。サイレントディスコですね。
これも、施設内のダンスパーティーとは真逆だった。あっちはムードたっぷりの曲で、二人でチークダンスを踊っていた。ダンスパーティー一つとっても極端。

デヴィッドと女性は相思相愛なのを確かめて、サインで会話をし始めるが、抜け出して町で暮らそうということになる。集団の中でいちゃつかずに、カップルになったら外に出て行けば罰もないのでは?と思ったけれど、集団を抜けること自体が禁忌だったらしい。
リーダーにバレて女性は失明させられた。
デヴィッドは女性のことを近視という共通項で好きになったのだ。奥さんと別れる最初のシーンでも「次の男もメガネか?」と聞いていたし、人を好きになるには何か同じ点が無くてはいけないと思っているらしい。
別の男性が近視の女性に話しかけていたときも、お前も近視なのか?としつこく詰め寄っていた。ほとんど病的ともいえる絡み方だった。近視同士だからって好きになるとは限らないのに。
でも、そこまで共通項を大事にしていて、彼女が失明したということは。映画のラストはそこまでは映らないけれど、近視にあれだけ執着していたということは多分…。
同じ近視だから好きになった。それはただのきっかけではないのか。そのあと、近視以外の面でも好きになっていけばいいのではないか。それとも、好きで居続けるためには何か、共通項が無いといけないのか。監督の恋愛観ではなく、デヴィッドの性癖のようなものなのではないかと思うけれどどうなのだろう。

愛は盲目(文字通り)具合と話の進み方の荒唐無稽具合から、『マジカル・ガール』と共通点があるのであわせて観ると楽しそう。『ロブスター』のほうが風刺は強いです。
あと、動物に変えられるって、何か魔法みたいなものでぽんっと一瞬で変化するのかと思ったけれど、どうも手術をして人間の体を改造していくようで、その処理をする“秘密の部屋”が出てくる。もちろん、その中でのことは描かれないので観る者の想像に任せられている。このあたりもまさに『マジカル・ガール』でした。せっかく同時期に公開されているので、片方観たらもう片方も是非。




『仮面の真実』



原題『The Reckoning』。イギリスでは2003年公開。日本は劇場公開はなく、DVDスルー。
『ラッキーナンバー7』のポール・マクガギン監督。
1380年のイングランドが舞台。教会と国家の結束が強かった時代の話。

原作はバリー・アンズワース『MORALITY PLAY』。そのまま道徳劇という意味。道徳劇とは聖書の内容を民衆に知らせるための演劇で、旅芸人によって演じられていたらしい。当然ながら、勧善懲悪(善がキリスト、悪がサタン?)である。15世紀くらいから流行ったらしいので、1380年だとその直前くらいか。

原作だと演劇が何度も演じられ、少しずつ何が起きているか、全貌に近づいていくらしいが、映画だと演劇は二回だけだった。時間もあるし仕方ないとは思うけれど、そちらのほうがおもしろそうなので読んでみたい。

ポール・ベタニー演じるニコラスは神父だったが、人妻と関係を持ってしまい、それが夫に見つかってしまう。戒律を破ったニコラスは村を逃げ出し、旅芸人一座と行動を共にする。
彼らはある村にたどり着き、そこで道徳劇の興行を行うが、そのうちに、村で複数の子供が行方不明になっている事件が明らかになる。

ニコラスはキリスト教の戒律はもちろん、人としても過ちを犯している。知らない村での、知らない子供の事件にあれだけ親身になるのは、懺悔の気持ちもあったのだろうか。追っ手に捕まるまでの人生だということを言っていたから、その前に何かしら正しいことをやっておきたかったのかもしれない。
ただ、これだけ正義感にあふれる善人が、なんでそもそも神父でありながら人妻と関係を持つようなことをしたのだろうか。ギーズが囁いていた通り、欲望なのだろうか。

原作が小説のせいもあるのかもしれないけれど、映画全体でちょっとセリフが多く感じられた。ゆっくり描くというより、セリフで説明しながら話を進めて行く感じ。劇中劇(道徳劇)で状況を説明シーンがあるけれど、それと関係させた確信犯なら仕方ないと思うけど、そうではなさそう。

最後のほうの教会のシーンも、悪役のギーズ(ヴァンサン・カッセル)がぺらぺら喋るのにニコラスが少し言い返し、話す内容で全貌が明らかになる。ギーズとニコラスが立って言い合いをしている周囲に旅芸人の他の人たちが座っていて、ただ聞いているという。
舞台だとありそうですよね。中央の二人にスポットライトが当たっていて、脇役の人たちはステージにはいるけれど、ライトの外で、動かず出番を待っている。そんなイメージのシーンだった。

ギーズはおぞましい真実を笑顔で話しながら、ニコラスに近寄って行く。そして、最後にキメの一言をニコラスの耳許に囁くんですが、その一瞬前に、囁くショットだけぱっと見せるという。ポール・マクギガンとはいえ、あんまり映像での凝り方は感じられなかったけれど、ここは、後の作品にも通じるものがあると思った。
監督はちゃんと萌えどころがわかっているので、信用できる。単に、私と趣味が合うというだけの話かもしれない。だから、『ヴィクター・フランケンシュタイン』も私好みだと思うのだ。たのむから日本公開してほしい。

2003年ということで、13年前のポール・ベタニーの美青年具合は一見の価値ありです。最初に神父姿で説教しているシーンがあるのですが、そのときはいわゆる神父の髪型で、これで本編もいくのかなと思ったら、間違いを犯したため、短く切っていた。髪型も似合うし、肌がつるつるです。

ちょっとした役でセリフも少ないですが、トム・ハーディも可愛かった。旅芸人一座の中で一番華奢だからか、背が低いからか、顔が整っているからか、劇の中で毎回女性を演じていた。映画の中では劇は二回しか出てこないけれど、今までもおそらく、旅芸人一座による劇に女性が出てくるときには彼が演じていたのだと思う。トム・ハーディは、今はだいぶ筋肉がついてしまったのでもうできませんね。
舞台だから、濃いめに化粧をしていて、胸とお腹の出た妊婦スーツのようなものをつけ、その上からドレスを着てかつらをかぶる。
二回目の舞台では子供を惑わせる女性の役をやっていて、子供の頰に手を伸ばしながら、首を傾げ、蠱惑的な笑みを見せていた。本当に惑わされそうになる。出番が少ないながらも強烈な印象が残る。
本国版の予告編にもこのシーンが使われていることから、あの笑みにやられたのは私だけじゃないのがわかった。あれはただの女装ではない。







原作は『マネー・ボール』のマイケル・ルイスの『世紀の空売り』。原題は『BIG SHORT』。ショートというのは日本語でもそのまま使われるけれど、この場合のショートは空売りのshort sellingの意味。
製作、出演にブラッド・ピットがいることから、『マネーボール』と関連づけるためにこの邦題にしたのではないかと思われる。

監督はベネット・ミラーではなく、『俺たちニュースキャスター』のアダム・マッケイ。コメディ監督の印象だったので驚いた。
とはいっても、金融危機の裏で儲けた人たちという金融ものであっても、堅苦しくは無く、くだけた表現の部分は多い。
脚本のチャールズ・ランドルフとアダム・マッケイがアカデミー賞脚色賞を受賞しています。

ポスターはスティーヴ・カレル、クリスチャン・ベイル、ライアン・ゴズリング、ブラッド・ピットが四人が並んで歩いているというもの。外見がバラバラなことから、職や生活、性格などが違う人たちの集まりなのだろうなと思った。
この四人が個性と特技を生かしながら金を儲ける、ケイパーものっぽい感じなのかなと思ったけれど違った。
リーマンショックをめぐる群像劇で、スティーヴ・カレルとライアン・ゴズリングは同じグループだけれど、四人が協力して何かをやるわけではない。別々の話です。
一つの事象をめぐっての、彼らのそれぞれの場所での暗躍である。

金融用語の解説が合間に含まれている。なるべくわかりやすく解説しようという工夫が感じられた。
ストーリーと関係のない人物が出てきて、場面も本筋とは切り離し、完全に用語解説コーナーになる。マーゴット・ロビーがセクシーにバスルームから解説したり、レストランのシェフが古くなった魚をシーフードシチューにするという例え話をしたり。セリーナ・ゴメスのカジノでの例え話もわかりやすく、なるほどと思った。

それでも、金融用語の予習はしておいたほうがいいかもしれない。あと、金融危機とかリーマンショックとはなんだったのかというのもやんわりと調べておいたほうがいいかも。実話系だと、その実際起きた事件などについて調べると映画のネタバレにはなってしまってつまらないということもあるけれど、この場合は大丈夫だと思う。

私はタイトルにもなっていたし、空売りだけは調べたけれど、全体的に金融のことを何も知らなかったので、映画を楽しめはしても、しっかりと理解はできなかった。

解説コーナー以外にも、登場人物もカメラ目線というか、映画を観ている私たちに向かって話しかけたり簡単な説明をしてくれる。
説明以外にも早口のシーンが多いため、字幕を読むので精一杯、読んで理解するまでには至らない部分もあった。頭で考えたいけれど、隙がないというか、字をただただ目で追っているだけのようになってしまった。
また、せっかく演技のうまい俳優が揃えられているのに、字幕ばっかりじっと読むのももったいなくて、顔を見てしまうこともあった。かといって、顔を見ながら英語を聞き取ってどうにかなるものではない。日本語で読んだって理解できないのに。

でも、これからリーマンショック周辺について調べようと思ったし、もっと知りたいと思わされた。

以下、ネタバレです。











音楽の使い方もポップで、金融ものらしからぬという感じだった。その時代に流行っていた曲を使ったのかなと思ったんですが、ナールズ・バークレイの『Crazy』が2006/3/13リリース、ゴリラズの『Feel Good Inc.』が2005/5/9リリースですが、映画内では『Crazy』のほうが使われるのが早かったので違うのかも。それとも、群像劇の違うグループを描いているときに時代が前後していたのかもしれない。どちらにしても、サブプライムローン問題からのバブル崩壊が2007年なので、その直前の曲ではある。

あと、ラスベガスの日本料理店Nobuで徳永英明がかかっていて、タイトルが思い出せなかったんですが、エンドロールで『SAIGO NO IIWAKE』と書いてあって、ああと思った。この曲は1988年みたいなので時代に合わせてはいないんですが、曲のタイトル『最後の言い訳』がまさに状況と合っていて、合わせたのかなんなのかはわからないけど絶妙でした。

時代を表すものとして、音楽の他に、スチルがぱっぱっぱっとテンポ良く出ていた。合間にその時代のMac製品が含まれていたのはわかりやすかった。

実話ということですが、クリスチャン・ベイル演じるマイケルは本当にいたのかと思うくらい変わった人物だった。他の登場人物が、他の人物と話し合いながら行動するのに対して、彼は一人きりで大金を動かす。元々一人が好きで…という自己紹介も入っていたけれど、部屋で大音量でメタルを聴いたり、ドラムをばしばし叩いたり。
ただ先見の明があるというか、分析力が高いというか。あと、誰も信じてくれなくても、自分だけは自分を信じていたのが勝因なのだろうと思う。
彼は今、一つに絞って投資しているらしいが、それは水だという。あとはわかるなとでも言われているようで少し怖かった。

ライアン・ゴズリング演じるジャレドとスティーヴ・カレル演じるマークは、実は映画を観ている最中は彼らが所属するフロントポイントキャピタルが何の会社だったのかよくわからなかったんですが、ヘッジファンド会社とのこと。
ライアン・ゴズリングが男前じゃない役(そもそもラブの介入する隙のないストーリー)だったんですが、やり手ビジネスマンでした。
スティーヴ・カレルは何かと言うと癇癪を起こしていて、ちょっと『フォックスキャッチャー』のデュポンさんを思い出した。でも、後半に行くに従って、苦悩する姿も見せる。騒動が終わった後は、穏やかになったらしいというのも、気持ちの移り変わりを見ていたら頷ける。

ブラッド・ピットは今回もずるい役。『それでも夜は明ける』ほどじゃないにしてもずるい。
若い個人投資家が、大金が手に入りそうで、いえーい!と浮かれてダンスを踊っていたら、「僕らが儲けることで何百万人が路頭に迷うかわかっているのか!」と諭されてしゅんとしてしまう。
たぶん、これが作品のテーマなんですよね。
騒動の中で大金を手にした人たちのことを描いていても、誰一人幸せそうじゃない。映画を観る前、ポスターを見たときには、四人が協力して銀行共をやっつけてスカッと終わるのかと思った。サブタイトルの“華麗なる大逆転”とはほど遠い。
銀行関係者で逮捕されたのは結局一人だけみたいだし、移民や貧困層が非難されるという結末になったという、正しかったのかどうなのかわからないような事態になってしまった。ばんざーい!と諸手を挙げて喜べる状況ではない。

ブラッド・ピット演じるベンは、以前銀行で働いて退職し、銀行業に悲観的になっている。個人投資家の二人が「なんで手伝ってくれたの?」と聞いたら「金持ちになりたかったんだろ?」と言っていた。
彼が、結局田舎でオーガニック栽培に従事しているように、「金持ちになりたかったんだろ?」と言う言葉の裏には、「なってどうだった?ろくなもんじゃないだろ?」という意味が含まれていそうだった。
ベンのセリフにはどれも重みがあって、考えさせられた。これはずるい。

ところで、この個人投資家を演じた二人がとても良かった。ポスターにも載ってなかったし、こんな人たちが出てくることすら知りませんでした。映画の日本の公式サイトにも、ポスターの四人のことしか出ていないけれど、これを機に、日本で無名(私が知らないだけかもしれない)の二人も紹介して欲しい。
チャーリー(ジョン・マガロ)とジェイミー(フィン・ウィットロック)は個人投資家とはいえ若造なので、銀行にもウォールストリートジャーナルにも信用してもらえない。スーツを着ていても、着慣れていないのがわかる感じってなんなんでしょうね。マイケル(クリスチャン・ベイル)もそうでしたが。演技のうまさなのか、安いスーツを着てるのか…。

周囲からのあしらわれ方も含めて、反応などが一番親近感が持てた。この二人が主役のスピンオフが観たいけれど、さすがに地味すぎるか…。

フィン・ウィットロックはテレビドラマ中心のようだ。『アメリカン・ホラー・ストーリー』に出てるらしい。2017年公開予定の『Abe』という映画で妄想癖のあるエイブくんを演じるみたい。タイトルの名前なので主役だと思う。共演はジュノー・テンプル。

ジョン・マガロは『キャロル』に新聞記者役で出ていたらしいけれどおぼえていない…。最近公開された『ザ・ブリザード』にも出ているみたい。また、2016年公開予定の『ウォー・マシーン』にも出るみたいだけど、これがブラット・ピットのプランB製作とのこと。

更に、この二人はアンジェリーナ・ジョリーが監督した『不屈の男 アンブロークン』に出演しているとのことで、どうも、夫婦のお気に入りらしいことがわかりました。私も注目していきたい。

ラブ要素がほとんどないせいか、女性の登場人物がほとんどいない映画なんですが、ジェイミーの兄の元カノという役でカレン・ギランが出ていた。背が伸びたのか、髪が短いせいか、手足がすらっと長く、スタイル抜群だったし、色の白さと髪の毛の赤さで彼女だけ輝いて見えた。とても可愛かったです。



ペドロ・アルモドバル監督もコメントを寄せるスペイン映画。監督のカルロス・ベルムトは今作が劇場デビュー作らしい。スペインの映画賞をいくつか受賞しています。
なんというか、妙な気持ちになる映画だった。
日本の魔法少女に憧れるスペインの少女…というキーワードからは想像のつかないストーリーの映画です。ただ、ここまで日本に寄っているスペイン映画も珍しいと思う。

以下、ネタバレです。






まず映画の出だし、長山洋子の『春はSA-RA SA-RA』に合わせて、スペイン人の少女が鏡の前で踊っている。スペイン映画を観に来て、いきなり日本語を聞くことになるとは思わなかった。これだけで相当シュールで、これは笑っていいシーンなのか…?と考えていたら、急に少女はばたりと倒れてしまう。

部屋にも魔法少女のアニメイラストが飾られていたんですが、どうやら彼女は日本の魔法少女が好きで、長山洋子はそのアニメの主題歌らしい。はっきり言って、歌詞はまったく魔法少女のそれではないんですが、スペインの人には特に関係がないのでしょう。昔の歌謡曲特有のメロディの切なさはどことなく、『美少女戦士セーラームーン』っぽさを感じる。セーラームーンが魔法少女なのかはともかくとして。
Aメロのキラキラキラキラという音の入り方は変身しそうな感じもするので、どこから引っ張って来たのかはよくわからないけれど、いい選曲だと思う。

少女はハンドルネームがユキコで、マコトという同じく日本のカルチャー贔屓の友達がいるらしく、「一緒にアニメを見て、ラーメンを食べるの」などというセリフも出てきた。
スペイン映画というと、英語でもないし、まったく関わりのない世界の話という雰囲気を受けるけれど、なんとなく親近感がわいてしまう。

ただ、この少女が冒頭で倒れたことでも示唆されたんですが、病気で余命僅かなんですね。そこで、父親は娘の願いをなんでも叶えようとする。
少女は自分が大好きな魔法少女のコスチュームが欲しいと言うが、それが高額でとても手の出る価格ではない。

ここで、普通の映画ならば、「父親ががんばって働いて、でもその金額まで手が届かなかった…、けれど、娘はその父親の気持ちを知って感謝する」など、感動方面に話を持っていくと思う。余命僅かな娘と、その願いを叶えてやろうとする父親である。いくらでも、感動話にできたはずだ。
でも、この映画は安易にそちらへは話を進めない。普通はこう進むだろうというのがどんどん裏切られ、おかしな方向へ向かっていく。

そもそも最初、娘は父親に感謝の気持ちを伝えようとしていた。けれど、ちょっとしたすれ違いで、父親にそれは伝わらない。まあ、序盤の話なので、そこで伝わっていたら、映画はあっという間に終わってしまうのだけれど。

画面が変わって、女性が出てきたので、少女の母親なのかなと思った。けれど、二人にはまったく関係のない人物だった。そういえば、別れた母親を出して感動方面に持っていく手法もあると思うけれど、まったく言及されなかった。
この女性と父親がちょっとしたことで出会ってしまう。要は群像劇だった。

ただ、普通の群像劇だと、それぞれのなんとなくうまくいかない人生を歩んで来た人物たちがちょっとしたことで出会い、幸せな“化学反応”が起こって、最終的には丸くおさまるというパターンが多いように思われる。
けれど、この映画の群像劇は人と人が出会うほど不幸になっていく。話が悪いほうへ悪いほうへどんどん進み、途中で引き返せば良かったものの、最終的には取り返しのつかないところまで行ってしまう。
なぜ、引き返せなかったのかというと、愛故である。途中で、テーマ曲のように何度か流れる曲の歌詞に“愛は盲目”という言葉が使われていた。

娘を愛するあまり、犯罪に手を染めた父親。バルバラと出会わなかったとしても、その前に宝石強盗をしようとしていたし、遅かれ早かれ捕まるか殺されるかしていたかもしれない。

夫を愛するあまり、迷惑はかけたくないと自分の身を切り売りする女。あまり詳細は明らかにされなかったけれど、“挿入はなし”とか“客を何人取る?”とか話していたので売春斡旋業者だろうか。金持ちそうな豪邸に、水着の男女がその姿のまま酒をのんでパーティーのようなことをしていた。

女を愛するあまり、過去に逆戻りする初老の男。この人に関しても過去に何があったかは明らかにはされないんですが、12歳のバルバラに狂わされたとのことだったので、小児性愛のようなことで捕まったのだろうか。刑務所の中ではカウンセラーに「外に出たらバルバラに会いそうで怖い」とまともなことを言っていたが、やっぱり会ってしまったら駄目でした。
最初に授業中にやりとりをしていた手紙を手品のように消したのが、女学生だったバルバラなのだろうか。最後に同じように手の中で携帯を消したのは、もしかしたら復讐だったのかもしれない。
この初老の男、ダミアンを演じる役者さんがちょっとウディ・アレンに似ていたのもおもしろかった。スペイン女性に夢中なウディ・アレン…。

普通の群像劇と違って、偶然会った人々の間に愛が生まれないから不幸な方向へ進んでいくのかもしれない。それぞれが別の人物を盲目的に愛しているのだ。文字通り、周囲は見えない。

明らかにされないことは多いんですが、一番謎なのが、バルバラが派遣されて行く屋敷の部屋です。部屋の中で何をされるのかはわからない。でも、合い言葉を言うまでは止まらないし、我慢するほど報酬が多くなるというルールがあった。部屋に入る前に裸になっていたし、売春斡旋業者からの紹介なので、性方面のことではあると思う。
また、そことは違う、もっとハードなことをされると推測される部屋には、黒蜥蜴のマークが入っていた。出てきたバルバラは顔もめちゃくちゃになり、瀕死の状態だった。エロ以外のことも行われていたようだし、限界まで我慢したのだと思うけれど、まったく明らかにされない。

中でのことを映像として見せることもいくらでもできたと思う。それを、観る人の想像に任せるのは、江戸川乱歩や夢野久作のような昔のエログロ日本文学に通じる奥ゆかしさを感じた。黒蜥蜴って言っても、黒いトカゲなだけでしょ?深読みしすぎでは?と言われそうだけれど、エンディングテーマが美輪明宏が作詞作曲した『黒蜥蜴の唄』なのだ(ピンク・マルティーニのカヴァー)。最初と最後に日本語の歌を聴かされる、スペイン映画を観ている日本人の気持ちになってみてほしい。

屋敷で起こったことは、普段から何にしても妄想をしてしまう人、想像をしてしまう人ほどダメージが大きいと思う。私は映画を観た次の日に、謎の頭痛と吐き気に悩ませれた。長山洋子の曲を聴くだけでちょっと怖い。
シニカルな中にシュールな笑いが取り入れられているのはスペイン流なのかもしれない。けれど、それよりもトラウマのようなものが残ってしまった。

『マジカル・ガール』というタイトルと日本の魔法少女に憧れる女の子の話と聞いたら、ポップな異文化交流が行われるのだと思った。自作のアニメが使われたり。父親が犯罪に手を染めてしまっても、魔法少女のドレスとステッキを手に入れた女の子が魔法少女に変身して、ファンタジーのようにして救ったらいいじゃないか。でも、この映画ではそうはならないんですね。

そもそも、映画のチラシに載っていた、ひらひらのピンクのドレスを来たベリーショートの少女が無表情なのが気になっていた。何かをじっと見据えているんですが、それは、先程、少女の父親を殺して来た男を見ていたんですね。そりゃ、あの表情にもなる。そして、その直後にはあの子も撃たれてしまうわけで…。

父親と少女は殺され、バルバラは瀕死の上、心に負った傷も深そう。ダミアンも結局また刑務所に戻るのだろうし、誰も幸せになっていない。
強烈な印象が残るし、想像力豊かな方は観る前に覚悟するべき映画だと思う。でも、世界観とか雰囲気は、たまらなく好きです。





原題『Birdsong』。Wikipediaにはカタカナのバードソングで項目が作られているので、『愛の記憶はさえずりとともに』というのは、WOWOWが独自で付けた邦題なのかもしれない。
エディ・レッドメイン主演で約90分、前後編の二回のBBCドラマ。
もっと昔なのかと思ったら2012年とわりと最近だった。
原作は1993年の同名のベストセラー小説とのこと。

前編は現在の戦争パートと過去の恋愛パートが交互に出てきていた。戦地にて、過去の恋愛を思い出し、生きて彼女にもう一度会いたいと思いながら戦うというような内容。
なんとなく、英国人気俳優と戦争に恋愛を組み合わせている様子から、ベネディクト・カンバーバッチの『パレーズ・エンド』を思い出した。どちらも戦争メロドラマである。生きるか死ぬかの戦争に恋愛要素を加えるのは作りやすいと言えば作りやすいのかもしれない。

また、恋愛パートで、女優さんが上半身ヌードを披露するのも一緒だった。後編では娼婦のヌードも出てきて、一話に一回おっぱいが出てこなくてはいけないルールでもあるのかと思った。人気俳優の濃いセックスシーンは、レイティングのことを考えてなのか、映画では中々見られない。ドラマにはレイティングはないのだろうか。

また、この恋愛も一目惚れした女性には夫がいるけれど、暴力を振るわれていることがわかり、さらに子供も彼女の子供ではなくどうやら訳あり…という状態でなし崩し的に関係を持ち、駆け落ちのような形で略奪と、やっぱりハーレクインっぽい。吹替で見ていたから余計かもしれないし、WOWOWが付けた(?)邦題も、それっぽい。

ただ、こちらは戦争パートもかなり本格的な撮りかたをしていた。過去の恋愛パートは光に溢れ、白っぽい映像だったのに対し、戦争パートはトンネル内での映像も多いせいか、気持ちのせいなのか、全体的に暗い。
前編の最後でエディ・レッドメイン演じるレイフォードが死んでしまったかと思われたため、もしかしたら後編は過去編だけやるのかなとも思ったけれど、実は生きていて、後編は現在の戦争と、恋愛パートも現在のものになっていた。

戦争パートにおいて、レイフォードの話だけではなく、周辺の兵士たちの話もちゃんと描かれていたのも良かった。その兵士たちの話を通して、両親のいないレイフォードの家族に対しての気持ちが変わって行く様子もしっかり描かれていたと思う。
後編の恋愛パートは過去のあたたかな印象はない。亡くなった恋人に実は自分との間の子供が生まれていたという事実がわかって、その娘との向き合い方を戦火の中で模索するのだ。最初は家族のことなど考えるなという様子で部下に冷酷だったレイフォードが、次第に変わっていく。それは、自分が戦争の中で死にかけたこと、周囲が死んでしまったこととも関わっているだろうし、ちゃんと戦時下を舞台にする意味もあったと思う。

もちろんエディ・レッドメイン目当てで見たんですが、吹替だったため、そこまでちゃんと演技が堪能できたわけではないです。
恋愛パートでは、愛する女性にどこまでも優しいまなざしを向けていた。これはいつもの、というか、わりとよく見るエディ・レッドメインだったんですが、戦争パートでは、部下と距離を置いているというか、心の底まで見せずに厳しくあたっていた。でも、戦時中なのだし、当然のことなのかもしれない。この心を閉ざすエディ・レッドメインというのが結構良かったんですが、後編で自暴自棄になって娼婦にせまり、挙げ句ナイフを突きつけるサディスティックなエディ・レッドメインは、普段なかなか見られない姿かもしれない。
 また、『パレーズ・エンド』と同じく、上半身ヌードの女性とのセックスシーンはありますが、ベネディクト・カンバーバッチが直に裸の胸に触っていたのに対して、エディ・レッドメインは触れていません。

エディ・レッドメイン以外だとマシュー・グッドが大尉役で出ていた。
レイフォードと一番親しくなり、家族のことなど様々なことを話す部下ファイアブレース役のジョゼフ・マウルは『リンカーン/秘密の書』でリンカーンの父親役だったらしい。気になる俳優が出ていると結構この映画に出ていることが多い。なんというか、特徴的な顔の俳優が揃えられた映画だと思う。
あと、ジョージ・マッケイが出ていることに気づかなくて、もう一度見てみたら、レイフォードの部下、兵士ダグラス役だった。多分、本当の下っ端で、レイフォードの連絡係みたいな仕事もしていた。他の兵士が銃の練習をしている的の様子を見に行ってくれという命令に従ったら、そこでドイツ軍に銃撃されてしまう。内臓むき出しという無惨な姿で、開始25分で亡くなってしまった。気持ちをしっかり保つために呟いた彼女の名前は「アイリス」でした。これがダグラスに関するすべての情報…というくらい、ちょっとした役。

ただ、内臓むき出しというような、戦争の残酷さもちゃんと描かれている。
安易なドンパチよりも、どちらかというとドイツ軍がいる場所の地下にトンネルを掘る任務にあたる場面が多く描かれているのも戦争ドラマとして変わっているかもしれない。掘っていると地下水が流れ込んできてしまうシーンなども、そんなトラブルがあることを知らなかったので驚いたし怖かった。

(画像リンク先はUK版のため機器によっては再生できない場合があります)



『サウルの息子』



アカデミー賞外国語映画賞受賞。他にもゴールデングローブ賞でも同じ賞をとっているし、カンヌ国際映画祭でもグランプリを受賞している。
なんとしても観なくてはと思ったけれど、しばらくは観たくないくらい心身ともに元気なときであっても落ち込み方が激しい。けれど、観て良かったと心から思う。

最近の映画だと、大体予告が終わると本編に入る前にスクリーンの両幅が少し広がる。しかし、この映画は両側からぐんぐん狭まって、ほとんど真四角くらいの画角になってしまった。1:1.37のスタンダードサイズですね。
それで、撮りかたも特殊で、主人公サウルのすぐ後ろや前に、カメラがずっと張り付いている。ピントはサウルだけに合っているシーンも多く、背景がぼけている。
サウルはホロコーストで働くゾンダーコマンドという職に就かされている。そこにカメラが密着しているので、まるで自分もホロコースト内にいるような気持ちになった。
最近流行の3Dでも4DXでもない。サウル視点ではないからPOVとも少し違う。けれど、これは紛れも無く体験である。

以下、ネタバレです。








タイトルが出る前のシーンだけでもその迫力が充分だった。連れてこられたユダヤ人が、シャワーを浴びろと言われ、服を脱がされる。そして、部屋の中に大量に送り込まれる。もちろん、ガス室である。中から大量の人の悲鳴が聞こえてきて、サウルは扉を押さえている。
ガス室の中で大量に虐殺されたという事実は知っていても、映像で改めて見せられるとショックで涙が出てきた。怖かった。その中の様子は映らないけれど声は聞こえるし、その次のシーンではサウルの背後でぼやけてはいるけれど、死体が高く積み上がっているのもわかる。
見えるようにはっきりとは撮影していなくても、これまでで知っている話とぼんやり映る映像で、勝手に脳内で補ってしまう。『マジカル・ガール』のところにも書いたけれど、想像力がたくましい人ほど、ちゃんと観てしまうのではないかと思う。

それに、画角のせいで、目をそらすことができないのだ。ほとんど真四角の中、サウルが真ん中にいて、その背景に、嫌でも目に入ってくる。
撮りかたも特殊だけれど、音声も体験型だった。銃弾がすぐ近くでどこかに当たって跳ね返る音を出していて、本当にサウルの近くにいるような感覚になった。
そんな状態だから107分間ずっと緊張しながら観ていた。たぶん、サウルの緊張状態が移ってきていたのだと思う。

ぴりぴりした空気の中、サウルは一人の少年の死体を見つける。そして、解剖しようとしている医師に、埋葬したいと申し出る。
映画の内容自体はそれだけなんですね。少年の埋葬のために奔走するサウルを描いている。

タイトルも『サウルの息子』だし、映画内でも息子だと言っていたけれど、多分、本当は息子ではないのではないかと思う。もちろん、息子なのかもしれない。でも、そんなのはどちらでもいいのだろうし、作品中でも事実には触れられない。

同胞を殺す手伝いをし、その死体を処理し、自分も遅かれ早かれ同じように殺されるのがわかってる。そんな毎日を過ごしていたら、心を殺さないと狂ってしまう。
心を殺し、あくまでも作業として、機械になったように働いていたのだろう。ガス室の死体も、なんの感情も抱いていないように引きずって運んでいた。

そんな中で、少年の死体を見た時には久しぶりに感情が動いたのだろう。他の死者との違いは、少し息のあるところを見てしまったとか、子供であるとか、些細なことなのだと思う。本当に息子なのかもしれないけれど。
少年を埋葬するという行為は、サウルの心の中に久しぶりに生まれた目標だったのだろう。それは、大袈裟ではなく、生きる意味に置き換えられるのだと思う。だから、あんなに執念深く行動していたのだろう。

きちんと埋葬してあげたくて、ユダヤ教の聖職者であるラビを探しているうちに、仲間が反乱を起こすために使う爆薬を落としてしまう。そこで仲間に「死者よりも生者を大切にしろ!」と怒られていた。

その気持ちもわかる。でも、おそらく、サウルは革命もうまくいかないだろうと思っていたのではないだろうか。
ゾンダーコマンドとして働かされていても、いずれ殺されることは誰もが知っている。それは確定事項である。
他のみんなが目標を反乱を起こすことにしたのに対して、サウルの目標は少年の埋葬だったのだと思う。ただ、他の人たちがどうしても生きたい!と思っていたのに対して、サウルはもう死ぬことは覚悟していたのだろう。
どうせ死ぬのだ。その前に、せめて、自分の意志で何かを成し遂げたい。革命よりは埋葬のほうが、成功する確率が高いと思ったのではないだろうか。

死者との丁寧な向き合い方と、弔うという行為について描いているという点では、『おくりびと』にも似ているのかもしれない。こちらのほうがだいぶハードですが。
弔うという行為は生きている者の自己満足でもある。
けれど、丁寧に弔うことで、何かから許されるのではないかと思ったのかもしれない。許される? 何に? そもそも何をしてこの状況になってる?
そう考えさせられたのもつらかった。根本的なことだけれど、彼らは何もしていないのに、こんな状況におかれているのだ。

「きちんと埋葬してあげたい」という願いは、解剖され、火葬されたらもう生まれ変われないという考えが元になっている。
サウルは人は死んで、生まれ変わるのを信じている。あの子が次の人生では幸せになれますように、という願い。そして、おそらくそれだけでなく、この埋葬が無事に成し遂げられたら、自分も来世は幸せになれるという願掛けのようなものをしていたのではないだろうか。今の人生は散々だけれど、次はきっと、という願いも一緒にこめられていたのだと思う。

結局、埋葬することはできなくて、ラビによる祈りの言葉も捧げられなくて、川の中に置いてくることになってしまった。ユダヤ教では復活のためには土葬が鉄則らしい。川の中というのを水葬ととらえていいのかわからないけれど、火葬は禁忌らしいので、それよりはいいのだろうか。

そのあと、逃亡中の休憩をしていた山小屋で、別の子供を見て、サウルがにっこりと笑う。おそらく、サウルが埋葬しようとしていた少年と同じくらいの年齢だ。
生まれ変わりとは違う。けれど、あの子は死んでしまったけれど、生きている子供もいるのだという安心感からの笑顔だろうか。それとも、自分は死が近いのはわかるけれど、お前は生き続けろという笑顔か。単に警戒心を解くためのものか。
笑顔の意味はわからないけれど、穏やかで幸せそうだった。サウルがあの状況であの表情になれたということは、ハッピーエンドでいいのだと思う。その直後にドイツ軍があらわれて銃殺されるとしても。

思うとかだろうとか、推測が多くなってしまったために、解釈は間違っているかもしれない。ストーリー自体はシンプルでも、セリフは少ないために、いくつか解釈ができるのだ。けれど、自分の目で見て、この事実のことを考え直すいい機会になった。
それに、いままでのホロコーストを扱った映画よりも、より近いところでホロコーストを体感できる。本当に落ち込んだしショックを受けたけれど、観て良かった。



『50/50 フィフティ・フィフティ』のジョナサン・レヴィンがセス・ローゲンとジョセフ・ゴードン=レヴィットに、アンソニー・マッキーも加えてクリスマス映画を撮るというニュースはだいぶ前に聞いていた。 『50/50』と出演者からしてブロマンスなんだろうなみたいな話もあったけれど、すっかり忘れてしまっていた。別の映画のチケットを取ろうとして 映画館のサイトを見ていたら、上映予定のところにこの映画が載っていたので観てきました。
“※本作はブルーレイでの上映となります”という但し書きが付いていますが、Amazonを見ても、今のところリリース予定はない様子。ただ、一つの映画館の二週間の上映のためだけに日本語字幕を付けたとは思えないので、何かしら動きはあるのではないかと思う。

一つの映画館だけ、二週間だけ、一日一回だけ、水曜日といろいろ重なったこともあるのか満席でした。コメディなので、反応良く、笑いもばんばん起こっていました。

以下、ネタバレです。











サブタイトルの“メリーハングオーバー”という単語はたぶん造語なのだと思う。ただ、酒を飲んでいないので二日酔いのhangoverではなく、映画のタイトルの『ハングオーバー』からとったのだろう。

バチェラーパーティーではないが、セス・ローゲン演じるアイザックは、子供が生まれてからは無理だろうから今晩は好きに過ごしてきてという感じで、妻からドラッグをいくつかもらって遊びに出かける。
この、“はっちゃけて遊ぶのはこれで最後”感。そして、はっちゃけるのは男三人。
『ハングオーバー』を想像してしまうのもわからなくもない。
そして、はっちゃける夜がクリスマスイヴなので、“メリー”が付いている。

アメリカはクリスマスは家族と過ごすことが多いらしい。慣習が違うので、日本公開されなかったのはその辺が原因なのだろうか。そもそも、コメディ映画自体が公開が厳しくなっているだけかもしれない。

ジョセフ・ゴードン=レヴィット(JGL)が演じるイーサンは、若い頃に交通事故で両親を亡くしている。その時から、彼を励ますために、アイザックとクリスと毎年三人でイヴを過ごしていたが、アイザックには子供が生まれ、クリスはアメフト選手としてブレイク…ということで、今年で遊ぶのは最後にしましょうねということになる。

最初、イーサンがサンタクロースの使いのエルフの姿でバイトをしてるんですが、上司から、「もっとエルフっぽい顔して!いたずらっぽく!」みたいに注意されてのJGLの顔芸から大爆笑だった。カワイイのとムカつくのとの境目くらいの顔。ぎりぎりムカつく寄り。

遊びに行こうぜー!ということで、クリスマスの正装はタキシードではない。イーサンが用意したのはクリスマスダサセーター(アグリー・クリスマス・セーター)である。
ユダヤ人であるアイザック用には、胸に大きくダビデの星のマークが入っている。クリス用には死んだ目の黒人サンタが。両方とも悪趣味であるが、アグリー・クリスマス・セーターは悪趣味であればあるほど良いみたいなので、これでオッケーなのだと思う。

そんな三人がおもちゃ売り場で床の鍵盤を踏みつつ、ダンスをしつつ、Run-D.M.C.のChristmas in Hollisを三人で歌うシーンがとても楽しい。カラオケのシーンも好きです。後半でも出てくるけれど、この映画で、JGLは何度も美声を披露している。

リムジンタクシーで移動するんですが、その中で携帯で写真を撮るんですが、「ソニー・エリクソンの携帯は暗いところでもちゃんと撮れるぞ!」というわざとらしいセリフが良い。ソニー・ピクチャーズ配給です。
よく、ロゴが見えるようにVAIOを使っていたり、ばーんとオメガが出たりするけれど、スポンサーだから仕方ないけれど、イライラする見せ方をしている場合が多い。
この映画くらい潔いとむしろ清々しいし、きっちりギャグとしても消化されている。しかも序盤に片付けている。

コメディなので、細かいギャグはたくさんあったんですが、一番好きだったのはアイザックが人形に話しかけるシーンです。話しかけ、話しかけられる。予想はついたけれど、笑ってしまう。また、それが教会の前で、深夜ミサに来た妻とその家族に見つかるのもおもしろかった。

アイザックの六芒星セーターネタもおもしろかった。アメフトのチームのメサイア(救世主)をうっかり磔にする形になってしまい、「キャー!」って言いながらマークを隠していた。

また、クリスマス映画っぽく、『ホーム・アローン』や『グリンチ』など、定番映画のネタも混ざっていた。

アイザックの携帯電話にJamesという男性から巨根の画像が送られてくるシーンも笑った。いたずら電話と思いつつ、クスリが入っていることもあって、うっかりやりとりをしてしまう。
途中で、ある女性と電話を逆に持ってきてしまっていたことがわかり、Jamesはその女性を誘っていたことがわかるんですが、その後、実際のJamesとの邂逅がある。

はい、ジェームズ・フランコでした。ああ、あんたもジェームズでしたね…。コメディだし、誰かがカメオで出てくるんだろうとは思っていたけれど、そうか…と妙に納得した。
それで、彼は、女の子そっちのけでアイザックにどんどん絡んでいく。アイザックというか、もはやただのセス・ローゲンですよね。こちらは、セス・ローゲンとジェームズ・フランコがその関係なのはいい加減わかっているので、げっそりしました(いい意味で)。ジェームズ・フランコはカメオなのをいいことに、調子に乗って必要以上にチュッチュしてた。

カメオはもう一人、イーサンの元彼女が好きな歌手として、マイリー・サイラスが出てきた。私はこの子を知らなかったんですが、「ハンナって呼んで」というセリフが出てきて、わかった。ハンナ・モンタナでした。
JGLがステージに上がって、マイリー・サイラスと一緒に歌をうたって、そこから元彼女にプロポーズをする。当然彼女もイエスでハッピーエンド。
…なのかと思った。
でも、監督ジョナサン・レヴィンだからなのか、ここからもうひとひねりある。

一度はイエスと答えたものの、イーサンは彼女に呼び出される。あんな場所でプロポーズされたら断れるはずがないからイエスと言っただけだと。
よくありますよね。ディズニーランドでみんなの前でのプロポーズで祝福され、帰りの電車の中で振られたなんて話も聞いたことがある。
この苦みと現代的なテイストがジョナサン・レヴィンっぽいと思った。

それに、この後のエピソードがとても良かったのだ。映画内に何度か出てくる謎の売人、Mr.グリーン(マイケル・シャノン)との屋上でのやりとり。マリファナ(?)に火をつけると、まるでマッチ売りの少女のように情景が思い浮かぶ。
髪の毛が長いので、過去のイーサンだというのがわかる。両親の遺品整理をやっているところに、若かりし頃のアイザックとクリスが来て元気づけるのだ。最初に三人で過ごしたクリスマス・イヴの回想シーン。つらかったときに近くにいてくれたのは彼らじゃないか。そして、今また、つらい気持ちの時にそばにいてくれるのは…。
変わらない友情の描写が泣けた。

Produce、Screenplayなど、エヴァン・ゴールドバーグの名前もたくさん入っていたし、ギャグの具合からもエヴァン・ゴールドバーグ寄りの部分もあると思うけれど、最後のひとひねりのあたりはどうしてもジョナサン・レヴィンだと思う。

アイザックは育児の本を読んでどっしり構えているように見せて、本当は子供が生まれるのが怖い。それをちゃんと認め、妻にも告白した。
クリスは急に活躍したのはステロイドを打っていたせいだと認めた。これも、母にもちゃんと話した。
イーサンも、改めて彼女にちゃんと気持ちを伝えに行った。ただ、あの場で断られたのにちゃんと家に来たらオッケーするというのもうまくいきすぎな気はした。別れていた期間も三か月と短いし、その間も彼女もこちらの動向を探っていたようだしそんなもんかな。でも、だったら、一回断らなきゃ良かったのにね…。混乱したのかな…。

どちらにしても、三人とも、ただはっちゃけただけではなく、ちゃんと困難に立ち向かって、乗り越えないにしても、向かい合った。
二人はイーサンのこと、「あいつガキっぽいよな」なんて言っていたけれど、結局全員ガキだったっていうオチ。それで、きっちりと成長はしたけれど、それで三人が別れてしまったわけじゃないのがいい。

そこに一役買っていたのがMr.グリーンというのが良かった。まさか翼が生えて、サンタクロースの元へ飛んで行くというファンタジー展開があるとは。
驚くことにクリスマスにぴったりだった。紛れもないクリスマス映画になっていた。クリスマスの魔法が感じられる作品だった。
そりゃ、エンドロールのスペシャルサンクスの一番上にサンタクロースの名前もありますよ…。
本当は上映してくれただけで満足なんですが、贅沢を言うならばクリスマスシーズンに観たかった。次はクリスマスに観ます(ので、ソフト化して欲しい…)。



クエンティン・タランティーノ監督作の8作目。ヘイトフル・“エイト”ということで、映画の最初にも“8th”という文字が最初にもこれみよがしに出る。
なんとなく、もっと撮ってるイメージだったので驚いた。
あと、最初にキャスト名が出るんですが、出演しているのを全然知らなかった人の名前が出て、それも驚いた。ここで名前出さなくても良かったのでは…、いきなり出てきたほうがおもしろいのに…とは思った。

以下、ネタバレです。









予告編を見る限りだと、出演者が8人で小屋を舞台にした密室劇なのかと思っていた。けれど、オープニングが吹雪の中を馬車が走っているシーンと、いきなり屋外だったのでびっくりした。
真っ白な、いまにもホワイトアウトしそうな景色の中、馬車がぽつんと走っている。アカデミー賞作曲賞を受賞したエンニオ・モリコーネのどことなく悲しげで、何か起こりそうで、情緒感たっぷりの音楽が気分を盛り上げる。
映像も綺麗で、ここだけでも感動してしまった。
70mmのフィルム撮影をしているらしいけれど、その上映ができる映画館は日本にはないそうです。

序盤は小屋での密室劇ではないものの、馬車の中の会話で進んでいく。これもある種、密室劇でもある。
普通の映画だと、人物が話す内容が映像で表現されていたりする。けれど、この映画だと話す人物の顔が映っているのがおもしろい。
でもよく考えてみると、友達と話している時などと、同じである。友達の顔を見ながら話を聞いて、その情景を自分の頭の中で思い浮かべている。
だから、私も、一緒に馬車に乗って話を聞いてる感覚になった。

ただ、ここでの会話ですが、タランティーノ映画特有の無駄話ではない。小屋での会話もそうですが、会話自体が多いのはいままでと同じだけれど、最初から最後までストーリーに関係のある話をしているのが特徴的だと思う。

吹雪がひどいので、ミニーの服飾店という小屋で休ませてもらうことになる。そこには先客がいるし、ミニーがいない。そもそも予告で、全員嘘つきというようなことを言っているし、最初からあやしんでしまった。

ところで、ヘイトフル・エイトでも9人いて、何度も頭の中で人数を数えてしまったけれど、馬車の御者であるO.B.は別にヘイトフルじゃないってことで人数に含めないようだ。

ここから密室劇が繰り広げられる。
基本的に先程と同様、話しているときにその内容ではなく話している人物が映っているが、ウォーレンがスミザーズ将軍(ブルース・ダーン。良い)に向かって、息子の話を話す時だけは映像が出る。
挑発しているだけで、本当にあったことなのかはわからない。だから、おそらくスミザーズ将軍の頭の中の映像を見せてくれているのだろう。
将軍の息子が素っ裸で雪の中を歩かされるというシーンがあるんですが、男性器が映っているため、映画自体が18禁になっているのではないかと思う。その年齢制限のリスクをとっても、ここだけは頭の中のことを映像として入れたかったのだろうか。将軍の怒りを観客にも共感してもらうため? 逆に、こんなことをされたら銃を手にとってしまうのも仕方ない、と将軍の事物の善良さがわかるシーンにもなっている。

ウォーレンが正当防衛として将軍を撃つと、ここまでの胡散臭いような空気が嘘のように、話が血なまぐさくなり、緊張感が生まれる。


今作も章仕立てになっているのですが、種明かしをする章が用意されているのもおもしろかった。全員に不信感を持って映画を観ていたけれど、そこで一気にすっきりする。なるほどなーと思いながら唸ってしまった。

ウォーレンたちがミニーの店に着いたときに、ドアが開かなくて、「蹴っ飛ばせ!」と言う声が中から聞こえてくる。二人が叫んでるけれど、中にいるのは三人で、その中の一人、おじいさん(スミザーズ将軍)だけ話していないことについても謎がとけた。それより、ドアがどうして壊れたかもわかった。
意味ありげな床に落ちたジェリービーンズの謎も、デイジーが毒を入れるのを黙って見てたかもクセモノだからというだけじゃなくて、仲間だったからというのがわかった。

映画全体が納得のいく作りなのだ。

種明かしの章の直前、床の下に隠れていたのがチャニング・テイタムでデイジーの弟役だった。この人の名前が映画の最初に出てきてびっくりしたのだ。今回はすかしたギャング役。
好きだから贔屓で見てるせいもあるかと思いますが、どんどん演技がうまくなっていると思う。好きだからと書いたけれど、最初はあまり好きではなかった。多分、『21ジャンプストリート』で一気に好きになってしまったのだと思う。『ヘイル、シーザー!』も楽しみ。

種明かしの章の次の最終章、黒人ということで、ウォーレンに対して馬鹿にしたような態度をとっていたマックスだったけれど、2チームに分かれたようになってしまったためか、正義感からか、友情のようなものが芽生えていた。新しい保安官だったのかどうかは最後まで明かされないけれど、本当だったのかもしれない。

デイジーは考えていることがよくわからないながらも、結局は愛嬌のある女性かと思ったけれど、心底ひどかった。ルースと手錠で繋がれてるうちに恋愛関係にでもなるのかと思ったけど、そんなこともなく。

最後の吊るし首はやりすぎな気もしたけど、してきたことを考えるとまあしょうがないのかなという気もする。弟(チャニング・テイタム)の手首がぶらぶらしていたのは妙なおかしみがあった。

最後、マックスがウォーレンの持つリンカーンからの手紙を読み上げるシーンは感動的だった。
映画を観ながら、気持ちを委ねる先がサミュエル・L・ジャクソンしかいなかったから本物だと信じたいけどやっぱり創作のようだ。
南北戦争時代の黒人の地位向上など、ウォーレンの、タランティーノの願いのようなものがこめられていた。

『ジャンゴ』もそうだったけれど、人種差別についての問題提起もきっちり行っている。ただのイケイケ西部劇ではない。
これを最後に、誰でもないマックスが読み上げるというのが更にいいのだ。

上映時間は168分と長い映画である。けれど、人の話を一生懸命話を聞いてるうちに168分経ってた感じ。長さは全く感じなかった。

この映画はパンフレットもかなり充実していた。音楽、キャスト、美術、監督過去作についてはもちろん、欄外に小ネタが書いてあったり(エクスペンダブルズ方式)、元ネタについても知らなかったのでためになった。
単純に読み物として嬉しい。全部読んで一時間以上かかりました。表紙もこれをポスターにしてほしいくらい恰好いい。
そして、値段が880円というのもこだわりが感じられる。

これを読んだ小ネタなどを踏まえた上でもう一回観たいところだけれど、168分は初回観賞の集中力でなせる業だったのかもしれない…と考えると厳しいか。



2007年公開。アメリカでは2006年公開。
最初に観たのは劇場公開時だった。好きな映画ながら、実に約10年ぶりの観賞となってしまった。謎がどんどん明らかになっていき、どんでん返しもあるストーリーのため、最初に観る際には情報を入れないほうが楽しめると思う(以下にネタバレを書きます)。現に10年ぶりでも端々をおぼえていて、最初に観た時のような衝撃はなかった。

監督はポール・マクギガン。10年前は気にしていなかったけれど、スコットランドの監督なので、『ギャングスター・ナンバー1』(2000年)にはマルコム・マクダウェル、ポール・ベタニー、デヴィッド・シューリス、アンドリュー・リンカーン、『仮面の真実』(2003年)にはポール・ベタニー、トム・ハーディ、ウィレム・デフォー、ヴァンサン・カッセルと好きな俳優が揃っている映画を撮っていた。どれも未見なので観たい。
更に、日本公開されるかどうかは不明ですが、『Victor Frankenstein(ヴィクター・フランケンシュタイン)』も監督している。ジェームズ・マカヴォイが博士役、ダニエル・ラドクリフがその助手役。脚本が『クロニクル』『エージェント・ウルトラ』のマックス・ランディスというのも気になるので是非公開してもらいたい。

また、『SHERLOCK』で計4エピソードの監督をしていた(シリーズ1の1話“ピンク色の研究”、3話“大いなるゲーム”、シリーズ2の1話“ベルグレービアの醜聞”、2話“バスカヴィルの犬”)。スティーヴン・モファットやマーク・ゲイティスという製作・脚本陣ばかりが注目されていたので、監督は気にしてなかった。

そう言われてみると、『ラッキーナンバー7』でも、一つの映像で角度を変えてみて実はこうでしたみたいな見方を変えれば世界が変わるだまし絵方式が使われていた。映像の凝り方やおしゃれっぽさは、なるほど、『SHERLOCK』に通じるところがあるかもしれない。

邦題はちょっと安直だし、映画を一気につまらないものにしてしまっているのが残念。原題は『Lucky Number Slevin』。映画内でキーとなるあるものの名称です。
ただ語感だけでわけのわからないものなのかと思ったら、一応、あるものに関連する番号ではあったけれど、それにしても安っぽくなってしまった。

運の悪い青年スレヴン役にジョシュ・ハートネット。借金まみれの友人の身代わりに悪の組織にさらわれる。
飄々とした人物というのが元々好きなんですが、このスレヴンも好きでした。バスタオルを腰に巻いただけという半裸の状態で出て来るというのもいい。お隣のルーシー・リュー演じるリンジーにうっかりご開帳(ご開チン)してしまうシーンもいい。

前半はコメディ要素が強い。スレヴンは最初にさらわれた組織と敵対している組織にもさらわれる。そして、どちらにも、「敵対している組織を倒せばお前の命は助ける」という条件を出される。
ちなみに、二つの悪の組織のリーダーはモーガン・フリーマンとベン・キングズレーという豪華さ。両方に出入りしている謎の殺し屋はブルース・ウィリスです。

リンジーとスレヴンの関係もラブコメのように進んでいく。ルーシー・リューがすごくキュートで可愛い。見ていて好感が持てるし、運命の出会いっぽいし、恋愛し始めのわくわくした感じもうまく描かれている。

特に、助けてもらったときに「あなた、007みたいだったわ」と話すシーンが好きです。007はいろんな俳優が演じていますが、どの007?二人が思い浮かべてるのが違う人だったら台無しじゃないと話し、せーので言い合うという。で、結局違ったんですが、笑い合う二人というのが本当に微笑ましい。スレヴンが「ティモシー・ダルトンも捨て難い」と言っていたのも聞き逃さなかった。
この辺の細かさとか、007ネタを出してくるのはスコットランド人監督ならではということなのかもしれない。

ただ、映画を観ながら、確かのこの人(スレヴン)、裏があったよな…とうっすらと思い出していた。飄々としてるように見えて、すべて演技だったのではないか…。そんなことを思いながら見てしまって、やっぱり初見か、すべて忘れてからのほうが楽しめるだろうと思った。

そして、真実が明らかになっていき、後半は復讐劇になる。コメディ要素は消えて、実は悲しい話になのだというのがわかる。
アクションも多くなるのだが、ブルース・ウィリスの2丁拳銃のシーンが恰好良くて好きだったし、10年ぶりに改めて観てもやっぱり好きだったんですが、海外版のDVDパッケージの画像もブルース・ウィリスの2丁拳銃だった。
そして、これはすっかり忘れていたんですが、空港の男の正体がニックだったんですね。

ラストに過去の映像が入る。子供は殺せなかった殺し屋グッドキャット。グッドキャットとスレヴン(仮)は、疑似親子のようにしていままで生活してきたのだろう。幼いスレヴン(仮)は一体どんな20年を過ごしてきたのか。父親代わりのグッドキャットは…。その部分の映像が一切無いのが気になり、見たかったなとも思うけれど、敢えて削っている潔さもいい。

グッドキャットが子供のスレヴン(仮)を助けるシーンで映画は終わる。助手席にスレヴン(仮)を乗せたグッドキャットがカーステレオにカセットを入れて、そこで流れる曲が『カンザス・シティ・シャッフル』。そこからエンドロールに入るという『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』形式である。

この曲が渋いし耳に残るしとてもかっこいい。元々はジャズピアニスト、ベニー・モーテンのよる曲で、1926年にレコーディングされたものらしい。が、元となる曲はだいぶ違う印象。
映画序盤、空港で、グッドキャットがニックに「カンザス・シティ・シャッフルを知っているか?」と聞くシーンがある。"They look right... ...and you... go left."彼らが右を見たら、お前は左へ行けというような訳だったと思う。謎めいていて、意味はあまりわからないし、作品内でそれほど重要だった感じもしないけれど、何か隠された意味があったのかもしれない。
曲の歌詞も本編に関係あるようなないような内容。“カンザス・シティ・シャッフル”という言葉自体が詐欺とか騙しの場面で使われることもあるとか。
グッドキャトは最初車いすで出てきて、ニックを殺した後ですっと立ち上がるので、そこと絡めたのかもしれない。それだけじゃなく、映画を構成するどんでん返しのことも匂わせているのかも。