『サウルの息子』



アカデミー賞外国語映画賞受賞。他にもゴールデングローブ賞でも同じ賞をとっているし、カンヌ国際映画祭でもグランプリを受賞している。
なんとしても観なくてはと思ったけれど、しばらくは観たくないくらい心身ともに元気なときであっても落ち込み方が激しい。けれど、観て良かったと心から思う。

最近の映画だと、大体予告が終わると本編に入る前にスクリーンの両幅が少し広がる。しかし、この映画は両側からぐんぐん狭まって、ほとんど真四角くらいの画角になってしまった。1:1.37のスタンダードサイズですね。
それで、撮りかたも特殊で、主人公サウルのすぐ後ろや前に、カメラがずっと張り付いている。ピントはサウルだけに合っているシーンも多く、背景がぼけている。
サウルはホロコーストで働くゾンダーコマンドという職に就かされている。そこにカメラが密着しているので、まるで自分もホロコースト内にいるような気持ちになった。
最近流行の3Dでも4DXでもない。サウル視点ではないからPOVとも少し違う。けれど、これは紛れも無く体験である。

以下、ネタバレです。








タイトルが出る前のシーンだけでもその迫力が充分だった。連れてこられたユダヤ人が、シャワーを浴びろと言われ、服を脱がされる。そして、部屋の中に大量に送り込まれる。もちろん、ガス室である。中から大量の人の悲鳴が聞こえてきて、サウルは扉を押さえている。
ガス室の中で大量に虐殺されたという事実は知っていても、映像で改めて見せられるとショックで涙が出てきた。怖かった。その中の様子は映らないけれど声は聞こえるし、その次のシーンではサウルの背後でぼやけてはいるけれど、死体が高く積み上がっているのもわかる。
見えるようにはっきりとは撮影していなくても、これまでで知っている話とぼんやり映る映像で、勝手に脳内で補ってしまう。『マジカル・ガール』のところにも書いたけれど、想像力がたくましい人ほど、ちゃんと観てしまうのではないかと思う。

それに、画角のせいで、目をそらすことができないのだ。ほとんど真四角の中、サウルが真ん中にいて、その背景に、嫌でも目に入ってくる。
撮りかたも特殊だけれど、音声も体験型だった。銃弾がすぐ近くでどこかに当たって跳ね返る音を出していて、本当にサウルの近くにいるような感覚になった。
そんな状態だから107分間ずっと緊張しながら観ていた。たぶん、サウルの緊張状態が移ってきていたのだと思う。

ぴりぴりした空気の中、サウルは一人の少年の死体を見つける。そして、解剖しようとしている医師に、埋葬したいと申し出る。
映画の内容自体はそれだけなんですね。少年の埋葬のために奔走するサウルを描いている。

タイトルも『サウルの息子』だし、映画内でも息子だと言っていたけれど、多分、本当は息子ではないのではないかと思う。もちろん、息子なのかもしれない。でも、そんなのはどちらでもいいのだろうし、作品中でも事実には触れられない。

同胞を殺す手伝いをし、その死体を処理し、自分も遅かれ早かれ同じように殺されるのがわかってる。そんな毎日を過ごしていたら、心を殺さないと狂ってしまう。
心を殺し、あくまでも作業として、機械になったように働いていたのだろう。ガス室の死体も、なんの感情も抱いていないように引きずって運んでいた。

そんな中で、少年の死体を見た時には久しぶりに感情が動いたのだろう。他の死者との違いは、少し息のあるところを見てしまったとか、子供であるとか、些細なことなのだと思う。本当に息子なのかもしれないけれど。
少年を埋葬するという行為は、サウルの心の中に久しぶりに生まれた目標だったのだろう。それは、大袈裟ではなく、生きる意味に置き換えられるのだと思う。だから、あんなに執念深く行動していたのだろう。

きちんと埋葬してあげたくて、ユダヤ教の聖職者であるラビを探しているうちに、仲間が反乱を起こすために使う爆薬を落としてしまう。そこで仲間に「死者よりも生者を大切にしろ!」と怒られていた。

その気持ちもわかる。でも、おそらく、サウルは革命もうまくいかないだろうと思っていたのではないだろうか。
ゾンダーコマンドとして働かされていても、いずれ殺されることは誰もが知っている。それは確定事項である。
他のみんなが目標を反乱を起こすことにしたのに対して、サウルの目標は少年の埋葬だったのだと思う。ただ、他の人たちがどうしても生きたい!と思っていたのに対して、サウルはもう死ぬことは覚悟していたのだろう。
どうせ死ぬのだ。その前に、せめて、自分の意志で何かを成し遂げたい。革命よりは埋葬のほうが、成功する確率が高いと思ったのではないだろうか。

死者との丁寧な向き合い方と、弔うという行為について描いているという点では、『おくりびと』にも似ているのかもしれない。こちらのほうがだいぶハードですが。
弔うという行為は生きている者の自己満足でもある。
けれど、丁寧に弔うことで、何かから許されるのではないかと思ったのかもしれない。許される? 何に? そもそも何をしてこの状況になってる?
そう考えさせられたのもつらかった。根本的なことだけれど、彼らは何もしていないのに、こんな状況におかれているのだ。

「きちんと埋葬してあげたい」という願いは、解剖され、火葬されたらもう生まれ変われないという考えが元になっている。
サウルは人は死んで、生まれ変わるのを信じている。あの子が次の人生では幸せになれますように、という願い。そして、おそらくそれだけでなく、この埋葬が無事に成し遂げられたら、自分も来世は幸せになれるという願掛けのようなものをしていたのではないだろうか。今の人生は散々だけれど、次はきっと、という願いも一緒にこめられていたのだと思う。

結局、埋葬することはできなくて、ラビによる祈りの言葉も捧げられなくて、川の中に置いてくることになってしまった。ユダヤ教では復活のためには土葬が鉄則らしい。川の中というのを水葬ととらえていいのかわからないけれど、火葬は禁忌らしいので、それよりはいいのだろうか。

そのあと、逃亡中の休憩をしていた山小屋で、別の子供を見て、サウルがにっこりと笑う。おそらく、サウルが埋葬しようとしていた少年と同じくらいの年齢だ。
生まれ変わりとは違う。けれど、あの子は死んでしまったけれど、生きている子供もいるのだという安心感からの笑顔だろうか。それとも、自分は死が近いのはわかるけれど、お前は生き続けろという笑顔か。単に警戒心を解くためのものか。
笑顔の意味はわからないけれど、穏やかで幸せそうだった。サウルがあの状況であの表情になれたということは、ハッピーエンドでいいのだと思う。その直後にドイツ軍があらわれて銃殺されるとしても。

思うとかだろうとか、推測が多くなってしまったために、解釈は間違っているかもしれない。ストーリー自体はシンプルでも、セリフは少ないために、いくつか解釈ができるのだ。けれど、自分の目で見て、この事実のことを考え直すいい機会になった。
それに、いままでのホロコーストを扱った映画よりも、より近いところでホロコーストを体感できる。本当に落ち込んだしショックを受けたけれど、観て良かった。

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