『凶悪』



2013年公開。ノンフィクション小説『凶悪 -ある死刑囚の告発-』の映画化。
死刑囚の告発というサブタイトルの通り、死刑囚に面会に行くシーンが軸になっている。軸にはなっていても、そのシーンが長いわけではない。

序盤、死刑囚須藤(ピエール瀧)の面会に行った記者藤井(山田孝之)が、「事件の首謀者が娑婆にいるのが許せないから、記者の力で刑務所に入れることはできないか」と過去の事件の告発を受ける。

映画の最初に、捕まる前の須藤のシーンが少し入るんですが、ほんの少しだけでも酷い所業で、なんとなく、すべて仕組まれているのではないかと疑ってかかってしまった。須藤の証言は曖昧だし、調査もうまくいきすぎているように思えた。曖昧な証言の裏付けがとれるにつれ、もしかしたら娑婆にいるという首謀者と結託していて、首謀者が根回しをしているだけなのではないかと思ってしまった。
また、藤井は会社の上司からこの事件を追うのを止められている中、独自に取材をしていた。誰も知らないで単独行動をとって、ドツボにはまるタイプではないか。

藤井が調査するうちに様々なことが明らかになり“先生”と呼ばれる首謀者の姿が見えてくる。とはいえ、この必死で追っていて謎とされている“先生”がリリー・フランキーなんでしょ?と思っていた。リリー・フランキーが演じることを知らなければ出てきた時の衝撃度が違ったのに…と思った。メインキャストの一人だったので、知らないでいるのは不可能だけれど。

ただ、映画は“先生”の行方を追うものではなかった。
ある、古びた家の埃で曇った窓ガラスを拭き取り、藤井が中を覗いた時に、ベルトで首を絞めて人を殺す“先生”を目撃する。そこから過去パートに映る。
この時間の遡り方はおしゃれだしうまいと思った。

ここから先、須藤と“先生”による、タイトル通り、凶悪な悪行三昧が映し出される。長いし、映画を見終わってみると、この過去パートに裂かれている時間が長かった。
こう、映画の感想を書くときに、内容を思い出して反芻する作業をするのですが、それすらも嫌だし、文章に残してしまうと頭にもより鮮明に残ってしまうので書きたく無い。

弱い老人が虐待され、殺される姿だった。何人も、しかも残虐に。殺す側のピエール瀧とリリー・フランキーの演技は、もう本当に嫌だけれどうまい。この二人は他の作品だと少し浮世離れしてるけれど良い人みたいなのを演じていることが多い。けれど、何を考えているのか、心の奥底は見せない怖さも抱えている。二人は似たイメージである。そして、本業が俳優ではない。よくこの役にキャスティングしたと思う。
この中盤の長い過去パートには、良心となる記者藤井も出てこないし、もちろん警察も出てこない。悪い奴が長時間のさばる。見てられない、はやく終われ、きついと思っていた。

序盤に、須藤が舎弟を車の中で銃殺するシーンがある。序盤の時には部下の腹に銃を突きつける須藤の姿を映したあと、遠くから車を撮り、車がカッと光るのと銃声が聞こえる。これで、ああ、殺したんだなとわかる。わかるじゃないですか。
けれど、中盤の長い残虐過去パートでは、このシーンも車の中から撮っている。撃たれる舎弟、撃つ須藤の姿を至近距離でとらえる。
このシーンを見て、ああ、敢えて、だったかと気づいた。最近観た『サウルの息子』や『マジカル・ガール』は残虐な部分はわざとぼかし、観る者の想像力に任せた。この映画では、敢えて、これでもかというくらい残虐な部分を詳細に撮っている。どちらがいいとか悪いとかではなく、手法の違いです。

“先生”が外で電話をしていて、そこも過去パートだと思ったんですが、その様子を張り込んでいた藤井が撮影して、現在に戻ったのがわかる。この戻り方もなかなか粋。
そして、過去パートというよりは、藤井が取材し、知った真実なのだとわかる。ここで、藤井の頭の中と、観客の頭の中が同期された。藤井が取材した内容なのに、藤井視点でやらないのもまたうまい。

再び、刑務所で須藤と藤井は面会するが、藤井の顔つきが序盤と変わってしまっていた。序盤はただの使命に燃える記者といった感じだったけれど、ここではげっそりしていた。表情が死んでいる。家庭の事情もほったらし、とりつかれたように事件を取材していたこともあるだろう。真実があまりにも酷かったせいもあるだろう。疲弊しているのは観ている私たちも同じである。
序盤と同じ構図なのに、表情が違うだけで受ける印象がまったく違う。
「キリスト教に入信したんですよ」などと言いながら、表情がすっきりしている塀の中の須藤に比べて、藤井はどんよりしている。どちらが犯罪者なのかという顔をしていた。

藤井は事件の全貌を知るうちに、犯罪者のことが許せないという思いが強くなっていった。犯罪者たちがのうのうと生きていては、殺されて行った人がうかばれない。犯罪者たちを刑務所に入れるだけではなく、死刑にすること、それが藤井の目的になっていたようだった。

家で痴呆症の姑の世話をする妻に苦労を話されても、「このままでは死んでいった人の魂がうかばれない!」と怒鳴っていた。それはそうなんだけれど、妻も「私は生きてるんだよ!?」と言っていた。ここも少し『サウルの息子』を思い出した。周りが目に入らなくなっている点でも同じ。結局藤井も、この事件にとりつかれている。

難しい問題ですけど、話は死刑制度の是非に帰結する。
藤井が取材した結果により、“先生”も刑務所に入るが、立件できる殺人が一件のため、無期懲役がせいぜいではないかという。藤井はなんとしても死刑にしたいから、もっと取材を続けようとする。

藤井との面会に応じた“先生”が、「私を一番殺したいと思ってるのは被害者ではなくて…」と言って、ガラス越しににやっとしながら藤井を指差す。お前だと言わずに、指だけ差すのがまた怖い。対面していた“先生”が去った後で、藤井の強張った表情がガラスに映っているのを撮るのも味わい深い。いままで、面会シーンでは、話す人物の顔を正面から撮るシーンが多かったのだ。

最後には映画を観ているあなたはどう思いますか、という問いかけだけが残る。もちろん、そんなモノローグは出ないし、文章が出るわけでもない。
けれど、あなたも藤井と一緒に、おぞましい事件を見てきましたよね? 許せないのはもちろんとして、死刑になったほうがいいと思う? それとも、生きて罪を償わせたほうがいいと思う?と問いかけられているようだった。藤井の執念を理解させるために、中盤にこれでもかというほどの長くて残虐な過去パートを入れたのだ。

難しい。こちらを指差す“先生”は、気に食わないことがあったら死刑とは、結局お前(ら)も俺と一緒の人殺しだろとでも言いたいようだった。
藤井を突き動かしていたもの、それは最初は正義感(ともしかしたら雑誌の売り上げ)だけだったけれど、最後はなんとしても死刑にという思いだけだった。一つの思いにとらわれるのは危険なことには間違いない。けれど、無惨に殺された人がいる以上、刑務所の中とは言え、生きて些細な喜びを感じることがあるのが許せないという気持ちもわかる。私の答えはまだ出ない。




ちなみに、DVDにはキャストと監督によるオーディオ・コメンタリーが入っているらしい。たぶんそれは楽しいトークではないかと思うので、聞いて怖いピエール瀧とリリー・フランキーの印象を元に戻したい。

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