『ロブスター』



カンヌ国際映画祭審査員賞も受賞作。
独り身の人は45日以内にパートナーを見つけないと動物にされるという荒唐無稽なストーリー。監督はギリシャ人のヨルゴス・ランティモス。『籠の中の乙女』という作品も相当変わっているようなので観てみたい。今回が初英語作品とのこと。

話の妙さとギリシャ人監督ということから、出演者も無名なのかと思ったら、コリン・ファレル、ベン・ウィショー、ジョン・C・ライリー、レア・セドゥ、レイチェル・ワイズと何故か豪華。

コメディといえば、コメディだけど、笑いにくいというか、笑いは全然起こっていなかった。

以下、ネタバレです。







まず、妻と別れた主人公のデヴィッドがホテルのような施設に連行される。犬を連れているけれど、それは兄で、パートナーが見つけられなかったため、動物に変えられたのだと言う。その時点で、犬を連れた男性ではなく、兄弟に見えてくるから不思議。荒唐無稽ではあるけれど、ルールもすんなり呑み込めた。動物に変えられた人間に、人間の時の記憶や感情が残っているのかどうかは結局最後までわからなかった。

この施設の施設長をオリヴィア・コールマンが演じていた。『ブロードチャーチ』の女刑事ですね。彼女がデヴィッドにどの動物になりたいか尋ねる。そこは選ばせてもらえるらしい。そこで、彼が希望したのがタイトルになっているロブスター。100年生きるとかずっと生殖能力があるとかいろいろ理由もあった。(けれど、レッド・ロブスターが映画のスポンサーになっているのは違うと思うぞ!)(監督による、この映画の元となった短編は、最後、デヴィッドの妻がロブスターを食べるシーンで終わるらしい。それが、デヴィッドかどうかは明らかにされないらしいけれど…)

施設側はたぶん悪気なく、本当に良かれと思って、カップルを作ろうとしているらしかった。ダンスパーティもちゃんとくっつけようときっかけ作りのためにやってくれてたんでしょう。施設長とパートナーがいい声で歌っていましたが。
男(女)が一人の場合、酷い目に遭うけれど、カップルの場合はそれが起こらないという寸劇も、ほぼコントだったけれど、啓蒙のためにやってたのだと思う。女一人で歩いているとレイプされるけど、カップルだとレイプ班も手を出せないという。
45日以内に見つけられないと動物にされるのも、なんとかカップルを作らせてあげようというありがたい配慮なのだろう。

歌や寸劇で思わず笑っちゃったけど、これに近いことが日本でも言われている気がする。悪気はないのだろうけれど、遊びがないというか、極端なのだ。0か100としか考えられないのか。

ベン・ウィショー演じる足の悪い男は、同じく足の悪い女と付き合っていて別れたためにこの施設に来た。施設の中でよく鼻血を出す女に狙いを絞って、自分で壁に鼻を打ちつけるなどして、「僕もよく鼻血出すんだ」なんて言って彼女を仕留めた。
今作のベン・ウィショーはわざとなのか変な角刈りみたいな髪型で、あまりおすすめできません。

相手との共通項を話しかけるきっかけにするというのはよくある手段かなとは思うんですが、デヴィッドはやや病的に似ている人を好きになる傾向がありそうだった。
デヴィッドも同じように情のない女に、自分も情がないふりをして近づいていく。だが、情がないというのは鼻血のような見た目と違って内面のことだからうまくいかない。
兄(犬)を残虐に殺されたことで嘘だということがバレてしまい、施設に戻されそうになる。

ここで、施設のメイドが逃げる手助けをするので、もしかしたら、彼女とどうにかなるのかと思った。けれど、純粋な手助けだった。

デヴィッドはうまく逃げて、独身者が集まっている場所に引き入れられる。映画は施設内での45日間の出来事を描いているのかと思った。期限ギリギリで誰かと恋に落ちるか、反乱をおこすかして免れるのかと。
しかし、ここで折り返しである。あの施設に比べたら、動物にされる必要はないし、誰かと焦ってカップルになる必要もない。ほっとした。
けれど、ここはここで極端で、逆に恋人を作ると罰せられるという。先程までの世界と間逆になる。また0か100だ。

口に血が滲んだガーゼをあてている人がいて、いちゃついたために“赤の接吻”という唇を切られる罰を与えられたらしい。“赤の性交”という罰もあるらしくて、詳しい説明や映像は出ないけれど想像はつく。

この厳しい集団のリーダーがレア・セドゥ。冷徹な目をしていて、どんな局面でも他人など信じないといった雰囲気だった。かっこよかった。

町に買い出しに出るシーンがあるのだが、本当にカップルだけしかいない。一人で歩いていようものなら、警官から職務質問を受ける。
生き難い。けれど、今はどうかわかりませんが、男性が一人で歩いていると繁華街で職質をよく受けるらしいですよね。同じ服装をしていても、女性といると声をかけてこないとか。やっぱり、何故か日本の状況と似通っている点がある。

デヴィッドはというと、この厳しい規律のある集団の中の女性を好きになってしまう。女性のほうもデヴィッドに一目惚れをする。
いつ人を好きになるかなんてわからないものだ。いつ出会うかもわからないし、タイミングもある。人を好きにならなくてはいけない世界、人を好きになってはいけない世界。世界が0か100で極端でも、人の気持ちはそんなにうまく割り切れるものではない。機械ではないのだ。

独身者たちの集団が施設に攻め入るシーンがある。デヴィッドは鼻血カップルの生活の場へ乗り込んで行く。二人と養女、三人でお揃いの服を着ていた(施設からあてがわれたのかもしれない)。デヴィッドは彼の鼻血は嘘だとバラすが、今更なんなのだといった風だった。
最初はふりだったかもしれないけれど、生活はそれなりにうまくいっているようだった。幸せとまではいかなくても、少なくとも不幸せじゃないように見えた。ベン・ウィショーの表情は諦めにも似ていたけれど、現状を受け入れているようでもあった。何より彼は、動物になるのが嫌だったのだ。

独身者の集団のリーダーたちは施設長とパートナーの寝室に押し入る。リーダーがパートナーに施設長のことを15段階だとどれくらい愛しているか?と聞いたら「14かな」と言っていた。
0か100の極端ではない、曖昧な本心が、銃を突きつけられてやっと出た。
寸劇やダンスの歌を唄っているときには得体の知れなさを感じていたけれど、普通の人間なのだというのがわかってなんとなくほっとしたような気持ちだった。

施設内の撹乱がうまくいったことを祝って、独身者たちの集団でもダンスパーティーが開かれる。ヘッドフォンをしてエレクトロミュージックで一人で踊る。サイレントディスコですね。
これも、施設内のダンスパーティーとは真逆だった。あっちはムードたっぷりの曲で、二人でチークダンスを踊っていた。ダンスパーティー一つとっても極端。

デヴィッドと女性は相思相愛なのを確かめて、サインで会話をし始めるが、抜け出して町で暮らそうということになる。集団の中でいちゃつかずに、カップルになったら外に出て行けば罰もないのでは?と思ったけれど、集団を抜けること自体が禁忌だったらしい。
リーダーにバレて女性は失明させられた。
デヴィッドは女性のことを近視という共通項で好きになったのだ。奥さんと別れる最初のシーンでも「次の男もメガネか?」と聞いていたし、人を好きになるには何か同じ点が無くてはいけないと思っているらしい。
別の男性が近視の女性に話しかけていたときも、お前も近視なのか?としつこく詰め寄っていた。ほとんど病的ともいえる絡み方だった。近視同士だからって好きになるとは限らないのに。
でも、そこまで共通項を大事にしていて、彼女が失明したということは。映画のラストはそこまでは映らないけれど、近視にあれだけ執着していたということは多分…。
同じ近視だから好きになった。それはただのきっかけではないのか。そのあと、近視以外の面でも好きになっていけばいいのではないか。それとも、好きで居続けるためには何か、共通項が無いといけないのか。監督の恋愛観ではなく、デヴィッドの性癖のようなものなのではないかと思うけれどどうなのだろう。

愛は盲目(文字通り)具合と話の進み方の荒唐無稽具合から、『マジカル・ガール』と共通点があるのであわせて観ると楽しそう。『ロブスター』のほうが風刺は強いです。
あと、動物に変えられるって、何か魔法みたいなものでぽんっと一瞬で変化するのかと思ったけれど、どうも手術をして人間の体を改造していくようで、その処理をする“秘密の部屋”が出てくる。もちろん、その中でのことは描かれないので観る者の想像に任せられている。このあたりもまさに『マジカル・ガール』でした。せっかく同時期に公開されているので、片方観たらもう片方も是非。




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