『毛皮のヴィーナス』



2014年公開。フランスでは2013年公開。
ロマン・ポランスキー監督。『おとなのけんか』を思い出すような舞台調の作品だった。こちらも元々は舞台とのこと。主人公トマはヒュー・ダンシーが演じたらしい。
一発撮りなのか、すべて長回しなのか…と思うほど、場面の転換がない。映画内の時間経過がそのまま現実の時間経過になっている。
映画を観ているのに、観劇体験が味わえる。
ある劇場内の出来事だけで、登場人物も二人のみ。途切れないので目が離せず、緊張感があってスリリング。

ある台本作家の男トマ(マチュー・アマルリック)の元に、オーディション希望の女性(エマニュエル・セニエ。監督の妻だそう)が現れる。
トマは一日主演女優のオーディションをしていて、質の低さに悪態をつく電話をしていた。現れた女性は他の人のオーディションが終わった頃に現れたし、外の雨でずぶぬれだし、どこか娼婦のような下品な服装で演技なんてできそうもない。トマも馬鹿にしていたようだった。

けれど、ためしに読み合わせをしてみると、台本はしっかりおぼえているし、主演の女性の気持ちも理解できているようだった。
ここで演じられる劇中劇がレーオポルト・フォン・ザッハー=マゾッホの小説『毛皮を着たヴィーナス』。SMのM(マゾヒズム)の語源となったマゾッホである。

読み合わせをする俳優が帰ってしまったために、男性役をトマ自身が読むが、さっきまで普通に話していたのに、役に入ると急に空気が変わる。
彼女は演じているだけなのか、もしかしたら、演技ではなく本心なのではないか。女性の名前が役名と同じワンダなのも手伝って、境目が曖昧になって余計にドキドキする。どこまでがセリフなのかわからない。けれど、役から素に戻れば、やっぱりさっきと同じような感じで…。落差に驚いているが、やっぱり読み合わせを再開したら、また二人きりの濃密な時間が流れる。翻弄されながらも、ワンダにのめりこんでいくのがわかる。

観ている私もトマと同じ気持ちになっていた。
最初こそこいつなんなの?と思っていたし、警戒もしていた。けれど、途中からこの謎の女性のたくらみなんて考えなくなっていた。
きっとこの女性は本当にこの役が欲しかったのだろう。そして、演じているうちに自分と同じように演じることに夢中になってしまい、芝居と現実の区別がつかなくなって…。一緒に堕ちて行くような幸福な終わり方を想像していた。

劇中劇は服従に関する話なので、「シルブプレ(お願いします)」というセリフがよく出てきた。二人のやりとりがフランス語なのがセクシーでいい。

ただ、劇中劇にわざとらしい効果音がつくのがおもしろい。多少コミカルなので、没頭している姿を嘲笑うかのようにも思えた。それか、踏みとどまれという警告か。

後半でトマ自身がワンダを演じ始める。最序盤で、「いい女優がいないから、俺が網タイツ履いて演じてやろうかな!ガハハ」みたいなことを冗談めかして言っていたけれど、深層心理では本心だったのだ。
ワンダにレザーのブーツを履かせてもらう。女言葉を使い出す。恋い焦がれる人物に自分自身がなってしまうパターンだ。それだけではなく、さっきまでMだった人間が一転してSになる。SM紙一重である。どっちもいい。

ワンダに言葉巧みに乗せられて、女性の恰好になり、舞台セットに縛り付けられ、真っ赤な口紅を塗られる。ああ、どうなってしまうの…というところで。

ガーンと下に落とされる。そんな上手い話はねーよと言わんばかりに、上げて上げて落とされる。
ワンダが行ったのは、女性蔑視への復讐である。
最初の電話のシーンでは、「俺が演じてやろうかな」というセリフの他にも、しっかりとオーディションに来た女優たちを馬鹿にする発言をするトマがとらえられていた。
そして、ワンダがアンビギュアス(Ambiguous=曖昧)とアンビバレンス(Ambivalence=両面価値)と間違えるのが何度か出てくるけれど、それも示唆だったのだ。
好きだけど嫌いというふたつの感情が渦巻いていたのだろう。

最後、ワンダは悪魔のような顔をして踊っていた。上半身をはだけていても、まったくセクシーではない。先程までの、服を着ている姿のほうがよっぽどセクシーな雰囲気だった。

あまりのことに拍子抜けしてしまうけれど、拍子抜けさせるための作りなので仕方がないだろう。急に夢から覚めたようになる。

女装をして、舞台のセットに縛り付けられて、口紅を塗りたくられて、トマは一人残されぽかんとしている。
馬鹿みたいに見える。トマだけじゃなく、私も取り残された感じがするので、たぶん同じ顔をしていただろう。




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