『ひかりのまち』


1999年公開。マイケル・ウィンターボトム監督で音楽のマイケル・ナイマンをはじめとしたスタッフ、また、シャーリー・ヘンダーソン、ジョン・シムといった出演者も『いとしきエブリデイ』と同じです。

ドキュメンタリータッチというか、淡々と人物たちを描写していく手法は『いとしきエブリデイ』と同じだが、こちらのほうが事件がちゃんと起こる。
三姉妹を中心に、その両親や夫や子供などのことが同時に描写されるいわば群像劇。誰を贔屓するでもなく、それぞれを公平に描いている…が魅力だと思ったので、日本版の予告がナディアだけを中心としているのはちょっとどうかと思った。ナディアだけが結婚していなくて恋人もいなくて…というわかりやすい独りの状態だったので作りやすかったのかもしれないけれど、結婚していても孤独感は感じるし、それぞれの立場で違った悩みもある。登場人物それぞれが違った悩みを抱えていて、誰一人として人生幸せで幸せで…という状態の人がいなかったから、全員についての予告を作るのは難しいから一人にクローズアップしたのだろうか。“この街にきっと愛してくれる人がいる”というキャッチコピーもナディアの予告を見せられたあとだと安直と思ってしまったが、結局、全体を観てみても、描かれているのはそのことだったと思うので、これはいいのかもしれない。

あと、もうこれも仕方がないのはわかったからいいんですが、原題が『Wonderland』なんですね。ジョン・シム演じるエディとモリー・パーカー演じるモリーの間に子供ができて、エディは「名前はアリスがいいんじゃないか。アリス・イン・ワンダーランド」って言うんですよ。この時、ワンダーランドはロンドンのことを指している。ロンドンのアリス。この映画はロンドンという街についても描いているので、『Wonderland』というタイトルになったのだと思う。だから、邦題もこのままにしてほしかった。けれど、日本だと、そもそも『アリス・イン・ワンダーランド』ではなく『不思議の国のアリス』。ここで、もうワンダーランドが出てこないからタイトルにできない。かといって、邦題を『不思議の国』にするのもなんだかよくわからない。なので、もう『ひかりのまち』で仕方ない。納得はしたんですが、観ている最中 は、だからWonderlandなんだ!タイトル変えちゃったら意味ないじゃん!と少し憤りました。

ジョン・シム、やっぱり99年となるとかなり若いです。会社を辞めたいけれど、子供も産まれるし、奥さんになかなか言い出せない、しかも実際に辞めたあとバレちゃうという役柄。弱く、でもどこにでもいるような、誰もがそうするだろうなという役だった。あなたは悪くないよ。

あなたは悪くないよ、というのはこの映画に出てくる登場人物誰にも言えることだった。一人一人が悩みを抱えて、その上でとった行動が別の人を傷つけて、人間関係がおかしくなったり、少し近づいたり。
『いとしきエイブリデイ』に比べて事件が起こるとは言っても、比べて、というだけの話だし、劇的な何かはそんなに起こらない。思わず共感してしまうような、私たちの身の回りでも充分起こりうる些細な出来事。それを人物たちの近くに寄り添うようなカメラが優しく切り取っていく。

フランクリンが家で聴いていた音楽が、パルプとマッシヴアタックで私と趣味が合いそうだった。中で説明があったかどうかちょっとわからないんですが、これらはフランクリンがナディアを想いながら聴いていた音楽みたいですね。


2007年公開。ずっと観たいと思っていてやっと観ました。
登場人物が豪華。とはいえ、一般的にはそんなに豪華じゃないかもしれないけれど、一部ジャンル俳優さんたちが揃っています。
ジョナ・ヒルが主人公なんですが、『JUNO』や『スコットピルグリム』のマイケル・セラ、『キック・アス』のクリストファー・ミンツ=プラッセ、セス・ローゲンとビル・ヘイダーなど。
監督は『宇宙人ポール』のグレッグ・モットーラ。『アドベンチャーランドへようこそ』も観てみたいです。そういえば、マイケル・セラとジェシー・アイゼンバーグは顔が似ている気がする。

まず、オープニングがお洒落キッチュでかわいい。踊るシルエットに鮮やかな色合いの、一時期のiPodのCMみたいなあれ。セス・ローゲンとマイケル・セラが踊っています。

ジョナ・ヒル演じるセスら三人は高校生同級生で童貞、プロムで意中の相手との初体験を目指す。けれど、プロムには酒が必要、高校生が酒を入手するためにすったもんだある。
シンプルな大筋があって、それと別にフォーゲルの警官二人とのコント的なやりとりもあり、それがちょくちょくと大筋に関わってきて、少し複雑化させる。
なんかこの無駄な問題の起こり方と、脚本の構成が『21ジャンプストリート』を思い出させた。プロム、ブロマンス、ジョナ・ヒルというわかりやすい共通点もありますが。

最後のほうの仲直り後に隣りに並んで寝て、「愛してる」って言い合うあたりはブロマンスとして、シャレになっているのかどうか。翌朝、セスとエバンは下ネタを言いながら楽しく買い物をしていて、途中で女の子と会って、別れ別れになる。大人びてすました感じで女の子と去っていくエバンの背中を寂しそうに見るセスは、あれだけヤりたいヤりたい言っていながらも、まだ子供のまま遊んでいたそうな顔だった。
エンドロールの最後にも「愛してる」って一言入るのもなんでなの…。

エンドロールにいろんな男性器の絵が出てくるのも笑った。板前、兵士、ミサイル、メデューサ、手術、汽車、魔法使い、タコ、ユニコーン、アメリカ大統領、モグラたたきなどなど、パターンが豊富すぎた。そして、最後に三人組の男性器イラストもあって、それは笑えるけど少し泣きそうになった。

男の子同士のぎゃーぎゃーした下品会話も楽しいし、プロムにかける青春具合も甘酸っぱい。警官二人とフォーゲルのやりとりもぜんぶ面白い。初体験は済ませられなくても、最後に少しだけ大人になる登場人物たちが愛しくなった。あれだけ下品でも、観終わったあとになぜか、爽やかな気持ちになれる。


セス・ローゲンとエヴァン・ゴールドバーグが脚本。あれ、登場人物の名前もセスとエヴァン?と思ったら、二人の実体験に基づいているらしいです。フォーゲルについても本物がいた。
本当はセス・ローゲンはセス役をやりたかったそうですが、さすがに高校生役は無理でジョナ・ヒルになったらしい。『21ジャンプストリート』に原案で参加しているジョナ・ヒルがまんまと高校生活を楽しむ役をやってたことを思い出した…。

DVDに入っていた特典映像の未公開シーン集はどれも下品すぎてカットされて当然だった。
XXシーン集も猥談集。細切れにしたアウトテイクを組み合わせてるのかな。いずれにしても、ストーリーとは関わってこない無駄話。連続で見ると強烈。
短かったけど、NG集も入っていた。こうゆうわいわいした映画での出演者の仲良さそうな一面が見られるのは楽しかった。

そういえば、今作では高校の同級生役だったジョナ・ヒルとマイケル・セラとクリストファー・ミンツ=プラッセは、いまの感じだとジョナ・ヒルだけが歳をとって見えますが、実際、一人だけ5歳上でした。


2012年公開。これも、予想していたのとだいぶ違っていた。
予告と“笑えて最後は少しほろりとする”という宣伝文句だと、もっとコミカルな感じを想像していた。コンクラーベによって選ばれた法王がその重圧からか、息抜きのために宮殿から抜け出して、市民とギャップコメディーを中心としたほのぼのとした触れ合いがあって、宮殿へ戻って職務を全うする。そんな話だと思っていた。なぜ、話が想像できていても観賞したかというと、ほのぼのとしたあたりが観たかったからです。

法王に選ばれたメルヴィルが逃げ出すところまでは正しかった。でも、笑いの要素は残された枢機卿たち側にしかなかった。法王がいると思っているので、影武者が法王の部屋の電気をつけていれば、嬉しそうにそちらに向かって手を振ったりしている様子も可愛かった。
特に、法王のカウンセラー役で呼ばれた精神科医が中心となっての国別バレーボール大会は可愛かった。人数の少ないオセアニアチームの得点シーンは感動してしまった。法王関連のことよりも、このバレーボール大会の瑞々しさが印象に残っている。
枢機卿に混じって奮闘する精神科医がキャラクターとしても結構良かったんですが、このナンニ・モレッティという方が本作の監督であり、脚本・製作もつとめていた。

法王側なんですが、元々役者になりたかったらしいんですね。それで、小劇団に関わったりするんですが、代役に立候補しても無視されてしまう。触れ合いもそれほど濃密なものでもない。表情もずっと暗いままだった。

ラスト、バチカンに連れ戻されて、演説をするんですが、結局、「私は法王にはなれない」という旨をみんなの前で伝えるんですね。期待に溢れた瞳で法王を見上げていた信者や枢機卿が泣き崩れて、THE ENDっていう。なんというか、バッドエンドっぽかった。
普通だったら、外の世界に出て、成長して、そこの演説ではありがたい話や就任する旨を伝えて、新しいローマ法王を受け入れて終わると思うんですよ。
出来ない仕事を出来ないとはっきりと言う強さを獲得したということでしょうか。悲痛な面持ちの演説と人々が悲しむシーンで終わるというのは、なんともヨーロッパ映画っぽいなとは思いました。


世界観がたまらなく好きでした! ジム・ジャームッシュ監督、トム・ヒドルストンとティルダ・スウィントンが吸血鬼の恋人同士、ジョン・ハートとミア・ワシコウスカも吸血鬼役で出るという情報だけでもう、とんでもなく期待をしていたんですが、裏切られませんでした。ただ、アート寄りの作品なので、好き嫌いは出そう。

ガチガチに作り込まれた景色の中に、完璧に作り込まれた俳優さんが配置されていて、どこを切り取っても絵になる。まるで美術品を鑑賞するみたいに映画を観ました。
完璧に作り込まれているので人間味はない。いいんだよ、吸血鬼だもの。

以下、ネタバレです。







吸血鬼の話のせいで夜や部屋の中でのシーンが多いからかもしれないけれど、色もかなり寒々しく統一されていた。その中で、コップに入った血の赤さだけがとても鮮明に見えたのは、たぶん何か色をいじっているのだと思う。モノクロ映画で血だけが赤いような印象だった。

小さいコップで飲み干して、恍惚とした表情で口を開くと牙が少し見えるのが色っぽかった。ただ、このように血を摂取している以上、人間の首に噛み付いて血を吸うシーンはないのだなと思って残念な気がした。ヴァンパイア映画において、一番色気のあるシーンだと思うので。途中のセリフでも出てきますが、15世紀ではなくもう21世紀なのだから、とのことです。時代遅れなんですね。

トム・ヒドルストン演じるアダムとティルダ・スウィントン演じるイヴは恋人同士というより結婚してました。しかも何世紀も前から。
ラブストーリーというと、二人の危機が訪れて克服してハッピーエンドみたいなものが多いですが、二人にはあてはまらない。もうそうゆうのは越えた存在だった。
ミア・ワシコウスカ演じるイヴの妹、エヴァが現れて一騒動あるという前情報を聞いた時にも、二人の中を邪魔するのかと思ったら、恋仲ではなくもっと大幅にひっかきまわす役だった。
最後のほうの血がなくてピンチに陥っているときに、イヴが「あなたに贈り物をしたいから全財産をちょうだい」と言ったときも、恥ずかしながら全財産を持って逃げてしまうのかと思ってた。琵琶にも似たウードという楽器を買ってきてあげてた。ギターも置いてきてしまったし、音楽好きの彼にモロッコの楽器を。本当に愛ですね。

二人がベッドの上で向かい合って全裸で寝ているシーンがあったんですが、まったくいやらしくない。本当に絵画みたいでした。裸だと余計に作りものめいていた。

二人の背格好がよく似ていたのもおもしろい。長身で手足が長くて、性別が曖昧。ティルダが髪が白に近いブロンドで服装も白、対するトムヒは黒髪に黒い服装だったので、二人が寄り添っていると、陰陽のマークにも見えた。

血を吸うシーン自体は出てこないですが、最後の最後で噛み付こうとしているワンショットが出てくる。こちらに向かって歯を剥いている画で、そうくるとは思わなかったし一瞬だったので、イヴの顔しか見てなかったんですが、アダムも口を開いていたのかな。それを確かめにもう一度観たいくらい。

エヴァはあぶなっかしいし言うことを聞かないし、あーこれ絶対に何か悪いことが起こるな…と思っていたら案の定起こるあたり、かなりイライラさせられた。ただ、観終わってからは、あの無邪気さが子供っぽくて可愛く思えてくる。酷い目に遭わされたけれど、憎めない役だった。でも、あのタイプは反省しないだろうし、直らないと思う。

舞台がいまや廃墟の町となったデトロイトと、治安が悪いことでも有名なタンジールというのも良かった。デトロイトのつぶれた劇場が駐車場になっている建物は実際にあるみたいですね。
また、両方の町のライブハウスが出てきたのもおもしろかった。特に、タンジールのライブハウスで歌っていた女性は役名がヤスミンで本名もヤスミンのようだった。「これから有名になるな」というアダムの言葉は、そのままジム・ジャームッシュの言葉に置き換えられるのかもしれない。
アダムはアンダーグラウンド音楽を作っていて、でも姿を見せないあたりがミステリアスで人気があるという役だったし、部屋でもヴィンテージギターを弾いたりアナログ盤をかけたりしていた。エンドロールでも劇中で彼が作ったとされる重くディレイのかかった曲が流れていたし、音楽映画の側面のあると思う。

いくつか謎が残ってるんですが、手袋をしていたのはなぜなんでしょう。今回みたいに突然逃げることになることもあるから指紋をつけないようになのかな。サングラスも同じ理由でしょうか。
エヴァがパリで起こした事件がなんだったのかは明らかにならなくてもいいんですけれど、タンジールへ行く飛行機のロンドン経由がまずいのはどうしてだったんでしょうか。パリとは関係ないけど近いから? それとも、ロンドンでも何かやらかしたことがあるんでしょうか。そう考えると、長い年月の間に、行けない場所がかなり増えていそう。
アダムが発注した弾丸は、胸に当てていたし、いつか自殺をするためだったんでしょうか。

いくつか謎が残っていても、すべてをあきらかにする必要はないか、とも思えるのが、こうゆうアート系作品のいいところ。観ていて、どことなく懐かしい気持ちになってしまったのは、昔、このタイプの耽美趣味の作品を頻繁に観ていたせいでしょう。

12/18『タンタンの冒険/ユニコーン号の秘密』
ジェイミー・ベルやダニエル・クレイグ、またサイモン・ペグとニック・フロストコンビが声優をやっているというので観てみました。CGアニメという情報しか頭に入れていなかったので、CGとはいえ、ほぼ実写で驚いた。二次元というよりは三次元。
動きも完全にモーションキャプチャーらしいので、声だけではなく俳優さんたちが演技もしているとのこと。船長役は『ロード・オブ・ザ・リング』のゴラムで有名なアンディ・サーキスだった。

これ、顔のモーションキャプチャーはどうなんだろう。ジェイミー・ベルはなんとなく面影はあったものの、ダニエル・クレイグはわかりにくかった。ペグ&フロストは同じ顔なので違いそう。しかし、この双生児警官役を一人二役ではなく、このコンビにやらせるとは。と思ったら、脚本にエドガー・ライトの名前があった。なるほど。

ただ、飛行機のプロペラに巻き込まれて遠くに放り投げられるなど、アニメ的な表現も折り曲げられていたので、二次元と三次元の中間辺り、どちらかというと三次元よりという感じでしょうか。
特に犬のスノーウィの動きが良かった。本物の犬っぽさがありつつも、あんな犬種はいないと思う。でも、とても優秀で頼りになるし、可愛かった。

この映画、たぶん3D上映だったと思うんですが、砂漠の奥から船が現れるシーンが大迫力だったので、映画館で観たかった。その後の船同士の撃ち合いのシーンも3Dが合いそう。

タンタンの絵本は読んだことがないのでどうなのかはわかりませんが、映画のタンタンはどちらかというと子供向けというよりは大人向けでした。これも、アニメだから子供向けと思い込んでいたので驚いた。まさか、タンタンが拳銃を使うとは思わなかった。しかも、かなりの腕前。ファミリー向けとも違う感じがした。

冒険はわくわくするし、映像も綺麗だったけれど、明らかに続編がありそうな終わり方が残念だった。今回の冒険については一段落させて欲しかった。
宝を見つけて、船長が「思ってたよりも少ないな」って言っていたけれど、観ている側も同じことを思っていたわけです。それで、「もう一つの地図が!」って言って終わりって。もう一つの地図のところまで行って、真の宝物を見つけて終わりにしてほしかった。あと、30分くらい長くするとか…。
でも、調べてみると、三部作と明言されてたようで。最初からそのつもりで観ていたら、こんな消化不良のような気持ちにはならなかったと思うのが残念。


びっくりする映画体験だった。観終わった後、エンドロール中も脱力していたし、3Dメガネをかけたまま席を立とうとしてしまった。
映画館を出てからも、なんとなくふわふわしていたし、
『アバター』は公開時ではなく少し経ってから観たんですが(青い人が恐かった)、その時も前情報を入れずに観たらこんな感じになったのだろうか。
そんなことは絶対にないのはわかっているのに、宇宙に俳優さんたちを放って、クルーが宇宙でカメラを構えて撮影しているようにしか思えない。そして、どうやったらこんな映像が作り出せるのかわからない。
できる限り大きなスクリーンで、そして絶対に3Dで観たほうがいいです。91分とトータルタイムは短いので、3Dが苦手な人も我慢できる時間だと思うし、3Dを想定して画面が作られている。ちゃんと飛び出しもするし、奥行きも素晴らしい。

以下、ネタバレです。






音のボリュームが上がっていきタイトルが出ると、一気に静寂に包まれる。最初の画面からしてただごとではなかった。地球が見える。遠くから宇宙飛行士がゆっくりと飛んでくる。このシーンは長回し風に作ってある。しかも3Dだ。向こうからゆっくりふわふわとこちらに本当に飛んでくるのだ。この辺りで、既に映像に圧倒されて少し涙ぐんでいた。
ちなみにこの辺りはヒューストンと船外活動中のクルーが通信をしているのですが、字幕を読むのがいやになるくらいスクリーン全体から目を離したくなかった。吹替のほうがじっくり観られそう。専門用語が多かったのでちゃんと読んでいたのですが、実はあまりストーリーには関わってこない。ロシアがやらかしたということだけ

塵が大量に飛んでくるシーンも本当に塵はこちらに飛んできたし、時々、サンドラ・ブロック演じるライアンの視点になるから、リアリティがあって本当に怖かった。映画を観て、あまりのリアリティを感じて涙ぐんだのは、『インポッシブル』の津波のシーン以来です。あれも怖かった。

一人飛ばされたライアンはジョージ・クルーニー演じるマットに救出されるのですが、この状況に合うこと合わないことをべらべら話し続ける。さっき一人で宇宙空間に投げ出された状況とは比べ物にならないほどの安心感。
ライアン視点のカメラが多いせいもあるけれど、マットが本当に頼りになる男に見えて、マットだけでなく演じるジョージ・クルーニーのことも好きになってしまった。ライアンはどうだかわからないけど、私が。
結局最後までライアンがどうだったのか、そのような描写は無いのでわからない。でもその辺りの恋愛感情を排除してあるのも良かったと思う。極限状態、サンドラ・ブロック、恋愛というと…。

ライアン視点のために、姿勢が安定せずにぐるぐるまわってしまうシーンなどは、まるでアトラクションのようだった。このアトラクションを最大限に楽しむには、やはり3Dのほうがよろしいかと思います。

地球の一般人と交信しているシーンでは、最初、地球の人ではなくてどこかの宇宙人だというオチなのかと思ってしまった。
普通の人間だとわかったあとでは、この人がNASAに連絡して、NASAから助けが行く展開ならいいのに、と思た。でもこれ、自分がライアンの立場だったら、というのを無意識のうちに考えていたみたい。宇宙人でもいいから助けてくれ、どうにかしてNASAと連絡をとって助けにきてほしい。そんなことを考えてしまうくらい、ライアンと一緒に追いつめられた。ライアン視点のカメラが臨場感ありすぎるせいでしょう。

ライアン視点カメラ、長回しカメラの他にも、ライアンが無重力下で流した涙が球状になり、その球がこちらに向かって飛んできて、急に焦点が合うと、そこに上下逆のライアンが映っているというカメラワークもお洒落だった。


地球での様子、例えばヒューストンが緊急事態に陥ってる様や、犬の鳴き声を真似していたおじさんが映ったりしたら台無しだったと思う。ただのパニック映画になってしまっただろう。それに、長まわし風の映像が多用されていることからも想像できるけれど、実際に宇宙にいる感じが薄れてしまう。地上=現実に戻されるし、緊張感を途切れさせたくもなかったのだと思う。
その結果、登場人物は二人。ほとんどはサンドラ・ブロックの一人芝居、そして91分という上映時間になったのだろう。

様々な要素が排除されているけれど、ストーリーがないわけではない。非常にシンプルではあるけれど、生きていく強さはしっかりと描かれている。ライアンは娘を亡くしている。途中、あきらめて、もうすぐ娘に会える…という思考に陥っていたが、マットの幻に勇気づけられ、娘に伝言を頼むわね、という考えに変わっていた。
また、地球に帰還したときにも、重力におしつぶされそうになりながらも、両足で力強く立ち上がる。

この帰還シーンですが、画的に『パシフィック・リム』のラストを思い出させた。『パシフィク・リム』は海の底から、『ゼロ・グラビティ』は空の上からという違いはあるものの、脱出ポットのハッチが飛んでいく様子、映画中唯一明るく青空が見える、中から出てくる女性は特殊な服装をしているなど似通っていて、ヘリコプター部隊が飛んでくるのではないかと思ってしまった。お互いがエンドロールのスペシャルサンクス欄に名前を載せ合うくらいだし、意識してのことだと思う。

ちょっと説明を読んでも、文章だけではいまいちよくわからなかったけれど、撮影用の専用のプログラムを組むのに四年かかっているとか、あの無重力状態はまったくそうは見えないけれどワイヤーアクションであるとか、CGと役者さんたちの演技、照明などがものすごく細かく決められていてそれを合致させているとか…、メイキングを映像で観たい。


2012年公開。ポール・ダノ主演ということで、観たかったんですが、脚本とルビー役のゾーイ・カザンが実生活でも彼女だということで、なんとなくの嫉妬心から映画館へは行けませんでした。

スランプに陥った作家が書いた小説の女の子が、現実に飛び出してきて恋に落ちる…というストーリーから、ファンタジーお洒落恋愛映画かなと思っていた。もちろん、ファンタジー的な要素もあるし、ポール・ダノもちょっと髪の毛を茶色く染めていたり、ルビーのファッションもお洒落ではあったけれど、それだけではなかった。

映画の序盤の二人は、きっと付き合い始めて三ヶ月くらいの良い面しか見えてない時期のようでとても楽しそう。しかし、時間が経つにつれて嫌な面が見えてくる。嫌われるのを恐れて、主人公のカルヴィンはルビーを思い通りにあやつろうと、タイプライターに文章を打ち始める。

「あなたが付き合えるのはあなただけ」という元彼女の言葉が示す通り、カルヴィンは相手を自分の型にはめようとしていた。ルビーは自分の創作物なのだから、恰好の相手だった。

ラスト付近、怒ったカルヴィンは黙ってカチカチとタイプライターを打ちながら、ルビーに様々な指示を送る。しかし、目の前で服を脱ぎながら踊ったり、あなたのことが好きだと言っていても、まったく嬉しくも楽しくもなさそうで、そのうち、犬にしたり、「あなたは天才!」と連呼させるなど、わざと自分の嫌なことをさせていた。
まるで自分で自分を責めるようなその所業。カルヴィンのセリフはなく、タイプライターを泣きながら打っているだけだったが、支配者気取りの狂った感じから、どうしたらいいか自分でもわからなくなってしまったような苛立ちまで、見事に演じていた。歪で暗くて、いつものポール・ダノです。

人を思い通りにすることで、その虚しさに気づくという逆説的な方法がとられていた。本来は相手は自分の思い通りに動かないのが普通なのだと、やっと気づいて成長する。
一見、奇抜なストーリーと思いきや、その根本にあるのは普遍的でわかりやすく、共感も得られるメッセージだった。

彼女との別れもタイプライターの文章で。言葉はなく、タイプされる文字を映していくというカメラワークがうまい。

監督は『リトル・ミス・サンシャイン』のジョナサン・デイトン&ヴァレリー・ファリス。あまり深い描写はないけれども、カルヴィンの家族の一風変わった家などはこの監督らしく、もう少し細かく見たかった。ファミリーものではなくあくまでもラブストーリー主体ということだろう。
作中でははっきりとは描かれないけれど、カルヴィンは母親の恋人・モートをあまりよく思っていなさそうだった。モートによって変わってしまった母親のことを憂いてるようだった。それも結局、彼女の気持ちを考えず、いつまでも自分の知っている母親でいてほしいという願望からなのだろう。
モートの奔放さがルビーと似ているのも面白い。カルヴィンは元々ルビーのそんな部分に憧れを抱いて作ったのだろうから、モートのことも、心の中では憧れていたのではないだろうか。憧れ半分、嫉妬半分かもしれないけれど。
カルヴィンの相談相手であり、友人でもある兄のハリーも魅力的なキャラクターだった。

曲の使い方も素敵だったんですが、音楽のニック・ウラタさんは『フィリップ、きみを愛してる!』の方らしい。

一つ気になったのは、結局ルビーは本当に小説から飛び出してきたのかなど、存在がよくわからないままだというところ。最後には記憶を消したルビーと偶然会ってもいたから、存在がまるまる消えてしまったわけでもなかった。最後に“彼女はもうカルヴィンの創造物ではない”と書いていたので、本物の人間になったということなのだろうか。
最後、小説を書く手段をタイプライターからMacBookに変えてたけれど、あのタイプライターもしくは紙が原因だったのだろうか。でも別に、どこかで拾ってきたタイプライターという風でもなく、ずっと使っていたものだったようなので、不思議なタイプライターってわけでも無さそうだったけれど。


2013年公開。なぜか、“老夫婦が旅をしていて、立ち寄ったロンドンがゾンビにまみれていてたたかう”という内容だと思い込んでいたけれど違った。たぶんタイトルと、おじいさんとおばあさんが猟銃みたいなのをかまえているポスターのせいだと思う。実際は紀行でもなんでもないし、ロンドンといっても中心部の話ではないので、所謂ビックベンやタワーブリッジなどは出てこない。ロンドンらしいものといったら、二階建てバスくらいである。それで、ポスターに出ていた老人二人は夫婦ではなく、主役でもない。おじいさんのほうはある意味主役級ではありますが、おばあさんはあきらかに違う。

タイトルの原題は『Cockneys vs Zombies』。“cockney”というのはイーストエンドオブロンドンで使われている方言のような言葉のことらしいので、“cockneys”はその言葉を喋る人たち、下町っ子みたいな感じらしい。
このイーストエンドというのがロンドンの中でも貧困地区にあたるらしく、この映画の主人公の兄弟も、労働者階級の家で、両親も強盗で捕まっている。
背景を知れば知るほど、『ロンドンゾンビ紀行』というタイトルとあのポスターがいかに合っていないかがわかる。

ただ、最初に想像していたよりも面白かったので、文句は言いません。終わり方はややあっさりしていたけれど、ゾンビものは最後に収拾つかなくなることが多いし、仕方ない。ヘタに話を大きくされるよりは、これくらいでいいと思う。誤魔化されたこともいくつかありそうな気がするけど。
兄弟たちの銀行強盗についても簡単に許されていたけれど、ゾンビのほうが町の一大事だし、これも仕方ないでしょう。

その無理矢理まとめた感があっても、88分というトータルタイムもちょうどいい。説明を多くしたり、話の整合性を保つために描写を細かくしたら飽きてしまう。あっさりしているのがむしろ好印象です。

観る前までは存在すら知らなかった主演の兄弟がかわいい。弟役はハリー・トレッダウェイ。『ブラザーズ・オブ・ザ・ヘッド』の双子の一人です。この弟がちゃっかり者の甘え上手。「いつでも相手になってやるよ!」というセリフのあとに、「うちの兄ちゃんがな!」と付けて、兄が驚くというシーンがたまらな い。
むしろ、兄弟よりも気が強いくらいの従姉妹もかわいかった。今回、銀行強盗をしたりゾンビが襲ってきたりしてたけれど、このキャラクターたちの日常ももっと見たかった。
おじいさん組も勇ましかったし、このキャラクターたちで続編が観たい。Cockneys vsシリーズを作ってはもらえないだろうか。


2004年制作。テレビ映画。NHK BSハイビジョンで『哀しみの暴君ネロ』のタイトルでも放送されたらしい。
ジョン・シムが出ているというので観ました。
史実もの。古代ギリシャの権力争いの中、善き皇帝だったネロが次第に暴君になっていく。

ジョン・シムはカリギュラ役で、出てきた時点で王だったので、おそらく出番はすぐに無くなるだろうなと思ったら、やはり序盤で殺されてしまった。
でも、貴重なギリシャっぽい衣装だったし、ちょっとパーマがかった髪型も他の作品では見られない。
売春宿へ向かう途中のいやらしい顔も見られたので良かった(その売春宿で殺される)。

ただ、暴君ネロという名前だけはなんとなく知っていても、古代ローマに特に興味が無かったために、ジョン・シムが出てこなくなってからは、ストーリーがやや退屈に思えてしまった。



アメリカでは2012年公開。日本では劇場公開はなくDVDスルーだったそうですが、なんでそうなってしまったのか理由がわからないくらい面白かった。ジョナ・ヒルとチャニング・テイタム主演。チャニング・テイタムは『サイド・エフェクト』の際にちょっと苦手加減が薄れてきたんですが、今回で一気に好きになってしまった。二人ともはまり役。

高校時代にイケてたチャニング・テイタム演じるグレッグ(この時の長髪のカツラからしてもう笑える)といまいちサエなかったジョナ・ヒル演じるモートンがポリスアカデミーで再会、お互いの足りないところ、頭脳と運動能力を補って二人揃って合格。正反対の二人が活躍するブロマンス風味のポリスものかと思った。
しかし、ある任務で失敗した二人は高校の潜入捜査をすることになる。ここから、まさかの学園ものになる。今更、チャニング・テイタムとジョナ・ヒルの学園ものを観ることになろうとは思わなかった。
この時点でだいぶおかしな脚本ですが、二人が逆の名前を名乗ることで事態がより複雑におもしろくなる。それぞれに合った設定をつけた上で学校に送り込まれたのに、それが逆になってしまう。グレッグはオタク気味の集団と化学を学び、モートンは生徒たちの中心になっているグループに入り演劇までやることになってしまう。

それぞれ、不得意なものの中で奮闘するさまは可笑しくもあるが、その克服は二人ともの成長物語にもなっていて感動的ですらある。特にジョナ・ヒルに関しては学生時代になし得なかった、プロムに女の子から誘われるという経験までする。潜入捜査によって、夢が実現された形になっていた。

こう書いていると、本当にただの学園もののようだけれど、そう見せかけつつも、学園内に蔓延しているドラッグの元締めを探すという捜査も組み込まれているのだから、よくできた脚本だと思う。
序盤に学校に入って名前が逆になるシーンもそうですが、話がスムーズに進んでいかない。どうせこう進んでいくんだろうという予想が裏切られ続ける。それでも着実に話が前に進んでいくのが面白かった。

主演の二人の友情物語の側面もいい。性格が漫画のような正反対で、学生時代には違うグループに属していて絶対に仲良くならないタイプだけれど、職場が同じだし、なんせもう大人だから仲良くなれる。そのコンビが再び学校にぶちこまれるという、本来ならばありえない話のつくりがおもしろい。
トイレでお互いの口に指をつっこんでいるのを用務員さんに目撃されたり、片方が女の子と電話しているところにちょっかいをかけたりとブロマンス面でも濃厚。

また、あいだあいだに細かい下品なギャグが組み込まれているけれど、それも声を出して笑ってしまった。どこを切っても楽しめるエンターテイメント映画だと思う。

あと、私はまったく前情報を入れずに観たのですが、急にジョニー・デップが出てきて驚いた。すごく似た人かとも思ったけれど、変装を解くという驚かせる手法で登場した人物なので本人なのだろうなと思って、あとで調べたらやはりカメオ出演とのことでした。チョイ役ですが、やっぱり恰好いいし、なんだか、得した気分になった。

続編も計画されているということですので、次は是非映画館で公開してもらいたい。


2013年公開。AKB48による挿入歌が使われていると聞いて、洋画のエンディングに日本語の曲が使われているだけでもいやなのに作中に出てくるとなると…と思って映画館には行かなかったのでレンタルに。
そこが一番の懸念だったんですが、どうせ吹替で観てしまったし、映画中に出てくる部分は日本語らしい日本語はなかった。エンドロールは思いっきり日本語歌詞でしたが、曲調がちゃんと世界観を壊さないようにそれっぽく作ってあったので、逆に好印象でした。

ストーリーについては公開時より好評だったために心配してませんでした。おもしろかった。気は優しくて力持ちなゲームの悪役のラルフが主人公。
本当はラルフが出ているゲームの主人公、フェリックスがこの映画の主人公だったらしい。それで、ラルフももっとビーストっぽい外見だったらしい。フェリックスとラルフが出るゲームはドンキーコングをモデルにしているらしいので、ビーストというかはっきり言ってゴリラみたいな感じだったんでしょうね。

未公開シーン集を見ていると、そのほとんどにフェリックスが出てきていた。ラルフとヴァネロペと三人で冒険するシーンもあったみたいだけど、出番が大幅にカットされたのがわかる。主人公の座も追いやられて散々です。でも、彼女?もできたし、映画中唯一のロマンスシーンを演じているので結構いい役だと思う。

ゲー ムセンターのある現実世界、フェリックスとラルフのドットを使った古いゲームの世界、カルホーン軍曹の最新FPSゲームの世界、ポップなマリオカートのようなレーシングゲームの世界と、まったく違う世界を話が行き来する。それぞれの世界の特徴にこだわりが感じられて観ていて楽しかった。
ドット世界はモブキャラの動きもカクカクしていて、四角がモチーフになっていた。FPSゲームの世界は暗く恐ろしげ。ヘルメットをかぶっていて顔が見えないため、敵味方をヘルメットから漏れる光で区別したとのこと。
そして、なんといってもお菓子でできたレーシングゲーム、シュガー・ラッシュの世界がとても楽しい。ティム・バートン版『チャーリーとチョコレート工場』を思い出した。絶対に健康に悪い毒々しい色づかい。それぞれのお菓子、特に飴の質感が素晴らしい。熱いうちに伸ばしたときに入る筋、透き通った飴の艶とわずかに入った気泡。アイスをスクープですくった感じもうまく作ってあった。
なんと、建物などは現場で実際に作ってみたというからすごい。ちなみに、ガウディの建築デザインを参考にしたらしいです。

未公開シーンを観ていると、シュガー・ラッシュの世界から逃げ出したラルフが行くもう一つのゲームがあったらしい。たぶん、facebookのような感じで複数の人からいいね!の代わりにメダルがたくさん貰える、ゲームというか承認欲求が満たされ楽な生活ができる仮想空間のようなものだろうか。でも、これ以上世界を作るのは大変ということでまるまる無くなったとのこと。

ゲームセンターのたこ足配線の中が駅のようになっていて、コードを伝って来た様々なゲームの登場人物でごった返していた。このアイディアは夢があって楽しかった。これはニューヨークのグランドセントラルステーションの近くで打ち合わせをしているときに浮かんだアイデアらしい。画像を見ると、確かにそのまんまなのがおもしろい。

ラルフは住民たちに持ち上げられてビルから落とされるけれど、持ち上げられたときに画面越しにちょうどシュガーラッシュの筐体が見えて、ヴァネロペとアイコンタクトを取ることができるというラストが良かった。悪役をやっていても、心がうきうきするようなことがあるなら幸せでいられる。


これは、もしかしたらBlu-rayだけの特典なのかもしれないけれど、一時停止をすると、画面が切り替わって作品の豆知識が始まるのがおもしろかった。ディズニーインターミッションと言うら しいので、もしかしたら、他のディズニー作品にもこうゆう仕掛けがあるのかもしれないけれど、私は今回初めてだったために驚いた。
隠れミッキーがありますよとか、セントラルステーションにいるカメオ出演しているキャラの説明とか、ちらっと映る肖像画に描かれている人物とか、エンドロールの最後に画面が崩れた時に出ているアルファベットの秘密とか、壁の落書きに書いてあることとか、キャンディ大王が金庫を開けるときに上上下下左右左右BAのコナミコマンドを実行してるとか。ストーリーとは関係のない、でも知ってるとちょっと楽しいお話。映画内に細かく仕掛けられた事象をBlu-rayの仕掛けで説明するという遊び心が良かった。


独特の日本画のようなタッチだったので、スクリーンで観てきました。
アニメの専門的なことはわからないのでなんとも言えませんが、相当苦労をして作られているんだろうなというのは察することができる。見て過程などを見てみたい。
筆ですっと描いたような絵がそのまま動いているのは、観ているうちに慣れてしまうけれど、時々わざと改めて思い出したりしていた。
また、姫が走るシーンなどは、筆のタッチも荒々しくなっていて、線まで含めての表現だった。

売店で、普通のアニメ絵になってしまっているラバーストラップみたいなものが売っていたけれど、少し雰囲気がちがってしまっていた。やはり、あのタッチが良かったのだと思う。

ストーリーはほぼ知っている昔話のままなのでネタバレも何もないかと思いますが、一応、以下ネタバレです。







捨丸が原典に出てくるかどうかは知らないのですが、それ以外の流れは知っていた。
だから常に、ああ、いまはこんな感じだけれど、結局月に帰ってしまうのだな、と思いながら観ていた。
特 に、最初のほうのよちよち歩きの姫を翁が「ひーめっ!ひーめっ!」と呼んで自分のほうへ来させようとするシーンが泣ける。大人げなく掠れてしまっている。なんなら、少し泣きそうでもある。それは、姫の成長を思ってなのかもしれない。声をあてているのが、地井武男さんというのもまた良かった。

子供が元気良く歌っていた童歌を、姫が変調させた歌がとても怖かった。

月に帰るシーンもやはりこわい。月からの使者が演奏している音楽も、楽しげなのが怖かった。何も悩まずに済むのが極楽なのか…。かぐや姫も、あれだけ、笑ったり泣いたり怒ったりしていたのに、無表情で歩くこともせずに、すーっと月からの使者のほうへ引き寄せられていく。

そもそも、かぐや姫という話に、なんとなく怖いというイメージを持っていたけれど、こうして真剣に物語に向き合うことで、より恐ろしさがわかった。

それにしても、こんなエキセントリックなSFが平安時代初期にはもうあったというのがすごい。


エズラ・ミラーが出ていたので観ました。『少年は残酷な弓を射る』では終始怖い顔か笑ってもにやりという感じでしたが、今回はにこにこしていて、きっと素だとこんな風なのではないかなと思った。

以下、ネタバレです。





元々は小説で、その著者が映画も監督したという話をあとから見て、納得した。たしかに、小説に画がついているようだった。どの辺がどうとはいまいちわからないんですが、映画を観終わったあとのなんとなくの違和感がすっと解決したような感じがした。

パトリック(エズラ・ミラー)とサム(エマ・ワトソン)がパーティで流れた『Come On Eileen』に喜んで、一緒に踊るシーンや、トンネルに入った時に外に顔を出すシーンなど、青春っぽくていいシーンもあったけれど、いまいち入り込めなかった。原作は十代のバイブルみたいなので、私が歳をとりすぎてるからかもしれない。登場人物がそれぞれに重い過去を背負っていて、誰にも共感できなかったせいもあるのかもしれない。

あと、気になってしまったのが、サムがデヴィッド・ボウイの『Heros』を知らなかったこと。サムが高校生だからとはいえ、昔の曲やバンドに詳しいという設定なのに、あんなに有名な曲を知らないということがあるんでしょうか。
しかも、キーになる曲っぽかったのに、原作では出てこないみたい。
原作の著者が監督もしているということは、何か意味があっての変更なのでしょう。原作も読んでみたほうがいいのだろうか。

『ロッキー・ホラー・ショー』を演じるシーンにわりと時間が割かれるんですが、芝居の稽古中にまったくパトリックが出てこなくて、実は主人公チャーリーが作り出した幻だったとか、どうかしちゃったんじゃないかと思ったけれど、ただ単に出てきていないだけだった。けれど、不自然なくらい長い間出てこなかった。
あとから考えたら、『ロッキー・ホラー・ショー』のあたりにパトリックを出すと、セクシャリティ関連で絡ませなきゃいけなくなるからかもしれない。
チャーリーはわりと細めの子なんですが、「ロッキーには似合わないよ」と言われていたり、『ロッキー・ホラー・ショー』の登場人物がなんとなくわかっていたほうが面白いシーンも。

あと、製作にジョン・マルコヴィッチの名前があったのが気になりました。


グラナダ・テレビジョン制作のイギリスのドラマ。1995年放送のCase8“悲しい出会い”だけ見ました。ジョン・シムゲスト回。

中途半端な回だけ観ても、警察側の人間関係の問題などはわからなかったのですが、一応一つの事件で前後編の二話で完結していました。

施設育ちの少年ビル・ナッシュ(ジョン・シム)は一度養子に迎えられたが、その家に赤ちゃんができ、契約が破棄されてしまう。孤独なビルは職業訓練の工場でやっと愛してくれるグラディに出会うが、ふとしたことから人を殺してしまい…という話。

ビルとグラディは出会って、これからというときに殺人を犯してしまう。もうこの時点でハッピーエンドは見えてこない。その殺人もビルがグラディを守ろうとしてのことだったというのがまた切ない。

劇中でフィッツも触れているけれど、ボニー&クライドだった。逃避行中のちょっとしたことが幸せそうだった。一本の煙草を二人で吸って煙を吹き付けたり、炭酸の飲み物をめちゃくちゃ振って栓を開けたり。些細ないちゃいちゃが眩しい。

育ちのせいだと思うけれど、ビルが破滅的でかなり感情の起伏が激しい。けれど、その命短しみたいな部分が魅力的でもある。グラディもその自由奔放な姿にひかれたようだった。

最後、ジョン・シムが拳銃を持つシーンがあって、ジョン・シムと拳銃の相性について考えてた。まだあんまりジョン・シム出演作品観ていないけど、あんまり恰好良く銃を撃つ役をやっていないんですよね。今回も脅すだけで撃たない。撃たれるけれど…。

1995年だと、撮影もその辺りだったと考えるとジョン・シム、25歳くらいだと思うんですが、17歳の役をやっていた。しかも美少年役。童顔だし、少年に見える。少しいしだ壱成に似てる。可愛い。ただ、いまは43歳年相応に見えます…。

あと、脚本家が『ステート・オブ・プレイ』と同じ、ポール・アボットという方だった。ここでのつながりでジョン・シムは『ステート・オブ・プレイ』の主人公に抜擢されたんでしょうか。

いまをときめくベネディクト・カンバーバッチとトム・ハーディ共演のBBCとHBOの共同制作のドラマ(2007年)。
ホームレスを保護する人権活動家であるアレクサンダーが、ホームレスのスチュアートの生い立ちを書いた本のドラマ化。実話。アレクサンダー役がベネディクト・カンバーバッチ、スチュアート役がトム・ハーディです。

いま観るとキャストが豪華。『裏切りのサーカス』でも共演していますが、この二人が出演してるテレビドラマで観られるなんて、イギリスの方が羨ましい。
相変わらず、日本語字幕の付いているものは無いので英語で観たため細かい部分はよく解っていないのですが、ホームレスとは言え、いまは明るく振る舞っているスチュアートの過去の話を聞いていくと、子供時代に受けた酷い仕打ちが明らかになって…というもの。悲しい話だけれど、二人が交流を深めていく様子は観ていてほっとした。

セリフが全て理解できたわけではないけれど、二人の演技がとにかく素晴らしい。ぼそぼそ、ごにょごにょ喋るトムハ、初めて。でも、この作品のインタビューではいつものチャーミングなトムハでした。
バッチさんも正義感あふれるまなざしが素敵な好青年役が似合っていた。最近、写真ばかりで動くバッチさんは久しぶりに見たんですが、演技をしている彼はやっぱり恰好良かった。

劇中で、スチュアートがアレクサンダーに料理を振る舞うシーンが出てくるんですが、それがすごくまずそうなのがおもしろかった。何かの肉をわりと長時間揚げて、それをパンの上に置いてケチャップを乱暴にかけ、パンで挟んで全体重をかけてつぶす。あれは食べたくない…。





一度目を観ている途中でジョン・シムが気になったので、こんなに好きな状態で観るということは、完全にジョン・シム目当てです。すみません。
以下、ネタバレです。




父親不在の家族が…という文句だと父親役であるジョン・シムはほとんど出ないような感じがするし、実際、出番が少なかったような印象でしたが、彼に注目して観てみると、案外出番があった。一度目は子供たちの演技の印象が強すぎて、ジョン・シムはかすんでいたんだと思う。

何度か刑務所に面会に行くシーンが出てきますが、最初の面会のシーンのときには、子供たちもお父さんに会える!とはやる気持ちを抑えきれないようでしたが、私も早くジョン・シムが観たくてドキドキしてました。

子供たちを実際に五年間かけて追っていて、一番上のお姉さんの身長の伸び具合とか、他の子も顔が大人びていたり、いっちょまえに他の生徒と喧嘩をするようになっていたりと、成長がよくわかるんですが、大人側は五年の違いはあまりわからない。
でも、五年前のジョン・シム(映画の中での初登場時)は少し顔がむくんでいるようでした。映画の中での出所後にあたる、一番最近のジョン・シムは見慣れたジョン・シムだった。多分、『Mad Dogs』を観ていたせい。

妻だけで面会に来るシーンで、イアン(ジョン・シム)が性欲を露にするんですが、その時の視線が独特でした。嫌がる奥さんに性的な言葉を言わせようとするんですが、ニヤニヤしているわけではない。真剣で、怖いくらいで、切羽詰まっていて、それでいて切なさが混じったようなあの視線。この時に、髭が伸びて髪もぼさぼさになっているのがまた効果的。

あと、ベッドシーンがあるんですが、裸になったときに肩のスペードのタトゥーを確認。『Mad Dogs』の風呂シーンで見て気になっていたんですが、役作りではなく、本物のタトゥーらしい。

映画内では何度も面会シーンが出てくるけれど、実際にはきっと何ヶ月ぶりかの対面なんですよね。会えないときを埋めるような、ぎゅうっとするハグと、別れるときのキス。愛が溢れていて、優しくて、本当に家族が愛しいのだということがわかる。
そして、別れたあとの、空虚な目と、独房ではなくて二人くらいの部屋だけれど、狭い部屋でベッドに横になったときの生気を失った顔。家族と接しているときの表情が一切消える。少し前には、家族の近況を聞いて一喜一憂していたのに、部屋に戻るとただただ天井をじっと見つめるだけ。何を考えているかもわからない。

これは一回目にも思ったけれど、それならなんで自ら刑期を延ばすようなことをするんだろうね…。彼の弱さなのかもしれないけれど。何をやったかはわからないけど、そもそも、一度捕まってるわけですからね。その時点で、本当に家族を大切にしているとは言い難い。

妻役のシャーリー・ヘンダーソンも、夫に直接不満をぶちまけるシーンもあるけれど、夫の母に、「そんなことだから、イアンがああなった」と思わず文句が出ちゃうシーンもあった。
四人の子供を寝かしつけて、すごく疲れているはずなのに、ベッドに横になってもすぐに眠れない。目を開けてため息をついている様を見ると、心底まいっているのがわかる。
イアンがいないときに、他の男の人に縋りたい気持ちもわかる。子供たちも懐いていたけれど、離婚ということにはならずに、ちゃんと告白をするあたりで、最初からやり直そうという決意が感じられる。隠したままではやり直せない。
イアンは浮気のことをとても怒っていて、そのあとの朝食中にも何か考えているような表情の描写があった。しかし、深い説明はないまま、子供たちの歌の発表会からラストの海のシーンへと進む。でも、あのラストを観たら、きっと許して、彼も自分の行いを反省して、最初からやり直すのだろうなと思う。
あのマイケル・ナイマンの叙情的な音楽と冬の海にいる六人の家族を遠くから映す映像だけで、丸くおさまった雰囲気が感じ取れる。説明や、事件などは変に起こらなくてもいいのだ。

『Mad Dogs』


2011年にイギリスSky1にて放送された、ジョン・シムが出ているテレビドラマのシリーズ1。邦題は『Mad Dog/マジョルカの罠』。日本語字幕無しで観たために、細かいところはよく理解できていないです。
中年男の友達四人組がリゾートに遊びに出かけるも、事件に巻き込まれてピンチに陥る。

四人が全員40代(いまは50歳になってる人も)というのと、リゾート地の日差しや景色の綺麗さがこの作品の魅力だと思う。
いい大人がどんどんピンチに陥ってわたわたする様が面白い。人が殺されたりもするけれど、おっさんたちの様子は何故か微笑ましい。
普通、登場人物がピンチになると、応援するような気持ちで観賞することが多いですが、このドラマの場合は、本当にひとごととして楽しんでしまう。

最初の、酷いことが起こるなんて考えもせず、きゃいきゃいしながらリゾート地に向かう様子も可愛い。車の中で、四人で『Like a Virgin』を歌って大はしゃぎ。このシーン、何度でも観たい。
それで、結構早い段階でジョン・シム演じるbaxのメガネが割れるんですが、旅行なので替えはなく、それをかけつづける。シーズン1最終話では更に壊れてセロハンテープで補修するんですが、シリーズ2も3も、DVDのジャケットを見ると、どうやら同じメガネをかけている。あのまま行くんだ…。

二話目では自分たちが殺したわけではない死体を処理するシーンが二回出てくるんですが、その二回ともなぜか愉快な音楽が使われている。ドラマ中の四人は決してふざけているわけではなくていたって真面目だし慌てているのに楽しげに見えてしまう。やっぱり、大変な目に遭ってるのをみて笑うっていう視聴方法でいいんだと思う。
あと、リゾート地だから仕方ないけど、真剣なシーンなのに、服装が麦わら帽子に半ズボンなど、緊張感が無いものになっている。しかも、着ているのがおっさんたちなので可愛い。
あと、これもリゾート地ならではですが、別荘にプールがついているので、裸で飛び込むシーンが何度か出てくる。おっさんたち全員の裸が見られます。
それと別にジョン・シムについてはお風呂シーンがあった。右肩にスペードのタトゥーがあるのを発見。
ジョン・シムのメガネをかけたりはずしたりの演技が良かった。遠くのものを見る時にかけたり、女刑事と話す時には割れているからなのかはずしたり、逆に近くのものを見る時には割れているから見づらいのかはずしたり。

三話目、やっぱりこれもリゾート地で暑いせいだろうけど、おっさんたちの着てるシャツは背中に常に汗のあとがついていて、そのままあたふたしてるから可愛い。
あと、また死体を処理するシーンが出てくるんですが、ボートからうっかり海に落としちゃって、慌てている時、若い女の子の集団が乗ったボートが音楽をがんが んにかけながら通り過ぎる。女の子たちは酔っぱらっているのか若いからなのか、キャーキャー言いながら、おっさんたちのほうへ手を振ったり、おっぱいを出したりしているけれど、おっさんたちはそれどころではない。でも、なけなしの愛想をふりまいて力なく手を振り返しているのも可愛かった。ここも何回も観たい。
あと、物騒なんですが、baxが銃を持ち出す。普通のおっさんなので、当然、銃など持ち慣れていなくて、その演技がうまかった。構え方もたどたどしいし、うっかり撃たないように銃口を後ろに向けていた。

四話目が一応シリーズの最終回ですが、まったく終わらなかった。いきなりシーズン2から見始めたらわからないと思う。たぶん、そのままシーズン2へ続く。
四人が感情をぶつけ合いながら本気で喧嘩をするシーンがあるんですが、その言い合っている内容が英語ではよくわからなかった。残念。字幕が欲しい。あと、前回の予告でbaxが銃を撃つシーンが出てきてたんですが、ここの四人痴話喧嘩シーンで撃ってた。ここでなの…。
戦闘態勢に入るために(?)、化粧をしたり、仮面をかぶったりして士気を高めているおっさんたちの様子も面白かった。回を追うごとにどんどんピンチになって、必死になっていく。そして、その化粧を落とすために、プールにざっぱんと入るのは恰好良かった。


観終わってから海外のWikipediaを読んだんですが、最初は四人がバンドをやる話だったらしい。確かに、四人が恰好良く写っている宣材写真を見ると、バンドにも見える。ただ、目新しさがないということで却下されたらしいです。
四人を演じている俳優さんたちがうまいし、キャラクターをとても好きになった。シーズン2も楽しみ。
『ステート・オブ・プレイ』でドミニク・フォイを演じていたマーク・ウォーレン、一人は『ライフ・オン・マーズ』のフィリップ・グレニスター。二人ともジョン・シムと共演しているので、もう一人の俳優さんも多分、どこかで共演していて、親交の深い四人なのではないかと思う。

マーク・ウォーレン、ジョン・シムよりも若いのかと思っていたら、3つも年上でびっくりした。

『フィルス』


ジェームズ・マカヴォイ主演、原作は『トレイン・スポッティング』のアーヴィン・ウェルシュ。
アーヴィン・ウェルシュとジョン・S・ベアード監督のトークショー付き試写会へ行ってきました。写真撮影オッケーでした。めずらしいイベント。
お二人ともやっぱりロボットレストランに行かれたらしい。最近、来日するアーティスト、みんな向かってる感じがする。すっかり名所に。「この映画もクレイジーだけど、あの場所はもっとクレイジーだった!」
マカヴォイを主演に選んだ理由については、まず、エジンバラ警察が舞台なので、スコットランドの俳優であることが第一。それと、資金繰りが大変になるので、ある程度知名度があること。そして、演技ができること。
マカヴォイはアル中の顔がむくんだ感じを出すために、撮影前に毎日ウイスキー半ボトルを空けていたらしい。そのことは、監督さんは撮影終了後に知ったらしい。ウイスキーってあたりがスコットランド人らしい。
原作者の方は、「日本とは文化が違う面もあるからわかりにくいかもしれないけれど、楽しんでほしい」と言っていたけれど、そんなにわかりづらいところはないと思うけど、どのへんのことだろうか。

以下、ネタバレです。

あ、その前に、この映画のグッズで、ロンドンでみんな着てた、“Superdry 極度乾燥(しなさい)”のパロディTシャツがグッズで出てました。“Superfilth 極度最低(しなさい)”。気になったけれど、バックプリントで思いきり中指を立てていたので買えず。








昇進のために周囲の人物を陥れることしか考えていない快楽主義者の主人公が、好き放題やってバカ騒ぎする娯楽ムービーかと思っていた。予告編から受ける印象はこのあたりまでです。
もちろんその部分も面白い。いままで観たことのないマカヴォイが観られる。細かいことだとおならをして人のせいにする、子供の風船を空へ放つ、同僚の男性器の小ささを暴露するということから、親友の妻へいたずら電話を繰り返す、ドラッグを吸いまくるなど、本当に逮捕されかねないことまで、なんでもやる。
マカヴォイが演じているせいもあるのかもしれないけれど、憎らしいながらもどこか可笑しいし、愛嬌がある。登場人物たちからは嫌われていても、映画を観ている観客からは憎めない存在として描かれている。
マカヴォイ演じるブルースの罵り方も早口でテンポが良かったり、作り自体がポップで深刻さがない。下品で野蛮であっても、勢いがあるし、ケラケラ笑って観られる。

そのまま、軽い感じで終わっていくのかと思っていた。
アル中ヤク中気味でも一応警察なので、一つの事件が軸になっているのですが、その謎解きが進むにつれて、少しずつ、ブルースの過去が明らかになっていく。それにつれて、映画自体にほころびが見え始め、徐々に雰囲気が変わっていく。

前半もおもしろかったけれど、後半に行くにしたがってはっとする瞬間が多く出てくる。ある親子との交流や、同僚の女性からの罵倒、部屋に転がる酒のボトル、自分の家族の写真、スーパーでの邂逅…。
どうして、いまの彼がこんな状態になっているかがわかっていく。
特にスーパーでの場面が泣けた。出て行った妻と子が新しい父親と一緒にいる場面を見かけて動揺している様を、かつて事件で関わった親子に目撃される。ブルー スはその親子に一瞬だけ甘えそうになるが、つらさをぐっと隠す。その親子にだけは、自分の情けない姿を見せたくなかったのだろう。なけなしのプライドが見えた。ただ、甘えられたら変わっていたのではないか、という気もする。

出て行った妻にあまりにも恋焦がれたため、妻と同化したいという願いが彼を女装へ走らせる。ブルースが女装している姿というのは、前半で出てきたら笑うところです。ただ、後半の雰囲気の中だと痛々しさしかない。好きな人に手が届かないから、好きな人そのものになってしまいたい。もうそれは、自分とはかけ離れた綺麗なものを崇拝するような気持ちに近い。

そして、観客がブルースの心の内を完全に理解したときに、流れてくるのがレディオヘッドの名曲『Creep』! カヴァーですけど、ここで流れなくてどこで 流すんだというくらい、歌詞がこのシーンそのまんまだった。安直といえば安直だけれども、流れると思わなかったし、思い入れもある曲なので涙が止まらなかった。


この映画はジェームズ・マカヴォイがハマり役でした。ポスターなどに使われているメインヴィジュアルは汚いけれど、それだけではない。女装は、汚いけれど元の顔立ちが綺麗なので少し似合っていた。最後の警官の制服を着てキリッとしているシーンはよく知ってるいつものマカヴォイというか、恰好良かった。
最近立て続けで上映されている『ビトレイヤー』『トランス』『フィルス』とまったく違うタイプの役を演じ分けているのも素晴らしい。しかも、どれも濃い役です。

他の出演者では、ジェイミー・ベルはドラッグ大好きで男性器が小さいという役柄だったんですが、もう、そうにしか見えなくなってしまった。好きな俳優さんではあります。
あと、『ワールズ・エンド』や『アリス・クリードの失踪』に出てたエディ・マーサンが人の良い親友役で出ている。人の良い役が多い人という印象だし、顔に特徴があるし、イギリス映画によく出てくるので気になっている。
(調べてて初めて知ったんですが、『アリス・クリードの失踪』のもう一人の男性も『フィルス』に出てたみたい)

途中、ブルースが幻覚の中で人の顔が動物になっているように見えるシーンが何度か出てくるんですが、明らかに動物のマスクだし、どうなんだろう?と思っていたら、エンドロールに可愛らしいアニメが。なるほど。


追記;原作も読みました。原作のブルースはもっと様々な問題を抱えているのですが、映画版は悩みのほとんどが妻とのことだけだったので、だいぶロマンチックな方向にまとめてあると思った。

原作だと、ブルースの腹の中のサナダムシがもっと活躍する。第二の自我のようにどんどん話す。本人が望んでか望まずか、記憶の奥のほうにしまった昔の家族関係の話は映画には出てこなかった。父親から虐待されていたり、弟を死なせてしまったりと、もっとえぐめの話もあったけれど、映画では省かれている。
ラストで家にくるのも夫を亡くした母子ではなく、ブルースの元妻子のようだった。
更に、首を吊っての自殺の際にサナダムシが外へ出る。
この辺の描写はもちろん映像化はできないだろうし、喋りまくるサナダムシというのもそこだけCGにするのもおかしいし、一気に省いてしまって正解だったと思う。それに伴って家族関連の話も省かれて、出て行った妻を想う女々しさがクローズアップされていたのは私はそれはそれで好きです。原作もおもしろかった。


2005年公開。結合双生児という体の一部が繋がって生まれてしまった双子がバンドのボーカリストとギタリストに抜擢される。
ドキュメンタリータッチで描かれるため、実話なのかと思ってしまったがそうではないらしい。途中で監督の話なども入るけれど、それはこの映画の監督ではなかったので、映画の中で双子の生涯を描く映画を撮影しているという少し変わった構成。

ただ、双子役を演じているのは、ハリー・トレッダウェイとルーク・トレッダウェイという実際の双子の俳優さん。『ソーシャル・ネットワーク』ではアーミー・ハマーは一人だけれど、こちらはちゃんと二人います。
トレッダウェイ兄弟は綺麗な顔をしているし、双子なので更に破壊力がある。この映画以降、二人で一緒に出ている映画がないようなのでもったいない。

映画内の演奏シーンがかなり恰好いいのだけれど、エンドロールを見ると実際に彼らが演奏していたし、ハリーは一曲作詞もしていた。十代の頃に、バンドを組んでいたらしく、なるほど慣れている。

1970年代のイギリスということで、パンクです。中でも暗めの『ドゥーラとドーラ』はバウハウスっぽくて好みでした。

実は、ジョン・シムが出ているということでこの映画を観ました。なぜか、マネージャー役だと思い込んでいたけれど、出てきたマネージャーの顔は違う。痩せて髭を生やしたらこうなるのかなとも思ったけれど、鼻の形が違う。途中でマネージャーが変わるのかと思ったけれど変わらない。
最後、エンドロールを見ていたら、special appearance(特別出演)のところにJohn Simmの名前が…。役名がBoatman。最初にボート漕いでた人だった。確かに似てると思ったし、(マネージャーのつもりで観てたので)どう考えてもマネージャーではなかったし、ちゃんと写りもしなかったし、トータル一分も出てなかった。本当に特別出演だった…。


スランプに陥った脚本家がネタづくりのためにサイコパスを募る広告を出したら変な奴らが集まってきちゃってさあ大変?みたいな宣伝のされかただったけれど、実際の内容は少し違っていた。ポスターに映っていた7人がそれぞれ集まってきた人たちなのかと思っていたけど、それも違っていました。

以下、ネタバレです。






広告を見て来たのはトム・ウェイツだけだったし、彼はどちらかというとメインというより、ゲスト出演っぽい感じでした。
あと、セブン・サイコパスとはいえ、ポスターに映っている七人はサイコパスではなく、登場人物が並べてあるだけ。この内の女性二人はまったく活躍しないし、セリフも少なく、出てきても殺されていた。
でもこれって、主人公のマーティ(コリン・ファレル)の書く脚本通りなんですよね。実際にそんなセリフが出てくる。「女には過酷な世界だから」と言っていた。

序盤では、マーティの書く脚本の内容が映像化されているシーンもあって、最後まで創作なのか本当に起こっていることなのかわからなかった。ラストも、「夢オチでもいいんじゃないか?」という助言があったのでまさか夢オチ?とも思ったけれど、違った。
この、書いた文章が映像化されていて、現実だか妄想だかわからないという部分は『危険なプロット』と構成が似ていた。

ハンス(クリストファー・ウォーケン)がテレコに吹き込んだ、ベトナム人のサイコパスの結末についてのアドバイスは、脚本についてのアドバイスであり、実際にマーティが置かれた状況に対するアドバイスでもあったのだと思う。それと、自分のしたことに対する後悔なのかもしれない。
きっと、自分も復讐で人を死に追いやったことを後悔していたのだ。奥さんを殺されていて、とても憎いはずなのに、復讐は繰り返してはいけないのだということを語る強さ。正しい心を取り戻したあとに、拳銃を出そうとしたのと勘違いされて撃たれたハンスの最期は、少し『グラン・トリノ』を思い出した。

脚本が進まない友人のためにちょっと頑張りすぎるくらい頑張るビリーを演じるサム・ロックウェルが良かった。全体的にはっちゃけた役で、出演者の誰よりもまともな部分が無い役だった。友人の脚本を派手にするために、わざわざ危険な戦いを挑んでいたけれど、結局は自分が楽しければいいという感じになっていたんだろうと思う。
途中で出てくる動物の顔の付いた帽子も可愛い。なんであんな帽子かぶってたのかは不明。子犬に照明弾の銃をつきつけている姿もピンチなはずなのに可笑しい。その銃が蛍光カラーなのもポップな印象になっていた。
ラストのウディ・ハレルソンとの戦いのあたりは彼の独壇場だった。
2丁拳銃が好きなんですけど、今作では両手に拳銃を持って、おまけに口に一つくわえているシーンがあって素晴らしかった。見せ方の恰好良さが追求されていた。主人公はこちらではないかと思えてくる。

一応主人公はマーティだけど、ビリーの前では地味すぎて霞む。コリン・ファレルのハの字困り眉は、巻き込まれ系の役に似合っていたと思う。

シーズーを抱えているおっさんとうさぎを抱えているおっさんが出てくるのはどうなんだろう。可愛かったけど、一本の映画の中に小動物を抱いてるおっさんが二人出てくるのって設定がかぶりすぎなんだけれど、いちいち捻ってきているので、これも狙ってるのかもしれない。

小粋なクライムムービーなんですが、クエンティン・タランティーノの影響が感じられた。結構、威勢良く血は出るし、頭もふっ飛ぶ。
特に最初のシークエンス、マフィアが二人でぺちゃくちゃ蘊蓄っぽいことを喋っていて、後ろから来た殺し屋にあっさり撃たれるというあたりはニヤリとさせられた。

この監督の前作も少し変わったクライムムービーらしい。殺し屋が指令を待ってだらだらするという2008年の『ヒットマンズ・レクイエム』、DVDスルーだったらしいですが観てみたい。


2003年のBBCドラマ。日本ではNHKで放映していたらしいです。全六話。
ジョン・シム目当てで見ようと思ったんですが、販売しているDVDは高いし、最寄りのレンタル店にも置いていなかったので、初めてレンタル店の取り寄せサービスを使いました。

ジョン・シムは新聞記者のカル・マカフリー役。友人で議員のスティーブンが不倫していた事務所の若い子が事故死したけれど、さぐっていくうちにそれは殺人の可能性が出てきて…?というストーリー。2009年に『消されたヘッドライン』としてハリウッドリメイクもされているらしい。

カルの飄々とした上司役にビル・ナイ。協力することになる軽薄っぽいジャーナリスト(あとでビル・ナイ演じる上司の息子だと判明する)役にジェームズ・マカヴォイとキャストも豪華。
ビル・ナイは別にいまとそんなに変わってる感じでもないのですが、マカヴォイがすごく若い。いまよりも随分細いのと、色が真っ白で頬が赤い。髪の毛も少しパーマがかっていて、まるで天使みたい。

一話目は登場人物が多い中で話が急展開していくので少しついていけなかったけれど、二話目で人物に慣れたせいで俄然おもしろくなる。マカヴォイの力も大きいと思う。バイク便のコスプレ、可愛かった。
あと、二話目の最初のほうで、バイトっぽい女の子にカルが逆さピースで「よう」って軽口たたいて、「よう」って中指立てて返される、なんてこと無いシーンがすごく良くて何度も観た。逆さピースというか、自分側に向けたピースって相手を侮辱するときに使うらしい。

三話目はまた少し話が入り組んでくるんだけど、カルがかなり女にだらしない役なのがわかる。いくら好きだからって、相手から誘われたからって、友達の奥さんと関係を持っちゃだめだよ…。しかも、その友達、容疑者っぽくもなってきてるのに…。
スティーブンの妻であるアンとのいちゃいちゃシーンはこの回だけでなくて、この先にも何度か出てくるけれど、もれなくどれも無駄にいやらしかった。『いとしきエブリデイ』でも奥さんとのシーンはだいぶいやらしかったんですが、ジョン・シム、もしかしたらそうゆう演技が得意なのかもしれない。

四話以降でもカルのアンに対する行動が軽卒で事態がこじれる。あと、やっぱりというか、イギリスのドラマはゲイの子が出てくる。

ドミニク・フォイというキャラクターが途中から出てくるんですが、金をつめばいろいろ話すし、でもその話すことも嘘ばっかりだったり、隙を見ては逃げ出そうとしたりと、どうしようもないながらも憎めなかった。彼絡みのところが大体ギャグでした。
ゲイだということが判明するんですが、それを武器にして話を聞き出す新聞社側のゲイの男の子、シドが可愛かった。得意分野に関しては任せられる変な頼もしさがあった。

新聞社側の人たちは全員良いキャラクターだったけれど、議員側やその関連のエネルギー団体の人たちは少しわかりにくかった。たぶん、名前だけしか出てこなかった人もいたと思う。

最後のほうの、屋外でカルがスティーブンのことを問いつめるシーンは二人の演技が最高でした。

ただ、終わり方は少し中途半端に思えた。六回見てきて新聞社の人たちに愛着もわいたので、打ち上げっぽいものが欲しかった。
カルが書いた件の事件の結末の記事が載っている新聞が印刷されるのを印刷所で見ているシーンで終わり。カルは何も喋らず、新聞の一面が映し出されるだけ。あと、一回くらい欲しかった…。


映画館で見かけた、グラムロッカーみたいな化粧をしたマット・デイモンのポスターが気になったので観ました。予告編は流れてなかったんじゃないかな…。
ボーンシリーズや最近の『エリジウム』など、どちらかというと、男らしいマッチョなアクションをこなす俳優なイメージだったので、こうゆう少しキワモノ風なポスターは意外でした。

リベラーチェという実在するピアニストの恋人が書いた伝記の映画化。スティーブン・ソダーバーグ監督作品。もう映画は撮らないんじゃないの?と思っていたら、これはテレビ映画だそう。

以下、ネタバレです。






観終わるまで、リベラーチェがマイケル・ダグラスだって気づかなかった…。前情報を入れていないにしても、かつらと表情のせいで、ものすごく若く見えました。
そして、演技も素晴らしかった。最初の、ステージ上でピアノを弾いてるシーンから、お客さんとして観にきているスコット(マット・デイモン)や他の観客と同様に、リベラーチェにすっかり魅了されてしまった。
スパンコールやラインストーンがちりばめられた衣装にピアノもギラギラしていた。これは、いままでピアノ弾きと言えば、黒いタキシードと黒いピアノだったことに対する反発らしい。
ピアノには枝付き燭台も飾られていた。原題は『Behind the Candelabra』。ただ単に、枝付き燭台の後ろ側にいるリベラーチェを指しているのか、それとも、Candelabraの華やかさをリベラーチェに例えて、リベラーチェの素顔みたいな意味もあるのかも。

最初のピアノショーのシーンは映画というより本当にピアノショーのようだった。『マジック・マイク』もショービジネスの裏表みたいなものを描いていたけれど、『恋するリベラーチェ』もテーマ自体は似通っている。ただ、『マジック・マイク』のほうがもっと乾いた印象を受けた。こちらは湿っている。ドロドロです。

リベラーチェはキュートで、楽しいことが好きで、高慢で、人を愛することがやめられないし、愛されたいという欲望も尽きることを知らない。年齢は関係ない。独りよがりに見えるけれど、だからこそ、スターになれたのだろう。
スコットはそんなリベラーチェに振り回される。一方的に愛を押し付けられて、戸惑いながらも次第に夢中になっていく。キスやセックスがわりとはっきりと描かれて、マット・デイモンのお尻も何回も出てきていた。キスシーンにはベン・アフレックも嫉妬したらしい…。

しかし、ほどなくして飽きられてしまう。リベラーチェは別の男に夢中になる。
スコットが最初にリベラーチェの楽屋に行った時にちやほやされるが、その画面手前側で、前の男が不機嫌そうに、黙って一人でご飯を食べていた。それと、同じ構図で後半には、手前側にスコットが一人でご飯を食べ、奥にリベラーチェが若い男をもてなしていた。きっと、いままでもこの繰り返しだったのだ。

憎しみの中で別れたスコットがリベラーチェの葬式で観たショー的なものは彼の頭の中のことだろう。哀しみというよりは、まるで宝塚のような華やかさ。ここでリベラーチェが言う、「いいことも、度がすぎると素晴らしい」という言葉はソダーバーグ監督の映画を撮るのをやめるにあたっての遺言めいたものにも感じられた。
それを見つめるマット・デイモンの表情が素晴らしい。一人の観客として、リベラーチェを観ている。それは、なんでこの人のことを好きになったのかを思い出した顔だった。

主演のマイケル・ダグラスとマット・デイモンの演技が本当にすごかったんですが、アメリカではテレビドラマとして放映されたため、アカデミー賞にはノミネートされないらしい。けれど、エミー賞は総なめだったらしいです。(追記)ゴールデングローブ賞にも多数ノミネートされています。

美術や衣装も観ているだけで、ワクワクしてしまうきらびやかな世界だった。リベラーチェの舞台の衣装やアクセサリー、ピアノなどはもちろん、リベラーチェの屋敷の装飾品や家具もじっくり観てしまった。

リベラーチェがピアノを弾くシーンが何度か出てきますが、実際にリベラーチェが弾いたものも含まれているらしいです。

映画の中盤で、整形で顔が変わり、ドラッグのせいで体型が変わるなど、姿形が自在に変化していたけれど、撮影期間が30日だったみたいなので、特殊メイクやCGみたいです。
それで、大阪の矢田弘さんという特殊メイクアーティストの方が、エミー賞の特殊メイク部門をこの映画で受賞してました。

映画を観終わったあと、パンフレットを買うかどうか迷っていたんですが、思った通りのキラキラした装丁だったので購入。それに、映画が終わったあとで、スコットがリベラーチェにコートをかけてあげてるメインヴィジュアルを見ると、二人が良かった頃を思い出して泣けて仕方なかった。


フランソワ・オゾン監督。すごい美少年が出ているというので観に行きました。
生徒に絶望している教師は、
一人の生徒の文章力とその内容にひかれる。他人の家族を執拗に観察している作文は次第にエスカレートし、教師もその内容が気になり…というストーリー。
映画のスチルやこの内容からサスペンスっぽいのかなと思ったら、コメディと書いてあった。観てみると、爆笑というわけではなく、皮肉混じりなおもしろさで、なるほどフランスっぽいと思ったけれど、スペインの舞台が原作らしい。
映画も舞台のテイストがふんだんに感じられた。演技というよりは、舞台特有のテンポの良いセリフの掛け合いで進んでいく。

以下、ネタバレです。








教師ジェルマンが生徒クロードの文章を見こんで、文章を手直ししていくのだけれど、フランス語がわからないので、文法のことなどは一切わからなかった。また、結局字幕を読んでしまっているだけなので、文章がうまいというのも、正確には伝わってはいないのだと思う。それでも、翻訳もうまいという話も見かけたけれど、どの部分がうまいのかもピンとこない。
この映画のような、文章を主体とする作品は、もしかしたら他の国での上映は向かないのかもしれない。

そう思いながら観進めていったけれど、文章だけではなく、その文章を映像にして見せるという手法で多少カバーされている。やはり、本ではなく映画なのだ。
教師が手直しすると、同じような映像が変わるという工夫もおもしろかった。例えば、父親のシャツの色を書くと、映像でも色の付いたシャツを着ていたり。それはクロードが書いた文章を読んで、ジェルマンの頭の中に思い浮かんだイメージを映像化したものなのだと思う。

ストーリーはそれほどのあっと驚く展開はない。一番話が動くのはクロードの友人ラファが自殺するあたりでしょうか。真実なのか、それともクロードの創作なのかわからずに混乱してくる。私たち(観客とジェルマン)はクロードの文章の中でしか、ラファとその家族のことを知らないのだと痛感させられる。
結局は、全員がクロードに弄ばれている。周囲を引っ掻き回して、望んでか望まずか、破綻させて終わる。

クロードを演じたエルンスト・ウンハウワーくんは本当に美少年で、すべての人を操るというのは、あれだけの美貌がないとできないだろうからハマり役です。説 得力がある。少年ということもあり中性的な顔立ちで、綺麗なだけではなく、少し影もある。美形ではあっても、関わってはいけない妖しい雰囲気をまとってい る。一緒にいても、決して幸せにはなれなさそう。
また、上半身裸のシーンが少し出てきますが、あれもかなりの威力があった。マッチョでもない、がりがりでもない、ぷよぷよでもない。色白で、完成されきってない躯。まさに少年の躯だった。

クロードは母親がいないことで母親くらいの年齢の女性に憧れるのか。父親の怪我も、もしかしたら、クロードが関わっているのではないか。彼の家族についての 描写は重要そうではあるけれど、そこまで言及されない。最後のほうに、父親の介護をしているシーンが少しあるくらいだった。
また学校での様子も詳しく語られない。ラファ以外の学生、特に女生徒は出てこない。
あくまでも、クロードとジェルマンと、クロードの描写するラファの家族の様子が重点的に描かれていて、余計な要素は出来る限り排除されている。その辺は舞台が原作というのも関わっているかもしれないけれど、話があっちこっちにいかずコンパクトにまとめてあって観やすかった。

ジェルマンがクロードの文章にのめりこんでいく様子は、まるで底なし沼に沈んでいく様子を見るようだった。文章のうまさが気になるのか、文章に書かれている他人の家の様子が気になるのか。もう最後のほうは、文章が妄想でも現実でもどちらでもよくて、ただクロードの頭の中が知りたいという欲望に塗れていたと思う。
妻を抱かなくなったのも、もっと夢中になれるものを見つけてしまったからだろう。

結局、ジェルマンは教師という職と妻の両方を失う。しかし、学校にもどこか冷めていたようだし、制服の件で校長先生らしき上の人とも折り合いがつかないようだったし、妻のことももう愛してはいなかったのかもしれないし、近くにクロードが残った。
最後に二人で知らない家庭の様子を想像してストーリーを作っている様子は楽しそうだったし、そこから再スタートすればいいのではないか。
すべてを失って破綻したように見えても、あれでハッピーエンドなのだと思う。


原題『NOW YOU SEE ME』。このタイトルとキャストと、なんとなくのストーリーが発表されたのがちょうど一年くらい前。
ジェシー・アイゼンバーグとウディ・ハレルソンという『ゾンビランド』コンビ、モーガン・フリーマンとマイケル・ケインという『ダークナイト』おじいちゃんベテランコンビ、『アベンジャーズ』のハルクというかバナー博士役も良かったマーク・ラファロと、豪華…というか、私好みのキャストが揃えられていたのと、マジシャンが銀行強盗をして、FBIと対決するというストーリーで、かなり期待していました。
長い間原題で期待していたのと、映画の最初と最後に出てくるロゴが恰好良かったので、原題のままが良かったです。

どんでん返しがあるタイプの話なので、できるだけ前情報無しで観たほうがおもしろいです。以下、ネタバレです。







まず、手品とクライムムービーを合わせるというストーリーがおもしろかった。
手品なんて、生で見るものだし、映画だとCGでも使えばどうにでもなるだろうと思っていたけれど、ちゃんとトリックの説明もあって納得がいった。けれど、少し、催眠術が便利すぎるかなとは思った。

手品のシーンはどれも恰好良かったです。最初、四人がそれぞれの持ちネタというか得意ジャンルで手品を披露しているシーンは、テンポの良い自己紹介も兼ねていた。
そして、四人が揃った手品シーンは、テレビ番組を模したカメラワークがきまっていた。上のほうからぐるぐると丸いステージの周りを囲むようにまわるカメラが大袈裟なほどダイナミック。最後の手品の時に、建物にプロジェクションマッピングをするのも流行がとりいれられていて良かった。最後に札が空中に舞うのも花吹雪のようで、華やかな舞台に見惚れて、結局まんまと騙されてしまった。
騙されたといっても、手品なんて騙されたほうが楽しめるし、途中でネタがわかってしまったら興ざめだし、失敗されても気まずい。これは、この映画についても言えることで、最後の最後でネタばらしというかどんでん返しがあるんですが、すっかり騙されていたため、それがとても心地よかった。途中で先が読めてしまったらつまらない。

この映画は予告編も非常に良くできている。予告に使われている映像はほぼ序盤の手品の様子なのがいい。あと、最初の自己紹介っぽい部分で個人が手品に失敗と見せかけるシーンがあるんですが、それが大事故やトラブルが本当に起こったようにされているのも、予告に緊迫感を与えていた。そして、さも、マジシャンの四人が主役であるような作りになっている。

マジシャン四人組について、過去が明らかにならなかったり、私生活についてもほぼ描かれていないなど、人物の掘り下げが少なかったのが残念だった。ただ、登場人物が多い部分がおもしろい映画だから減らしてほしくはないし、かといって掘り下げを各人についてやっていたら、映画の時間がいくらあっても足りなくなってしまうので仕方がない。華やかで映画的な見せ場も多い四人ですが、結局は脇役なのだと思う。

映画を観るまで、もう一年間くらい、マジシャンが銀行強盗をして、FBIと対決するというストーリーだと思い込んでいたのだ。
実際にマジックをしながら銀行強盗もした。ただそれは、黒幕に依頼されてのことだった。四人も自発的に集まったわけではなく、黒幕によって集められた。もうこれは、映画が開始されてすぐにわかることだけれど、黒幕が誰か、というのがわかるのは最後の最後だというのがニクい。

合間合間で、 FBI内でも内輪を疑うような発言がされていたり、モーガン・フリーマン演じるサディアスはいかにも怪しかったり、各所に仕掛けらた罠からやっぱりインターポールの捜査官(メラニー・ロラン)なのかなーなんて思っていたんですが、本当に意外なことに、マーク・ラファロだったときには、にやりとさせられた。端的に言えば、復讐の話でした。

一応、マジシャン四人が金を奪った三箇所にも筋道が通る説明がつけられる。四人もショーの最後に客に金をばらまいていたから、金が目的ではなかったのだ。

ただ、集められる前にはあれだけケチな方法で金を稼いでいた、特にメリット(ウディ・ハレルソン)とジャック(デイヴ・フランコ)は金儲けには興味は無くなったのかな。それよりは、アイの指令のほうに夢中になっていたのかな。

他にも、ちょっと無理があると思う部分もあったけれど、マジックだと思えば納得がいく。それに、一年間くらい期待に胸膨らませて、はちきれそうな感じで観たけれどおもしろかったということはおもしろかったんだと思う。
もしかしたら、贔屓目で観過ぎているかもしれないけれど。

去年の11/19に初めて情報を見た時の私のtweetを見ると、

J・アイゼンバーグとW・ハレルソンは銀行強盗には見えるけど、マジシャンには見えない。かといって、FBIにも見えないな。どっちだ。M・ラファロはマジシャンにも銀行強盗にもFBIにもなれそう。M・フリーマンとM・ケインは元FBI? M・ケインはマジシャンも似合いそうだけど。

と書いていた。キャストから誰がマジシャンで誰がFBIか予想しているのですが、半分くらい当たってる。というか、マーク・ラファロについて、かなり鋭い読みをしてた。

『グランド・イリュージョン』はキャストも豪華。
やっぱりマーク・ラファロはうまかったし、色気があった。無精髭がたまらない。
途中までのマジシャンに振り回されっぱなしの部分もいいし、最後のほうの正体をバラしてからのさびしげな顔も良かった。最初のほうは、マーク・ラファロっぽくない役だなとは思ったんですが、最後まで観て、なるほど彼らしい役だと納得しました。

ジェシー・アイゼンバーグはいつもと違って少しも童貞臭がしなくて戸惑う。しかも、最初のほうでは、ファンの女の子が部屋に押し掛けてきて、それを慣れた感じでかわしていた。でも、話し方はいつもの神経質そうな早口で安心した。
今回、彼がイケメンに見えるのは、ストレートパーマをかけてるせいじゃないかとも思う。劇中で久しぶりに会った過去のパートナーに、髪型変えた?と聞かれてるシーンがあるんですが、それがストパーのことなのかわからなかった。過去シーンがちょっとでも出てきたらおもしろかったのに。


デイヴ・フランコは『ウォーム・ボディーズ』のときよりも、ますます兄ジェームズ・フランコに似てた。下っ端の若造役。ウディ・ハレルソンが胡散臭い催眠術師役なのも似合ってた。

モーガン・フリーマンとマイケル・ケインは、違うシーンですが、二人とも屈辱的な顔をするのが良かった。

あと、別に好きな顔とかではないんですが、最近、観るもの観るものに出てくる人がここでも出てきていて気になった。『パーソン・オブ・インタレスト』『マン・オブ・スティール』『クロニクル』に端役で出てました。マイケル・ケリーという方らしい。


2007年公開。このところ、ダニー・ボイル監督作品を連続で観てますが、
こんなSFを撮っているとは知らなかった。しかも、主演がキリアン・マーフィー。でも、考えてみればキリアンは『28日後…』でも主演だった。

映像面でのこだわりは相変わらず感じられました。宇宙船のシールドが動くところなどはその大きさがものを言うようだったので、映画館で観たかったです。
船外活動をする時の宇宙服が太陽から身を守るためだと思うけれど、ギラギラとした金色なのが変わっていた。顔の部分も溶接マスクのよう。誰かデザイナーでも関わっているのではないかと思うけれど、どうなんだろう。
最初のほうの地球にメールを送るシーンはパソコンの内側から見ているような画面になっているお遊びも。下のほうに表示されている“send”が鏡文字になっていたり。
キリアン演じるキャパと真田広之演じるカネダキャプテンが船外でシールドを直すシーンは、宇宙船の中にいる人たちの左右上側に出ていて、ゲームの一画面のようなデザインだった。
目のショットが多いのもこだわりだと思う。太陽を見つめる目はまるで神様を見るようだった。宇宙服の中の目だけを映すことで緊張感も表されていた。

宇宙船も縦長で、その先にでっかいパラボラアンテナみたいなシールドが付いているという変わった形だった。ただ、この特殊な形のせいだけではないかもしれないけれど、登場人物がどこにいるのかいまいちわかりにくい面もあった。太陽に撃ち込む核爆弾も、宇宙船のどこについているのかわからなかった。ラスト付近でキャパがいた広めの場所も、どこだったのかわからない。

閉鎖された宇宙船内で閉じ込められた形のクルーたちが次第に疑心暗鬼になっていくサスペンスというのは、よくあるといえばよくあるとも思う。逃げ場のないところで、人間関係が崩れていく。

よくあるとはいえ、好きなシチュエーションなのでかまわないんですが、この映画は少し変わってた。
中盤で、行方不明になった宇宙船からの救難信号を受信して、針路を変更するんですが、辿り着いた宇宙船には誰もいない。その宇宙船内を探索しているときに、かつてのクルーたちの笑顔の写真がサブリミナルのように挿入されるのがすごく怖い。「埃は人間の皮膚です」という言葉も怖い。
そして、もとの宇宙船に、4人しかいないはずなのに、AIが5人いるという。名前はわからないと。

結局それは、行方不明になった宇宙船の船長が乗り込んできていたのですが、肌は太陽で焼き爛れていて、その人が追いかけてくるものだから、完全にホラーになる。AIが生体反応がないと言っていたようなんですが、その辺のこともどうしてなのか、わからなかった。
そして、ちゃんと映るわけでもないし、キャストを確認したときに、その船長役がマーク・ストロングだったのはびっくりした。

最後まで観てもいまいちすっきりとはしないでわかりにくい面もありましたが、全体的な世界観や、途中から話のトーンが変わるのは好きでした。

ダニー・ボイルの映画では、エンドロールで使われてる曲にも注目する癖がつきましたが、今回、表示されているのが二曲だけだったのが意外。SFだからそれほど曲も合わないか。

『ザ・ビーチ』


2000年公開。曲や映像づくりなど、とてもダニー・ボイルらしい映画だった。
幻のビーチに辿り着くまでの話なのかと思っていたけれど、かなり序盤でビーチには辿り着いてしまう。そこから物語が展開していくということは、ビーチがただの天国ではなかったということ。

一人旅の若者が怪しい若者に地図を渡されて、興味を持ってそこへ向かうという話だけでも不穏な感じもしつつ、ワクワクする。ビーチへ向かう途中でも苦労はする。海を泳いでいる途中で仲間が沈んだときには、本当にサメに襲われたのかと騙された。
そんな風に島にわいわいと騒いだり、苦労しつつ、なんとか島に辿り着く。そして、島の中の崖から決死の思いで海に繋がっているであろう水の中へ飛び込む。この辺までは、普通の青春映画のようだった。

そこは自分探しの旅人の吹きだまりのような場所で、女長が取り締まっていた。このサルという女長役がティルダ・スウィントン。支配者役が合っていた。
最初に、この場所を誰かに教えたか、という質問に、レオナルド・ディカプリオ演じるリチャードは教えてないと嘘をつく。考えてみれば、これがすべての元凶だった。このせいで、サルと関係を持つことになってしまうし、それがバレてフランソワーズにはフラれるし、場所を教えた人たちが島に来ないように見張らなくてはならなくなってしまうし、いろいろ重なって、ついには狂うことになる。

ただ、内緒の場所を教えてもらったら、他の人に教えたい気持ちもわかる。噂の場所を知っているという優越感もあっただろうし、教わった男もクスリをやっていたから信憑性もあやしく軽い気持ちだったのだろう。
主人公のリチャードが、かなりふわふわしていて、簡単に嘘をつく。フランソワーズに、サルと寝たのかと詰め寄られても、首を振っていた。その場を切り抜けることしか考えていなそうだけれども、リチャードの行動や気持ちの変化には、なんとなく頷ける部分もあった。
ここだけではなく、映画の最初から最後まで、リチャードの翻弄のされ方というか、心の弄ばれ方がうまくて、たぶん、私もこうなるだろうな/こうするだろうなと思いながら観ていた。

フランソワーズにフラれたくらいから、リチャードは徐々に狂っていく。島に住んでいる人に親指を見られて、ゲーム好きの烙印を押されていたけれど、その伏線が後で回収される。実際にゲームボーイで遊んでいる様子も出てくるけれど、自分が地図を渡した人たちをとらえるのがゲーム感覚になってしまっていた。ゲーム画面のような作りは、ダニー・ボイルらしかった。森の中を意気揚々と歩くディカプリオ、ダメージを受けると死ぬけれど、もう一基残っていて、復活。ここで、Blurの『ON YOUR OWN』がゲームっぽくアレンジしたものが使われていた。一見楽しそうなシーンだけれど、完全に狂っている。
元々の住民である農民の銃を奪おうとしておどけてみたり、喜々として落とし穴を掘ってみたり。落とし穴の中に先を尖らせた竹を仕掛けているあたり、殺そうとしている。
また、島に来たときには、崖から飛び込むのに躊躇していたのに、迷いも無く飛び込むシーンも出てくる。最初の頃のフレッシュな気持ちはもう無いのかわかる。
幻の中で、地図をくれたダフィとリチャードのセリフが逆になるのもおもしろい。映画の序盤では、リチャードはまともで、ダフィはクスリをやっていた。リチャードが「言っちゃ悪いが、お前、イカれてるよ」と言うと、そんな話すら聞いていないように、ダフィは「会えて良かった」と言って握手を求めてくる。ここではダフィがリチャードに「お前、イカれてるよ」と言うし、実際にイカれていた。

ディカプリオのだんだん狂っていって、完全にまともじゃなくなる演技がうまかった。暗がりの中にいるときの影で顔が隠れてしまっている様子や、撃つときの顔なども鬼気迫っていて良かった。最初のほうの、ただの一人旅の若者とはまったく違う表情だった。
なんにしても、主人公がこうなってしまった以上、バッドエンドの予感しかしなかった。

島にいる人たちは、島には居るけれども、いざ都会に行く人がいると、それぞれが買い物をたくさん頼むあたり、都会を捨てきれてもいない。
また、長であるサルの気を損ねないようになのか、狭い人間関係で面倒を起こしたくないからか、右向け右で意見を持たないものの集まりのようだった。
黙って従っていれば、サルが良くしてくれるし、良いところしか見たくないからこの島にいる。だから、サメに足を喰われ、怪我をした人が呻き声をあげていたら落ち着かない。だから、怪我人を追放した。見えるところにいなければ、狭い世界の中なので存在しないも同然。

右向け右なのはわかっていたはずなのに、ラストのサルは考えが浅はかだった。結局玉は入っていなくても、殺すことはなくても、撃つところを見せてしまったら、住民は全員が一斉に逃げ出す。みんな、サルのような強い意思をもって、そこにいるわけではないのだから。
島から脱出するときに空が曇っているのも、楽園なんてないというのを表しているようだった。

ラスト、ネットカフェのような場所でリチャードがフランソワーズからのメールを受信する。それは島の住民が楽しそうにジャンプをしている写真が貼付されていて、“パラレルユニバース(別次元の世界)”というメッセージが添えられている。これも、序盤で出てきたセリフである。島に向かう途中で、夜、星の写真を撮ろうとしているフランソワーズにリチャードが「あの星には別の僕らがいるかもしれない」と言いながら。
このシーンもそうですが、崖から飛び込むところ、ゲーム好きの親指、ダフィとのやりとりと、前半に出てきたエピソードを繰り返すのが何度も出てきて、それを持ってくるか、やられた!と何度も思った。
特にこのラストシーンはメールを開いたリチャードもやられた!って顔でニヤリと笑うんですが、たぶん、私も同じ顔で笑っていた。

そして、ちょっとこれって、『トランス』のラストにも似てるんですよね。ネタバレしないために名前は出しませんが、あの人もやられた!って顔してた。あの人が持っていたのはおそらくiPadでしたが、この映画では2000年ということで昔のiMacです。

エンドロールで流れた曲を歌っている声にとても聞き覚えがあって、観ていたら、UNCLE Featuring Richard Ashcroftとなっていた。リチャード・アシュクロフト、ザ・ヴァーヴのボーカリストだった人ですね。
Mobyの『Porcelain』も使われてる!と思ったけど、この映画のサントラで売れたらしい。

あと、主演は本当はユアン・マクレガーにする予定だったらしいけれど、集客アップを狙ってディカプリオにしたという話は、いま読むとおもしろい。いまなら、ユアンのままで良さそう。


1996年公開。ダニー・ボイル監督初期の作品。
途中まで観てやめていたことが多く、最後まで観ていなかった。と思ったけれど、
最後のほうの丸い部屋で取引するシーンはなんとなくおぼえているのでもしかしたら最後まで観たことがあるのかも。

なんで途中でやめていたのかというと、序盤のほうの結構汚いシーンでめげてしまっていた。今回もめげそうになったんですが、最後まで観ました。でも、登場人物は好きになれなかった。

イギリスが舞台のグループもののクライムムービーというと、ガイ・リッチー監督の『ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ』や『ロックンローラ』あたりを思い出す。『トレインスポッティング』はクライムムービーというよりは青春ものの意味合いが強い気もするので違うのかもしれないけれど、比べた場合に、ガイ・リッチーの一連の作品は登場人物のことを好きになれた。駄目な面があっても、結局愛おしかった。だけど、『トレインスポッティング』はユアン・マクレガー演じるレントンはロンドン以降はまあまあ好きになれたけれど、他の仲間は最後まで、観ていてもやきもきするだけで好きになれなかった。

それでも、ダニー・ボイル特有のセンスの良い映像と音楽の合わせ方はこの時から健在。ミュージックビデオっぽい。
特に、最初のほうのドラッグでハイになっているシーンと、禁断症状のシーンの映像が印象的。禁断症状のシーンの音楽はアンダーワールド。死んだ赤ちゃんが天井を歩きながらこちらに向かってくる様子や、逮捕された友達がロッカーの上に腰掛けながら足の鎖をじゃらじゃらやっている地獄絵図。
今年公開された『トランス』の催眠状態の頭の中のシーンにも似ていると思う。

また、レントンがスコットランドからロンドンへ出てきたシーンでは、各名所やピカデリーサーカスなどの駅名、ロンドン塔のコスプレスタッフさんがこちらに手を振る映像、トラファルガースクエアの路上パフォーマンスなどが繋ぎ合わされていいて、まるで、観光案内ビデオのようだった。


『トレインスポッティング』の音楽というと、Underworldの『Born Slippy』が有名。ラストはこの曲に合っていた。疾走感と、未来へ向けての明るさみたいなものが見える。
ただ、それだけでなく、96年、いまから20年近く前ということで、私の好きなイギリスのバンドの曲がたくさん使われていた(ちなみに、これを同じ曲の使い方をいまやってるのが『ワールズ・エンド』)
強盗をして捕まって、裁判をやるシーンではblurの『Sing』が使われていた。Pulp、エラスティカ、プライマルスクリームなんかも使われています。
エンドロールで流れる遊園地っぽいSEがコーラスも含め、すごくblurっぽいけれど、アルバムには入っていないと思うのでなんだろうと思ったら、“Performance by”の後に四人くらいの名前が書いてあって、その中に、Albarnを発見。サントラだと、デーモン・アルバーンの個人名義になっているみたい。他の三人が誰だったのか気になる。


試写会にて。
淡々としていながらも、観終わったあとにふわっとしたあたたかさが残る良作。原題は『
EVERYDAY』 ですが、ここに“いとしき”が付けられた邦題はすごくいいと思う。
IMDbのキャスト欄を見たところ、同じ名前の人が四人いて、何かと思ったら四兄弟は実際の兄弟らしいです。
以下、ネタバレです。





ストーリーは、刑務所に入った父親を待っている四人の子供と母親の、出所するまでの日々という、いたって単純なもの。その日々は何も起こらないわけではないけれど、過剰にドラマティックには描かれないし、説明もほとんどない。父親の捕まった理由も不明。

春とか冬とか何ヶ月後みたいな表示は出なくても、スクリーンに映し出されるイギリスの田舎の農村風景を見れば、季節の移り変わりがわかる。草が枯れていて牧草ロールが置かれていれば冬の準備、樹木から葉が落ちていれば冬、草が青々としていたら春から夏くらいなのだろうなと思う。同じように、登場人物の服装からも季節がわかる。

そんな中で、刑務所内の父親はほとんど同じ服装だし、部屋からは季節もわからないのが対照的だった。刑務所内の男の心情は語られなくても、それだけで過酷さがうかがえる。

季節の移ろいが何回か繰り返されるので、何年間かの話なのだろうなとは思うけれど、季節ごとにまとめて撮影しているのかと思ったら、実際に5年間かけて撮影されたらしい。そういえば、子供たちの表情は少しずつ確実に成長していた。

まるで、ドキュメンタリーのような密着加減だし、子供たちは実際の兄弟とのことですが、ここで泣いてくださいとか、演技はさせていたらしい。自然すぎて、どこからどこまでが演技なのかわからない。

季節は変わっていっても、学校に通う道は繰り返し出てくるし、朝食は掻き込むようにシリアルだ。母親一人で時間と余裕のない育児の日々が続いて行く。
映画に出てるのは、他の日と違った何かがあった日で、他は気が遠くなるような日常が続いていたのだろう。それを一人で乗り切るのはつらい。子供を一人で寝かしつけて、ベッドでため息をついていた。
それなのに、ハシシを持ち込んだのがバレて刑期を伸ばす父親は阿呆です。妻の多少の浮気も仕方ないと擁護したい。子供たちだって、海で遊んでもらってて楽しそうだった。
でも、父親は妻のことが好きすぎる描写が何度も出てくるんですよね。たぶん、子供より好きそう。だから、可哀想ではあるけれど、だったら余計におとなしくしてないといけないだろう。

ラストで家族六人で冬の海にいるシーンが本当にいい。カメラが上へ移動していって、家族以外に誰もいないのがわかる。なんてことはないシーンなのに、じんわりと滲み出るような感動が広がる。マイケル・ナイマンの音楽もいい。

音楽は全編にわたって、寄り添うように、見守るように穏やかに流れている。それが、イギリスの田舎の風景とよく合っている。イギリス東部のノーフォークという町らしいです。山が見当たらなく、だだっ広いのがたまらない。
父親のいる刑務所はロンドンにあって、電車で面会に向かうんですが、一時間半の映画内に「電車が遅れた」というセリフが二回くらい出てきて、イギリスの郊外の電車って本当に遅れるのだということを再確認しました。

父親役のジョン・シムという役者さんは、どことなくレディオヘッドのトム・ヨークに似てた。THE英国人な顔立ちで好きです。調べたら、イギリスのドラマによく出ている人みたい。特にDoctor Whoが気になる。
同じ監督マイケル・ウィンターボトム、音楽マイケル・ナイマンの『ひかりのまち』(99年)は妻役の女優さんとも一緒に出ているみたいで観たい。